翌日の昼休み。
俺とシバは、自習用に開放されている空き教室で向かい合って座っていた。
「だからここは、解の公式をあてはめて……」
「確か『2a分の』ってやつだよね……分子が出てこない」
頭を両手で挟み込んで頭皮をマッサージしてみたが、当然無駄だった。
シバが呆れたように溜息をつく。
「公式も覚えてないやつに、数学の試験を受ける資格はない」
俺はふはっと吐息で笑う。
「但馬Tの受け売りかよ」
『ルールを覚えてないやつに試合に出る資格はない!』
かつての恩師の口癖の一つを久々に思い出した。
「シバって、やっぱ頭いいよなー」
なんでうちの高校に来たんだ? と続けようとし、言葉を呑みこむ。以前、同じことを聞いて、「会いたい人がいたから」って言われたんだった。
「そういえばさ」
シャーペンを指先で回し、何気ないふりをして尋ねる。
「前に言ってた『会いたい人』とは、その後どうなったんだ?」
ノートに視線を落としていたシバが、表情を強張らせる。その顔を見ただけで、触れられたくない質問だとわかった。
「勉強する気ないなら、俺は教室戻るぞ」
「すみません。真面目にやります」
慌てて教科書を捲り、忘れていた公式を確認した。
シバの個人家庭教師とヤマのおかげで、期末試験初日はそれなりに手ごたえを感じた。おかげで赤点は免れそうだ。
チャイムが鳴り、試験監督の声が教室に響く。
「はい、そこまで。裏返して、後ろから回してー」
――シバ大明神様。
答案用紙を前に送りながら、心の中で手を合わせる。
「明日も試験あるんだから、午前中で終わりだからって遊びに行くなよー」
教師が出ていくと、教室は一気に解放感に包まれた。
「小田」
顔を振り向かせ声をかけてきたのは井筒だ。
「お前、桜子ちゃんと、あれから一度も会ってないんだって?」
「あ、うん。インハイ予選で忙しかったし。たまにラインでやりとりするくらい」
「琴ちゃんが心配してたぞ。あの二人どうなってんのかなって」
久我山も話に加わる。
「琴ちゃんって、あの眼鏡の?」
「そうそう。俺たち、あれからもう二回もダブルデートしてるから」
「マジか……」
お前らも試合あったよな?
しかも、久我山は俺と同じバスケ部だ。いつデートする時間なんてあったんだ?
「俺たち夏休み前に勝負かけるつもりだから。お前も、ぐずぐずしてっと後で泣くことになるぞ」
「ぐずぐずも何も、俺たちはそういうんじゃないから」
諭すように言う久我山に、呆れた顔を向けた。
「これだから、初恋もまだのおこちゃまは」
わざとらしくお手上げのポーズした井筒に、くわっと目を剥く。
「初恋くらいあるわ!」
まぁ、そう言いつつも、保育園の頃、仲のいい女の子がいたとか、その程度の話なのだが。
二人が席に戻り、俺も帰り支度を始める。
……みんな、本気で好きじゃなくても、とりあえずつきあってみたりするのかな。
筆記具をリュックに仕舞いながら考えた。
……でも俺は、休みの日に誰かとデートするくらいなら、シバと漫画を読んだり、ゲームをするほうが……。
中学の頃、恒例となっていた休日の風景が浮かんできて、いやいやと首を振る。
それじゃ中学のときと変わんねーし。高校でも彼女できないパターンじゃん!
そう考えつつも、HRを終え教室を出た後は、自然と1組へと足が向かっていた。
教室の前の廊下で待っていると、間もなくして扉が開き、帰り支度をした生徒たちがぞろぞろと出てきた。
その中で頭一つ分突出した男を見つけ、声をかける。
「シバ!」
近付いてきたシバは唇を薄く結び、どこか困惑した様子だった。ほんのわずかな唇の上がり下がりだ、シバが秘かに喜んでいるときとそうでないときは、なんとなくわかる。
ただ、明らかに迷惑がられているほどでもなく、ひとまず声をかける。
「このあと、どっかで昼飯食ってさ。うちで一緒に勉強しない? 勉強教えてもらったお礼で奢るから」
シバは言葉を探すように、目を泳がせた。
やはり都合が悪かったようだ。「無理ならいいよ」と続けようとしたとき。背後から声がした。
「ごめんね、朔太郎君」
上品なのにどこか嫌味っぽい声は、やはりあの男だ。眼鏡先輩。
俺の横を通り過ぎた先輩が、人を食ったような薄笑いを浮かべてシバの隣に立つ。
「知久は今日、うちで一緒に勉強する約束をしてたから」
――そうなのか?
視線で問うと、シバは下唇に指で触れた。嘘を吐くときの癖だ。
「……そう言えば、そうだったな」
俺ではなく先輩を選ぶのは仕方ない。
でも、シバは嘘を吐いている。
先輩と一緒にいたいのなら、正直にそう言えばいいだろ! と思うと、無性に腹が立った。
「だったら、俺も一緒じゃ駄目ですか?」
二人の仲を邪魔したかったわけじゃない。
でも、気づけばムキになってそう口にしていた。
「ハハハ。俺は別に三人でもいいけど?」
先輩が愉快そうに笑い、シバに意味深な流し目を送る。
シバがぎょっとした顔をし、俺に向かって慌てて片手を上げた。
「もともと二人でする約束だったから。今日はゴメン」
そのまま先輩の背を押すようにして帰っていく。
「焦りすぎだろ」
「お前が変なこと言うからだろ」
顔を寄せ合い喋りながら遠ざかる二人を、俺はただ呆然と見送るしかなかった。

