その日の夕食後。父が風呂に行き、妹も2階の自分の部屋へと上がったタイミングで俺はフライパンを洗っている母に声をかけた。
「母さん……ちょっと、話してもいい?」
「急にどうしたの。お小遣いのアップなら――」
「違う。去年の交通事故のこと」
母が洗い物を中断し、キッチンから出てくる。
食卓の向かい合わせの席に腰を下ろした。
「あの事故のとき……、もしかして、俺、シバと一緒だった?」
母さんが息を呑んだのがわかった。
「……思い出したの?」
「全部じゃない。ただ……あいつといるところに車が突っ込んでくる映像だけ浮かんできたんだ……。シバが夏休み明けに転校したのって……事故と関係あるの?」
尋ねる声は、少し震えていた。
「そうね……。斯波君には口止めされていたけど……。思い出したんなら話さないわけにいかないわね」
母さんは一度深く息を吐き、真っすぐに俺を見た。
「あの事故のとき、斯波君があなたを庇ったの」
予想の上を行く事実に、息が詰まる。
「事故を目撃した人の話では、咄嗟に貴方をかばうように貴方と車の間に体を滑り込ませたから、車が直撃したのは斯波君のほうだって話だったわ」
ドクンと大きく跳ねた心臓が、不穏に加速していく。
両足骨折。
靭帯損傷。
車椅子生活。
今はシバが普通に歩いていることを知っているのに、悲惨な言葉が畳みかけらるたびに胸が苦しくなった。
「それなのにね……。あの子……。『サクが無事ならよかった』って、笑っていたのよ」
母さんの声が詰まり、両目から大粒の涙が溢れ出す。
いつのまにか、俺の視界も滲んでいた。
もともと仕事人間で、不仲だったシバの両親は、車いす生活となったシバの面倒をどちらが見るかで揉め、結局離婚したらしい。
シバは千葉の祖父母の自宅近くのリハビリ病院に転院し、その間に家をリフォームしてバリアフリー化し、退院後も祖父母の家で暮らすことになったそうだ。
「サクが覚えてないなら、自分が一緒に事故に遭ったことはサクには言わないでほしいって言ってて……。バスケができなくなったことも、両親の離婚のことも、俺以上に悲しむだろうからって。最後まで、貴方のことを気にかけてくれていたわ」
嗚咽する母をただぼんやりと見つめる。
……何で何も言わねーんだよ。
勝手に一人で背負い込もうとするんだよ……。
心の中でシバに文句をぶつけつつ、一番腹が立っていたのは自分自身に対してだった。
何も知らなかった自分。
何も知らずに、シバをシュート練習に誘って、一度断られたのにしつこくバスケ部に勧誘した自分自身に。
『バスケの練習につき合わせるなんて、よくそんな残酷なことができるね』と先輩が言っていた意味が、今になってようやくわかった。
「でも、ずっと隠しているのも心苦しかったから、話せてようやくスッキリしたわ」
母親が顔を上げ、目を赤くした顔で無理やり口角を上げた。
「朔、後悔のないようにね」
「え……?」
「朔太郎が悩んで、選んだ答えなら、お母さん、何でも受け入れるから」
2階の自室に上がり、スマホを開く。
起動したメッセージアプリの『6時にサイカイ橋で。』の文字。
中体連の決勝が見えてきた頃の、部活帰りの会話を思い出した。
『受験生だからって夏休みに何のイベントもないの、寂しすぎない?』
そう嘆いたのは俺だ。
『今年も花火は行くだろ? 7月最後の土曜の』
『え? でも、お前、今年は彼女と行くんじゃねーの? 中体連終わったら好きな人に告白するつってたろ』
『成功してもフラれても、俺はサクと花火に行きたい』
決意を込めたようなシバの力強い言葉に自身の軽口との温度差を感じつつも、彼女より俺を優先すると言われているようで嬉しかった。
『お前の彼女に恨まれたくないから、俺もそれまでに彼女作る! 花火でダブルデートするぞ!』
『彼女作ってもいいけど、俺が告白した後にしろ』
『俺に先越されるの、悔しいんだろー』
そんなやりとりののち、俺はその日のうちに母に花火に行く許可をもらい、その夜、シバにラインで待ち合わせの時間と場所を伝えた。
『もし、一日だけ過去に戻れるとしたら、いつに戻りたい?』
いつだったかクラスの女子に聞かれた質問を久々に思い出した。
今なら、あの事故の直前に戻って、事故を回避したいと言うべきなのだろう。
でも、やっぱり俺は――。
あの日、あの場所で、あいつに会いたかった。

