3
増村御子が指定したのは、俺たちの住んでいる街の一番大きな病院で、俺も以前通ったことのある場所だった。
一年前の――練習中の事故。ハードルで衝突した衝撃で粉砕開放骨折した膝の手術を受け、リハビリをしたのもこの病院だ。
「懐かしいな」
強い日差しが降り注ぐ中、広い病院の駐車場を歩きながら、俺はついそう零していた。
苦しかった入院生活、リハビリ。その一言では表現しつくせないほどの苦い記憶が、この場所には詰まっている。
「こんなところで縁があったんだな」
光幸がそう言って俺に微笑みかける。本山さやかだけは、その言葉に複雑そうな表情を浮かべている。彼女はスカートを履いた私服姿で、少し化粧もしている。いつもと雰囲気が違う。さっきも行きのバスの中で光幸に「どうしたそんなに気合入れて」と揶揄われて怒っていた。
二人を引き連れてエントランスからロビーに入ると、待合席に座って本を読んでいる増村さんの姿を見つけた。
「ごめん、ぎりぎりになって」
俺がそう謝ると、彼女は本から目を離し、ロビーにある時計を見上げた。
「大丈夫です。どのみち面会時間は二時からですから」
面会時間。そのワードに、つい身構えてしまう。
森内咲良――彼女と増村さんは高校こそ別々になったが、中学生の頃は図書部員で仲が良くなり、よく一緒に行動していたらしい。
どうして今彼女がここ入院することになったのか。詳しくは教えてもらえなかった。
それも――彼女本人に会えば分かることなのか。
四人で並んでロビーの椅子に座る。俺は静かな緊張感を纏っていた。
彼女は俺のことを知らないかもしれない。いや、知らなくて当然だ。
なぜなら俺は、現実世界で彼女と話したことはおろか、会ったことすらないのだから。
しかし、増村さんによれば、俺が打ち明けた彼女の特徴は、ほぼここに入院している本人と一致しているらしい。
だったら猶更――どうして会ったことすらない彼女が、俺の夢の中に出てきたのか。謎は深まるばかりだ。
「俺、本当に会っていいのか」
面会時間が一分前に迫り、病室に向かう。エレベーターに乗り込み、しんとした静寂が降りる。胸の中が期待と不安ではちきれそうになるなか、俺は思わず増村さんにそう零した。
「そもそも、会える可能性は低いと思っていてください」
「え? なんで?」
光幸が狐につままれたような表情をしている。
「病室には入れますが、面会謝絶なので。私は大丈夫ですけど」
「それは、彼女が会いたがっていないってことですか? 連絡はしてくれていないんですか?」
本山さやかが困惑した様子で尋ねる。増村さんは、「連絡は取れません。病室には、彼女のお母さんが常駐しています」とだけ答えた。
そうこうしているうちに、エレベーターが入院病棟のある四階に到着して、廊下を歩き始める。彼女のいる病室は、すぐそこにあった。
「増村です、失礼します」
増村さんが病室のドアをノックする。すると、鍵を開ける音が聴こえてきて、彼女だけが中へと通された。
「えっ? 俺たちは」
「しっ」
不満げな光幸を、本山さやかが窘める。五分、十分しても戻ってこない彼女を、廊下で立ったままひたすら俺たちは待ち続けた。
そして、やがて増村さんが病室から出て来た。彼女はやや疲れた表情を浮かべながら、俺たちに向かって申し訳なさそうな視線を向けた。
「ダメでした。彼女には会えなさそうです」
その言葉に、光幸が不満げな声を上げる。
「何でだよ。せっかくみんなで会いに来たのに。彼女が嫌だって言ってるのか?」
「いえ……お母さんが」
「だったら猶更だろ? 彼女に聞いてくれよ」
すると、こちらの会話が聞こえたのか。突然中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「こそこそしてないで、さっさと帰りなさい!」
