桜の散らない街で 僕は君の夢を見る



 眩しい。
 ガラス越しに乱反射する木漏れ日に目を細めながら、顔を上げる。バスの天井からぶら下がったつり革が一斉に左に揺れて、窓の外の桜並木が視界に入ってくる。
 満開の桜だ。ぼんやりと眺めながら、ふと疑問に思う。
 確か……きのう見たときはほとんど散っていて、緑の新芽が芽吹いていた気がする。記憶違いだろうか? 
 違和感に背中を押されるように、急いでポケットからスマホを取り出し、カメラを起動する。シャッター音を気にしながら車窓を彩る桜の木々をフレームに収めると、画像が保存されたのを確認した。
「よう、お目覚めか?」
 びくっとして体が浮き上がりそうになる。目を見開いて隣を見ると、光幸が悪戯っぽく笑っていた。
「何だ、お前か……いつからいたんだよ」
「ずっといただろ。お前寝てるし。起こすのも悪いかなと思って。ていうか、いま何してたんだよ」
「何って……」
 窓の外を見つめる。桜並木はもう通り過ぎていて、学校が近づいていた。
「おかしくないか。だって、もう四月半ばだぞ?」
 光幸は吹き出すように笑った。
「確かに。でも、そんなこと気にしているのはお前くらいだぞ」
「……え?」
 変なことを言っているのは、俺の方なのだろうか。首を傾げていると、バスが学校前に停車し、周囲に座っていた学生たちが鞄を手に席を立ち始める。
「どうした? 降りるぞ」
「……ああ」
 光幸と談笑しながら校門を潜って校舎に入ると、職員室の前に、ぼさぼさ頭に眼鏡を掛けた、スーツ姿の若い……担任の山下先生の姿を見つけた。
「あれ? 誰と話してるんだろう」
 先生の前にいるのは……黒くて長い髪の、背の高い後ろ姿。顔はよく見えないけど、妙にその女の子のことが気になった。
 しゃんと伸びた背筋。手を小さくお腹の前に組んで、足を動かしたり揺れたりすることなく、真っすぐに先生の方を見ながら、話を聞いている。
「ん? どれどれ」
 近づいていこうとする光幸の肩を掴んで、「いいから行くぞ」と背中を押す。
「何だよ。お前が気にしだしたくせに」
「先生と話してるのに、邪魔したりじろじろ見てたら迷惑だろ」
「そうかなあ」
 相変わらず馴れ馴れしいやつだ。でもそのおかげで、俺は陸上部というコミュニティを失った今でも、こうして学校で孤立せずに済んでいる。
「おはよ!」 
 教室に入って光幸が大きな声で挨拶をすると、教室で談笑していた何人かの男子が寄ってきて、じゃれ合い始める。俺は一直線に窓際の自分の席に座って荷物を片付けると、すぐにスマホを取り出して時間を潰し始めた。
 始業時間に近づくにつれ、埋まっていく席。周囲の談笑する声も、大きくなっていく。
時々光幸が絡んでくるが、生返事をする。他の男子も話しかけて来てくれることもあるけど、話すのはあまり好きではないから、会話は盛り上がらない。
 やがて始業のチャイムが鳴って、みんなそれぞれの席へと戻っていく。
 スマホを鞄にしまって、廊下を見つめる。すると、 窓の向こうに、ふたつの影が歩いているのが見えた。
「おはようございます」
 山下先生が扉を開け、おなじみの落ち着いた声が響き渡ると、ざわついていた教室内が一瞬、静まり返った。
 先生の後ろについて入ってきたのは、見たことのない女の子だった。少し緊張した面持ちで、笑顔はない。
「誰? 転校生?」
「え? 可愛いくない?」
「背、高っ」
 周りの席からひそひそと話しているのが聞こえ始める。
 俺は……黒板の隅っこの方に立ったその姿に、釘付けになっていた。
「ほら、もっと前へどうぞ」
「あ……はい」
 先生が促しても、彼女は教壇の端の方に移動しただけ。人前に出たり、注目を浴びるのは苦手なのだろうか。その表情や仕草をみるにつけても、お世辞にも、社交的な性格には見えない。
