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俺は密かに期待していた。
バスに、彼女が乗り込んで来ないかと。しかしその期待は裏切られ、学校に着く前の桜並木で、浮つく心に影が差すことになる。
「桜……やっぱり散ってる」
満開に咲き誇っていた、車窓から見る桜。しかし、緑の新芽が芽吹くそれは、昨日見た光景からは、明らかに様相を変えていた。
やっぱり変だ。いや、変なのは俺の方なのか?
きのう、光幸が言っていたな。そんなのを気にするのは俺くらいだって。あれって、どういう意味だったんだ?
バスから降りると、風が少し冷たくて、空が陰っていた。どこか湿気交じりの空気を感じて、雨が降らなきゃいいな、と遠くの山間に連なる暗い雲を見つめる。
いつものように校門を潜り抜け、校舎に入って階段を上がって廊下を歩く。
教室の前に立ち、扉を開ける。既に半数以上が集まっている。俺は自分の席に向かいながら、目をきょろきょろさせて彼女の姿を探した。
いない。まだ登校していないようだ。
席に着き、入り口付近をちらちらと見ながら落ち着きなく待つ。
しかし――次第に教室の席が埋まっていき、ホームルーム開始時間が迫っても、彼女は教室に姿を現さない。
そして、残りの席はひとつ。ついに始業のチャイムが鳴り響く――。
「あっぶねー! 間に合ったぁ」
教室のドアが開き、勢いよく飛び込んできたのは、光幸だった。大急ぎで走って来たのか、汗だくで息を切らせている。
「間に合ってないぞ。全く……毎日毎日」
すぐ後ろに続いて、担任の山下先生が呆れた顔をしながら教室に入ってきて、教壇に立った。
「あれ?」
教室に――空いた机はない。なぜだ? 素っ頓狂な声を思わず出してしまった俺に驚いた先生が、心配そうな顔を向ける。
「どうした、大崎。忘れ物でもしたのか?」
「転校生は……?」
「転校生?」
「そうだよ。昨日転校生の紹介してたのに。どうして今日はいない? それに……席もないし」
先生の顔色が曇る。周囲がざわつき始めるなか、俺は不穏な空気を感じ取って、背筋が冷たくなった。
「俺……がおかしいのか。森内……そうだ、森内咲良って子だよ」
「大崎」
不穏な空気を断ち切るかのように、先生は出席簿で教壇をトントンと叩いた。
「ホームルームの時間だ。その話はあとで聞こうか」
「なあヒロト。さっきの何だったんだよ」
ホームルームが終わり、一限目の数学の授業が始まる前。光幸が心配そうな顔をして俺の机にやってきた。
「何って……」
「ほら。女の子の名前みたいなの言ってたよな」
じろじろと光幸の顔を見つめる。分かっていてとぼけているようには見えない。
「お前……本当に覚えてないのか?」
「え?」
「昨日だよ。転校生が来ただろ。ほら、前髪が長くて、背の高い……」
今度は光幸が俺の顔をじろじろと見つめる。そして俺の肩に手を置いて、不安げに眉尻を下げた。
「ヒロト。そんなやつは来てない。お前の記憶違いじゃないのか」
「いや、そんなはずは……」
何か証拠になるものは……と考えたが、何も残ってはいない。
「昨日って言ってたよな。昨日何があったのか思い出してみな?」
「……お前と朝バスで一緒になった」
光幸は腕組みをして考える素振りをする。
「なってないなあ。今日と同じような感じで、滑り込みで教室に飛び込んできたぞ」
「いや……それはおととい……」
そこまで思い出して、俺ははっとした。急いでスマホを取り出して、画像ファイルを確認する。
「ない……確かに撮ったはずなのに」
バスの窓から収めた、桜の写真。とっくに散ったはずなのに……あのときはまだ咲いていた。やはりあの満開の桜は……存在しない光景だったということなのか?
スマホの画面を見つめたまま固まっていると、光幸が笑いながら俺の肩をバシッと叩いた。
「寝ぼけてたんじゃねえのか? まあそんなに深く考えるなって」
「光幸……今なんて?」
「え? 妙にリアルな夢でも見て、それを現実だと錯覚してたとか?」
夢? それを聞いて、今朝の違和感を思い出した。
寝落ちしてしまったのに、朝目覚めたらきちんと寝る支度をしていた。寝る前と起きたときの辻褄が合っていない。
つまり――昨日一日の記憶は、全て夢だったってことか?
