6時にサイカイ橋で。




 7月最終土曜日。
 近くの河川敷で花火が打ち上げられる今日、俺はテンション高めの妹とは裏腹に朝から鬱々としていた。

「おにぃ、どう? 惚れ直した?」

 浴衣姿の妹が、くるりと一回転して見せる。
 髪はアップにまとめられていて、いつもより少し大人びて見えた。

「もともと惚れてねーし」
「はいはい。そう照れなさんな」

 適当にあしらっていると、玄関のチャイムが鳴った。

「あ、紗季ちゃん来た!」

 一緒に花火を見に行く友達が迎えに来たようだ。
 母が「門限は守るのよ」と声をかけ、妹は返事だけは愛想よく返して玄関を出て行く。
 その背中を見送ったのち、俺も靴を履いた。

「俺もちょっと出かけてくる」
「あら。おにぃちゃんも花火?」
「……たぶん」
「多分ってなによ」

 苦笑しながら、母は俺の背中を軽く叩いた。

「補導されない時間までには帰ってきなさいよ」

 玄関を出ると、外はまだ明るかった。
 昼間温められた空気がむわっと肌に纏わりついて来る。
 住宅街を抜け交通の多い通りに出ると、花火に行くらしい団扇を持った人や浴衣姿の人をちらほら見かけるようになった。
 脇道に逸れ川沿いの遊歩道に通じる小さな商店街に入ると、急に人の数が増えざわめきも膨らんでいった。

 母に真実を聞かされてから、ずっと考えていた。
 シバに会って、何を言ったらいいのだろう。

 事故でかばってもらったことに礼を言うのも謝るのも、ただの自己満足な気がした。でもだからといって、あいつの望んだとおりに真実を知らないふりをして今まで通り付き合うこともできない。

 シバに会いたい。
 でも、会ってどう接していいかわからない。
 あいつは夏休み中、俺に会えなくても平気なのだろうか。
 あいつの「会いたい人」って結局……。

 部活以外の時間はずっとシバのことを考えているが、思考が堂々巡りするばかりで一向に答えが出ない。
 だから、俺は今日、部活以外で久々に外に出たのだった。
 1年遅れだけど。あの日あの場所に行けば、答えが見つかるかもしれないと思った。

 商店街を出たあと、俺は人の波とは反対方向の右手へと曲がった。
 小中学生の頃通学路だったこの道は、駅に行くには反対方向で、歩くのは卒業以来だった。

 橋が見えてきた。
 傾きかけた陽がコンクリートの欄干の片側だけを、オレンジ色に染めていた。

 端の親柱に刻まれているのは『偲偕橋』の文字。
 あ、そっか。サイカイ橋ってこう書くんだっけと久々に思い出した。
 そこから顔を上げると、向かいから歩いて来ていた人が反対側の端のたもとで立ち止まった。

 長身の黒髪。この暑い中、踝まであるストレートパンツを履いている。

「……っんで……」

 声が喉奥で掠れた。

 あいつが……シバがいる。
 なんだかずっと前――一年前から、あいつがずっとあそこで待ち続けている気がして、たまらない気持ちになった。

 鬱々とした感情が自分の中からすーっと洗い流されていく感覚がする。
 なぜ俺は、シバに何を言ったらいいのだろうなどと悩んでいたのだろう。

 全部ぶつければよかったのだ。
 ありがとうもごめんねも。何で何も言わなかったんだよという文句も、「会いたい人」って誰? という疑問も。

 足が勝手に動き出す。
 すぐにそれは小走りになった。
 シバは固まったまま動かなかった。

「……お前……桜子ちゃんに花火に誘われてたんじゃねーの?」

 シバが訝しむ視線を向けて来る。

「先約があるからって断った。つっても一年前の約束だけど」

 シバが目を見開き、何かを言おうとして唇を開きかけ、また閉じる。

「お前は違うのか? ここに来たのは、一年前の約束を叶えるためじゃないのか?」

 あと一歩で触れられる距離まで、距離を詰めた。

「何で事故のことも、転校した理由も、何も言わずに消えたんだよ! ……そのほうが、俺の気持ちが楽になると思ったのか?」

 シバがようやく、苦しげに口を開いた。

「……思い出したのか?」
「事故の瞬間にお前と一緒にいたことだけな。あとは母さんに聞いた」

 俺は一度大きく息を吸った。

「なあ。お前、俺に何か言いたいこと、あるんじゃねーの?」
「急になに……?」
「お前が言ったんだろ。告白するのは、お前が告白した後にしろって。お前がさっさと言わねーと、俺、いつまでも言えねーんだけど!」

