1
誰もいない校舎は夏だというのに少しひんやりとしている。真っ白な廊下はずっと先まで続いていて、靴がキュッと鳴るたびに、廊下中に響いた。
賑やかな学校しか知らないから、こんなに靴音が響くなんて初めて知った。
壁に触れてみる。手のひらから熱が奪われていく。
「うわ、気持ちいい」
外はどんとん気温が上がっていくから、校舎が涼しいのは早朝のわずかな時間だろう。
暑くなる前に用事を終わらせて帰らないと。
二階にある自分の教室へと足を速めた。
大きな鏡の前を横切る。白いTシャツに学ランのズボン。休み前より髪が少し伸びた。
夏休みは明後日には終わる。宿題に着手したのは二日前で、最後の難関である数学に手をつけようとしたところで、教科書を教室に置きっぱなしだったことに気付いた。
昨晩の出来事だ。
だから早起きして朝食を食べ、すぐに学校まで来た。
教室の扉を開ける。
午前中の教室は日差しの加減で少し暗い。窓の向こうには雲ひとつない青空が広がっていて、まるで映画館でスクリーンを見るような眩しさだ。
廊下に近い後方の机を覗き込んだ。置き去りにされていた数学の教科書が、持ち主を待っていたかのようにひっそりとあった。
手に持って教室を出ると、どこからか微かにピアノの音が聞こえてきた。
誰かが弾いてる?
時間はまだ八時。部活動の合唱部員や音楽教師が登校するにしても、もう少し遅い時間だろう。
廊下に出て足を止めた。歩くと自分の足音が微かな音を消してしまう。
どこかで聴いた曲。
まだ小学生だったころ、姉がよくピアノを弾いていた。とても心地よくて、無理言って、この曲ばかり何度も弾いてもらったりした。
母がいて父がいて、姉がいる。
とても幸せだった記憶が、この曲にはある。
音がする方へと足を進めた。階段を昇り三階へと向かう。音楽室は三階の端にあった。
少しずつ近付いてくる。
柔らかい、やさしい音。
音楽室の前に立った。扉のガラス部分からそっと中を見たが、グランドピアノの開いているフタの影になっていて、弾いている人間の顔はよく見えない。
ピアノの音が止んだ。
しばしの沈黙のあと、弾き手が立ち上がり、こちらに近づいてきた。制服姿の男性だが、遠くて顔はよく見えない。
覗き見されていると気づいたのだろう。
せっかくの演奏を中断させてしまった後ろめたさで、俺は自ら扉を開いた。
「ごめん、ピアノが聴こえたから、ちょっと聴きに来ただけなんだ。気にせず続けて」
「先生でも来たのかと思ったよ」
男は微笑んで、ピアノの方へと戻った。
俺より十センチ近く高いから、百八十センチ以上あるかもしれない。すらりとしているが痩せ過ぎでもないしっかりとした体つき。
歳は同じくらいに見えるが、雰囲気が落ち着いている。主張しすぎない整った目鼻立ちと柔らかな笑みが上品な印象だ。ピアノ前の椅子に座ると、陽に透けて茶色みがある長めの前髪がさらりと揺れた。
俺の固い毛は寝ぐせがつくとなかなか取れない。肌も健康的に焼けていて、目の前の男とは全然違った。何もかもが違う。
「聴いてもいい?」
「どうぞ」
近づいていく。
男はピアノは弾かず、こちらを見た。
「二年生?」
持っていた教科書でわかったのだろう。
「あ、うん。二年でD組」
「なんだ、同じクラスだ」
「え、お前みたいなヤツいたっけ?」
男は一瞬だけ目を見開き、それから少し笑った。失言に気付いた俺の頬が熱くなる。
「夏休みに入る週に編入してきたんだ。君は休んでたのかな」
「ああ……、休み前はサッカー部の助っ人で地区大会に出てたから、学校休んでたんだ。終業式には出てきたけど、終業式の日なんてあんまり教室にいないもんな」
「じゃあ、お互い名前も知らないんだ。俺は佐々木亮」
「水沢和希」
にっこりと笑って、それから亮の肩を軽く叩いた。
「な、もう一度弾いてくれないかな、さっきの曲」
同学年なら遠慮はいらない。
「構わないけど、この曲が好き?」
「うん、姉ちゃんが昔、よく弾いてくれたんだ」
「今は弾いてくれない?」
「四年前に亡くなったんだ」
車の事故だった。毎年お盆の時期に田舎の祖父母が住む家に泊まっていた。その年は俺が高熱を出し、母と二人で自宅に残った。父と姉は帰りに大きな事故に巻き込まれ亡くなった。
「そう……」
亮は少し目を伏せた。
聞いてはいけないことを聞いてしまったと思ったのかもしれない。
「あ、全然気にしないで。ちょっとは寂しいけど母さんはいるし、友達もいるし、毎日楽しいから」
眩しい日差しを見るように目を細めた亮は、何も言わずに白い鍵盤の上に指を置いた。
息を吸う。
その瞬間、空気がピンと張り詰めた。
指先が音を奏で始める。
白と黒の鍵盤の上を滑らかに動く指先を見ながら、俺は耳を傾けた。
シンプルで、やさしい旋律。
強くなり、弱くなる。身体に満ちていく音が、そのたびに自分の中で高まり、収まって染み込む。
窓の外には青い空。
外の強い日差しが影を作っている音楽室。
僅かに開けられた窓から入り込んだ風が、頬を撫でた。
風とピアノの音が一つになって、空気を震わせている。
目を閉じた。
とても気持ちがいい。
このままずっと、こうしていたい。
だけど旋律は戻るべきところへ戻っていくように消えていった。
ゆっくりと目を開けたが、しばらく何も言わずぼんやりとしていた。亮もそのままだった。
何かを言えば、この空気が壊れてしまいそうだ。
そう思ったのに、自ら思いっきり壊してしまう。
「やっべー、宿題すぐやんないと」
時間がないんだった。
亮が見上げて笑った。
「それを持って帰るために登校したんだ」
視線の先は、数学の教科書だ。
「そうそう。あー、もうちょっとここで聴いていたかったのにな」
「望むなら、いつでも弾いてあげるよ」
「え、本当?」
満面の笑みを浮かべた。
「うん」
「ええと、じゃあさ、休み中は無理だし、始業式の日は朝まで徹夜でヨレヨレかもしれないから、始業式の翌朝でいい? 七時半くらいなら頑張って来るから。あ、えーと、亮でいいよな、呼び方。俺は和希で」
「和希」
確認するように頷き合う。
「亮はいいのか? 朝早くても」
「いいよ。弾きたいけど家では弾けないから、先生に許可貰って、毎朝学校で弾いてたんだ。和希が来なくても弾いてる」
「わかった。じゃあ!」
