数見琴葉は夕方の住宅街をとぼとぼと歩いていた。
さきほど彼氏にふられたばかりで、ダムが決壊したみたいに、涙が激流となって止まらない。二十八歳にもなってみっともないと思うが、止めようと思っても止められない。
昨日までは「愛してるよ」なんて囁いてくれていたのに。まさかふたまたしているなんて。
思い出すだけでぎゅうっと胸が痛くなる。
休日の今日、デートを断られたからひとりで街に買い物に出かけた。そこで出くわした彼は、自分より年下のかわいらしい女の子と腕を組んでいた。
「浩輝、久しぶり」
思わずそんなふうに声をかけていた。昨日だって電話をしたのに。
「お、お前は……」
浩輝の顔からはいっきに血の気が引いていた。
「どちらさま?」
彼女はかわいく小首を傾げる。そのさまに、琴葉は質問で返した。
「彼女さんですか?」
「そうなんです!」
彼女が無邪気にはにかんで答えて、琴葉は頬をひきつらせた。
じろっと浩輝を見ると、気まずそうに目をそらす。
「そういうことだからさ……」
「そっかあ。お幸せに!」
琴葉はことさらに明るく言って、さっさと背を向けた。
この瞬間、自分はふられたのだ。別れの言葉のひとつもなく。いっそ罵詈雑言でも浴びせられたら、嫌なやつだと憎むこともできそうなのに、それすらない。ケンカすらせずに逃げてしまった自分には、気持ちのぶつける場所がない。
そうしてやけっぱちのように焼けるような涙だけがあふれて心臓が刺されたように痛い。
「やだよう……」
ふられたのも、泣いているのを人に見られるのも。
だけど、両側に立ち並ぶ平和そうな戸建てからは、いつ人が出て来てもおかしくない。
そう思った琴葉の目に、前から人が歩いてくるのが見えた。主婦がふたり、犬を連れて代償しながら歩いてくる。
このままじゃ泣いてるのを見られちゃう。変な人って思われちゃう。
逃げたい。どこでもいいから。
胸が痛くて苦しいのに、こんなときまで人の目を気にしなきゃいけないなんて。ただ苦しさに浸らせてもらえないなんて。どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないの。
ぐるぐると苦しさだけが胸に渦巻く。
ふいに古めかしい黒い門が見え、琴葉はとっさにその中に入り込んだ。
参道の先には、夕陽を浴びたお寺があった。
黒い瓦が連なる下に白い壁があり、黒ずんだ柱がいかめしい。回廊や階段も同じく古びて黒ずんでおり、歴史を感じた。
琴葉はついつい歩き出した。
賽銭箱に小銭を入れて、祈る。
苦しい、助けて。
どうしてこんな目に遭うの?
愚痴はやがて、元カレへの恨みへと繋がっていく。
あいつにバチが当たりますように。
そうでなければ絶対に公平じゃない。
ひとしきり祈ったあと、はあ、とため息をついた。
祈ったところで、気持ちは晴れない。
ぐすん、とまた鼻をすすった目に、本堂がちらりと見えた。
青?
琴葉は気になってさらに見つめる。
が、下からだと思うように見られない。
きょろきょろと周囲を見てひと気がないのを確認し、靴を脱いで木製の階段を上がった。
線香の残り香が漂う中、回廊からそうっと覗く。
中は一面の青だった。
柱も壁も青。曼荼羅の金の縁取りがとても映える。
壁も柱も天井も青の濃淡で埋め尽くされ、独特の模様が埋め尽くされている。壁と天井にあるのは曼荼羅だろうか。金で彩色されたそれは華やかながらも清らかに美しい。
正面に座る仏像は白。金の光の輪を背覆い、その手には壺のようなものを持っている。
「きれい……」
うっとりと見惚れていると、がたっと物音がした。
「にゃあああ!」
悲鳴のようなものが聞こえて、琴葉はびくっと震えた。
見ると、仏像が安置されている台の横に扉があり、少し開いている。
もしかして、ご住職が中で倒れたとか?
