2
「い、行くか?」
「さすがにそれはないんじゃないか」
「隣、座るぞ」
「……いや、全然。いい匂いっていうか……檸檬だよな? 香水とかつけてるのか?」
「ああ、いい。もういいから。別に怒ってねえから」
「ええと、森内……って、普段からそんな感じなのか?」
「意地悪してくる奴でもいるのか?」
「俺は、そういう奴じゃないから安心しろ」
「ごめんごめん。どうすっかな。スリッパ……は目立つから。陸部の部室に良さそうなのがあったら借りてくるか」
「桜は……まだ咲いていたか?」
「ところで森内……いや、なんでもない」
「森内って、そそっかしいところあるんだな」
「それ、もう十回くらい聞いたから。いいよ」
「何か……気持ちが分かるからかな」
「なんていうか。似てるっていうか」
「そうそう。不器用なんだよきっと。だから、もっと素直になれる存在でいたいなって」
「うん。だから、遠慮しなくていいし。気楽に話したり、頼ったり……してもいいよ」
「全く笑わないわけじゃないぞ。でも確かに普段はそんなにかなあ」
大崎大翔。
誰もいない世界の、広くて明るくて、それなのに空虚な、空の下。
かつてふたりで歩いた、倉庫の前。ハードルの並んだ、グラウンドで。
再びひとりぼっちになってしまった私は。彼がくれた言葉の残骸を、ひとつひとつ拾い上げていた。
どれも鮮明で、重くて、優しくて、暖かい。
空っぽだったわたしの心を、満たしてくれる、言葉の数々。
そしてまたひとつ。特に私に深く浸透した言葉を、手に取る。
「楽しいからだよ」
嬉しかった。ドキドキした。こんな気持ちになれるなんて、思わなかった。
「――ずっと続かねえかな、この時間」
私の存在を、肯定してくれる。同じ時間を共有できる。
彼は、そう思える存在だった。そして、彼もそう思ってくれているんだって、安心できた。
でも――彼の心の傷ついた場所に、触れようとしたとき。
私は思い知った。
こんな自分では、彼に何も与えることができない。力になれない。
支えることはおろか、彼の妨げになる。困らせてしまうことしかないって。
「もう元には戻れないって、何となくわかるんだ」
「憧れだの、カリスマだの、ヒーローだの……みんなが求めている俺は、そのハードルの前で砕け散って消えたんだ。例え復帰したとしても。かつての姿に戻れなければ、またみんなをがっかりさせることになる。それならもう――」
「ごめん。言い過ぎた」
「教えてくれないか」
「いや……本当の君のこと」
「ここにいるのはお前だけじゃない。ここは俺と、お前の世界だ。お互いが望んだんだから、この時間が――この世界があるんじゃないのか」
まるで砕け散った破片のような言葉が、つぎつぎに蘇ってくる。
そして、最後に拾い上げた言葉を。私は直視することができなかった。
「好きだから」
彼のことが、眩しかった。
だからこそ、私は行方を眩ませた。彼が追いかけて来られないような、どこか遠くに。行かなければいけないと思った。
それなのに、私は――。最も彼を傍に感じたあの場所に居座って、動けないでいる。
何日も、何日も。誰もいなくなった校舎の中を歩き回り。教室からグラウンドを見下ろし、こうしてまたこの場所に戻ってくる。
彼にもらった言葉を拾い集めながら、思い出しながら。
太陽が沈むよりも先に、日付だけがめくり替わっていった。
そうして私は、だんだんこう思うようになっていた。
このまま消えていくべきだって。そうしないと、また彼がここに現れるかもしれない。
その前に、どこかに隠れて――そのうちに……。
そうしてすぐに、体育倉庫の中に入り、シャッターを降ろし、内側から鍵を掛けた。
真っ暗闇の中で、私は黙って膝を抱いた。
こうしていると、少しずつ自分という存在が、暗闇の中に溶けていく気がした。
それでいい。そう思っていた。
しかし、あるとき。私の心の外側から、声が聴こえた。
「何もできないってなんだよ。お前も俺と同じだ。そうだろ? だったら、俺はやるよ。だから、お前もスタートラインに立てよ。立てるはずだぞ! 咲良!」
それは、私の手元にない言葉だった。この世界の外側にいる、彼の声だ。
涙が零れて、膝を濡らした。本当は、怖い。寂しい。こんな場所にいたくない。
もっと彼の声が聴きたい。
自分の気持ちが、胸の奥で騒めき始めた。その音が鳴りやまなくなって、頭を抱えて、声を絞り出す。
今の自分を……好きになりたい。
嫌いだって思う自分を変えるために。
もう一度やり直したい。
すると、その瞬間。シャッターが閉じているのに。世界が明るくなった。
――光だ。
眩しくて、目を細める。
何かが鳴っている。それは、インターフォンの音だった。
くらくらする意識のなか。わたしは、手探りでその音に触れようとするみたいに、必死で自分の身体を動かした。
すると、指先が冷たい何かに触れた。カン、と関節に小さな痛みが走る。
動く。もっと動きたい。必死に体の中にあるエネルギーをかき集めて、感覚のない手足に力を込めた。
ドスンッ。
「うっ」
今度は、背中に激痛が走った。痛い。呻くように体を捩じらせながら、私は視線の先に天井があることに気が付いた。
そして、台所の方でバタバタと歩き回っている母親の背中を見つけ、呻くように言った。
「お母さん……」
唇は、乾いてひび割れている。喉が掠れる。
体の節々が痛い。腰も、肩も、全部痛い。でも――私だ。ここに私がいる。
母は台所でバケツに目いっぱい水を溜め、床に零しながら裏口に歩いていくと、そのまま外に出ていった。
「さっさと消えなさい! 咲良に近づかないで!」
母の怒声が聴こえたのは、それから間もなくだった。
びくっとして、床にへたり込んでいる私は、やがて部屋に戻って来た母と、目が合った。
「……咲良? え? 咲良?」
バケツを床に放り投げ、何度もそう呟きながら私に抱き着いてくる。
「ああ……咲良。良かった。目が覚めたのね。ずっとずっとずっと、この日が来るのを待ってたのよ」
母の服は、ずぶ濡れになっていた。濡れた服が触れることを不快に感じて、母の温もりに集中することができない。
「……ねえ。誰が来てたの?」
母は脇腹が締め付けられて痛いくらいに、さらに強く私を抱きしめた。
「誰だっていいじゃない」
「ねえ、教えて」
すると母は、満面の笑顔を私に見せて。もう一度私をぎゅっと抱きしめた。
「あなたには関係のないことよ。さあ、先生を呼ばなくっちゃ」
それからバタバタと、うちに色んな人がやってきた。お医者さんとか訪問介護士さんたち。保険のなんちゃらとか、よく知らない人たちも含め。
みんな一様に、私の意識が戻ったことを喜んでくれた。
全く覚えていないけれど……これだけたくさんの人のお世話になって、支えられていたんだってことに気が付いて。感謝の気持ちで一杯になった。
病院に行って検査をするように勧められたけど。母は「家でリハビリをします」と言って譲らなかった。
それ以来、母は熱心に私に話かけてくれて。体を気遣ったり、できることはなんでもやってくれた。
わたしにとっても、二階の窓から外の景色を見つめたり。本やテレビを見たり。母の作ってくれた料理を食べたり。
今までのすべての当たり前が、新鮮で。嬉しくて。
リハビリは辛かったけど。少しずつ戻っていく感覚に、生きているって実感があった。
少しずつではあるけど、ある感情が芽生えていた。
それは、かつての自分なら、絶対に感じることのないものだ。
でも、まだまだだと思う。胸を張ってそう思えるようになるには、もっともっと頑張らないと。
頑張って、自分がやるって決めたことを行動に移さないと。
目を覚まして、六日ほどたった朝。リビングのテーブルの上に置いてある新聞を手に取り、それとなく眺めていた。
すると、ローカルニュースを紹介する紙面に、目が留まった。
【練習中の大怪我からの復帰期す 明尚高校陸上部二年 大崎大翔】
小さな記事だった。そこには、夢の中で出会った彼が、私に教えてくれたことが記載されていた。
ハードルに衝突し、膝を開放骨折。一度は競技から離れたが、家族や友人の支えで復帰を決意。
私は驚いた。夢の中で、自分が作り上げた存在だと思っていた彼が。こうして実在すること。そのコメントの中に、耳に覚えのある一文があった。
「事故に遭って苦しんでいる友人に。戻って来いよって、伝えたい。そのために、自分も頑張っている姿を見せたい」
新聞に、ぽつりと涙が滴り落ちる。
――大崎くん。頑張ってたんだ。あんなに酷いことを言ったのに、私との約束を、忘れていなかった。
紙面には、翌日の昼には高校総体の地区大会に挑む、と書いてある。
私にできることなんて……という弱気な私は、もういなかった。
私はすぐに、母の元に向かった。前はずっとベッドを設置してあるリビングにいて私の傍に居てくれたらしいけど、今は書斎にこもってずっと仕事をしている。
ドアをノックする。すると、中から母の声が帰って来た。
「なあに?」
私は躊躇する自分を目いっぱい鼓舞して、勇気を出して切り出した。
「明日……外に出たらだめかな。県の総合運動公園に行きたいんだけど」
そこは、車で一時間ほどかかる場所にあった。意識が戻ったばかりの私が、単独で行くには条件が厳しすぎる。
ここは……母に頼るしかない。しかし、沈黙の後……返って来た言葉は、想像通りのものだった。
「やめておきなさい」
唇を噛む。掌に汗が滲む。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「どうしても行きたい。ダメだっていうなら、自分で行くよ」
すると、母の呆れ混じりの声が返ってくる。