「はい、静かに。少し時期は遅れましたが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わります」
 先生が眼鏡の奥から視線を送る。その子は相変わらず微動だにせず、じっと下を向いていた。
「ひとこと、自己紹介できる?」
 そう振られて、やっと少し顔を上げる。重たい前髪の隙間から見えたのは、大きな三白眼と、鼻筋の通った整った顔。
「よろしくおねがいします……」
 それきり言葉が出てこなくて、中途半端にぱらぱらと拍手が起こる。
「あ、名前……とか」
「森内咲良です」
 再び、しんと静まり返る教室。
「……うん。彼女は昨年度まで別の高校に通ってましたが、親御さんの都合でこの高校に編入することになりました。とても素直でいい子なので、みなさん仲良くしてあげてくださいね」
 先生の言葉を皮切りに、やっと教室から大きな拍手が沸き起こる。当の本人は、先生から一番後ろの席を指さされると、早足で教室を縦断し、席についてまた視線を下げた。

「ヒロト、お前気になってたんだろ。話しかけて来いよ」
 昼休みになり、光幸が俺の机にやって来て茶々を入れる。
「別に気になってねえよ。それに、そっとしておいてあげた方がいいんじゃないか。ほら、なんか人見知りっぽいし」
 光幸はニヤニヤしながら俺の肩を組む。
「お前、人のこと言えねえだろ。ていうか雰囲気似てるな。人を寄せ付けないオーラ放っているところとか。気が合うんじゃねえの?」
「……どうだろうな」
「声かけたくなったらいつでも言えよ。ついて行ってやるから」
「ほっとけ」
 それから授業が終わるたびに、密かに彼女のことを観察した。朝のホームルームのインパクトもあるが、しゃんと背筋を伸ばして席から動かず、不機嫌そうな目でひたすらスマホをいじっているので、なかなか彼女に話しかけにいく人は現れない。
 正直、俺も似たようなものだ。進んで人と話したいと思う性格ではないから、気持ちが分かる。恐らく、彼女にとってこの方が気楽なのだろう。だとしたら、やっぱりそっとしておいてあげた方がいいのかもしれない。
 しかし、昼休みの終わりごろ。クラスメートの一条岬が、ついに彼女に声をかけた。
 クラスの誰にでも分け隔てなく接する彼女は、恐らく彼女のことを気に掛けていたのだろう。笑顔で何か話を振っているが、徐々に一条さんの表情は曇り、やがて彼女の席から離れてしまった。
 せっかく仲良くなれるチャンスだったのに……。それすら受け入れられないとなると、俺の想像以上に、彼女の他人に対する心の壁は高いのかもしれない。ひょっとしてこの中途半端な時期の転校も、なにかそのあたりと関連があるのだろうか。
「大崎! ちょっといいか?」
 帰りのホームルームが終ると、俺は山下先生に呼び止められた。
「何ですか?」
 さっさと帰りたい気持ちに水を差されて、足取り重く教卓に向かう。
「彼女、バスの定期券作りたいらしいんだ。一緒にバスセンター寄ってやってくれないか?」
「……なんで俺? 一条に行って貰えばいいんじゃ……」
 当の本人は、鞄を持ったまま窓際に立ってグラウンドを見つめている。
「……一条もだが、他のやつは部活があるだろ? 彼女、きみと同じ路線らしいんだ。ほら、よろしく頼むぞ」
 えええ。俺かよ……。
 森内咲良――。彼女のことに興味はあるが、いざ関わるとなると躊躇してしまう。
 横目で彼女のことを見つめる。相変わらず涼しい顔をして、自分の為にお願いをしている先生や、俺に視線を合わせようともしない。
 俺に対して興味が……いや、そもそも人に対してかけらも関心がなさそうだ。
 どうしようか。彼女の生態が分からなさすぎる。どう接したらいい? 何を話したらしい?
