Scene 1:何もない放課後
五月の放課後、教室の窓から見える青空は、どこまでも澄んでいた。私、橘陽向は一人残された教室で、そんな空をぼんやりと眺めていた。窓を開けると、グラウンドから聞こえてくる部活動の声が風に乗って届いてくる。サッカー部の掛け声、吹奏楽部の音、テニス部のボールを打つ音。みんな、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。
チャイムが鳴り終わって、もう十五分は経っただろうか。クラスメイトたちはほとんど帰ってしまっている。さっきまで賑やかだった教室は、今では静まり返っていて、私の呼吸音さえ聞こえそうなほどだった。
机の上には、開きっぱなしの数学の教科書と、半分だけ解いた問題集。今日の授業でやった二次関数の問題だけど、集中できなくて途中で手が止まってしまった。別に難しいわけじゃない。ただ、やる気が起きないだけ。
サッカー部の男子たちが「先輩、今日も来てくださいよ!」なんて騒ぎながらグラウンドへ向かっていくのが見えた。一年生の後輩たちが、先輩の背中を追いかけている。キラキラした目で、憧れの眼差しで。ああいう時期、私にもあったはずなのに、いつの間にか通り過ぎてしまった。
吹奏楽部の女子たちは楽譜を抱えて音楽室へ、生徒会のメンバーは会議室へと、それぞれの居場所へ散っていった。放課後のバイトに急ぐ子もいれば、恋人と待ち合わせている子もいる。廊下を歩く足音が遠ざかっていくたびに、教室の静けさが増していく。
みんな、何かに向かって走っている。自分の時間を、ちゃんと使っている。目的があって、目標があって、やりたいことがある。でも私には、それがない。
鞄を抱えたまま、私はもう一度窓の外を見た。校庭では一年生が部活動の見学をしている。吹奏楽部の演奏を聴いている子、サッカー部の練習を見ている子、美術部の作品を見ている子。みんな、自分の居場所を探している。入学したばかりの一年生たちは、まだ何でもできる。まだ、可能性に溢れている。
私も、あんな時期があったはずだ。高校に入学したばかりの頃は、何かを始めようって思っていた。部活に入ろうか、バイトを始めようか、新しい趣味を見つけようか。でも、結局何も始められなくて、気づいたらもう二年生になっていた。
スマホを取り出すと、ホーム画面に通知が一件。進路希望調査のリマインダーだった。提出期限は明後日。でも、画面を開いても、第一志望の欄も第二志望の欄も、全部空白のままだった。何を書けばいいのか、わからない。いや、書けることがない。
昨日、友達の真由に聞かれたことを思い出す。放課後、いつものようにおしゃべりしていたときのことだ。
「陽向ってさ、将来何になりたいの?」
何気ない質問だった。真由は、他の友達にも同じことを聞いていた。でも、みんなちゃんと答えていた。「保育士になりたい」「看護師になりたい」「公務員になりたい」って。真由は保育士になりたいって、迷いもなく言っていた。「子供が好きだから」って、はっきりと。
でも私は、答えられなかった。何も思い浮かばなくて、ただ笑ってごまかした。「まだ決めてない」って。真由は「そっか」って笑ってくれたけど、その後の沈黙が、妙に重かった気がする。
私、何がしたいんだろう。
やりたいことが見つからない。夢もない。目標もない。ただ、毎日を過ごしているだけ。朝起きて、学校に行って、授業を受けて、家に帰って、寝る。その繰り返し。何のために生きてるのか、わからなくなるときがある。
ため息をついて、鞄を掴んで立ち上がる。誰もいない教室には、私の足音だけが響いた。椅子を机の下に入れて、黒板を見る。明日の時間割が書かれていた。数学、国語、英語、体育。変わり映えしない、いつもの一日。
廊下に出ると、向こうから真由が走ってくるのが見えた。いつものポニーテールが揺れている。
「陽向! ちょうどよかった」
真由は息を切らしながら、笑顔で手を振った。
「どうしたの?」
「帰り、一緒に寄ってかない? 駅前に新しいカフェできたんだよ。インスタ映えしそうなやつ」
真由は、いつも通り明るい。スマホの画面を見せてくれる。そこには、おしゃれなカフェの写真が映っていた。パンケーキとか、フルーツたっぷりのパフェとか、カラフルなドリンクとか。確かに、インスタ映えしそうだ。
私も、いつも通り笑顔を作る。
「ごめん、今日はいいや」
「そっか……」
真由は少し残念そうに眉を下げたけれど、すぐに笑顔を取り戻した。
「最近、元気ないよね。何かあった? 大丈夫?」
真由の目が、心配そうに私を見つめる。
「うん、大丈夫」
また、笑顔を作る。当たり障りのない、いつもの笑顔。真由を心配させたくない。別に、何か深刻なことがあるわけじゃない。ただ、何となく元気が出ないだけ。でも、それを説明するのも面倒くさい。
