5
「ようヒロト。お前、カレー好きか?」
ホームルームが終り、各々が帰り支度や部活に向かう準備をするなか――まっすぐに俺の席にやってきた光幸が、いつものように陽気に俺の肩を叩く。
「調合に成功したのか?」
教室の窓際から日輪が降り注ぐグラウンドを見つめながら、俺は聞き返した。
「そうだ。スポーツドリンクの粉と、カレー粉の融合。厳選した十種類のスパイスを調合した、インド人もびっくりの本格的な仕上がりだぜ」
俺は知っている。
光幸という、俺にとっての唯一の友人は――たしかにいつもふざけているが、食べ物で遊んだりするほど非常識ではない。それどころか、自分が喘息を患って走れなくなった分、マネージャーになってみんなを支えたいという、誰より熱くていいやつだってこと。
そして、一年近くも陸上競技から離れている俺に。こうやって色々と妙な口実を作って、部活に顔を出せるように計らってくれている。
でも、それも今日で終わりだ。俺の答えは――既にここにある。
「光幸――知ってるか?」
「え?」
振り返ると、鞄をたすき掛けにした光幸が、虚を突かれて目を丸くしていた。
「俺はな――辛いのが苦手なんだ」
「……そっか」
がっくりと肩を落とした光幸が、力なく笑って、背中を向ける。
俺は机の上の鞄を肩掛けし、勢いよく光幸の肩を組んだ。
「甘口も準備しとけよ、マネージャー。仲間だろ?」
光幸が俺の顔を見つめる。そして、気恥ずかしそうに坊主頭を触りながら、「そうこなくちゃ」と笑顔で俺の背中を叩き返した。
この一年――ずっと金網の外から見ていた光景が、目の前にあった。
遠くから聴こえていた音が、あちこちで鳴っている。
陸上部のトラックを取り囲むネットの内側から、テニスボールを打つ音、反対側のグラウンドから、野球部の掛け声と、ノックの音。
そして、陸上部の長距離走組が、声を揃えて集団でアップをし、グラウンドを蹴る音が響いている。
「ほら、あそこに後輩たちが集まってるぞ」
光幸と並んで部室に向かって歩いていると、俺の姿に気が付いたストレッチ中の男子の後輩たちが、目を丸くしながら直立不動で挨拶をしてきた。
「え? 大崎先輩……?」
「お、お疲れ様です!」
「あ……いいよ。ストレッチ続けてくれ」
なんだか気恥ずかしい。それから光幸と羨望の眼差しを向けてくる後輩たちとしばらく談笑をしていると、俺の姿を見つけたジョグ中の本山さやかが、女子部員たちの輪を抜け出して一直線に俺の元へ走って来た。
「先輩!」
息を切らしながら、彼女が俺の顔をじっと見つめる。
「やっと戻ってきましたね。こっからですよ。私も負けませんからね!」
彼女は拳をぐっと握りしめ、天高くつきあげた。
「負けないって……誰に?」
すると彼女は眉間に皺を寄せ、ぷいっとそっぽを向いてジョグへと戻って行ってしまった。
部室に入ると、俺のロッカーがまだ残っていた。古いシューズとか、スパイクのピンの替えとかがそのままだ。
懐かしい。いや、感慨に浸っている場合じゃないな。
一年――これは、俺の時間が止まっていた証だ。
ジャージに着替えると、光幸が倉庫前からグラウンドに向かって声を張り上げる。
「はい集合、そして注目!」
輪になって集まる部員たち。俺の存在に気が付いた他の先輩たち、同学年の部員もざわつき始め、至る所から視線を感じる。
「今日からヒロトが戻ってきました。どうぞ」
「え?」
そう言って俺に目配せをする。
「うーん……」
話す内容なんて全く準備していない。焦りと緊張で背中に汗をかき始める。
「何でもいいぞ」
光幸がひとこと添える。なんでもいい……か、と少しずつ頭の中で言葉が整理されていく。
「……まずは、怪我をしてしまって、その間一年間……全く顔を出さなかったことは、申し訳なかったと思ってます」
後輩たちは、目をキラキラとさせながら。同級生たちはしんみりとしながら。キャプテンや先輩たちは、しっかりと頷きながら、ぼそぼそと頼りなく語る俺の話を聞いてくれている。
「……いや、なんだろうな。心配かけてしまったとか、期待してもらったのに、とか。確かにそうなんだけど。俺が言わなくちゃいけないのはそういうことなんだけど。俺が言いたいのは……」