 返事はなかった。
 ただ、じっと見つめられる。

 ――もしかして。

 全部俺の勘違いで、やっぱり、好きな人はあの先輩なのだろうか。

 不安が胸を締めつけた、その瞬間――腕が伸びてきて抱き寄せられた。
 肩に顔を埋められ、震える吐息が耳介を掠める。

「ごめん、サク。…………好きだ」

 髪に鼻先をすり寄せられ、抱きしめられている腕にギュッと力が込もる。

「子どもの頃から……俺が一緒にいたいのは、サクだけだった。会ったら、事故のことを思い出させるかもしれない。事故のことを思い出したら、お前のことだから俺がバスケをできなくなったことに責任を感じるだろう。そう思って連絡を絶ったけど……。無理だった。会いたい気持ちを我慢できなくて……、ごめ……」

「好きだ。……俺も、シバが好き……」

 震える声で、シバの言葉を遮った。
 シバが体を少し離し俺の顔を覗き込もうとする。顔を見られたくなくて、シバの胸元に額を押し付けた。

「好きな気持ちが、お前と一緒なのかどうかはよくわからない。でも、いつも考えてるのはお前のことだし、会いたくなるのもお前だけだ。
 俺、お前に迷惑ばっかかけてるし、俺の無神経さのせいでお前を傷つけたり、お前をまた危ないことに巻き込んだりするかもと思うと、すげー怖い。でも、お前がまたいなくなるほうがもっと怖い」

 俯かせた瞼からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、シバのシャツを濡らしていく。

「……こにも行くな……もう絶対、勝手にいなくなるな! 友達でも、彼氏でも、老後の茶飲み友達でも何でもいいから、ずっと俺の傍にいろ!」

 俺の嗚咽が治まるまで、シバは宥めるように背中をぽんぽんと叩いてくれていた。

 どのくらいそうしていただろう。

「ねー、ママー。あのお兄ちゃんたち、男同士で抱き合ってるよ」

 近くから聞こえてきた声に慌てて体を離したときには、あたりは既に薄暗くなっていた。
 歩道からは外れていたが、橋を渡り花火会場へと向かう人が来たときより増えている。

「そろそろ俺たちも花火に行くか」
 
 シャツの袖で濡れた瞼を拭い、そう言うと、下ろした手をシバに掴まれた。指の間に節くれだった指が入り込んでくる。いわゆる、恋人繫ぎってやつ。

「おいっ。人に見られるぞ」
「暗いし、誰も見てねーよ。嫌なら離すけど」

 返事できないことが答えだった。
 無言でシバに手を引かれ歩き出す。
 橋を渡り、人の波とは逆行して連れて行かれたのは、以前シバが住んでいたマンションだった。

「引っ越したんじゃなかったのか?」
「もともと父親がじーさんからの生前贈与でもらっていたらしくて、親父が一人で今も住んでる。今日は海外出張中でいない。方向的にたぶん花火が見えるはずだから」

 シバの言う通り、以前より家具の減った殺風景な部屋にお邪魔し、ベランダに出ると、ビルとビルの隙間から、かろうじて花火が見えた。

「あ、ホントだ。ギリ見える」
「だろ」

 肩を並べて、手すりにもたれかかる。

「俺、来てよかったのか?」
「俺の部屋もまだあるし。父さんにはサクを泊める許可もらってるから」
「勝手に許可取んな!」
「毎年花火の日は、どっちかの家にお泊り会だっただろ」

 頬を膨らませるシバから視線を逸らす。

「……今までとは違うだろ。そ、その……そういう仲になったんだし」
「そういう仲って?」
「だから、いわゆる、こいびと……」

 赤くなった顔で口ごもると、シバのニヤケ面と目が合う。
 言わされていたのだと気が付いた。

 脇腹に軽くグーパンチを見舞ったところでスマホが鳴った。
 ラインの通知で、桜子さんからだった。送られてきた写真に、思わず笑ってしまう。
 夜空の打ち上げ花火を背景に、その手前で桜子さんと朱里さんが涙の形に頬に指を当てている自撮り写真だった。『来年こそは二人とも彼氏と見ます!』というコメントが添えられている。

「結局、二人で行ったんだな」
「お前も朱里ちゃんに誘われてた?」
「俺は誘われたときに即行で断ったぞ」

 シバは少し不満そうだ。

「桜子ちゃんがお前を花火に誘ったって聞いてたから、もしかしたら今日、お前はあそこには来ないかと思ってた」
「お前が『会いたい人』って言ってたの、あの眼鏡の先輩のことだと思ってたから……。俺も好きな人ができたら、お前と先輩のことでモヤモヤしなくなるかもって思ったんだよ。でも、そんなふうに利用するのは、彼女に対しても失礼だった」