真由は「そっか」と頷いて、手を振りながら階段を降りていった。「また明日ね」って言いながら。その背中が見えなくなってから、私は小さく息を吐いた。
大丈夫じゃないけどね……
本当は、大丈夫じゃない。でも、それを誰かに言ったところで、何が変わるわけでもない。「元気出しなよ」とか「何かあったら相談してね」とか言われても、結局何も解決しない。だから、笑顔でやり過ごす。それが私のやり方だった。
昇降口で上履きを下履きに履き替えて、校門を出る。いつもの帰り道。何年も歩いている、見慣れた景色。でも今日は、何だかいつもより長く感じた。
Scene 2:工事現場での発見
下校途中の道は、何年も変わらない景色だった。駅まで続く商店街、おじさんがいつも元気に声を出している八百屋、シャッターが閉まったままの古本屋、いつも猫が寝ている空き地。角を曲がれば見える小さな公園には、保育園帰りの子供たちが遊んでいる。
私はイヤホンをつけて、適当にシャッフルされた音楽を聴きながら歩いていた。最近よく聴いているバンドの曲が流れてくる。歌詞の内容はよく覚えていないけれど、メロディが心地いい。音楽を聴いていると、少しだけ現実から離れられる気がする。
そして、いつものように小学校の前を通りかかったとき、私は足を止めた。
校門の前に、見慣れない看板が立っていた。オレンジ色の、工事現場でよく見るあの看板。
『校庭整備工事のため立入禁止 ご迷惑をおかけしますが、ご協力お願いします』
工事? そういえば、ニュースで見たような気がする。市の予算で、古い小学校の校庭を整備するとかなんとか。校庭の水はけが悪いから、全面的に土を入れ替えるとか言っていた気がする。
私はイヤホンを外して、柵の隙間から校庭を覗き込んだ。
ここは、私が六年間通った小学校だった。卒業してから、もう五年近く経つ。当時はこんなに古く見えなかったのに、今見ると、校舎も体育館も、随分と色褪せている。外壁の塗装は剥げかけていて、窓ガラスも少し曇っている。時計台の時計は、止まったままだった。
校庭の隅では、作業員が数人、何かを掘り起こしていた。黄色いヘルメットを被って、スコップを持って。重機が土を掘り返す音が、静かな放課後の空気に響いている。エンジン音と、土が掘り返される音と、作業員たちの声。私は何となく、その様子を見ていた。
すると、作業員の一人が驚いた声を上げた。
「おい、何か出てきたぞ!」
他の作業員たちが集まってくる。重機が止まり、エンジン音が消える。そして、手作業で何かを掘り出している。土まみれの手で、慎重に、ゆっくりと。しばらくして、地面から引き上げられたのは、錆びた金属製の箱だった。
私は息を呑んだ。
タイムカプセル……?
作業員が箱の表面を拭った。軍手で、丁寧に土を落としていく。すると、油性マジックで書かれた文字が浮かび上がった。インクは少し滲んでいるけれど、ちゃんと読める。
『2015年5月10日 1年A組 10年後の自分たちへ』
2015年。私が小学一年生だった年だ。心臓が、急に早く鳴り始めた。ドクドクという音が、自分の耳にも聞こえるほど大きく。
あの頃のことは、もう曖昧にしか覚えていない。ランドセルを背負って学校に通っていたこと、給食が楽しみだったこと、友達と遊んだこと。でも、確かにタイムカプセルを埋めたような記憶がある。先生に言われて、便箋に手紙を書いて、みんなで校庭に埋めた。
気づいたら、私は柵を乗り越えて校庭に入っていた。立入禁止の看板があるのはわかっていたけど、体が勝手に動いていた。足が、あの箱に向かって歩き出していた。
「すみません!」
作業員たちが振り向く。一番年配の、五十代くらいの男性が、私を見て目を細めた。
「君、関係者か?」
男性の声は、優しかった。
「はい! 私、ここの卒業生で……十年前に埋めたタイムカプセルだと思います」
私は息を切らしながら答えた。走ってきたわけでもないのに、呼吸が荒い。緊張しているのか、興奮しているのか、自分でもよくわからない。
作業員たちは顔を見合わせた。
「そうなのか。じゃあ、学校に連絡しないとな。勝手に開けるわけにもいかないし」
「はい、お願いします」
私は箱を見つめた。錆びて、泥だらけだけど、確かに見覚えがある。あの日、みんなで埋めた箱。先生が「十年後、みんなで開けようね」って言っていた箱。十年前の私が、未来の自分に向けて何かを遺した箱。
十年前の私……
私は、その箱から目が離せなかった。箱の表面には、他にも文字が書かれている。クラスメイトの名前が、一人一人、マジックで書かれている。橘陽向、神崎蒼、水瀬楓、早川隼人……懐かしい名前が並んでいる。
作業員が携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけている。
「はい、工事現場です」
「タイムカプセルが出てきまして」
「2015年のものです」
そんな声が聞こえてくる。