「無理をして何かあったらどうするの。大人しくしておきなさい」
その声は、私のことを心配しているのには違いないんだけど……どこか、私が自立して行動することを制したいんじゃないかと、思えてしまった。
「しないよ。もう、私行くって決めたんだ」
すると、扉が開いた。
「あなたは分かってないのね。自分で決めた学校に転校したいとか言い出した時を思い出してごらんなさい? 素直に大人しく私の言う通りに行動しておけば、そんな目に遭うことはなかったでしょう? もう誰の事も信用したらダメ。私がついているから。分かったら変な気を起こすのはやめて、ベッドに戻りなさい」
母は笑顔で私を諭して、再び扉が閉めた。
私はとぼとぼとリビングのベッドへと戻り、大の字になり、天井を見つめた。
スマホを開く。ネットは繋がっていない。Wi-Fiの電波は飛んでいるが、私が目を覚ました時にはパスワードを変えられてしまっていた。
自力で外出するのも困難で、外部の情報が遮断されている私は――まさしく、この部屋に監禁されている、といっても差し支えない状態だ。
大会が行われる総合運動公園のある場所は、正確には分からない。ただ、隣の市にあることは確かだから、おおよその方角は分かる。
最寄りのバス停まで、ここから二百メートル。運転手さんに聞いたりして、そこから乗り継いでいけばどうにか辿り着けるかもしれない。
問題はお金だ。いつも鞄の中に入れていた財布は、なくなっていた。母が隠したのだろう。
ならば――と、一瞬よからぬ考えが頭を過るが、すぐに振り払うかのようにかぶりを振る。
そんなことしちゃだめだ。私はちゃんと自分の足で、自分の力で行かなくちゃ。お母さんから盗むなんてもってのほかだ。
しかし、そうはいっても徒歩で何十キロも離れた場所まで移動するのは現実的ではない。
髪の毛をくしゃくしゃっとし、目を瞑ってベッドのシーツに顔を埋める。
そうして、何十分が経過しても、何も考えは浮かんでこない。
机の上に置いていたスマホを手に取る。ぼんやりと触りながら、ふと思った。
自力――で行くのは、無理かもしれない。でも、母以外の、誰かの力を借りられたら――。
ラインを開く。メッセージの履歴に、お母さん以外で、唯一名前のある人物。
――増村御子。彼女の家なら、中学生の頃に何度か遊びに行ったことがある。
ここから徒歩で十分くらいだ。住所が変わってなければ、尋ねて協力をお願いできるかもしれない。
希望が湧いてきて、胸の鼓動が自ずと早まる。とはいえ、落ち着いて考えを練らなくちゃと、そのための道筋を、頭の中で組み立てた。
明日は土曜日だ。増村さんに用事がなければ、早朝ならば家にいる可能性は高いだろう。ただ、あんまり朝早いと寝ているだろうし、彼女のみならず彼女のご家族にも迷惑をかけてしまう。
行くとしたら、朝の九時か十時くらいか。そこから彼女の力を借りて会場に入れば――陸上の大会のことは分からないけど、競技の日程次第では、彼の走る姿を見られるかもしれない。
だとしたら、九時前にはこの家を脱出する必要がある。この部屋は2LDKで、母の目を盗んで抜け出すのは至難の業だ。運よく外に出られたとしても、体力のない私が走ったりして逃げ切るのは体力的に厳しいに違いない。
身体を起こし、ベッドの端に腰掛けて、母の書斎の方をちらりとみる。
扉は閉まっていて、物音は聴こえない。中には仕事スペースがあり、在宅で仕事をしている。打ち合わせをしているのか、電話をしている声が聞こえることもある。
そのタイミングをうまく狙えば……。ただ、いつ電話がかかってくるのか分からないし、都合よくその隙が生まれる可能性は低いだろう。
ならば……母が寝ている隙に、と考えたが。母は私のすぐ隣のベッドで寝ているし。母は神経過敏で些細な物音で目を覚ましてしまうたちだから、こっそりと抜け出すのも難しいだろう。
でも……賭けるとしたらその手しかない。
早めに就寝して、母がまだ寝ているであろう時間――音の出るアラームは使えないから、深夜の三時か四時くらいに自然に目を覚ます。着替えをする時間はないと思うけど、就寝するときはいつもジャージ姿だから、そのまま外に出てもそこまで違和感はないだろう。
ひととおり計画を練り上げて、イメージトレーニングを重ねる。そこから横になって本を読んだりしながら夕食の時間になる。
冷凍庫にストックしていたチンするパスタをお母さんが準備してくれて、ふたりでテーブルに向かい合わせになって食べる。
私のは、トマトの酸味。お母さんは、和風のだし香り。
特に会話もなく、あつあつのパスタの湯気と、匂いだけが空間を包み込む。
「ごちそうさま」とお皿を片付けに席を立とうとすると、「さっちゃん」とお母さんが私を呼び止めた。
「明日は大人しくしてなさい」
その一言で、太い釘を背中に打ち付けられたような気分になってしまった。
私は返事もなく、シンクに皿を置いて、スポンジで洗い流して。そのままベッドに不貞腐れたように横になる。
見透かされている。母は監視の目を緩めないだろうし、隙を見せるつもりもない。むしろ、いつも以上に警戒心を強めて私のことを見張るだろう。
どうしよう。もう諦めるしかないのか。
やがて時間は無情にも過ぎていき、私は当初の計画通りに夜の九時過ぎには就寝。
目論見通り夜中の四時ごろに目を覚ましたが、私が少しベッドの中でもぞもぞと体を動かしただけで、暗闇の中――鋭く目を光らせる母と、視線が重なった。
「寝てなさい」
低く声が鳴る。やっぱり無理だ……と淡く息を吐く。
それから数時間。結局そのまま寝付くことができなかった私は、恐らくそのまま寝ずに私を見張っていたであろう母と共に起きて、朝食にヨーグルトを食べた。
あまい蜂蜜を掛けたのに、味がしない。時計の針を見る。午前八時。焦りは募っていく一方だ。
そのとき。インターフォンが鳴った。
母は音を立てないようにして椅子から立ち上がり、モニターを見に行く。そこに立っている姿を確認すると、母の顔色が目に見えて曇り、黙ってモニターのスイッチを切った。
「……誰?」
私が尋ねると、母は「勧誘よ」と怖いくらいに口角を上げた。
その口ぶりや、モニターを目にしたときの表情から、私は母が嘘をついているような気がした。すぐに感情が表に出てしまう人だ。なにか自分にとって、都合の悪いことがあったのではないか。
「本当に?」
私が怪しむと、母は「そうよ」と笑顔で言い切った。
いったい誰が来ていたのだろうか。
もやもやしながら、玄関に視線を向ける。
無理やり母親のことを押し倒して出て行ってしまえば、ひょっとしたら外に出ることはできるかもしれない。でも、そんなことはしたくないし、できないことも分かっている。
母のことを傷つけたくない。母のことが大切だから。どれだけ母に振り回されても、心の底に、母に対する愛情がなくなった日なんてない。
だからこそ苦しいし、こんな葛藤やせめぎあいなんてすることなく、気持ちよく送り出して欲しかった。
母に対する不信感と信頼と愛情がごちゃまぜになって、心をかき乱す。うっすらと涙が浮かんできて、すぐに袖で拭った。
そうこうしているうちに、時刻は正午に近づいてきた。
もうとっくに大会は始まっているだろう。
母親は、私が外に出るのを警戒してか、いつもは閉じている書斎の扉を開けたまま仕事をしている。
それでも私は諦めきれなかった。競技が続いているうちは、まだ彼のレースを見られる可能性があるかもしれない。
「ねえ、お母さん」
いてもたって居られなくなり、私はもう一度お母さんに懇願した。
「今日だけでいい。外に出して。友達の部活の試合を見に行きたい。本当にそれだけだから」
「だから、まだ無理をしたらだめなの」
「無理じゃない。もう歩けるよ。そうやって理由つけて外に出したくないだけでしょ」
頭が熱くなって、つい口調が厳しくなってしまう。
「友達とか、他人とか。信用したらだめだって……あれだけ思い知ったでしょ? いいからお母さんのことだけ聞いておきなさい」
そういって、笑顔のまま……あの黒目の大きな瞳で私をその場に縛り付けるかのように、視線を突き刺してくる。
とたんに、無力感に支配される。言い争いなんかしたくない。母と揉めたくない。でも……一生このまま、母の監視の元で生きていくしかないなんて、絶対に嫌だ。
外に出たい。大崎君が……私に勇気をくれたから。今度は私が彼の頑張っている姿を、しっかりとこの目に焼き付けなくちゃ。
そのときだった。
インターフォンが鳴った。
母がまた気配を殺すように歩きながらモニターを確認する。そこには、宅配の人が大きめの荷物を抱えて立っていた。印鑑が必要な、仕事関係のものなのか。今度はスイッチを切らずに、私の方をじろりと見つめて、足早に玄関から外に出て階段を降りていった。
これは――チャンスだ。
窓の外を見つめる。ここは二階だ。
そう思った瞬間、はっと思いついた。
鍵を解除し、窓を開ける。すぐさま玄関に走って行って靴を持って、クローゼットの中に隠れた。
それから間もなく、母が荷物を持って戻ってくる。リビングに入ると、窓が開いているのを見つけたのか、「さくらあああー!」と大声で外に向かって叫ぶのが聴こえた。
私は震えながら、ひたすら声を顰めた。すると母は慌てた様子で玄関を出ていき、階段を駆け降りていく足音が響いた。
母がいないのを確認して、クローゼットから出る。恐る恐る玄関から顔を出すと、母が家の周辺を血眼になって探している姿が目に入った。
急いで階段を降りて、母に見つからないように、逆方向へと走って逃げていく。
「お母さんごめんなさい……」
そう呟いて、私は増村さんの家へと走った。
