桜の散らない街で 僕は君の夢を見る




「ただいま」
 帰宅して、てきぱきと手洗いと着替えを済ませて、リビングに入る。すると、座ってテレビを見ていた母親が、すっと立ち上がった。
「おかえり。何かつまむ?」
「いいよ。麦茶だけ飲んで、明日の小テストの勉強するから」
「そう。アイスだけでも食べたら?」
「大丈夫」
 冷蔵庫の扉を開けてお茶をコップに軽く注いで飲み干すと、母が慌ててテレビのチャンネルを変えるのが見えた。見ていたのは、今年の夏に迫った、地元日本で開催される予定の世界陸上のニュースだった。
「……そこまで気を遣わなくてもいいのに」
「いや、違うのよ。見たいドラマ思い出しただけだから」
「それ……笑点だぞ」
「あれ? あ、間違えた」
「あたし見るー! どいてどいて!」
 リビングに飛び込んできたのは、中学生の妹の麦だ。母の横に座り、テーブルにでーんと足を投げ出す。
「こら、お行儀の悪い」
「いいじゃん別に」
 うまいこと話しの腰を折ってくれてラッキー、と二階に上がろうとするが、麦は俺の動きを見逃さなかった。
「お兄ちゃん、ストイック過ぎ。別にもう食べるものに気を遣わなくてもよくなったんでしょ? だったら少しはやけ食いとかしてストレス発散したらいいのに」
「麦! 何てこというの!」
 母親が妹の頭をぴしゃりと叩く。
「もとから甘いものにもバカ食いにも興味はねえよ」
 リビングの喧騒から逃れるように、階段を上がって自分の部屋に閉じ籠る。
 鞄から翌日の小テストに必要なテキストだけを取り出し、机の上に投げながら、大きなあくびをした。
「勉強……めんどくせえなあ」
 とりあえず……ベッドに横になり、スマホでSNSをチェックする。
 メッセージの通知が5件。すべて画像で、光幸からだ。
 最近新調されたらしい、ピカピカのスターティングブロック。ジョグ中に笑顔で手を振る先輩たち。顧問の先生。
 あとの二枚は、会ったこともない後輩の姿を、不意打ちのように撮った画像だ。
 光幸は、たまにこうして画像を送ってくれる。
 俺は既読をつけて、そのままスマホをベッドに置いたまま、机に向かった。
 蛍光灯で手元を照らし、筆記用具を準備しながら、俺は光幸の気持ちに応えられない自分を、正当化する作業を始めていた。
 ――俺は、もともと弱い人間だったんだ。
 ハードルにぶつかった瞬間。自分の膝が割れて、血まみれになった記憶が、今も俺を苦しめている。
 痛みだけじゃない。全国大会の切符。そしてその先の、表彰台――。先生も、部のみんなも、期待してくれていた。
 そして何より、自分自身が――中学生の頃の悔しさを忘れたくないと、あの大会に賭けていた。努力という名の砂を、一日一日、日々一瞬を積み重ねて、踏み固めて。スタートラインに立つはずだった。
 それが、あの一瞬で――すべて崩れ去った。跡形もないくらい、ぐしゃぐしゃになって。
 胸が痛い。思い出したくもない。
 またあのトラックに戻れば、同じ思いをするかもしれない。何より、この膝で、同じ走りが出来るとは到底思えない。
 シャーペンを強く握りしめて、目を瞑る。
 俺は――卑怯者だ。
 だったらみんなの前で、もう陸上をやめるとか、ハードルを跳ばないとか――言えば良いのに。ただただこうして、逃げて、距離を取って、目を背け続けている。
 もちろん、はっきりさせるべきだという気持ちもあるが、みんなをがっかりさせたくはないという、つまらないプライドもある。かといって、もう一度スタートラインに立つ勇気もない。
 光幸は――いつか俺が戻ってくると信じて、こうして俺が戻ってきやすいように、色々とやってくれているというのに。
 瞼を開ける。デスクライトの灯りが、少しだけ目に染みた。
 シャーペンの先をカチカチと出して、ふう、と薄く息を吐く。
――勉強は得意ではない。でも、それに向き合っている時間は、陸上のことを考えないで済む。
 飯食うまでに終わらせとくか……。
 英単語の暗記と、数学の計算問題の復習。小テストに落ちると追試になる。
 面倒くさいなと思いつつ、嫌々記憶に押し込んでいった。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ!」
 しばらくすると、いきなり妹が俺の肩を揺らした。
「うわ、びっくりした。急に入ってくるなよ」
 すると麦は腕組みをして、不服そうに頬を膨らませる。
「下から何度も呼んでるでしょ。いっつもじゃん。結局あたしが呼びに来る羽目になるんだからねっ」
「あ、そうなのか……ごめんごめん」
 確かに俺は、何かに熱中しだすと、周りの声が全く聴こえなくなる。
 いったんスイッチが入ると集中が途切れないという利点もあるのだが、こうして周りに迷惑をかけてしまうこともしばしばだ。
 俺は机の上のテキストを揃えて鞄にしまい、スマホをポケットに突っ込んで、妹と一緒に階段を降りていった。
「お兄ちゃん、彼女でも作ればいいのに」
 大皿に盛られたから揚げを箸で奪い合いながら、妹が上目遣いに俺を見てくる。
「はあ? 何で俺が」
「だって暇なんでしょ? 部活も行かないし、バイトもしてないし。高校生活で他にやることなんてないじゃん」
「麦!」
 俺のお代わりの白ご飯をしゃもじで炊飯器から茶碗に盛りながら、母親が麦をじろりと睨む。
「どれだけ暇でも彼女なんて作る気ねえよ」
「え? じゃあ、彼氏?」
「……どういう意味だ」
 から揚げを齧りながら、俺に向かって目を血走らせる妹。その隣に、母親が呆れながら椅子を引いて腰掛けた。
「あんたはもう黙って食べなさい」
「このから揚げ、宇宙いち旨い!」
 確かに旨い。いや、旨かったんだな、と思った。
 なぜなら、本格的にハードルを始めた中学一年生の頃から、揚げ物は一切口にしていなかったから。
 普段は肉、魚、卵、大豆などのたんぱく質や、糖質を食事からしっかりとる。ビタミンや糖質はバランスよく。代わりに、脂身などの脂肪分の多いものは避ける。
 そのあたりは、栄養士の資格を持っている母親が全面的にサポートしてくれていた。そのおかげで、怪我をするまでは順調に体も作れて、記録も伸ばすことが出来たと思う。
 デザートのスイカを食べて、テレビでアイドルの出演する音楽番組をチェックする妹と並んで、ソファーに座りながらスマホゲームをする。
 風呂に入って、歯磨きを終えたら、再び自分の部屋に戻る。ベッドに横になってだらだらとスマホゲームをしていたら、夜の十二時を回っていた。
 以前は……風呂上りは入念にストレッチをして、夜の九時には寝ていた。でも今はもう、そんなことをする必要もない。
 そろそろ寝るか、とスマホを充電して、部屋の灯りを消す。
 目を閉じる前に、真っ暗闇の中、天井を見つめながら――こんな日々がいつまで続くのだろうか、といつも思う。
 陸上の推薦で入った高校だから、学びたい分野があるわけでもない。新たな目標も見つからない。友達はいるけど、みんな部活で忙しそうにしている。
 仕方ねえだろ、だって俺は……。
 そう言い訳をしながら、ぼんやりと意識は溶けていった。