扉を開き、音楽室を出ようとして思いとどまり振り向いた。
「ところで、さっきの曲、何て曲?」
「ドビッシーのアラベスク第一番」
亮の言葉に、思いっきり顔をしかめた。
「絶対覚えらんねえ」
俺は手を振って、音楽室の扉を閉めた。
2
夏休みは終わったが、夏が終わる気配はまだない。連日の猛暑と寝不足のせいで、足取りは重い。
あのピアノの音色で気力をチャージしたい。
しかし明朝までお預けだ。
教室に入る。
「おはよう和希」
「おはよう」
何人ものクラスメイトから声をかけられ、笑顔で答える。
鞄を机の上に置いてから、窓際の席に座っている桜野雅史の元へと向かった。声を掛ける前に欠伸をした俺を、雅史は呆れたように一瞥する。
「結局徹夜だったんだ?」
雅史は冷めた口調でそう言った。
小学校から高校までずっと同じで、何度も同じクラスになった幼なじみだ。
長いまつげや赤味が強い唇で、子どものころ「女だ」とからかわれたせいか、クールで口調も強めだ。見た目と中身のギャップがあるせいか、誤解されやすく人付き合いはよくない。俺以外とつるんでいるのを見たことはない。
「雅史はいいよな、兄さんに宿題見てもらえるから」
「まあ、こういうときのために兄貴が存在するわけで」
俺は雅史の、変に気を使わない案外真直ぐなところが気にいっている。俺の父と姉が事故で他界していると知ると、大抵の人は腫れ物を触るように気を使ってくれる。そういう気遣いもありがたいとは思うが、かわいそうな扱いをうけると、自分がかわいそうに思えてくるのが嫌だった。
自分は少しもかわいそうなんかじゃない。
姉も父ももういないけれど、今でもとても好きで、思い出すと温かい気持ちになる。友達もいっぱいいる。悲しみに浸って閉じこもるのはそれらを否定することだ。
ふと視線を入口に移すと、数日前に音楽室で会った男が教室に入ってくるところだった。
「おはよう! 亮」
手を挙げて大きく振る。教室中の人間が俺を見て、次に亮の方を見た。雅史も不思議そうな顔をして見上げる。
「お前、いつから佐々木と親しくなったの?」
「親しくっていうか、休み中に偶然学校で会ってさ。転校生がいたとか知らなかった」
「ああ、夏休み直前に来たからな。っていうか、偶然会ってすぐ仲良くなるって、早すぎねえ? さすがだけど」
鞄を席に置いて近付いてきた亮が「おはよう」と言った。
「今日もピアノ弾きに行ったのか?」
「少しだけね」
俺は少し背伸びして、耳元でささやいた。
「明日、絶対来いよ」
亮は困ったような、くすぐったそうな表情をして頷いた。
「お、なんだよ、和希っていつから佐々木と親しくなったわけ?」
夏休み中にも何度か顔を合わせた山田が近付いてきた。サッカー部に所属していて、時折助っ人を頼み込んでくるのだ。他にも友人達が数名近付いてきたが、亮は「ちょっと担任に呼ばれているから」と言ってその場を離れた。
「親しくって、同じクラスだろう? 夏休み前に数日同じ教室で過ごしたやつらも、少しは親しくなったんじゃないの?」
その場にいる皆が顔を見合わせる。
「すぐ夏休みだったしな。それになんか俺たちと違って上品な感じがするだろう? くだらない話とかするのかな」
一人が言うと、他の人間も頷いた。別の一人が言葉を引き継ぐように続ける。
「実際、佐々木の家ってすごい金持ちらしいじゃん。C組の守山の家の近所だけど、ばかでかい家に住んでるらしいぜ?」
「守山って高級住宅街に住んでるんだよな? 高級住宅街にいるやつがすごいって言うんだから、すっげー金持ちなんだろう」
「最近までヨーロッパにいたらしいぞ。母親がピアニストで長期公演に付いて回っていたとか」
次々と亮についての噂が出てきて唖然としていたところに、始業のチャイムがなった。皆が席に着き始める。亮も教室に入ってきたが、担任もすぐ来たので、俺は話しかけられずに着席した。
別に、どういう家庭かなんてどうでもいいんだけど。
確かに、ちょっと他とは違う雰囲気ではあるけれど、海外で生活していたなら感覚が違っても不思議はないだろうし。
鍵盤の上を滑るように動き、やさしい音を奏でる指先を思い出す。
温かくて、穏やかな時間。
ぼんやりと外を眺める。
早くまた、亮のピアノを聴きたい。
始業式の日は授業はなく、俺は山田のサッカー自主練習に付き合わされたので、亮と話す機会もなく一日が終わってしまった。
3
翌朝。
少し早足で音楽室へと向かった。時間は七時二十分。グラウンドでは野球部が朝練をしているらしく、球が金属バットに弾かれる音が時折聞こえてくる。
「おはよう」
勢いよく音楽室の扉を開けると、既にピアノの前に座っていた亮がこちらを見た。
「おはよう」
「早くから来てたのか?」
「早くといっても、七時過ぎだけどね。廊下を走る足音が聞こえたから、弾くのを止めて待ってた」
「うわ、恥ずかしいな」
「何で?」
「楽しみにしていたのがバレバレじゃん」
亮は声をあげて笑った。
「でも、和希らしい」
出会ってまだ日も浅いのに、当てずっぽうな感じはしなかった。本当にわかっているみたいで、ますます恥ずかしくなる。
そりゃあ、複雑な人間ではないけれど。
「あの曲でいい?」
「うん」
頷いて、ピアノに軽く肘をつき寄りかかった。
亮の真直ぐな瞳を見る。
やさしい曲を奏でる前の、一瞬の厳しさ。
そして、馴染みある旋律が奏でられる。部屋中に音が満ち、窓から流れ出てさらに広がっていく。
身体中を柔らかく撫でていくようで、とても心地よい。このままずっと、こうしていたいと思えるほどに。
曲は終わりへと向かい、そして止んだ。
満ちる静寂。
もっと、もっと聴きたい。
「もっと、いいかな」
一応遠慮がちに言った。同じ曲ばかり何度も弾くのは飽きるのではないかと少し心配になったからだ。
「いいよ」
しかし亮は、少しも嫌そうな顔は見せない。
「なあ、亮はどうしてここでピアノ弾いてるんだ? 誰かが言ってたけどお母さんってピアニストなんだろう? 家にピアノあるんじゃないのか?」
「父親が勉強しろってうるさいんだ。日本に呼び戻されたのも、そろそろ受験勉強しないと間に合わないだろうって」
「もう受験意識してるのか。すげーな。俺まだ全然進路決めてないのに。別にもう少し先でもいいのにな」