商店街は土曜日だというのに、どこもシャッターが閉じていて、人通りもない。
空は薄く曇っていて、日差しはそこまで強くはない。
でも、私はすぐに汗だくになった。手足が棒のように動かなくなって、心臓はぎゅーっと締め付けられるように苦しい。
それでも私は必死に走って、商店街の裏通りに入っていき、増村さんの家までたどり着いた。
目に入ったのは、増村と書かれた表札のある一軒家に、目隠しのフェンス。窓のカーテンは閉められていて、カーポートに車はない。
嫌な予感がしながら、インターフォンを押す。
――反応はない。一縷の望みが絶たれてしまった私は、呆然としてしまった。
――どうしよう。こうなったらもう歩いていくしかない。二十キロ……何時間かかるのだろう。もしたどり着けたとしても、とっくに大会は終わっている。
それでも、行かなくちゃ――。
「さっちゃん」
その瞬間。背後から声が聴こえた。振り返ると、笑顔で私に視線を向ける母が、そこに立っていた。
「お母さん……」
「さあ、家に戻りましょう。ここにいたら車も通るし、危ないわ」
そう言って私の手を引く母。
しかし私は……その場に立ち尽くしたまま。ぼそりと喉を鳴らした。
「怒らないの?」
私の顔を見つめた母は、少し驚いたように目を見張った。
「え? そんなことしないわよ。お母さん、心配したんだから。ほら、早く家に……」
「怒ってよ」
母の手を振り払い、私は声を震わせた。
「どうしたの、さっちゃん……」
「ダメだって言ったのに。小細工までして、勝手に外に出たんだよ。怒ってよ。何で怒らないの?」
私の尖った声に、母は戸惑いを隠せない様子だった。
「怒るなんて……そんなことできないわよ。だって私は、さっちゃんのこと愛してるから」
「本当に愛してるなら」
母の言葉に被せるように、私は心の底から言葉を吐きだした。
「スーパーで鶏肉を触った時も……怒ってほしかった。それだけじゃない。会計前のお菓子を食べてしまったときも。こども服のお店で走り回って、小さい子にぶつかってしまったときも。雑貨屋さんでガラスの瓶を触って落としてしまったときも……」
「さっちゃん、私はね……」
「本当に愛しているのなら。私が間違ったことをしたときは、私のことを守るんじゃなくて。叱って欲しかった。その代わり……」
脳裏にはっきりと浮かび上がる、あの光景。母の靴を汚した、あの泥んこの砂と、母の笑顔。
「砂で手が汚れるとか、そういうことを気にするんじゃなくて……私が一生懸命に作ったお城を、褒めて欲しかった。私が頑張ったこと、見て欲しいっていったことを、認めて欲しかった。本当に愛しているなら、そうして欲しいって……ずっと思ってた」
沈黙がしばらく続いたのち、母は恐る恐る切り出した。
「さっちゃん……怒ってるの?」
それを聞いて、ついに私の感情は決壊した。
「見て分からない? 泣いてるんだよ。生まれてから、お母さんの子供になってから、ずっとずっと。そんなことも分からないのに、愛してるなんて言わないで!」
絶叫だった。
私と母を繋いでいた鎖を、丁寧に解くのではなく、無理やり引きちぎるような。そんな声が、住宅街のアスファルトを這っていく。
同時に私は、放心状態の母を残し、よろよろと商店街を歩き始めた。
そのまま大通りまで出て、道沿いの歩道を、一歩一歩踏みしめていく。
関節が痛い。呼吸も苦しい。
でももう、私には戻る場所もない。
このまま辿り着けるあてもなく、ひたすら歩き続けるしかなかった。
それから二十分ほど歩いただろうか。私の体力は、既に限界を迎えていた。
信号待ちで立っていることもままならなくなり、膝を折って点字ブロックの傍らにうずくまる。
すると、一台の車が傍らに止まる。運転席から出てきたのは、母だった。
「良かった……無事だったのね」
そう言って、母は私を強く抱きしめる。そのまま私は、母に促されるままに車の助手席に乗り込み、シートベルトを着用した。
これで元通りか――と、徐々に心の中が濁っていく。
私がどんなじたばたしても。こんな無力な自分では、何も変えることができなかった。
そんなことを考えながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると。私は奇妙なことに気がついた。
「あれ?」
この道順は……自宅でも、病院でもない。不思議に思っていると、母はハンドルを持って前方を見据えたまま答えた。
「……行くんでしょう?」
「え?」
私は眼を丸くした。もしかしてこの車は、総合運動公園に向かっている? どうして?
「いいの?」
車は信号を右折し、高速道路に乗った。ただ向かうだけでなく、急いでくれている。
母は、何も答えなかった。いや、答えてくれなかった。
それから十分。無言のまま高速道路を降りて、下道を走っていくと、運動公園の道路標識が見えた。この先一キロ。時刻は午後二時を回っていた。
丘を登っていくと、運動公園の陸上競技場が見えてきた。整理員さんに従って、駐車場に車を停める。
エンジンを停止し、シートベルトを外す。運転席の母はうつろな目のまま、俯いている。
「お母さん……さっきは」
私が冷たく言い放ってしまったことを謝ろうとすると、母は目に涙を貯めながら切りだした。
「お母さんはね……ずっと、ひとりぼっちだったの。両親にも、祖父母にも愛されなくて。お父さんにも裏切られて。だから、さっちゃんが生まれて来た時は本当に嬉しくて。たくさん愛して、大切にして……幸せにしなくちゃって思ったわ」
憔悴しきった様子の母は、私の顔を見て、さらに言葉を続ける。
「でも……気が付けば私は、さっちゃんの生きる道を……迷わないように、明るく照らして、先導しているつもりで。自分がまたひとりぼっちにならない為に、必死だったの」
母は運転席から手を伸ばし、私の手をぎゅっと握りしめた。
「さっきのことはいいの。さっちゃんの言う通りよ。私は親失格。本当は、喜ばなくちゃいけないの。ああやって拒絶することも、子供が自立する上で、必要な過程だから。だから、わたしのことを嫌いになってもいいのよ。私はそれだけのことを、さっちゃんにしてきたんだから」
母の顔は、必死にこらえているけれど、涙でぼろぼろになっていた。
「さっちゃん……今までごめんね。だから……親として、ちゃんと言わせて」
「お母さん……」
私も涙ぐむと、母は笑顔になった。目の奥に冷たいものを隠した笑顔じゃなくて。優しくて、私を安心させたいという想いの詰まった、本当の微笑みを浮かべて。
「いってらっしゃい」
そして母は、私の手を放した。
私が助手席を降りても、母はついてくることはなく、車に乗ったまま。
競技場の方まで少し歩いて――私は引き返した。そして、運転席の窓ガラスを叩く。
「お母さん」
窓ガラス越しに、母が困ったような顔をして、私を見ている。
「私は――どこにいても。離れ離れになっても。ずっとお母さんの娘だよ。ひとりぼっちじゃないよ。お母さんのこと――嫌いになんてならないから。ずっと大好きだから」
そして最後に「ありがとう――お母さん」と言い残し、私は再び競技場へと歩き始める。
一度だけ振り返ると――母はじっと私の姿を見守っていた。
陸上競技場の付近には、いろんな高校のジャージ姿の学生たちがたくさんいて、日陰にシートを敷いて待機していたり、ストレッチをしていた。
どこから入ったらいいんだろう。
おどおどしながら、受付のような場所に帽子を被ったジャージ姿の人がたくさんいるのをみつけ、「すいません……」と声を掛けようと近づく。
すると場内から、大きな歓声が聞こえてきた。びくびくしていると、係員さんが場内の案内とタイムスケジュールを渡してくれた。
「ありがとうございます。今から……何が始まるんですか」
「男子のハードルの決勝ですよ」
よかった……まだ終わってなかった。慌てて階段を駆け上がり、スタンドに出る。
その瞬間、一気に空が広がって、観客で埋め尽くされたスタンドの熱気に圧倒された。
「うわ……」
トラックにはハードルが等間隔にレーンを埋め尽くしている。
観客の視線を集めるスタートラインには、八人の選手が並んでいた。ビジョンに目を凝らすと、その中に――四レーン、大崎大翔、という名前があった。
「ヒロトーファイトー!」
近くの観客席で、大きな歓声が上がる。そう叫んでいた女の子のジャージの背中には、明尚高校の文字があった。
よく見たらあの子……見覚えがある。本山さやかさん。夢の中で、靴を貸してくれた女の子だ。
夢で見た記憶と、現実世界の光景が、少しずつ同期していくのを感じる。
「ねえ、君……」
トラックを眺めていると、急に声を掛けられ、視線を向ける。そこには――学校訪問でお世話になった山下先生が、驚いた表情で私を見つめていた。
「やっぱり。森内咲良さん――だよね?」
「は、はい。お、お久しぶりです」
「良かった。意識戻ったんだね。事故に遭ったって聞いて、何度も病院に行ったし、今日も朝自宅に伺ったんだけど、誰も出てこなかったから……本当に心配してたんだよ」
「あ、ありがとうございます」
そうか。朝のインターフォンの正体は、山下先生だったのか……と腑に落ちる。
「今日は……どうしてここに?」
不思議そうに尋ねてくる先生に、私は「あ、あの……友達の応援に」と言って誤魔化す。
まさか夢で会ったことしかない、大崎君を見に――なんて言えない。
「そっか。大切な友達なんだね」
「……はい」
照れくさくて俯くと、先生は「ほら、始まるよ」と言ってスタート地点を指さした。
選手紹介で歓声が上がり、今度は打って変わったように会場が静まり返る。
「いちについて」
