桜の散らない街で 僕は君の夢を見る



「お兄ちゃん、彼女できた?」
 夕食のテーブルで、盛り盛りのミートソースを皿によそいながら。麦が好奇心満載の質問を俺に向けた?
「……はい?」
「それか、好きな人できた?」
 麦の隣でコップにお茶を注ぐ母親が、「そうなの?」と目を丸くする。手元が狂って少し零れている。
「なんでだよ」
 誤魔化すように、すぐにパスタを口に入れてもぐもぐと咀嚼する。
「なんでじゃなくて。できたんでしょ。知ってるんだから」
「……はい?」
 フォークを握りしめたまま、妹の追及は続く。母親は、てきぱきと食卓と冷蔵庫の前を行ったり来たりしながら、聞き耳を立てている。
 俺は口の中に多めに放り込んだミートソースをごくりと呑み込んで、正面で目を血走らせている麦をじっと睨んだ。
「お前……勝手に俺の部屋に入ったな?」
「そんなことより! 怪しすぎるでしょ。今まで絵なんて小学校の学校の課題で無理やり書かされた似ても似つかないどこのどちら様ってレベルのお父さんの似顔絵しかみたことなかったのに。なにあの細かすぎるタッチ。気合入りすぎて執念すら感じるんだけど」
「やっぱり入ったんじゃねえか!」
「ちょっとゲーム借りに行ったら、たまたま目に入っただけ!」
「言い訳すんな!」
「まあまあ。ヒロトだって、そういう時期なんだから。あんまり揶揄っちゃだめよ」
 こいつ、絶対母さんにも見せたな。机の上に置きっぱなしにしたことを心の底から後悔した。
「とにかく……そんなもん、できてない。これ以上詮索するな」
「そんなもん、ねえ……」
 パスタを口にばくばくと入れながら、妹はまだ訝し気に俺のことを見ている。
 そう言われてみれば、確かに変なのは俺の方かもしれない。
 女子とか……クラスメートとか。部活の仲間って意識はあったけど。ここまで会いたいって悶々としたり。ましてや朝まで顔を思い出して絵を描いたりだなんて。その行動の理由に、自分でも説明がつかない。
 好きな人……か。
 この感情の理由を知るためには、もう一度彼女に近づくしかない。
 今でも、はっきりと脳裏に映っている。あの表情。鼓膜に焼き付いている、あの声。
 熱々のミートソースから立ち上る湯気と、酸味のある匂いを前に。俺はぼんやりとまた彼女のことを考えていた。

 その夜。
 気が付いたら俺は、教室にいて。終業のホームルームのチャイムを聞いていた。
 しかし、ここには俺と――窓際の席にいる森内咲良しかいない。
 彼女は窓の外を、じっと見つめていた。
「もう放課後か」
 彼女の席に近づき、外を見る。
 目下のグラウンド、隣接する道路や、その先の様子を見る限り、人の気配は感じない。
 この状況が、何を意味するのか。いや、彼女が何を意図しているのか。
 さっぱり想像もつかないまま。ぼんやりとグラウンドを見ていると、俺は気が付いた。
「おい、誰が……」
 いつの間にか彼女の視線の先には――倉庫の前に、ハードルが並べられている。
「私、ここで見たんです」
「え? 何を?」
 きょとんとしていると、森内は俺の顔をちらりと横目で見る。
「……ここから、俺のことを?」
「はい」
「いつの話だ」
「私が見たのは、一週間くらい前でした」
 俺は遠い眼をして、誰もいないハードルのスタート地点に目を凝らした。
「……あそこで、俺は何をしていたんだ?」
 森内は寂し気に表情を曇らせて、落ち着いた声で答えた。
「分からないけど……あそこに座って、ハードルを見つめてました」
 ああ。たぶん、ずっとだなって、思った。
 あの日、ハードルと激突して、トラックから離れて以来。俺はずっとあそこから動けていない。
 彼女が見た通り――座り込んで、ハードルを見つめたまま。

 誰もいない校舎は、耳鳴りがする程静かだ。
 そして、何かを失ったわけでもないのに、空虚で、寂しさがあった。そんな世界を、ふたりで歩く。階段を下って、校舎の外に出る。そのまま土のグラウンドを横切って、ハードルが並ぶ倉庫の前までやって来た。
「……どう思う?」
 森内と並んで、スタートラインに立つ。最初のハードルまでの、十三・七二メートル。そこから九・一四メートル間隔で、計十台のハードルが並べられている。
「あれを、ジャンプして超えるんですよね」
「そうだ」
「……凄い。あんなに高いのに」
「怪我して以来、一度も跳んでないけどな」
 森内は俺の顔色を伺うように、ちらりと視線を向けた。
「……そんなに酷い怪我だったんですか?」
 俺は制服を膝までたくし上げて、いくつも入ったメスの跡を彼女に見せた。
「バランス崩してハードルに突っ込んでな。足が複雑に砕けて折れて、ここから骨が飛び出してたんだ」
 彼女は口を手で覆ったまま固まってしまった。
「……運が悪かったんですね」
「いや、そういうわけでもないかなあ」
 俺はあの日、焦っていた。治りきらない怪我を抱えたまま、目先の大会に間に合わせようと無理な調整をして……。
 その結果が――あの大怪我に繋がった。決しても事故でも不運でもなく、自分が招いたことだと思っている。
「……もう、怪我は?」
 恐る恐る、俺の膝を見つめてくる。俺はたくし上げていた制服を元に戻して、軽く膝を回した。
「治っているらしいよ。医者が言うには――な」
「じゃあ、もう跳ばなくなった理由って。怪我じゃない……ってことですか」
 その言葉に、はっとして彼女の顔を見る。真っすぐで、曇りのない眼だった。
「……そうかもしれないな」
 力なく笑う俺の顔を見て、彼女は切なそうに口を噤んだ。
「もう元には戻れないって、何となくわかるんだ」
 そう口にして、涙が出そうになった。
 あれだけ期待してくれていた人たちのことを――俺は裏切ってしまった。
 そして何より、一番がっかりしていたのは、自分に対してだ。
 いつだってベストを尽くしてきた。後悔しないように。やり残しがないように。日々のトレーニングから、食事から。それは、一朝一夕で取り戻せるものではない。
 拳をぎゅっと握りしめながら、一直線に並んだハードルを見つめる。
 限界まで自分を追い込んでいた自負がある。だからこそ、再び一から努力を重ねて……そこに辿り着ける自信がない。
 かつての俺の姿を期待してくれている人に――みじめな姿を晒したくない。
 
