Scene 1:陽向の現実
タイムカプセル開封から三日後の夜、私は自室で十年前の手紙を何度も読み返していた。
机の上には、ピンク色の便箋が広げられている。子供っぽい字で書かれた『十年後のわたしへ』という文字が、部屋の明かりに照らされて浮かび上がっている。読むたびに、胸が締め付けられる。七歳の私は、こんなにも純粋に夢を語っていたのに。
絵本作家……
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。私は、本当に絵本作家になりたかった。図書室で絵本を読むのが大好きで、家でも絵本ばかり読んでいた。『ぐりとぐら』『はらぺこあおむし』『100万回生きたねこ』。何度読んでも、飽きなかった。ページをめくるたびに、新しい世界が広がっていた。
小学生の頃は、毎週図書室に通っていた。司書の先生に「陽向ちゃん、また絵本?」って笑われながら、何冊も借りて帰った。家に帰ると、ベッドに寝転がって、何度も何度も読んだ。絵を見ているだけで、幸せだった。
机の引き出しを開けると、中学時代に描いた絵が出てきた。すっかり忘れていたけれど、確かにここにあった。色褪せた画用紙に、色鉛筆で丁寧に塗られた絵。動物たちが冒険する物語の絵だった。
主人公はうさぎ。名前は『ミミ』。大きな耳と、好奇心いっぱいの目。森の中を冒険して、いろんな動物たちと出会う物語。中学二年生の時、国語の授業で『オリジナル絵本を作ろう』という課題があって、それで描いたものだった。
私、こんなの描いてたんだ……
絵を見つめていると、当時の気持ちが蘇ってくる。一生懸命色を塗っていたこと、友達に見せたら「すごい!」って言ってもらえたこと、先生に褒められたこと。あの頃は、まだ夢を諦めていなかった。絵本作家になれるかもしれないって、本気で思っていた。
画用紙をめくると、次のページには森の絵が描かれていた。大きな木、色とりどりの花、小さな川。ミミが森を歩いている絵。次のページには、リスとの出会い。その次のページには、キツネとの出会い。全部で十ページ。中学生なりに、一生懸命描いた絵本だった。
でも、中学で受験勉強が始まってから、絵を描く時間が減っていった。高校に入ってからも、勉強、部活、友達付き合い。気づいたら、絵を描かなくなっていた。
いや、時間がなかったわけじゃない。ただ、優先順位が下がっただけだ。絵を描くより、勉強。絵を描くより、友達と遊ぶ。そうやって選び続けた結果、いつの間にか夢から離れていた。
スマホを手に取って、『絵本作家 なるには』と検索する。画面には、次々と情報が表示された。
《絵本作家の平均年収:約300万円》
《狭き門。出版社に認められるのは至難》
《副業としてやるのが現実的》
《美大卒でもプロになれるのは一握り》
《絵本作家として生活できるのは、ほんの一部》
《出版社への持ち込みは、ほぼ採用されない》
《コンペで入賞するか、SNSでバズるか》
私は画面を閉じた。やっぱり、無理だよね……
現実は厳しい。絵本作家になるには、才能も必要だし、運も必要だし、環境も必要だ。美大に行くお金もないし、そもそも絵が上手いわけでもない。中学の時に描いた絵本だって、所詮は子供の落書き程度だ。プロの絵本作家の絵と比べたら、全然違う。
もう一度、スマホで検索する。今度は、『美大 学費』。
《私立美大の学費:年間約200万円》
《四年間で約800万円》
《国公立でも、年間約60万円》
私は画面を閉じた。無理だ。うちにそんなお金はない。母は一人で私を育てていて、生活だってギリギリなのに、美大の学費なんて出せるわけがない。
部屋のドアがノックされた。
「陽向、入るわよ」
返事をする間もなく、母親が入ってきた。手には、洗濯物のかごを持っている。いつもの、疲れた顔。仕事から帰ってきたばかりなのに、家事をしている。
「進路希望調査、もう出した?」
「まだ……」
「早くしなさいよ。もう高二なんだから。いい加減、自分の将来ちゃんと考えなさい」
「わかってる」
母は洗濯物をタンスにしまいながら、私を見た。その目は、いつもより厳しい。
「わかってないでしょ。あなた、いつもそうやって流されて。友達が何かやってるから自分もやるとか、周りに合わせてばっかりで。自分で何かを決めたこと、ある?」
母の言葉が、胸に刺さる。確かに、私はいつも流されてきた。自分で何かを決めるのが苦手で、周りに合わせることばかりしてきた。部活も、友達が入るから入った。バイトも、友達が誘うからやった。全部、自分で決めたわけじゃない。
「お母さんはね、あなたに安定した仕事についてほしいの。夢とか、そういうのはいいから。ちゃんと食べていける道を選びなさい」
「……うん」
「公務員とか、看護師とか。お母さんみたいに、苦労してほしくないの」
母は洗濯物をしまい終えると、私の方を向いた。
「絵本作家とか、そういう夢みたいなこと考えてないわよね?」
私は、ドキッとした。なんで、わかったんだろう。
「そんなの、食べていけないわよ。現実を見なさい」
「わかってる」
「本当にわかってる? お母さんはね、あなたに幸せになってほしいの。それだけ」
母は部屋を出ていった。足音が廊下に響いて、だんだん遠ざかっていく。私は天井を見上げた。
十年前の私は、今の私を見てどう思うんだろう。
ベッドに寝転がって、もう一度手紙を読む。七歳の私が書いた、純粋な夢。『十年後、ゆめはかなっていますか?』という問いかけが、目に刺さる。
ごめん、七歳の私。叶えられなかった。
涙が一筋、頬を伝った。拭おうともせず、ただ天井を見つめる。部屋の明かりが、ぼやけて見える。
私は、何がしたいんだろう。本当は、何を望んでいるんだろう。母の言う通り、安定した仕事につくべきなのかもしれない。夢なんて追いかけても、叶わない。現実を見なきゃいけない。
でも、心のどこかで、まだ諦めきれない自分がいる。絵本を描きたい。子供たちが笑顔になる物語を作りたい。そんな気持ちが、小さく燻っている。
私は、中学時代に描いた絵本をもう一度見た。ミミの絵。森の絵。動物たちの絵。あの頃の私は、こんなに一生懸命だったのに。
Scene 2:神崎蒼の葛藤
放課後の美術室は、静かだった。蒼は一人でキャンバスに向かっていた。他の部員たちは先に帰ってしまって、今は誰もいない。窓から差し込む夕日が、美術室を赤く染めている。
蒼が描いているのは、抽象的な風景画だった。色彩が激しく、感情がぶつかり合うような絵。赤、青、黒。筆を走らせるたびに、色が混ざり合って、新しい色が生まれる。赤と青が混ざって紫に、黄色と青が混ざって緑に。パレットの上で、色が生まれ、キャンバスの上で、色が踊る。
絵を描いている時だけ、心が落ち着く。何も考えなくていい。ただ、筆を動かすだけ。色を選んで、キャンバスに塗る。それだけで、頭の中が空っぽになる。悩みも、不安も、全部消えて、ただ絵だけが残る。
蒼は筆を止めて、自分の絵を見つめた。これは、何を表現しているんだろう。自分でもよくわからない。ただ、描きたかっただけ。色を塗りたかっただけ。でも、この絵には、何か意味があるような気がする。自分の心の中にある、何かを表している気がする。
赤は、怒り? それとも、情熱? 青は、悲しみ? それとも、冷静さ? 黒は、絶望? それとも、覚悟? 蒼は、自分の絵を見ながら、そんなことを考えた。
そこへ、美術部の顧問である田村先生が入ってきた。五十代くらいの、穏やかな雰囲気の先生だ。グレーの髪に、少し白いものが混じっている。いつも、生徒の絵を丁寧に見てくれる先生だ。
「神崎、いい絵だな」
「……ありがとうございます」
田村先生は蒼の絵をしばらく眺めた。腕を組んで、真剣な表情で。キャンバスに近づいたり、離れたり、角度を変えたり。まるで、美術館で絵を鑑賞しているみたいに。
「感情が溢れてる。色使いも大胆で、でも調和が取れてる。お前、才能あるよ」
「才能……」
蒼は、その言葉を繰り返した。才能。それは、褒め言葉なのか、それとも呪いなのか。才能があるから描くのか、それとも、描きたいから描くのか。
「お前、美大行くつもりは?」
田村先生の質問に、蒼は手を止めた。筆を置いて、先生の方を向いた。
「考えたことは、あります。でも……」
「でも?」
「親が反対してます。『絵で食えるわけがない』って」
田村先生は頷いた。深く、ゆっくりと。
「親御さんの気持ちもわかる。確かに、絵で食っていくのは簡単じゃない。美大を出ても、絵で生計を立てられる人は、ほんの一握りだ。ほとんどは、デザイン会社に就職するか、教師になるか、全然違う仕事につくか。純粋に、画家として食べていける人は、本当に少ない」
蒼は頷いた。それは、わかっている。美大に行っても、画家になれるわけじゃない。むしろ、なれない方が普通だ。
「でも」
田村先生は続けた。
「お前の絵には、才能がある。このまま諦めるのは、もったいない」
蒼は筆を置いた。パレットの上で、絵の具が少しずつ乾いていく。
「先生、才能ってなんですか?」
田村先生は少し考え込んだ。窓の外を見て、夕日を眺めながら。美術室の窓からは、校庭が見える。サッカー部が練習している。野球部も、陸上部も。みんな、それぞれの場所で、それぞれの夢を追いかけている。