選手たちがブロックに足をつけ、手をついて前傾姿勢をとる。大崎君は、その中心にいて――落ち着き、堂々とした様子に見えた。
そして、号砲の直前。一瞬だけ顔を上げた。その視線が、観客席の――こちらに向いているように見えた。
「用意」
緊張がさらに高まる。私は気が付けば、両手を合わせて祈っていた。
神様。もしもいるのなら、あれだけ頑張って……大怪我という困難を乗り越え、恐怖心に打ち勝ち、あの舞台に戻って来た大崎君に、力をください。私なんて祈るしかできないけど、どうかお願いします――。
全員の腰が上がる、そして、瞬きを数回している間に、空気を切り裂くかのような号砲が鳴った。
八人全員が、横一線で飛び出す。大崎君は、少しだけ、一歩分だけ出遅れてしまっているように見えた。
さっきまでとは打って変わって、地鳴りのような歓声が沸き起こる観客席。そのさなか、選手たちはトップスピードでハードルに突っ込み、一定のリズムで駆け抜けていく。
大崎君は、一台目のハードルを越えた時点で、五番目か、六番目くらい。先頭の一人が抜けていて、追いかけるように四人が並んでいる。
三台目、四台目、ハードルを超えていきながら、五台目あたりで大崎くんがグッとスピードをあげたように見えた。
六台目で、一気に二人を抜く。七台目で、少しバランスを崩した一人を交わし、一歩前に出た。
ぐんぐんと追い上げていく大崎君の目の前には、あと一人。そして、八台目を越えた時点で先頭に並び、最後のハードル――。
勢いのまま突っ込んでいった大崎君の、後ろの足が、ハードルに激しく接触する。
そのままバランスを崩した彼の身体は、ゴールを目の前にして――トラックに激しく打ち付けられた。
さっきまでの歓声が――悲鳴に変わる。
残りの七人は、次の瞬間にはゴールラインを駆け抜けていき、トップでゴールした選手が両手を上げて喜びを爆発させている。
倒れたハードルの傍で、トラックに膝をついたまま動けない大崎くん。ざわつく観客席。
しかし、顔を上げた彼の眼から――光は消えていなかった。
よろよろと、足を引きずるように、数メートル先のゴールラインを目指していく。
「ファイト―!」
すると、隣にいた彼と同じ高校の集団から、大きな声援が上がった。呼応するかのように、やがてスタジアム全体が声をあげて、彼の背中を押すように、大きな拍手に包まれていく。
一歩一歩、確実に歩みを進めた彼は、やがてゴールラインを越え――くるりと向き直り、トラック、観客席に一礼をして、レースを終えた。
私は、その光景を見て、震えが止まらなくなっていた。
あれだけハードルを飛ぶことを恐れていた彼が――ギリギリまで攻めたんだって。その結果ぶつかってしまったけど……あそこまで全力を尽くした彼の姿に、釘付けになっていた。
すると、さっきまで近くで応援していた同じ高校の仲間たちが、スタンドから階段を使って降りていく。
「ほら。君も行ってきなよ」
ぼーっと見つめていると、山下先生が笑顔で背中を押してくれた。
私は彼らの後を追って階段を降り……気が付けばゴール近くのトラックの脇にいた。
レースを終えた選手たちが互いの健闘を労いあい、彼らと同じ学校の生徒たちが出迎えて拍手を送っている。
そんな中、マネージャーらしき坊主頭の生徒に肩を貸してもらいながら歩く、大崎くんの姿を――視界に捉えた。
胸の鼓動が高鳴る。こんな至近距離で、初めて彼のことを見た。
夢じゃない。ここは、紛れもなく現実だ。
明らかに無関係なジャージ姿で浮いている私は、その場に立ち尽くしたまま。
すると、仲間たちに囲まれている彼が、私のことを見つけた。
彼の視線が固まる。表情に、驚きと戸惑いが入り混じっている。
とたんに――私の胸が、不安でいっぱいになる。
私は、どうみられているのだろう?
会ったこともないし、話したこともない。新聞記事ではああいうコメントしてくれていたけど、私のことだという確信もない。
離れた場所で、そわそわしながら落ち着きなく視線を注いでいると――。
大崎くんが、坊主頭の彼――そうだ、夢の中でクラスメートだった、高橋くん――彼に、何か耳打ちをした。高橋くんは驚いた表情で私のことをみつめ、やがて笑顔で大崎くんの肩をそっと離す。
すると――ゆっくりと、一歩一歩、彼が私の元に向かってくる。
私は心臓の音がどんどん早くなっていくのを感じていた。
そして彼が、目の前に立つ。緊張で固まる私。
互いに見つめ合ったまま、一瞬の静寂が横切る。
――そのあとに、彼は優しく微笑んだ。
「……見てた?」
そのひとことで、分かった。――彼だ。
夢の中で、定期を一緒に買いに行ってくれた。靴を借りてきてくれた。
もっと私が素直になれる存在でいたいって。
この時間が続いて欲しいって。
楽しいって……言ってくれた。
彼と共有した、かけがえのない言葉と、思い出が、脳裏に蘇ってくる。
「……はい」
照れて、俯きながら答える。すると、彼は腰に手をつき、悔しそうに言った。
「そっか。でもなあ……こけちゃったよ。最後の最後で。かっこ悪……」
ちらりと彼の足を見る。転んだときに擦りむいたのか、膝には血がにじんでいる。
その瞬間、ぐっと堪えたけど。目の奥が熱くなって。視界に涙が滲んだ。
「……かっこ悪くないです」
夢の中で見た、グラウンドでひとりぼっちでハードルを見つめる、あの姿。
彼がどれだけ苦しんでいたか。悩んでいたか。
苦悩を乗り越えて、あのスタートラインに立ったのか。
その気持ちを思うと、涙がとめどなく押し寄せてくる。
「だって、最後まで走ったじゃないですか。……あのままやめても、順位は変わらないのに」
彼は背負ってたんだって。
私に言ってくれたから。お前もスタートラインに立てよって。
あのまま陸上をやめるという選択肢もあったのに。
私が頑張りたいって思えるように、最後まで走ったんだ。
「かっこよかったよ」
彼のことを尊敬する。彼の努力を、真剣さを。そして、優しさを。
全部ひっくるめて、そのひとことに込めた。
「――ありがとう」
彼の低い声が、耳元で聴こえて。大きな手のひらが、優しく私の頭を包み込む。
泣いている私の肩を抱いて、そのままぎゅっと彼の胸の中に納まった。
遠くの方で、黄色い悲鳴が聞こえる。
すれ違う、他校の選手や、関係者の人たちも。びっくりした顔をして通り過ぎていく。
まるで、私たちだけ、時間が止まっているみたいだ。
あの――桜の散らない街で。過ごしていたときみたいに。
「お前も頑張ったんだな」
小さく首を横に振る。でも彼は、もっと私の背中を強く抱き寄せて、声を震わせた。
「正直、見に来てくれているなんて――思わなかった」
彼は知っていた。私の母親のこと。学校をやめて、事故に遭ったこと。
――増村さんからきいたって。そして彼女も、この競技場に見に来てくれている。
だから、けさ家を訪ねてもいなかったのか、と腑に落ちた。
「お母さんは?」
「……ここまで送ってくれました」
すると彼は――私の顔を見て、嬉しそうに頬を緩めた。
「良かったな……お前も。お母さんも」
「……はい」
彼が、喜んでくれている。すると私も、嬉しくなる。
ここに来られて。彼に会いに来てよかった、と。心の底からそう思う。
「好きになれたか」
はっとして、言葉の降って来たほうを。彼の顔を見あげる。迷いのない、凛とした眼だ。
面映ゆくて、視線を逸らす。その数秒の間に、考えた。
私なりに越えて来たハードルの数を、指折り数えるみたいに。
「……少しずつ。でもまた、嫌いになるかもしれません」
私の唇から放たれた言葉に、彼の表情は困惑の色を浮かべる。
「でも、楽しいです」
「……楽しい?」
「はい。自分のことは相変わらず――ですけど。あなたのことを好きな自分は、好きかもしれないです」
「だから、楽しい?」
「……はい」
トラックから、撤去されたハードルが、キャリーに乗って運ばれてくる。
私たちは脇によけて、その光景を眺めた。
空の下のスタートラインには、選手が並んで、アップを行っている。
観客席は、次の号砲を心待ちにしている。
応援したり、されたり。
勝ったり、負けたりを、繰り返して。
こうして並んで立っている私たちは、そんなサイクルをひとつ、終えただけで。
私なんて……彼みたいに、万雷の拍手を浴びるほど全力を尽くしたとはいえない。
そんなことを考えていると、高橋くんが、私たちを手招きしているのが見えた。
そろそろ戻らなくちゃ、と。彼の横顔を見る。
すると……ほぼ同時に、彼の口が動いた。
「なあ、咲良」
「……はい」
「今、俺のこと、好きって言った?」
桜の散らない街で。
かつて私は立ち止まり、彷徨い続けていた。
孤独と諦めと絶望の中、見上げた光景。
あの桜は、教えてくれたのかもしれない。
いつか散るとわかっているからこそ。
その儚さゆえに、人は桜を美しいと感じるんだって。
でも、決してその光景に見惚れたまま――立ち止まっていてはいけない。
私たちが出会ったこの季節も、また移り替わり、いつか消えていく。
桜も、何度も咲いたり、散ったりを繰り返すだろう。
今日みたいに、嬉しくて泣く日もあれば。
寂しくて、切なくて、泣きたくなる日も来るはず。
でも――それでも私は。
今この瞬間を、永遠にしたい。
私は、今まさにときめいている。
彼という季節に、出会い、心動かされている。
そして、思い知らされるのだ。
それでこそ、恋だと。
胸の中で、萌えたこの恋に――。
たとえ一瞬だろうと、永遠だろうと、全力で向き合うべきだって。
「言ったよ」
私は笑った。
心の底から湧き上がるエネルギーを、そのまま映し出すかのように。
かつて自分の心を、人目のつかないところにずっとずっと閉じ込めていた私は――もうどこにもいなかった。
