湿った土の匂いで目が覚めた。
アスファルトの熱気でも、コンビニの揚げ物の匂いでもない。もっと濃い、草とか土の匂いだ。
目を開けると、そこは緑一色だった。
空が見えないくらい木が生い茂っている。その木々の間から太陽の光が差し込んでて、地面の苔がキラキラ光っていた。
俺はゆっくりと起き上がった。
背中は痛いし、尻は少し濡れている。
周りを見渡す。
見たこともないデカい植物。毒々しい色の花。ビル数階分はありそうな巨木。
どう見ても、日本じゃない。さっきまで俺が歩いていた、住宅街であるはずがない。
「……マジかよ」
口から出たのは、情けない独り言だった。
状況を整理しよう。
休日の俺は、ルンルン気分で近所のコンビニで夜食のカップ麺を買って、店を出た。
その瞬間、視界が真っ白になって、気づいたらここにいた。
トラックに轢かれた記憶もないし、神様みたいなじいさんに会った覚えもない。
ただ、いきなりここに放り出されたみたいだ。
慌てて自分の体を確認する。
服装はパーカーにTシャツ、作業ズボンにスニーカー。
手足はある。怪我もしてない。
ポケットを探る。
おいおい、スマホも財布もない。
そして、右手に持っていたはずのコンビニ袋がない。
俺のシーフードヌードルは、どこかへ消えたらしい。
「最悪だ……」
ため息をつくと、喉が渇いていることに気づいた。
水、飲みたいな。
そう強く思った瞬間だった。
体の奥から何かが流れてきて、手へと向かっていく感じがする。
驚いて右手を見ると、そこから先の空間で水が噴き出していた。
蛇口を全開にしたみたいに、ドバドバと。
「うおっ!?」
慌てて手を振るけど、水は止まらない。
まるで俺の手がホースになったみたいだ。
止まれ、止まれ!
念じると、ピタリと水が止まった。
俺は呆然と自分の手を見つめる。
濡れている。舐めてみると、ただの水だ。美味しくも不味くもない、普通の水。
「これが……魔法、ってやつか?」
異世界転移。魔法。ネット小説で読んだことあるやつだ。
もしかして、俺は勇者として凄い能力をもらったのかも?
期待して、次は炎を出そうとしてみた。
……シーン。何も起きない。
じゃあ雷!風!
いろいろ試したけど、出るのは「水」だけだった。
しかも、お湯も氷も出ない。ただのぬるい水だ。
勢いを変えることはできた。高圧洗浄機みたいに強くしたり、霧吹きみたいにしたり。
でも、それだけ。
攻撃力ゼロ。
できることと言えば、いつでも顔が洗えることと、喉が渇かないことくらい。
地味すぎる。勇者っていうか、これじゃ「歩く蛇口」じゃん。
「はぁ……」
俺はがっくりして、木の根元に座り込んだ。
食料なし。武器なし。場所も不明。
あるのは水が出るだけの微妙な能力。
このまま夜になったらどうなる? 熊とか出たら終わりだぞ。
そう思った時だった。
ガサッ。
後ろの茂みが揺れた。
風じゃない。何かが動いている音だ。
俺はビクッとして振り返る。
そこから出てきたのは、デカい犬だった。
いや、犬じゃない。軽自動車くらいある。
狼だ。その狼の毛並みは灰色でゴツゴツしてて、口からは長い牙が見えていた。
目が合う。黄色い目が、俺をじっと見ている。
ヨダレがダラダラ垂れている。
完全に「エサ」として見られているのがわかった。
グルルルル……。
唸り声を上げて、その化け物が姿勢を低くする。
逃げられない。
こんなデカいやつから逃げ切れるわけがない。
やるしかないのか。この水魔法で。
「くそっ!」
俺は震える両手を前に突き出した。
イメージしろ。最強の高圧洗浄機だ。
水圧で目を攻撃して、怯ませるんだ!
「来るなあああああっ!」
叫びながら、俺は全力で水を出した。
バシュウウウウウッ!
激しい水流が化け物の顔面に直撃する。
当たった!
顔が水しぶきで見えなくなる。やったか!?