「ヨーロッパで母の長期公演に付いて回って学校に行ってなかった時期もあるから、一学年遅れてるんだ」
「ええっ? じゃあ、本当なら今ごろ三年だったのか?」
「そう」
亮は苦笑しながら頷いた。
「確かに、大人びてる感じはすると思ったんだよな」
「いろいろな音楽や文化に触れたくて海外に行ってたけど、そろそろ父の言うことも聞かないといけないかと思って戻ってきた」
「将来は、お父さんの会社の跡を継ぐことになってるのか?」
「父はそれを願ってるみたいだけど」
俺は肘をピアノに置いたまま、亮の方へ身を乗り出した。
「でもさ、別にピアノ弾いてたっていいじゃん。本当はピアニストになりたいとか、そういうこと?」
「いや、それも考えたことはあるけど、そこまでの腕はないし、何か違うかなって」
亮の言葉は今ひとつ歯切れが悪い。
「勿体ないなあ」
「弾いてないと腕は落ちるし、好きだから弾いていると気持ちがいい。毎朝ここで弾いてるのはストレス解消みたいなものかな」
「俺も亮のピアノ聴いてると、なんだか身体が軽くなる」
「君にもストレスがあるんだ」
亮は少し意地悪そうな表情を作った。こんな顔もできるのかと思うと、何故か少し嬉しくなる。
「案外失礼な奴だな」
怒った口調で言うと、亮は楽しそうに笑い出した。
「もう一度弾くから、それで許して」
まだ笑いは完全には止まらないようだ。
「二度弾いたら許す」
「OK」
小さく頷いた。
すぐに鍵盤の上に両手を乗せる。
静寂。
溢れる音。
繰り返し、波のように寄せてくる。
言葉はないのに、とても近くにいるみたいに感じる。
翌朝から俺はサッカー部の朝練に出ることになり、数日に一度しかピアノを聴きに来ることができなかった。だけど、ここに来ることが何よりも楽しみな時間になっていた。
4
「なんか最近、佐々木も少しずつクラスに馴染んできたよな」
休み時間。席に座ったまま呟いた雅史の横に、俺は立っていた。少し離れた場所で、亮はクラスメイトの一人に英語の宿題の解き方を教えている。俺と一緒にいるうちに、少しずつ他の人間とも話すようになったのだ。
「馴染んだというか、面白がられているというか」
そう答えた俺に、雅史は少し疑わしそうな視線を向けた。
「不思議に思ってたんだけど、お前たちどうして親しくなったわけ?」
「ど、どうって……」
雅史は無言で呼ぶように、右手の人さし指をクイッと自分の方に二度曲げた。仕方なく、顔を近付ける。耳元に唇を寄せた雅史が小声で囁いた。
「和希と佐々木が早朝の音楽室から出てきたところを、見た人がいるんだって。噂になってるぞ」
「噂っ?」
大きな声で言ってしまい、思わず両手で口を塞ぐ。
噂というくらいだから、良い話ではないのは想像がつく。なんかあいつら怪しいぞ、というやつだろう。
「別に怪しいことはしてないよ。……静かだし、ちょっと話してるだけで」
嘘は言ってない。
でもあのピアノの練習のことを、皆に話してもいいのかわからない。
何より、俺が、あまり話したくなかった。
二人だけの静かな時間が壊れてしまいそうで。
「ちょっと話してるだけ、ね……」
雅史は納得してないようだ。
「だいたい、そういう噂になるような、特別な好意みたいの男子から向けられたことないし」
雅史は首を振る。
「お前、自分で思ってるよりずっと、惚れられやすいよ」
「そうかあ? 今まで男から告白されたことなんて一度もないけどな」
「聞かれたことはあった。女子と付き合ってたこともあるし、男から告白しても大丈夫なんだろうか、みたいなことをね」
「……どうしてそれ、今まで内緒にしてたんだよ」
責めるような口調になったが、怒っているわけではない。ただあまりにも想定外で戸惑ってるだけだ。
女子と付き合ってたと言っても、小学生のころ仲の良い女子と手を繋いで帰ったりしたことがあるというだけだ。男子とはもちろん付き合ったことはない。
雅史はひるむわけでもなく、淡々と話した。
「和希はそういうの興味ないみたいって言ったら、告白せずに諦めたみたいだから。なのにお前に言うわけにいかないだろう」
「あ……そう……」
噂について考えても仕方ないので、話題を変える。
「そういえば、今度の日曜日に映画観に行こうかって話に亮となってさ、お前も行かない?」
「……その日は用事があるんだ」
「じゃあ仕方ないな。亮と二人か」
誰かに見られたら、また噂になるだろうか。
そんなことは、どうでもいいけれど。
5
日曜日は、雲ひとつない青空だった。
「アクションシーンのCG凄かったよな。凄すぎてなんか笑っちゃったけど」
「でも圧倒的だったね」
映画館から出て、人通りの多い交差点を歩く。亮は肌触りが良さそうなクリーム色のシャツに、黒のジーンズ。俺はポップなイラストが胸に入った黒色のTシャツに、カーキ色のカーゴパンツ。パンツと同色のキャップをかぶっている。
ひとしきり映画の話題で盛り上がったが、食事は映画の前にファーストフードで済ませたし、どこへ行こうか、ということになった。
亮が、ふと思いついたという感じで言った。
「俺の家に来てみる?」
同級生たちが話していた豪邸に、少し興味が沸いた。
「あ、じゃあさ、途中に雅史の家あるから寄っていこう。あいつの家、和菓子屋なんだ。庶民的な」
「庶民的って?」
亮が愉快そうな目で俺を見る。
「繊細な和生とかじゃなくて、どら焼きが一番人気なワケ」
「なるほど」
「お前の家でどら焼き食おう」
「賛成」
電車に乗って雅史の和菓子屋に近い駅で降りる。昔ながらの商店街で、惣菜屋や雑貨店が軒を連ねていた。
二人でぶらぶらと歩いているうちに和菓子屋に着いた。三階建ての建物の一階に店鋪があり、その横にある扉から二、三階の住居へと入るようになっている。
店鋪の扉の上にかかっている白地の看板には、桃色の文字で「さくらの」と入っている。
格子戸に似せた黒い縁取りの自動扉が両側に開いた。
「あら、和希くん、いらっしゃい」
少しふくよかで愛想の良い、雅史の母親が出てきた。寡黙な父親は店の奥で菓子を作っているのだろう。
「こんにちは。どら焼き二個ちょうだい」
「はいよ」
ガラスのショーケースの中には団子と大福が並んでいるが、ドラ焼きはケース上に置かれた籠の中にあり、雅史の母がそこから手早く掴んで紙袋に入れた。
「はい」