「い、行くか?」
 姿勢よく立ったままの彼女に向かって、最大限の勇気を振り絞る。しかし彼女は何の反応も示さず。黙ったまま俺について廊下を歩き始めた。
 しかし――なんだこの距離感は。俺と五歩分は離れている。
 廊下ですれ違う人は、俺と森内が行動を共にしているとは全く思わないだろう。
 いや、これが彼女にとっては普通なのかもしれない。だいたい、彼女と仲良くなるように頼まれたわけでもないし。これで十分だろう。
 あくまでもミッションは、彼女をバスセンターに連れていくこと。それさえ達成すれば、なにも責められるいわれはない。
 会話どころか、目も合わせることもないまま、下校する生徒たちとともに校門を潜り抜け、バス停まで歩いた。彼女はすぐさまスマホを取り出し、俯いて画面を注視しはじめる。
 ――むしろ、そうしてくれていたほうがありがたい。
 俺は彼女の少し離れたところに立って、ポケットに手を入れたまま、バスが来る方角に目を細める。
 いつもなら少しでも時間があれば、スマホを取り出してゲームの世界に没頭し始めるのだけれど。そんな気分にはなれなかった。
 俺は心のどこかで、彼女に対して自分に何かできることはないか、という使命感みたいものが少なからずあった気がする。
 転校して来たばっかりで、慣れない環境で困るだろうから。先生に頼まれたから。何で俺に頼んだんだろう、という理不尽さも感じつつ、俺に任せてくれたのなら……という、責任も感じていた。
 バスに乗り込むと、俺は半ばの席の窓際に、彼女はちょうど俺の後ろの席に腰を下ろした。
 隣に座るとは思っていなかったが……いざ背後に来られると、そわそわしてしまう。
 スマホを取り出して、それとなくネットを見始めるが、ぜんぜん内容が頭に入ってこない。近くには同じ学校の賑やかなグループが陣取っていて、周囲には彼らの話す声と笑い声が響いている。
 十数分が経っただろうか。いつの間にか目的地のバスセンターが近づいてきていて、俺は慌てて窓と座席の隙間から背後に振り返った。
「次で降りるぞ」
 彼女の前髪の間から見えた目が、少しだけ泳ぐ。そして黙ったままスマホを鞄にしまって、また下を向いて黙り込んでしまった。
 本当にうんともすんとも言わないな……。こっちが話しかけたときくらい、何か返してくれてもいいのに。
 バスセンターに降り立つと、俺は彼女を窓口に案内して、近くのベンチに座って待った。
 あの感じで、ちゃんと買って来られるのだろうか……と不安はあった。でも、そこまで付き添うのもおかしい気がする。混んではいないだろうから、そこまで時間はかからないだろう。そう自分に言い聞かせて、スマホを取り出す。
 行き交う人の雑踏と、バスのエンジン音、館内放送などで周囲がざわつくなか、暫く夢中になってゲームをしていたら、いつの間にかそれなりに時間が経っていた。
 しかし、待てど暮らせど、彼女は戻ってこない。
 いったい何をしているんだ……。
 しびれを切らしてスマホを鞄に放り込み、窓口へ向かうと、そこに彼女の姿は見当たらない。
 あれ? どこに行ったんだ。
「すいません。俺と同じ高校で、背が高くて大人しい感じの、髪の長い女の子って来ませんでしたか?」
 窓口のおばさんに尋ねると、きょとんとした顔をして俺がいたベンチの方向を指さす。
「だいぶ前に定期買ってったよ。そっちに向かって行ったみたいだけど」
「え? あ、ありがとうございます」
 驚くのと同時に、頭に血が上るのを感じた。
 ひょっとして俺、置いて行かれた? 
 せっかく案内したのに、俺を放置して自分だけさっさと帰るとか、そんなのありかよ。
 小走りでバス停に向かうと、ちょうどバスが停車していて、乗り込む客の中に彼女の姿を見つけた。
「おい待て!」
 発車ギリギリで息を切らせながらバスの中に飛び込むと、周囲の乗客の注目が集まる。そんなのはお構いなしに、俺は前方の席に座っている彼女の背もたれに、立ったまま手を掛けた。
「さすがにそれはないんじゃないか」
 感情的になっている俺の顔を、彼女は背筋をぴんと伸ばしたまま、上目遣いに見つめている。
「なんとか言ったらどうなんだ」
 俺は納得がいかなかった。当然だろう。いくら人見知りとはいえ、人として最低限やってはいけないラインがある。
 近くに座っていた同じ年くらいの学生の集団も、サラリーマンも、興味深そうにこちらを見ている。
 すると彼女は、眉を潜めた。そしてその綺麗な瞳が、悲しみの色に染まるのを見た。
 謝るでも、言い返すでもなく。いったい彼女が何を訴えているのか。
 わざわざ定期を作るのに同行したのに、勝手に帰られたのだから。俺には彼女を問い詰める権利があるはずだ。
 しかし、彼女の眼を見ていると……俺はどうしても、そんな態度を貫くことが躊躇われた。