ひい、と本山さやかが小さく悲鳴をあげる。
俺は気まずそうな様子の増村さんに近づいて耳打ちをした。
「どうしてあんなに怒っているんだ? 俺たちは彼女に何もしていないだろ?」
「それは……」
口ごもる彼女。しかし、すぐそこに森内咲良がいるというのに、ここで易々と引き下がるわけにもいかない。
「お母さんに出てきてもらって、話をさせてもらうわけにはいかないか」
そう頼むと、増村さんは渋々病室のドアをノックした。
「すいません。少しだけでもお話がしたいらしいので、出て来て頂けませんか?」
するとドアの向こうから足音が聴こえてきて、ドアが数センチほど開く。その隙間から、充血した眼がぎょろりと俺の全身を上下になぞった。
「誰?」
「か……彼女の友だちです」
「……あの子に友達なんて……敵しかいないわよ」
そう吐き捨てて、扉はガン、と鋭い音を立てて閉まった。
いったんロビーに戻った俺たちは、増村さんから詳しい話を聞くことにした。
「彼女の身に何が起こったのか、教えてくれないか」
終始頑なに言及を避けていたが、このままでは埒が明かないと判断したのか、彼女はやっと重い口を開いた。
「森内さんは……通っていた高校でトラブルがあって、去年の冬に退学したんです」
「トラブルって、何ですか?」
本山さやかが眉を潜める。
「あのお母さん……些細なことで何度も学校に電話を掛けたり、問い詰めたりして、担任の先生が病んで休職したりとか問題になっていて。もともと人づきあいが苦手で友達も限られていた森村さんは、そのせいでクラスメートから距離を置かれるようになって、完全に孤立してしまいました」
「いわゆるモンスターペアレントってやつ……か」
光幸が神妙な顔つきで顎をさする。
「じゃあ――何で入院しているんですか。そういえばさっき、連絡は取れないって……」
本山さやかの問いかけに、増村さんは辛そうに表情を歪めた。
「退学してから……車に乗っているときに、事故に遭ったみたいです」
「え?」
俺たち三人は、思わず顔を見合わせた。
「目立った外傷はなかったみたいですけど、打ちどころが悪かったみたいで。未だに意識は戻っていません」
静まり返るロビー。それぞれが状況を受け入れがたい表情をしているなか、俺はふつふつと湧きあがってくる疑問を背に、ぽつりと切り出した。
「運転していたのは……誰だ?」
増村さんは、無言で視線を逸らす。そして消え入るような、震える声で囁いた。
「彼女のお母さんです。詳しい状況は分かりませんが、かなり急いでいたみたいで……」
俺はすっと立ち上がると、傍にあるエレベーターを素通りして、脇にあった階段を駆け上がった。
「おい、ヒロト。落ち着けって」
光幸の声が追いかけてくるが、俺はもう止まれなかった。四階まで駆け上がると、彼女の病室を何度もノックした。
「おい、咲良。ヒロトだ。聴こえてるか!」
すると中からバタバタと足音が聴こえてきて、ドアがすっと開いた。
「……誰? 馴れ馴れしくうちの子の名前を呼ばないで頂戴」
初めて彼女の母親の顔を見た。後ろでひとつ結びにしている髪は、白髪が目立つ。眉間には深い皺が刻まれていて、血走ったような目で俺を睨んでいた。
「彼女に会わせてください。お願いします」
「できません。帰りなさい」
「じゃあ教えてください。彼女に何があったんですか?」
ドアの近くで押し問答をしていると、追いかけてきた光幸に引きはがされ、騒ぎを駆け付けた看護師さんたちがぞろぞろと集まって来た。
やがて看護師長らしき人がやってきて、俺たちに向かって毅然と言い放った。
「ここは病院ですよ。騒ぎを起こすならお引き取りください」
「私……もうあの病室には入れてもらえないかもしれません」