「……難しい質問だな」
「七歳の僕は『ピカソみたいになりたい』って言ってた。でも、才能があっても、ピカソにはなれない。才能だけじゃ、夢は叶わないんじゃないですか?」
田村先生は窓の外を見続けた。夕日が、さらに沈んでいく。美術室が、オレンジ色から紫色へと変わっていく。
「才能っていうのは、続ける理由じゃない。続けるための言い訳だ」
「どういう意味ですか?」
田村先生は蒼の方を向いた。その目は、優しくて、でも真剣だった。
「本当に描きたいなら、才能なんて関係ない。描かずにいられないなら、それが答えだ。才能があるから描くんじゃない。描きたいから描く。それだけだ」
田村先生は、自分の経験を語り始めた。
「俺もね、若い頃は画家を目指してた。美大に行って、毎日絵を描いて、コンクールに応募して。でも、全然ダメだった。入賞もしないし、画廊にも置いてもらえないし。才能がないんだって、何度も思った」
蒼は、先生の話を黙って聞いていた。
「でも、描くのをやめられなかった。才能がなくても、描きたかった。だから、教師になった。絵を教えながら、自分も描き続ける。それが、俺の答えだった」
田村先生は、蒼の絵を指差した。
「お前も、同じだろ? 才能があるかないかじゃない。描きたいかどうかだ。描きたいなら、描き続ければいい。それが、お前の答えだ」
蒼は自分の絵を見つめた。赤と青と黒が混ざり合った、抽象的な風景画。これは、才能があるから描いたのか? 違う。ただ、描きたかったから描いた。
「僕は……描きたいです」
「だろう?」
田村先生は微笑んだ。
「じゃあ、それが答えだ。ピカソになれるかどうかなんて、わからない。有名になれるかどうかも、わからない。でも、描き続けることはできる。それが、お前の答えだ」
田村先生は美術室を出ていった。足音が廊下に響いて、だんだん遠ざかっていく。蒼は一人になった。
蒼は鞄から、十年前の手紙を取り出した。タイムカプセルを開けた日から、ずっと持ち歩いている。読み返すたびに、胸が痛む。
10年後のぼくへ
ぼくは、絵かきになりたい。
ピカソみたいなすごい絵をかきたい。
びじゅつかんに、ぼくのえがかざられるようになりたい。
——かんざきあおい(7さい)
ピカソにはなれないかもしれない。美術館に飾られることもないかもしれない。でも、神崎蒼にはなれる。自分にしか描けない絵を、描き続けることはできる。
蒼は新しいキャンバスを準備した。真っ白なキャンバス。これから、どんな絵を描こうか。何色を使おうか。考えるだけで、ワクワクする。
Scene 3:水瀬楓の檻
生徒会室には、膨大な書類が積まれていた。文化祭の企画書、予算案、各部活動の調整資料、生徒会新聞の原稿、クラス対抗イベントの企画書。楓は、その全てに目を通して、チェックをつけていく。一つ一つ、丁寧に。ミスがないように。
生徒会副会長として、楓はいつも完璧にこなしてきた。期限は必ず守るし、ミスもしない。誰からも頼られる存在。でも、それが当たり前になっていた。完璧であることが、当たり前。完璧じゃない自分は、許されない。
パソコンの画面には、スケジュール表が表示されている。
【5月23日(木)】
6:00 起床
6:30 朝食・勉強
7:30 登校
8:30 授業開始
12:30 昼食
13:00 授業再開
15:30 生徒会
18:00 塾
21:00 帰宅・夕食
21:30 宿題
23:00 勉強
24:00 就寝
びっしり埋まったスケジュール。余白がない。余白がない。毎日、同じことの繰り返し。朝起きて、勉強して、学校に行って、生徒会の仕事をして、塾に行って、家に帰って、勉強して、寝る。休む時間も、遊ぶ時間も、ない。
楓は、そんな生活を何年も続けてきた。親に言われた通り、先生に言われた通り、周りの期待通りに生きてきた。気づいたら、自分が何をしたいのか、わからなくなっていた。
楓は、明日のスケジュールも確認した。
【5月24日(金)】
6:00 起床
6:30 朝食・勉強
7:30 登校
8:30 授業開始
12:30 昼食(生徒会打ち合わせ)
13:00 授業再開
15:30 生徒会(文化祭企画最終確認)
18:00 塾
21:00 帰宅・夕食
21:30 宿題
23:00 勉強(英語の小テスト対策)
24:00 就寝
明日も、明後日も、来週も、来月も。全部、同じスケジュール。変わらない毎日。楓は、いつからこんな生活を送っているんだろう。中学の時から? それとも、もっと前から?
そこへ、生徒会長の先輩が入ってきた。三年生の男子で、いつも明るくて、頼りになる先輩だ。背が高くて、笑顔が爽やかで、誰からも慕われている。
「水瀬、いつもありがとうな」
「いえ、これくらい」
「お前がいないと、この生徒会は回らないよ。本当に助かってる。会長の俺より、お前の方が仕事してるんじゃないか?」
先輩は笑いながら言った。でも、楓は笑えなかった。
「そんなことないです」
「いやいや、マジで。お前、完璧すぎるんだよ。ミスしないし、期限も守るし、みんなからの信頼も厚いし。俺、お前に頭が上がらないわ」
先輩は、机の上の書類を見た。
「これ、全部チェックしたの? すごいな。俺だったら、絶対無理だわ」
「いえ、当たり前のことをしているだけです」
「当たり前じゃないって。お前、本当にすごいよ。大学行っても、そういうのやったら? 絶対、向いてるって」
楓は笑顔で答えたけれど、その笑顔は作られたものだった。本心ではない。ただ、期待に応えているだけ。完璧な水瀬楓を演じているだけ。
先輩が去った後、楓は一人になった。机の上に、十年前の手紙を置く。タイムカプセルを開けた日から、ずっと鞄に入れていた。読み返すたびに、胸が苦しくなる。
10年後のわたしへ
わたしのゆめは、ピアニストです。
ピアノをひいて、みんなをしあわせにしたいです。
コンサートをひらいて、たくさんのひとにきいてもらいたいです。
——みなせかえで(7さい)
楓は手紙を握りしめた。ピアノ……何年触ってない? 中学の時、コンクールで入賞できなかった。練習を何ヶ月も重ねて、毎日何時間も弾いて、それでも入賞できなかった。
親に「もっと勉強に集中しなさい」と言われた。「ピアノは趣味でやる分にはいいけど、プロになるのは無理よ。ちゃんと勉強して、いい大学に入りなさい」って。それから、ピアノ室に行ってない。
楓は立ち上がって、生徒会室を出た。廊下を歩いて、音楽室へ向かう。放課後の校舎は静かで、自分の足音だけが響いている。階段を上って、三階へ。音楽室は、一番奥にある。
音楽室の扉を開けると、誰もいなかった。楓は部屋の中に入って、扉を閉める。静寂。完全な静寂。隅に、グランドピアノが置かれていた。黒く輝くピアノ。何年も前に、楓が弾いていたのと同じピアノ。
楓は恐る恐るピアノの前に座った。椅子の高さを調整して、姿勢を正す。背筋を伸ばして、肩の力を抜いて。中学の頃、先生に何度も言われた姿勢。
鍵盤に手を置く。冷たい。ずっと触れていなかった鍵盤は、冷たくて、よそよそしい。まるで、楓を拒絶しているみたいに。
ゆっくりと、一つの鍵を押す。『ド』の音が響いた。澄んだ音色が、静かな音楽室に広がる。懐かしい音。何年も聴いていなかった音。
次に『レ』、そして『ミ』。簡単な音階を弾く。ドレミファソラシド。上がって、下がって。
でも、指が思うように動かなかった。昔は、もっとスムーズに弾けていたのに。今は、指が硬くて、鍵盤を押すのにも力がいる。関節が痛い。筋肉が固まっている。
楓は、昔よく弾いていた曲を弾こうとした。ショパンの『ノクターン』。コンクールで弾いた曲。でも、途中で止まってしまった。指が動かない。楽譜も覚えていない。あんなに練習したのに、もう弾けない。
楓は、もう一度最初から弾こうとした。でも、やっぱり途中で止まってしまう。何度やっても、同じところで止まる。指が、言うことを聞かない。
楓は鍵盤から手を離した。
もう、弾けないんだ……
涙が溢れてきた。止めようとしても、止まらない。楓は顔を両手で覆った。音楽室には、楓の嗚咽だけが響いている。
私は……何がしたかったんだろう。
ピアノを弾きたかった。人前で演奏して、拍手をもらいたかった。みんなを幸せにしたかった。でも、それを諦めて、親の言う通りに生きてきた。勉強して、いい成績を取って、生徒会に入って、塾に通って。
完璧な水瀬楓を演じて、周りの期待に応えて。でも、本当の自分は、どこに行ったんだろう。ピアノを弾くのが好きだった自分は、どこに行ったんだろう。
楓は、涙を拭いて、もう一度ピアノの鍵盤を見た。黒と白の鍵盤。この鍵盤を、毎日何時間も弾いていた。朝も、夜も、休みの日も。ピアノが好きで、弾くのが楽しくて、止められなかった。
でも、今は弾けない。指も動かないし、楽譜も覚えていない。何年も離れていたら、もう戻れない。
スマホに、複数の通知が届いた。
《生徒会:明日の会議資料まだ?》
《塾:今日の宿題提出忘れずに》
《親:帰りに牛乳買ってきて》
《親:明日のテスト、ちゃんと勉強した?》
楓は画面を見つめた。私、誰のために生きてるんだろう……
親のため? 先生のため? 周りのため? 完璧な自分を演じるため? でも、本当の自分は? 本当にやりたいことは?