俺は五百円玉を出し、ドラ焼きが入った紙袋と釣り銭を受け取った。
「ありがとうね」
「雅史は出かけてる?」
「今日は英語の日だったんじゃないかしら」
「……英語の日?」
「あら、和希くんに話してなかったの。最近、英会話の勉強してるのよ。受験用の学校じゃなくて、個人で先生に教わってるみたい。海外の仕事に興味あるんだって」
全てが初めて聞く話だった。
知らなかった。
何と答えていいのか思いつかず、立ち尽くしてしまう。隣にいた亮がおばさんに声を掛けた。
「では、また雅史くんがいるときに遊びに来ます」
目を見開いている俺の手から紙袋を取る。奪うようにではなく、預かるように。まだ動き出さない俺の手首を軽く握って引いた。
雅史の母親に会釈をして、店を出た。
日が暮れかけて、二人の影は長く伸びている。
握っていた手を亮が離すと、俺の足は止まってしまった。
どんなに親しい友達だって、進む道は違うのだからいつかは離れていく。海外に行かなくても、違う大学へ進めば四六時中一緒にいるというわけにはいかないだろう。だから、そんなことがショックなわけじゃない。
そうじゃなくて。
「あ、どら焼き」
忘れかけていた。
「ちゃんと持ってるよ」
亮が紙袋を掲げた。
「そう……」
「ここから十分もかからないから」
亮の自宅はそう遠くないようだ。
豪邸見学を楽しむような気分はすっかり消えていたが、かといって、家に帰る気にもならない。母親は仕事で帰宅が遅いので、一人で夕食の支度をしなくてはいけない。
作っても、食べるのは一人。
いつものこと。
亮は何も言わず、ゆっくりと歩きだした。
何も言われないのが、ありがたかった。今は笑顔を作るのが難しい。だからこの沈黙は、それだけで救いだ。
一緒に歩いているうちに少しずつ落ち着いてきた。亮といると心が凪いでいく。
落ち着くと、何がショックだったのかわかってきた。
「……俺がいないとダメだなんて、そんなふうに思ったことはなかったけど、雅史が一人で遠くへ行くつもりだったなんて」
「寂しい?」
亮がやさしい口調で言った。
素直に頷きそうになって、堪えた。
ぎゅっと唇を噛む。
「大丈夫。全然知らなかったから驚いただけ。どうせ違う大学行くことになったら会う時間も減るだろうし、離れても友達は友達だからな」
笑顔で頷いた。
言葉に嘘はない。だから、笑顔だって嘘じゃない。
「寂しいときは寂しいって、たまには口に出していいんじゃないかな。進路が離れていくことじゃなく、二人の間に秘密があったことが悲しかった。何でも一番に言って欲しかった。そうじゃなかったのが寂しかった。そうだろう?」
そうだ、本当は、雅史の存在を頼りにしていたのは自分の方だ。必要とされることで安心していた。ずっと一緒だと。
だけど、俺は自分が進む道の先が見えてないのに、雅史は狙いを定めて遠くへ進もうとしている。
置いていかれるような寂しさ。
雅史を動かした何ものかが自分ではないということに対する、嫉妬にも似た気持ち。
とても子供じみてる。
とても。
「お前も雅史も、先のこといろいろ考え始めてるのに、俺はまだ全然どこ進んでいいかわかんない。全然大人じゃない。こんなことで立ち止まってる、こんな――」
歩いていた足が止まる。
「和希は大人だよ、俺よりもずっとね。前向きで、周りの人間に力を与えてくれる。だから自信持って今までどおり前に進めばいいし、そのために、たまに思ったままを口にしてみるといい」
「思ったまま?」
「寂しい?」
亮はもう一度そう言った。
父と姉が手の届かないところへ行ってしまったときのことを思い出す。娘に期待をかけて全国のピアノコンテストに付き添っていた母は喪失で心を病み掛けた。だから俺は、いつまでも嘆いているわけにはいかなかった。ちゃんと元気でいなければ。母に心配かけさせないように。俺のことなど考えず、ゆっくり心を癒して、生きていてほしかった。
母は結婚前に辞めていた仕事に復帰するくらいには落ち着いた。だから俺が弱音を吐かずに前向きでいたことは、正しかったんだ。
間違ってなどいない。
無理をしてるわけじゃない。
それでも。
父と姉に会いたいし、母にはもっと自分を見てもらいたい。
寂しいと思う気持ちにも、嘘はない。
喉まで出かかった言葉と向き合う。
まだ大人になりきれない感情をいっぱい抱えているのに、一方でこんなふうに、押し殺すことをいつのまにか覚えてきた。
「……寂しい」
口に出してしまうと、その分だけ身体が軽くなったような気がした。
不思議だ。
今まで誰にも言えなかった言葉。
まだ会って間もない男に引き出された。
俺は隣を見て微笑んだ。
亮はやさしい音を奏でる細くて長い指で、俺の髪を掻き回すように頭を撫でて、笑った。
俺は紙袋に手を伸ばし、どら焼きを掴んで亮に渡す。もう一つの方を手にしてかぶりついた。
「甘い」
真似るように亮もどら焼きを頬張る。
「うん、甘くて美味しい」
食べ慣れたどら焼きなのに、いつも以上に甘く感じた。
誰もいない校舎は夏だというのに少しひんやりとしている。真っ白な廊下はずっと先まで続いていて、靴がキュッと鳴るたびに、廊下中に響いた。
賑やかな学校しか知らないから、こんなに靴音が響くなんて初めて知った。
壁に触れてみる。手のひらから熱が奪われていく。
「うわ、気持ちいい」
外はどんとん気温が上がっていくから、校舎が涼しいのは早朝のわずかな時間だろう。
暑くなる前に用事を終わらせて帰らないと。
二階にある自分の教室へと足を速めた。
大きな鏡の前を横切る。白いTシャツに学ランのズボン。休み前より髪が少し伸びた。
夏休みは明後日には終わる。宿題に着手したのは二日前で、最後の難関である数学に手をつけようとしたところで、教科書を教室に置きっぱなしだったことに気付いた。
昨晩の出来事だ。
だから早起きして朝食を食べ、すぐに学校まで来た。
教室の扉を開ける。
午前中の教室は日差しの加減で少し暗い。窓の向こうには雲ひとつない青空が広がっていて、まるで映画館でスクリーンを見るような眩しさだ。
廊下に近い後方の机を覗き込んだ。置き去りにされていた数学の教科書が、持ち主を待っていたかのようにひっそりとあった。
手に持って教室を出ると、どこからか微かにピアノの音が聞こえてきた。
誰かが弾いてる?
