最終章
1
「ねえ。何やってるの?」
小さな私の指先は、薄いラップを貫いて。微かに水分とぬめりを含んだ、つるりとした鶏むね肉の表面に触れていた。
「え?」
声のした方に顔を上げると、頭に黒いネット付きの帽子をつけて、エプロンを身に着けたおばさんが、怖い顔をして私を見下ろしていた。
「お母さんは?」
「いるよ」
「どこに? 呼んで来れる?」
私は小さく頷いて、さっきまで近くでカートを押していたはずの母親の姿を探した。すると、お味噌汁とかが並んでいるレーンから母親が現れて、私に笑顔で手を振った。
「さっちゃん。ここにいたんだあ」
すると、おばさんの顔がますます険しくなる。そして、冷たいお肉のケースに並んでいるパックを何点か手に取って、お母さんに見せた。
「見てください、これ。こんなに穴開けて。もう売り物になりませんよ」
「あら……」
お母さんが私の方をちらっと見る。怖くて緊張していたけど、その優しい目つきに、ほっとして心が軽くなった。
「お金、払えばいいんでしょ。いくらかしら」
怖いおばさんは、ぜんぜん怒りが収まる気配がなくて。さらにお母さんに詰め寄った。
「そういう問題じゃないでしょ。ちゃんとダメなことはダメって教えるべきじゃないですか」
「え? だって、この子まだ幼稚園児ですよ」
「……はあ?」
「子供のすることでしょ? 何をそんなに目くじら立ててるの。お金さえ払えば、あなたたちが損することはないんだから」
そのときのおばさんの顔が、すごく印象に残っている。笑っていた。何がそんなに面白いのかなって、そのときは思ったけど。
今になってみれば、わかる。
あの顔は――呆れと、恐怖だ。
店員さんは店長さんとか社員さんとか、そういう偉い人じゃなくて。パートさんだったらしいけど。本気で私のことを心配してくれたから、そうやって声を掛けてくれたんだって。今なら――冷静にあのシーンを分析することができる。
思い出せば、あの頃の私にとって、母親はいつも私を守ってくれる存在だった。
スーパーで会計前のお菓子を食べてしまったときも。こども服のお店で走り回って、小さい子にぶつかってしまったときも。雑貨屋さんでガラスの瓶を触って落としてしまったときも。
お母さんは、私を怒らなかった。いや……私は昔から、お母さんに怒られた記憶がない。
世界一優しくて、私を守ってくれる強い存在。それが、私にとってのお母さんだった。
しかし、小学校に入ってから、当時仲のよかった友達が、ダンスの習い事を始めた。
かっこいい。羨ましいな……と思った私は、思い切ってお母さんにお願いしてみた。
「私も習いたい」
自分で何かに興味をもって、始めてみたいと思ったのは、これが初めてだったのかもしれない。
母は笑っていた。しかしすぐに背中を向けて、ぽつりと低い声で答えた。
「やめておきなさい。あんなのは、頭の悪い不良がやることよ。将来の役にだって立ちません」
「え……?」
私は驚いた。けど、お母さんが言うんなら、そうなんだろう、と。納得するしかなかった。
それからも、小学校四年になって放課後クラブ活動を選ぶとき。本当はバスケ部に入りたかったけど、ぶつかって怪我をしたら危ないからダメだと言われ……母の言う通り、家庭科部に入った。
その頃になると、私はもうすでに思考停止していた。
どうせ母が決めるから。そうするのが当たり前で、反発するという発想すらなくなっていった。信じられないかもしれないけど、この頃も、今に至るまで私は、母親以外の誰かとどこかに行ったりしたことが一度もない。日常生活においても……靴とか服とか文房具に至るまで、使うのはすべて母が選んで買ったものだ。
夢もない。なりたい自分もない。母の言う通りに生きるのが、私の人生。そう自分を俯瞰して、諦めを納得とすり替えて、日々を過ごしていた。
中学生になり、思春期を迎えた私は、多感な年ごろのせいか、些細なことで傷つくことが多くなった。
その頃、同じクラスに、お調子者の安田くんという男子がいた。彼は背が低くて、刈上げ頭をいつもみんなに触られていじられるクラスのムードメーカー。ときに授業中にふざけすぎて先生にも怒られていた。とはいえ、クラス全員に分け隔てなく話しかけて仲がよくて、私にも揶揄ったり冗談を言ってくる唯一の存在だった。
私は彼のことを嫌いではなかったし、むしろ数少ない貴重な存在だと認識していた。
ところがある日、彼が自分が背が低いことを引き合いに出して、ノリで私のことを「デカ女」と揶揄った。
今覚えばなんでもないことなんだろうけど。その言葉に傷ついてしまった私は、家でも暗い表情をしていた。
すると母は私に「何があったの」と問い詰めた。黙っていたらいいのに。私は 彼のこと、件の事を母親に打ち明けてしまった。
母親は、すぐに学校に電話。担任の先生と面談し、後日安田くんとその両親が家に謝罪に来た。
安田くんは、本気で私を傷つけるつもりなんてなくて、ふざけ半分だったと思う。だからこそ母の行動や騒ぎが大きくなったことに戸惑っていただろうし、私も同じ気持ちだった。
今も忘れられない。安田くんが私を見る目。うつろで、生気のない眼だった。
裏切られたと思っていただろう。そのくらいでこんな大事にするなんて。関わらなきゃよかったって。話しかけなきゃ良かったって。
そして、頭を下げる彼の両親の前で、母親は笑っていた。
そのときはじめて、私は気がついた。
母親は、私を守ってくれているのではない。
私という存在を監視下に置くことで、満たされているんだ――と。
私を傷つける誰か、何か、環境とか要因とかすべて。それらを排除し、あるいは攻撃し、優位に立つことで得る満足感に酔っているのではないか。
絶対だった母親という存在が。何があろうと味方だと思っていた存在の、本当の姿に気が付いたのもこの頃だった。
何かのスイッチが入ったのか。それを機に、ことあるごとに母は学校に電話をするようになった。
私のテストの点が悪かったときは、担任の指導力不足だと怒鳴り、なにもなくてもたびたび昼休みの時間を狙って学校に電話し、私の様子はどうなのか、他の生徒が私を差別していないか、いじめられていないか調べろと、ときに職員室にまで乗り込んで恫喝した。
二年生の夏には、担任の先生が休職した。そのまま帰ってくることはなく、中学校の三年間で四回も途中で担任が交代した。
当然、私はクラスで孤立した。私と関わると、ややこしいことになる。あいつの親はヤバい、と後ろ指を指されるようになった。
