土曜日のサンドリヨン

 四月は灰色だ。
 空は薄ぼんやりとした灰色で、満開に咲いた桜も赤い電車も、全部くすんで見えた。暗澹たる気分で乗った車両は混んでいた。
「土曜日なのに」
 口の中で呟いて、灰村零は悲しくなった。今日は四月最初の土曜日で、きっと会社員は研修があるのだろう。奥ではしゃぎ声を上げているのは学生で、入学式が行われるのかもしれない。さっき制服を着ている人を見たから、高校の入学式も今日のようだ。
 みんな目的を持ってこの電車に乗っている。真新しいスーツや制服のきらきらとした気配と、朗らかさと緊張感の充満する土曜の朝の車両は人でぎゅうぎゅうでちょっと汗ばむ。それは設定温度の高いエアコンのせいかもしれないし、この中で明確な未来を持たないのは灰村だけだ、という被害妄想からかもしれない。
 灰村は今年、大学生になれなかった。
「うぐぅ」
 変更の効かない事実に、灰村はマスクの下で苦虫を嚙み潰したような声を上げた。三月に見たホームページでは、真白な背景に黒文字の数字が並んでいた。その百近くある数字の中に、灰村の番号はなかった。大学受験は失敗したのだ。なんだか自分を否定された気がした。あのノートの山も折り癖のついた問題集も無意味なのだと、強く指摘されたようだ。
 それでも卒業式には出席した。馴染みの薄いクラスメイトが、代表で卒業証書を受けとっていた。式のあとの教室では、仲のよい者同士で写真を撮っている人もいた。黒板には明るい未来を連想させられる言葉で埋まっていた。担任も嬉しそうだった。
「おめでとう」
 周囲から聞こえてくる言葉は、灰村を素通りしていった。グループを作って笑いあっているクラスメイトも、今までよりも距離の近くなっているような担任も、全部遠くにあるような気がした。
「おれはエキストラだから」
 なんとなく自覚はあった。今まで灰村が主役になる瞬間はなかった。与えられた席はいつも背景だったり、通行人Aだったり、つまり誰でもいい。代わりはいる。灰村は誰かを見栄えよくするための、賑やかしだ。
「また連絡するし」
 それでも数少ない友人は、卒業式の終わりにそう言ってくれた。あれから三週間以上が経つけれど、メッセージの着信はない。今月から大学生になる彼は家族と旅行に行っていた。そのことを、予備校に手続きをしに行った帰りに見たSNSで知った。
「っぅ」
 薄っすらと胃が痛くなる。世界できっと、灰村だけがいらない人間だ。研修も受けないし、入学式にも出席しない。電車の混雑さを表現するためだけのエキストラだ。主役として輝くのは、灰村以外の誰かだ。
 電車が急カーブを曲がった。ぎゅうぎゅう詰めの車内は遠心力で外に引っ張られる。灰村のからだも重心がずれてバランスを崩した。さらに隣の人の体重がかかる。前からも後ろからも、左右からも押されて苦しい。「助けて」なんて言葉がのど元までせり上がってきたけれど、口からは出て行かない。エキストラにはセリフがないから。
 それにしても目元が隠れるくらいまで長く伸ばした前髪と、その奥の太いフレームの眼鏡のせいで視界が悪い。前髪と眼鏡越しに恐々と窺う狭い視野の向こうから、誰かのリュックが迫ってきて、また押し潰された。顔を隠すためのマスクの下で灰村は「うぅっ」と呻いた。
 エキストラだから誰でもよくて、きっと灰村である必要もないからどうなっても関係ないのかもしれない。そう思うと灰村の額にいやな汗が浮いた。気持ちが悪い。
 吐きそうだ、そう思ったときには目の前が真暗になった。膝のちからが抜ける。
 きっとこのまま狭い床に倒れて、周囲の人から厄介な目で見られるのだろう。通行人Aのくせに目立ってしまってごめんなさい、なんて言葉が頭の中でぐるぐると回る。そして灰村は重力の方向を見失ったまま、落ちる覚悟を決めた。
 それなのにその瞬間はいつまで経っても来なかった。かたい床に倒れる感触も、他人の靴に踏まれる痛みもない。代わりに灰村の背に温かな体温が触れて、腕をちから強く支えられていた。鼻を強く刺激するようなものではないけれど、ふわりと人工的ないいにおいもする。
「大丈夫ですか?」
 背後から灰村を案ずる声がかけられた。男性だけれど明るくて、人好きのする声色だった。一度は遠のいていった世界に色が着いた。