帰りの電車で、四人でボックス席に座りながら。増村さんはそう言って力なく視線を落とした。
「俺のせいだ。申し訳ない」
俺が頭を下げると、彼女は「違うんです」とかぶりを振った。
「分かっていたんです。知らない誰かを連れて病室を訪れたら、彼女のお母さんにどんな反応をされるか」
「なら、なんで案内してくれたんだよ」
光幸が不思議そうな顔をして腕組みをする。
「森内さんには、お母さんと、私しか関わる人間がいません。彼女の周りには、彼女のことを疎んじたり、悪く言ったりする人間ばかりだったので……それも仕方ないってずっと思っていたんですけど」
増村さんが、顔を上げて俺たちに視線を送った。
「彼女の味方がこんなにたくさんいるってことを、どうしても教えてあげたかったんです。彼女にも、彼女のお母さんにも」
森内咲良の力になりたい。きっかけは、彼女と夢の中で出会った俺の、そんな想いからだった。
現実世界で、彼女の存在へと俺を繋いでくれたのは、ここにいる三人だ。
「正直、初めはあんまり信用できていなかったですけど……今はもう、みなさんだけが頼りです。どうか、あの子を救ってあげてください」
そう言って目を潤ませる増村さんに、俺は「救うって、どういう意味だ?」と問いかけた。
「意識……事故以来、ずっと戻らないんですけど。お医者さんが言うには、原因が分からないらしいんです」
彼女は深いため息をつきながら、縋るような目で俺たちを見た。
「え? 脳に損傷とか。そういうのじゃないのか?」
「……多少の外傷はあったみたいですけど。意識が混濁している原因は、別にあるみたいです」
沈黙が場を支配する。俺は、夢の中で最後に会った日の、彼女の涙を思い返していた。
「昔の自分に戻りたい。そう思っているばかりで、何もできない自分が大っ嫌い……か」
彼女が口にしていた言葉だ。彼女を救うために――その鍵は、その中にあるのは間違いない。同時に、彼女の人生に、あの母親の影響が大きすぎることが、どうしても気に掛かった。
「あのお母さん、昔からですけど……普段はとても優しい雰囲気の人なんです。彼女の家に遊びに行ったり、病室にお見舞いに行ったときだって、穏やかに森内さんとの話を聞いてきたり、私の近況を心配してくれたり。でも、咲良さんが学校で何かあったり、誰かと関わって落ち込んでいたりすると、途端に制御不能になるところがあって……」
「へえ……それは結構複雑そうだな」
光幸が興味深そうに眼を見開く。
「咲良さん、お父さんには会ったことがないらしくて。お母さんから聞いた話では、ずっとひとりで彼女のことを育ててきたみたいです」
「それにしても、ちょっと過保護すぎじゃないか」
眉を潜める光幸に、増村さんは膝の上で結んだ手を見つめながら答えた。
「お母さん、いつも言ってました。咲良さんを守れるのは、自分しかいないって」
「守るって……それで過剰に彼女に関わる人を攻撃したりするのはよくないんじゃないんですか」
今度は本山さやかが口を尖らせる。
「お母さん……小学生の頃に両親が離婚して、彼女を引き取った母親が、頻繁に男性の家に泊まり込んで、何日も、酷いときは何週間も家を空けていたらしいです」
「え?」
光幸と本山さやかが、驚いて目を点にする。
「その間咲良さんのお母さんは、毎日同じ服を着て、ぼろぼろになった靴で学校に通って、給食だけで食べつないだりしていたとか。かなり家庭環境で苦労されたせいか、その反動で、他人を信用できなかったり、攻撃的になったり。ひとり娘の咲良さんに過剰に依存するのも、その影響があるのかもしれません」
その話を聞いて、三人とも押し黙ってしまった。
「でも……咲良は咲良だ。彼女の人生だろ」
俺が呟くと、車内には目的地への到着を告げるアナウンスが響いた。