せっかく整えていたのに、だんだんと言葉が散らかってきた。
この気持ち。高ぶるような、心が震えるような感覚。この場所に戻ってくることが出来たという感慨深さなのかと思ったけど。やっぱり違う。
「光幸、ありがとな」
坊主頭の、みんなの良きマネージャー。ムードメーカー。そして、俺の親友が――はっとして目を丸くする。
「俺の居場所、ずっと守ってくれて。何度も、部活に行こうって声をかけてくれて」
照れくさくて下を向く。でも、こんな場じゃなきゃ。こんなことは言えないよなって、また顔を上げた。
「俺がまたここに戻って来られたのは、自分がまたハードルをしたいって気持ちだけじゃ無理だったと思う。俺は、お前の優しさに、期待に、きちんと応えたかった。俺は誰よりも、お前の為にここに戻って来たかった」
光幸が、俺の眼をまっすぐに見つめながら、堪えきれずに顔がくしゃくしゃになって、ジャージの裾で何度を目をこすり始める。
俺も、声が震え始めた。ああ、恥ずかしいな。みんなの前で泣くなんて。
「ありがとう。これでもう一度、一緒に頑張れる。またよろしくな、光幸」
そう締めくくると、自然と大きな拍手が輪を包みこんだ。
「先輩、ファイト―!」
目を真っ赤にした本山さやかが、涙声でそう叫ぶと、みんなが呼応するように、「ファイト―」と声を合わせる。
先輩たちには肩を叩かれ、傍らで見守っていた顧問の先生はがっちりと握手をしてくれた。
グラウンドの土の匂い。陽に照らされて、火照った体に、汗が伝う冷たい感触。
帰って来たんだなと実感するが、感傷に浸るのはここまでだった。
「ヒロト。無理するな」
入念なストレッチからいきなりウェーブ走、加速走、学校外の坂道とフルメニューを志願したが、体力が落ちている俺はついていくのが精いっぱいだ。
「先輩ファイト!」
汗だくで肩で息をしてへばっている俺の横を、本山さやかが周回コースを颯爽と走り抜けていく。
みんな頑張っているんだ。俺が足を引っ張るわけにいかない。
そう自分を奮い立たせて、訛り切った体に鞭を打ち、なんとか初日からフルメニューを消化することができた。
「やべえもう体が動かねえ」
帰りのバスの中でぐったりしている俺に、光幸が「だから無理するなって言ったろ」と苦笑いをする。
「でも……無理しなきゃいけないからな」
ぐったりしながら呟く俺を、光幸は心配そうに見つめている。
「インターハイ予選。出るつもりなのか?」
俺は黙って頷く。今は五月の半ばだから……あと一か月ほどしかない。
普通に考えたら、一年近くもブランクがあったのだから、間に合うはずがない。
でも俺は……先を見据えるつもりはなかった。
もう一度、あのスタートラインに戻る。そう誓ったから。
森内咲良――。あのとき彼女が、何を背負い、悩み、涙を流したのか、俺には分からない。
それでも、彼女が俺を励ましてくれようとしたこと。力になりたいと思ってくれたこと。
その気持ちに、俺はきちんと向き合いたい。その一心だった。
「何度も言うけどな。勝負にこだわるなよ。どれだけ速いタイムを出しても、結果は運に左右されたり、負けることはあるんだからな」
光幸が釘をさすように俺の膝をぽんと叩く。
「分かってるよ」
「俺はお前があのまま陸上をやめていたら後悔するって思ったから、ずっと心配してたんだ。みんなの期待に応えたいとか、そういう気持ちは分かるけど。結果は気にするなよ。俺はお前がまた全力で悔いなくやれるのを、俺も全力でサポートしたいだけだから」
普段はおちゃらけてるけど、こういうときは真っすぐに俺に気持ちを伝えてくれる。
「……お前、いいマネージャーだよな」
「よせよ、照れるだろ」
そう言って顔を覆う光幸。
信頼できる存在とともに。俺はようやくスタートラインに戻ってくることができた。
全身の疲れも、今日一日全力で頑張って証だと思うと――なんてことはない。
昔の自分に戻りたいと、ハードルを見つめながら座り込んでいた俺は、もういない。
明日の部活が、既に待ちきれなくなっていた。