「俺、ちょっと疲れてんのかな」
乾いた笑いを浮かべる。始業のチャイムが鳴り響くなか、光幸は「色々あったからな」とだけ言い残して、自分の席へと戻っていった。
「ラスト一周!」
放課後のグラウンドを金網の外から見つめながら、俺はいつものようにひとりでバス停までの道を歩く。視線の先で、トラックを周回する長距離走の部員たちを、顧問の先生や、ストップウオッチを手にした光幸が声を出して盛り上げている。
一年前まで、自分もあの輪の中にいた。
でも、もう戻ることはない。ぜんぶ、終わったことだ。
薄くため息をついて、グラウンドから視線を逸らすと、ふと気配を感じて振り返る。
――誰もいない。気のせいか……。本当に妙なことばかりだ。
バスに乗り込んで、後ろのほうの席に腰を下ろすと、空いている隣の座席を見つめながら、ふと彼女の髪の匂いを思い出した。
はっきりと覚えている。夢にしては……あまりに鮮明すぎるといっていい。ここまで夢と現実を混同してしまうなんて、やっぱり俺はよっぽど疲れていると思った方がいいのかもしれない。
バスが桜並木の通りに差し掛かる。やっぱりとっくに桜は散っていて、昨日スマホに保存した満開の桜の画像のような光景はここにはない。
俺はふと思い立って、緑の新芽がちらほらとついている桜の様子をスマホのカメラで撮影した。これがなんになるのかは分からないけど……無性にそうしたくなったのだ。
家に戻り、着替えやシャワーを済ませてリビングでテレビを見ていると、いつものように妹が隣に座ってきて茶々を入れてくる。すると、キッチンの方から油の弾ける音と共に、甘辛のソースの匂いが漂ってきて、まさか……と振り返った。
「お母さん、今日もしかしてエビチリ?」
「そうよ」
「ヤター!」
隣ではしゃぐ妹を尻目に、俺の胃袋は意気消沈していた。
「母さん……今からエビマヨにできない?」
「え? 無理よ。ソース市販のだし」
「だよな……」
「あれ? お兄ちゃんエビチリ嫌いだったっけ」
もちろんそうではないが、体感的に二日連続でエビチリを食べるのは正直気が進まない。
やっぱり変だ。普通の夢なら、ここまで現実と同じような感覚で記憶が地続きのように残るだろうか。
「頂きます」
エビチリにマヨネーズを掛けて無理やりエビマヨにした俺の皿を見て、妹が顔をしかめる。
「うえ。カロリーえぐそう」
「……この方が好きなんだよ」
「あら。ちょっと前なら考えられないわねえ」
確かに。徹底的に食事から油分を排除していた以前の俺なら絶対にしないだろう。
「その方が男子高校生っぽくていいんじゃない。あむあむ」
「何目線だよ」
それから黙々と箸を進めながら、ちらっと母親の方を見つめる。
「昨日って、何食べたっけ」
「から揚げよ」
「……だよな」
食事を終え、歯磨きをして二階に上がる。しばらくベッドの中でスマホゲームに夢中になった俺は、灯りを消して眠りにつく間に、もう一度昼間に撮った画像を確認した。
緑の新芽が芽吹く、花の散った桜の木々――そして俺はもう一度、眠りの中へ。
「あっぶねー!」
はっとした俺は、反射的に声の聞こえた方に顔を向ける。
汗だくの光幸が、息を切らせながら教室に入ってきて、教壇の前を横切っていく。
「危なくない。完全に遅刻だぞ……」
先生の顔が引きつっている。時計を見ると、ホームルームの開始時刻を既に五分過ぎていた。
「勘弁してよお。朝ちゃんと間に合うように出たんだけど、靴を左右違うの履いてきちゃってたのに気が付いて引き返したんだよ~」
「それはお前の都合だろ。あとで職員室に来るように」
「そんなあ」
どっと笑いが起こる教室。そんな中――俺は導かれるように窓際の席に視線を向け、目を丸くした。
あの後ろ姿。長い髪……間違いない――森内沙良だ。
俺は早くなる心臓の鼓動を感じながら……彼女の様子に釘付けになった。
光幸のおちゃらけでみんなが笑顔になり、手を叩いて笑っているなか、彼女は顔を伏せている。よく見ると……前髪の隙間から除くその顔は、恥ずかしそうに眉を寄せていて、頬を赤らめているように見えた。
あれ? どうしたんだろう、と思って彼女の足元を見る。片方は黒のローファーで、もう片方は白のスニーカー。
光幸みたいに、途中で気が付いて引き返さなかったんだな……と思うと、彼女に同情しつつも、微笑ましくなってつい笑みが漏れた。