一瞬喜んだ俺の目の前で、化け物がブルブルッと体を震わせた。
水が飛び散って、そこにはさっぱりした顔の化け物がいた。
傷ひとつない。
むしろ汚れが落ちて、毛並みが綺麗になっている。
化け物は「何してんのコイツ」みたいな目で俺を見て、また唸り声を上げた。
終わった。
俺の異世界生活、開始三十分で終了。
死因、シャワーの水圧不足。
化け物が地面を蹴った。大きな口が迫ってくる。
俺はギュッと目を閉じた。
――ザシュッ。
肉が切れる音がした。
でも、痛みは来ない。
ドサリ、と何かが倒れる音。
恐る恐る目を開けると、目の前にあの化け物の首が転がっていた。
そして、その向こうに誰かが立っていた。
「おい。生きているか?」
鈴を転がすような、綺麗な声。
立っていたのは、とんでもない美人だった。
銀色の鎧を着て、金色の長い髪をなびかせている。
目は透き通るような青色で、俺を鋭く見ていた。
手には、彼女の身長くらいありそうな長い剣。
その剣には、べっとりと血がついていた。
俺が呆然としていると、彼女の後ろからもう一人、女性が出てきた。
こっちは白い服を着ている。シスターみたいな感じだ。
同じ金髪で青い目だけど、髪はふわふわしてて、優しそうな雰囲気だった。
手には大きな杖を持っている。
「まあ、フレイヤ。そんな言い方をしないでくださいよ。彼、腰が抜けちゃっているじゃないですか」
白い服の女性は、俺の前にしゃがみ込んで心配そうに顔を覗き込んできた。
「怪我はないですか? どこか痛いところは?」
「あ、え、ええ……」
俺は声を出すのが精一杯だった。
美人すぎるのと、強すぎるのを同時に見て、頭が追いつかない。
「ふん、無傷か。運のいい男だ」
フレイヤと呼ばれた鎧の女性が、剣をブンと振った。
血が飛び散って、剣が綺麗になる。
彼女は慣れた手つきで剣を背中にしまうと、呆れたように俺を見下ろした。
「それにしても、水遊びで魔物を追い払おうとするなんてな。無茶にもほどがあるぞ」
「い、いや、あれしか方法がなくて……」
「力を持たない一般人が、この森に迷い込むなんて自殺行為だ。道に迷ったのか?」
どうやら彼女たちは、俺をこの世界の人だと思っているらしい。
異世界から来ましたって言っても信じてもらえないだろうし、説明する元気もない。
「……気づいたらここにいて。右も左もわからないんです」
「遭難者、ということですね。可哀想に」
育ちの良さそうな雰囲気の白いシスター服の女性が、同情たっぷりに言う。
「私はアリシア。こっちは騎士のフレイヤです。貴方のお名前は?」
「あ、俺は……ケンジです」
「ケンジ様ですね。私たちは開拓都市フロンティアへ戻る途中、ここでキャンプをする予定でした。もしよろしければ、ご一緒しませんか? 一人で森を歩くのは危険すぎます」
渡りに船とはこのことだ。断る理由なんてない。
「お願いします。本当に、助かりました……」
俺は深々と頭を下げた。
フレイヤは鼻を鳴らし、足元の化け物の死体を足で小突いた。
「まあいい。ついでだ、こいつの肉も持っていくぞ。今日の晩飯は豪華になりそうだ」
「まあ、素敵! 焼きたてのお肉、楽しみです」
二人はでかい化け物の死体を前にして、まるでランチのメニューを選ぶ女子高生みたいに明るい声を上げた。
フレイヤが化け物の後ろ足を掴む。
そして、どう見ても数百キロはありそうな巨体を、片手でズリズリと引きずり始めた。
「さあ、行くぞケンジ。遅れると置いていくからな」
「は、はい!」
俺は慌てて立ち上がり、彼女たちの後を追った。
助かった。
でも、美女二人と魔物の死体っていう組み合わせがシュールすぎた。
◇
連れて行かれたキャンプ地は、小川の近くのちょっと開けた場所だった。
手際よくテントを立ているフレイヤと、魔法で結界みたいなのを張るアリシア。
二人の動きはプロって感じで、俺は焚き火用の枝を集めることくらいしかできなかった。
腹が減ってグゥと鳴る。
そういえば、最後に食べたのは昨日の夕飯だ。ああ、あのカップ麺が恋しい。
「ふふ、お腹が空いているみたいですね」
作業を終えたアリシアが、石を組んだかまどの前で微笑んだ。
「ちょうど私たちも夕食にするところでしたの。ケンジ様も一緒にどうですか?」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。助けたついでですし」
「獲物はたっぷりあるからな」
フレイヤが、引きずってきた化け物の死体をドスンと置いた。
そして、腰からゴツイナイフを抜く。
ギラリと光る刃先。
まさか、今から解体ショーが始まるのか?
「よし、久々の生肉だ。気合を入れて調理するぞ」
フレイヤはそう言うと、ためらいもなくナイフを突き立ていた。
ザクッ。
皮を剥ぐ手つきは豪快そのものだ。
でも、俺は目を疑った。
……血抜きは?
普通、狩った獲物はすぐに血抜きをしないと臭くなるはずだ。ましてやこんな獣臭い肉だぞ。
でもフレイヤは、血が滴る肉の塊を適当に切り出して、そのまま串に刺そうとしている。
内臓の処理も適当だ。なんか変な汁とかついてないか?