私は、箱の前にしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばして、表面に触れる。冷たくて、ざらざらしている。錆びた金属の感触。でも、確かにこれは、私たちが埋めたものだ。
十年。長いようで、短かったような。あの頃は、十年後なんて想像もできなかった。大人になったら、何でもできると思っていた。夢も、希望も、全部叶うと思っていた。
でも、現実は違った。
Scene 3:開封の日
翌日の放課後、私は電車に乗って小学校へ向かっていた。
昨日、作業員から連絡を受けた学校が、当時の担任だった宮本先生に連絡を取り、宮本先生が当時のクラスメイト全員に連絡をしたらしい。私にも、夕方にメールが届いていた。
『橘さん、お久しぶりです。宮本です。昨日、校庭からタイムカプセルが見つかったそうですね。明日の放課後、母校で開封式を行います。当時のクラスメイトにも声をかけています。都合がつけば、ぜひ来てください。十年前に埋めたタイムカプセル、みんなで開けましょう』
私は、迷わず参加すると返信した。というより、参加しないなんて選択肢はなかった。十年前の自分が何を書いたのか、知りたかった。それに、久しぶりにクラスメイトたちに会えるのも楽しみだった。
電車の窓から見える景色は、懐かしかった。駅から小学校までの十分間、私は何度この道を歩いただろう。ランドセルを背負って、友達とおしゃべりしながら。雨の日も、雪の日も、毎日この道を通った。
角を曲がると、小学校の校舎が見えた。昨日、工事現場から柵越しに眺めただけだったけれど、今日はこうして正門に向かって歩いている。卒業式以来、五年ぶりに中に入る母校。記憶の中よりも小さく感じられるのだろうか。校門が近づくにつれて、胸の鼓動が早くなっていく。
校門をくぐると、懐かしい匂いがした。給食の匂いなのか、古い木の匂いなのか、体育館の匂いなのか、よくわからないけれど、確かに「小学校の匂い」だった。ああ、ここだ。私が六年間通った場所。毎日走り回った校庭、友達と遊んだ遊具、みんなで給食を食べた教室。全部、ここにある。
校庭を横切って、体育館に向かう。工事現場は、今日は作業が休みらしく、重機も止まっている。昨日タイムカプセルが出てきた場所には、青いシートが被せられていた。
体育館の扉を開けると、既に何人かが集まっていた。見覚えのある顔、見覚えのない顔。この五年で、みんな随分と変わっている。背が伸びた子、髪型が変わった子、雰囲気がガラッと変わった子。でも、よく見ると、面影が残っている。ああ、あの子だって、わかる。
「陽向!」
声をかけてきたのは、神崎蒼だった。私の幼馴染で、今も同じ高校に通っている。蒼は相変わらず無口で、いつも少し距離を置いているような雰囲気だけど、私のことはよく見てくれている。困ったときは、いつも助けてくれる。
「蒼も来たんだ」
「当たり前だろ。宮本先生から連絡来たし」
蒼は短く答えて、体育館の中を見回した。美術部に入っているだけあって、観察眼が鋭い。一人一人の顔を、じっくりと見ている。
「久しぶりに会う子、多いね」
「ああ。あいつは……田代か? すげえ背が伸びてる」
蒼が指差す方を見ると、確かに田代がいた。小学生の頃は小柄だったのに、今では180センチ近くありそうだ。バスケ部に入ったのかもしれない。隣にいる鈴木は、逆にあまり変わっていない。相変わらず小柄で、でも笑顔は変わらない。
「あの子は……あ、楓ちゃん!」
私は、一人の女子に気づいた。水瀬楓。今は別の高校に通っているけれど、SNSで繋がっている。たまに、インスタで近況を見る。いつも、成績優秀とか、生徒会副会長とか、そういう投稿をしている。
楓は相変わらず、清楚で完璧な雰囲気を纏っていた。長い黒髪を一つに結んで、きちんとした服装で立っている。姿勢もいいし、表情も穏やか。まるで、雑誌のモデルみたいだ。
「橘さん、久しぶり。神崎くんも」
楓が近づいてきて、柔らかく微笑んだ。
「楓ちゃん、元気だった?」
「ええ、まあ」
楓は微笑んだけれど、その笑顔はどこか疲れているように見えた。目の下に、かすかに隈がある。完璧に見える楓も、何か抱えているのかもしれない。
他にも、次々とクラスメイトが集まってくる。知っている顔、知らない顔。中学は別々だった子、高校も別になった子。この五年の間に、みんなそれぞれの道を歩んできたんだろう。
早川隼人も来ていた。小学生の頃からサッカーが得意で、いつもグラウンドを走り回っていた隼人。中学は別だったけれど、今も隣の高校でサッカー部のキャプテンをやっているらしい。SNSで、試合の写真を投稿しているのを見たことがある。会うのは卒業式以来だ。でも、今日の隼人は、いつもより元気がないように見えた。
「隼人くん、久しぶり」
私が声をかけると、隼人は少し驚いた顔をしてから笑顔を作った。
「お、陽向。久しぶり。元気だった?」