「ようヒロト。お前、カレー好きか?」
ホームルームが終り、各々が帰り支度や部活に向かう準備をするなか――まっすぐに俺の席にやってきた光幸が、いつものように陽気に俺の肩を叩く。
「調合に成功したのか?」
教室の窓際から日輪が降り注ぐグラウンドを見つめながら、俺は聞き返した。
「そうだ。スポーツドリンクの粉と、カレー粉の融合。厳選した十種類のスパイスを調合した、インド人もびっくりの本格的な仕上がりだぜ」
俺は知っている。
光幸という、俺にとっての唯一の友人は――たしかにいつもふざけているが、食べ物で遊んだりするほど非常識ではない。それどころか、自分が喘息を患って走れなくなった分、マネージャーになってみんなを支えたいという、誰より熱くていいやつだってこと。
そして、一年近くも陸上競技から離れている俺に。こうやって色々と妙な口実を作って、部活に顔を出せるように計らってくれている。
でも、それも今日で終わりだ。俺の答えは――既にここにある。
「光幸――知ってるか?」
「え?」
振り返ると、鞄をたすき掛けにした光幸が、虚を突かれて目を丸くしていた。
「俺はな――辛いのが苦手なんだ」
「……そっか」
がっくりと肩を落とした光幸が、力なく笑って、背中を向ける。
俺は机の上の鞄を肩掛けし、勢いよく光幸の肩を組んだ。
「甘口も準備しとけよ、マネージャー。仲間だろ?」
光幸が俺の顔を見つめる。そして、気恥ずかしそうに坊主頭を触りながら、「そうこなくちゃ」と笑顔で俺の背中を叩き返した。
この一年――ずっと金網の外から見ていた光景が、目の前にあった。
遠くから聴こえていた音が、あちこちで鳴っている。
陸上部のトラックを取り囲むネットの内側から、テニスボールを打つ音、反対側のグラウンドから、野球部の掛け声と、ノックの音。
そして、陸上部の長距離走組が、声を揃えて集団でアップをし、グラウンドを蹴る音が響いている。
「ほら、あそこに後輩たちが集まってるぞ」
光幸と並んで部室に向かって歩いていると、俺の姿に気が付いたストレッチ中の男子の後輩たちが、目を丸くしながら直立不動で挨拶をしてきた。
「え? 大崎先輩……?」
「お、お疲れ様です!」
「あ……いいよ。ストレッチ続けてくれ」
なんだか気恥ずかしい。それから光幸と羨望の眼差しを向けてくる後輩たちとしばらく談笑をしていると、俺の姿を見つけたジョグ中の本山さやかが、女子部員たちの輪を抜け出して一直線に俺の元へ走って来た。
「先輩!」
息を切らしながら、彼女が俺の顔をじっと見つめる。
「やっと戻ってきましたね。こっからですよ。私も負けませんからね!」
彼女は拳をぐっと握りしめ、天高くつきあげた。
「負けないって……誰に?」
すると彼女は眉間に皺を寄せ、ぷいっとそっぽを向いてジョグへと戻って行ってしまった。
部室に入ると、俺のロッカーがまだ残っていた。古いシューズとか、スパイクのピンの替えとかがそのままだ。
懐かしい。いや、感慨に浸っている場合じゃないな。
一年――これは、俺の時間が止まっていた証だ。
ジャージに着替えると、光幸が倉庫前からグラウンドに向かって声を張り上げる。
「はい集合、そして注目!」
輪になって集まる部員たち。俺の存在に気が付いた他の先輩たち、同学年の部員もざわつき始め、至る所から視線を感じる。
「今日からヒロトが戻ってきました。どうぞ」
「え?」
そう言って俺に目配せをする。
「うーん……」
話す内容なんて全く準備していない。焦りと緊張で背中に汗をかき始める。
「何でもいいぞ」
光幸がひとこと添える。なんでもいい……か、と少しずつ頭の中で言葉が整理されていく。
「……まずは、怪我をしてしまって、その間一年間……全く顔を出さなかったことは、申し訳なかったと思ってます」
後輩たちは、目をキラキラとさせながら。同級生たちはしんみりとしながら。キャプテンや先輩たちは、しっかりと頷きながら、ぼそぼそと頼りなく語る俺の話を聞いてくれている。
「……いや、なんだろうな。心配かけてしまったとか、期待してもらったのに、とか。確かにそうなんだけど。俺が言わなくちゃいけないのはそういうことなんだけど。俺が言いたいのは……」