「……あの、フレイヤさん?」
「なんだ。腹が減って待ちきれないのか? 今焼いてやるから待ってろ」
彼女は血まみれの肉塊を、あろうことか直火の炎にかざした。
ジュウウウウッ!
焦げる音と共に、強烈な獣臭と血の匂いが漂ってくる。
煙が目に染みる。
これは……料理じゃない。ただの焼却処分だ。
俺の視線は救いを求めてアリシアへ向かう。
彼女は鍋に水を張り、そこにそこらへんで摘んだ草を入れていた。
ああ、スープか。それならまだ……。
俺の期待は、次の瞬間、粉々に砕け散った。
アリシアが持っている草の根元には、べっとりと黒い泥がついていた。
葉っぱの裏には、小さな虫が動いているのが見える。
彼女はそれを気にする様子もなく、沸騰もしてない水の中に放り込んだ。
「大地の恵みをたっぷり吸った薬草ですわ。栄養満点ですよ」
ニコニコと笑う聖女様。
待て待て待て。
洗わないのか!?
この世界には「洗う」って概念がないのか?
泥だらけの草と、血なまぐさい黒焦げ肉。
これを食えと?
無理だ。絶対に無理だ。
俺は日本の綺麗な環境で育ったんだ。多少の賞味期限切れならいけるけど、これはレベルが違う。
食中毒で死ぬ未来しか見えない。
魔物に食われるより、腹壊して死ぬ方が情けないだろ。
俺の中の何かがプツンと切れた。
遠慮とか言っている場合じゃない。
「ストップ!! 二人とも、ストップです!!」
俺は大声で叫んで、二人の間に割って入った。
フレイヤが驚いて肉を落としそうになり、アリシアが目を丸くする。
「な、なんだ急に! 敵襲か!?」
「違います! その料理、待ってください!」
俺はフレイヤの手から串を奪い取り、アリシアの鍋を火から下ろした。
「い、いきなり何を……」
「いいですか、二人とも。料理っていうのは、下処理が命なんです! 特に魔物の肉や野草なんて、そのまま食ったら腹を壊しますよ!」
「下処理? 火を通せば毒は消えますし、土は大地のスパイスですわ」
アリシアが本気で不思議そうに首を傾げる。
この美人顔で、中身は野生児かよ。
「肉など焼けば食える。細かいことを気にするのは軟弱者の証拠だぞ」
フレイヤが不満げに言う。
ダメだ、この人たち。
戦闘力は最強かもしれないけど、生活能力が終わっている。
このままじゃ俺も道連れだ。
俺は決意した。
自分の命を守るために、そしてまともな飯を食うために。
「俺に代わってください。少なくとも、泥水と焦げ肉よりはマシなものを作りますから」
「……貴様、料理ができるのか?」
「プロじゃないですけど、自炊歴は長いです。見ててください」
俺は深呼吸をする。
さあ、出番だ。俺の地味な水魔法。
戦闘では役に立たなかったけど、ここなら輝けるはずだ。
「まずは、この肉です」
俺は血の滴る肉の塊を大きな葉っぱの上に置いた。
右手の指先を、肉の切り口に見える太い血管に押し当ている。
目的は、血管の中を洗うことだ。
水圧をかけて、中に残った古い血を押し流すんだ。
俺は魔法で水を出した。
俺の指先から、細くて鋭い水流が血管に入っていく。
血管の隅々まで行き渡った水が、血を絡め取って、反対側から薄赤くなった水となって出てくる。
ドロリとした血が、サラサラした水に変わっていく。
あの鼻をつくような獣臭さが、みるみる消えていくのがわかった。
肉の色も、どす黒い赤から、鮮やかで美味しそうなピンク色に変わる。
「なっ……なんだ、なにをしているんだ……?」
フレイヤが目を見開いて見ている。
俺は構わず続ける。
「次は野菜です」
泥だらけの草を手に取って、今度は左手をシャワーヘッドみたいに構えた。
シュババババッ!
