桜の散らない街で 僕は君の夢を見る



「森内」
 ホームルームが終り、俺はすぐに彼女の机に向かった。
 彼女は俺の顔をちらっと見て、すぐにまた顔を伏せてしまった。
「……今気が付いたのか?」
 返事がない。予想以上にショックを受けているようだ。
「もう今日はここから動きません」
「ぷっ。そういうわけにいかねえだろ」
 つい軽く吹き出してしまった俺の方を今度はむすっとした顔で見つめてくる。
「ごめんごめん。どうすっかな。スリッパ……は目立つから。陸部の部室に良さそうなのがあったら借りてくるか」
「……いいんですか」
「ああ。確か引退した先輩のランシューが結構あったはず」
 時間割を確認する。二限目までは移動教室はない。
「次の授業終りにダッシュで取ってくれば間に合う。それまで我慢しな」
「別に……スリッパでいいですよ」
「いいのがなかったらそうしな」
 彼女は申し訳なさそうに俺に会釈をする。
 少しの会話だが、気分が心地よくなる。俺はずっと彼女に会えるのを待っていた気がするし、こうして目の前にいることがとても嬉しく感じる。
 しかし、胸の中にはずっと違和感と不安が居座っている。目を背けたい気持ちもあるが……俺はスマホを取り出して、画像フォルダを確認した。
 ――ない。昨日帰りのバスで撮った、緑色の新芽に彩られた、桜の木の画像。
「ところで森内……いや、なんでもない」
 彼女はきょとんとしている。危うく口にしかけたが、これは夢なのか? なんて聞けるはずがない。
「桜は……まだ咲いていたか?」
 今日はなぜか、目が覚めたら既に教室にいた。バスの窓から見える景色を、今日は見ていない。
 彼女はその表情に一瞬、ためらいの色を浮かべると、すぐに寂し気に俯いた。
「ずっと」
「え?」
 微かに動く唇。よく聞き取れなかったが、そう言った気がした。
「ずっとです。もう散らないと思います」
 今度ははっきりと聞こえた。俺はその意味が分からず聞き返そうと思ったが、次の授業の英語の先生が入って来たので、渋々自分の席へと戻った。

「あ~……どれも履けそうにねえなあ」
 陸上部の部室の外にある靴箱を漁りながら、収穫がなさそうなことを嘆く。
 せっかく授業の合間にダッシュして来たのに……。しょうがない。職員室に行ってスリッパを借りてこよう。
「何か探してるんですか?」
 急に背後から聞こえたその声にびっくりした俺は、「うわ!」と叫び声をあげながら後ずさりをした。
 振り返ると、そこには――制服姿の、小柄なショートカットの女の子が立っていた。
「い、いや。別に怪しいものじゃないっていうか。俺、ここの部員だから。い、今は出入りしてないけど」
 慌てて盗み目的じゃないことを証明しようとするが、彼女は「知ってますよ」と不思議そうな顔をした。
「え? 何で」
「大崎先輩ですよね。陸上部のエースの」
「君……一年生か。何で知っている? 俺、一度も部活に顔出してないのに」
「怪我してるんですよね。先輩方から聞きました。すっごい真面目でストイックで、誰よりも努力家だって。みんな話してますよ」
「へえ……そうなんだな」
 あれっきり距離を置いているから、みんなには嫌われているのかと思っていた。きっと光幸が俺の話をしてくれているからだろう。
「で、何をしているんですか」
「ああ。クラスメートの女の子の靴がなくて。代わりになるものないかなと思ってな」
「ここに溜まってたランシューなら、あたしが提案して処分してもらいました。だって誰も履いていないのに場所とるだけで邪魔だし。そういう無駄なの嫌なので」
「……そうなのか」 
 この子、はきはきしてるな。背が低くて俺の顔を見上げてくる形になるんだけど、まっすぐに俺のことを見つめてくる感じがして気恥ずかしくなる。
「どうするんですか」
「仕方ないから、職員室にスリッパ借りに行くよ」
「なら、私の貸しますよ。靴のサイズは?」
「24だけど……いいのか?」
「構いませんよ。今から体育だし、そのままシューズで一日過ごすので」
 よく見ると、体育館の更衣室の入り口に女子生徒が入って行っている。ああ。だから俺のことに気が付いたのか。
「でも……明日履いてくるものがないんじゃないのか?」
「ローファー、うちに二足あるので。問題ありません」
「なら……お言葉に甘えて」
 すると彼女はその場で手に持っていた袋から体育シューズに履き替えて、ローファーをその袋に入れて貸してくれた。
「ありがとう。助かったよ」
 手を挙げてお礼を言うと、彼女はまだ俺の顔を見つめたままじっとしている。
「どうした?」
「なんでですか?」
「え?」
「先輩は、そんなに笑う人じゃありませんよ」
「そうか?」
 そう言い残して彼女は、体育館の更衣室へと走り去っていってしまった。

「森内って、そそっかしいところあるんだな」
 帰りのバス停で、彼女はじっと前を見据えたまま、前髪の隙間からちらりと横目で俺を見た。
「……それって、どういう意味ですか?」
「ああ。慌てものとか……でも憎めないって感じかな」
「……イライラしませんか」
「しねえよ。むしろ……いや」
「なんですか?」
「何でもないって」
 バスが到着し、俺たちは二つ並びの席に座った。当たり前のようにこうして一緒に帰っているけど……それだけでなんだか心地よい高揚感がある。
「今日は本当にありがとうございました、助かりました」
「それ、もう十回くらい聞いたから。いいよ」
 あんまり恐縮して繰り返すので、普段人に優しくされることに慣れてないのかなと心配になってしまった。
「あの……」
「なんだ」?