琴葉は焦り、慌てて扉の中に入った。
中は意外に明るかった。
木の廊下の先に畳の部屋があり、誰かが倒れている。
よく見ると、倒れていたのは人間の大きさの猫だった。割烹着を着ている。
「着ぐるみ……?」
琴葉は混乱した。
クリスマスにはお坊さんがサンタ姿で子どもたちにサービスする話は聞いたことがあるが、着ぐるみ? そういえばどこかの神社にはパンダの着ぐるみをきた宮司がいると聞いたことがある。
「いてて……転んじゃった」
猫は起き上がり、体をまるめて足を舐める。その姿は猫そのもの。
「大丈夫ですか?」
再度声をかけると、ぐるん! と振り返った。
「にゃああああ!」
大声を上げたその目はまんまるになり、ヒゲがびびびっと震える。
「お前、人間! どうしてここにいる!」
「え、え、え?」
着ぐるみでもなさそうな猫の様子に、琴葉はただ目をぱちぱちさせた。
「普通は入れない場所だ。なにしに来た」
「なにって……」
「ここは薬が必要な人しか来られない場所だ。お前は必要ないだろ」
琴葉はぎゅっと眉を寄せた。
なんでそんなふうに決めつけられるのだろう。
胸が痛くて、痛くて痛くて。薬で楽になれるならどれだけ救われるだろう。
体の傷と違って目に見えない。ちゃんと形になればいいのに。そうして、彼の前で壊れてしまえば、どれだけ傷付いたのか伝わっただろうに。
ガラスが床に落ちて割れるように、心は一瞬で壊れて取り返しはつかないんだ。それをあいつも思い知ればいいのに。
ぴぴっと電子音がして、猫が割烹着のポケットからスマホのようなものを取り出した。
画面をタップして眺めた猫は、ふむ、と頷く。
「長文きた……お前、失恋したんだな。それで彼氏を恨んでいる、と」
琴葉は顔をひきつらせた。
「どうしてわかったの?」
「さっき、お薬師様に祈っただろう」
確かに、祈った。まさかこの猫のスマホにそれが届いたのだろうか。
「心の傷はな。わかってもらいにくいし、つらいよな」
うんうんと頷く猫に、琴葉の胸に共感してもらえた嬉しさがわいた。
「それならいい薬がある」
どんな薬だろうかと期待したら。
「猫を飼うんだ!」
断言され、琴葉は唖然として彼を見た。
彼は自信たっぷりに目を細め、耳もヒゲもしっぽもピンと立てている。
「人は猫が大好きだ。当然だろう、我らはかわいい上に役に立つ。帰ったらすぐに猫を飼うといい」
「……うちはアパートだから飼えない。ひとり暮らしだし」
「引っ越せ」
「無理だよ」
「まったく、人間は我がままだ」
目を鋭くしてマズルを歪めて文句を言う猫に、彼女はムッとする。
「猫ってまったく人間の都合を考慮しないよね」
「人間のくせに。生意気な……」
言いかけた猫は、ふと壁を見て、はっとする。
琴葉は気になってそちらに目を向けた。
そこには金色の仏像がある。穏やかな笑みを浮かべた仏像は右手を掲げ、左手には小さな壺を持っている。
「いけない、ついカッとなってしまった。薬師様の弟子ともあろうものが。せっかくネズミから薬を守った功績で弟子にしてもらえたのに」
猫は両手で頭を抱えた。
琴葉が首をひねると、猫は深呼吸をして真顔になった。
「良いでしょう。ならば別の薬をあなたに授けます。しばらくここでお待ちなさい」
急に敬語になったな、と思う琴葉を置いて、猫は部屋の奥へ行った。しばらくして戻って来た彼は、五十センチほどの抱き枕を抱えていた。
「これを大切にするのです。やがて心の傷も癒えるでしょう」
差し出されたそれを、琴葉はとりあえず受け取る。
「抱き枕……よね」
「そうですよ、人間」
猫の抱き枕だった。ふわふわして手触りがいい。長いしっぽがかわいいし、顔も愛らしい。
「薬って普通、飲んだり塗ったりとかするのでは……」
「だまらっしゃい。私がこれが効くと言うのですから、効くのです。プラセボ効果です。イワシの頭も信心から。薬師如来様の弟子である私を信じなさい」
「はあ……」
琴葉は納得できないまま、曖昧に頷く。猫の口からプラセボ効果という単語を聞く日が来るとは思わなかった。
「散歩も効果があります。歩いて血流を上げて酸素を脳に送るのです。普段しないことをすると脳が活性化します。失恋で旅行に行くというのはよくある方法ですが、良い効果があると私は思います」
「もっとファンタジックに、不思議な力で解決みたいな。不思議な薬とかないの?」