「うん。隼人くんは?」
「まあ、なんとかな」
隼人は明るく笑ったけれど、その目は笑っていなかった。何か、心配事でもあるのだろうか。
佐藤も来ていた。小学生の頃は、いつも保健室にいた佐藤。体が弱くて、よく休んでいた。でも、今は元気そうに見える。背も伸びて、顔色もいい。
「佐藤、元気そうだね」
私が声をかけると、佐藤は嬉しそうに笑った。
「うん、最近は体調もいいの。橘、変わってないね」
「そうかな」
高橋も来ていた。小学生の頃は、お菓子作りが得意だった高橋。家庭科の授業で、いつも美味しいクッキーを作っていた。今も、お菓子作りを続けているのだろうか。
最終的に、二十七人全員が揃った。小学校時代、同じ教室にいた仲間たち。今はそれぞれ違う学校に通っていて、普段は会うこともないけれど、今日はこうして集まっている。
体育館の隅に、例の錆びた箱が置かれていた。昨日見たときよりも、少しきれいになっている。誰かが洗ってくれたのかもしれない。箱の隣には、小さなテーブルが置かれていて、その上には当時の写真が何枚か並べられていた。入学式の写真、運動会の写真、遠足の写真。みんな、幼い。
宮本先生が前に立った。先生も、小学校の頃よりも少し老けたように見える。髪に白いものが混じっていて、顔にも皺が増えている。でも、優しそうな笑顔は変わっていなかった。
「みんな、久しぶりだな。よく来てくれた」
先生の声は、温かかった。
「先生も変わってないですね」
誰かがそう言うと、先生は少し照れくさそうに笑った。
「君たちは随分大人になったな。もう高校生か。ちょっと前まで、ランドセル背負ってたのに」
宮本先生は、一人一人の顔を見回した。そして、箱の前に立った。
「十年前、君たちは『十年後の自分へ』手紙を書いた。覚えてるか?」
何人かが頷いた。何人かは首を傾げた。私は、うっすらと覚えている。小学一年生の時、教室で先生に言われて、便箋に手紙を書いた。『十年後のわたしへ』って。何を書いたかは、もう覚えていない。
「あの時、君たちは純粋だった。夢を語って、希望を語って、未来を信じていた。十年後の自分は、きっと素晴らしい人生を送っているって、疑わなかった」
宮本先生の声は、静かだけれど、体育館全体に響いている。みんな、黙って先生の話を聞いている。
「でも、十年経った。君たちは、現実を知った。才能の限界、環境の制約、周りの期待。いろんなものに直面して、夢を諦めた子もいるだろう。それは、仕方ないことだ」
宮本先生は、優しく微笑んだ。
「今日、これを開ける。十年前の君たちと、再会する日だ」
宮本先生がゆっくりと蓋を開けた。金属音が、静かな体育館に響く。ギギギという、錆びた蝶番の音。中から出てきたのは、色褪せた封筒の束、写真、子供たちの絵だった。一つ一つに、丁寧にラベルが貼られている。
先生が封筒の束を取り出すと、懐かしい匂いがした。古い紙の匂い、カビの匂い、そして子供の頃の思い出の匂い。
「自分の名前の封筒を取ってくれ」
みんなが前に出て、自分の封筒を探し始めた。私も、箱の中を覗き込む。たくさんの封筒が、重なって入っている。一つ一つ、名前を確認していく。田代、佐藤、鈴木、高橋……そして、『橘陽向』と書かれた封筒を見つけたとき、胸がきゅっと締め付けられた。
子供っぽい字。丸っこくて、バランスが悪くて。でも、懐かしい。
周りを見ると、みんなそれぞれの封筒を手に取っている。田代は封筒を見つめて、苦笑いしている。鈴木は封筒を胸に抱きしめている。佐藤は、少し震えている。
Scene 4:十年前の自分からの手紙
私は震える手で封筒を開けた。封をしていたテープは、もうべたべたになっている。慎重に剥がして、中から便箋を取り出す。ピンク色の、花柄の便箋。小学生の頃、お気に入りだった便箋だ。
便箋を広げると、子供っぽい字で書かれた手紙が現れた。インクは少し滲んでいるけれど、ちゃんと読める。
10ねんごのわたしへ
こんにちは! 7さいのひなたです。
げんきにしてますか?
わたしは、いま小学1年生です。
べんきょうはちょっとむずかしいけど、まいにちたのしいです。
ともだちもたくさんできました。
10ねんごのわたしは、なにをしていますか?
こうこうせいですか? それとも、もうおしごとをしていますか?
わたしのゆめは、えほんをかくひとになることです。
だって、えほんをよむと、しらないせかいにいけるから。
まほうのせかいとか、どうぶつがしゃべるせかいとか、そらをとべるせかいとか。
わたしもそんなせかいをつくりたいです。
こどもたちがよろこぶえほんをかきたいです。
10ねんご、ゆめはかなっていますか?
えほんをかくひとになれましたか?
——たちばな ひなた(7さい)
私は、手紙を握りしめた。
絵本作家……
そんな夢、すっかり忘れていた。いや、忘れていたわけじゃない。諦めていたんだ。いつからだろう。中学の時? 高校に入ってから?
