桜の散らない街で 僕は君の夢を見る



「どうしたんだ、ぼーっとして」 
「へ?」
 教室に入り、ホームルームが始まるまで机に座っていると、光幸に肩を叩かれてはっとした。
「ぼーっとしてたか、俺」
「うん。魂抜けてたぞ」
 そんなつもりはなかったが、光幸から見たらそう見えたんだろう。
 この教室には――彼女はいない。すでに胸にぽっかりと穴が開いているような気分になっているのは確かだ。
「あれ、お前。今日は靴履き間違えなかったんだな」
「今日はって。いつの話だよそれ」
「あ、いや……何でもない」
 やっぱり記憶が錯乱する。もはや夢の記憶は、現実より現実なんじゃないかと思うくらいだ。
「何か悩みでもあるのか」
「いや、別に……」
「ならいいけど。俺で良ければ、いつでも相談しろよ」
「ああ……」
 間もなくホームルームが始まる。自分の机に戻っていく光幸を見つめながら、俺ははっとした。
 スマホを取り出して、ラインのトークルームを開く。
 光幸から送ってもらった画像。部活中の様子……部員たちひとりひとりの顔に目を凝らす。そして、視線が止まった。
 いた。この子だ。夢の中で……森内咲良に、ローファーを貸してくれた後輩の女の子。他の子たちが陽気にピースをしたり笑顔を向けるなか、カメラには興味がなさそうに黙々とストレッチをしている。
 担任の山下先生が教室に入ってきて、俺は慌ててスマホをポケットにしまった。
 どういうことだろう。俺はこの子に会ったことすらなかったのに、夢の中には出てきた。
 普通夢って、自分の記憶や体験したことを基に作り出しているイメージがある。夢の中で初めて出会った人間が、実は現実でそっくりそのまま実在していたなんて、ありえるだろうか。
 こうなると、ますますあの夢の存在が謎に満ちてくる。
 だとしたら――森内咲良も、俺が会ったことがないだけで、どこかに実在するのだろうか。
 そもそも彼女の存在は、俺が頭の中で作り出したにしては、あまりにもリアリティがありすぎる。俺がそう思いたいだけかもしれないが、そうじゃないと納得できないくらいに、彼女の存在は俺の中でだんだんと大きくなっていっている。
 もしそうだとしたら……この学校に?
そういえば以前山下先生に転校生について発言したとき、変な感じで濁されたような。
 ホームルーム終了後。俺は教室を出ていく先生を追いかけた。
「先生」
 振り返ると、山下先生は一瞬戸惑っているような反応を見せたが、すぐに微笑んでその表情を塗り潰した。
「このクラスに、転校生が来る予定ってあったりする?」
 先生はふうと息をついて、「またその話か」と笑った。
「ないよ。もしそんな話があったらすぐ伝えるから。それでいいか?」
「そうじゃなくて……」
 俺は再びその名前を出すことが躊躇われたが、どうしても知りたいという欲求をおさえることができなかった。
「森内咲良――。彼女ついて、何か知ってる?」
 先生は、明らかにばつが悪そうに眼を逸らした。そしてまた笑顔をつくって、準備していたであろう言葉を並べた。
「何とも言えないよ。どうしてその子について、そんなに知りたいんだ?」
「それは……」
 俺が口ごもっていると、先生は俺の肩をぽんと叩いて微笑んだ。
「……まあとにかく。ほら、次の授業の準備をしなくちゃな」

 絶対に何か知っている。
 知っているとも、知らないとも言えないなんて、おかしいだろう。
――でも、先生にも何か口に出来ないような事情があるのは間違いなさそうだ。
 授業が全く頭に入らないまま、疑念がずっと頭を渦巻く。俺は森内がいるべき窓際の席を見つめながら、“本当の彼女”がどこにいるのかについて、ひたすら考え続けていた。

「ヒロト。お前、みそ汁好きか?」
 帰りのホームルーム後。声を掛けてきたのは、光幸だった。
「……どちらかと言えば」
「じゃあ、試してみるか」
 光幸は何かをかき混ぜる仕草をしながら、邪悪に笑った。
「調合に成功したんだ。粉のスポーツドリンクと、インスタントのみそ汁の融合。みんなに飲んでもらったが、口を揃えてまずいと言っている。無類のみそ汁好きのお前の口になら、きっと合うと思ってる」
「そんなもの俺に飲ますな」
「なんで……」
 肩を落とす光幸を見ながら、俺は考えていた。
 こいつなら……大会で他校の生徒と仲良くなるぐらいコミュ力は抜群に高いし、とにかく顔は広い。もしかしたら、夢の中の彼女……森内咲良について、何か知っているのかもしれない。
「光幸、お前……」
 俺が切り出すと、光幸はとたんに目を輝かせた。
「お? 飲んでみる気になったか?」
「いや……何でもない」
 しかし、いくら親友といえども。いきなり夢の中で会った女の子を知っているか? なんて切り出すのは気が引ける。
 こいつが取り合ってくれる云々ではなく、俺の中ですらまだ整理がついていない。
 先生に関しても、更にしつこく聞けば、何かしらの情報が得られるかもしれないが……彼女のことを知りたいという欲求を満たすのに、周りの人間を巻き込む覚悟が出来ていない。
 夢は夢。現実は現実なんだと――冷静になろうとする自分がいるのも事実だ。
「どうした。何か困ったことでもあるのか?」
「いや、大丈夫だ」
 心配そうに俺を見つめる光幸を尻目に、俺はいつものように鞄を背負って、教室を出て階段を降りていった。