楓は、もう一度ピアノの鍵盤に手を置いた。そして、ゆっくりと『ド』の音を鳴らした。
Scene 4:早川隼人の限界
サッカーグラウンドには、隼人一人だけがいた。放課後の練習はもう終わっていて、他の部員たちは帰ってしまっている。でも、隼人は一人で残って、ボールを蹴り続けていた。誰もいないグラウンドで、黙々と。
シュート練習。ゴールを狙って、ボールを蹴る。助走をつけて、右足で蹴る。ボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールの隅に吸い込まれた。ネットが揺れる。いい音がする。
もう一本。ボールを置いて、助走をつけて、蹴る。今度は、ゴールバーに当たって跳ね返った。惜しい。もう少し下を狙えば、入っていた。
隼人は、もう一度ボールを拾いに行った。ゴールの中に転がっているボールを拾って、また元の位置に置く。そして、助走をつけて、蹴る。
しかし、蹴った瞬間、膝に激痛が走った。
隼人は地面に倒れ込んだ。膝を抱えて、歯を食いしばる。くそ……痛い。激痛が、膝から全身に広がる。呼吸が荒くなる。汗が噴き出す。
半年前の試合で負った怪我だった。インターハイ予選の決勝戦。相手選手とぶつかって、膝の靭帯を痛めた。ボールを追いかけていて、相手のスライディングと接触して、そのまま倒れた。立ち上がろうとしたけど、膝が動かなかった。激痛で、立てなかった。
あの試合は、人生で一番大事な試合だった。勝てば、インターハイ出場。負ければ、終わり。隼人は、チームの副キャプテンとして、先輩たちを支えなきゃいけなかった。でも、怪我をして、交代させられた。チームは、そのまま負けた。隼人のせいで。
病院で診てもらったら、「前十字靭帯損傷」と診断された。手術が必要だと言われた。そして、手術をして、リハビリを続けている。週に三回、病院に通って、理学療法士の指導のもとでリハビリをしている。
医者からは「無理すると選手生命に関わる」と言われている。「もう、前みたいには走れない。激しい運動は避けるべきだ」って。でも、隼人はボールを蹴り続ける。なぜなら、サッカーしかないから。
サッカーを始めたのは、小学一年生の時だった。父に連れられて、地域のサッカークラブに入った。最初は、ただ走り回っているだけだった。ボールを追いかけて、蹴って、転んで。でも、楽しかった。
中学では、サッカー部のキャプテンになった。チームをまとめて、試合に勝って、県大会まで進んだ。高校でも、サッカー部に入って、二年生でキャプテンになった。チームメイトからも、先生からも、期待されていた。「早川なら、プロになれる」って。
でも、怪我をした。そして、全てが変わった。
隼人は立ち上がった。膝の痛みを堪えながら、もう一度ボールを蹴る。しかし、また膝が痛む。激痛が走って、足が震える。ボールは、明後日の方向に飛んでいった。
もう……無理なのか。
隼人は、ベンチに座り込んだ。膝を抱えて、うつむく。グラウンドの芝生が、視界に入る。緑の芝生。何度も走り回った芝生。何度もボールを蹴った芝生。
隼人は、鞄から水筒を取り出して、水を飲んだ。喉が渇いている。汗が止まらない。膝の痛みも、まだ続いている。
隼人は空を見上げた。夕焼けが、空を赤く染めている。綺麗な夕焼け。でも、今の隼人には、綺麗すぎて腹が立つ。こんなに綺麗な夕焼けを見ている場合じゃない。練習しなきゃいけない。強くならなきゃいけない。プロになるために。
でも、体が動かない。膝が痛い。もう、前みたいには走れない。
隼人は十年前の手紙を思い出した。タイムカプセルを開けた日から、ずっと頭の中にある。七歳の自分が書いた、純粋な夢。
10年後のぼくへ
ぼくのゆめは、プロサッカーせんしゅになることです。
Jリーグでかつやくして、にほんだいひょうにもなりたいです。
ワールドカップにでて、ゴールをきめたいです。
——はやかわはやと(7さい)
プロ、か……
現実は厳しい。怪我、ライバルの存在、才能の限界。このまま続けても、プロになれる保証はない。むしろ、怪我が悪化して、サッカー自体ができなくなるかもしれない。
チームメイトの中には、もっと上手い選手がいる。怪我もしていない選手がいる。それに、他校にはユースチームに入っている選手もいる。そういう選手たちが、プロになっていくんだろう。隼人じゃない、誰かが。
でも、サッカーをやめたら、自分には何が残る?
サッカー以外に、何かやったことがあるか? 勉強? 全然ダメだ。成績は、クラスで下から数えた方が早い。部活ばっかりやってきたから、勉強する時間がなかった。趣味? ない。サッカー以外に、やりたいことがない。
隼人は、もう一度立ち上がろうとした。でも、膝が痛くて、立てない。また座り込む。
隼人は、グラウンドを見回した。このグラウンドで、何試合やっただろう。何点ゴールを決めただろう。何回、仲間と喜びを分かち合っただろう。
でも、もう終わりなのか。このまま、サッカーをやめなきゃいけないのか。
隼人は、膝を抱えたまま、芝生の上に座り込んだ。夕焼けが、さらに沈んでいく。グラウンドが、だんだん暗くなっていく。街灯が、ぽつぽつと灯り始める。
七歳の俺、ごめん。約束、守れそうにない。
隼人は、涙が出そうになるのをこらえた。泣いたら、負けだ。泣いたら、全部終わりだ。でも、涙は止まらなかった。ぽろぽろと、涙が頬を伝う。止めようとしても、止まらない。
隼人は、顔を手で覆った。誰にも見られたくない。こんな弱い自分を、誰にも見せたくない。でも、誰もいない。グラウンドには、隼人一人だけだった。
Scene 5:約束を書く日
週末の土曜日。約束通り、陽向たち四人は小学校の図書室に集まっていた。
宮本先生の他に、もう一人、若い女性が待っていた。二十代後半くらいだろうか。明るい雰囲気の女性だった。
「紹介するよ。白鳥さん、この学校の図書館司書だ。今回のプロジェクトを手伝ってくれる」
宮本先生が手で示すと、女性が明るく笑った。
「初めまして。白鳥真琴です。みんなの『約束』を形にするお手伝いをさせてもらいます」
白鳥さんの笑顔は、図書室全体を明るくするようだった。
しばらくして、楓と隼人も到着した。四人が揃って席につくと、宮本先生が腕を組んで四人を見回した。
「先週、『約束を書く』って話をしたけど、何を書くか考えてきたか?」
四人は顔を見合わせた。考えてきたけれど、まだはっきりしない。陽向も、ぼんやりと「絵本を描き続ける」とは思っていたけれど、それ以上具体的には考えられなかった。
「悩んでるみたいだな」
宮本先生は優しく微笑んで、図書室のホワイトボードに向かった。マーカーを手に取って、書き始める。
「じゃあ、もう少し具体的に考えよう。『ピアノを弾き続ける』だけじゃ、曖昧すぎる。『どんな風に』『どれくらい』『誰のために』弾くのか。それを決めるんだ」
宮本先生の書いた文字が、ホワイトボードに浮かび上がる。
【具体的な約束の作り方】
頻度を決める(毎日?週に一回?月に一回?)