増村御子が指定したのは、俺たちの住んでいる街の一番大きな病院で、俺も以前通ったことのある場所だった。
一年前の――練習中の事故。ハードルで衝突した衝撃で粉砕開放骨折した膝の手術を受け、リハビリをしたのもこの病院だ。
「懐かしいな」
強い日差しが降り注ぐ中、広い病院の駐車場を歩きながら、俺はついそう零していた。
苦しかった入院生活、リハビリ。その一言では表現しつくせないほどの苦い記憶が、この場所には詰まっている。
「こんなところで縁があったんだな」
光幸がそう言って俺に微笑みかける。本山さやかだけは、その言葉に複雑そうな表情を浮かべている。彼女はスカートを履いた私服姿で、少し化粧もしている。いつもと雰囲気が違う。さっきも行きのバスの中で光幸に「どうしたそんなに気合入れて」と揶揄われて怒っていた。
二人を引き連れてエントランスからロビーに入ると、待合席に座って本を読んでいる増村さんの姿を見つけた。
「ごめん、ぎりぎりになって」
俺がそう謝ると、彼女は本から目を離し、ロビーにある時計を見上げた。
「大丈夫です。どのみち面会時間は二時からですから」
面会時間。そのワードに、つい身構えてしまう。
森内咲良――彼女と増村さんは高校こそ別々になったが、中学生の頃は図書部員で仲が良くなり、よく一緒に行動していたらしい。
どうして今彼女がここ入院することになったのか。詳しくは教えてもらえなかった。
それも――彼女本人に会えば分かることなのか。
四人で並んでロビーの椅子に座る。俺は静かな緊張感を纏っていた。
彼女は俺のことを知らないかもしれない。いや、知らなくて当然だ。
なぜなら俺は、現実世界で彼女と話したことはおろか、会ったことすらないのだから。
しかし、増村さんによれば、俺が打ち明けた彼女の特徴は、ほぼここに入院している本人と一致しているらしい。
だったら猶更――どうして会ったことすらない彼女が、俺の夢の中に出てきたのか。謎は深まるばかりだ。
「俺、本当に会っていいのか」
面会時間が一分前に迫り、病室に向かう。エレベーターに乗り込み、しんとした静寂が降りる。胸の中が期待と不安ではちきれそうになるなか、俺は思わず増村さんにそう零した。
「そもそも、会える可能性は低いと思っていてください」
「え? なんで?」
光幸が狐につままれたような表情をしている。
「病室には入れますが、面会謝絶なので。私は大丈夫ですけど」
「それは、彼女が会いたがっていないってことですか? 連絡はしてくれていないんですか?」
本山さやかが困惑した様子で尋ねる。増村さんは、「連絡は取れません。病室には、彼女のお母さんが常駐しています」とだけ答えた。
そうこうしているうちに、エレベーターが入院病棟のある四階に到着して、廊下を歩き始める。彼女のいる病室は、すぐそこにあった。
「増村です、失礼します」
増村さんが病室のドアをノックする。すると、鍵を開ける音が聴こえてきて、彼女だけが中へと通された。
「えっ? 俺たちは」
「しっ」
不満げな光幸を、本山さやかが窘める。五分、十分しても戻ってこない彼女を、廊下で立ったままひたすら俺たちは待ち続けた。
そして、やがて増村さんが病室から出て来た。彼女はやや疲れた表情を浮かべながら、俺たちに向かって申し訳なさそうな視線を向けた。
「ダメでした。彼女には会えなさそうです」
その言葉に、光幸が不満げな声を上げる。
「何でだよ。せっかくみんなで会いに来たのに。彼女が嫌だって言ってるのか?」
「いえ……お母さんが」
「だったら猶更だろ? 彼女に聞いてくれよ」
すると、こちらの会話が聞こえたのか。突然中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「こそこそしてないで、さっさと帰りなさい!」