「い、行くか?」
「さすがにそれはないんじゃないか」
「隣、座るぞ」
「……いや、全然。いい匂いっていうか……檸檬だよな? 香水とかつけてるのか?」
「ああ、いい。もういいから。別に怒ってねえから」
「ええと、森内……って、普段からそんな感じなのか?」
「意地悪してくる奴でもいるのか?」
「俺は、そういう奴じゃないから安心しろ」
「ごめんごめん。どうすっかな。スリッパ……は目立つから。陸部の部室に良さそうなのがあったら借りてくるか」
「桜は……まだ咲いていたか?」
「ところで森内……いや、なんでもない」
「森内って、そそっかしいところあるんだな」
「それ、もう十回くらい聞いたから。いいよ」
「何か……気持ちが分かるからかな」
「なんていうか。似てるっていうか」
「そうそう。不器用なんだよきっと。だから、もっと素直になれる存在でいたいなって」
「うん。だから、遠慮しなくていいし。気楽に話したり、頼ったり……してもいいよ」
「全く笑わないわけじゃないぞ。でも確かに普段はそんなにかなあ」
大崎大翔。
誰もいない世界の、広くて明るくて、それなのに空虚な、空の下。
かつてふたりで歩いた、倉庫の前。ハードルの並んだ、グラウンドで。
再びひとりぼっちになってしまった私は。彼がくれた言葉の残骸を、ひとつひとつ拾い上げていた。
どれも鮮明で、重くて、優しくて、暖かい。
空っぽだったわたしの心を、満たしてくれる、言葉の数々。
そしてまたひとつ。特に私に深く浸透した言葉を、手に取る。
「楽しいからだよ」
嬉しかった。ドキドキした。こんな気持ちになれるなんて、思わなかった。
「――ずっと続かねえかな、この時間」
私の存在を、肯定してくれる。同じ時間を共有できる。
彼は、そう思える存在だった。そして、彼もそう思ってくれているんだって、安心できた。
でも――彼の心の傷ついた場所に、触れようとしたとき。
私は思い知った。
こんな自分では、彼に何も与えることができない。力になれない。
支えることはおろか、彼の妨げになる。困らせてしまうことしかないって。
「もう元には戻れないって、何となくわかるんだ」
「憧れだの、カリスマだの、ヒーローだの……みんなが求めている俺は、そのハードルの前で砕け散って消えたんだ。例え復帰したとしても。かつての姿に戻れなければ、またみんなをがっかりさせることになる。それならもう――」
「ごめん。言い過ぎた」
「教えてくれないか」
「いや……本当の君のこと」
「ここにいるのはお前だけじゃない。ここは俺と、お前の世界だ。お互いが望んだんだから、この時間が――この世界があるんじゃないのか」
まるで砕け散った破片のような言葉が、つぎつぎに蘇ってくる。
そして、最後に拾い上げた言葉を。私は直視することができなかった。
「好きだから」
彼のことが、眩しかった。
だからこそ、私は行方を眩ませた。彼が追いかけて来られないような、どこか遠くに。行かなければいけないと思った。
それなのに、私は――。最も彼を傍に感じたあの場所に居座って、動けないでいる。
何日も、何日も。誰もいなくなった校舎の中を歩き回り。教室からグラウンドを見下ろし、こうしてまたこの場所に戻ってくる。
彼にもらった言葉を拾い集めながら、思い出しながら。
太陽が沈むよりも先に、日付だけがめくり替わっていった。
そうして私は、だんだんこう思うようになっていた。
このまま消えていくべきだって。そうしないと、また彼がここに現れるかもしれない。
その前に、どこかに隠れて――そのうちに……。
そうしてすぐに、体育倉庫の中に入り、シャッターを降ろし、内側から鍵を掛けた。
真っ暗闇の中で、私は黙って膝を抱いた。
こうしていると、少しずつ自分という存在が、暗闇の中に溶けていく気がした。
それでいい。そう思っていた。
しかし、あるとき。私の心の外側から、声が聴こえた。
「何もできないってなんだよ。お前も俺と同じだ。そうだろ? だったら、俺はやるよ。だから、お前もスタートラインに立てよ。立てるはずだぞ! 咲良!」
それは、私の手元にない言葉だった。この世界の外側にいる、彼の声だ。
涙が零れて、膝を濡らした。本当は、怖い。寂しい。こんな場所にいたくない。
もっと彼の声が聴きたい。
自分の気持ちが、胸の奥で騒めき始めた。その音が鳴りやまなくなって、頭を抱えて、声を絞り出す。
今の自分を……好きになりたい。
嫌いだって思う自分を変えるために。
もう一度やり直したい。
すると、その瞬間。シャッターが閉じているのに。世界が明るくなった。
――光だ。
眩しくて、目を細める。
何かが鳴っている。それは、インターフォンの音だった。
くらくらする意識のなか。わたしは、手探りでその音に触れようとするみたいに、必死で自分の身体を動かした。
すると、指先が冷たい何かに触れた。カン、と関節に小さな痛みが走る。
動く。もっと動きたい。必死に体の中にあるエネルギーをかき集めて、感覚のない手足に力を込めた。
ドスンッ。
「うっ」
今度は、背中に激痛が走った。痛い。呻くように体を捩じらせながら、私は視線の先に天井があることに気が付いた。
そして、台所の方でバタバタと歩き回っている母親の背中を見つけ、呻くように言った。
「お母さん……」
唇は、乾いてひび割れている。喉が掠れる。
体の節々が痛い。腰も、肩も、全部痛い。でも――私だ。ここに私がいる。
母は台所でバケツに目いっぱい水を溜め、床に零しながら裏口に歩いていくと、そのまま外に出ていった。
「さっさと消えなさい! 咲良に近づかないで!」
母の怒声が聴こえたのは、それから間もなくだった。
びくっとして、床にへたり込んでいる私は、やがて部屋に戻って来た母と、目が合った。
「……咲良? え? 咲良?」
バケツを床に放り投げ、何度もそう呟きながら私に抱き着いてくる。
「ああ……咲良。良かった。目が覚めたのね。ずっとずっとずっと、この日が来るのを待ってたのよ」
母の服は、ずぶ濡れになっていた。濡れた服が触れることを不快に感じて、母の温もりに集中することができない。
「……ねえ。誰が来てたの?」
母は脇腹が締め付けられて痛いくらいに、さらに強く私を抱きしめた。
「誰だっていいじゃない」
「ねえ、教えて」
すると母は、満面の笑顔を私に見せて。もう一度私をぎゅっと抱きしめた。
「あなたには関係のないことよ。さあ、先生を呼ばなくっちゃ」
それからバタバタと、うちに色んな人がやってきた。お医者さんとか訪問介護士さんたち。保険のなんちゃらとか、よく知らない人たちも含め。
みんな一様に、私の意識が戻ったことを喜んでくれた。
全く覚えていないけれど……これだけたくさんの人のお世話になって、支えられていたんだってことに気が付いて。感謝の気持ちで一杯になった。
病院に行って検査をするように勧められたけど。母は「家でリハビリをします」と言って譲らなかった。
それ以来、母は熱心に私に話かけてくれて。体を気遣ったり、できることはなんでもやってくれた。
わたしにとっても、二階の窓から外の景色を見つめたり。本やテレビを見たり。母の作ってくれた料理を食べたり。
今までのすべての当たり前が、新鮮で。嬉しくて。
リハビリは辛かったけど。少しずつ戻っていく感覚に、生きているって実感があった。
少しずつではあるけど、ある感情が芽生えていた。
それは、かつての自分なら、絶対に感じることのないものだ。
でも、まだまだだと思う。胸を張ってそう思えるようになるには、もっともっと頑張らないと。
頑張って、自分がやるって決めたことを行動に移さないと。
目を覚まして、六日ほどたった朝。リビングのテーブルの上に置いてある新聞を手に取り、それとなく眺めていた。
すると、ローカルニュースを紹介する紙面に、目が留まった。
【練習中の大怪我からの復帰期す 明尚高校陸上部二年 大崎大翔】
小さな記事だった。そこには、夢の中で出会った彼が、私に教えてくれたことが記載されていた。
ハードルに衝突し、膝を開放骨折。一度は競技から離れたが、家族や友人の支えで復帰を決意。
私は驚いた。夢の中で、自分が作り上げた存在だと思っていた彼が。こうして実在すること。そのコメントの中に、耳に覚えのある一文があった。
「事故に遭って苦しんでいる友人に。戻って来いよって、伝えたい。そのために、自分も頑張っている姿を見せたい」
新聞に、ぽつりと涙が滴り落ちる。
――大崎くん。頑張ってたんだ。あんなに酷いことを言ったのに、私との約束を、忘れていなかった。
紙面には、翌日の昼には高校総体の地区大会に挑む、と書いてある。
私にできることなんて……という弱気な私は、もういなかった。
私はすぐに、母の元に向かった。前はずっとベッドを設置してあるリビングにいて私の傍に居てくれたらしいけど、今は書斎にこもってずっと仕事をしている。
ドアをノックする。すると、中から母の声が帰って来た。
「なあに?」
私は躊躇する自分を目いっぱい鼓舞して、勇気を出して切り出した。
「明日……外に出たらだめかな。県の総合運動公園に行きたいんだけど」
そこは、車で一時間ほどかかる場所にあった。意識が戻ったばかりの私が、単独で行くには条件が厳しすぎる。
ここは……母に頼るしかない。しかし、沈黙の後……返って来た言葉は、想像通りのものだった。
「やめておきなさい」
唇を噛む。掌に汗が滲む。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「どうしても行きたい。ダメだっていうなら、自分で行くよ」
すると、母の呆れ混じりの声が返ってくる。