場所を決める(どこで?)
相手を決める(誰のために?自分のため?)
形を決める(どんな形で?)
例:
「ピアノを弾き続ける」
↓
「月に一回、誰かの前でピアノを弾く」
楓が思わず身を乗り出した。
「月に一回……誰かの前で……」
楓の声が、少し震えている。
白鳥さんがノートパソコンを開きながら補足した。
「そう。『弾き続ける』だけだと、誰にも見せずに家で一人で弾くだけでもOKになっちゃう。でも、『誰かの前で』って決めると、ちゃんと人前で演奏することになる。それが、約束を守るってこと」
宮本先生が楓の方を向く。
「例えば、楓。君は『ピアノを弾き続ける』って約束するとして、それをどう実現する? 月に一回? 週に一回? 毎日?」
楓は少し考えてから、口を開いた。
「月に一回……は、できそうです。でも、誰の前で弾くんですか?」
「それは自分で決めればいい。友達でもいいし、家族でもいいし、学校の音楽室で後輩に聴かせてもいい。大事なのは、『人前で弾く』ってこと。それが、約束を続ける理由になる」
隼人が手を挙げた。
「じゃあ、俺の場合は? サッカーを続けるって約束したいけど、怪我してるし……」
隼人の声には、不安が滲んでいた。
宮本先生は隼人の方を向いて、静かに頷いた。
「君の場合は、『選手として』に限定しなくていい。『サッカーに関わり続ける』だ。週に何回ボールを蹴る? 月に何回試合を見る? 年に何回、後輩に教える? そういう具体的な行動を決めるんだ」
隼人が真剣な表情で考え込む。しばらく沈黙が続いた後、隼人が顔を上げた。
「週に三回……ボールを蹴る。怪我が治ったら、もっと増やすけど、最低でも週に三回」
「いいじゃないか」
宮本先生の目が優しく細まる。
「それなら、自分でコントロールできる。プロになれなくても、週に三回ボールを蹴ることはできる」
蒼が腕を組んだまま口を開いた。
「俺は……絵を描き続けるって約束したいです。でも、毎日は無理かもしれない」
「毎日じゃなくていい。週に一枚? 月に一枚? 年に十二枚? 自分が続けられる頻度を決めればいい」
蒼は少し考えてから、静かに答えた。
「週に一枚……描きます。小さくてもいいから、必ず一枚」
「いいな」
宮本先生が力強く頷く。
「それなら、一年で五十二枚描ける。十年で五百二十枚だ。その中に、傑作が一枚でもあれば、それでいい」
陽向も考え始めた。私は……絵本を描き続ける。でも、どれくらい? 月に一冊は無理だ。一年に一冊? それなら、できるかもしれない。
「先生、私は……」
陽向が小さく息を吸って、言葉を続ける。
「一年に一冊、絵本を完成させたいです」
宮本先生の顔がほころんだ。
「いいじゃないか。出版されなくてもいい。自分で描いて、完成させる。それが約束だ。十年で十冊。誰が認めなくても、十冊の絵本を描いた自分を誇れる」
白鳥さんがノートパソコンの画面を四人に見せた。
「それでね、このプロジェクトをもっと広げたいと思ってるの」
「広げる?」
陽向が首を傾げる。
「特設サイトを作って、全国の高校生が参加できるようにする。みんなで未来の自分と約束する場所。SNSでシェアして、同じように悩んでいる仲間と繋がれる場所」
楓が目を見開いた。
「それって……すごいことになりそうですね」
「そう。一人じゃない。同じように悩んで、同じように行動を約束した仲間がいる。それが、このプロジェクトの意味なの」
白鳥さんが画面を操作すると、シンプルなウェブサイトのデザインが表示された。
『放課後タイムカプセル』
結果じゃなく、行動を。
夢じゃなく、約束を。
未来の自分と、今、約束しよう。
陽向は画面を見つめた。これなら、私にもできるかもしれない。絵本作家にはなれなくても、絵本を描き続けることはできる。
「サイトには、約束を投稿できる機能をつける。そうすると、設定した日付に、その約束が自動的にメールで届く仕組み」
白鳥さんの指が、画面上の機能を指し示す。
「未来の自分に、メールが届くってこと?」
楓が身を乗り出す。
「そう。一年後、五年後、十年後。自分で設定した日に、『あなたが約束したこと、覚えてる?』ってメールが届く」
隼人が思わず声を上げた。
「それって……忘れられないですね」
「そうなの」
白鳥さんが微笑む。
「だから、本気で続けられる約束を書かなきゃいけない。自分でコントロールできて、続けられること」
宮本先生が四人を見回した。その目には、温かい光が宿っている。
「今日は、それぞれの『約束』を紙に書いてもらう。そして、タイムカプセルに入れる。十年後、二十七歳の君たちがこれを開けたとき、『ああ、約束を守れた』って思えるように」
白鳥さんが鞄から便箋を取り出して配った。シンプルな白い便箋。十年前に使ったピンク色や青色の便箋とは違って、大人っぽい便箋だった。
「じゃあ、書いてみよう。十年後の自分への約束」
四人は、それぞれペンを手に取った。
陽向は、便箋を見つめた。何を書こう。どんな約束をしよう。
しばらく考えてから、陽向はペンを走らせた。
十年後の私へ
今、私は十七歳です。高校二年生。進路に悩んでいます。
十年前、七歳の私は「絵本作家になりたい」って書きました。でも、今の私は、その夢を諦めています。才能もないし、お金もないし、現実を見なきゃいけないから。
でも、完全に諦めたわけじゃありません。だから、約束します。
私は、これから十年間、毎年一冊、絵本を完成させます。
出版されなくてもいい。誰に認められなくてもいい。自分で描いて、自分で完成させる。それが、私の約束です。
十年後、あなたは十冊の絵本を描いているはずです。その中に、傑作が一冊でもあれば、それでいい。一冊もなくても、それでもいい。大事なのは、描き続けたってこと。
絵本作家にはなれなかったかもしれない。でも、絵本を描く人ではいられた。それが、私の答えです。
十年後の私へ。約束、守れましたか?