指先から出た鋭い水流が、葉っぱや根っこの汚れを直撃する。
こびりついていた泥が、一瞬で吹き飛んだ。
葉っぱを傷つけずに、汚れだけを完璧に落とすコントロール。
虫も、砂粒も、一切残さない。
数秒後、そこにはスーパーで売っているより綺麗な野菜があった。
「水魔法を……こんなふうに使うなんて、この私ですら、聞いたことがありませんわ……」
アリシアが驚いてつぶやく。
二人とも、ポカンと口を開けて俺の作業を見ていた。
俺はフレイヤのナイフを借りて、肉を一口サイズに切った。
血抜きをしたおかげで、サクサク切れる。
鍋に新しい水を入れて、肉と、香りの良さそうな草を入れる。
強火で一気に沸騰させると、灰色の泡が浮いてきた。アクだ。
これを放置するから不味くなるんだよ。
俺は木の皮で作った即席のお玉で、丁寧にアクをすくい続けた。
「何をしているんだ? 煮汁を捨てているのか?」
「これは雑味の塊です。これを取るだけで、味が全然変わるんです」
アクを取ったスープは、黄金色に透き通ってきた。
肉と野菜の旨味だけが溶け出した、いい匂いがする。
味付けは、ポケットに入っていた携帯用の岩塩と、森で見つけたレモンみたいな木の実の汁だけ。
シンプルだけど、下処理さえ行えば、これでも美味いはずだ。
さらに、残りの肉は串に刺して、じっくり焼く。
表面はカリッと、中はジューシーに。
脂が炭に落ちて、いい匂いの煙が肉を包む。
「……いい匂いだ」
フレイヤがゴクリと喉を鳴らした。
さっきの焦げ臭さとは全然違う、食欲をそそる匂いだ。
アリシアも、鍋の中をじーっと覗き込んでる。
「よし、完成です」
俺は熱々のスープを木のお椀によそって、焼けた肉を葉っぱの上に乗せて差し出した。
「『特製スープ』と『香草焼き』です。どうぞ」
二人は顔を見合わせて、それから恐る恐る料理に手を伸ばした。
まずはフレイヤが、串焼き肉にかぶりつく。
ガブリ。
モグモグ……。
その動きが、ピタリと止まった。
次の瞬間、彼女の目がカッと見開かれた。
「っ!? なんだこれは!?」
フレイヤは叫ぶなり、猛烈な勢いで肉を食べ始めた。
「柔らかい! あの固い狼の肉が、なんでこんなに柔らかいんだ! それに、臭みが全くない! 噛むたびに、肉汁が……甘い肉汁が溢れてくる!」
彼女は感動しながら肉を貪っている。
その横で、アリシアもスープを一口すすった。
彼女の反応は静かだった。
でも、その青い目から、ツーっと涙がこぼれ落ちた。
「……ぁ……」
ため息みたいな声が漏れる。
「美味しい……。泥の味もしない、血の味もしない。ただ、優しい旨味だけが……体に染み渡っていきます……」
アリシアは震える手で器を持ち直して、夢中でスープを飲み干した。
上品だけど、飲むスピードが速すぎる。
「こんな料理、王宮でも食べたことがありません。調味料もほとんど使ってないのに、なんでこんなにおいしいのでしょうか?」
「ただ、汚れと余分な血を取り除いて、素材の味を引き出しただけですよ。ああ、ほら、料理は引き算といいますから」
俺も自分の分のスープを飲んだ。
うん、悪くない。
魔物の肉って、日本の肉より味が濃いんだな。血抜きで臭みが消えたから、めちゃくちゃ美味い。
疲れた体にスープが染みる。
二人の食欲は凄まじかった。
鍋いっぱいのスープと、数キロはあった肉が、あっという間に消えていく。
普段、あんなマズイ飯を食っていた反動かな。彼女たちは一心不乱に俺の料理を平らげた。
「ふぅ……」
最後の一滴までスープを飲み干したアリシアが、とろんとした目で息をつく。
ほっぺが赤くて、すごく満足そうな顔だ。
「……ケンジ」
フレイヤが、骨だけになった串を見つめた後、鋭い目で俺を見た。
なんだか、さっきの化け物に見つかった時より怖い気がする。
獲物を狙う目だ。
「はい」
「お前、行く当てはないって言ってたな」
「ええ、まあ。ここがどこかもわからないですし」
フレイヤとアリシアが、無言で頷き合った。
なんか会話したな、今。
そして、二人は左右から俺の腕をガシッと掴んだ。
逃がさない、っていう強い意志を感じる力強さだ。
「決まりですね」
アリシアが、満面の笑顔で言う。
「貴方を、私たちの拠点がある街へご招待しますわ。宿の心配はいりません。私たちの家に住めばいいのです」
「拒否権はないぞ」
フレイヤが鼻息荒く付け加える。