ひい、と本山さやかが小さく悲鳴をあげる。
俺は気まずそうな様子の増村さんに近づいて耳打ちをした。
「どうしてあんなに怒っているんだ? 俺たちは彼女に何もしていないだろ?」
「それは……」
口ごもる彼女。しかし、すぐそこに森内咲良がいるというのに、ここで易々と引き下がるわけにもいかない。
「お母さんに出てきてもらって、話をさせてもらうわけにはいかないか」
そう頼むと、増村さんは渋々病室のドアをノックした。
「すいません。少しだけでもお話がしたいらしいので、出て来て頂けませんか?」
するとドアの向こうから足音が聴こえてきて、ドアが数センチほど開く。その隙間から、充血した眼がぎょろりと俺の全身を上下になぞった。
「誰?」
「か……彼女の友だちです」
「……あの子に友達なんて……敵しかいないわよ」
そう吐き捨てて、扉はガン、と鋭い音を立てて閉まった。
いったんロビーに戻った俺たちは、増村さんから詳しい話を聞くことにした。
「彼女の身に何が起こったのか、教えてくれないか」
終始頑なに言及を避けていたが、このままでは埒が明かないと判断したのか、彼女はやっと重い口を開いた。
「森内さんは……通っていた高校でトラブルがあって、去年の冬に退学したんです」
「トラブルって、何ですか?」
本山さやかが眉を潜める。
「あのお母さん……些細なことで何度も学校に電話を掛けたり、問い詰めたりして、担任の先生が病んで休職したりとか問題になっていて。もともと人づきあいが苦手で友達も限られていた森村さんは、そのせいでクラスメートから距離を置かれるようになって、完全に孤立してしまいました」
「いわゆるモンスターペアレントってやつ……か」
光幸が神妙な顔つきで顎をさする。
「じゃあ――何で入院しているんですか。そういえばさっき、連絡は取れないって……」
本山さやかの問いかけに、増村さんは辛そうに表情を歪めた。
「退学してから……車に乗っているときに、事故に遭ったみたいです」
「え?」
俺たち三人は、思わず顔を見合わせた。
「目立った外傷はなかったみたいですけど、打ちどころが悪かったみたいで。未だに意識は戻っていません」
静まり返るロビー。それぞれが状況を受け入れがたい表情をしているなか、俺はふつふつと湧きあがってくる疑問を背に、ぽつりと切り出した。
「運転していたのは……誰だ?」
増村さんは、無言で視線を逸らす。そして消え入るような、震える声で囁いた。
「彼女のお母さんです。詳しい状況は分かりませんが、かなり急いでいたみたいで……」
俺はすっと立ち上がると、傍にあるエレベーターを素通りして、脇にあった階段を駆け上がった。
「おい、ヒロト。落ち着けって」
光幸の声が追いかけてくるが、俺はもう止まれなかった。四階まで駆け上がると、彼女の病室を何度もノックした。
「おい、咲良。ヒロトだ。聴こえてるか!」
すると中からバタバタと足音が聴こえてきて、ドアがすっと開いた。
「……誰? 馴れ馴れしくうちの子の名前を呼ばないで頂戴」
初めて彼女の母親の顔を見た。後ろでひとつ結びにしている髪は、白髪が目立つ。眉間には深い皺が刻まれていて、血走ったような目で俺を睨んでいた。
「彼女に会わせてください。お願いします」
「できません。帰りなさい」
「じゃあ教えてください。彼女に何があったんですか?」
ドアの近くで押し問答をしていると、追いかけてきた光幸に引きはがされ、騒ぎを駆け付けた看護師さんたちがぞろぞろと集まって来た。
やがて看護師長らしき人がやってきて、俺たちに向かって毅然と言い放った。
「ここは病院ですよ。騒ぎを起こすならお引き取りください」
「私……もうあの病室には入れてもらえないかもしれません」