——橘陽向(17歳)
陽向は手紙を書き終えて、ゆっくりと息を吐いた。これでいい。これが、私の約束。
周りを見ると、蒼も楓も隼人も、それぞれの手紙を書いていた。真剣な表情で、ペンを走らせている。蒼は時々立ち止まって考え込み、楓は丁寧な字で一文字ずつ書き、隼人は力強い筆圧で紙に想いを刻んでいる。
しばらくして、四人とも書き終えた。
宮本先生が金属製の箱を持ってきた。新しい箱。十年前と同じような箱だけれど、錆びていない、ピカピカの箱。
「この中に、君たちの約束を入れる。そして、十年後、また開ける」
宮本先生の声が、静かに響く。
四人は、それぞれの手紙を箱の中に入れた。陽向の手紙、蒼の手紙、楓の手紙、隼人の手紙。四人の約束が、箱の中に収められた。
宮本先生が蓋を閉めた。金属音が響く。そして、先生は油性マジックで箱の表面に文字を書いた。
『2025年5月30日 放課後タイムカプセル 10年後の自分たちへ』
白鳥さんが優しく微笑んだ。
「この箱は、学校の図書室に保管します。そして、サイトにも同じ約束を投稿して、十年後にメールで届くようにする」
「両方?」
陽向が驚いて尋ねる。
「そう。箱は『形あるもの』として。メールは『忘れないため』に。二重の約束」
陽向は箱を見つめた。この中に、私の約束が入っている。十年後の私への、約束が。
宮本先生が四人を見回した。その目には、誇らしげな光が宿っている。
「十年前、君たちは『夢』を埋めた。でも、今日、君たちは『約束』を埋めた。結果じゃなく、行動を。才能じゃなく、継続を。それが、君たちの答えだ」
白鳥さんが画面を閉じながら言葉を続けた。
「このプロジェクトは、ここから始まる。四人から始まって、学校中に広がって、全国に広がる。同じように悩んでいる高校生が、みんなで約束を書く。それが、『放課後タイムカプセル』」
陽向の胸の中で、小さな希望が灯り始めていた。
絵本作家にはなれないかもしれない。でも、絵本を描き続けることはできる。それが、私の答え。
四人は、それぞれの顔を見合わせた。みんな、同じ表情をしていた。不安と、希望が、混ざったような表情。
でも、その目には、確かに光があった。
【第2章 完】
タイムカプセル開封から三日後の夜、私は自室で十年前の手紙を何度も読み返していた。
机の上には、ピンク色の便箋が広げられている。子供っぽい字で書かれた『十年後のわたしへ』という文字が、部屋の明かりに照らされて浮かび上がっている。読むたびに、胸が締め付けられる。七歳の私は、こんなにも純粋に夢を語っていたのに。
絵本作家……
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。私は、本当に絵本作家になりたかった。図書室で絵本を読むのが大好きで、家でも絵本ばかり読んでいた。『ぐりとぐら』『はらぺこあおむし』『100万回生きたねこ』。何度読んでも、飽きなかった。ページをめくるたびに、新しい世界が広がっていた。
小学生の頃は、毎週図書室に通っていた。司書の先生に「陽向ちゃん、また絵本?」って笑われながら、何冊も借りて帰った。家に帰ると、ベッドに寝転がって、何度も何度も読んだ。絵を見ているだけで、幸せだった。
机の引き出しを開けると、中学時代に描いた絵が出てきた。すっかり忘れていたけれど、確かにここにあった。色褪せた画用紙に、色鉛筆で丁寧に塗られた絵。動物たちが冒険する物語の絵だった。
主人公はうさぎ。名前は『ミミ』。大きな耳と、好奇心いっぱいの目。森の中を冒険して、いろんな動物たちと出会う物語。中学二年生の時、国語の授業で『オリジナル絵本を作ろう』という課題があって、それで描いたものだった。
私、こんなの描いてたんだ……
絵を見つめていると、当時の気持ちが蘇ってくる。一生懸命色を塗っていたこと、友達に見せたら「すごい!」って言ってもらえたこと、先生に褒められたこと。あの頃は、まだ夢を諦めていなかった。絵本作家になれるかもしれないって、本気で思っていた。
画用紙をめくると、次のページには森の絵が描かれていた。大きな木、色とりどりの花、小さな川。ミミが森を歩いている絵。次のページには、リスとの出会い。その次のページには、キツネとの出会い。全部で十ページ。中学生なりに、一生懸命描いた絵本だった。
でも、中学で受験勉強が始まってから、絵を描く時間が減っていった。高校に入ってからも、勉強、部活、友達付き合い。気づいたら、絵を描かなくなっていた。
いや、時間がなかったわけじゃない。ただ、優先順位が下がっただけだ。絵を描くより、勉強。絵を描くより、友達と遊ぶ。そうやって選び続けた結果、いつの間にか夢から離れていた。
スマホを手に取って、『絵本作家 なるには』と検索する。画面には、次々と情報が表示された。
《絵本作家の平均年収:約300万円》
《狭き門。出版社に認められるのは至難》
《副業としてやるのが現実的》
《美大卒でもプロになれるのは一握り》
《絵本作家として生活できるのは、ほんの一部》
《出版社への持ち込みは、ほぼ採用されない》
《コンペで入賞するか、SNSでバズるか》
私は画面を閉じた。やっぱり、無理だよね……
現実は厳しい。絵本作家になるには、才能も必要だし、運も必要だし、環境も必要だ。美大に行くお金もないし、そもそも絵が上手いわけでもない。中学の時に描いた絵本だって、所詮は子供の落書き程度だ。プロの絵本作家の絵と比べたら、全然違う。
もう一度、スマホで検索する。今度は、『美大 学費』。
《私立美大の学費:年間約200万円》
《四年間で約800万円》
《国公立でも、年間約60万円》
私は画面を閉じた。無理だ。うちにそんなお金はない。母は一人で私を育てていて、生活だってギリギリなのに、美大の学費なんて出せるわけがない。
部屋のドアがノックされた。
「陽向、入るわよ」
返事をする間もなく、母親が入ってきた。手には、洗濯物のかごを持っている。いつもの、疲れた顔。仕事から帰ってきたばかりなのに、家事をしている。
「進路希望調査、もう出した?」
「まだ……」
「早くしなさいよ。もう高二なんだから。いい加減、自分の将来ちゃんと考えなさい」
「わかってる」
母は洗濯物をタンスにしまいながら、私を見た。その目は、いつもより厳しい。
「わかってないでしょ。あなた、いつもそうやって流されて。友達が何かやってるから自分もやるとか、周りに合わせてばっかりで。自分で何かを決めたこと、ある?」
母の言葉が、胸に刺さる。確かに、私はいつも流されてきた。自分で何かを決めるのが苦手で、周りに合わせることばかりしてきた。部活も、友達が入るから入った。バイトも、友達が誘うからやった。全部、自分で決めたわけじゃない。
「お母さんはね、あなたに安定した仕事についてほしいの。夢とか、そういうのはいいから。ちゃんと食べていける道を選びなさい」
「……うん」
「公務員とか、看護師とか。お母さんみたいに、苦労してほしくないの」
母は洗濯物をしまい終えると、私の方を向いた。
「絵本作家とか、そういう夢みたいなこと考えてないわよね?」
私は、ドキッとした。なんで、わかったんだろう。
「そんなの、食べていけないわよ。現実を見なさい」
「わかってる」
「本当にわかってる? お母さんはね、あなたに幸せになってほしいの。それだけ」
母は部屋を出ていった。足音が廊下に響いて、だんだん遠ざかっていく。私は天井を見上げた。
十年前の私は、今の私を見てどう思うんだろう。
ベッドに寝転がって、もう一度手紙を読む。七歳の私が書いた、純粋な夢。『十年後、ゆめはかなっていますか?』という問いかけが、目に刺さる。
ごめん、七歳の私。叶えられなかった。
涙が一筋、頬を伝った。拭おうともせず、ただ天井を見つめる。部屋の明かりが、ぼやけて見える。
私は、何がしたいんだろう。本当は、何を望んでいるんだろう。母の言う通り、安定した仕事につくべきなのかもしれない。夢なんて追いかけても、叶わない。現実を見なきゃいけない。
でも、心のどこかで、まだ諦めきれない自分がいる。絵本を描きたい。子供たちが笑顔になる物語を作りたい。そんな気持ちが、小さく燻っている。
私は、中学時代に描いた絵本をもう一度見た。ミミの絵。森の絵。動物たちの絵。あの頃の私は、こんなに一生懸命だったのに。
Scene 2:神崎蒼の葛藤
放課後の美術室は、静かだった。蒼は一人でキャンバスに向かっていた。他の部員たちは先に帰ってしまって、今は誰もいない。窓から差し込む夕日が、美術室を赤く染めている。
蒼が描いているのは、抽象的な風景画だった。色彩が激しく、感情がぶつかり合うような絵。赤、青、黒。筆を走らせるたびに、色が混ざり合って、新しい色が生まれる。赤と青が混ざって紫に、黄色と青が混ざって緑に。パレットの上で、色が生まれ、キャンバスの上で、色が踊る。
絵を描いている時だけ、心が落ち着く。何も考えなくていい。ただ、筆を動かすだけ。色を選んで、キャンバスに塗る。それだけで、頭の中が空っぽになる。悩みも、不安も、全部消えて、ただ絵だけが残る。
蒼は筆を止めて、自分の絵を見つめた。これは、何を表現しているんだろう。自分でもよくわからない。ただ、描きたかっただけ。色を塗りたかっただけ。でも、この絵には、何か意味があるような気がする。自分の心の中にある、何かを表している気がする。
赤は、怒り? それとも、情熱? 青は、悲しみ? それとも、冷静さ? 黒は、絶望? それとも、覚悟? 蒼は、自分の絵を見ながら、そんなことを考えた。
そこへ、美術部の顧問である田村先生が入ってきた。五十代くらいの、穏やかな雰囲気の先生だ。グレーの髪に、少し白いものが混じっている。いつも、生徒の絵を丁寧に見てくれる先生だ。
「神崎、いい絵だな」
「……ありがとうございます」
田村先生は蒼の絵をしばらく眺めた。腕を組んで、真剣な表情で。キャンバスに近づいたり、離れたり、角度を変えたり。まるで、美術館で絵を鑑賞しているみたいに。
「感情が溢れてる。色使いも大胆で、でも調和が取れてる。お前、才能あるよ」
「才能……」
蒼は、その言葉を繰り返した。才能。それは、褒め言葉なのか、それとも呪いなのか。才能があるから描くのか、それとも、描きたいから描くのか。
「お前、美大行くつもりは?」