夏休みも、ずっと家にいた。友達がいたとしても、どうせ母親は遊びに行くことは許可しない。
結局、中学校で私と最後まで仲良くしてくれたのは、図書委員で一緒だった増村さんだけだった。
彼女は家庭の問題を抱えていて、唯一私の気持ちを分かってもらえる存在で、よく互いの悩みを相談しあっていた。お母さんも彼女だけは私と関わることを許しており、うちに遊びに来たこともあった。
しかし、私は母の選んだ私立の女子高に進学することになり、増村さんとは離れ離れに。私の高校生活は、中学校までと変わらず。いや、更に陰惨なものになった。
中学のときの経験から、私はなるべく人と関わらないようにし、そして家では努めて明るく過ごした。
とはいえ、母の悪い癖は変わることもなく。少しでも成績が下がったときはもちろん、些細なことで学校に電話を繰り返した。すると、入学当初は普通に接してくれていた数少ないクラスメートすらも、私から距離を置くようになった。
私はもう、人間関係を築くという行為を諦めた。
教室ではなるべく人が関わってこないように、しかめ面をして、笑顔もなく。たまに愛想よくしてくれる人がいても、冷淡な反応を繰り返して、関係を拒絶した。
どうせ崩されるから。私と関係のない場所で何かが起こって、そのせいで台無しになるから。
そういえば、幼い頃にもあったな。母と公園に行ったとき。母が仕事の電話で少し目を離した隙に、砂場で砂山を作った。自分で工夫して、近くの水道で砂に少し水を含ませて固めて土台を作り、何層にもしてお城を築いた。周りにあった落ち葉を集めて飾り付けもした。
完成した時に、ちょうど電話を終えた母が戻って来た。ここはこうして、こうやって作ったんだよって熱っぽく説明した。
褒めてもらえるかなと思った。だって、私が一生懸命作ったんだから。
しかし――母は砂山を一瞥すると真顔になり、私の顔を見ると、今度は笑った。
「だめよ。手が汚れるし、黴菌が体に入るでしょ。二度とこんなことはしないで」
優しい口調でそう諭しながら、母は私が束の間に築き上げた砂山を、足で何度も踏みつぶした。
今思えば、ぐちゃぐちゃのどろどろになった私のお城は、私の人生そのものだったのかもしれない。
決定的な出来事が起こったのは、冬休みに入る前の文化祭の時期だった。
文化祭の出し物は、クラスでお化け屋敷をすることになった。当初私も準備に参加していたが、予算が足りなくなり、共同で追加予算を徴収することに。
しかし、母親はこの決定に納得がいかず、支払いに応じなかった。文化祭前日の準備にも、閉門時間を越えて他のクラスメートが残って作業をするなか、私だけが帰宅したこともあり、クラスメートの保護者達は私を当日の文化祭の役割から外すことを決定。
この出来事に激怒した母親は、私を文化祭に参加させることを許さず。校長や教育委員会を巻き込んで大騒動を巻き起こし、結局私は母の意向で高校を退学することになった。
「もう帰るの?」
文化祭前日の夕方。まだ作業をしているクラスメートが、私に掛けた一言。それが、私がこの高校で交わした最後の会話だった。
母親によってぐちゃぐちゃに踏みつぶされた私の高校生活。
でも、私はそれでも。母親のことが好きだった。大好きだった。
悪いところもある。一連の行動は、私を守りたいとかそういう面以上に、私を監視下に置くことで自分が満足したいからだろう。でも、私にはお母さんしかいないし、心から私のことを愛してくれていることに変わりはない。
まだそう信じていた。信じていたかった。
だから私は、本当は自分が悪いんじゃないか、母親のせいにして逃げてるんじゃないかと自分を責めた。
ぜんぶ母親に任せっきりにして、なにもしなかったくせに。
退学が決まる前から、私はたくさん考えていた。自分が何をすべきか。
たどり着いたのは、自分で考えて、自分から動くことだった。
そうすれば、母親を安心させることができるし、監視下からも逃れることができるかもしれない。
そしていずれ、母親と対等な関係になって。母親のことも大切にできる。
私は、次に進学する高校を、自分で探し始めた。
部活とかもそこそこ盛んで、通える範囲内のところ。
学費面で負担を掛けたくないから、大学には行けなくてもいい。高卒で公務員とか、就職実績があるところ。
通学は、母親の送り迎えじゃなくて、バスか電車か自転車で。
候補を絞って、最終的に明尚高校を第一希望に決めた。それだけでは不安だった私は、母親に内緒で、勇気を振り絞って明尚高校に電話をした。
対応してくれたのは、校長先生と、学年主任の山下先生だった。
私が転校を希望する理由。母親のこと。すべて正直に打ち明けた。それでも、学校の負担になるかもしれないと分かったうえで、山下先生は私を受け入れる方向で動くことを約束してくれた。
「君みたいな子を放っておけないし、学校で学びたいという気持ちには応えたい。もし良ければ一度学校を見に来ないか?」
私の胸は躍った。しかし、母の監視下にある以上、どうにかしてここから出ないといけない。
そこで私は、書斎で仕事中の母の目を盗んで「もう一度だけ学校に行かなくちゃいけないから」と嘘の書置きをし、家を脱出。制服を着てバス代を握りしめ、バス停に向かって歩いた。
人生初のひとりでの外出。不安だったけど、事前に調べ尽くしていたおかげか、無事にバスに乗りこむことができた。
明尚高校に近づき、ぼんやりと車窓から外を眺めていると、河川敷あたりで、道沿いに植えられた枯れ木が、慄然と、私を出迎えてくれるかのように並んでいた。
今は枯れ木だけど……春になると、桜が咲き誇って、綺麗なんだろうな。
そう思うと、蕾が芽吹くみたいに未来に希望が湧いてきた。
学校に到着すると、部活中で、校門前の人はまばら。目立ちたくはないから、なるべく人目を避けながら、事前に案内されていた職員用窓口に出向くと、眼鏡をかけたぼさぼさ髪の若い先生――山下先生が職員室に私を招いてくれた。
「よく来てくれたね」
電話での低くて落ち着いた声から想像していた通り、穏やかで頼りになる印象の先生だった。
職員室では、座って先生と話した。家庭のこと。お母さんのこと。将来のこと。私がここに転校したら、先生に迷惑をかけてしまうかも……という不安を打ち明けたけど、山下先生は力強く私に言ってくれた。
「君が心配することはない。君が学びたいという気持ちを叶えるのが僕らの仕事だから」