「責任をとってもらう。こんな美味いものを我々に食わせた責任をな。……明日から、元の食事が喉を通るとは思えん」
「私もです。ケンジさんの食事がない生活なんて、もう考えられません」
その言葉は、まるでプロポーズみたいだったけど、彼女たちの目はもっとギラギラとしたものだった。
美味しいエサをくれる人間を見つけた、野良猫のような……いや、猛獣かもしれない。
その餌を目の前にした猛獣のような雰囲気を持った、彼女たちの圧に、俺はただ頷くことしかできなかった。
「……よろしくお願いします」
こうして、俺の異世界生活は、最強の女騎士と聖女の専属料理人として始まることになった。
アスファルトの熱気でも、コンビニの揚げ物の匂いでもない。もっと濃い、草とか土の匂いだ。
目を開けると、そこは緑一色だった。
空が見えないくらい木が生い茂っている。その木々の間から太陽の光が差し込んでて、地面の苔がキラキラ光っていた。
俺はゆっくりと起き上がった。
背中は痛いし、尻は少し濡れている。
周りを見渡す。
見たこともないデカい植物。毒々しい色の花。ビル数階分はありそうな巨木。
どう見ても、日本じゃない。さっきまで俺が歩いていた、住宅街であるはずがない。
「……マジかよ」
口から出たのは、情けない独り言だった。
状況を整理しよう。
休日の俺は、ルンルン気分で近所のコンビニで夜食のカップ麺を買って、店を出た。
その瞬間、視界が真っ白になって、気づいたらここにいた。
トラックに轢かれた記憶もないし、神様みたいなじいさんに会った覚えもない。
ただ、いきなりここに放り出されたみたいだ。
慌てて自分の体を確認する。
服装はパーカーにTシャツ、作業ズボンにスニーカー。
手足はある。怪我もしてない。
ポケットを探る。
おいおい、スマホも財布もない。
そして、右手に持っていたはずのコンビニ袋がない。
俺のシーフードヌードルは、どこかへ消えたらしい。
「最悪だ……」
ため息をつくと、喉が渇いていることに気づいた。
水、飲みたいな。
そう強く思った瞬間だった。
体の奥から何かが流れてきて、手へと向かっていく感じがする。
驚いて右手を見ると、そこから先の空間で水が噴き出していた。
蛇口を全開にしたみたいに、ドバドバと。
「うおっ!?」
慌てて手を振るけど、水は止まらない。
まるで俺の手がホースになったみたいだ。
止まれ、止まれ!
念じると、ピタリと水が止まった。
俺は呆然と自分の手を見つめる。
濡れている。舐めてみると、ただの水だ。美味しくも不味くもない、普通の水。
「これが……魔法、ってやつか?」
異世界転移。魔法。ネット小説で読んだことあるやつだ。
もしかして、俺は勇者として凄い能力をもらったのかも?
期待して、次は炎を出そうとしてみた。
……シーン。何も起きない。
じゃあ雷!風!
いろいろ試したけど、出るのは「水」だけだった。
しかも、お湯も氷も出ない。ただのぬるい水だ。
勢いを変えることはできた。高圧洗浄機みたいに強くしたり、霧吹きみたいにしたり。
でも、それだけ。
攻撃力ゼロ。
できることと言えば、いつでも顔が洗えることと、喉が渇かないことくらい。
地味すぎる。勇者っていうか、これじゃ「歩く蛇口」じゃん。
「はぁ……」
俺はがっくりして、木の根元に座り込んだ。
食料なし。武器なし。場所も不明。
あるのは水が出るだけの微妙な能力。
このまま夜になったらどうなる? 熊とか出たら終わりだぞ。
そう思った時だった。
ガサッ。
後ろの茂みが揺れた。
風じゃない。何かが動いている音だ。
俺はビクッとして振り返る。
そこから出てきたのは、デカい犬だった。
いや、犬じゃない。軽自動車くらいある。
狼だ。その狼の毛並みは灰色でゴツゴツしてて、口からは長い牙が見えていた。
目が合う。黄色い目が、俺をじっと見ている。
ヨダレがダラダラ垂れている。
完全に「エサ」として見られているのがわかった。
グルルルル……。
唸り声を上げて、その化け物が姿勢を低くする。
逃げられない。
こんなデカいやつから逃げ切れるわけがない。
やるしかないのか。この水魔法で。
「くそっ!」
俺は震える両手を前に突き出した。
イメージしろ。最強の高圧洗浄機だ。
水圧で目を攻撃して、怯ませるんだ!
「来るなあああああっ!」
叫びながら、俺は全力で水を出した。
バシュウウウウウッ!
激しい水流が化け物の顔面に直撃する。
当たった!
顔が水しぶきで見えなくなる。やったか!?