「そんな夢みたいなこと言ってないで。現代はいろいろ便利になって医学も発展しました。病気になったらちゃんと病院に行くんですよ」
「えー……」
琴葉はがっかりして言葉をなくした。
「では、今日はこれまで。お帰りなさい」
話は終わり、と言わんばかりに前足で出口を示される。
猫に期待をしてはいけなかったのかな、と思い直す。そもそも猫が人間のサイズでしゃべるのがおかしいし、変な夢を見ているのかもしれない。
「……ありがとう」
礼を言って、出ていく。
お堂に戻って振り返ると、もう出入り口はわからなかった。
自分の手には猫の抱き枕。
琴葉はなんども抱き枕を確認し、やがてあきらめたように帰路についた。
第一話 終
さきほど彼氏にふられたばかりで、ダムが決壊したみたいに、涙が激流となって止まらない。二十八歳にもなってみっともないと思うが、止めようと思っても止められない。
昨日までは「愛してるよ」なんて囁いてくれていたのに。まさかふたまたしているなんて。
思い出すだけでぎゅうっと胸が痛くなる。
休日の今日、デートを断られたからひとりで街に買い物に出かけた。そこで出くわした彼は、自分より年下のかわいらしい女の子と腕を組んでいた。
「浩輝、久しぶり」
思わずそんなふうに声をかけていた。昨日だって電話をしたのに。
「お、お前は……」
浩輝の顔からはいっきに血の気が引いていた。
「どちらさま?」
彼女はかわいく小首を傾げる。そのさまに、琴葉は質問で返した。
「彼女さんですか?」
「そうなんです!」
彼女が無邪気にはにかんで答えて、琴葉は頬をひきつらせた。
じろっと浩輝を見ると、気まずそうに目をそらす。
「そういうことだからさ……」
「そっかあ。お幸せに!」
琴葉はことさらに明るく言って、さっさと背を向けた。
この瞬間、自分はふられたのだ。別れの言葉のひとつもなく。いっそ罵詈雑言でも浴びせられたら、嫌なやつだと憎むこともできそうなのに、それすらない。ケンカすらせずに逃げてしまった自分には、気持ちのぶつける場所がない。
そうしてやけっぱちのように焼けるような涙だけがあふれて心臓が刺されたように痛い。
「やだよう……」
ふられたのも、泣いているのを人に見られるのも。
だけど、両側に立ち並ぶ平和そうな戸建てからは、いつ人が出て来てもおかしくない。
そう思った琴葉の目に、前から人が歩いてくるのが見えた。主婦がふたり、犬を連れて代償しながら歩いてくる。
このままじゃ泣いてるのを見られちゃう。変な人って思われちゃう。
逃げたい。どこでもいいから。
胸が痛くて苦しいのに、こんなときまで人の目を気にしなきゃいけないなんて。ただ苦しさに浸らせてもらえないなんて。どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないの。
ぐるぐると苦しさだけが胸に渦巻く。
ふいに古めかしい黒い門が見え、琴葉はとっさにその中に入り込んだ。
参道の先には、夕陽を浴びたお寺があった。
黒い瓦が連なる下に白い壁があり、黒ずんだ柱がいかめしい。回廊や階段も同じく古びて黒ずんでおり、歴史を感じた。
琴葉はついつい歩き出した。
賽銭箱に小銭を入れて、祈る。
苦しい、助けて。
どうしてこんな目に遭うの?
愚痴はやがて、元カレへの恨みへと繋がっていく。
あいつにバチが当たりますように。
そうでなければ絶対に公平じゃない。
ひとしきり祈ったあと、はあ、とため息をついた。
祈ったところで、気持ちは晴れない。
ぐすん、とまた鼻をすすった目に、本堂がちらりと見えた。
青?
琴葉は気になってさらに見つめる。
が、下からだと思うように見られない。
きょろきょろと周囲を見てひと気がないのを確認し、靴を脱いで木製の階段を上がった。
線香の残り香が漂う中、回廊からそうっと覗く。
中は一面の青だった。
柱も壁も青。曼荼羅の金の縁取りがとても映える。
壁も柱も天井も青の濃淡で埋め尽くされ、独特の模様が埋め尽くされている。壁と天井にあるのは曼荼羅だろうか。金で彩色されたそれは華やかながらも清らかに美しい。
正面に座る仏像は白。金の光の輪を背覆い、その手には壺のようなものを持っている。
「きれい……」
うっとりと見惚れていると、がたっと物音がした。
「にゃあああ!」
悲鳴のようなものが聞こえて、琴葉はびくっと震えた。
見ると、仏像が安置されている台の横に扉があり、少し開いている。
もしかして、ご住職が中で倒れたとか?