小学生の頃は、本当に絵本作家になりたかった。図書室で絵本を読むのが大好きで、家でも絵本ばかり読んでいた。自分でも、ノートに絵を描いて、物語を作っていた。先生に見せたら、「上手だね」って褒めてくれた。母も、「陽向は絵が上手だね」って言ってくれた。
でも、中学に入って、現実を知った。
『絵なんて仕事にならない』
『ちゃんと勉強しなさい』
『現実を見なさい』
親にも、先生にも、そう言われた。友達も、もっと現実的な夢を語るようになった。医者とか、看護師とか、教師とか。
いつの間にか、夢を箱にしまい込んでいた。
私は涙が溢れそうになるのをこらえた。周りを見ると、他のクラスメイトたちも、それぞれの手紙を読んで様々な表情をしている。涙を流している子、苦笑いしている子、呆然としている子。みんな、十年前の自分と再会して、何かを感じているんだろう。
蒼が隣に来た。
「お前の手紙、なんて書いてあった?」
蒼の声は、いつもより少し柔らかかった。
「蒼は?」
蒼が自分の手紙を見せてくれた。
10年後のぼくへ
ぼくは、絵かきになりたい。
ピカソみたいなすごい絵をかきたい。
びじゅつかんに、ぼくのえがかざられるようになりたい。
——かんざきあおい(7さい)
「蒼、今も美術部だもんね」
「ああ。でも……」
蒼は言葉を切って、遠くを見つめた。
「絵で食っていけるとは思ってない。親も反対してる。『趣味でやる分にはいいけど、仕事にするのは無理だ』って」
蒼は、そう言って視線を逸らした。いつもの無表情だけど、その目には、諦めのようなものが浮かんでいる。
私は、他のクラスメイトの方を見た。楓は手紙を読みながら、顔を曇らせている。サッカー部のキャプテンだった早川隼人も、手紙を握りしめて、歯を食いしばっている。
私は隼人に近づいた。
「隼人くん」
私が声をかけると、隼人は顔を上げた。
「お、陽向」
「手紙、なんて書いてあったの?」
隼人は少し躊躇してから、手紙を見せてくれた。
10年後のぼくへ
ぼくのゆめは、プロサッカーせんしゅになることです。
Jリーグでかつやくして、にほんだいひょうにもなりたいです。
ワールドカップにでて、ゴールをきめたいです。
——はやかわはやと(7さい)
「今もサッカーやってるんでしょ?」
私が尋ねると、隼人は複雑な表情を浮かべた。
「ああ。キャプテンもやってる。でも……去年、怪我してさ。膝の靭帯を痛めて、手術した。リハビリはしてるけど、もう前みたいには走れない。プロは、無理かもしれない」
隼人は苦笑いした。
「七歳の俺、ごめんな。夢、叶えてやれなくて」
その時、楓が近づいてきた。
「早川くん、久しぶり」
「楓も久しぶり」
隼人が柔らかく微笑む。
四人は、何となく一緒にいた。小学生の時も、よく一緒に遊んでいた四人。給食も一緒に食べていたし、休み時間も一緒に過ごしていた。
楓が自分の手紙を見せてくれた。
10年後のわたしへ
わたしのゆめは、ピアニストです。
ピアノをひいて、みんなをしあわせにしたいです。
コンサートをひらいて、たくさんのひとにきいてもらいたいです。
——みなせかえで(7さい)
隼人が懐かしそうに呟いた。
「そういえば楓、ピアノやってたよね」
「昔はね。毎日練習してた。コンクールにも出てた。でも、中学に入ってから、やめちゃった」
楓の声は、どこか遠かった。
「なんで?」
蒼が首を傾げる。
「勉強に集中するために、って親に言われて。『ピアノは趣味でやる分にはいいけど、プロになるのは難しい。ちゃんと勉強して、いい大学に入りなさい』って」
楓は寂しそうに笑った。
「私、いつから自分の意思で生きるのやめたんだろう。親の言う通り、先生の言う通り、周りの期待通りに生きてきた。気づいたら、自分が何をしたいのか、わからなくなってた」
四人は、しばらく沈黙した。体育館の中には、ざわざわとした声が響いている。誰かが泣いている声も聞こえる。誰かが笑っている声も聞こえる。
田代が大声で笑っている。
「俺、宇宙飛行士になりたいって書いてる! マジで!? 宇宙飛行士!?」
友達が笑いながらツッコむ。
「お前、理科の成績、悪かったもんな」
「うるせえ! 夢くらい見させろよ!」
佐藤は涙を流しながら、手紙を握りしめている。
「私……お医者さんになりたいって……でも、今は看護師を目指してる。医者になる頭はないから」
隣にいた友達が、佐藤の肩を抱いた。
「でも、看護師も立派だよ。人を助ける仕事には変わりないじゃん」
鈴木は苦笑いしている。
「漫画家になりたいって書いてあるけど、絵、全然描いてないわ。中学の時、美術の成績、悪かったし」
高橋は呆然としている。
「パティシエになりたいって……確かに、お菓子作り好きだったけど、もうやってない。高校受験で忙しくなって、やめちゃった」
一人一人が、それぞれの夢と、それぞれの現実に向き合っている。
宮本先生の声が、体育館に響いた。
「どうだった? 十年前の自分と、再会して」
誰も答えなかった。みんな、それぞれの手紙を見つめている。
「夢、叶えられたか?」
沈黙。重い、重い沈黙。体育館全体が、何かに押しつぶされそうな空気に包まれている。
一人の男子生徒が、ぽつりと呟いた。
「先生、俺……医者になりたいって書いてあったけど、今は普通に就職考えてます。医学部なんて、無理ですから」
「俺もです。漫画家になりたいって書いてあったけど、絵、全然描いてないです。才能ないって、気づいたから」