時間はまだ八時。部活動の合唱部員や音楽教師が登校するにしても、もう少し遅い時間だろう。
廊下に出て足を止めた。歩くと自分の足音が微かな音を消してしまう。
どこかで聴いた曲。
まだ小学生だったころ、姉がよくピアノを弾いていた。とても心地よくて、無理言って、この曲ばかり何度も弾いてもらったりした。
母がいて父がいて、姉がいる。
とても幸せだった記憶が、この曲にはある。
音がする方へと足を進めた。階段を昇り三階へと向かう。音楽室は三階の端にあった。
少しずつ近付いてくる。
柔らかい、やさしい音。
音楽室の前に立った。扉のガラス部分からそっと中を見たが、グランドピアノの開いているフタの影になっていて、弾いている人間の顔はよく見えない。
ピアノの音が止んだ。
しばしの沈黙のあと、弾き手が立ち上がり、こちらに近づいてきた。制服姿の男性だが、遠くて顔はよく見えない。
覗き見されていると気づいたのだろう。
せっかくの演奏を中断させてしまった後ろめたさで、俺は自ら扉を開いた。
「ごめん、ピアノが聴こえたから、ちょっと聴きに来ただけなんだ。気にせず続けて」
「先生でも来たのかと思ったよ」
男は微笑んで、ピアノの方へと戻った。
俺より十センチ近く高いから、百八十センチ以上あるかもしれない。すらりとしているが痩せ過ぎでもないしっかりとした体つき。
歳は同じくらいに見えるが、雰囲気が落ち着いている。主張しすぎない整った目鼻立ちと柔らかな笑みが上品な印象だ。ピアノ前の椅子に座ると、陽に透けて茶色みがある長めの前髪がさらりと揺れた。
俺の固い毛は寝ぐせがつくとなかなか取れない。肌も健康的に焼けていて、目の前の男とは全然違った。何もかもが違う。
「聴いてもいい?」
「どうぞ」
近づいていく。
男はピアノは弾かず、こちらを見た。
「二年生?」
持っていた教科書でわかったのだろう。
「あ、うん。二年でD組」
「なんだ、同じクラスだ」
「え、お前みたいなヤツいたっけ?」
男は一瞬だけ目を見開き、それから少し笑った。失言に気付いた俺の頬が熱くなる。
「夏休みに入る週に編入してきたんだ。君は休んでたのかな」
「ああ……、休み前はサッカー部の助っ人で地区大会に出てたから、学校休んでたんだ。終業式には出てきたけど、終業式の日なんてあんまり教室にいないもんな」
「じゃあ、お互い名前も知らないんだ。俺は佐々木亮」
「水沢和希」
にっこりと笑って、それから亮の肩を軽く叩いた。
「な、もう一度弾いてくれないかな、さっきの曲」
同学年なら遠慮はいらない。
「構わないけど、この曲が好き?」
「うん、姉ちゃんが昔、よく弾いてくれたんだ」
「今は弾いてくれない?」
「四年前に亡くなったんだ」
車の事故だった。毎年お盆の時期に田舎の祖父母が住む家に泊まっていた。その年は俺が高熱を出し、母と二人で自宅に残った。父と姉は帰りに大きな事故に巻き込まれ亡くなった。
「そう……」
亮は少し目を伏せた。
聞いてはいけないことを聞いてしまったと思ったのかもしれない。
「あ、全然気にしないで。ちょっとは寂しいけど母さんはいるし、友達もいるし、毎日楽しいから」
眩しい日差しを見るように目を細めた亮は、何も言わずに白い鍵盤の上に指を置いた。
息を吸う。
その瞬間、空気がピンと張り詰めた。
指先が音を奏で始める。
白と黒の鍵盤の上を滑らかに動く指先を見ながら、俺は耳を傾けた。
シンプルで、やさしい旋律。
強くなり、弱くなる。身体に満ちていく音が、そのたびに自分の中で高まり、収まって染み込む。
窓の外には青い空。
外の強い日差しが影を作っている音楽室。
僅かに開けられた窓から入り込んだ風が、頬を撫でた。
風とピアノの音が一つになって、空気を震わせている。
目を閉じた。
とても気持ちがいい。
このままずっと、こうしていたい。
だけど旋律は戻るべきところへ戻っていくように消えていった。
ゆっくりと目を開けたが、しばらく何も言わずぼんやりとしていた。亮もそのままだった。
何かを言えば、この空気が壊れてしまいそうだ。
そう思ったのに、自ら思いっきり壊してしまう。
「やっべー、宿題すぐやんないと」
時間がないんだった。
亮が見上げて笑った。
「それを持って帰るために登校したんだ」
視線の先は、数学の教科書だ。
「そうそう。あー、もうちょっとここで聴いていたかったのにな」
「望むなら、いつでも弾いてあげるよ」
「え、本当?」
満面の笑みを浮かべた。
「うん」
「ええと、じゃあさ、休み中は無理だし、始業式の日は朝まで徹夜でヨレヨレかもしれないから、始業式の翌朝でいい? 七時半くらいなら頑張って来るから。あ、えーと、亮でいいよな、呼び方。俺は和希で」
「和希」
確認するように頷き合う。
「亮はいいのか? 朝早くても」
「いいよ。弾きたいけど家では弾けないから、先生に許可貰って、毎朝学校で弾いてたんだ。和希が来なくても弾いてる」
「わかった。じゃあ!」
扉を開き、音楽室を出ようとして思いとどまり振り向いた。
「ところで、さっきの曲、何て曲?」
「ドビッシーのアラベスク第一番」
亮の言葉に、思いっきり顔をしかめた。
「絶対覚えらんねえ」
俺は手を振って、音楽室の扉を閉めた。
2
夏休みは終わったが、夏が終わる気配はまだない。連日の猛暑と寝不足のせいで、足取りは重い。
あのピアノの音色で気力をチャージしたい。
しかし明朝までお預けだ。
教室に入る。
「おはよう和希」
「おはよう」
何人ものクラスメイトから声をかけられ、笑顔で答える。
鞄を机の上に置いてから、窓際の席に座っている桜野雅史の元へと向かった。声を掛ける前に欠伸をした俺を、雅史は呆れたように一瞥する。