私は嬉しくて、涙が出そうになった。聞けば先生も学生時代に、母親が鬱を発症して苦労したらしい。当時の担任の先生にサポートしてもらって、無事に大学に合格。やがて教員免許を取ることが出来たって。
だから今度は、自分が困っている生徒を助ける番だって。その為に先生になったんだって、教えてくれた。
それから山下先生は、だれもいない校舎を案内してくれた。担任を務める教室に入って、ふたりで窓から部活をしているグラウンドを眺めた。
「あそこに陸上部が練習しているだろう。今は部活に来ていないけど、気に掛けている生徒がいてね。いずれは君もクラスメートになると思うけど、きっと気が合うんじゃないかな」
気が合う……か。どんな人なんだろう。
詳しくは聞かなかったけど。それも……ここに来れば分かるようになるのかな、と想像した。
そこから、あの枯れ木の桜並木も見えた。――春になって、一緒に学校生活を送れば。私の思い描く未来が、もう手の届く位置にあるような気がした。
下校ラッシュが始まらないうちに、先生との再会を誓って、バスで帰宅。家に帰ると、母親が真顔で玄関に立っていた。
「どういうつもり? 遅かったじゃない」
私が書き残していたメモは、ぐしゃぐしゃに丸められて母の手の中に握られている。リビングの机を見ると、上にあったものがすべて床に散乱していた。
背筋が冷たくなり、息が苦しくなる。指先は震え、必死に涙を堪えながら、それでも私は積年の想いを言葉に乗せて、母に訴えた。
「……ごめん。実は行きたい高校があって、見学して来た」
母の眉がぴくりと動く。ふうん、と鼻を鳴らすと、床に落ちているものを踏み荒らしながら箪笥の引き出しから何かを持ってきた。
「そのことなら、大丈夫よ。もうあなたが通う高校は決めてあるの」
母親は、そう言って私にパンフレットを見せてきた。隣町にある私立の女子高だ。
「お母さん」
笑顔でパンフレットを見せながら高校の説明をしてくれる母親の話を遮って、私は切り出した。
「なあに? さっちゃん」
笑顔を保っているが、目の奥は笑っていない。その圧に負けじと、私はスマホを取り出し、あるサイトを見せた。
「私、この……明尚高校に行きたい」
「……どうして?」
「せ……制服も可愛いし。部活も盛んだし。先生も……」
「そうじゃなくて。どうして勝手なことをするの?」
尖った声が、私の弱い部分を容赦なく抉ってくる。膝も震えて、足に力が入らない。
それでも、この機会を逃したら……もうずっとこのままなのかと思うと。ここで勇気を出さなきゃと、懸命に声を振り絞った。
「私……自分で決めたいから。高校卒業したら、この家も出てひとりでも生きていけるように――」
そのとき。母親はかっと目を見開き、持っていたパンフレットを私に投げつけ、両手でテーブルをひっくり返した。
「何も分かってない!」
机が倒れる衝撃音と、その叫び声に、私は腰を抜かして床にへたり込み、動けなくなった。
すぐに「ごめんなさい」と泣きながら何度も謝ったが、母の怒りは収まる気配はなく、近くにあった棚を引き倒し、食器棚の中の皿やグラスをすべて床にぶちまけた。
「パパも……おかあさんも、おとうさんも、みんな私の元からいなくなって……。あんなにあんなに愛してたのに」
そして母親は床にへたり込んでいる私の胸ぐらを掴んで、激しく揺さぶった。
「あなたも私を裏切るの? ひとりじゃなんにもできないくせに。私がいないと生きていけないあなたの為に、あなたのことを考えてこんなにやってあげているのに! あなたが傷つかないように、邪魔な人間はみんな排除してあげたでしょう? それなのに私を捨てて出ていくだって? この恩知らずが……!」
必死に抵抗する私が母親の手を振り払うと、今度は半狂乱で叫びながら床に自分の頭を叩きつけ始めた。
「やめて、お母さん」
暴れる母のことを押さえようと、私は後ろから必死に抱きついた。やがて暴れ疲れたのか、母は床に突っ伏したまま動かなくなった。
「お母さん、ごめんなさい……もう何も言わないから……」
肩越しに絞り出すように言うと、お母さんは涙ぐみながら私の顔を振り返って、「本当?」と呟いた。
「……うん」
「そ……そうだよね。さっちゃんだけは、私の傍にいてくれるよね?」
そう言って、お母さんは強く私を抱きしめた。
良かった……と、心の底からそう思った。これで元通りの、優しいお母さんに戻ってくれる。もう二度と、あんなお母さんの姿は見たくない。
「……あれ? さっちゃん、足怪我してる……」
そう言われて、足の裏を見ると、確かに切れて出血していた。ガラスの破片を踏んでしまったのだろうか、床には血が点々と滴っている。さっきまで必死だったから全然気が付かなかった。
「大変、すぐに病院に行かなきゃ」
「あ……大丈夫だって、これくらいなら」
「だめ。すぐにお母さんが連れて行ってあげるからね」
母は、見るからに焦っていた。私を軽自動車の助手席に押し込んで発車したのはいいものの、ライトをつけ忘れていたり、道を間違えかけたり。とにかく運転は荒く、スピードも出ていた。
「もう少し……もう少しで病院に着くからね」
母はうわごとのようにそう言っていた。しかし、片側一車線の大きな通りに走っていたとき。母が急ブレーキをかけた。
「……危ないじゃない! 急いでるのに!」
それは、横断歩道を渡る自転車だった。焦って見落としていたら大変なことになっていた、と、思わずホッとする。
しかし――その直後だった。
バックミラーを反射するライトの灯りが眩しい、と感じた瞬間。背後からの強い衝撃を感じ、私の身体はダッシュボードに叩きつけられ、車は対向車線に弾き飛ばされた。
そして、そこから先は、よく覚えていない。
うっすらとした意識の中で、聞いた気がする。
対向車線を走って来た車が衝突して、私は頭を強く打ったんだと思う。
気が付けばわたしは、夢の中にいた。
なぜかは分からないけど、それが夢なんだってすぐに気が付いた。
制服を着ている私は、大通りの真ん中に立っていた。
事故が起こった場所だ。私の夢は、そこから続いていた。
あてもなく車道を少し歩いて、地平線を見つめて、すぐに気が付いた。車が来ない。
工場も、コンビニも、商店街もあって、信号が切り替わって、電気もついているのに。誰もいない。
そこは、私以外が誰もいない世界だと。
がらんどうになった私の存在自体が、この世界なんだと。この街なんだと思った。
そこには、母親もいなかった。
ついに私はひとりぼっちになったんだと思うと、少し心が軽くなった。