田村先生の質問に、蒼は手を止めた。筆を置いて、先生の方を向いた。
「考えたことは、あります。でも……」
「でも?」
「親が反対してます。『絵で食えるわけがない』って」
田村先生は頷いた。深く、ゆっくりと。
「親御さんの気持ちもわかる。確かに、絵で食っていくのは簡単じゃない。美大を出ても、絵で生計を立てられる人は、ほんの一握りだ。ほとんどは、デザイン会社に就職するか、教師になるか、全然違う仕事につくか。純粋に、画家として食べていける人は、本当に少ない」
蒼は頷いた。それは、わかっている。美大に行っても、画家になれるわけじゃない。むしろ、なれない方が普通だ。
「でも」
田村先生は続けた。
「お前の絵には、才能がある。このまま諦めるのは、もったいない」
蒼は筆を置いた。パレットの上で、絵の具が少しずつ乾いていく。
「先生、才能ってなんですか?」
田村先生は少し考え込んだ。窓の外を見て、夕日を眺めながら。美術室の窓からは、校庭が見える。サッカー部が練習している。野球部も、陸上部も。みんな、それぞれの場所で、それぞれの夢を追いかけている。
「……難しい質問だな」
「七歳の僕は『ピカソみたいになりたい』って言ってた。でも、才能があっても、ピカソにはなれない。才能だけじゃ、夢は叶わないんじゃないですか?」
田村先生は窓の外を見続けた。夕日が、さらに沈んでいく。美術室が、オレンジ色から紫色へと変わっていく。
「才能っていうのは、続ける理由じゃない。続けるための言い訳だ」
「どういう意味ですか?」
田村先生は蒼の方を向いた。その目は、優しくて、でも真剣だった。
「本当に描きたいなら、才能なんて関係ない。描かずにいられないなら、それが答えだ。才能があるから描くんじゃない。描きたいから描く。それだけだ」
田村先生は、自分の経験を語り始めた。
「俺もね、若い頃は画家を目指してた。美大に行って、毎日絵を描いて、コンクールに応募して。でも、全然ダメだった。入賞もしないし、画廊にも置いてもらえないし。才能がないんだって、何度も思った」
蒼は、先生の話を黙って聞いていた。
「でも、描くのをやめられなかった。才能がなくても、描きたかった。だから、教師になった。絵を教えながら、自分も描き続ける。それが、俺の答えだった」
田村先生は、蒼の絵を指差した。
「お前も、同じだろ? 才能があるかないかじゃない。描きたいかどうかだ。描きたいなら、描き続ければいい。それが、お前の答えだ」
蒼は自分の絵を見つめた。赤と青と黒が混ざり合った、抽象的な風景画。これは、才能があるから描いたのか? 違う。ただ、描きたかったから描いた。
「僕は……描きたいです」
「だろう?」
田村先生は微笑んだ。
「じゃあ、それが答えだ。ピカソになれるかどうかなんて、わからない。有名になれるかどうかも、わからない。でも、描き続けることはできる。それが、お前の答えだ」
田村先生は美術室を出ていった。足音が廊下に響いて、だんだん遠ざかっていく。蒼は一人になった。
蒼は鞄から、十年前の手紙を取り出した。タイムカプセルを開けた日から、ずっと持ち歩いている。読み返すたびに、胸が痛む。
10年後のぼくへ
ぼくは、絵かきになりたい。
ピカソみたいなすごい絵をかきたい。
びじゅつかんに、ぼくのえがかざられるようになりたい。
——かんざきあおい(7さい)
ピカソにはなれないかもしれない。美術館に飾られることもないかもしれない。でも、神崎蒼にはなれる。自分にしか描けない絵を、描き続けることはできる。
蒼は新しいキャンバスを準備した。真っ白なキャンバス。これから、どんな絵を描こうか。何色を使おうか。考えるだけで、ワクワクする。
Scene 3:水瀬楓の檻
生徒会室には、膨大な書類が積まれていた。文化祭の企画書、予算案、各部活動の調整資料、生徒会新聞の原稿、クラス対抗イベントの企画書。楓は、その全てに目を通して、チェックをつけていく。一つ一つ、丁寧に。ミスがないように。
生徒会副会長として、楓はいつも完璧にこなしてきた。期限は必ず守るし、ミスもしない。誰からも頼られる存在。でも、それが当たり前になっていた。完璧であることが、当たり前。完璧じゃない自分は、許されない。
パソコンの画面には、スケジュール表が表示されている。
【5月23日(木)】
6:00 起床
6:30 朝食・勉強
7:30 登校
8:30 授業開始
12:30 昼食
13:00 授業再開
15:30 生徒会
18:00 塾
21:00 帰宅・夕食
21:30 宿題
23:00 勉強
24:00 就寝
びっしり埋まったスケジュール。余白がない。余白がない。毎日、同じことの繰り返し。朝起きて、勉強して、学校に行って、生徒会の仕事をして、塾に行って、家に帰って、勉強して、寝る。休む時間も、遊ぶ時間も、ない。
楓は、そんな生活を何年も続けてきた。親に言われた通り、先生に言われた通り、周りの期待通りに生きてきた。気づいたら、自分が何をしたいのか、わからなくなっていた。
楓は、明日のスケジュールも確認した。
【5月24日(金)】
6:00 起床
6:30 朝食・勉強
7:30 登校
8:30 授業開始
12:30 昼食(生徒会打ち合わせ)
13:00 授業再開
15:30 生徒会(文化祭企画最終確認)
18:00 塾
21:00 帰宅・夕食
21:30 宿題
23:00 勉強(英語の小テスト対策)
24:00 就寝
明日も、明後日も、来週も、来月も。全部、同じスケジュール。変わらない毎日。楓は、いつからこんな生活を送っているんだろう。中学の時から? それとも、もっと前から?
そこへ、生徒会長の先輩が入ってきた。三年生の男子で、いつも明るくて、頼りになる先輩だ。背が高くて、笑顔が爽やかで、誰からも慕われている。
「水瀬、いつもありがとうな」
「いえ、これくらい」
「お前がいないと、この生徒会は回らないよ。本当に助かってる。会長の俺より、お前の方が仕事してるんじゃないか?」
先輩は笑いながら言った。でも、楓は笑えなかった。
「そんなことないです」
「いやいや、マジで。お前、完璧すぎるんだよ。ミスしないし、期限も守るし、みんなからの信頼も厚いし。俺、お前に頭が上がらないわ」
先輩は、机の上の書類を見た。
「これ、全部チェックしたの? すごいな。俺だったら、絶対無理だわ」
「いえ、当たり前のことをしているだけです」
「当たり前じゃないって。お前、本当にすごいよ。大学行っても、そういうのやったら? 絶対、向いてるって」
楓は笑顔で答えたけれど、その笑顔は作られたものだった。本心ではない。ただ、期待に応えているだけ。完璧な水瀬楓を演じているだけ。
先輩が去った後、楓は一人になった。机の上に、十年前の手紙を置く。タイムカプセルを開けた日から、ずっと鞄に入れていた。読み返すたびに、胸が苦しくなる。
10年後のわたしへ
わたしのゆめは、ピアニストです。
ピアノをひいて、みんなをしあわせにしたいです。
コンサートをひらいて、たくさんのひとにきいてもらいたいです。
——みなせかえで(7さい)
楓は手紙を握りしめた。ピアノ……何年触ってない? 中学の時、コンクールで入賞できなかった。練習を何ヶ月も重ねて、毎日何時間も弾いて、それでも入賞できなかった。
親に「もっと勉強に集中しなさい」と言われた。「ピアノは趣味でやる分にはいいけど、プロになるのは無理よ。ちゃんと勉強して、いい大学に入りなさい」って。それから、ピアノ室に行ってない。
楓は立ち上がって、生徒会室を出た。廊下を歩いて、音楽室へ向かう。放課後の校舎は静かで、自分の足音だけが響いている。階段を上って、三階へ。音楽室は、一番奥にある。
音楽室の扉を開けると、誰もいなかった。楓は部屋の中に入って、扉を閉める。静寂。完全な静寂。隅に、グランドピアノが置かれていた。黒く輝くピアノ。何年も前に、楓が弾いていたのと同じピアノ。
楓は恐る恐るピアノの前に座った。椅子の高さを調整して、姿勢を正す。背筋を伸ばして、肩の力を抜いて。中学の頃、先生に何度も言われた姿勢。
鍵盤に手を置く。冷たい。ずっと触れていなかった鍵盤は、冷たくて、よそよそしい。まるで、楓を拒絶しているみたいに。
ゆっくりと、一つの鍵を押す。『ド』の音が響いた。澄んだ音色が、静かな音楽室に広がる。懐かしい音。何年も聴いていなかった音。
次に『レ』、そして『ミ』。簡単な音階を弾く。ドレミファソラシド。上がって、下がって。
でも、指が思うように動かなかった。昔は、もっとスムーズに弾けていたのに。今は、指が硬くて、鍵盤を押すのにも力がいる。関節が痛い。筋肉が固まっている。
楓は、昔よく弾いていた曲を弾こうとした。ショパンの『ノクターン』。コンクールで弾いた曲。でも、途中で止まってしまった。指が動かない。楽譜も覚えていない。あんなに練習したのに、もう弾けない。
楓は、もう一度最初から弾こうとした。でも、やっぱり途中で止まってしまう。何度やっても、同じところで止まる。指が、言うことを聞かない。
楓は鍵盤から手を離した。
もう、弾けないんだ……
涙が溢れてきた。止めようとしても、止まらない。楓は顔を両手で覆った。音楽室には、楓の嗚咽だけが響いている。
私は……何がしたかったんだろう。
ピアノを弾きたかった。人前で演奏して、拍手をもらいたかった。みんなを幸せにしたかった。でも、それを諦めて、親の言う通りに生きてきた。勉強して、いい成績を取って、生徒会に入って、塾に通って。
完璧な水瀬楓を演じて、周りの期待に応えて。でも、本当の自分は、どこに行ったんだろう。ピアノを弾くのが好きだった自分は、どこに行ったんだろう。
楓は、涙を拭いて、もう一度ピアノの鍵盤を見た。黒と白の鍵盤。この鍵盤を、毎日何時間も弾いていた。朝も、夜も、休みの日も。ピアノが好きで、弾くのが楽しくて、止められなかった。
でも、今は弾けない。指も動かないし、楽譜も覚えていない。何年も離れていたら、もう戻れない。
スマホに、複数の通知が届いた。
《生徒会:明日の会議資料まだ?》
《塾:今日の宿題提出忘れずに》
《親:帰りに牛乳買ってきて》
《親:明日のテスト、ちゃんと勉強した?》
楓は画面を見つめた。私、誰のために生きてるんだろう……
親のため? 先生のため? 周りのため? 完璧な自分を演じるため? でも、本当の自分は? 本当にやりたいことは?