 次の停留所で団体の客が乗ってきて、車内が混雑してくる。
「隣、座るぞ」
 仕方なく彼女の隣に腰を下ろすと、彼女はとたんにもじもじと落ち着きをなくし、窓際の方に体を寄せた。
 バスが走り始めて、車が揺れるたびに、彼女の綺麗で長い髪がさらりとなびく。
 そして、ふと柑橘系のいい匂いが鼻をくすぐる。檸檬だ。こんな近距離にいないと分からないくらい、微かに香っている。
 互いに下を向いたり窓の外を見つめたまま淡々と時間が過ぎていく。
 ここまできておいて、何も話さないのも気まずすぎる。
 しかし、彼女……森内のことに対する、様々な疑問を解消したい自分もいる。せっかくのこの状況だ。下手をすればこれから先、二度とこんな機会は巡ってこないかもしれない。
「あの……」
 どう切り出そうかと悶々と考えていると、意外にも彼女の方からぽつりと口を開いた。
「匂い、気になりますか?」
 俺は戸惑いつつも、必死に言葉を探す。
「……いや、全然。いい匂いっていうか……檸檬だよな? 香水とかつけてるのか?」
 彼女は小さく首を横に振る。
「お母さんが作ってくれたんです。私、子供の頃からこの匂い好きなので」
「へえ……そうなのか」
 そして、再び話題が途切れる。俺はようやく繋がった会話を絶やすまいと、勇気を出して切り出した。
「ええと……ひとつ聞いていいか?」
 彼女はこくりと小さく頷く。
「さっき……黙って先に帰ったのは何か理由があるのか?」
 いきなり尋問するみたいなことをしてしまった。すぐに後悔するが、一度出てしまった言葉は戻らない。
 しかし……俺は本当のことを知りたかったし、きっと何か理由があると思った。例え気まずくて帰ったんだとしても、そのことはもう終わりにしよう。彼女を悪く思ったままでいたくないという、その気持ちに偽りはなかった。
「だ、黙っては……」
「え?」
 だんだんもごもごとし始めて、最後何を言っているのか聞き取れなかった。
「俺が待ってたのは知ってただろ?」
「……はい」
「じゃあ、何で先にバスに?」
 彼女は間隣にいる俺に顔を向けると、ばっちり目が合ったのに驚いたのか、またあたふたと視線を泳がせて激しく瞬きをし、目を瞑って大きく深呼吸をした。
「あ、いい。落ち着いて話せ」
 そう言って腕組みをすると、彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「ゲーム……してましたよね」
「ん? ああ、そうだったな」
「声……掛けたんですよ。終わりましたって。でも、周りもうるさかったし、緊張でうまく声が出なくて。全然気がついてもらえなくて……それに、ゲームの途中で邪魔したら申し訳ないかなって思っちゃって」
「え?」
 全然覚えていない。確かに軽く時間を忘れるほどゲームに没頭していたのは確かだけど……。
「それで、諦めて先に帰ったのか」
 その瞬間。彼女の頭の上に、無数のクエスチョンマークが見えた。どうみてもそんな顔をしていた。
「あ、諦めて……というか。色々迷って考えたんですけど、ひょっとして、私を待っていたんじゃなくて、ゲームをしたくてベンチに座っていたのかと……バスセンターに向かうまでは私がいるから気を遣ってゲームできなかったかもしれないし、それも申し訳ないなって」
 俺はなんだか、怒ったり、戸惑ったりするというよりは……面白くなってきてしまって、ふふっと軽く吹き出してしまった。
「そんな訳ねえだろ! ……って突っ込めば正解なのか? 教えてくれよ」
「お、お……」
「ああ、いい。もういいから。別に怒ってねえから」
「面白いですか?」
「だから笑ってるんだよ。なんなんだよ」
 すると彼女な安心したように目元を緩めて、かと思えばまたぶるぶると首を横に振って、俺に向かってきれいなつむじが見えるほど頭を下げた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。迷惑かけてしまって……もう二度としませんから……」
「いや、そこまで謝らなくても」
 すると、今度は笑った。目元を緩めて、ちらっと歯も覗かせて。
 あ、と思った。そして俺の中で、彼女の存在が、劇的に塗り替わっていく。
――こんな顔するんだな……。
 すると、とたんに心臓が忙しくなって、慌てて会話を繋げようと頭を働かせる。
「考えすぎだよ。別にそこまでゲームに執着してないし。肩とか揺らしてくれてもよかったんだぞ」
「でも……急に体に触れるのも」
「まあ、そっか。それは俺も悪かったな……」
 この子は、あのとき、そこまで色々と考えていた……いや、考えてしまったのかと思うと、そんなことで彼女が困らないように、初めからもっと親しく接しておけばよかったと後悔した。
「ええと、森内……って、普段からそんな感じなのか?」
 彼女はきょとんとした顔を見せると、小さく首を傾げながら俺の顔を見つめた。