私はあてもなく、いろんなところを歩き回った。
太陽はずっと眩しい位置にあって。時間は無限で、どれだけ歩いても足は疲れなかった。
何日も、何日も。すごく退屈で、寂しかったけど。不思議とこの夢から抜け出したいという気持ちにはならなかった。
「これが、私の望んだ世界なのかな」
公園の芝生に寝転んで、日差しに目を細めながら。私は、誰に話しかけるでもなく、そう呟いていた。
目を瞑っても、既に夢を見ているからか、眠くはならない。
これが、孤独。出口のない、明るい世界。人にも、時間にも、疲れとか体調にも縛られない。
心のどこかでずっと望んでいた自由、のはず。それなのに私は、違和感を覚えていた。
「私が本当に望んでいた世界は、ここじゃない」
そう呟いた瞬間、私はある場所に向かって、まっすぐに歩き始めていた。
あのとき、家の近くのバス停からバスに乗った。ずっと窓の外を見つめていたから、道順はそれとなく覚えている。
ガソリンスタンドやコンビニしかないのどかな通りを歩き、真っ暗な高速道路の欄干の下を潜り抜け、少しずつカフェや食堂などが目に入ってくる。
数時間が経っただろうか。河川敷付近に差し掛かると、風が強く吹いて前髪を乱した。
その先に、あの桜並木が見えた。はっとして、思わず走り出す。
「きれい……」
舞い降りてくる花びらが、ひらりと、肩に止まる。
そこには満開の桜並木が、私の花道を作るかのように、学校まで続く道を彩っていた。
しばらくその光景に見入った私は、グラウンド脇の歩道を歩き、校門を潜り抜け、明尚高校の校舎の中に入った。
山下先生と話した、職員室。案内してもらった、だれもいない放課後の教室。校舎にも、グラウンドにも、人の気配はない。
私は、あの桜が舞い散る頃に……この学校に通うことを夢見ていた。だから私はいま、ここにいるのかもしれない。
そのとき、チャイムの音が響き渡った。教室に差し込む影が、長く伸びている。いつの間にか陽が傾いていると気が付き、時計を見ると、昼の四時を指していた。これは放課後のチャイムなんだと気が付いた私は、校舎の二階の窓から、グラウンドを見渡した。
「……あっ」
すると、グラウンドの倉庫の前に……誰かが座り込んでいるのを見つけて、思わず目を見開いた。ジャージ姿の、男子生徒だ。
いつの間にかグラウンドにはハードルが並べられていて、その様子を、座り込んだままじっと見つめている。
彼はずっと、悔しそうに唇を結んだまま動かない。しばらくすると、いつの間にか彼の姿はグラウンドから消えていた。
いったい何だったのだろう……。
ずっと止まっていた、夢の中の時間。動き始めた途端に、誰もいなかった私の夢に、初めて現れた自分以外の人間。そのことに、何か意味があるのだろうか。
陽の暮れかけた廊下を歩いて階段を降り、校門を抜けて、夕焼けの桜並木を見上げながら、私は彼について考えていた。
……とてもつらそうな顔をしていたな。どうしてあんなに落ち込んでいるのだろう。
何か、大きな失敗したのだろうか。ハードルを並べていたから、それに関係があることなのかな。
そして再び、桜の花びらが、風に乗って桜並木を優雅に舞い散る光景を目にする。
私は、あの日教室でグラウンドを見つめながら言った、山下先生の言葉を思い出していた。
“いずれは君もクラスメートになると思うけど、きっと気が合うんじゃないかな”
その瞬間――心の中の、永く固く閉ざされていた扉が、開いた気がした。
外から暖かい空気と、光――そして、人の声、騒めき、喧騒が一気に雪崩れ込んでくる。
やがて、微かに揺れと、排気ガスの匂いを感じて、薄く目を開いた。
あれ? ここは、バスの中――?
はっとする。さっきまで見上げていた満開の桜並木が、窓の外に広がっていた。
私は後方の座席にひとりで座っていて、車内には運転手さんと、同じ制服を纏った生徒たちが何人も乗っている。
手には、鞄があった。そして私は……明尚高校の制服を身に着けている。
これは、夢だ。まさしく私が夢見ていた、未来。憧れの制服を着て、明尚高校に転校し――バスで通学をする。
私が、自分の意志で選んだ道。私が望んでいた世界、そのものだった。
間もなくバスは到着し、外に降り立つと、金網の内側にあるグラウンドから、活気のある声が聞こえてくる。校門の前は、通学する生徒たちでにぎわっていた。
そうだ。山下先生のところに――行かなくちゃ。
その足で職員室に向かい、扉をノックする。事務の人が出てくれて、担任になる山下先生を呼んでくれた。先生は私を見るなり、「おはよう」と優しく微笑んだ。
私はとにかく緊張していて、先生の話を聞きながら頷いてばかりだった。
「この後、ホームルームで自己紹介してもらうから、考えておいてね」
ああ、一番苦手な奴だ。
既に体が拒否反応を示していて、胃酸が逆流して口の中が酸っぱくなってくる。
先生の後ろをついて、階段を上がる。既にホームルームが始まっており、廊下には誰もいない。私と先生の足音だけが、コツコツと反響している。
教室の前までくると、中がざわついているのが分かって、教室のガラス越しに、無数の視線がこちらを向いているのを感じた。
今まさにその瞬間が迫っているのだと思うと、ストレスでこの場にうずくまりたくなる。
嫌だ。もう、帰りたい。
――もしも、ここにお母さんがいたら。そんなことをさせるなと口を挟むだろう。学校に電話を掛けて、さっそく山下先生に迷惑をかけるかもしれない。
正直……そうなったら楽だな、と思う。助けて欲しい。いつもみたいに、守ってほしい。私が嫌だと感じることから。逃げ道を作って、匿って――。
お母さん――と、胸の中で呼んだ。でも、すぐに気がつく。
この世界には、お母さんはいない。
泣いている私を抱きしめてくれた、あの腕も。優しい声も。
震える足で立っている私は、自分自身の胸に呼びかけた。
そうだ。私が――望んだんだから。この世界を。
お母さんがいない、お母さんの目が届かない、干渉してこない、守ってくれない、そんな世界を――だから、逃げる必要なんてないんだ。
「森内さん、行こうか」
先生が、優しく微笑みかけてくれる。
私の中でずっと鳴り響いていた雑念が、一気に消えていく。
静寂の中で、ここなら……始められるかもしれない、と呟く。
指の震えが、一瞬止まった。小さく呼吸をして、先生に視線を送る。
まもなく、無数の視線が私に降り注ぐだろう。
それでも私は、確かに一歩を踏み出した。