 晴天だった午前中から打って変わり、空は分厚い雲が覆い尽くし、小雨がアスファルトにドット模様を描き始める。俺は鞄を笠にし、バスを待っていた。
 結局――切り出せなかった。
 ため息をつきながら、遠い眼をして、誰もいないグランドを見つめる。
 やっぱり――俺って彼女に似ているな。
 人に迷惑をかけたくない。甘えたくない。失望させたり、がっかりさせたくない――。
 親にも先生にも、友達にも。俺はずっとそうやって生きてきたんだから。
「先輩」
 ぼんやりと考え事をしていると、突然後ろから声がして、驚いて振り返った。
「ええ?」 
 そこには……昨晩の夢の中でローファーを貸してくれた、あの子の姿があった。
「ええ? って何ですか」
「いや、何でもない。今日部活はどうした?」
「きのう銀歯が取れちゃって、歯医者に行くので休ませてもらいました。というか、私のこと知ってくれているんですか?」
「ああ。光幸が部活中の写真を俺に送ってくるからな。その中に君がいたから」
「光幸って、高橋先輩のことですか?」
「そうだよ」
「へえ。やっぱり仲いいんですね」
 夢の中の通り。彼女は背が低くて、俺の目をまっすぐに見つめて話してくる。その感じが慣れなくて、ちょっと照れてしまう。
「仲いいというかまあ……。あいつ、部活で俺の話けっこうするのか?」
「けっこうどころじゃないですよ。好きすぎですよ。先輩が中学の頃に全中の決勝行ったとか。一年生なのに県大会で二位になったとか。ハードリングは天性のものがあって誰も真似できないのに、めちゃくちゃ努力するとか。いつも褒めちぎってますよ」
 あいつ。思った以上に俺のことみんなに話してたんだな……。
「今はこんな感じで帰宅部だし。がっかりさせて申し訳ないけどな」
 そう謙遜すると、彼女は目の色を変えて俺に顔を近づけてきた。
「いつ復帰する予定なんですか。高橋先輩、いつも言ってますよ。あいつは絶対に帰ってくる。このままで終わるような弱い奴じゃないって」
「……そっか」
 それを聞いて、自分が情けなくなってしまった。
 俺はあいつが思っているほど強くはない。恐怖心に負けて、期待を背負う覚悟もなくなり、毎日目標も目的もなく生きている、弱くて意気地のない男だ。
「みんな待ってますよ」
「……みんなって?」
 すると、彼女はますます語気を強めて、俺に迫ってくる。
「当たり前じゃないですか。一年生の中には、大崎先輩に憧れてこの高校を選んだ人もいるんですよ。カリスマですよ。ヒーローですよ。だから、私たち信じてますからね。いつか先輩のハードリングがまた見られるって」
 そんな風に思われているなんて、全く知らなかった。俺もたいがい他人にはあんまり興味がないというか……とにかく速くなるという一心で、自分に厳しくしていただけだから。
「……期待してくれるのは構わないけど。保証はしないぞ」
「どういう意味ですか、それ」
 とたんに怪訝そうな顔になる。俺は構わず、彼女が聞きたくないであろう言葉を、雑に手渡した。
「もう終わったんだ。俺は復帰する気もないし、どうしようと俺の自由だし……そもそも、誰かの為に走っていたわけじゃないからな」
 バスが目の前にやって来て、俺は彼女のことを振り返ることなく、逃げるように乗り込んだ。
 窓際の席に座ると、さっきと同じ場所で、じっと俺のことを見つめている。
 ドアが閉まり、バスが発車する。すると、彼女がバスの近くにやってきて、何かを言っているのが聴こえてきた。
「先輩! 私、本山さやかっていいます。専門は二百メートルです! 私も中二の時に靭帯切って、復帰しています! だから先輩も、怪我に負けないでください!」
 バスの中がざわつき始めている。俺は彼女のことを見つめながら、何も答えることができず。ただ情けなく窓から視線を逸らし、バスの床を見つめた。