 しゃんと背筋を伸ばしたまま。彼女はちらりと俺に視線を向ける。
「何で……そこまでしてくれるんですか」
「え?」
「だって。普通わざわざ靴を借りに行ったりとか。してくれないですよね……だから、なんか申し訳なくて」
 その問いに、どう応えればいいのか、俺は逡巡した。
「そうだな……」
 言葉を濁しているうちに、バスが信号で停車し、再び動き出す。俺は手紙の返事を十分に推敲して練り直すかのような作業を、頭の中で繰り返した。
 思い返せば……彼女が転校してきた日。素っ気ない挨拶をして、クラスメートに声を掛けられても、心を閉ざしているようにみえた。
 あのときは、単純に人との関りが好きじゃないから。放っておいてほしいから、ああいう態度を取っているんじゃないかと思った。
 しかし、彼女に付き添って定期を買いに行って、黙って先に帰ったんじゃないかというすれ違いがあったとき……本当は人の気持ちを気にする、優しい人なんだと気が付いた。だからこそ、彼女が靴を履き間違えて来たと気が付いたとき、俺はなんとかしてあげたいと思った。
 つまり、彼女は……自分の本当の気持ちを表に出して、誰かに迷惑を掛けたくないんじゃないか。だから、困っていても、悩んでいても。全部背負って、抱え込んでしまうんだろう。
 しかし、そのまま伝えるのは、よく知りもしないで分かった風に言っているようで躊躇った。
「何か……気持ちが分かるからかな」
 その結果、ずいぶんとぼんやりとした言葉になってしまった。
「私の……気持ちですか?」
 彼女の困惑が伝わってくる。俺は冷静を装いながら、なにが伝えたいのか、丁寧に言葉を整え始める。
「なんていうか。似てるっていうか」
 もっと解像度が低くなった。しかし、彼女は「私たちがですか?」と相好を崩した。
「そうそう。不器用なんだよきっと。だから、もっと素直になれる存在でいたいなって」
「素直ですか」
「うん。だから、遠慮しなくていいし。気楽に話したり、頼ったり……してもいいよ」
「……はい」
 彼女はそう言って、少し照れくさそうに、頷いた。
 彼女と言葉を交わしながら、俺は自分の気持ちが、少しずつ輪郭をもって、くっきりとしていくのを感じていた。
 きっと俺は――そう思いたいのだろう。
 彼女の為に、役割を与えられているって。彼女を助けてあげるのは、自分しかいないんだって。
 それは、単なる偶然とか、巡り合わせなのかもしれない。でも、だからどうした。
 彼女が、笑顔を見せてくれた。
 俺は、ほっとしたし、嬉しかった。ふたりでいると、そんな気分になれる。
だったら、もっと彼女の気持ちを分かってあげたい。
 ――彼女のことが知りたい。ただ、その一心だった。
「えっと……」
 次に何を話そうか考えていると、彼女の方からたどたどしく切り出した。
「この靴を貸してくれた人は……どんな人ですか」
「陸部の後輩の子だよ。また返す時にお礼言っときな」
 すると、今度は下を向いて黙り込んでしまった。
「どうした?」
「本当にそれだけですか?」
「ん? どういう意味だ」
「その子……大崎くんのこと、遠くからずっと見つめてましたよ」
「遠くって?」
「大崎くんが部室に向かって行くところから。靴箱を探し始めたくらいで、走って向かって行ってましたけど」
「森内……ずっと見てたのか」
 窓際の席だし。そりゃそうか。
「初めて会ったし、もちろん話したこともないし。俺のことは先輩から聞いて知ってたみたいだけど……じっと見てたのは、俺がなにか困ってると思って観察してたんだと思うぞ」
「そうかもしれないですけど……そういうことではなくて」
「……どういうことなんだよ」
 釈然としないな。でも、わざわざ靴を貸してくれた子がどんな人なのか気になるのも当然か。
「最後に、何か言ってましたよね」
「最後?」
「去り際、というか」
「ああ。なんかよく分からないけど。俺のこと、笑う人じゃないって言ってたな」