「私も……アナウンサーになりたいって書いてあったけど、もう諦めました。顔も悪いし、頭も悪いし」
「俺は……プロ野球選手になりたいって。でも、中学で野球部やめちゃったし」
「私は……バレリーナになりたいって。でも、身長伸びすぎて、もう無理」
次々と、クラスメイトたちが自分の現状を語った。ほとんどが、夢を諦めている。私も、同じだった。
宮本先生は静かに頷いた。
「……そうか」
宮本先生は、しばらく黙っていた。体育館の中は、シーンと静まり返っている。時計の音だけが、カチカチと響いている。そして、先生は優しく微笑んだ。
「でも、まだ遅くない。君たちには、まだ未来がある」
「でも先生……」
私は思わず声を上げていた。
「もう、夢なんて……無理ですよ。現実を見ないと」
「夢は諦めても、未来は諦めるな」
宮本先生は、私の目をまっすぐ見つめた。
「大事なのは、ここからだ」
宮本先生は、みんなを見回した。
「十年前の君たちが書いたのは、『結果』だった。『〇〇になりたい』って。でも、結果は、自分だけでコントロールできるものじゃない。才能も必要だし、運も必要だし、環境も必要だ。だから、叶わないこともある」
宮本先生は、箱の隣に立った。
「でも、今回は違う。今の君たちが、十年後の自分に約束するのは、『行動』だ。『〇〇をする』って。行動は、自分でコントロールできる。才能がなくても、環境が悪くても、自分の意思で続けられる」
「行動……」
誰かが小さく呟いた。
「そうだ。例えば、『絵本作家になる』じゃなくて、『絵を描き続ける』。『ピアニストになる』じゃなくて、『ピアノを弾き続ける』。『サッカー選手になる』じゃなくて、『サッカーを楽しみ続ける』」
宮本先生の言葉が、体育館に静かに響いた。私は、手の中の手紙を見つめた。七歳の私が書いた、純粋な夢。それは叶わなかったけれど、でも……
「結果は、約束できない。でも、行動は、約束できる。そして、行動を続けていれば、いつか何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも、それでいい。大事なのは、自分が何をするかだ」
未来は、まだ終わっていない。
私は、ゆっくりと顔を上げた。蒼を見る。楓を見る。隼人を見る。みんな、同じような表情をしていた。諦めと、希望が、混ざったような表情。
宮本先生が続けた。
「来週、またここに集まってくれ。次は、『十年後の自分への約束』を書いてもらう。結果じゃなく、行動を。今度は、叶えられる約束を」
先生は、私たちを見回した。
「十年前、君たちは『夢』を埋めた。でも、今度は『約束』を埋める。自分にできること、自分が続けられること。それを、十年後の自分に約束するんだ」
田代が手を挙げた。
「先生、でも……行動を続けても、夢が叶うとは限らないですよね?」
田代の声には、不安が滲んでいた。
「ああ、叶わないかもしれない。でも、行動を続けることに、意味がある。結果じゃなく、過程に意味がある」
宮本先生は、優しく微笑んだ。
「十年後、君たちがこのタイムカプセルを開けたとき、『ああ、約束を守れた』って思えたら、それでいい。夢が叶わなくても、行動を続けた自分を誇れたら、それでいい」
体育館の中に、温かい空気が流れた。さっきまでの重苦しさが、少しずつ消えていく。
【第1章 完】
五月の放課後、教室の窓から見える青空は、どこまでも澄んでいた。私、橘陽向は一人残された教室で、そんな空をぼんやりと眺めていた。窓を開けると、グラウンドから聞こえてくる部活動の声が風に乗って届いてくる。サッカー部の掛け声、吹奏楽部の音、テニス部のボールを打つ音。みんな、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。
チャイムが鳴り終わって、もう十五分は経っただろうか。クラスメイトたちはほとんど帰ってしまっている。さっきまで賑やかだった教室は、今では静まり返っていて、私の呼吸音さえ聞こえそうなほどだった。
机の上には、開きっぱなしの数学の教科書と、半分だけ解いた問題集。今日の授業でやった二次関数の問題だけど、集中できなくて途中で手が止まってしまった。別に難しいわけじゃない。ただ、やる気が起きないだけ。
サッカー部の男子たちが「先輩、今日も来てくださいよ!」なんて騒ぎながらグラウンドへ向かっていくのが見えた。一年生の後輩たちが、先輩の背中を追いかけている。キラキラした目で、憧れの眼差しで。ああいう時期、私にもあったはずなのに、いつの間にか通り過ぎてしまった。
吹奏楽部の女子たちは楽譜を抱えて音楽室へ、生徒会のメンバーは会議室へと、それぞれの居場所へ散っていった。放課後のバイトに急ぐ子もいれば、恋人と待ち合わせている子もいる。廊下を歩く足音が遠ざかっていくたびに、教室の静けさが増していく。
みんな、何かに向かって走っている。自分の時間を、ちゃんと使っている。目的があって、目標があって、やりたいことがある。でも私には、それがない。
鞄を抱えたまま、私はもう一度窓の外を見た。校庭では一年生が部活動の見学をしている。吹奏楽部の演奏を聴いている子、サッカー部の練習を見ている子、美術部の作品を見ている子。みんな、自分の居場所を探している。入学したばかりの一年生たちは、まだ何でもできる。まだ、可能性に溢れている。
