4
それから俺は――部活のある本山さやかと光幸は病院の面会時間に間に合わないこともあり、毎日ひとりで学校終ってすぐに咲良のいる病室に向かった。
もちろん会える保証などなかったし、実際に会うどころか、彼女のお母さんと会話することすら叶わなかった。
病室の前まで行って、何度ノックをしても。「中に入れてくれませんか」と声を掛けても、鍵のかかった扉の向こうから、反応が返ってくることはなかった。
「あなたも懲りないね」
ずっと病室の扉の前で立ち尽くしていると、いつも看護師長さんにため息をつかれた。それでも俺は、諦めるつもりは全くなかった。
そして五日目――。いつのもように電車で病院に向かっていると、ぱらぱらと雨が車窓を打ち始め、駅に着く頃には土砂降りになった。
あいにく傘を持っていなかった俺は、鞄を頭に乗せて病院の玄関まで走ると、息を切らしながらロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
病室のある階に到着し、廊下を歩く。
そのとき俺は、ある違和感に気が付いた。
「――あれ?」
いつもは固く閉じられているはずの病室の扉が――僅かに開いていた。
周囲を見渡す。扉に近づいて、念のため開いたドアをノックする。
――反応がない。中に母親はいないようだ。
勝手に入るのはよくないのは分かっている。しかし、これはチャンスだ。
期待と背徳感に背中を押されるように、俺は恐る恐る足を踏み入れる。
中は静かで、雨音だけが微かに遠くで轟いている。
病室の奥に入ると、締め切ったカーテンと、奥のベッドで――誰かが寝ているのが目に入った。
そして、鼻先をくすぐるのは、檸檬の匂い。
覚えている。これは、かつてバスで咲良の隣に座った時のと同じだ。
「咲良――」
部屋の奥へと進もうとしたその瞬間。誰かが俺の腕を強く掴んだ。
「何をしているの」
はっとして振り返ると、そこには鬼の形相で俺を睨みつける彼女の母親の姿があった。
「いや……俺は咲良に……」
「誰が入っていいって言ったの? 今すぐ出ていきなさい!」
強引に病室の外へと引っ張り出されると、最後に強く背中を押され、俺はバランスを崩して床に叩きつけられた。
「二度と娘に近づかないで頂戴……」
母親はそう吐き捨てて、ドアを閉めようとする。
俺はすぐさま立ち上がり、閉まる直前でドアに手を掛け、大きな声で叫んだ。
「咲良! お前、俺に言ったよな。昔の自分に戻りたいのに、何もできない今の自分が嫌いだって」
すぐに看護師さんたちが駆け寄って来て、俺を取り押さえる。
「早く連れて行きなさい!」
もみくちゃにされるなか、彼女の母親の尖った声が耳に入った。
俺はエレベーターに押し込まれながら、最後にもう一度声を振り絞った。
「何もできないってなんだよ。お前も俺と同じだ。そうだろ? だったら、俺はやるよ。だから、お前もスタートラインに立てよ。立てるはずだぞ! 咲良!」
閉じていくエレベーターの隙間から、病室の扉を少し開いた母親の、苦々しい表情が見えた。
お互い、ハードルは一つじゃない。でもひとつひとつ乗り越えていけば、きっとゴールには辿り着けるはずだ。
そうだろ? 咲良――。
病院から外に出ると、いつの間にか雨は上がり、地平線に沈みゆく太陽の残照が、世界を赤く美しく染めていた。
電車に乗り、スマホを見る。数十分前に、ラインが数件着ていた。
【雨大丈夫? 駅まで車で迎えに行こうか?】
母親からだった。俺は既に止んでいるから大丈夫、とだけ返信をして、スマホをポケットの中に押し込んだ。
歩いて家に帰り、玄関を開けると、そこには見慣れない靴が並んでいた。
ああ、そういえばそうだった、と思い出し、濡れた服を脱衣所で着替えて、リビングに向かう。
「おう、おかえりー」
無精ひげをさすりながら、ソファーに座って雑誌を読んでいたのは、海外赴任から戻って来ていた父親だった。
「おう、おかえりぃ!」