「なんていうか。人と関わるの好きじゃないのかなって」
 彼女はふうと淡く息を吐いて、眉尻を寄せる。
「そんなことは……ないんですけど。気が弱くて、警戒心が強すぎるから、そういう雰囲気になっちゃうっていうか」
「そっか。でも、何でそんなに警戒するんだよ」
「え……」
「意地悪してくる奴でもいるのか?」
 それっきり彼女は黙り込んでしまって、まずいことを聞いてしまったかもしれないと焦る。
 俺はこの瞬間、ひたすら隣にいる彼女について考えていた。どう自分を取り繕うか、ではなく。どうしたら彼女を安心させてあげられるか、と。
 数秒の沈黙ののちに、俺は決めた。彼女の味方になる。それが今の俺に出来る、唯一にして最大の意思表示だと思ったから。
「俺は、そういう奴じゃないから安心しろ」
 それは彼女に対して、自分がどうありたいのか。自分がどう思われたいのか。どんな存在でいたいのか。彼女に知ってほしかったのかもしれない。
 心の鍵を開けて、彼女を導くような。そんな言葉だったと思う。
 彼女は俺の方を見なかった。ちょうど橋の下をバスが通過して、彼女の顔が窓に反射する。
 戸惑いと驚きと、どうしたらいいのか分からない焦りが、光と闇のコントラストのなか、俺の瞳に映る。
 そして彼女は小さく頷いた。言葉もなく。少し照れくさそうな横顔だけを映して。
 鍵の開いた扉の近くに、彼女は来てくれた。まだその向こうには行けないけど、それだけでも俺は、これから先彼女の為に何かできるのではないかと、希望が持てた。
「私ここなので……」
 バスが停車すると、彼女はそう言って腰を上げる。通路側に座っていた俺が一度席を立つと、彼女は出口まで歩く途中で、ふと立ち止まり、おずおずと俺の方を振り返った。
「今日は、ありがとうございました」
 深々と礼をしたあと彼女は、少し緊張した表情のまま。バスを降りて行った。
 広くなった、となりの座席。ついさっきまで二人で共有した空間と、時間を追憶する。
 バスの車窓から、歩いて帰っていく彼女の背中を見つめながら。
 もう一度だけ。笑顔を見せて欲しかったな、と心の中で呟いた。
 
「お兄ちゃん、なにニヤニヤしてんの?」
 母と妹と夕食にエビチリをつついていると、妹が白米を両頬に詰め込みながら、訝し気に俺を見つめた。
「は? べ、別にしてねえよ」
「嘘だあ。何かあったんでしょ。ここのところずっと辛気臭かったのに。分かり易すぎるでしょ」
「だからねえって」
 母親も俺の顔をじろじろと見ながら、「そういえばそうね」と同調する。
「女子に告られた?」
「違う」
「ラブレターでも渡された?」
「違う」
「好きな子に告って、オッケー貰った?」
「しつこい!」
 俺は大皿に3匹残ったエビチリをすべて口に放り込むと、ぐいと麦茶で胃に流し込み、「ごちそうさま」と席を立つ。
「あああ、まだ食べたかったのにい!」
 妹が発狂している声が響く中、俺は逃げるように二階へと駆け上がり、ベッドに横になって天井を見上げた。
 久々に、濃密な一日だった気がする。
 怪我をして、入院して――部活に行かなくなって以来。目標もなく、ただ学校と家の往復を繰り返すだけの毎日。
 きっかけは、季節外れの桜並木。そして――枯れ木のような高校生活のなか、春風のように吹いた、森内咲良という存在。
 はじめは、とっつきにくい、愛想のない人だと思ったけど。バスで話してみたら、印象が変わった。もともとそんな性格ではないのではないか。そんな気がした。
 だったらなんで? 人を警戒するようになった理由は?
 聞きたいこと、知りたいことは、まだ山ほどある。
 目を閉じる。記憶の中から、彼女の映像をそっと取り出して、再生する。
 彼女が笑って、会話が弾んで、心が高揚する感じ。
 そして今この瞬間――もう一度、その感覚を求めている。
「早く明日にならねえかな」
 そう願っているうちに、色々あって疲れていたせいか――いつの間にか俺は寝落ちしてしまっていたらしい。
 朧げな意識の中、アラームの鳴る音で俺は目を覚ました。
 手探りでスマホを手に取り、時間を確認する。まずい、朝だ。とすぐに我に返る。
「やべえ。風呂にも入ってねえし歯磨きもしてねえ!」
 慌ててベッドから跳び起きたが、よく見ると……きちんと寝るときの格好に着替えているし、歯磨きをせずに寝てしまったときの、口の中の違和感もない。
 あれ? 俺、ちゃんとして寝てる。いつの間に?
 不思議に思いながらカーテンを開ける。朝日が目に焼き付いて、徐々に意識が覚醒していく。
「なんかおかしいな……」
正体の分からない違和感を拭いきれないまま。習慣的動作で階段を降りて顔を洗い、学校に行く支度をし、朝食のベーコンエッグを食べて母親に「行ってきます」と言って家を出ると、近くのバス停まで歩いた。