私も、あんな時期があったはずだ。高校に入学したばかりの頃は、何かを始めようって思っていた。部活に入ろうか、バイトを始めようか、新しい趣味を見つけようか。でも、結局何も始められなくて、気づいたらもう二年生になっていた。
スマホを取り出すと、ホーム画面に通知が一件。進路希望調査のリマインダーだった。提出期限は明後日。でも、画面を開いても、第一志望の欄も第二志望の欄も、全部空白のままだった。何を書けばいいのか、わからない。いや、書けることがない。
昨日、友達の真由に聞かれたことを思い出す。放課後、いつものようにおしゃべりしていたときのことだ。
「陽向ってさ、将来何になりたいの?」
何気ない質問だった。真由は、他の友達にも同じことを聞いていた。でも、みんなちゃんと答えていた。「保育士になりたい」「看護師になりたい」「公務員になりたい」って。真由は保育士になりたいって、迷いもなく言っていた。「子供が好きだから」って、はっきりと。
でも私は、答えられなかった。何も思い浮かばなくて、ただ笑ってごまかした。「まだ決めてない」って。真由は「そっか」って笑ってくれたけど、その後の沈黙が、妙に重かった気がする。
私、何がしたいんだろう。
やりたいことが見つからない。夢もない。目標もない。ただ、毎日を過ごしているだけ。朝起きて、学校に行って、授業を受けて、家に帰って、寝る。その繰り返し。何のために生きてるのか、わからなくなるときがある。
ため息をついて、鞄を掴んで立ち上がる。誰もいない教室には、私の足音だけが響いた。椅子を机の下に入れて、黒板を見る。明日の時間割が書かれていた。数学、国語、英語、体育。変わり映えしない、いつもの一日。
廊下に出ると、向こうから真由が走ってくるのが見えた。いつものポニーテールが揺れている。
「陽向! ちょうどよかった」
真由は息を切らしながら、笑顔で手を振った。
「どうしたの?」
「帰り、一緒に寄ってかない? 駅前に新しいカフェできたんだよ。インスタ映えしそうなやつ」
真由は、いつも通り明るい。スマホの画面を見せてくれる。そこには、おしゃれなカフェの写真が映っていた。パンケーキとか、フルーツたっぷりのパフェとか、カラフルなドリンクとか。確かに、インスタ映えしそうだ。
私も、いつも通り笑顔を作る。
「ごめん、今日はいいや」
「そっか……」
真由は少し残念そうに眉を下げたけれど、すぐに笑顔を取り戻した。
「最近、元気ないよね。何かあった? 大丈夫?」
真由の目が、心配そうに私を見つめる。
「うん、大丈夫」
また、笑顔を作る。当たり障りのない、いつもの笑顔。真由を心配させたくない。別に、何か深刻なことがあるわけじゃない。ただ、何となく元気が出ないだけ。でも、それを説明するのも面倒くさい。
真由は「そっか」と頷いて、手を振りながら階段を降りていった。「また明日ね」って言いながら。その背中が見えなくなってから、私は小さく息を吐いた。
大丈夫じゃないけどね……
本当は、大丈夫じゃない。でも、それを誰かに言ったところで、何が変わるわけでもない。「元気出しなよ」とか「何かあったら相談してね」とか言われても、結局何も解決しない。だから、笑顔でやり過ごす。それが私のやり方だった。
昇降口で上履きを下履きに履き替えて、校門を出る。いつもの帰り道。何年も歩いている、見慣れた景色。でも今日は、何だかいつもより長く感じた。
Scene 2:工事現場での発見
下校途中の道は、何年も変わらない景色だった。駅まで続く商店街、おじさんがいつも元気に声を出している八百屋、シャッターが閉まったままの古本屋、いつも猫が寝ている空き地。角を曲がれば見える小さな公園には、保育園帰りの子供たちが遊んでいる。
私はイヤホンをつけて、適当にシャッフルされた音楽を聴きながら歩いていた。最近よく聴いているバンドの曲が流れてくる。歌詞の内容はよく覚えていないけれど、メロディが心地いい。音楽を聴いていると、少しだけ現実から離れられる気がする。
そして、いつものように小学校の前を通りかかったとき、私は足を止めた。
校門の前に、見慣れない看板が立っていた。オレンジ色の、工事現場でよく見るあの看板。
『校庭整備工事のため立入禁止 ご迷惑をおかけしますが、ご協力お願いします』
工事? そういえば、ニュースで見たような気がする。市の予算で、古い小学校の校庭を整備するとかなんとか。校庭の水はけが悪いから、全面的に土を入れ替えるとか言っていた気がする。
私はイヤホンを外して、柵の隙間から校庭を覗き込んだ。
ここは、私が六年間通った小学校だった。卒業してから、もう五年近く経つ。当時はこんなに古く見えなかったのに、今見ると、校舎も体育館も、随分と色褪せている。外壁の塗装は剥げかけていて、窓ガラスも少し曇っている。時計台の時計は、止まったままだった。
校庭の隅では、作業員が数人、何かを掘り起こしていた。黄色いヘルメットを被って、スコップを持って。重機が土を掘り返す音が、静かな放課後の空気に響いている。エンジン音と、土が掘り返される音と、作業員たちの声。私は何となく、その様子を見ていた。
すると、作業員の一人が驚いた声を上げた。
「おい、何か出てきたぞ!」
他の作業員たちが集まってくる。重機が止まり、エンジン音が消える。そして、手作業で何かを掘り出している。土まみれの手で、慎重に、ゆっくりと。しばらくして、地面から引き上げられたのは、錆びた金属製の箱だった。
私は息を呑んだ。
タイムカプセル……?