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「ねえ。何やってるの?」
小さな私の指先は、薄いラップを貫いて。微かに水分とぬめりを含んだ、つるりとした鶏むね肉の表面に触れていた。
「え?」
声のした方に顔を上げると、頭に黒いネット付きの帽子をつけて、エプロンを身に着けたおばさんが、怖い顔をして私を見下ろしていた。
「お母さんは?」
「いるよ」
「どこに? 呼んで来れる?」
私は小さく頷いて、さっきまで近くでカートを押していたはずの母親の姿を探した。すると、お味噌汁とかが並んでいるレーンから母親が現れて、私に笑顔で手を振った。
「さっちゃん。ここにいたんだあ」
すると、おばさんの顔がますます険しくなる。そして、冷たいお肉のケースに並んでいるパックを何点か手に取って、お母さんに見せた。
「見てください、これ。こんなに穴開けて。もう売り物になりませんよ」
「あら……」
お母さんが私の方をちらっと見る。怖くて緊張していたけど、その優しい目つきに、ほっとして心が軽くなった。
「お金、払えばいいんでしょ。いくらかしら」
怖いおばさんは、ぜんぜん怒りが収まる気配がなくて。さらにお母さんに詰め寄った。
「そういう問題じゃないでしょ。ちゃんとダメなことはダメって教えるべきじゃないですか」
「え? だって、この子まだ幼稚園児ですよ」
「……はあ?」
「子供のすることでしょ? 何をそんなに目くじら立ててるの。お金さえ払えば、あなたたちが損することはないんだから」
そのときのおばさんの顔が、すごく印象に残っている。笑っていた。何がそんなに面白いのかなって、そのときは思ったけど。
今になってみれば、わかる。
あの顔は――呆れと、恐怖だ。
店員さんは店長さんとか社員さんとか、そういう偉い人じゃなくて。パートさんだったらしいけど。本気で私のことを心配してくれたから、そうやって声を掛けてくれたんだって。今なら――冷静にあのシーンを分析することができる。
思い出せば、あの頃の私にとって、母親はいつも私を守ってくれる存在だった。
スーパーで会計前のお菓子を食べてしまったときも。こども服のお店で走り回って、小さい子にぶつかってしまったときも。雑貨屋さんでガラスの瓶を触って落としてしまったときも。
お母さんは、私を怒らなかった。いや……私は昔から、お母さんに怒られた記憶がない。
世界一優しくて、私を守ってくれる強い存在。それが、私にとってのお母さんだった。
しかし、小学校に入ってから、当時仲のよかった友達が、ダンスの習い事を始めた。
かっこいい。羨ましいな……と思った私は、思い切ってお母さんにお願いしてみた。
「私も習いたい」
自分で何かに興味をもって、始めてみたいと思ったのは、これが初めてだったのかもしれない。
母は笑っていた。しかしすぐに背中を向けて、ぽつりと低い声で答えた。
「やめておきなさい。あんなのは、頭の悪い不良がやることよ。将来の役にだって立ちません」
「え……?」
私は驚いた。けど、お母さんが言うんなら、そうなんだろう、と。納得するしかなかった。
それからも、小学校四年になって放課後クラブ活動を選ぶとき。本当はバスケ部に入りたかったけど、ぶつかって怪我をしたら危ないからダメだと言われ……母の言う通り、家庭科部に入った。
その頃になると、私はもうすでに思考停止していた。
どうせ母が決めるから。そうするのが当たり前で、反発するという発想すらなくなっていった。信じられないかもしれないけど、この頃も、今に至るまで私は、母親以外の誰かとどこかに行ったりしたことが一度もない。日常生活においても……靴とか服とか文房具に至るまで、使うのはすべて母が選んで買ったものだ。
夢もない。なりたい自分もない。母の言う通りに生きるのが、私の人生。そう自分を俯瞰して、諦めを納得とすり替えて、日々を過ごしていた。
中学生になり、思春期を迎えた私は、多感な年ごろのせいか、些細なことで傷つくことが多くなった。
その頃、同じクラスに、お調子者の安田くんという男子がいた。彼は背が低くて、刈上げ頭をいつもみんなに触られていじられるクラスのムードメーカー。ときに授業中にふざけすぎて先生にも怒られていた。とはいえ、クラス全員に分け隔てなく話しかけて仲がよくて、私にも揶揄ったり冗談を言ってくる唯一の存在だった。
私は彼のことを嫌いではなかったし、むしろ数少ない貴重な存在だと認識していた。
ところがある日、彼が自分が背が低いことを引き合いに出して、ノリで私のことを「デカ女」と揶揄った。
今覚えばなんでもないことなんだろうけど。その言葉に傷ついてしまった私は、家でも暗い表情をしていた。
すると母は私に「何があったの」と問い詰めた。黙っていたらいいのに。私は 彼のこと、件の事を母親に打ち明けてしまった。
母親は、すぐに学校に電話。担任の先生と面談し、後日安田くんとその両親が家に謝罪に来た。
安田くんは、本気で私を傷つけるつもりなんてなくて、ふざけ半分だったと思う。だからこそ母の行動や騒ぎが大きくなったことに戸惑っていただろうし、私も同じ気持ちだった。
今も忘れられない。安田くんが私を見る目。うつろで、生気のない眼だった。
裏切られたと思っていただろう。そのくらいでこんな大事にするなんて。関わらなきゃよかったって。話しかけなきゃ良かったって。
そして、頭を下げる彼の両親の前で、母親は笑っていた。
そのときはじめて、私は気がついた。
母親は、私を守ってくれているのではない。
私という存在を監視下に置くことで、満たされているんだ――と。
私を傷つける誰か、何か、環境とか要因とかすべて。それらを排除し、あるいは攻撃し、優位に立つことで得る満足感に酔っているのではないか。
絶対だった母親という存在が。何があろうと味方だと思っていた存在の、本当の姿に気が付いたのもこの頃だった。
何かのスイッチが入ったのか。それを機に、ことあるごとに母は学校に電話をするようになった。
私のテストの点が悪かったときは、担任の指導力不足だと怒鳴り、なにもなくてもたびたび昼休みの時間を狙って学校に電話し、私の様子はどうなのか、他の生徒が私を差別していないか、いじめられていないか調べろと、ときに職員室にまで乗り込んで恫喝した。
二年生の夏には、担任の先生が休職した。そのまま帰ってくることはなく、中学校の三年間で四回も途中で担任が交代した。
当然、私はクラスで孤立した。私と関わると、ややこしいことになる。あいつの親はヤバい、と後ろ指を指されるようになった。