楓は、もう一度ピアノの鍵盤に手を置いた。そして、ゆっくりと『ド』の音を鳴らした。
Scene 4:早川隼人の限界
サッカーグラウンドには、隼人一人だけがいた。放課後の練習はもう終わっていて、他の部員たちは帰ってしまっている。でも、隼人は一人で残って、ボールを蹴り続けていた。誰もいないグラウンドで、黙々と。
シュート練習。ゴールを狙って、ボールを蹴る。助走をつけて、右足で蹴る。ボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールの隅に吸い込まれた。ネットが揺れる。いい音がする。
もう一本。ボールを置いて、助走をつけて、蹴る。今度は、ゴールバーに当たって跳ね返った。惜しい。もう少し下を狙えば、入っていた。
隼人は、もう一度ボールを拾いに行った。ゴールの中に転がっているボールを拾って、また元の位置に置く。そして、助走をつけて、蹴る。
しかし、蹴った瞬間、膝に激痛が走った。
隼人は地面に倒れ込んだ。膝を抱えて、歯を食いしばる。くそ……痛い。激痛が、膝から全身に広がる。呼吸が荒くなる。汗が噴き出す。
半年前の試合で負った怪我だった。インターハイ予選の決勝戦。相手選手とぶつかって、膝の靭帯を痛めた。ボールを追いかけていて、相手のスライディングと接触して、そのまま倒れた。立ち上がろうとしたけど、膝が動かなかった。激痛で、立てなかった。
あの試合は、人生で一番大事な試合だった。勝てば、インターハイ出場。負ければ、終わり。隼人は、チームの副キャプテンとして、先輩たちを支えなきゃいけなかった。でも、怪我をして、交代させられた。チームは、そのまま負けた。隼人のせいで。
病院で診てもらったら、「前十字靭帯損傷」と診断された。手術が必要だと言われた。そして、手術をして、リハビリを続けている。週に三回、病院に通って、理学療法士の指導のもとでリハビリをしている。
医者からは「無理すると選手生命に関わる」と言われている。「もう、前みたいには走れない。激しい運動は避けるべきだ」って。でも、隼人はボールを蹴り続ける。なぜなら、サッカーしかないから。
サッカーを始めたのは、小学一年生の時だった。父に連れられて、地域のサッカークラブに入った。最初は、ただ走り回っているだけだった。ボールを追いかけて、蹴って、転んで。でも、楽しかった。
中学では、サッカー部のキャプテンになった。チームをまとめて、試合に勝って、県大会まで進んだ。高校でも、サッカー部に入って、二年生でキャプテンになった。チームメイトからも、先生からも、期待されていた。「早川なら、プロになれる」って。
でも、怪我をした。そして、全てが変わった。
隼人は立ち上がった。膝の痛みを堪えながら、もう一度ボールを蹴る。しかし、また膝が痛む。激痛が走って、足が震える。ボールは、明後日の方向に飛んでいった。
もう……無理なのか。
隼人は、ベンチに座り込んだ。膝を抱えて、うつむく。グラウンドの芝生が、視界に入る。緑の芝生。何度も走り回った芝生。何度もボールを蹴った芝生。
隼人は、鞄から水筒を取り出して、水を飲んだ。喉が渇いている。汗が止まらない。膝の痛みも、まだ続いている。
隼人は空を見上げた。夕焼けが、空を赤く染めている。綺麗な夕焼け。でも、今の隼人には、綺麗すぎて腹が立つ。こんなに綺麗な夕焼けを見ている場合じゃない。練習しなきゃいけない。強くならなきゃいけない。プロになるために。
でも、体が動かない。膝が痛い。もう、前みたいには走れない。
隼人は十年前の手紙を思い出した。タイムカプセルを開けた日から、ずっと頭の中にある。七歳の自分が書いた、純粋な夢。
10年後のぼくへ
ぼくのゆめは、プロサッカーせんしゅになることです。
Jリーグでかつやくして、にほんだいひょうにもなりたいです。
ワールドカップにでて、ゴールをきめたいです。
——はやかわはやと(7さい)
プロ、か……
現実は厳しい。怪我、ライバルの存在、才能の限界。このまま続けても、プロになれる保証はない。むしろ、怪我が悪化して、サッカー自体ができなくなるかもしれない。
チームメイトの中には、もっと上手い選手がいる。怪我もしていない選手がいる。それに、他校にはユースチームに入っている選手もいる。そういう選手たちが、プロになっていくんだろう。隼人じゃない、誰かが。
でも、サッカーをやめたら、自分には何が残る?
サッカー以外に、何かやったことがあるか? 勉強? 全然ダメだ。成績は、クラスで下から数えた方が早い。部活ばっかりやってきたから、勉強する時間がなかった。趣味? ない。サッカー以外に、やりたいことがない。
隼人は、もう一度立ち上がろうとした。でも、膝が痛くて、立てない。また座り込む。
隼人は、グラウンドを見回した。このグラウンドで、何試合やっただろう。何点ゴールを決めただろう。何回、仲間と喜びを分かち合っただろう。
でも、もう終わりなのか。このまま、サッカーをやめなきゃいけないのか。
隼人は、膝を抱えたまま、芝生の上に座り込んだ。夕焼けが、さらに沈んでいく。グラウンドが、だんだん暗くなっていく。街灯が、ぽつぽつと灯り始める。
七歳の俺、ごめん。約束、守れそうにない。
隼人は、涙が出そうになるのをこらえた。泣いたら、負けだ。泣いたら、全部終わりだ。でも、涙は止まらなかった。ぽろぽろと、涙が頬を伝う。止めようとしても、止まらない。
隼人は、顔を手で覆った。誰にも見られたくない。こんな弱い自分を、誰にも見せたくない。でも、誰もいない。グラウンドには、隼人一人だけだった。
Scene 5:約束を書く日
週末の土曜日。約束通り、陽向たち四人は小学校の図書室に集まっていた。
宮本先生の他に、もう一人、若い女性が待っていた。二十代後半くらいだろうか。明るい雰囲気の女性だった。
「紹介するよ。白鳥さん、この学校の図書館司書だ。今回のプロジェクトを手伝ってくれる」
宮本先生が手で示すと、女性が明るく笑った。
「初めまして。白鳥真琴です。みんなの『約束』を形にするお手伝いをさせてもらいます」
白鳥さんの笑顔は、図書室全体を明るくするようだった。
しばらくして、楓と隼人も到着した。四人が揃って席につくと、宮本先生が腕を組んで四人を見回した。
「先週、『約束を書く』って話をしたけど、何を書くか考えてきたか?」
四人は顔を見合わせた。考えてきたけれど、まだはっきりしない。陽向も、ぼんやりと「絵本を描き続ける」とは思っていたけれど、それ以上具体的には考えられなかった。
「悩んでるみたいだな」
宮本先生は優しく微笑んで、図書室のホワイトボードに向かった。マーカーを手に取って、書き始める。
「じゃあ、もう少し具体的に考えよう。『ピアノを弾き続ける』だけじゃ、曖昧すぎる。『どんな風に』『どれくらい』『誰のために』弾くのか。それを決めるんだ」
宮本先生の書いた文字が、ホワイトボードに浮かび上がる。
【具体的な約束の作り方】
頻度を決める(毎日?週に一回?月に一回?)