琴葉は焦り、慌てて扉の中に入った。
中は意外に明るかった。
木の廊下の先に畳の部屋があり、誰かが倒れている。
よく見ると、倒れていたのは人間の大きさの猫だった。割烹着を着ている。
「着ぐるみ……?」
琴葉は混乱した。
クリスマスにはお坊さんがサンタ姿で子どもたちにサービスする話は聞いたことがあるが、着ぐるみ? そういえばどこかの神社にはパンダの着ぐるみをきた宮司がいると聞いたことがある。
「いてて……転んじゃった」
猫は起き上がり、体をまるめて足を舐める。その姿は猫そのもの。
「大丈夫ですか?」
再度声をかけると、ぐるん! と振り返った。
「にゃああああ!」
大声を上げたその目はまんまるになり、ヒゲがびびびっと震える。
「お前、人間! どうしてここにいる!」
「え、え、え?」
着ぐるみでもなさそうな猫の様子に、琴葉はただ目をぱちぱちさせた。
「普通は入れない場所だ。なにしに来た」
「なにって……」
「ここは薬が必要な人しか来られない場所だ。お前は必要ないだろ」
琴葉はぎゅっと眉を寄せた。
なんでそんなふうに決めつけられるのだろう。
胸が痛くて、痛くて痛くて。薬で楽になれるならどれだけ救われるだろう。
体の傷と違って目に見えない。ちゃんと形になればいいのに。そうして、彼の前で壊れてしまえば、どれだけ傷付いたのか伝わっただろうに。
ガラスが床に落ちて割れるように、心は一瞬で壊れて取り返しはつかないんだ。それをあいつも思い知ればいいのに。
ぴぴっと電子音がして、猫が割烹着のポケットからスマホのようなものを取り出した。
画面をタップして眺めた猫は、ふむ、と頷く。
「長文きた……お前、失恋したんだな。それで彼氏を恨んでいる、と」
琴葉は顔をひきつらせた。
「どうしてわかったの?」
「さっき、お薬師様に祈っただろう」
確かに、祈った。まさかこの猫のスマホにそれが届いたのだろうか。
「心の傷はな。わかってもらいにくいし、つらいよな」
うんうんと頷く猫に、琴葉の胸に共感してもらえた嬉しさがわいた。
「それならいい薬がある」
どんな薬だろうかと期待したら。
「猫を飼うんだ!」
断言され、琴葉は唖然として彼を見た。
彼は自信たっぷりに目を細め、耳もヒゲもしっぽもピンと立てている。
「人は猫が大好きだ。当然だろう、我らはかわいい上に役に立つ。帰ったらすぐに猫を飼うといい」
「……うちはアパートだから飼えない。ひとり暮らしだし」
「引っ越せ」
「無理だよ」
「まったく、人間は我がままだ」
目を鋭くしてマズルを歪めて文句を言う猫に、彼女はムッとする。
「猫ってまったく人間の都合を考慮しないよね」
「人間のくせに。生意気な……」
言いかけた猫は、ふと壁を見て、はっとする。
琴葉は気になってそちらに目を向けた。
そこには金色の仏像がある。穏やかな笑みを浮かべた仏像は右手を掲げ、左手には小さな壺を持っている。
「いけない、ついカッとなってしまった。薬師様の弟子ともあろうものが。せっかくネズミから薬を守った功績で弟子にしてもらえたのに」
猫は両手で頭を抱えた。
琴葉が首をひねると、猫は深呼吸をして真顔になった。
「良いでしょう。ならば別の薬をあなたに授けます。しばらくここでお待ちなさい」
急に敬語になったな、と思う琴葉を置いて、猫は部屋の奥へ行った。しばらくして戻って来た彼は、五十センチほどの抱き枕を抱えていた。
「これを大切にするのです。やがて心の傷も癒えるでしょう」
差し出されたそれを、琴葉はとりあえず受け取る。
「抱き枕……よね」
「そうですよ、人間」
猫の抱き枕だった。ふわふわして手触りがいい。長いしっぽがかわいいし、顔も愛らしい。
「薬って普通、飲んだり塗ったりとかするのでは……」
「だまらっしゃい。私がこれが効くと言うのですから、効くのです。プラセボ効果です。イワシの頭も信心から。薬師如来様の弟子である私を信じなさい」
「はあ……」
琴葉は納得できないまま、曖昧に頷く。猫の口からプラセボ効果という単語を聞く日が来るとは思わなかった。
「散歩も効果があります。歩いて血流を上げて酸素を脳に送るのです。普段しないことをすると脳が活性化します。失恋で旅行に行くというのはよくある方法ですが、良い効果があると私は思います」
「もっとファンタジックに、不思議な力で解決みたいな。不思議な薬とかないの?」
「そんな夢みたいなこと言ってないで。現代はいろいろ便利になって医学も発展しました。病気になったらちゃんと病院に行くんですよ」
「えー……」
琴葉はがっかりして言葉をなくした。
「では、今日はこれまで。お帰りなさい」
話は終わり、と言わんばかりに前足で出口を示される。
猫に期待をしてはいけなかったのかな、と思い直す。そもそも猫が人間のサイズでしゃべるのがおかしいし、変な夢を見ているのかもしれない。
「……ありがとう」
礼を言って、出ていく。
お堂に戻って振り返ると、もう出入り口はわからなかった。
自分の手には猫の抱き枕。
琴葉はなんども抱き枕を確認し、やがてあきらめたように帰路についた。
第一話 終