「結局徹夜だったんだ?」
雅史は冷めた口調でそう言った。
小学校から高校までずっと同じで、何度も同じクラスになった幼なじみだ。
長いまつげや赤味が強い唇で、子どものころ「女だ」とからかわれたせいか、クールで口調も強めだ。見た目と中身のギャップがあるせいか、誤解されやすく人付き合いはよくない。俺以外とつるんでいるのを見たことはない。
「雅史はいいよな、兄さんに宿題見てもらえるから」
「まあ、こういうときのために兄貴が存在するわけで」
俺は雅史の、変に気を使わない案外真直ぐなところが気にいっている。俺の父と姉が事故で他界していると知ると、大抵の人は腫れ物を触るように気を使ってくれる。そういう気遣いもありがたいとは思うが、かわいそうな扱いをうけると、自分がかわいそうに思えてくるのが嫌だった。
自分は少しもかわいそうなんかじゃない。
姉も父ももういないけれど、今でもとても好きで、思い出すと温かい気持ちになる。友達もいっぱいいる。悲しみに浸って閉じこもるのはそれらを否定することだ。
ふと視線を入口に移すと、数日前に音楽室で会った男が教室に入ってくるところだった。
「おはよう! 亮」
手を挙げて大きく振る。教室中の人間が俺を見て、次に亮の方を見た。雅史も不思議そうな顔をして見上げる。
「お前、いつから佐々木と親しくなったの?」
「親しくっていうか、休み中に偶然学校で会ってさ。転校生がいたとか知らなかった」
「ああ、夏休み直前に来たからな。っていうか、偶然会ってすぐ仲良くなるって、早すぎねえ? さすがだけど」
鞄を席に置いて近付いてきた亮が「おはよう」と言った。
「今日もピアノ弾きに行ったのか?」
「少しだけね」
俺は少し背伸びして、耳元でささやいた。
「明日、絶対来いよ」
亮は困ったような、くすぐったそうな表情をして頷いた。
「お、なんだよ、和希っていつから佐々木と親しくなったわけ?」
夏休み中にも何度か顔を合わせた山田が近付いてきた。サッカー部に所属していて、時折助っ人を頼み込んでくるのだ。他にも友人達が数名近付いてきたが、亮は「ちょっと担任に呼ばれているから」と言ってその場を離れた。
「親しくって、同じクラスだろう? 夏休み前に数日同じ教室で過ごしたやつらも、少しは親しくなったんじゃないの?」
その場にいる皆が顔を見合わせる。
「すぐ夏休みだったしな。それになんか俺たちと違って上品な感じがするだろう? くだらない話とかするのかな」
一人が言うと、他の人間も頷いた。別の一人が言葉を引き継ぐように続ける。
「実際、佐々木の家ってすごい金持ちらしいじゃん。C組の守山の家の近所だけど、ばかでかい家に住んでるらしいぜ?」
「守山って高級住宅街に住んでるんだよな? 高級住宅街にいるやつがすごいって言うんだから、すっげー金持ちなんだろう」
「最近までヨーロッパにいたらしいぞ。母親がピアニストで長期公演に付いて回っていたとか」
次々と亮についての噂が出てきて唖然としていたところに、始業のチャイムがなった。皆が席に着き始める。亮も教室に入ってきたが、担任もすぐ来たので、俺は話しかけられずに着席した。
別に、どういう家庭かなんてどうでもいいんだけど。
確かに、ちょっと他とは違う雰囲気ではあるけれど、海外で生活していたなら感覚が違っても不思議はないだろうし。
鍵盤の上を滑るように動き、やさしい音を奏でる指先を思い出す。
温かくて、穏やかな時間。
ぼんやりと外を眺める。
早くまた、亮のピアノを聴きたい。
始業式の日は授業はなく、俺は山田のサッカー自主練習に付き合わされたので、亮と話す機会もなく一日が終わってしまった。
3
翌朝。
少し早足で音楽室へと向かった。時間は七時二十分。グラウンドでは野球部が朝練をしているらしく、球が金属バットに弾かれる音が時折聞こえてくる。
「おはよう」
勢いよく音楽室の扉を開けると、既にピアノの前に座っていた亮がこちらを見た。
「おはよう」
「早くから来てたのか?」
「早くといっても、七時過ぎだけどね。廊下を走る足音が聞こえたから、弾くのを止めて待ってた」
「うわ、恥ずかしいな」
「何で?」
「楽しみにしていたのがバレバレじゃん」
亮は声をあげて笑った。
「でも、和希らしい」
出会ってまだ日も浅いのに、当てずっぽうな感じはしなかった。本当にわかっているみたいで、ますます恥ずかしくなる。
そりゃあ、複雑な人間ではないけれど。
「あの曲でいい?」
「うん」
頷いて、ピアノに軽く肘をつき寄りかかった。
亮の真直ぐな瞳を見る。
やさしい曲を奏でる前の、一瞬の厳しさ。
そして、馴染みある旋律が奏でられる。部屋中に音が満ち、窓から流れ出てさらに広がっていく。
身体中を柔らかく撫でていくようで、とても心地よい。このままずっと、こうしていたいと思えるほどに。
曲は終わりへと向かい、そして止んだ。
満ちる静寂。
もっと、もっと聴きたい。
「もっと、いいかな」
一応遠慮がちに言った。同じ曲ばかり何度も弾くのは飽きるのではないかと少し心配になったからだ。
「いいよ」
しかし亮は、少しも嫌そうな顔は見せない。
「なあ、亮はどうしてここでピアノ弾いてるんだ? 誰かが言ってたけどお母さんってピアニストなんだろう? 家にピアノあるんじゃないのか?」
「父親が勉強しろってうるさいんだ。日本に呼び戻されたのも、そろそろ受験勉強しないと間に合わないだろうって」
「もう受験意識してるのか。すげーな。俺まだ全然進路決めてないのに。別にもう少し先でもいいのにな」