父親の横にぴったりくっついてゲームをしているのは、妹の麦だ。相変わらずファザコンだな……と思いながら、冷蔵庫の前で麦茶を喉に流し込んで、既におかずが並んでいるダイニングのテーブルに座る。
「今度はスペインだっけ? どうだった?」
「いやあ、向こうの人間は、みんな陽気だし、よく喋るし、楽しかったよ! それに、飯は一日五回も取るんだ。バルでつまんだトルティージャもパエリアも旨かったなあ。ただ、日曜日祝日はどこの店も閉まっちゃうからちょっと不便だったけどね」
父親は通訳の仕事をしていて、五か国語が堪能。クライアントに応じて日々世界中を飛び回っている。幼少期から一緒に過ごす時間は限られているけど、年に数回はこうして家に帰ってきて夕食を共にする。
「みんな揃ったから、ごはんにしよっか」
母親の一声で、麦と父親がテーブルに着く。今夜はお寿司だ。テーブルには、丸い寿司桶に色とりどりの新鮮そうなネタが盛り付けられている。
「いただきまーす」
みそ汁をすすりながら、みんな思い思いに箸を伸ばしていく。ずっと父親に茶々を入れ続ける麦を中心に、他愛もない話に花が咲いていく。
「ところで、ヒロト。学校はどうだ?」
「……まあ、普通かな」
「そうか。膝の具合は?」
「問題ないよ」
「良かったなあ。リハビリ頑張ったもんな」
嬉しそうに目を細める父親。その様子を見つめる母親も、優しく微笑んでいる。
俺の好物のエンガワと甘えびには、誰も箸を伸ばさない。
心地よい空間。俺にとっての、家族という居場所。
「ねえ、母さん――父さんも」
母さんは箸を止めて、「どうしたの?」と目をぱちぱちとさせる。
「どうして――俺に、何も言わないんだ?」
「え?」
「ほら。ハードル辞めて、部活に通わなくなって、一年経つし。ずっと色々と気を遣ってくれてたのは分かるけど……とっくに怪我が治ってるのは知ってるだろ? 放課後もさっさと帰って来てスマホゲームばっかりしててさ。競技に復帰して欲しいとか、また頑張って欲しいとか、思わないのか?」
母親は箸を揃えたあとに、「うーん……」と考える素振りをしてから、「どっちでもいいかなあ……」とまた笑顔を向けた。
「はあ。何でだよ」
「何でって。もともとあなたが自分の意志で始めたことだし。あなたが頑張るのを、少しでも応援したいと思って食事面ではサポートしてたけど……復帰するかどうかは、私が求めることでも、決めることでもないしね」
「じゃあ、俺がもう二度とハードル跳ばないって言っても?」
今度は父親がビールをちびちびとやって、唇をほころばせた。
「いいんじゃないか。ただ、もしもヒロトに諦めたくないとか、もう一度頑張りたいって気持ちが残っているのなら、また戻ればいいし。そのまま辞めたとしても、他の道を選んだという選択を後悔しないように生きればいいだけさ」
高校時代にプロサッカー選手を志して単身渡欧し、紆余曲折を経て通訳として海外で活躍する邦人を支えるという生き方を選んだ父親らしい言葉だな、と思った。
「麦は……どう思ってる?」
今度は、箸を持ったままじっと俺を見つめている妹に向かって尋ねる。
すると麦は寿司桶に視線を落とし、また俺の顔を見上げた。
「甘えび……食べたい」
「……はい?」
「いや、食べないんなら、食べてもいいのかなって、ずっと思ってて」
隣で父親が噴き出す。母親もつられて笑って、食卓は笑顔に包まれた。
「いいよ、食えよ。お前は素直だな……ずっとそのままでいろよ」
苦笑しながら、嬉しそうに甘えびを尻尾ごと口に放り込む麦を見つめる。
どの道を選んだとしても、後悔しないように生きればいい――か。
ずっと心の中でもやもやとしていたものが、すっきりと晴れたような気がする。
最後に残しておいたエンガワは、たっぷりと醤油と山葵をつけて、じっくりと時間をかけていただいた。
今まで悩んだ時間も、苦しんだ時間も、きっと無駄にはしない。
そう心に決めた俺の気持ちは、既にスタートラインに立っていて。その眼は、すでに最初のハードルを見つめていた。