 すると彼女は俺の方を向いて、少しだけ目を見開いた。
「そうなんですか」
「全く笑わないわけじゃないぞ。でも確かに普段はそんなにかなあ」
「でもなぜ」
「分からないな。基本的にテンションがそんなに高くないからかな」
「そうじゃなくて……」
 やけに食いついてくるなと思って、彼女の方を見る。すると、至近距離でばっちり彼女の視線が重なってしまって、すぐにお互い視線を伏せた。
「ど……どうして笑うようになったんですか」
 彼女は窓の外を向いて、完全に顔が見えなくなった。
 なぜそんなことを聞く? と思いつつ、言葉に詰まってしまう。
 カーブに差し掛かり、バスが揺れる。通り過ぎる桜並木は満開で――桜の吹雪を散らしている。
 ここのところ、俺は変なのかもしれない。
 そう思っていた。でも――違う。 
 変なんじゃなくて、変わったんだ。いや、変えてもらったとすら言っていい。
 その現象を、シンプルに表現する言葉は――割とすんなりと俺の頭に浮かんできた。
「楽しいからだよ」
 鮮やかな外の景色を見つめながら、俺はそう口にして、笑った。
 窓ガラスに写り込む、森内咲良の顔。驚いているのか、戸惑っているのか。俺と同じように窓の外を見つめながら、せわしなく瞬きをしている。
「わ……」
 彼女が何か言いかける。
 心地いい緊張を、檸檬の香りがさらに刺激する。俺は待った。長い一瞬が、たちまち過ぎ去って、彼女の言葉によって解放された。
「……私も」
 心の扉。全て開け放ったその先に、俺たちは並んで行けるかもしれない。
 気が合うかもな――と揶揄われた言葉すら、むしろその為に必要な保障にすら思えてきて。
やっぱり楽しくて、俺は頬を緩めた。 
「――ずっと続かねえかな、この時間」
 目を開ける。
 暗い部屋。音のない世界。
 意識は徐々に覚醒して、俺は枕元のスマホをまさぐり、手に取る。
――夜中の三時。画像フォルダには、花の散った桜の画像が残されていた。
「まじかよ」
 やっぱり夢か。その事実を突きつけられたことによる虚無感が襲ってきて、しばし動けなくなる。
 森内。きみは一体なんなんだ。どうして俺の夢の中に出てくる?
 夢の中で見たこと、聞いたこと。すべて鮮明に記憶に残っている。こうして何かしらの記録に残さなければ、区別がつかないくらいだ。
 普通の夢ならば、すぐに忘れてしまうのに。夢だったのか、で片付けられるのに。
 俺はもうすでに、さっきまでの時間が恋しくなっている。
 目が覚めてしまったことによる喪失感に、胸が苦しくなるほどに。
 そんなこと、今までなかった。森内咲良――彼女が夢に出てくるまでは。
「きみはどこにいるんだよ」
 俺の夢の中でしか会えない、彼女。でもその言動や、表情。どこか遠い存在ではないんじゃないかという予感。
――彼女に会いたい。
 今の俺は、そう強く願っていた。
 スマホで検索したのは、彼女の名前だ。
 しかし、それらしい結果は得られない。じゃあ、どうすれば?
 手掛かりは何もない。せめて……と思い、部屋の灯りを点け、机に座り、ルーズリーフを一枚取り出してシャーペンを手に取った。
 絵なんか、描いたことすらない。でも、彼女の存在を唯一証明するものは、俺の記憶だけだ。
 夜が明けるまで、彼女の顔を思い出して、必死にペンを走らせた。
 できるだけ鮮明に。目の前にその存在を感じられるように。
「出来た……」
 気が付けば、夜が明けていた。
 紙の上についた消しカスを取り払い、手に取って目の前でまじまじと見つめる。
「へったくそだな……」
 ため息が出る。でも、今の俺にできる精一杯の絵が、この一枚だ。
 そして反射的にスマホを取り出して、シャッターを切る。なぜだか分からないけど。彼女の存在を確かめるために、こうしておかなければいけない気がした。
 まずい。もう、学校へ行く準備をしなければ。
 せかせかと鞄にテキストやノートを詰め込み、その絵を机の上に置いたまま、俺は部屋を出て階段を降りていった。