6時にサイカイ橋で。


 
 期末試験二日目。
 最後の試験科目が終わり、ホームルーム中の教室には気の抜けた空気が広がっている。
 担任が連絡事項を伝える間に俺は横に掛けていたリュックを机の上に引き上げ、帰るばかりに準備を整えた。
 久々の部活に本来なら浮足立つはずの気持ちが、全くテンションが上がらない。ひとえに、昨日の先輩とシバのやりとりのせいだ。試験の出来も、おそらく昨日より悪かった。

 ほどなくしてホームルームが終わり、ポケットからスマホを取り出し電源を入れると、ラインの通知が最初に入ってきた。
 桜子さんからだった。

 ――試験お疲れさま!
 今日、部活終わったあと、少しだけ会えませんか?

 試験のあとで部活が始まる時間も早いから、余裕で暗くなる前に終わるはずだ。

 すぐに『OK!』のスタンプを返した。

 彼女の高校の最寄り駅で降り、待ち合わせ場所に指令された近くのチェーンカフェに入った。
 飲み物を受け取って店内を見渡すと、彼女は窓際のカウンター席に座っていて、夕暮れに染まる街路をぼんやりと眺めていた。

「待たせてゴメン」
「ううん。私も今来たところ」
「久しぶりだね」

 喋りながら隣の席に座ると、彼女はどこか落ち着かない様子で自身のバッグを膝の上に乗せた。
 
「その……ちょっと、渡したいものがあって」

 バッグの中をごそごそと探り、取り出したのは、リボンが巻かれ可愛くラッピングされた掌サイズの小袋だった。

「えっと……クッキー作ったから。迷惑じゃなかったら、もらってくれませんか? つまらないものですが……前に言ってた、痴漢から助けてもらったお礼です」

 顔を真っ赤にして差し出され、目を瞬かせる。

「保冷パックに入れてて、学校では冷房もきいてたけど、できれば今日中に食べてもらったほうがいいかな。ガトーショコラとかパウンドケーキのほうが友達からのリクエスト率は高いんだけど、時期的に傷みやすいからクッキーにしたの。クッキーならもし甘いの苦手でも食べられるかなって……」

 早口で一気に捲し立てる彼女に、笑顔を向ける。

「ありがとう。手作りのお菓子もらうのなんて、初めてだよ。めっちゃ嬉しい」
「え、そうなの? バレンタインで手作りチョコとか……」
「チョコ自体、もらったことないよ。シバに渡してって頼まれることはしょっちゅうだったけど」
「……じゃあ、今も彼女はいない、とか……?」
「今まで一度もいたことないよ」

 情けない顔でそう言うと、彼女は元々つぶらな瞳をさらに丸くした。

「じゃ、じゃあ……夏休みに、一緒に花火に行きませんか?」

「花火? カラオケのメンバーで行く感じ?」
「できれば……二人で!」

 カーッと赤くなった顔を見て、もしかして、という甘い予感が胸をかすめた。
 これは……もしかして本当に、井筒たちが言っていたように、彼女が俺に気があるとか、そういうことなんだろうか……。

「返事は今じゃなくていいから! 考えといて!」

 そう言い切ると、桜子さんは立ち上がり、そのまま逃げるように店を出て行った。



 翌日の昼休み。
 試験が終わり、昼休みの体育館開放も再開された。俺は昼食を済ませると、Tシャツと短パンに着替えて、シバとともに早速シュート練習を始めた。外は雨で蒸しているが、晴れた日より暑さはマシだ。
 
 レイアップシュートを放つが、リングに弾かれる。

「今日は外れてばっかだな」

 スクリーンをしているシバがTシャツの裾を持ち上げ、顔の汗を拭う。腹筋が一瞬だけ露わになり、俺は慌てて目を逸らした。シバの腹筋とか、飽きるほど見てきたはずなんだけど……。
 シバは上は制服を脱いでTシャツ、下は制服のスラックスのままだ。