「もう一度」
 乾いた風が吹き抜ける中――彼女が、ぽつりと言葉を切り出した。
「……このスタートラインに立つために。かつての自分に――元の自分に戻らなくちゃいけないんでしょうか」
 俺は、光幸がラインで送ってくれた、後輩たちの姿を頭に思い浮かべた。
「それはそうだろ。後輩たちが……俺が戻ってくるのを待ってるって。光幸が言ってたんだ」
「だったら――」
「でもな」
 何かを言いかけた彼女が、当惑した表情を浮かべている。俺は構わずに、感情的に彼女の言葉を塗り潰した。
「憧れだの、カリスマだの、ヒーローだの……みんなが求めている俺は、そのハードルの前で砕け散って消えたんだ。例え復帰したとしても。かつての姿に戻れなければ、またみんなをがっかりさせることになる。それならもう――」
「……はじめからスタートラインに立たなければいい。何もしなければいい。そう思ってるんですか」
 今度は、彼女が言葉を重ねた。はっとして顔を上げると、彼女は真剣な眼で俺を正視していた。
「その方が楽かもしれません。傷つかないかもしれません。でも、そんな自分が――好きですか?」
「それは……」
 いつもどこか遠慮がちだった様子からは信じられないほど、その口調には力強さがあった。
 それでも黙り込んでいる俺に、彼女は拳をぎゅっと握り、懸命に声を振り絞った。
「今の自分と、ハードルに打ち込んでいた自分。どっちが好きですか?」
「それは……」
「私は嫌いです」
 彼女の横顔を見ると、ぼろぼろと涙が頬を伝っていた。
「昔の自分に戻りたい。そう思っているばかりで、何もできない自分が大っ嫌いです」
 ここまで自分の気持ちを、言葉として吐露している彼女の姿を見るのは初めてだった。
「でも……あなたは、例え元に戻れなくたって、こうしてまたスタートラインに立てるじゃないですか。その前に諦めたら、もう何も出来なくなった私と同じなんです。だから……」
「森内……」
 立ったまますすり泣く彼女に、俺は後悔の気持ちを素直に吐き出した。
「ごめん。言い過ぎた」
 俺が謝ると、彼女は首を横に振る。
「私が悪いんです。自分のことを押し付けちゃったみたいで。ごめんなさい」
 彼女の顔は、相変わらず重い前髪で隠れている。その上、更に俺から感情を隠すように、顔を手で覆って、顔を背けて……彼女は俯いたまま押し黙ってしまった。
 風が止んで、木々のせせらぎも聞こえなくなる。静止する時間の中で、俺と彼女の気持ちだけが、揺れ動いている。
「教えてくれないか」
 彼女の潤んだ瞳が、俺の顔を垣間見る。
「……君のことを」
 俺はバスの中で、彼女に素直になって欲しいと言った。それは、なにより俺自身が、彼女のことを分かってあげたい。知りたいという――欲求の裏返しだった。
「いや……本当の君のこと」
 俯いたまま。彼女のくぐもった声が、地面に零れ落ちる。
「本当の……私ですか」
「そうだ」
 すると彼女は顔を上げて、泣き腫らした目を俺に向けた。凄然とした表情だった。
「そんなのもう、いませんよ。私はここにしかいないんです」
「ここって……夢の中ってことか」
 彼女の瞳が、揺れている。思い惑って、くしゃっと顔を歪めて。ぽつりと唇を揺らした。
「私に靴を貸してくれた女の子……」
「本山さやかのことか」
 森内の足元に視線を落とす。そこには、少しサイズの小さなローファーが、彼女の足を包み込んでいた。
「……とても優しくて、責任感と行動力があって、いい子ですよね」
「……そうだな」
 俺が柔らかく相槌を打つと、彼女はいつか見たように、俺にぎこちない笑顔を向けた。
「大崎くんは、この世界より――私の事なんかより、大切な場所があると思います。だから、彼女みたいに……あなたのこと慕って、信じて待ってくれている人のことを、第一に考えて欲しいんです」
 違う――。
 俺は彼女の腕を掴んだ。
 驚いて、動揺して、俺の顔をまじまじと見つめる二つの瞳。
「ここにいるのはお前だけじゃない。ここは俺と、お前の世界だ。お互いが望んだんだから、この時間が――この世界があるんじゃないのか」
「でも……私は」
 首を横に振りながら、彼女が俺の手を払おうとする。
「だったら教えてくれよ。なんでここでしか会えないのか。現実世界に、お前がいない理由を」
「どうして……ですか。言っているじゃないですか。私なんかより――」
「好きだから」

 言葉は、あっけなく出てくる。時に無責任に、その場限りの感情に押されて。
 それを受け取った側がどうすればいいかなんて、考えもしないで。
 一方的で、自分本位な欲求を満たすための道具として。

 その日の夢は、それで終わった。
 いや、正確に言えば終わらされたのかもしれない。

 それっきり彼女は、俺の夢には現れなくなった。