せっかく整えていたのに、だんだんと言葉が散らかってきた。
この気持ち。高ぶるような、心が震えるような感覚。この場所に戻ってくることが出来たという感慨深さなのかと思ったけど。やっぱり違う。
「光幸、ありがとな」
坊主頭の、みんなの良きマネージャー。ムードメーカー。そして、俺の親友が――はっとして目を丸くする。
「俺の居場所、ずっと守ってくれて。何度も、部活に行こうって声をかけてくれて」
照れくさくて下を向く。でも、こんな場じゃなきゃ。こんなことは言えないよなって、また顔を上げた。
「俺がまたここに戻って来られたのは、自分がまたハードルをしたいって気持ちだけじゃ無理だったと思う。俺は、お前の優しさに、期待に、きちんと応えたかった。俺は誰よりも、お前の為にここに戻って来たかった」
光幸が、俺の眼をまっすぐに見つめながら、堪えきれずに顔がくしゃくしゃになって、ジャージの裾で何度を目をこすり始める。
俺も、声が震え始めた。ああ、恥ずかしいな。みんなの前で泣くなんて。
「ありがとう。これでもう一度、一緒に頑張れる。またよろしくな、光幸」
そう締めくくると、自然と大きな拍手が輪を包みこんだ。
「先輩、ファイト―!」
目を真っ赤にした本山さやかが、涙声でそう叫ぶと、みんなが呼応するように、「ファイト―」と声を合わせる。
先輩たちには肩を叩かれ、傍らで見守っていた顧問の先生はがっちりと握手をしてくれた。
グラウンドの土の匂い。陽に照らされて、火照った体に、汗が伝う冷たい感触。
帰って来たんだなと実感するが、感傷に浸るのはここまでだった。
「ヒロト。無理するな」
入念なストレッチからいきなりウェーブ走、加速走、学校外の坂道とフルメニューを志願したが、体力が落ちている俺はついていくのが精いっぱいだ。
「先輩ファイト!」
汗だくで肩で息をしてへばっている俺の横を、本山さやかが周回コースを颯爽と走り抜けていく。
みんな頑張っているんだ。俺が足を引っ張るわけにいかない。
そう自分を奮い立たせて、訛り切った体に鞭を打ち、なんとか初日からフルメニューを消化することができた。
「やべえもう体が動かねえ」
帰りのバスの中でぐったりしている俺に、光幸が「だから無理するなって言ったろ」と苦笑いをする。
「でも……無理しなきゃいけないからな」
ぐったりしながら呟く俺を、光幸は心配そうに見つめている。
「インターハイ予選。出るつもりなのか?」
俺は黙って頷く。今は五月の半ばだから……あと一か月ほどしかない。
普通に考えたら、一年近くもブランクがあったのだから、間に合うはずがない。
でも俺は……先を見据えるつもりはなかった。
もう一度、あのスタートラインに戻る。そう誓ったから。
森内咲良――。あのとき彼女が、何を背負い、悩み、涙を流したのか、俺には分からない。
それでも、彼女が俺を励ましてくれようとしたこと。力になりたいと思ってくれたこと。
その気持ちに、俺はきちんと向き合いたい。その一心だった。
「何度も言うけどな。勝負にこだわるなよ。どれだけ速いタイムを出しても、結果は運に左右されたり、負けることはあるんだからな」
光幸が釘をさすように俺の膝をぽんと叩く。
「分かってるよ」
「俺はお前があのまま陸上をやめていたら後悔するって思ったから、ずっと心配してたんだ。みんなの期待に応えたいとか、そういう気持ちは分かるけど。結果は気にするなよ。俺はお前がまた全力で悔いなくやれるのを、俺も全力でサポートしたいだけだから」
普段はおちゃらけてるけど、こういうときは真っすぐに俺に気持ちを伝えてくれる。
「……お前、いいマネージャーだよな」
「よせよ、照れるだろ」
そう言って顔を覆う光幸。
信頼できる存在とともに。俺はようやくスタートラインに戻ってくることができた。
全身の疲れも、今日一日全力で頑張って証だと思うと――なんてことはない。
昔の自分に戻りたいと、ハードルを見つめながら座り込んでいた俺は、もういない。
明日の部活が、既に待ちきれなくなっていた。