 スマホをポケットに仕舞いながら答えると、シバが「ゲッ!」という顔をした。

「眼鏡の先輩ってもしかして正宗のこと? 何でそんな勘違いすんだよ」
「だってお互いに下の名前で呼んでんじゃん。試験の日も、二人きりで勉強したいつって俺より先輩のこと優先したし」

 唇を尖らせる俺とは裏腹に、シバはまた顔をニヤつかせている。

「正宗は苗字だよ。あの人、正宗隆治(まさむねたかはる)っていうんだ。事故のあと入院していた病院にあの人も心臓の手術で入院してたから、そこで知り合ってな」
「なんだよ、その名前みたいな苗字!」

 まぎらわしーんだよ! と眼鏡先輩に心の中で悪態をついた。

「あの日は二人とも病院の予約が入っててな。正宗の母親が車で迎えに来るから、一緒に乗ってけって言われていたんだ。病院に行くつったらお前に怪我のことがバレるから、二人で勉強するって嘘を吐いた」
「でも、あの人は絶対お前のこと好きだろ」
「そんなふうに見えたんなら、多分そういうフリをしてお前を煽ってただけだよ。何でか俺がお前のことが好きなこと、あの人にはバレてたから」

 シバが再び遠くの花火へと視線を馳せた。
 自動車のエンジン音に混ざり、かすかな花火の炸裂音が静けさを埋める。

「シバ……あのさ、事故のことだけど……」
「ありがとうとかゴメンなら、いらない」

 思い切って切り出した話を、途中ですげなく遮られた。

「かばってもらったんだから、ありがとうくらい言わせろよ!」
「サクのためにしたわけじゃないから。俺の方が先に車に気づいて、咄嗟に体が動いただけだ。サクが俺の立場でも、同じことをしていたと思う」
「逆だったら、多分、かばいきれなく、二人とも大怪我してたよ。……高校に入って見た目が派手になったのも、それが理由だったんだろ」

 バスケをやめた必要を「ああいう汗臭いのは中学まででいいやと思って」と投げやりに言いながら、その表情はどこか不安げだった。
 俺と再会したらまたバスケ部に誘われることは目に見えている。事故のことを悟られないために、外見をチャラめにして、バスケなんてもう興味ありません、というスタンスを取っていたんじゃないかと思った。

「サクちゃんはやっぱり、俺のことよくわかってんね」
「肝心なこと、全然わかってなかったじゃん」

 シバが、「中体連が終わったら告白する」と言っていた相手が俺だったことも、事故のことも、全然気づいていなかった。

「それはサクがお子様だっただけだろ」

 お子様と言われてムッとしたが、反論は出てこなかった。恋愛においては、自分の恋心にも気づいていなかったくらいの初心者だ。
 思い返してみれば、確かにシバの優先順位の一番にいるのは常に俺で、友達の範疇を越える甘やかされ方をしていた。

「そりゃ男同士なんだから、気づくの無理があるって……」

 ごにょごにょと口の中でぼやく俺に、シバがそれまでのからかいとは異なる、やわらかな笑みを向ける。

「それより、悪かったな。二年越しの花火なのに。あんなに遠くなって」
「遠くても近くても、どっちでもいいよ。お前と見たかっただけだから」
「サク……」

 ふいに影が差したと思ったら、花火を遮り、シバが顔を覗き込んできた。
 近付いて来る気配に、俺は慌てて身を引いて避ける。

「何で避けんだよ」
「何でってお前が顔近づけてくるからだろ」
「俺たち付き合い始めたんだよな? だったら普通わかんだろ」

 そこでようやく、シバが何をしようとしていたのか見当がついた。
 カーっと頬が熱を持つ。

「わ、わかるか! 俺、恋愛初心者だぞ」
「俺も現実ですんのは初めてだわ。妄想では何億回もしたけどな」
「……え? それ俺相手にってこと? お前っていつから、俺のことそういう意味で好きだったの?」
「聞きたい?」

 ニヤリと不遜な笑みを向けられ、俺は慌てて首を振る。

「いや、いい。勝手に想像します」

 シバがぷっと噴き出し、俺もつられて、二人で笑い合った。

 笑いが落ち着いたころで、また視線が絡み合う。
 今度は、近づいて来る顔を避けなかった。唇にやわらかいものが触れる。

 花火が弾ける音が遠くから聞こえてくる。

 結局のところ、俺たちはその日、ほとんど花火を見れなかった。