「次の駅で降りましょう?」
 顔が真青だから。そう彼は言って、灰村は彼の言葉に頷いた。
「はい……」
 灰村よりも少し背の低い彼は、でも灰村よりも年上のように感じた。すっと通った鼻すじとすっきりとした輪郭は洗練されている。明るい髪色と意思のある目が印象的だった。
 まもなく電車は徐行をはじめて、到着のアナウンスを流す。この駅で下車する人の波に押されるようにして、灰村はまだ自分を支えてくれている彼に引っ張られて電車を降りた。左右をぎゅうと押してきていた人がいなくなると、途端にからだのバランスを崩す。
「うわ」
 プラットホームでたたらを踏んで、灰村が声を上げた。
「大丈夫?」
 それを見た隣の彼は気遣うように、また灰村に手を伸ばしてくる。結局何度も「大丈夫?」と気遣われながら、ホームの中ほどにあるベンチまで連れて行ってくれた。そこに灰村を座らせると、彼は小走りに自販機に向かった。何かのボタンを押して、交通系ICカードで精算したらしい。ピ、という明るい音が聞こえた。
「はい」
 灰村の元に戻ってきた彼は、手にしていた水のペットボトルを渡してきた。見ず知らずの人にそこまでされて、灰村はぽかん、としてしまう。初対面の人にこんなに優しくされたことが、今までなかった。
 何度も瞬きをして、目の前の彼を観察してしまう。灰村よりも年上だけれど、若い。二十代前半くらいだろうか。明るい髪色と雑誌に載りそうな容姿をしていて、鮮やかな色のトレンチコートを着ている。きっといわゆる会社員じゃない。よく見るとコートの下に着ているものもスーツじゃない。肩には大きなかばんを提げている。
「飲めないかな? 気持ち悪い?」
 目を丸くして彼を観察していた灰村は、慌てて頭を下げた。彼と視線を合わせないようにする。
「いえ、大丈夫です」
 首を横に振りながらペットボトルを受けとる。キャップを開ける手が滑った。雑誌から抜け出したような彼は一体何なのだろう。灰村に優しくしたって、何も物語は生まれない。まだ上手く曲がらない指でキャップを捻った。かち、と安っぽい音がした。
 顔を下げていても、目の前の男からの視線を感じる。悪意はなさそうだけれど、主役に絡まれてしまったエキストラは緊張してしまう。まだ震えの残る手ではちから加減が上手くできない。思いの外ペットボトルを強く握ってしまい、少し水が零れて上着が濡れた。
「う、あ」
 もごもごと悲鳴を上げた。いつだって物事ごとはスムーズに進まない。それでも灰村は不器用にマスクを下げた。それだけで息苦しさが軽くなる。はぁ、と息を吐いて肩のちからを抜いて気持ちを落ち着けようとしたけれど、次に息を吸うと慣れないにおいが仄かに混ざった。香水だろうか、どきっとした。
 交わらないはずの世界の人と接点を持ってしまった。
 透明なペットボトルに口を着けて、今の状況ごと飲み込むようにして水を流し込む。自販機から出てきたばかりの水は冷たくて、すっと灰村のからだの中に入って、広がった。胃からせり上がってきそうだった生温かい何かは、その冷たさでまた胃の奥に落ちていった。
「美味しい」
 するりと口から言葉が出ていく。駅の雑踏に紛れてしまうような小さな声だったと思うけれど、目の前の彼は耳ざとくそれを聞きつけたようだ。
「よかった」
 柔らかな声が頭上からした。それに誘われるように顔を上げると、目尻を細めた笑顔があった。きれいな人なのに親しみやすそうで、灰村の額のいやな汗も引いていく。続けて数口、水を飲んだ。
 そして人心地着いた頃、お礼をしていないことにようやく気づいた。水代を返すのは当たり前だ。ペットボトルにキャップをするのも忘れて、隣のベンチに置いたかばんに手を突っ込む。
「あ、あの。お礼を」
ごそごそと財布を探る。こういうときに限ってすぐには見つからない。
「落ち着いて」
 柔らかく微笑んでいる彼の言葉に、灰村は手の動きを止めた。ゆっくり深呼吸もする。ようやく何がどうなっているのか、理解が追いついてきた。灰村はこの男に助けられた。でもドラマの主役のような彼は、きっと目的を持って電車に乗っていたんじゃないか。外見はいわゆる会社員には見えなかったが、もしかしたらこれから仕事があるのかもしれない。そうでなくても何か、あの満員電車に乗らなければいけない理由はあったはずだ。そして灰村はその邪魔をした。