一瞬喜んだ俺の目の前で、化け物がブルブルッと体を震わせた。
水が飛び散って、そこにはさっぱりした顔の化け物がいた。
傷ひとつない。
むしろ汚れが落ちて、毛並みが綺麗になっている。
化け物は「何してんのコイツ」みたいな目で俺を見て、また唸り声を上げた。
終わった。
俺の異世界生活、開始三十分で終了。
死因、シャワーの水圧不足。
化け物が地面を蹴った。大きな口が迫ってくる。
俺はギュッと目を閉じた。
――ザシュッ。
肉が切れる音がした。
でも、痛みは来ない。
ドサリ、と何かが倒れる音。
恐る恐る目を開けると、目の前にあの化け物の首が転がっていた。
そして、その向こうに誰かが立っていた。
「おい。生きているか?」
鈴を転がすような、綺麗な声。
立っていたのは、とんでもない美人だった。
銀色の鎧を着て、金色の長い髪をなびかせている。
目は透き通るような青色で、俺を鋭く見ていた。
手には、彼女の身長くらいありそうな長い剣。
その剣には、べっとりと血がついていた。
俺が呆然としていると、彼女の後ろからもう一人、女性が出てきた。
こっちは白い服を着ている。シスターみたいな感じだ。
同じ金髪で青い目だけど、髪はふわふわしてて、優しそうな雰囲気だった。
手には大きな杖を持っている。
「まあ、フレイヤ。そんな言い方をしないでくださいよ。彼、腰が抜けちゃっているじゃないですか」
白い服の女性は、俺の前にしゃがみ込んで心配そうに顔を覗き込んできた。
「怪我はないですか? どこか痛いところは?」
「あ、え、ええ……」
俺は声を出すのが精一杯だった。
美人すぎるのと、強すぎるのを同時に見て、頭が追いつかない。
「ふん、無傷か。運のいい男だ」
フレイヤと呼ばれた鎧の女性が、剣をブンと振った。
血が飛び散って、剣が綺麗になる。
彼女は慣れた手つきで剣を背中にしまうと、呆れたように俺を見下ろした。
「それにしても、水遊びで魔物を追い払おうとするなんてな。無茶にもほどがあるぞ」
「い、いや、あれしか方法がなくて……」
「力を持たない一般人が、この森に迷い込むなんて自殺行為だ。道に迷ったのか?」
どうやら彼女たちは、俺をこの世界の人だと思っているらしい。
異世界から来ましたって言っても信じてもらえないだろうし、説明する元気もない。
「……気づいたらここにいて。右も左もわからないんです」
「遭難者、ということですね。可哀想に」
育ちの良さそうな雰囲気の白いシスター服の女性が、同情たっぷりに言う。
「私はアリシア。こっちは騎士のフレイヤです。貴方のお名前は?」
「あ、俺は……ケンジです」
「ケンジ様ですね。私たちは開拓都市フロンティアへ戻る途中、ここでキャンプをする予定でした。もしよろしければ、ご一緒しませんか? 一人で森を歩くのは危険すぎます」
渡りに船とはこのことだ。断る理由なんてない。
「お願いします。本当に、助かりました……」
俺は深々と頭を下げた。
フレイヤは鼻を鳴らし、足元の化け物の死体を足で小突いた。
「まあいい。ついでだ、こいつの肉も持っていくぞ。今日の晩飯は豪華になりそうだ」
「まあ、素敵! 焼きたてのお肉、楽しみです」
二人はでかい化け物の死体を前にして、まるでランチのメニューを選ぶ女子高生みたいに明るい声を上げた。
フレイヤが化け物の後ろ足を掴む。
そして、どう見ても数百キロはありそうな巨体を、片手でズリズリと引きずり始めた。
「さあ、行くぞケンジ。遅れると置いていくからな」
「は、はい!」
俺は慌てて立ち上がり、彼女たちの後を追った。
助かった。
でも、美女二人と魔物の死体っていう組み合わせがシュールすぎた。
◇
連れて行かれたキャンプ地は、小川の近くのちょっと開けた場所だった。
手際よくテントを立ているフレイヤと、魔法で結界みたいなのを張るアリシア。
二人の動きはプロって感じで、俺は焚き火用の枝を集めることくらいしかできなかった。
腹が減ってグゥと鳴る。
そういえば、最後に食べたのは昨日の夕飯だ。ああ、あのカップ麺が恋しい。
「ふふ、お腹が空いているみたいですね」
作業を終えたアリシアが、石を組んだかまどの前で微笑んだ。
「ちょうど私たちも夕食にするところでしたの。ケンジ様も一緒にどうですか?」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。助けたついでですし」
「獲物はたっぷりあるからな」
フレイヤが、引きずってきた化け物の死体をドスンと置いた。
そして、腰からゴツイナイフを抜く。
ギラリと光る刃先。
まさか、今から解体ショーが始まるのか?
「よし、久々の生肉だ。気合を入れて調理するぞ」
フレイヤはそう言うと、ためらいもなくナイフを突き立ていた。
ザクッ。
皮を剥ぐ手つきは豪快そのものだ。
でも、俺は目を疑った。
……血抜きは?
普通、狩った獲物はすぐに血抜きをしないと臭くなるはずだ。ましてやこんな獣臭い肉だぞ。
でもフレイヤは、血が滴る肉の塊を適当に切り出して、そのまま串に刺そうとしている。
内臓の処理も適当だ。なんか変な汁とかついてないか?