「無理をして何かあったらどうするの。大人しくしておきなさい」
その声は、私のことを心配しているのには違いないんだけど……どこか、私が自立して行動することを制したいんじゃないかと、思えてしまった。
「しないよ。もう、私行くって決めたんだ」
すると、扉が開いた。
「あなたは分かってないのね。自分で決めた学校に転校したいとか言い出した時を思い出してごらんなさい? 素直に大人しく私の言う通りに行動しておけば、そんな目に遭うことはなかったでしょう? もう誰の事も信用したらダメ。私がついているから。分かったら変な気を起こすのはやめて、ベッドに戻りなさい」
母は笑顔で私を諭して、再び扉が閉めた。
私はとぼとぼとリビングのベッドへと戻り、大の字になり、天井を見つめた。
スマホを開く。ネットは繋がっていない。Wi-Fiの電波は飛んでいるが、私が目を覚ました時にはパスワードを変えられてしまっていた。
自力で外出するのも困難で、外部の情報が遮断されている私は――まさしく、この部屋に監禁されている、といっても差し支えない状態だ。
大会が行われる総合運動公園のある場所は、正確には分からない。ただ、隣の市にあることは確かだから、おおよその方角は分かる。
最寄りのバス停まで、ここから二百メートル。運転手さんに聞いたりして、そこから乗り継いでいけばどうにか辿り着けるかもしれない。
問題はお金だ。いつも鞄の中に入れていた財布は、なくなっていた。母が隠したのだろう。
ならば――と、一瞬よからぬ考えが頭を過るが、すぐに振り払うかのようにかぶりを振る。
そんなことしちゃだめだ。私はちゃんと自分の足で、自分の力で行かなくちゃ。お母さんから盗むなんてもってのほかだ。
しかし、そうはいっても徒歩で何十キロも離れた場所まで移動するのは現実的ではない。
髪の毛をくしゃくしゃっとし、目を瞑ってベッドのシーツに顔を埋める。
そうして、何十分が経過しても、何も考えは浮かんでこない。
机の上に置いていたスマホを手に取る。ぼんやりと触りながら、ふと思った。
自力――で行くのは、無理かもしれない。でも、母以外の、誰かの力を借りられたら――。
ラインを開く。メッセージの履歴に、お母さん以外で、唯一名前のある人物。
――増村御子。彼女の家なら、中学生の頃に何度か遊びに行ったことがある。
ここから徒歩で十分くらいだ。住所が変わってなければ、尋ねて協力をお願いできるかもしれない。
希望が湧いてきて、胸の鼓動が自ずと早まる。とはいえ、落ち着いて考えを練らなくちゃと、そのための道筋を、頭の中で組み立てた。
明日は土曜日だ。増村さんに用事がなければ、早朝ならば家にいる可能性は高いだろう。ただ、あんまり朝早いと寝ているだろうし、彼女のみならず彼女のご家族にも迷惑をかけてしまう。
行くとしたら、朝の九時か十時くらいか。そこから彼女の力を借りて会場に入れば――陸上の大会のことは分からないけど、競技の日程次第では、彼の走る姿を見られるかもしれない。
だとしたら、九時前にはこの家を脱出する必要がある。この部屋は2LDKで、母の目を盗んで抜け出すのは至難の業だ。運よく外に出られたとしても、体力のない私が走ったりして逃げ切るのは体力的に厳しいに違いない。
身体を起こし、ベッドの端に腰掛けて、母の書斎の方をちらりとみる。
扉は閉まっていて、物音は聴こえない。中には仕事スペースがあり、在宅で仕事をしている。打ち合わせをしているのか、電話をしている声が聞こえることもある。
そのタイミングをうまく狙えば……。ただ、いつ電話がかかってくるのか分からないし、都合よくその隙が生まれる可能性は低いだろう。
ならば……母が寝ている隙に、と考えたが。母は私のすぐ隣のベッドで寝ているし。母は神経過敏で些細な物音で目を覚ましてしまうたちだから、こっそりと抜け出すのも難しいだろう。
でも……賭けるとしたらその手しかない。
早めに就寝して、母がまだ寝ているであろう時間――音の出るアラームは使えないから、深夜の三時か四時くらいに自然に目を覚ます。着替えをする時間はないと思うけど、就寝するときはいつもジャージ姿だから、そのまま外に出てもそこまで違和感はないだろう。
ひととおり計画を練り上げて、イメージトレーニングを重ねる。そこから横になって本を読んだりしながら夕食の時間になる。
冷凍庫にストックしていたチンするパスタをお母さんが準備してくれて、ふたりでテーブルに向かい合わせになって食べる。
私のは、トマトの酸味。お母さんは、和風のだし香り。
特に会話もなく、あつあつのパスタの湯気と、匂いだけが空間を包み込む。
「ごちそうさま」とお皿を片付けに席を立とうとすると、「さっちゃん」とお母さんが私を呼び止めた。
「明日は大人しくしてなさい」
その一言で、太い釘を背中に打ち付けられたような気分になってしまった。
私は返事もなく、シンクに皿を置いて、スポンジで洗い流して。そのままベッドに不貞腐れたように横になる。
見透かされている。母は監視の目を緩めないだろうし、隙を見せるつもりもない。むしろ、いつも以上に警戒心を強めて私のことを見張るだろう。
どうしよう。もう諦めるしかないのか。
やがて時間は無情にも過ぎていき、私は当初の計画通りに夜の九時過ぎには就寝。
目論見通り夜中の四時ごろに目を覚ましたが、私が少しベッドの中でもぞもぞと体を動かしただけで、暗闇の中――鋭く目を光らせる母と、視線が重なった。
「寝てなさい」
低く声が鳴る。やっぱり無理だ……と淡く息を吐く。
それから数時間。結局そのまま寝付くことができなかった私は、恐らくそのまま寝ずに私を見張っていたであろう母と共に起きて、朝食にヨーグルトを食べた。
あまい蜂蜜を掛けたのに、味がしない。時計の針を見る。午前八時。焦りは募っていく一方だ。
そのとき。インターフォンが鳴った。
母は音を立てないようにして椅子から立ち上がり、モニターを見に行く。そこに立っている姿を確認すると、母の顔色が目に見えて曇り、黙ってモニターのスイッチを切った。
「……誰?」
私が尋ねると、母は「勧誘よ」と怖いくらいに口角を上げた。
その口ぶりや、モニターを目にしたときの表情から、私は母が嘘をついているような気がした。すぐに感情が表に出てしまう人だ。なにか自分にとって、都合の悪いことがあったのではないか。
「本当に?」
私が怪しむと、母は「そうよ」と笑顔で言い切った。
いったい誰が来ていたのだろうか。
もやもやしながら、玄関に視線を向ける。
無理やり母親のことを押し倒して出て行ってしまえば、ひょっとしたら外に出ることはできるかもしれない。でも、そんなことはしたくないし、できないことも分かっている。
母のことを傷つけたくない。母のことが大切だから。どれだけ母に振り回されても、心の底に、母に対する愛情がなくなった日なんてない。
だからこそ苦しいし、こんな葛藤やせめぎあいなんてすることなく、気持ちよく送り出して欲しかった。
母に対する不信感と信頼と愛情がごちゃまぜになって、心をかき乱す。うっすらと涙が浮かんできて、すぐに袖で拭った。
そうこうしているうちに、時刻は正午に近づいてきた。
もうとっくに大会は始まっているだろう。
母親は、私が外に出るのを警戒してか、いつもは閉じている書斎の扉を開けたまま仕事をしている。
それでも私は諦めきれなかった。競技が続いているうちは、まだ彼のレースを見られる可能性があるかもしれない。
「ねえ、お母さん」
いてもたって居られなくなり、私はもう一度お母さんに懇願した。
「今日だけでいい。外に出して。友達の部活の試合を見に行きたい。本当にそれだけだから」
「だから、まだ無理をしたらだめなの」
「無理じゃない。もう歩けるよ。そうやって理由つけて外に出したくないだけでしょ」
頭が熱くなって、つい口調が厳しくなってしまう。
「友達とか、他人とか。信用したらだめだって……あれだけ思い知ったでしょ? いいからお母さんのことだけ聞いておきなさい」
そういって、笑顔のまま……あの黒目の大きな瞳で私をその場に縛り付けるかのように、視線を突き刺してくる。
とたんに、無力感に支配される。言い争いなんかしたくない。母と揉めたくない。でも……一生このまま、母の監視の元で生きていくしかないなんて、絶対に嫌だ。
外に出たい。大崎君が……私に勇気をくれたから。今度は私が彼の頑張っている姿を、しっかりとこの目に焼き付けなくちゃ。
そのときだった。
インターフォンが鳴った。
母がまた気配を殺すように歩きながらモニターを確認する。そこには、宅配の人が大きめの荷物を抱えて立っていた。印鑑が必要な、仕事関係のものなのか。今度はスイッチを切らずに、私の方をじろりと見つめて、足早に玄関から外に出て階段を降りていった。
これは――チャンスだ。
窓の外を見つめる。ここは二階だ。
そう思った瞬間、はっと思いついた。
鍵を解除し、窓を開ける。すぐさま玄関に走って行って靴を持って、クローゼットの中に隠れた。
それから間もなく、母が荷物を持って戻ってくる。リビングに入ると、窓が開いているのを見つけたのか、「さくらあああー!」と大声で外に向かって叫ぶのが聴こえた。
私は震えながら、ひたすら声を顰めた。すると母は慌てた様子で玄関を出ていき、階段を駆け降りていく足音が響いた。
母がいないのを確認して、クローゼットから出る。恐る恐る玄関から顔を出すと、母が家の周辺を血眼になって探している姿が目に入った。
急いで階段を降りて、母に見つからないように、逆方向へと走って逃げていく。
「お母さんごめんなさい……」
そう呟いて、私は増村さんの家へと走った。
