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「それだけ?」
箸を手にした妹が、目を丸くしている。
「そう、これだけ」
食卓には甘辛の香りが漂い、素揚げした野菜や豚に、甘辛のたれを絡めた美味しそうな酢豚が並んでいる。
しかし、俺の目の前にはサラダチキンのみ。ドレッシングもなく、このままよく噛んで胃に流し込み、「ごちそうさま」と席を立った。
「前よりストイックになってない? お腹空きそう」
遠慮する素振りもなくうまそうに酢豚を頬張る麦。母親は心配そうに俺を見つめている。
「本当にそれだけでいいの?」
「ああ。体重も増えてるし。制限していかなくちゃな」
目標は一か月後。そうと決めたら、全てはハードルの為に。妥協せずに突き進むのみだ。
二階へ上がると、八時には消灯。ベッドに寝転んで、スマホを触ることなく。目を瞑る。
あれだけ熱中していたゲームも、全てアンインストールした。後悔はない。
ゲームも楽しかったけど。やっぱり俺は、今の自分の方が好きだから。
瞼の裏に映し出されるのは、咲良の顔。哀し気に俯いているその顔が、あれから記憶に上書きされることはない。
夢の中で、もう一度会えたら。
お前のおかげで、俺はもう一度頑張ろうと思えたって伝えたい。
そうすれば、きっとあいつにまた会えるかもしれない。
胸を張って、お前も頑張れって。言えるかもしれない。
週末になり、俺と光幸はふたりで再び咲良の入院している病院を訪れた。
「あのお母さん。今度は病室に入れてくれるかなあ」
エレベーターの中で、光幸が眉間に皺を寄せて腕組みをする。
「……何度だって、何週間だって通ってやるさ。そうすれば、俺たちが咲良のことを大切に思ってるんだって、いつか伝わるはずだろ」
「……そうだな。そう信じて行くしかねえな」
咲良の病室のあるフロアに到着し、ふたりとも緊張した面持ちで廊下を歩く。
――しかし、俺たちはすぐに顔を見合わせた。
「……あれ?」
ドアが、完全に開いている。
嫌な予感がして早足で歩み寄って中を覗き込む。
――誰もいない。彼女が眠っていたであろうベッドは空っぽで――彼女の存在を繋ぐ鍵となった、あの檸檬の香りもすべて――消えてなくなっていた。
「そこの人、退院してったよ」
顔なじみの看護婦長さんが病室の入り口から顔を出して、俺たちに教えてくれた。
「退院って。意識が戻ったんですか?」
彼女は首を横に振る。本当は言っちゃだめなんだけどね、と前置きして、声を顰めて教えてくれた。
「お母さん、自宅で娘さんの面倒見るって。引き払って行ったよ。急だったね。訪問介護に切り替えるみたい」
「マジかよ……」
せっかく光幸や本山さやか、増村さんの力を借りて、咲良の存在に近づけたのに。また――彼女の姿を見失ってしまった。
呆然としながら、静かに悔しさを押し殺す俺に、光幸が背中を叩いた。
「大丈夫だって。増村さんなら家も知ってるだろうし。まだ会うチャンスはあるだろ」
すると、看護婦長さんが腕組みをし、眉を潜めた。
「もうやめておいたら? 友達が心配なのは分かるけど……あのお母さん、あんまり関わらない方がいいと思う。正直退院してくれてこっちもホッとしてるんだよね」
そう口にして、彼女は病室を去っていった。それだけで――あの人も、あのお母さんには散々振り回されてきたんだなと察してしまった。
帰りの電車の中で、俺たちは言葉少なに、窓の外の風景を漠然と見つめていた。
結局、眠ったままの彼女に――俺は何をしてあげられたのだろうか。
毎日病室に押し掛けたのがきっかけで、病院から去るという判断に至ったのなら、むしろ彼女をより閉鎖された場所に追い込む結果となったのかもしれない。
「確かにこれ以上は、迷惑かもな……」
あの看護師長さんの言う通りかもしれない。そう弱音を零すと、光幸は首を横に振る。
「あのお母さんや、あの子にとって――何が正解なのか分かんねえけど。お前は今まで通り全力でやるべきことに力を注げばいいし、俺も全力で支えていく。それしかねえよ」
その言葉に、「そうだな」と俺は頷く。
咲良――今お前は、何を考えている?
少しでもお前のそばに行きたい。声を――届けたい。
しかし、今の俺は無力で――そうしてやることもできない。
また夢の中で――お前に会いたい。その想いを強くしながら、電車は彼女のいた病院から遠ざかっていった。
一か月という短期決戦で、調整は急ピッチで進んだ。
体は訛っていたが、筋力はトレーニングを再開することで順調に戻っていった。
問題は、やっぱりハードルの感覚だ。
スピードを落とすことなく、ハードルのギリギリの高さを跨いで駆け抜けていく。
それに加えて、俺にはかつて大けがをしたという恐怖心がある。はじめはぶつかった瞬間が頭を過り、委縮してしまうことが何度もあった。
そのせいか、スプリントのタイムに比べ、ハードルのタイムはなかなか伸びてこない。
光幸にはカメラを構えてもらって、跳ぶ度にフォームを確認。細かい調整を重ねていった。少しずつではあるが不安が取り除かれていく感覚はあった。
大会まで、あと二週間。部活の時間に、俺に会いたいという人が来校した。
「こんにちは。地元のときわ新聞の竹下と申します。競技に復帰したって聞いて、どうしても話を聞かせてもらいたくて来ました」
よろしくお願いします、と白髪交じりの髪を綺麗に分けた、眼鏡にワイシャツ姿のおじさんは、高校生の俺に丁寧に頭を下げた。
「取材ですか。びっくりしました」
「いやいや。僕は君が中学生の頃から知ってるし、地元期待の星だからね。去年の新人戦も、写真付きで僕が紙面に記事を書かせてもらったんだよ」
そういって柔らかい笑顔を浮かべる。こうして僕に期待してくれていた人がいたんだなと思うと、そわそわした気持ちになる。
「ありがとうございます。でも……まだまだなんで」
それは本音だった。去年のフォームに戻れる保証はないし、期待してもらっている結果が残せる自信もない。
「いや、いいんだよ。君が帰ってきたって聞いただけで嬉しかったから。そうだ。あんな大けがを負って以来、しばらく競技から離れていたみたいだけど……どうして復帰しようって思ったのかな?」
取材といいつつ、メモ帳もペンも持たずに尋ねてくる。こういう機会に慣れていない一介の高校生に過ぎない俺に対する配慮なのかな、と考えてしまう。
「正直、もう復帰しないと決めていたんですけど。マネージャーが……光幸がずっと待っててくれていたんで。あいつの為にも、もう一度やってみようかなと」
「そうだったんだね」
笑顔で頷く記者さん。ちょうどそのとき、遠くで光幸が声を張り上げて仲間を鼓舞している声が聞こえた。
「彼が、君をまたここに連れて来てくれたのか。いい友達を持ったね」
「……はい。でも……戻って来れた理由はもうひとつあって」
名前は出さなかったけど。俺は正直に伝えた。きっと記事にはならないだろうけど。心のどこかで、彼女に届けばいいなって気持ちがあった。
翌日。取材内容はすぐに紙面に載った。大けがから復帰期す、という見出しの小さな記事だったけど。ちゃんとハードルを越えている俺の写真も載っていて、母親も嬉しそうにその記事をスクラップしていた。