帰りの電車で、四人でボックス席に座りながら。増村さんはそう言って力なく視線を落とした。
「俺のせいだ。申し訳ない」
俺が頭を下げると、彼女は「違うんです」とかぶりを振った。
「分かっていたんです。知らない誰かを連れて病室を訪れたら、彼女のお母さんにどんな反応をされるか」
「なら、なんで案内してくれたんだよ」
光幸が不思議そうな顔をして腕組みをする。
「森内さんには、お母さんと、私しか関わる人間がいません。彼女の周りには、彼女のことを疎んじたり、悪く言ったりする人間ばかりだったので……それも仕方ないってずっと思っていたんですけど」
増村さんが、顔を上げて俺たちに視線を送った。
「彼女の味方がこんなにたくさんいるってことを、どうしても教えてあげたかったんです。彼女にも、彼女のお母さんにも」
森内咲良の力になりたい。きっかけは、彼女と夢の中で出会った俺の、そんな想いからだった。
現実世界で、彼女の存在へと俺を繋いでくれたのは、ここにいる三人だ。
「正直、初めはあんまり信用できていなかったですけど……今はもう、みなさんだけが頼りです。どうか、あの子を救ってあげてください」
そう言って目を潤ませる増村さんに、俺は「救うって、どういう意味だ?」と問いかけた。
「意識……事故以来、ずっと戻らないんですけど。お医者さんが言うには、原因が分からないらしいんです」
彼女は深いため息をつきながら、縋るような目で俺たちを見た。
「え? 脳に損傷とか。そういうのじゃないのか?」
「……多少の外傷はあったみたいですけど。意識が混濁している原因は、別にあるみたいです」
沈黙が場を支配する。俺は、夢の中で最後に会った日の、彼女の涙を思い返していた。
「昔の自分に戻りたい。そう思っているばかりで、何もできない自分が大っ嫌い……か」
彼女が口にしていた言葉だ。彼女を救うために――その鍵は、その中にあるのは間違いない。同時に、彼女の人生に、あの母親の影響が大きすぎることが、どうしても気に掛かった。
「あのお母さん、昔からですけど……普段はとても優しい雰囲気の人なんです。彼女の家に遊びに行ったり、病室にお見舞いに行ったときだって、穏やかに森内さんとの話を聞いてきたり、私の近況を心配してくれたり。でも、咲良さんが学校で何かあったり、誰かと関わって落ち込んでいたりすると、途端に制御不能になるところがあって……」
「へえ……それは結構複雑そうだな」
光幸が興味深そうに眼を見開く。
「咲良さん、お父さんには会ったことがないらしくて。お母さんから聞いた話では、ずっとひとりで彼女のことを育ててきたみたいです」
「それにしても、ちょっと過保護すぎじゃないか」
眉を潜める光幸に、増村さんは膝の上で結んだ手を見つめながら答えた。
「お母さん、いつも言ってました。咲良さんを守れるのは、自分しかいないって」
「守るって……それで過剰に彼女に関わる人を攻撃したりするのはよくないんじゃないんですか」
今度は本山さやかが口を尖らせる。
「お母さん……小学生の頃に両親が離婚して、彼女を引き取った母親が、頻繁に男性の家に泊まり込んで、何日も、酷いときは何週間も家を空けていたらしいです」
「え?」
光幸と本山さやかが、驚いて目を点にする。
「その間咲良さんのお母さんは、毎日同じ服を着て、ぼろぼろになった靴で学校に通って、給食だけで食べつないだりしていたとか。かなり家庭環境で苦労されたせいか、その反動で、他人を信用できなかったり、攻撃的になったり。ひとり娘の咲良さんに過剰に依存するのも、その影響があるのかもしれません」
その話を聞いて、三人とも押し黙ってしまった。
「でも……咲良は咲良だ。彼女の人生だろ」
俺が呟くと、車内には目的地への到着を告げるアナウンスが響いた。