夏休みも、ずっと家にいた。友達がいたとしても、どうせ母親は遊びに行くことは許可しない。
結局、中学校で私と最後まで仲良くしてくれたのは、図書委員で一緒だった増村さんだけだった。
彼女は家庭の問題を抱えていて、唯一私の気持ちを分かってもらえる存在で、よく互いの悩みを相談しあっていた。お母さんも彼女だけは私と関わることを許しており、うちに遊びに来たこともあった。
しかし、私は母の選んだ私立の女子高に進学することになり、増村さんとは離れ離れに。私の高校生活は、中学校までと変わらず。いや、更に陰惨なものになった。
中学のときの経験から、私はなるべく人と関わらないようにし、そして家では努めて明るく過ごした。
とはいえ、母の悪い癖は変わることもなく。少しでも成績が下がったときはもちろん、些細なことで学校に電話を繰り返した。すると、入学当初は普通に接してくれていた数少ないクラスメートすらも、私から距離を置くようになった。
私はもう、人間関係を築くという行為を諦めた。
教室ではなるべく人が関わってこないように、しかめ面をして、笑顔もなく。たまに愛想よくしてくれる人がいても、冷淡な反応を繰り返して、関係を拒絶した。
どうせ崩されるから。私と関係のない場所で何かが起こって、そのせいで台無しになるから。
そういえば、幼い頃にもあったな。母と公園に行ったとき。母が仕事の電話で少し目を離した隙に、砂場で砂山を作った。自分で工夫して、近くの水道で砂に少し水を含ませて固めて土台を作り、何層にもしてお城を築いた。周りにあった落ち葉を集めて飾り付けもした。
完成した時に、ちょうど電話を終えた母が戻って来た。ここはこうして、こうやって作ったんだよって熱っぽく説明した。
褒めてもらえるかなと思った。だって、私が一生懸命作ったんだから。
しかし――母は砂山を一瞥すると真顔になり、私の顔を見ると、今度は笑った。
「だめよ。手が汚れるし、黴菌が体に入るでしょ。二度とこんなことはしないで」
優しい口調でそう諭しながら、母は私が束の間に築き上げた砂山を、足で何度も踏みつぶした。
今思えば、ぐちゃぐちゃのどろどろになった私のお城は、私の人生そのものだったのかもしれない。
決定的な出来事が起こったのは、冬休みに入る前の文化祭の時期だった。
文化祭の出し物は、クラスでお化け屋敷をすることになった。当初私も準備に参加していたが、予算が足りなくなり、共同で追加予算を徴収することに。
しかし、母親はこの決定に納得がいかず、支払いに応じなかった。文化祭前日の準備にも、閉門時間を越えて他のクラスメートが残って作業をするなか、私だけが帰宅したこともあり、クラスメートの保護者達は私を当日の文化祭の役割から外すことを決定。
この出来事に激怒した母親は、私を文化祭に参加させることを許さず。校長や教育委員会を巻き込んで大騒動を巻き起こし、結局私は母の意向で高校を退学することになった。
「もう帰るの?」
文化祭前日の夕方。まだ作業をしているクラスメートが、私に掛けた一言。それが、私がこの高校で交わした最後の会話だった。
母親によってぐちゃぐちゃに踏みつぶされた私の高校生活。
でも、私はそれでも。母親のことが好きだった。大好きだった。
悪いところもある。一連の行動は、私を守りたいとかそういう面以上に、私を監視下に置くことで自分が満足したいからだろう。でも、私にはお母さんしかいないし、心から私のことを愛してくれていることに変わりはない。
まだそう信じていた。信じていたかった。
だから私は、本当は自分が悪いんじゃないか、母親のせいにして逃げてるんじゃないかと自分を責めた。
ぜんぶ母親に任せっきりにして、なにもしなかったくせに。
退学が決まる前から、私はたくさん考えていた。自分が何をすべきか。
たどり着いたのは、自分で考えて、自分から動くことだった。
そうすれば、母親を安心させることができるし、監視下からも逃れることができるかもしれない。
そしていずれ、母親と対等な関係になって。母親のことも大切にできる。
私は、次に進学する高校を、自分で探し始めた。
部活とかもそこそこ盛んで、通える範囲内のところ。
学費面で負担を掛けたくないから、大学には行けなくてもいい。高卒で公務員とか、就職実績があるところ。
通学は、母親の送り迎えじゃなくて、バスか電車か自転車で。
候補を絞って、最終的に明尚高校を第一希望に決めた。それだけでは不安だった私は、母親に内緒で、勇気を振り絞って明尚高校に電話をした。
対応してくれたのは、校長先生と、学年主任の山下先生だった。
私が転校を希望する理由。母親のこと。すべて正直に打ち明けた。それでも、学校の負担になるかもしれないと分かったうえで、山下先生は私を受け入れる方向で動くことを約束してくれた。
「君みたいな子を放っておけないし、学校で学びたいという気持ちには応えたい。もし良ければ一度学校を見に来ないか?」
私の胸は躍った。しかし、母の監視下にある以上、どうにかしてここから出ないといけない。
そこで私は、書斎で仕事中の母の目を盗んで「もう一度だけ学校に行かなくちゃいけないから」と嘘の書置きをし、家を脱出。制服を着てバス代を握りしめ、バス停に向かって歩いた。
人生初のひとりでの外出。不安だったけど、事前に調べ尽くしていたおかげか、無事にバスに乗りこむことができた。
明尚高校に近づき、ぼんやりと車窓から外を眺めていると、河川敷あたりで、道沿いに植えられた枯れ木が、慄然と、私を出迎えてくれるかのように並んでいた。
今は枯れ木だけど……春になると、桜が咲き誇って、綺麗なんだろうな。
そう思うと、蕾が芽吹くみたいに未来に希望が湧いてきた。
学校に到着すると、部活中で、校門前の人はまばら。目立ちたくはないから、なるべく人目を避けながら、事前に案内されていた職員用窓口に出向くと、眼鏡をかけたぼさぼさ髪の若い先生――山下先生が職員室に私を招いてくれた。
「よく来てくれたね」
電話での低くて落ち着いた声から想像していた通り、穏やかで頼りになる印象の先生だった。
職員室では、座って先生と話した。家庭のこと。お母さんのこと。将来のこと。私がここに転校したら、先生に迷惑をかけてしまうかも……という不安を打ち明けたけど、山下先生は力強く私に言ってくれた。
「君が心配することはない。君が学びたいという気持ちを叶えるのが僕らの仕事だから」