「ヨーロッパで母の長期公演に付いて回って学校に行ってなかった時期もあるから、一学年遅れてるんだ」
「ええっ? じゃあ、本当なら今ごろ三年だったのか?」
「そう」
亮は苦笑しながら頷いた。
「確かに、大人びてる感じはすると思ったんだよな」
「いろいろな音楽や文化に触れたくて海外に行ってたけど、そろそろ父の言うことも聞かないといけないかと思って戻ってきた」
「将来は、お父さんの会社の跡を継ぐことになってるのか?」
「父はそれを願ってるみたいだけど」
俺は肘をピアノに置いたまま、亮の方へ身を乗り出した。
「でもさ、別にピアノ弾いてたっていいじゃん。本当はピアニストになりたいとか、そういうこと?」
「いや、それも考えたことはあるけど、そこまでの腕はないし、何か違うかなって」
亮の言葉は今ひとつ歯切れが悪い。
「勿体ないなあ」
「弾いてないと腕は落ちるし、好きだから弾いていると気持ちがいい。毎朝ここで弾いてるのはストレス解消みたいなものかな」
「俺も亮のピアノ聴いてると、なんだか身体が軽くなる」
「君にもストレスがあるんだ」
亮は少し意地悪そうな表情を作った。こんな顔もできるのかと思うと、何故か少し嬉しくなる。
「案外失礼な奴だな」
怒った口調で言うと、亮は楽しそうに笑い出した。
「もう一度弾くから、それで許して」
まだ笑いは完全には止まらないようだ。
「二度弾いたら許す」
「OK」
小さく頷いた。
すぐに鍵盤の上に両手を乗せる。
静寂。
溢れる音。
繰り返し、波のように寄せてくる。
言葉はないのに、とても近くにいるみたいに感じる。
翌朝から俺はサッカー部の朝練に出ることになり、数日に一度しかピアノを聴きに来ることができなかった。だけど、ここに来ることが何よりも楽しみな時間になっていた。
4
「なんか最近、佐々木も少しずつクラスに馴染んできたよな」
休み時間。席に座ったまま呟いた雅史の横に、俺は立っていた。少し離れた場所で、亮はクラスメイトの一人に英語の宿題の解き方を教えている。俺と一緒にいるうちに、少しずつ他の人間とも話すようになったのだ。
「馴染んだというか、面白がられているというか」
そう答えた俺に、雅史は少し疑わしそうな視線を向けた。
「不思議に思ってたんだけど、お前たちどうして親しくなったわけ?」
「ど、どうって……」
雅史は無言で呼ぶように、右手の人さし指をクイッと自分の方に二度曲げた。仕方なく、顔を近付ける。耳元に唇を寄せた雅史が小声で囁いた。
「和希と佐々木が早朝の音楽室から出てきたところを、見た人がいるんだって。噂になってるぞ」
「噂っ?」
大きな声で言ってしまい、思わず両手で口を塞ぐ。
噂というくらいだから、良い話ではないのは想像がつく。なんかあいつら怪しいぞ、というやつだろう。
「別に怪しいことはしてないよ。……静かだし、ちょっと話してるだけで」
嘘は言ってない。
でもあのピアノの練習のことを、皆に話してもいいのかわからない。
何より、俺が、あまり話したくなかった。
二人だけの静かな時間が壊れてしまいそうで。
「ちょっと話してるだけ、ね……」
雅史は納得してないようだ。
「だいたい、そういう噂になるような、特別な好意みたいの男子から向けられたことないし」
雅史は首を振る。
「お前、自分で思ってるよりずっと、惚れられやすいよ」
「そうかあ? 今まで男から告白されたことなんて一度もないけどな」
「聞かれたことはあった。女子と付き合ってたこともあるし、男から告白しても大丈夫なんだろうか、みたいなことをね」
「……どうしてそれ、今まで内緒にしてたんだよ」
責めるような口調になったが、怒っているわけではない。ただあまりにも想定外で戸惑ってるだけだ。
女子と付き合ってたと言っても、小学生のころ仲の良い女子と手を繋いで帰ったりしたことがあるというだけだ。男子とはもちろん付き合ったことはない。
雅史はひるむわけでもなく、淡々と話した。
「和希はそういうの興味ないみたいって言ったら、告白せずに諦めたみたいだから。なのにお前に言うわけにいかないだろう」
「あ……そう……」
噂について考えても仕方ないので、話題を変える。
「そういえば、今度の日曜日に映画観に行こうかって話に亮となってさ、お前も行かない?」
「……その日は用事があるんだ」
「じゃあ仕方ないな。亮と二人か」
誰かに見られたら、また噂になるだろうか。
そんなことは、どうでもいいけれど。
5
日曜日は、雲ひとつない青空だった。
「アクションシーンのCG凄かったよな。凄すぎてなんか笑っちゃったけど」
「でも圧倒的だったね」
映画館から出て、人通りの多い交差点を歩く。亮は肌触りが良さそうなクリーム色のシャツに、黒のジーンズ。俺はポップなイラストが胸に入った黒色のTシャツに、カーキ色のカーゴパンツ。パンツと同色のキャップをかぶっている。
ひとしきり映画の話題で盛り上がったが、食事は映画の前にファーストフードで済ませたし、どこへ行こうか、ということになった。
亮が、ふと思いついたという感じで言った。
「俺の家に来てみる?」
同級生たちが話していた豪邸に、少し興味が沸いた。
「あ、じゃあさ、途中に雅史の家あるから寄っていこう。あいつの家、和菓子屋なんだ。庶民的な」
「庶民的って?」
亮が愉快そうな目で俺を見る。
「繊細な和生とかじゃなくて、どら焼きが一番人気なワケ」
「なるほど」
「お前の家でどら焼き食おう」
「賛成」
電車に乗って雅史の和菓子屋に近い駅で降りる。昔ながらの商店街で、惣菜屋や雑貨店が軒を連ねていた。
二人でぶらぶらと歩いているうちに和菓子屋に着いた。三階建ての建物の一階に店鋪があり、その横にある扉から二、三階の住居へと入るようになっている。