場所を決める(どこで?)
相手を決める(誰のために?自分のため?)
形を決める(どんな形で?)
例:
「ピアノを弾き続ける」
↓
「月に一回、誰かの前でピアノを弾く」
楓が思わず身を乗り出した。
「月に一回……誰かの前で……」
楓の声が、少し震えている。
白鳥さんがノートパソコンを開きながら補足した。
「そう。『弾き続ける』だけだと、誰にも見せずに家で一人で弾くだけでもOKになっちゃう。でも、『誰かの前で』って決めると、ちゃんと人前で演奏することになる。それが、約束を守るってこと」
宮本先生が楓の方を向く。
「例えば、楓。君は『ピアノを弾き続ける』って約束するとして、それをどう実現する? 月に一回? 週に一回? 毎日?」
楓は少し考えてから、口を開いた。
「月に一回……は、できそうです。でも、誰の前で弾くんですか?」
「それは自分で決めればいい。友達でもいいし、家族でもいいし、学校の音楽室で後輩に聴かせてもいい。大事なのは、『人前で弾く』ってこと。それが、約束を続ける理由になる」
隼人が手を挙げた。
「じゃあ、俺の場合は? サッカーを続けるって約束したいけど、怪我してるし……」
隼人の声には、不安が滲んでいた。
宮本先生は隼人の方を向いて、静かに頷いた。
「君の場合は、『選手として』に限定しなくていい。『サッカーに関わり続ける』だ。週に何回ボールを蹴る? 月に何回試合を見る? 年に何回、後輩に教える? そういう具体的な行動を決めるんだ」
隼人が真剣な表情で考え込む。しばらく沈黙が続いた後、隼人が顔を上げた。
「週に三回……ボールを蹴る。怪我が治ったら、もっと増やすけど、最低でも週に三回」
「いいじゃないか」
宮本先生の目が優しく細まる。
「それなら、自分でコントロールできる。プロになれなくても、週に三回ボールを蹴ることはできる」
蒼が腕を組んだまま口を開いた。
「俺は……絵を描き続けるって約束したいです。でも、毎日は無理かもしれない」
「毎日じゃなくていい。週に一枚? 月に一枚? 年に十二枚? 自分が続けられる頻度を決めればいい」
蒼は少し考えてから、静かに答えた。
「週に一枚……描きます。小さくてもいいから、必ず一枚」
「いいな」
宮本先生が力強く頷く。
「それなら、一年で五十二枚描ける。十年で五百二十枚だ。その中に、傑作が一枚でもあれば、それでいい」
陽向も考え始めた。私は……絵本を描き続ける。でも、どれくらい? 月に一冊は無理だ。一年に一冊? それなら、できるかもしれない。
「先生、私は……」
陽向が小さく息を吸って、言葉を続ける。
「一年に一冊、絵本を完成させたいです」
宮本先生の顔がほころんだ。
「いいじゃないか。出版されなくてもいい。自分で描いて、完成させる。それが約束だ。十年で十冊。誰が認めなくても、十冊の絵本を描いた自分を誇れる」
白鳥さんがノートパソコンの画面を四人に見せた。
「それでね、このプロジェクトをもっと広げたいと思ってるの」
「広げる?」
陽向が首を傾げる。
「特設サイトを作って、全国の高校生が参加できるようにする。みんなで未来の自分と約束する場所。SNSでシェアして、同じように悩んでいる仲間と繋がれる場所」
楓が目を見開いた。
「それって……すごいことになりそうですね」
「そう。一人じゃない。同じように悩んで、同じように行動を約束した仲間がいる。それが、このプロジェクトの意味なの」
白鳥さんが画面を操作すると、シンプルなウェブサイトのデザインが表示された。
『放課後タイムカプセル』
結果じゃなく、行動を。
夢じゃなく、約束を。
未来の自分と、今、約束しよう。
陽向は画面を見つめた。これなら、私にもできるかもしれない。絵本作家にはなれなくても、絵本を描き続けることはできる。
「サイトには、約束を投稿できる機能をつける。そうすると、設定した日付に、その約束が自動的にメールで届く仕組み」
白鳥さんの指が、画面上の機能を指し示す。
「未来の自分に、メールが届くってこと?」
楓が身を乗り出す。
「そう。一年後、五年後、十年後。自分で設定した日に、『あなたが約束したこと、覚えてる?』ってメールが届く」
隼人が思わず声を上げた。
「それって……忘れられないですね」
「そうなの」
白鳥さんが微笑む。
「だから、本気で続けられる約束を書かなきゃいけない。自分でコントロールできて、続けられること」
宮本先生が四人を見回した。その目には、温かい光が宿っている。
「今日は、それぞれの『約束』を紙に書いてもらう。そして、タイムカプセルに入れる。十年後、二十七歳の君たちがこれを開けたとき、『ああ、約束を守れた』って思えるように」
白鳥さんが鞄から便箋を取り出して配った。シンプルな白い便箋。十年前に使ったピンク色や青色の便箋とは違って、大人っぽい便箋だった。
「じゃあ、書いてみよう。十年後の自分への約束」
四人は、それぞれペンを手に取った。
陽向は、便箋を見つめた。何を書こう。どんな約束をしよう。
しばらく考えてから、陽向はペンを走らせた。
十年後の私へ
今、私は十七歳です。高校二年生。進路に悩んでいます。
十年前、七歳の私は「絵本作家になりたい」って書きました。でも、今の私は、その夢を諦めています。才能もないし、お金もないし、現実を見なきゃいけないから。
でも、完全に諦めたわけじゃありません。だから、約束します。
私は、これから十年間、毎年一冊、絵本を完成させます。
出版されなくてもいい。誰に認められなくてもいい。自分で描いて、自分で完成させる。それが、私の約束です。
十年後、あなたは十冊の絵本を描いているはずです。その中に、傑作が一冊でもあれば、それでいい。一冊もなくても、それでもいい。大事なのは、描き続けたってこと。
絵本作家にはなれなかったかもしれない。でも、絵本を描く人ではいられた。それが、私の答えです。
十年後の私へ。約束、守れましたか?
——橘陽向(17歳)
陽向は手紙を書き終えて、ゆっくりと息を吐いた。これでいい。これが、私の約束。
周りを見ると、蒼も楓も隼人も、それぞれの手紙を書いていた。真剣な表情で、ペンを走らせている。蒼は時々立ち止まって考え込み、楓は丁寧な字で一文字ずつ書き、隼人は力強い筆圧で紙に想いを刻んでいる。
しばらくして、四人とも書き終えた。
宮本先生が金属製の箱を持ってきた。新しい箱。十年前と同じような箱だけれど、錆びていない、ピカピカの箱。
「この中に、君たちの約束を入れる。そして、十年後、また開ける」
宮本先生の声が、静かに響く。
四人は、それぞれの手紙を箱の中に入れた。陽向の手紙、蒼の手紙、楓の手紙、隼人の手紙。四人の約束が、箱の中に収められた。
宮本先生が蓋を閉めた。金属音が響く。そして、先生は油性マジックで箱の表面に文字を書いた。
『2025年5月30日 放課後タイムカプセル 10年後の自分たちへ』
白鳥さんが優しく微笑んだ。
「この箱は、学校の図書室に保管します。そして、サイトにも同じ約束を投稿して、十年後にメールで届くようにする」
「両方?」
陽向が驚いて尋ねる。
「そう。箱は『形あるもの』として。メールは『忘れないため』に。二重の約束」
陽向は箱を見つめた。この中に、私の約束が入っている。十年後の私への、約束が。
宮本先生が四人を見回した。その目には、誇らしげな光が宿っている。
「十年前、君たちは『夢』を埋めた。でも、今日、君たちは『約束』を埋めた。結果じゃなく、行動を。才能じゃなく、継続を。それが、君たちの答えだ」
白鳥さんが画面を閉じながら言葉を続けた。
「このプロジェクトは、ここから始まる。四人から始まって、学校中に広がって、全国に広がる。同じように悩んでいる高校生が、みんなで約束を書く。それが、『放課後タイムカプセル』」
陽向の胸の中で、小さな希望が灯り始めていた。
絵本作家にはなれないかもしれない。でも、絵本を描き続けることはできる。それが、私の答え。
四人は、それぞれの顔を見合わせた。みんな、同じ表情をしていた。不安と、希望が、混ざったような表情。
でも、その目には、確かに光があった。
【第2章 完】