 きゅっとまた胃が縮まりそうだった。
「ちょっと待っててね」
 何か言わなければ、と思いながらも背中から冷たくなっていく灰村に、彼はそう言った。そして数歩離れたところでスマホをとり出している。どこかに電話をかけているようだ。会話の流れはわからないけれど、「行けなくなった」という趣旨が聞こえてしまった。灰村はペットボトルを両手で握ったまま、申し訳なさで消えてしまいたくなる。
 どうしようか。お礼と謝罪で許されるだろうか。恐る恐る彼の方を見ていると、彼はきれいな顔を傾げた。
「どうしたの?」
 彼が何でもないというような足どりで戻ってくる。春めいた装いは、モノトーンの灰村を威圧する。小さくなっている灰村の前にしゃがんで、前髪の向こうから灰村の顔を覗き込んでくる。何を責められるのだろうか。
「あの、ありがとうございました。お水代、返します」
 からだを強張らせながら、蚊の鳴くような声で感謝を伝える。そんな灰村の頭に、温かな手のひらが触れた。彼が灰村の髪を軽くいじっているようだ。
「ふふ。お気になさらず」
 軽やかな声で言うと、彼の手は灰村の頭から離れていった。何だったのだろう。首を捻っていると、また彼がきいてきた。
「まだ気持ち悪いかな?」
 もごもごと、いや、そういうわけでは、と応じると、さらに彼は「じゃあ何か不安なことでも?」と重ねてきいてくる。
 不安は山ほどある。例えばこの恩人の予定について。反故にしてしまったのではないか、それを彼は不満に思っていないか。そもそも彼の親切を、素直に受けとっていいのかすらわからない。
「あの、本当にありがとうございます」
 今度はペットボトルのキャップを閉めて、きちんと頭を下げた。
「いえいえ」
 彼はさっぱりとしている。本当に何でもないことのように、笑って受け流している。
「君、名前は?」
 ききながら、また彼の手が灰村に伸びてきた。ふわりと香る人工的なにおいのする手で、今度はざっくりと灰村の前髪を掻き上げてくる。
「うぐぅ」
急に視界がすっきりとして、灰村の口から惨めな悲鳴が漏れた。
「は、灰村零、です」
 なんとか名乗った声は震えていた。目の前の恩人はきっといい人だろう。そう思いたい。でも彼の真意がわからない。ちらちらと太い眼鏡のフレーム越しに観察していたら、にこりと笑う彼と目が合った。口角から歯がちらりと見える。
「そう、灰村くん。僕は城坂かいりです。美容師をしています。
 ところで、灰村くんはメイクに興味ある?」
 こんな顔の人をきらいになる人はいないだろうな、というきれいな笑顔で城坂は言った。
 は? メイク? なぜ?
 一方で灰村は目を白黒とさせている。突然のことだった。急にメイクと言われても頭が追いつかない。メイクとは、化粧のことだろうか。灰村の化粧の知識といえば、化粧水と乳液くらいだ。そういえば卒業式にクラスメイトが「化粧した」と言っていた気もする。そのときのクラスメイトの顔を思い出せない。
「め、いく?」
 壊れたおもちゃのように灰村はぎこちなく首を傾ける。それを城坂は笑った。いやな笑い方ではない。
「そう。メイク。ちょっとやってみようよ」
 柔らかくて明るい声なのに、半ば強引に城坂は灰村の手首を掴んだ。そのまま階段を上って隣のプラットホームに移動する。その間も「このあと予定はある?」「時間は大丈夫?」と矢継ぎ早にきかれた。やっていることは強引なのに、声色には灰村を気遣う素振りがあって、「予定はありません」「時間は大丈夫です」と籠りがちな声で答えていく。
 今日は予備校に教材をとりにいく予定だった。でもそれは今日の夕方までならいつでもいいはずだ。それなのにあんな混雑する電車に乗ったのは、満たされている人の空気に触れていたかったからだ。
 手を引かれて、来たときとは反対方向の電車に乗った。二駅で降りた。電車に乗っている間、城坂は灰村を気にかけてくれていた。何度か「大丈夫?」ときかれた。美容師だという城坂の仕事の話も少ししていた。それらを灰村は上の空で聞き流していた。現実味がなかった。