店鋪の扉の上にかかっている白地の看板には、桃色の文字で「さくらの」と入っている。
格子戸に似せた黒い縁取りの自動扉が両側に開いた。
「あら、和希くん、いらっしゃい」
少しふくよかで愛想の良い、雅史の母親が出てきた。寡黙な父親は店の奥で菓子を作っているのだろう。
「こんにちは。どら焼き二個ちょうだい」
「はいよ」
ガラスのショーケースの中には団子と大福が並んでいるが、ドラ焼きはケース上に置かれた籠の中にあり、雅史の母がそこから手早く掴んで紙袋に入れた。
「はい」
俺は五百円玉を出し、ドラ焼きが入った紙袋と釣り銭を受け取った。
「ありがとうね」
「雅史は出かけてる?」
「今日は英語の日だったんじゃないかしら」
「……英語の日?」
「あら、和希くんに話してなかったの。最近、英会話の勉強してるのよ。受験用の学校じゃなくて、個人で先生に教わってるみたい。海外の仕事に興味あるんだって」
全てが初めて聞く話だった。
知らなかった。
何と答えていいのか思いつかず、立ち尽くしてしまう。隣にいた亮がおばさんに声を掛けた。
「では、また雅史くんがいるときに遊びに来ます」
目を見開いている俺の手から紙袋を取る。奪うようにではなく、預かるように。まだ動き出さない俺の手首を軽く握って引いた。
雅史の母親に会釈をして、店を出た。
日が暮れかけて、二人の影は長く伸びている。
握っていた手を亮が離すと、俺の足は止まってしまった。
どんなに親しい友達だって、進む道は違うのだからいつかは離れていく。海外に行かなくても、違う大学へ進めば四六時中一緒にいるというわけにはいかないだろう。だから、そんなことがショックなわけじゃない。
そうじゃなくて。
「あ、どら焼き」
忘れかけていた。
「ちゃんと持ってるよ」
亮が紙袋を掲げた。
「そう……」
「ここから十分もかからないから」
亮の自宅はそう遠くないようだ。
豪邸見学を楽しむような気分はすっかり消えていたが、かといって、家に帰る気にもならない。母親は仕事で帰宅が遅いので、一人で夕食の支度をしなくてはいけない。
作っても、食べるのは一人。
いつものこと。
亮は何も言わず、ゆっくりと歩きだした。
何も言われないのが、ありがたかった。今は笑顔を作るのが難しい。だからこの沈黙は、それだけで救いだ。
一緒に歩いているうちに少しずつ落ち着いてきた。亮といると心が凪いでいく。
落ち着くと、何がショックだったのかわかってきた。
「……俺がいないとダメだなんて、そんなふうに思ったことはなかったけど、雅史が一人で遠くへ行くつもりだったなんて」
「寂しい?」
亮がやさしい口調で言った。
素直に頷きそうになって、堪えた。
ぎゅっと唇を噛む。
「大丈夫。全然知らなかったから驚いただけ。どうせ違う大学行くことになったら会う時間も減るだろうし、離れても友達は友達だからな」
笑顔で頷いた。
言葉に嘘はない。だから、笑顔だって嘘じゃない。
「寂しいときは寂しいって、たまには口に出していいんじゃないかな。進路が離れていくことじゃなく、二人の間に秘密があったことが悲しかった。何でも一番に言って欲しかった。そうじゃなかったのが寂しかった。そうだろう?」
そうだ、本当は、雅史の存在を頼りにしていたのは自分の方だ。必要とされることで安心していた。ずっと一緒だと。
だけど、俺は自分が進む道の先が見えてないのに、雅史は狙いを定めて遠くへ進もうとしている。
置いていかれるような寂しさ。
雅史を動かした何ものかが自分ではないということに対する、嫉妬にも似た気持ち。
とても子供じみてる。
とても。
「お前も雅史も、先のこといろいろ考え始めてるのに、俺はまだ全然どこ進んでいいかわかんない。全然大人じゃない。こんなことで立ち止まってる、こんな――」
歩いていた足が止まる。
「和希は大人だよ、俺よりもずっとね。前向きで、周りの人間に力を与えてくれる。だから自信持って今までどおり前に進めばいいし、そのために、たまに思ったままを口にしてみるといい」
「思ったまま?」
「寂しい?」
亮はもう一度そう言った。
父と姉が手の届かないところへ行ってしまったときのことを思い出す。娘に期待をかけて全国のピアノコンテストに付き添っていた母は喪失で心を病み掛けた。だから俺は、いつまでも嘆いているわけにはいかなかった。ちゃんと元気でいなければ。母に心配かけさせないように。俺のことなど考えず、ゆっくり心を癒して、生きていてほしかった。
母は結婚前に辞めていた仕事に復帰するくらいには落ち着いた。だから俺が弱音を吐かずに前向きでいたことは、正しかったんだ。
間違ってなどいない。
無理をしてるわけじゃない。
それでも。
父と姉に会いたいし、母にはもっと自分を見てもらいたい。
寂しいと思う気持ちにも、嘘はない。
喉まで出かかった言葉と向き合う。
まだ大人になりきれない感情をいっぱい抱えているのに、一方でこんなふうに、押し殺すことをいつのまにか覚えてきた。
「……寂しい」
口に出してしまうと、その分だけ身体が軽くなったような気がした。
不思議だ。
今まで誰にも言えなかった言葉。
まだ会って間もない男に引き出された。
俺は隣を見て微笑んだ。
亮はやさしい音を奏でる細くて長い指で、俺の髪を掻き回すように頭を撫でて、笑った。
俺は紙袋に手を伸ばし、どら焼きを掴んで亮に渡す。もう一つの方を手にしてかぶりついた。
「甘い」
真似るように亮もどら焼きを頬張る。
「うん、甘くて美味しい」
食べ慣れたどら焼きなのに、いつも以上に甘く感じた。