私は嬉しくて、涙が出そうになった。聞けば先生も学生時代に、母親が鬱を発症して苦労したらしい。当時の担任の先生にサポートしてもらって、無事に大学に合格。やがて教員免許を取ることが出来たって。
だから今度は、自分が困っている生徒を助ける番だって。その為に先生になったんだって、教えてくれた。
それから山下先生は、だれもいない校舎を案内してくれた。担任を務める教室に入って、ふたりで窓から部活をしているグラウンドを眺めた。
「あそこに陸上部が練習しているだろう。今は部活に来ていないけど、気に掛けている生徒がいてね。いずれは君もクラスメートになると思うけど、きっと気が合うんじゃないかな」
気が合う……か。どんな人なんだろう。
詳しくは聞かなかったけど。それも……ここに来れば分かるようになるのかな、と想像した。
そこから、あの枯れ木の桜並木も見えた。――春になって、一緒に学校生活を送れば。私の思い描く未来が、もう手の届く位置にあるような気がした。
下校ラッシュが始まらないうちに、先生との再会を誓って、バスで帰宅。家に帰ると、母親が真顔で玄関に立っていた。
「どういうつもり? 遅かったじゃない」
私が書き残していたメモは、ぐしゃぐしゃに丸められて母の手の中に握られている。リビングの机を見ると、上にあったものがすべて床に散乱していた。
背筋が冷たくなり、息が苦しくなる。指先は震え、必死に涙を堪えながら、それでも私は積年の想いを言葉に乗せて、母に訴えた。
「……ごめん。実は行きたい高校があって、見学して来た」
母の眉がぴくりと動く。ふうん、と鼻を鳴らすと、床に落ちているものを踏み荒らしながら箪笥の引き出しから何かを持ってきた。
「そのことなら、大丈夫よ。もうあなたが通う高校は決めてあるの」
母親は、そう言って私にパンフレットを見せてきた。隣町にある私立の女子高だ。
「お母さん」
笑顔でパンフレットを見せながら高校の説明をしてくれる母親の話を遮って、私は切り出した。
「なあに? さっちゃん」
笑顔を保っているが、目の奥は笑っていない。その圧に負けじと、私はスマホを取り出し、あるサイトを見せた。
「私、この……明尚高校に行きたい」
「……どうして?」
「せ……制服も可愛いし。部活も盛んだし。先生も……」
「そうじゃなくて。どうして勝手なことをするの?」
尖った声が、私の弱い部分を容赦なく抉ってくる。膝も震えて、足に力が入らない。
それでも、この機会を逃したら……もうずっとこのままなのかと思うと。ここで勇気を出さなきゃと、懸命に声を振り絞った。
「私……自分で決めたいから。高校卒業したら、この家も出てひとりでも生きていけるように――」
そのとき。母親はかっと目を見開き、持っていたパンフレットを私に投げつけ、両手でテーブルをひっくり返した。
「何も分かってない!」
机が倒れる衝撃音と、その叫び声に、私は腰を抜かして床にへたり込み、動けなくなった。
すぐに「ごめんなさい」と泣きながら何度も謝ったが、母の怒りは収まる気配はなく、近くにあった棚を引き倒し、食器棚の中の皿やグラスをすべて床にぶちまけた。
「パパも……おかあさんも、おとうさんも、みんな私の元からいなくなって……。あんなにあんなに愛してたのに」
そして母親は床にへたり込んでいる私の胸ぐらを掴んで、激しく揺さぶった。
「あなたも私を裏切るの? ひとりじゃなんにもできないくせに。私がいないと生きていけないあなたの為に、あなたのことを考えてこんなにやってあげているのに! あなたが傷つかないように、邪魔な人間はみんな排除してあげたでしょう? それなのに私を捨てて出ていくだって? この恩知らずが……!」
必死に抵抗する私が母親の手を振り払うと、今度は半狂乱で叫びながら床に自分の頭を叩きつけ始めた。
「やめて、お母さん」
暴れる母のことを押さえようと、私は後ろから必死に抱きついた。やがて暴れ疲れたのか、母は床に突っ伏したまま動かなくなった。
「お母さん、ごめんなさい……もう何も言わないから……」
肩越しに絞り出すように言うと、お母さんは涙ぐみながら私の顔を振り返って、「本当?」と呟いた。
「……うん」
「そ……そうだよね。さっちゃんだけは、私の傍にいてくれるよね?」
そう言って、お母さんは強く私を抱きしめた。
良かった……と、心の底からそう思った。これで元通りの、優しいお母さんに戻ってくれる。もう二度と、あんなお母さんの姿は見たくない。
「……あれ? さっちゃん、足怪我してる……」
そう言われて、足の裏を見ると、確かに切れて出血していた。ガラスの破片を踏んでしまったのだろうか、床には血が点々と滴っている。さっきまで必死だったから全然気が付かなかった。
「大変、すぐに病院に行かなきゃ」
「あ……大丈夫だって、これくらいなら」
「だめ。すぐにお母さんが連れて行ってあげるからね」
母は、見るからに焦っていた。私を軽自動車の助手席に押し込んで発車したのはいいものの、ライトをつけ忘れていたり、道を間違えかけたり。とにかく運転は荒く、スピードも出ていた。
「もう少し……もう少しで病院に着くからね」
母はうわごとのようにそう言っていた。しかし、片側一車線の大きな通りに走っていたとき。母が急ブレーキをかけた。
「……危ないじゃない! 急いでるのに!」
それは、横断歩道を渡る自転車だった。焦って見落としていたら大変なことになっていた、と、思わずホッとする。
しかし――その直後だった。
バックミラーを反射するライトの灯りが眩しい、と感じた瞬間。背後からの強い衝撃を感じ、私の身体はダッシュボードに叩きつけられ、車は対向車線に弾き飛ばされた。
そして、そこから先は、よく覚えていない。
うっすらとした意識の中で、聞いた気がする。
対向車線を走って来た車が衝突して、私は頭を強く打ったんだと思う。
気が付けばわたしは、夢の中にいた。
なぜかは分からないけど、それが夢なんだってすぐに気が付いた。
制服を着ている私は、大通りの真ん中に立っていた。
事故が起こった場所だ。私の夢は、そこから続いていた。
あてもなく車道を少し歩いて、地平線を見つめて、すぐに気が付いた。車が来ない。
工場も、コンビニも、商店街もあって、信号が切り替わって、電気もついているのに。誰もいない。
そこは、私以外が誰もいない世界だと。
がらんどうになった私の存在自体が、この世界なんだと。この街なんだと思った。
そこには、母親もいなかった。