「はい、到着」
 城坂の言葉と共にたった数分乗った電車を降りると、そこは灰村の知らない駅だった。小さな駅だ。でも改札を出てすぐのところに、全国チェーンのカフェがあった。踏切の向こうにはコンビニもあった。急な下り坂には道なりに店が並び、その先には商店街のアーケードも見える。そこを連れだって歩くこと十分、一本の路地に入った。小さな川沿いの桜並木のある道に、マンションがひと棟建っていた。
 まさかここに入るのか、などと灰村が戦々恐々としている横で城坂は勝手知ったる、という様子でエントランスを進む。そのまま待機しているエレベーターに乗った。指は迷うことなく三階のボタンを押している。
「え? え?」
 パ、と点灯したボタンを見て、灰村は慌てた。恩人とはいえはじめて会った人に、見た目は普通でも知らないマンションに連れ込まれるのは怖い。けれど城坂の方は、灰村がそんなことを考えているとは思ってもいないらしい。「本当は階段の方が早いんだけれどね」などという話をのんびりとしている。
 チン、という聞き馴染みのある音が鳴って、エレベーターの扉が開く。
「こっち」
 半歩先を歩き、城坂は灰村を先導する。そのまま廊下をいちばん奥まで進んでいった。そこにはいたって普通の玄関扉があって、城坂はその鍵を開ける。
「どうぞ」
 城坂に促されて、灰村はどきどきとしながら玄関を覗いた。三和土はそんなに広くない。けれど片づいていて、仄かに城坂の香水と同じにおいがした。
「え? は?」
 ここはどこで、城坂がどんな目的があってここに灰村を招くのか。一体これから何が起こるのか。全く理解できず動けないでいる灰村に、ようやく城坂も気づいたようだ。ああ、と声を漏らした。
「ここは僕の部屋です。ようこそ、灰村くん」

***

 灰村零にとって四月はいつも灰色だった。
 毎年のクラス替えで、友人はいつも他のクラスに行ってしまった。クラスの輪に馴染めず、空気になるまでのひと月はいつも怖かった。灰村にとって、世界は直視するには眩し過ぎた。伸ばした前髪も太いフレームの眼鏡も、顔を隠す大きなマスクも、全部灰村にとって、自分を守る道具だった。
 それなのに今、前髪は大きなクリップで額の上にまとめられてしまった。眼鏡は外されて、マスクもない。灰村の表情は向かい側にいる城坂に丸見えだ。それは灰村の怯えや戸惑いといった感情が城坂に筒抜けである、という意味でもある。
 これから起こる未知の事柄に怖がる灰村へ、城坂の手が伸びる。反射的に後ろへ下がろうとするけれど、背中をソファの背もたれに押しつけるだけで、多少背すじがよくなる程度の変化しかない。温かな指先が灰村の頬に触れる。短く切りそろえられた爪と、肌荒れを起こしているのかかさつく肌で、何かのクリームを塗られた。慣れないべたつく感覚に、顔は強ばるし、また唇をきゅっと噛んでしまう。
「大丈夫だって」
 これで何度目かの灰村の反応に、城坂は楽しそうに答えている。そんな城坂が灰村には理解できなかった。駅のホームで城坂は灰村にメイクをすると言った。けれど灰村は地味な顔立ちの、つまらない人間だ。そんな人にメイクをしたい心理がわからない。
 全く大丈夫ではなく困惑しているという状況をどう伝えればいいのか、頭の中で右往左往している灰村の前で、城坂は慣れた手つきで次の動作に移ろうとしていた。
「次は目を瞑っていてね」
 は? と灰村は城坂を見た。その目がなぜ、と訴える。城坂の手には小さなケースがあったが、それが何か、灰村にはわからない。そちらをちらちらと見ていたことが、城坂に伝わったらしい。
「ああ、これはアイシャドウ」
 城坂は、はい、と手のひらに収まるくらいの小さなケースの中身を見せてくれた。中には肌の色に近いベージュから、茶色に近いものまで数色の四角が並んでいた。それを肌に塗るのだろうか。アイシャドウという名前と城坂の指示からすると、目の周囲に塗るものだろうか。
「灰村くん?」
 思案している間に城坂に促されて、灰村は渋々目蓋を閉じた。初対面の人間の前で目を瞑るのは怖い。しっかりと見えることも怖いが、見えないことも恐ろしい。