商店街は土曜日だというのに、どこもシャッターが閉じていて、人通りもない。
空は薄く曇っていて、日差しはそこまで強くはない。
でも、私はすぐに汗だくになった。手足が棒のように動かなくなって、心臓はぎゅーっと締め付けられるように苦しい。
それでも私は必死に走って、商店街の裏通りに入っていき、増村さんの家までたどり着いた。
目に入ったのは、増村と書かれた表札のある一軒家に、目隠しのフェンス。窓のカーテンは閉められていて、カーポートに車はない。
嫌な予感がしながら、インターフォンを押す。
――反応はない。一縷の望みが絶たれてしまった私は、呆然としてしまった。
――どうしよう。こうなったらもう歩いていくしかない。二十キロ……何時間かかるのだろう。もしたどり着けたとしても、とっくに大会は終わっている。
それでも、行かなくちゃ――。
「さっちゃん」
その瞬間。背後から声が聴こえた。振り返ると、笑顔で私に視線を向ける母が、そこに立っていた。
「お母さん……」
「さあ、家に戻りましょう。ここにいたら車も通るし、危ないわ」
そう言って私の手を引く母。
しかし私は……その場に立ち尽くしたまま。ぼそりと喉を鳴らした。
「怒らないの?」
私の顔を見つめた母は、少し驚いたように目を見張った。
「え? そんなことしないわよ。お母さん、心配したんだから。ほら、早く家に……」
「怒ってよ」
母の手を振り払い、私は声を震わせた。
「どうしたの、さっちゃん……」
「ダメだって言ったのに。小細工までして、勝手に外に出たんだよ。怒ってよ。何で怒らないの?」
私の尖った声に、母は戸惑いを隠せない様子だった。
「怒るなんて……そんなことできないわよ。だって私は、さっちゃんのこと愛してるから」
「本当に愛してるなら」
母の言葉に被せるように、私は心の底から言葉を吐きだした。
「スーパーで鶏肉を触った時も……怒ってほしかった。それだけじゃない。会計前のお菓子を食べてしまったときも。こども服のお店で走り回って、小さい子にぶつかってしまったときも。雑貨屋さんでガラスの瓶を触って落としてしまったときも……」
「さっちゃん、私はね……」
「本当に愛しているのなら。私が間違ったことをしたときは、私のことを守るんじゃなくて。叱って欲しかった。その代わり……」
脳裏にはっきりと浮かび上がる、あの光景。母の靴を汚した、あの泥んこの砂と、母の笑顔。
「砂で手が汚れるとか、そういうことを気にするんじゃなくて……私が一生懸命に作ったお城を、褒めて欲しかった。私が頑張ったこと、見て欲しいっていったことを、認めて欲しかった。本当に愛しているなら、そうして欲しいって……ずっと思ってた」
沈黙がしばらく続いたのち、母は恐る恐る切り出した。
「さっちゃん……怒ってるの?」
それを聞いて、ついに私の感情は決壊した。
「見て分からない? 泣いてるんだよ。生まれてから、お母さんの子供になってから、ずっとずっと。そんなことも分からないのに、愛してるなんて言わないで!」
絶叫だった。
私と母を繋いでいた鎖を、丁寧に解くのではなく、無理やり引きちぎるような。そんな声が、住宅街のアスファルトを這っていく。
同時に私は、放心状態の母を残し、よろよろと商店街を歩き始めた。
そのまま大通りまで出て、道沿いの歩道を、一歩一歩踏みしめていく。
関節が痛い。呼吸も苦しい。
でももう、私には戻る場所もない。
このまま辿り着けるあてもなく、ひたすら歩き続けるしかなかった。
それから二十分ほど歩いただろうか。私の体力は、既に限界を迎えていた。
信号待ちで立っていることもままならなくなり、膝を折って点字ブロックの傍らにうずくまる。
すると、一台の車が傍らに止まる。運転席から出てきたのは、母だった。
「良かった……無事だったのね」
そう言って、母は私を強く抱きしめる。そのまま私は、母に促されるままに車の助手席に乗り込み、シートベルトを着用した。
これで元通りか――と、徐々に心の中が濁っていく。
私がどんなじたばたしても。こんな無力な自分では、何も変えることができなかった。
そんなことを考えながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると。私は奇妙なことに気がついた。
「あれ?」
この道順は……自宅でも、病院でもない。不思議に思っていると、母はハンドルを持って前方を見据えたまま答えた。
「……行くんでしょう?」
「え?」
私は眼を丸くした。もしかしてこの車は、総合運動公園に向かっている? どうして?
「いいの?」
車は信号を右折し、高速道路に乗った。ただ向かうだけでなく、急いでくれている。
母は、何も答えなかった。いや、答えてくれなかった。
それから十分。無言のまま高速道路を降りて、下道を走っていくと、運動公園の道路標識が見えた。この先一キロ。時刻は午後二時を回っていた。
丘を登っていくと、運動公園の陸上競技場が見えてきた。整理員さんに従って、駐車場に車を停める。
エンジンを停止し、シートベルトを外す。運転席の母はうつろな目のまま、俯いている。
「お母さん……さっきは」
私が冷たく言い放ってしまったことを謝ろうとすると、母は目に涙を貯めながら切りだした。
「お母さんはね……ずっと、ひとりぼっちだったの。両親にも、祖父母にも愛されなくて。お父さんにも裏切られて。だから、さっちゃんが生まれて来た時は本当に嬉しくて。たくさん愛して、大切にして……幸せにしなくちゃって思ったわ」
憔悴しきった様子の母は、私の顔を見て、さらに言葉を続ける。
「でも……気が付けば私は、さっちゃんの生きる道を……迷わないように、明るく照らして、先導しているつもりで。自分がまたひとりぼっちにならない為に、必死だったの」
母は運転席から手を伸ばし、私の手をぎゅっと握りしめた。
「さっきのことはいいの。さっちゃんの言う通りよ。私は親失格。本当は、喜ばなくちゃいけないの。ああやって拒絶することも、子供が自立する上で、必要な過程だから。だから、わたしのことを嫌いになってもいいのよ。私はそれだけのことを、さっちゃんにしてきたんだから」
母の顔は、必死にこらえているけれど、涙でぼろぼろになっていた。
「さっちゃん……今までごめんね。だから……親として、ちゃんと言わせて」
「お母さん……」
私も涙ぐむと、母は笑顔になった。目の奥に冷たいものを隠した笑顔じゃなくて。優しくて、私を安心させたいという想いの詰まった、本当の微笑みを浮かべて。
「いってらっしゃい」
そして母は、私の手を放した。
私が助手席を降りても、母はついてくることはなく、車に乗ったまま。
競技場の方まで少し歩いて――私は引き返した。そして、運転席の窓ガラスを叩く。
「お母さん」
窓ガラス越しに、母が困ったような顔をして、私を見ている。
「私は――どこにいても。離れ離れになっても。ずっとお母さんの娘だよ。ひとりぼっちじゃないよ。お母さんのこと――嫌いになんてならないから。ずっと大好きだから」
そして最後に「ありがとう――お母さん」と言い残し、私は再び競技場へと歩き始める。
一度だけ振り返ると――母はじっと私の姿を見守っていた。
陸上競技場の付近には、いろんな高校のジャージ姿の学生たちがたくさんいて、日陰にシートを敷いて待機していたり、ストレッチをしていた。
どこから入ったらいいんだろう。
おどおどしながら、受付のような場所に帽子を被ったジャージ姿の人がたくさんいるのをみつけ、「すいません……」と声を掛けようと近づく。
すると場内から、大きな歓声が聞こえてきた。びくびくしていると、係員さんが場内の案内とタイムスケジュールを渡してくれた。
「ありがとうございます。今から……何が始まるんですか」
「男子のハードルの決勝ですよ」
よかった……まだ終わってなかった。慌てて階段を駆け上がり、スタンドに出る。
その瞬間、一気に空が広がって、観客で埋め尽くされたスタンドの熱気に圧倒された。
「うわ……」
トラックにはハードルが等間隔にレーンを埋め尽くしている。
観客の視線を集めるスタートラインには、八人の選手が並んでいた。ビジョンに目を凝らすと、その中に――四レーン、大崎大翔、という名前があった。
「ヒロトーファイトー!」
近くの観客席で、大きな歓声が上がる。そう叫んでいた女の子のジャージの背中には、明尚高校の文字があった。
よく見たらあの子……見覚えがある。本山さやかさん。夢の中で、靴を貸してくれた女の子だ。
夢で見た記憶と、現実世界の光景が、少しずつ同期していくのを感じる。
「ねえ、君……」
トラックを眺めていると、急に声を掛けられ、視線を向ける。そこには――学校訪問でお世話になった山下先生が、驚いた表情で私を見つめていた。
「やっぱり。森内咲良さん――だよね?」
「は、はい。お、お久しぶりです」
「良かった。意識戻ったんだね。事故に遭ったって聞いて、何度も病院に行ったし、今日も朝自宅に伺ったんだけど、誰も出てこなかったから……本当に心配してたんだよ」
「あ、ありがとうございます」
そうか。朝のインターフォンの正体は、山下先生だったのか……と腑に落ちる。
「今日は……どうしてここに?」
不思議そうに尋ねてくる先生に、私は「あ、あの……友達の応援に」と言って誤魔化す。
まさか夢で会ったことしかない、大崎君を見に――なんて言えない。
「そっか。大切な友達なんだね」
「……はい」
照れくさくて俯くと、先生は「ほら、始まるよ」と言ってスタート地点を指さした。
選手紹介で歓声が上がり、今度は打って変わったように会場が静まり返る。
「いちについて」