「……あの、フレイヤさん?」
「なんだ。腹が減って待ちきれないのか? 今焼いてやるから待ってろ」
彼女は血まみれの肉塊を、あろうことか直火の炎にかざした。
ジュウウウウッ!
焦げる音と共に、強烈な獣臭と血の匂いが漂ってくる。
煙が目に染みる。
これは……料理じゃない。ただの焼却処分だ。
俺の視線は救いを求めてアリシアへ向かう。
彼女は鍋に水を張り、そこにそこらへんで摘んだ草を入れていた。
ああ、スープか。それならまだ……。
俺の期待は、次の瞬間、粉々に砕け散った。
アリシアが持っている草の根元には、べっとりと黒い泥がついていた。
葉っぱの裏には、小さな虫が動いているのが見える。
彼女はそれを気にする様子もなく、沸騰もしてない水の中に放り込んだ。
「大地の恵みをたっぷり吸った薬草ですわ。栄養満点ですよ」
ニコニコと笑う聖女様。
待て待て待て。
洗わないのか!?
この世界には「洗う」って概念がないのか?
泥だらけの草と、血なまぐさい黒焦げ肉。
これを食えと?
無理だ。絶対に無理だ。
俺は日本の綺麗な環境で育ったんだ。多少の賞味期限切れならいけるけど、これはレベルが違う。
食中毒で死ぬ未来しか見えない。
魔物に食われるより、腹壊して死ぬ方が情けないだろ。
俺の中の何かがプツンと切れた。
遠慮とか言っている場合じゃない。
「ストップ!! 二人とも、ストップです!!」
俺は大声で叫んで、二人の間に割って入った。
フレイヤが驚いて肉を落としそうになり、アリシアが目を丸くする。
「な、なんだ急に! 敵襲か!?」
「違います! その料理、待ってください!」
俺はフレイヤの手から串を奪い取り、アリシアの鍋を火から下ろした。
「い、いきなり何を……」
「いいですか、二人とも。料理っていうのは、下処理が命なんです! 特に魔物の肉や野草なんて、そのまま食ったら腹を壊しますよ!」
「下処理? 火を通せば毒は消えますし、土は大地のスパイスですわ」
アリシアが本気で不思議そうに首を傾げる。
この美人顔で、中身は野生児かよ。
「肉など焼けば食える。細かいことを気にするのは軟弱者の証拠だぞ」
フレイヤが不満げに言う。
ダメだ、この人たち。
戦闘力は最強かもしれないけど、生活能力が終わっている。
このままじゃ俺も道連れだ。
俺は決意した。
自分の命を守るために、そしてまともな飯を食うために。
「俺に代わってください。少なくとも、泥水と焦げ肉よりはマシなものを作りますから」
「……貴様、料理ができるのか?」
「プロじゃないですけど、自炊歴は長いです。見ててください」
俺は深呼吸をする。
さあ、出番だ。俺の地味な水魔法。
戦闘では役に立たなかったけど、ここなら輝けるはずだ。
「まずは、この肉です」
俺は血の滴る肉の塊を大きな葉っぱの上に置いた。
右手の指先を、肉の切り口に見える太い血管に押し当ている。
目的は、血管の中を洗うことだ。
水圧をかけて、中に残った古い血を押し流すんだ。
俺は魔法で水を出した。
俺の指先から、細くて鋭い水流が血管に入っていく。
血管の隅々まで行き渡った水が、血を絡め取って、反対側から薄赤くなった水となって出てくる。
ドロリとした血が、サラサラした水に変わっていく。
あの鼻をつくような獣臭さが、みるみる消えていくのがわかった。
肉の色も、どす黒い赤から、鮮やかで美味しそうなピンク色に変わる。
「なっ……なんだ、なにをしているんだ……?」
フレイヤが目を見開いて見ている。
俺は構わず続ける。
「次は野菜です」
泥だらけの草を手に取って、今度は左手をシャワーヘッドみたいに構えた。
シュババババッ!