 それに会ったばかりの人に顔、特に目元に触れられることには抵抗があった。からだをかたくして城坂の指先が触れる瞬間を待っていたけれど、目蓋に当たったのは予想外に柔らかな毛の感触だった。
 え? と驚いて灰村の目蓋が震えた。とっさに目を開けようとして、すかさず城坂に「灰村くん」と呼ばれてしまった。また目蓋を閉じる。
 城坂の手は滑らかに止まることなく動いていく。柔らかなブラシで、目蓋にあの茶色い色が塗られたのだろう。小さな鋏と細いペンのようなものも使って眉も整えられた。極めつけは唇にもぬる、とした何かも塗られた。その間灰村は何がなんだかわからないまま、動けない。
「あ、あの」
 それでもなけなしの勇気を集めて、灰村は声を上げてみた。
「なぁに?」
 リラックスした城坂の返事が返ってくる。灰村にこんなことをして、何になるのかわからない。もしかしてどこかで録画されていて、SNSにでも上げられるのだろうか、なんてうすら怖いことまで想像してしまった。それはいやだ。
「これは、どういう?」
 大きく表情を動かすことは躊躇われて、灰村は最低限に唇を動かして質問してみる。その間も城坂は手を止めることなく、横目で灰村を見てくる。雑誌で見るようなきれいな顔だと思った。肌は大きな窓から差し込む日差しを受けて明るく、大きな目もくっきりとしている。少し上向きの鼻先と人好きのする唇には、親しみやすさがあった。そして距離が近い分、あの香水のにおいがはっきりとわかる。
「どう、って言われると、『メイクをしています』かなぁ。あとで使ったものを教えてあげる」
 かみ合わない会話に「はぁ」と返事を返すしかない。使ったメイク道具を教えてもらっても、灰村はどうしていいのかわからない。それとも主役を張れるような人にはわかるのだろうか。
 まざまざと、城坂とは住む世界が違うのだと見せつけられているような気がした。灰村はそんな城坂とふたり、同じ空気を吸っている事実に泣きたくなる。
 その間も前髪はコームで梳かれて、鬱陶しい後ろ髪と一緒に後ろにまとめられた。コームが数度行き来するだけで手早く髪をまとめられる技術はすごいが、額に空気と日の光が触れて、落ち着かない。
「うう」
 思わず小さな悲鳴が漏れてしまう。それに灰村の視界を四角く区切っていた眼鏡もない。表情を隠していたマスクもない。世界とクッションなしで接触するのは怖かった。もう消えてしまいたいとさえ、思う。それなのに城坂は「うん」と満足げに頷いている。
「灰村くん、お疲れさま」
 地獄のような時間は終わったのだろうか。城坂の言葉に、灰村の肩のちからが少し抜ける。その横で、城坂は近くのカラーボックスから大きめの手鏡をとり出してきた。ノートくらいのサイズはあるやつだ。女子の持っていたものに近い。
「はい」
 その鏡を差し出される。その鏡面にちょっとだけ映ったものは普段見慣れているものではなくて、思わず受けとってしまう。それから恐々と灰村はそこに映っているものを目の当たりにした。
 鏡の中には広い額をむき出しにした、幼さの残る輪郭の男性がいた。肌の色はいつもの灰村に近いけれど、少し明るい気もする。目もくっきりとしている印象だ。よく見ると眉がしっかりとしている。唇もいつもより血色がある。灰村にとてもよく似た、けれど灰村とは違う世界の人間がいた。
「え?」
 それなのに灰村が口を動かすと、鏡の中の人間も同じように動く。ぼさぼさの前髪も、表情を読ませない眼鏡もマスクもない。大きくとった南向きの窓からの春の日差しを受けて、きらきらとしている鏡の中の灰村は戸惑った表情をしていた。目は今にも泣きそうだ。
「何、これ?」
 鏡に映る自分の顔と城坂の顔を何度も見比べてみる。鏡の中の誰かは、灰村とは決定的に違った。これはエキストラになる顔じゃなかった。こんな顔を、灰村は知らない。
「ん?」
 城坂が灰村の顔を覗き込む。城坂の顔は、間違ったことはしていないという確信に満ちていた。何度か瞬きをした城坂は灰村の動揺を読んだのか、柔らかな声で答えてくれた。
「これがメイクだよ」
 口角が上がって、小さく並ぶ歯が僅かに見えた。そんな隅々まできらきらとして見えて、これが夢じゃなければなんて質の悪いお話なんだろう、と目の前が真暗になっていく。