選手たちがブロックに足をつけ、手をついて前傾姿勢をとる。大崎君は、その中心にいて――落ち着き、堂々とした様子に見えた。
そして、号砲の直前。一瞬だけ顔を上げた。その視線が、観客席の――こちらに向いているように見えた。
「用意」
緊張がさらに高まる。私は気が付けば、両手を合わせて祈っていた。
神様。もしもいるのなら、あれだけ頑張って……大怪我という困難を乗り越え、恐怖心に打ち勝ち、あの舞台に戻って来た大崎君に、力をください。私なんて祈るしかできないけど、どうかお願いします――。
全員の腰が上がる、そして、瞬きを数回している間に、空気を切り裂くかのような号砲が鳴った。
八人全員が、横一線で飛び出す。大崎君は、少しだけ、一歩分だけ出遅れてしまっているように見えた。
さっきまでとは打って変わって、地鳴りのような歓声が沸き起こる観客席。そのさなか、選手たちはトップスピードでハードルに突っ込み、一定のリズムで駆け抜けていく。
大崎君は、一台目のハードルを越えた時点で、五番目か、六番目くらい。先頭の一人が抜けていて、追いかけるように四人が並んでいる。
三台目、四台目、ハードルを超えていきながら、五台目あたりで大崎くんがグッとスピードをあげたように見えた。
六台目で、一気に二人を抜く。七台目で、少しバランスを崩した一人を交わし、一歩前に出た。
ぐんぐんと追い上げていく大崎君の目の前には、あと一人。そして、八台目を越えた時点で先頭に並び、最後のハードル――。
勢いのまま突っ込んでいった大崎君の、後ろの足が、ハードルに激しく接触する。
そのままバランスを崩した彼の身体は、ゴールを目の前にして――トラックに激しく打ち付けられた。
さっきまでの歓声が――悲鳴に変わる。
残りの七人は、次の瞬間にはゴールラインを駆け抜けていき、トップでゴールした選手が両手を上げて喜びを爆発させている。
倒れたハードルの傍で、トラックに膝をついたまま動けない大崎くん。ざわつく観客席。
しかし、顔を上げた彼の眼から――光は消えていなかった。
よろよろと、足を引きずるように、数メートル先のゴールラインを目指していく。
「ファイト―!」
すると、隣にいた彼と同じ高校の集団から、大きな声援が上がった。呼応するかのように、やがてスタジアム全体が声をあげて、彼の背中を押すように、大きな拍手に包まれていく。
一歩一歩、確実に歩みを進めた彼は、やがてゴールラインを越え――くるりと向き直り、トラック、観客席に一礼をして、レースを終えた。
私は、その光景を見て、震えが止まらなくなっていた。
あれだけハードルを飛ぶことを恐れていた彼が――ギリギリまで攻めたんだって。その結果ぶつかってしまったけど……あそこまで全力を尽くした彼の姿に、釘付けになっていた。
すると、さっきまで近くで応援していた同じ高校の仲間たちが、スタンドから階段を使って降りていく。
「ほら。君も行ってきなよ」
ぼーっと見つめていると、山下先生が笑顔で背中を押してくれた。
私は彼らの後を追って階段を降り……気が付けばゴール近くのトラックの脇にいた。
レースを終えた選手たちが互いの健闘を労いあい、彼らと同じ学校の生徒たちが出迎えて拍手を送っている。
そんな中、マネージャーらしき坊主頭の生徒に肩を貸してもらいながら歩く、大崎くんの姿を――視界に捉えた。
胸の鼓動が高鳴る。こんな至近距離で、初めて彼のことを見た。
夢じゃない。ここは、紛れもなく現実だ。
明らかに無関係なジャージ姿で浮いている私は、その場に立ち尽くしたまま。
すると、仲間たちに囲まれている彼が、私のことを見つけた。
彼の視線が固まる。表情に、驚きと戸惑いが入り混じっている。
とたんに――私の胸が、不安でいっぱいになる。
私は、どうみられているのだろう?
会ったこともないし、話したこともない。新聞記事ではああいうコメントしてくれていたけど、私のことだという確信もない。
離れた場所で、そわそわしながら落ち着きなく視線を注いでいると――。
大崎くんが、坊主頭の彼――そうだ、夢の中でクラスメートだった、高橋くん――彼に、何か耳打ちをした。高橋くんは驚いた表情で私のことをみつめ、やがて笑顔で大崎くんの肩をそっと離す。
すると――ゆっくりと、一歩一歩、彼が私の元に向かってくる。
私は心臓の音がどんどん早くなっていくのを感じていた。
そして彼が、目の前に立つ。緊張で固まる私。
互いに見つめ合ったまま、一瞬の静寂が横切る。
――そのあとに、彼は優しく微笑んだ。
「……見てた?」
そのひとことで、分かった。――彼だ。
夢の中で、定期を一緒に買いに行ってくれた。靴を借りてきてくれた。
もっと私が素直になれる存在でいたいって。
この時間が続いて欲しいって。
楽しいって……言ってくれた。
彼と共有した、かけがえのない言葉と、思い出が、脳裏に蘇ってくる。
「……はい」
照れて、俯きながら答える。すると、彼は腰に手をつき、悔しそうに言った。
「そっか。でもなあ……こけちゃったよ。最後の最後で。かっこ悪……」
ちらりと彼の足を見る。転んだときに擦りむいたのか、膝には血がにじんでいる。
その瞬間、ぐっと堪えたけど。目の奥が熱くなって。視界に涙が滲んだ。
「……かっこ悪くないです」
夢の中で見た、グラウンドでひとりぼっちでハードルを見つめる、あの姿。
彼がどれだけ苦しんでいたか。悩んでいたか。
苦悩を乗り越えて、あのスタートラインに立ったのか。
その気持ちを思うと、涙がとめどなく押し寄せてくる。
「だって、最後まで走ったじゃないですか。……あのままやめても、順位は変わらないのに」
彼は背負ってたんだって。
私に言ってくれたから。お前もスタートラインに立てよって。
あのまま陸上をやめるという選択肢もあったのに。
私が頑張りたいって思えるように、最後まで走ったんだ。
「かっこよかったよ」
彼のことを尊敬する。彼の努力を、真剣さを。そして、優しさを。
全部ひっくるめて、そのひとことに込めた。
「――ありがとう」
彼の低い声が、耳元で聴こえて。大きな手のひらが、優しく私の頭を包み込む。
泣いている私の肩を抱いて、そのままぎゅっと彼の胸の中に納まった。
遠くの方で、黄色い悲鳴が聞こえる。
すれ違う、他校の選手や、関係者の人たちも。びっくりした顔をして通り過ぎていく。
まるで、私たちだけ、時間が止まっているみたいだ。
あの――桜の散らない街で。過ごしていたときみたいに。
「お前も頑張ったんだな」
小さく首を横に振る。でも彼は、もっと私の背中を強く抱き寄せて、声を震わせた。
「正直、見に来てくれているなんて――思わなかった」
彼は知っていた。私の母親のこと。学校をやめて、事故に遭ったこと。
――増村さんからきいたって。そして彼女も、この競技場に見に来てくれている。
だから、けさ家を訪ねてもいなかったのか、と腑に落ちた。
「お母さんは?」
「……ここまで送ってくれました」
すると彼は――私の顔を見て、嬉しそうに頬を緩めた。
「良かったな……お前も。お母さんも」
「……はい」
彼が、喜んでくれている。すると私も、嬉しくなる。
ここに来られて。彼に会いに来てよかった、と。心の底からそう思う。
「好きになれたか」
はっとして、言葉の降って来たほうを。彼の顔を見あげる。迷いのない、凛とした眼だ。
面映ゆくて、視線を逸らす。その数秒の間に、考えた。
私なりに越えて来たハードルの数を、指折り数えるみたいに。
「……少しずつ。でもまた、嫌いになるかもしれません」
私の唇から放たれた言葉に、彼の表情は困惑の色を浮かべる。
「でも、楽しいです」
「……楽しい?」
「はい。自分のことは相変わらず――ですけど。あなたのことを好きな自分は、好きかもしれないです」
「だから、楽しい?」
「……はい」
トラックから、撤去されたハードルが、キャリーに乗って運ばれてくる。
私たちは脇によけて、その光景を眺めた。
空の下のスタートラインには、選手が並んで、アップを行っている。
観客席は、次の号砲を心待ちにしている。
応援したり、されたり。
勝ったり、負けたりを、繰り返して。
こうして並んで立っている私たちは、そんなサイクルをひとつ、終えただけで。
私なんて……彼みたいに、万雷の拍手を浴びるほど全力を尽くしたとはいえない。
そんなことを考えていると、高橋くんが、私たちを手招きしているのが見えた。
そろそろ戻らなくちゃ、と。彼の横顔を見る。
すると……ほぼ同時に、彼の口が動いた。
「なあ、咲良」
「……はい」
「今、俺のこと、好きって言った?」
桜の散らない街で。
かつて私は立ち止まり、彷徨い続けていた。
孤独と諦めと絶望の中、見上げた光景。
あの桜は、教えてくれたのかもしれない。
いつか散るとわかっているからこそ。
その儚さゆえに、人は桜を美しいと感じるんだって。
でも、決してその光景に見惚れたまま――立ち止まっていてはいけない。
私たちが出会ったこの季節も、また移り替わり、いつか消えていく。
桜も、何度も咲いたり、散ったりを繰り返すだろう。
今日みたいに、嬉しくて泣く日もあれば。
寂しくて、切なくて、泣きたくなる日も来るはず。
でも――それでも私は。
今この瞬間を、永遠にしたい。
私は、今まさにときめいている。
彼という季節に、出会い、心動かされている。
そして、思い知らされるのだ。
それでこそ、恋だと。
胸の中で、萌えたこの恋に――。
たとえ一瞬だろうと、永遠だろうと、全力で向き合うべきだって。
「言ったよ」
私は笑った。
心の底から湧き上がるエネルギーを、そのまま映し出すかのように。
かつて自分の心を、人目のつかないところにずっとずっと閉じ込めていた私は――もうどこにもいなかった。