それから俺は――部活のある本山さやかと光幸は病院の面会時間に間に合わないこともあり、毎日ひとりで学校終ってすぐに咲良のいる病室に向かった。
もちろん会える保証などなかったし、実際に会うどころか、彼女のお母さんと会話することすら叶わなかった。
病室の前まで行って、何度ノックをしても。「中に入れてくれませんか」と声を掛けても、鍵のかかった扉の向こうから、反応が返ってくることはなかった。
「あなたも懲りないね」
ずっと病室の扉の前で立ち尽くしていると、いつも看護師長さんにため息をつかれた。それでも俺は、諦めるつもりは全くなかった。
そして五日目――。いつのもように電車で病院に向かっていると、ぱらぱらと雨が車窓を打ち始め、駅に着く頃には土砂降りになった。
あいにく傘を持っていなかった俺は、鞄を頭に乗せて病院の玄関まで走ると、息を切らしながらロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
病室のある階に到着し、廊下を歩く。
そのとき俺は、ある違和感に気が付いた。
「――あれ?」
いつもは固く閉じられているはずの病室の扉が――僅かに開いていた。
周囲を見渡す。扉に近づいて、念のため開いたドアをノックする。
――反応がない。中に母親はいないようだ。
勝手に入るのはよくないのは分かっている。しかし、これはチャンスだ。
期待と背徳感に背中を押されるように、俺は恐る恐る足を踏み入れる。
中は静かで、雨音だけが微かに遠くで轟いている。
病室の奥に入ると、締め切ったカーテンと、奥のベッドで――誰かが寝ているのが目に入った。
そして、鼻先をくすぐるのは、檸檬の匂い。
覚えている。これは、かつてバスで咲良の隣に座った時のと同じだ。
「咲良――」
部屋の奥へと進もうとしたその瞬間。誰かが俺の腕を強く掴んだ。
「何をしているの」
はっとして振り返ると、そこには鬼の形相で俺を睨みつける彼女の母親の姿があった。
「いや……俺は咲良に……」
「誰が入っていいって言ったの? 今すぐ出ていきなさい!」
強引に病室の外へと引っ張り出されると、最後に強く背中を押され、俺はバランスを崩して床に叩きつけられた。
「二度と娘に近づかないで頂戴……」
母親はそう吐き捨てて、ドアを閉めようとする。
俺はすぐさま立ち上がり、閉まる直前でドアに手を掛け、大きな声で叫んだ。
「咲良! お前、俺に言ったよな。昔の自分に戻りたいのに、何もできない今の自分が嫌いだって」
すぐに看護師さんたちが駆け寄って来て、俺を取り押さえる。
「早く連れて行きなさい!」
もみくちゃにされるなか、彼女の母親の尖った声が耳に入った。
俺はエレベーターに押し込まれながら、最後にもう一度声を振り絞った。
「何もできないってなんだよ。お前も俺と同じだ。そうだろ? だったら、俺はやるよ。だから、お前もスタートラインに立てよ。立てるはずだぞ! 咲良!」
閉じていくエレベーターの隙間から、病室の扉を少し開いた母親の、苦々しい表情が見えた。
お互い、ハードルは一つじゃない。でもひとつひとつ乗り越えていけば、きっとゴールには辿り着けるはずだ。
そうだろ? 咲良――。
病院から外に出ると、いつの間にか雨は上がり、地平線に沈みゆく太陽の残照が、世界を赤く美しく染めていた。
電車に乗り、スマホを見る。数十分前に、ラインが数件着ていた。
【雨大丈夫? 駅まで車で迎えに行こうか?】
母親からだった。俺は既に止んでいるから大丈夫、とだけ返信をして、スマホをポケットの中に押し込んだ。
歩いて家に帰り、玄関を開けると、そこには見慣れない靴が並んでいた。
ああ、そういえばそうだった、と思い出し、濡れた服を脱衣所で着替えて、リビングに向かう。
「おう、おかえりー」
無精ひげをさすりながら、ソファーに座って雑誌を読んでいたのは、海外赴任から戻って来ていた父親だった。
「おう、おかえりぃ!」