「試験明けで感覚が掴めないんだよ」

 ゴールを外してばっかりなのは試験休みのせいじゃない。おそらく気になることがありすぎて集中できてないせいだ。

「夏休みも毎日練習あんの?」
「平日は基本。土日は練習試合でなければ休みかな」

 ボールを拾いながら、ふと気づいた。
 今はシバはバスケ部ではないから、夏休みになったらシバと会えなくなるんだ。

「なぁ。マジでバスケにはもう未練ない感じ? うち、練習は結構ハードだけど、そんな厳しくないから、塾とか行ってて毎日練習に参加してない人もいるよ」
「……未練はない。もともと、そこまで好きでもなかったし」
「そうだったのか?」

 俺はスリーポイントラインで構えたまま、動きを止めた。

「もしかして、俺が無理に付き合わせちゃった感じ?」

 中学生になり、バスケ部に入ろうと誘ったのは俺だった。

「無理はしてないよ。やってる間も楽しかったし。部活以外は? 何か予定あんの?」

 はぐらかすように、シバは話題を変えた。
 やはり、今はもうバスケ部に入る気はないようだ。

「お盆に母親の実家に行くくらいかな。あとは……桜子ちゃんに花火誘われてる」

 シュートを放つ。ガコッとリングに当たり、やはり外れてしまった。

「……何それ。あの子とつき合うってこと?」

 急にシバの表情が険しくなった。

「いや、まだそこまでじゃ……」
「どう考えても告白する流れだろ。されたらつき合うのか?」
「まだ告白もされてないのに、わかんないよ」

 シバが俺の手首を掴んだ。

「相手は、お前が花火に来た時点で期待してんだろ。その気がないんなら思わせぶりなことすんな」

 なぜか責められて、胸の奥がかっと熱くなった。

「桜子ちゃんは、好きな人がいるのに告白もしないヘタレなお前とは違うんだよ! 勇気を出して花火に誘ってくれたんだから、他に予定がないなら行くのが礼儀だろ!」

 何だよこれ。まるで告白しろってシバに発破かけてるみたいじゃん。
 こんなこと、言いたいわけじゃなかったのに……。

 自分で自分の言葉に動揺し、手首を掴まれたまま逃げようとする。
 逆にシバを引っ張る形になり、シバがバランスを崩した。

「え? あ、おいっ――」

 咄嗟にシャツを掴んだが、支えきれず、シバが尻もちをつき、俺もその上に倒れ込む。
 体重をかける前に両手を床についたから、それほどシバをクッション代わりにしてはいないと思う。シバの顔が目と鼻の先にあり、気づけば俺がシバを押し倒したような体勢になっていた。

 触れ合う体の熱さに胸が高鳴る。
 ただ、その動悸は、過度な接触によるものだけではなかった。

 シバが倒れ込むのを見た瞬間、スローモーションの映像のように、何か別の情景が重なった。

 涙で歪む視界。
『サク』と後ろから俺を呼び止める声。
 泣き顔を見られたくなくて、手首を掴んだシバを振り払おうとして――。

 あれは――……。

「朔、俺は――」

 シバが何か言いかけたが、至近距離で目が合い、慌てて跳ね起きた。

「ご、ごめん!」

 言葉を遮り、跳ね起きる。
 立ち上がったとき、熱を持ちかけていた俺の顔は、逆に完全に血の気が引いていた。
 青褪めた顔で、上半身を起こしたシバとしばらく見つめ合い、俺は何も言わずにその場から走り去った。

 あれは――。
 あのときのシバは――ジャージを着ていた。中学のバスケ部で揃えたジャージだ。

 呼び止められ、手首を掴まれ、その手を振り払う俺。
 シバの驚いた顔。
 その視線は俺ではなく俺の背後に向けられていて――。

 背後から聞こえていた車のエンジン音が急に大きくなったと思ったら、さっきみたいに、シバの腕に包み込まれていた。

 あれは――。

 あの景色は……、何だ……?