ついに私はひとりぼっちになったんだと思うと、少し心が軽くなった。
私はあてもなく、いろんなところを歩き回った。
太陽はずっと眩しい位置にあって。時間は無限で、どれだけ歩いても足は疲れなかった。
何日も、何日も。すごく退屈で、寂しかったけど。不思議とこの夢から抜け出したいという気持ちにはならなかった。
「これが、私の望んだ世界なのかな」
公園の芝生に寝転んで、日差しに目を細めながら。私は、誰に話しかけるでもなく、そう呟いていた。
目を瞑っても、既に夢を見ているからか、眠くはならない。
これが、孤独。出口のない、明るい世界。人にも、時間にも、疲れとか体調にも縛られない。
心のどこかでずっと望んでいた自由、のはず。それなのに私は、違和感を覚えていた。
「私が本当に望んでいた世界は、ここじゃない」
そう呟いた瞬間、私はある場所に向かって、まっすぐに歩き始めていた。
あのとき、家の近くのバス停からバスに乗った。ずっと窓の外を見つめていたから、道順はそれとなく覚えている。
ガソリンスタンドやコンビニしかないのどかな通りを歩き、真っ暗な高速道路の欄干の下を潜り抜け、少しずつカフェや食堂などが目に入ってくる。
数時間が経っただろうか。河川敷付近に差し掛かると、風が強く吹いて前髪を乱した。
その先に、あの桜並木が見えた。はっとして、思わず走り出す。
「きれい……」
舞い降りてくる花びらが、ひらりと、肩に止まる。
そこには満開の桜並木が、私の花道を作るかのように、学校まで続く道を彩っていた。
しばらくその光景に見入った私は、グラウンド脇の歩道を歩き、校門を潜り抜け、明尚高校の校舎の中に入った。
山下先生と話した、職員室。案内してもらった、だれもいない放課後の教室。校舎にも、グラウンドにも、人の気配はない。
私は、あの桜が舞い散る頃に……この学校に通うことを夢見ていた。だから私はいま、ここにいるのかもしれない。
そのとき、チャイムの音が響き渡った。教室に差し込む影が、長く伸びている。いつの間にか陽が傾いていると気が付き、時計を見ると、昼の四時を指していた。これは放課後のチャイムなんだと気が付いた私は、校舎の二階の窓から、グラウンドを見渡した。
「……あっ」
すると、グラウンドの倉庫の前に……誰かが座り込んでいるのを見つけて、思わず目を見開いた。ジャージ姿の、男子生徒だ。
いつの間にかグラウンドにはハードルが並べられていて、その様子を、座り込んだままじっと見つめている。
彼はずっと、悔しそうに唇を結んだまま動かない。しばらくすると、いつの間にか彼の姿はグラウンドから消えていた。
いったい何だったのだろう……。
ずっと止まっていた、夢の中の時間。動き始めた途端に、誰もいなかった私の夢に、初めて現れた自分以外の人間。そのことに、何か意味があるのだろうか。
陽の暮れかけた廊下を歩いて階段を降り、校門を抜けて、夕焼けの桜並木を見上げながら、私は彼について考えていた。
……とてもつらそうな顔をしていたな。どうしてあんなに落ち込んでいるのだろう。
何か、大きな失敗したのだろうか。ハードルを並べていたから、それに関係があることなのかな。
そして再び、桜の花びらが、風に乗って桜並木を優雅に舞い散る光景を目にする。
私は、あの日教室でグラウンドを見つめながら言った、山下先生の言葉を思い出していた。
“いずれは君もクラスメートになると思うけど、きっと気が合うんじゃないかな”
その瞬間――心の中の、永く固く閉ざされていた扉が、開いた気がした。
外から暖かい空気と、光――そして、人の声、騒めき、喧騒が一気に雪崩れ込んでくる。
やがて、微かに揺れと、排気ガスの匂いを感じて、薄く目を開いた。
あれ? ここは、バスの中――?
はっとする。さっきまで見上げていた満開の桜並木が、窓の外に広がっていた。
私は後方の座席にひとりで座っていて、車内には運転手さんと、同じ制服を纏った生徒たちが何人も乗っている。
手には、鞄があった。そして私は……明尚高校の制服を身に着けている。
これは、夢だ。まさしく私が夢見ていた、未来。憧れの制服を着て、明尚高校に転校し――バスで通学をする。
私が、自分の意志で選んだ道。私が望んでいた世界、そのものだった。
間もなくバスは到着し、外に降り立つと、金網の内側にあるグラウンドから、活気のある声が聞こえてくる。校門の前は、通学する生徒たちでにぎわっていた。
そうだ。山下先生のところに――行かなくちゃ。
その足で職員室に向かい、扉をノックする。事務の人が出てくれて、担任になる山下先生を呼んでくれた。先生は私を見るなり、「おはよう」と優しく微笑んだ。
私はとにかく緊張していて、先生の話を聞きながら頷いてばかりだった。
「この後、ホームルームで自己紹介してもらうから、考えておいてね」
ああ、一番苦手な奴だ。
既に体が拒否反応を示していて、胃酸が逆流して口の中が酸っぱくなってくる。
先生の後ろをついて、階段を上がる。既にホームルームが始まっており、廊下には誰もいない。私と先生の足音だけが、コツコツと反響している。
教室の前までくると、中がざわついているのが分かって、教室のガラス越しに、無数の視線がこちらを向いているのを感じた。
今まさにその瞬間が迫っているのだと思うと、ストレスでこの場にうずくまりたくなる。
嫌だ。もう、帰りたい。
――もしも、ここにお母さんがいたら。そんなことをさせるなと口を挟むだろう。学校に電話を掛けて、さっそく山下先生に迷惑をかけるかもしれない。
正直……そうなったら楽だな、と思う。助けて欲しい。いつもみたいに、守ってほしい。私が嫌だと感じることから。逃げ道を作って、匿って――。
お母さん――と、胸の中で呼んだ。でも、すぐに気がつく。
この世界には、お母さんはいない。
泣いている私を抱きしめてくれた、あの腕も。優しい声も。
震える足で立っている私は、自分自身の胸に呼びかけた。
そうだ。私が――望んだんだから。この世界を。
お母さんがいない、お母さんの目が届かない、干渉してこない、守ってくれない、そんな世界を――だから、逃げる必要なんてないんだ。
「森内さん、行こうか」
先生が、優しく微笑みかけてくれる。
私の中でずっと鳴り響いていた雑念が、一気に消えていく。
静寂の中で、ここなら……始められるかもしれない、と呟く。
指の震えが、一瞬止まった。小さく呼吸をして、先生に視線を送る。
まもなく、無数の視線が私に降り注ぐだろう。
それでも私は、確かに一歩を踏み出した。
