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大会まであと一週間。
俺と光幸は、増村さんにお願いをし、咲良の家に向かうことに決めた。
駅で待ち合わせをし、ホームに入ると、間もなく電車が入線してきて、三人でボックス席に座る。
「あいつの家、行ったことあるんだな」
向かいに座った増村さんは、「何度かは」と淡々と答えた。
「でもなあ。アポなしだろ? 行ったところで、どうせあのお母さん会わせてくれねえんだろうな。ていうか、病院にいたときよりガード固くなってそうだし」
ため息をつく。俺もそう思う。むしろ、まるで会える望みがなさそうなのに、三人揃ってわざわざ電車に乗って彼女の家に向かっているのが不思議に思えるくらいだ。
「彼女、大丈夫なのかな。だって、自宅だろ? 病院みたいに設備は整っていないし。何かあったら、助からないんじゃないか」
光幸が不安げに眉を潜める。
「看護婦長さんが、訪問介護に切り替えたって教えてくれたけど。それでも確かに、二十四時間いてくれるわけじゃないからな」
それきり俺たちは押し黙ったまま。電車は最寄り駅に到着し、増村さんの案内に従って、咲良の家まで歩いた。
駅前には商店街があった。土曜日の午前中なのに、シャッターが閉まっている店が多い。彼女が子供の頃はここもまだ賑わっていたらしい。
そんな商店街の一角に、咲良の家はあった。一階が駐車場になっていて、水色の軽自動車が一台停まっている。ここに咲良がいるんだ……という実感が湧いてくる。門柱にインターフォンがあって、増村さんが恐る恐るボタンを押す。
反応がない。勇気を振り絞って、もう一回押してもらう。増村さんの顔は不安で引きつっていて、その指は微かに震えていた。
それでも音沙汰はない。車はあるから、在宅はしているはず。あんまりしつこいと迷惑になるのは承知だが、今度は俺がインターフォンを押して、彼女の母親が出て来てくれるのを待った。
ガタンッ!
すると、突然二階から物音が聴こえてきて、俺たち三人は顔を見合わせた。何かあったのか? と二階の窓付近を見上げていると、やがて母親が裏口から姿を現した。その表情は真顔で、足もとは裸足。両手には水がいっぱいに入ったバケツを抱えていた。
「さっさと帰りなさい! 咲良に近づかないで!」
彼女は奇声に近い声でそう叫ぶと同時に、まるで躊躇することなく俺たちに水をぶちまけた。幸い後ろに下がっていた増村さんは足元に掛かったくらいで済んだが、俺と光幸は全身ずぶ濡れになった。
「だ、大丈夫ですか……」
焦る増村さんが、鞄に入っていたハンカチで拭こうとしてくれるが、それでどうにかなる範疇を越えて水浸しになってしまった俺たちは、顔を見合わせて大きなため息をついた。
「何でだよ」
俺は思わず口元を歪め、吐き捨てるように言った。
「仕方ねえよ。世の中にはああいう人もいるってこった」
光幸は笑って俺を慰めてくれる。
だけど、悔しい。そういう人に対して、自分の気持ちを分かってもらえない。結局は、咲良の役に立つことが出来ない自分が、やっぱり情けなくて唇を噛んだ。
「ごめんなさい。私がもっと上手にお母さんと対話できれてばこんなことには……」
呆然とする増村さんに、俺たちは揃って首を横に振った。
「気にするなって。それは俺たちも同じだからな」
重苦しい空気が、三人の間に流れる。ずぶ群れになった服以上に、現実は重く俺たちにのしかかかっていた。
帰りの電車の中で、俺たちは終始無言だった。
もう、咲良には関わらない方がいいのかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎる。こんなことばっかりだ。これ以上詮索したりしなければ、こうやって打ちのめされることもないし、悩むこともない。
冷静に考えれば、そもそも俺は咲良と話したことはおろか、会ったことすらもない。
夢の中に出てきたから、というだけで。俺と咲良は何のかかわりもない他人だ。
これ以上みんなに迷惑をかける前に、自分の中に区切りをつけるべきタイミングなのかもしれない。
「あの子は、どんな顔をしていたんですか」
下を向いて自問自答していると、増村さんがふいに俺に問いかけた。
「え?」
「夢の中で。あの子と会ったんですよね」
「――そうだな。基本的にはどこか寂し気な感じだったけど。だんだん素な感じも見えてきて。驚いたり……笑ったり。照れたり……」
すると増村さんは、俺を真っすぐに見つめた。
「また、会いに行きましょう。私もまた見たいんです。彼女のそういう顔」
咲良が意識を失う前。唯一心を通わせた友達が、そう言って笑顔を見せる。
それから増村さんは、少しずつ彼女のことを語ってくれた。
虫も殺せない性格で、とにかく優しいこと。感情を表に出すのが苦手で、すぐにふさぎ込んでしまうけれど。話が盛り上がった時は本当に楽しそうに笑うし、彼女にとってもっともっとそういう存在が増えたらいいなって、ずっと思っていたこと。
こうやってみんなで咲良に会いに行けるようになって。すごく嬉しかったこと。
「そっか。ますます俺も会ってみたくなったよ。俺の夢にも出てこないかな」
そう言って光幸がおどける。
咲良のことを、たくさん話して。彼女のことを考えて、語り合いながら。俺たちはまたそれぞれの日常へと戻っていく。
増村さんと光幸と別れて、駅のホームから自宅へと歩きながら、俺は考えていた。
この世界のどこかに、森内咲良はいる。
会えないけど、彼女の心は、必ずどこかにある。
だからこそ、俺たちは夢の中で出会えたんじゃないか。だとしたら、また俺たちが出会える場所が、きっとどこかにあるはず。
お互いが望めば。いつかきっと――。
大けがをしたあの日から、ほぼ一年。
心を閉ざし、ひとりぼっちになっていた俺を見つけた彼女と、夢の中で出会ってから、一か月。
そして、再びスタートラインに立つまで、あと一週間。
顔を上げると、マンションと、信号機と、電線の隙間から、雲一つない空が見えた。
どこでもいい。どこかで見ていてくれ、咲良。
そしてすべてが終ったとき。またお前に会いに行くからな。
ゴールラインの向こう側にある時間に、想いを馳せながら。俺は痛みのなくなった膝と共に、雑踏の中を一歩ずつ歩み始めた。