指先から出た鋭い水流が、葉っぱや根っこの汚れを直撃する。
こびりついていた泥が、一瞬で吹き飛んだ。
葉っぱを傷つけずに、汚れだけを完璧に落とすコントロール。
虫も、砂粒も、一切残さない。
数秒後、そこにはスーパーで売っているより綺麗な野菜があった。
「水魔法を……こんなふうに使うなんて、この私ですら、聞いたことがありませんわ……」
アリシアが驚いてつぶやく。
二人とも、ポカンと口を開けて俺の作業を見ていた。
俺はフレイヤのナイフを借りて、肉を一口サイズに切った。
血抜きをしたおかげで、サクサク切れる。
鍋に新しい水を入れて、肉と、香りの良さそうな草を入れる。
強火で一気に沸騰させると、灰色の泡が浮いてきた。アクだ。
これを放置するから不味くなるんだよ。
俺は木の皮で作った即席のお玉で、丁寧にアクをすくい続けた。
「何をしているんだ? 煮汁を捨てているのか?」
「これは雑味の塊です。これを取るだけで、味が全然変わるんです」
アクを取ったスープは、黄金色に透き通ってきた。
肉と野菜の旨味だけが溶け出した、いい匂いがする。
味付けは、ポケットに入っていた携帯用の岩塩と、森で見つけたレモンみたいな木の実の汁だけ。
シンプルだけど、下処理さえ行えば、これでも美味いはずだ。
さらに、残りの肉は串に刺して、じっくり焼く。
表面はカリッと、中はジューシーに。
脂が炭に落ちて、いい匂いの煙が肉を包む。
「……いい匂いだ」
フレイヤがゴクリと喉を鳴らした。
さっきの焦げ臭さとは全然違う、食欲をそそる匂いだ。
アリシアも、鍋の中をじーっと覗き込んでる。
「よし、完成です」
俺は熱々のスープを木のお椀によそって、焼けた肉を葉っぱの上に乗せて差し出した。
「『特製スープ』と『香草焼き』です。どうぞ」
二人は顔を見合わせて、それから恐る恐る料理に手を伸ばした。
まずはフレイヤが、串焼き肉にかぶりつく。
ガブリ。
モグモグ……。
その動きが、ピタリと止まった。
次の瞬間、彼女の目がカッと見開かれた。
「っ!? なんだこれは!?」
フレイヤは叫ぶなり、猛烈な勢いで肉を食べ始めた。
「柔らかい! あの固い狼の肉が、なんでこんなに柔らかいんだ! それに、臭みが全くない! 噛むたびに、肉汁が……甘い肉汁が溢れてくる!」
彼女は感動しながら肉を貪っている。
その横で、アリシアもスープを一口すすった。
彼女の反応は静かだった。
でも、その青い目から、ツーっと涙がこぼれ落ちた。
「……ぁ……」
ため息みたいな声が漏れる。
「美味しい……。泥の味もしない、血の味もしない。ただ、優しい旨味だけが……体に染み渡っていきます……」
アリシアは震える手で器を持ち直して、夢中でスープを飲み干した。
上品だけど、飲むスピードが速すぎる。
「こんな料理、王宮でも食べたことがありません。調味料もほとんど使ってないのに、なんでこんなにおいしいのでしょうか?」
「ただ、汚れと余分な血を取り除いて、素材の味を引き出しただけですよ。ああ、ほら、料理は引き算といいますから」
俺も自分の分のスープを飲んだ。
うん、悪くない。
魔物の肉って、日本の肉より味が濃いんだな。血抜きで臭みが消えたから、めちゃくちゃ美味い。
疲れた体にスープが染みる。
二人の食欲は凄まじかった。
鍋いっぱいのスープと、数キロはあった肉が、あっという間に消えていく。
普段、あんなマズイ飯を食っていた反動かな。彼女たちは一心不乱に俺の料理を平らげた。
「ふぅ……」
最後の一滴までスープを飲み干したアリシアが、とろんとした目で息をつく。
ほっぺが赤くて、すごく満足そうな顔だ。
「……ケンジ」
フレイヤが、骨だけになった串を見つめた後、鋭い目で俺を見た。
なんだか、さっきの化け物に見つかった時より怖い気がする。
獲物を狙う目だ。
「はい」
「お前、行く当てはないって言ってたな」
「ええ、まあ。ここがどこかもわからないですし」
フレイヤとアリシアが、無言で頷き合った。
なんか会話したな、今。
そして、二人は左右から俺の腕をガシッと掴んだ。
逃がさない、っていう強い意志を感じる力強さだ。
「決まりですね」
アリシアが、満面の笑顔で言う。
「貴方を、私たちの拠点がある街へご招待しますわ。宿の心配はいりません。私たちの家に住めばいいのです」
「拒否権はないぞ」
フレイヤが鼻息荒く付け加える。
「責任をとってもらう。こんな美味いものを我々に食わせた責任をな。……明日から、元の食事が喉を通るとは思えん」
「私もです。ケンジさんの食事がない生活なんて、もう考えられません」
その言葉は、まるでプロポーズみたいだったけど、彼女たちの目はもっとギラギラとしたものだった。
美味しいエサをくれる人間を見つけた、野良猫のような……いや、猛獣かもしれない。
その餌を目の前にした猛獣のような雰囲気を持った、彼女たちの圧に、俺はただ頷くことしかできなかった。
「……よろしくお願いします」
こうして、俺の異世界生活は、最強の女騎士と聖女の専属料理人として始まることになった。