父親の横にぴったりくっついてゲームをしているのは、妹の麦だ。相変わらずファザコンだな……と思いながら、冷蔵庫の前で麦茶を喉に流し込んで、既におかずが並んでいるダイニングのテーブルに座る。
「今度はスペインだっけ? どうだった?」
「いやあ、向こうの人間は、みんな陽気だし、よく喋るし、楽しかったよ! それに、飯は一日五回も取るんだ。バルでつまんだトルティージャもパエリアも旨かったなあ。ただ、日曜日祝日はどこの店も閉まっちゃうからちょっと不便だったけどね」
父親は通訳の仕事をしていて、五か国語が堪能。クライアントに応じて日々世界中を飛び回っている。幼少期から一緒に過ごす時間は限られているけど、年に数回はこうして家に帰ってきて夕食を共にする。
「みんな揃ったから、ごはんにしよっか」
母親の一声で、麦と父親がテーブルに着く。今夜はお寿司だ。テーブルには、丸い寿司桶に色とりどりの新鮮そうなネタが盛り付けられている。
「いただきまーす」
みそ汁をすすりながら、みんな思い思いに箸を伸ばしていく。ずっと父親に茶々を入れ続ける麦を中心に、他愛もない話に花が咲いていく。
「ところで、ヒロト。学校はどうだ?」
「……まあ、普通かな」
「そうか。膝の具合は?」
「問題ないよ」
「良かったなあ。リハビリ頑張ったもんな」
嬉しそうに目を細める父親。その様子を見つめる母親も、優しく微笑んでいる。
俺の好物のエンガワと甘えびには、誰も箸を伸ばさない。
心地よい空間。俺にとっての、家族という居場所。
「ねえ、母さん――父さんも」
母さんは箸を止めて、「どうしたの?」と目をぱちぱちとさせる。
「どうして――俺に、何も言わないんだ?」
「え?」
「ほら。ハードル辞めて、部活に通わなくなって、一年経つし。ずっと色々と気を遣ってくれてたのは分かるけど……とっくに怪我が治ってるのは知ってるだろ? 放課後もさっさと帰って来てスマホゲームばっかりしててさ。競技に復帰して欲しいとか、また頑張って欲しいとか、思わないのか?」
母親は箸を揃えたあとに、「うーん……」と考える素振りをしてから、「どっちでもいいかなあ……」とまた笑顔を向けた。
「はあ。何でだよ」
「何でって。もともとあなたが自分の意志で始めたことだし。あなたが頑張るのを、少しでも応援したいと思って食事面ではサポートしてたけど……復帰するかどうかは、私が求めることでも、決めることでもないしね」
「じゃあ、俺がもう二度とハードル跳ばないって言っても?」
今度は父親がビールをちびちびとやって、唇をほころばせた。
「いいんじゃないか。ただ、もしもヒロトに諦めたくないとか、もう一度頑張りたいって気持ちが残っているのなら、また戻ればいいし。そのまま辞めたとしても、他の道を選んだという選択を後悔しないように生きればいいだけさ」
高校時代にプロサッカー選手を志して単身渡欧し、紆余曲折を経て通訳として海外で活躍する邦人を支えるという生き方を選んだ父親らしい言葉だな、と思った。
「麦は……どう思ってる?」
今度は、箸を持ったままじっと俺を見つめている妹に向かって尋ねる。
すると麦は寿司桶に視線を落とし、また俺の顔を見上げた。
「甘えび……食べたい」
「……はい?」
「いや、食べないんなら、食べてもいいのかなって、ずっと思ってて」
隣で父親が噴き出す。母親もつられて笑って、食卓は笑顔に包まれた。
「いいよ、食えよ。お前は素直だな……ずっとそのままでいろよ」
苦笑しながら、嬉しそうに甘えびを尻尾ごと口に放り込む麦を見つめる。
どの道を選んだとしても、後悔しないように生きればいい――か。
ずっと心の中でもやもやとしていたものが、すっきりと晴れたような気がする。
最後に残しておいたエンガワは、たっぷりと醤油と山葵をつけて、じっくりと時間をかけていただいた。
今まで悩んだ時間も、苦しんだ時間も、きっと無駄にはしない。
そう心に決めた俺の気持ちは、既にスタートラインに立っていて。その眼は、すでに最初のハードルを見つめていた。