作業員が箱の表面を拭った。軍手で、丁寧に土を落としていく。すると、油性マジックで書かれた文字が浮かび上がった。インクは少し滲んでいるけれど、ちゃんと読める。
『2015年5月10日 1年A組 10年後の自分たちへ』
2015年。私が小学一年生だった年だ。心臓が、急に早く鳴り始めた。ドクドクという音が、自分の耳にも聞こえるほど大きく。
あの頃のことは、もう曖昧にしか覚えていない。ランドセルを背負って学校に通っていたこと、給食が楽しみだったこと、友達と遊んだこと。でも、確かにタイムカプセルを埋めたような記憶がある。先生に言われて、便箋に手紙を書いて、みんなで校庭に埋めた。
気づいたら、私は柵を乗り越えて校庭に入っていた。立入禁止の看板があるのはわかっていたけど、体が勝手に動いていた。足が、あの箱に向かって歩き出していた。
「すみません!」
作業員たちが振り向く。一番年配の、五十代くらいの男性が、私を見て目を細めた。
「君、関係者か?」
男性の声は、優しかった。
「はい! 私、ここの卒業生で……十年前に埋めたタイムカプセルだと思います」
私は息を切らしながら答えた。走ってきたわけでもないのに、呼吸が荒い。緊張しているのか、興奮しているのか、自分でもよくわからない。
作業員たちは顔を見合わせた。
「そうなのか。じゃあ、学校に連絡しないとな。勝手に開けるわけにもいかないし」
「はい、お願いします」
私は箱を見つめた。錆びて、泥だらけだけど、確かに見覚えがある。あの日、みんなで埋めた箱。先生が「十年後、みんなで開けようね」って言っていた箱。十年前の私が、未来の自分に向けて何かを遺した箱。
十年前の私……
私は、その箱から目が離せなかった。箱の表面には、他にも文字が書かれている。クラスメイトの名前が、一人一人、マジックで書かれている。橘陽向、神崎蒼、水瀬楓、早川隼人……懐かしい名前が並んでいる。
作業員が携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけている。
「はい、工事現場です」
「タイムカプセルが出てきまして」
「2015年のものです」
そんな声が聞こえてくる。
私は、箱の前にしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばして、表面に触れる。冷たくて、ざらざらしている。錆びた金属の感触。でも、確かにこれは、私たちが埋めたものだ。
十年。長いようで、短かったような。あの頃は、十年後なんて想像もできなかった。大人になったら、何でもできると思っていた。夢も、希望も、全部叶うと思っていた。
でも、現実は違った。
Scene 3:開封の日
翌日の放課後、私は電車に乗って小学校へ向かっていた。
昨日、作業員から連絡を受けた学校が、当時の担任だった宮本先生に連絡を取り、宮本先生が当時のクラスメイト全員に連絡をしたらしい。私にも、夕方にメールが届いていた。
『橘さん、お久しぶりです。宮本です。昨日、校庭からタイムカプセルが見つかったそうですね。明日の放課後、母校で開封式を行います。当時のクラスメイトにも声をかけています。都合がつけば、ぜひ来てください。十年前に埋めたタイムカプセル、みんなで開けましょう』
私は、迷わず参加すると返信した。というより、参加しないなんて選択肢はなかった。十年前の自分が何を書いたのか、知りたかった。それに、久しぶりにクラスメイトたちに会えるのも楽しみだった。
電車の窓から見える景色は、懐かしかった。駅から小学校までの十分間、私は何度この道を歩いただろう。ランドセルを背負って、友達とおしゃべりしながら。雨の日も、雪の日も、毎日この道を通った。
角を曲がると、小学校の校舎が見えた。昨日、工事現場から柵越しに眺めただけだったけれど、今日はこうして正門に向かって歩いている。卒業式以来、五年ぶりに中に入る母校。記憶の中よりも小さく感じられるのだろうか。校門が近づくにつれて、胸の鼓動が早くなっていく。
校門をくぐると、懐かしい匂いがした。給食の匂いなのか、古い木の匂いなのか、体育館の匂いなのか、よくわからないけれど、確かに「小学校の匂い」だった。ああ、ここだ。私が六年間通った場所。毎日走り回った校庭、友達と遊んだ遊具、みんなで給食を食べた教室。全部、ここにある。
校庭を横切って、体育館に向かう。工事現場は、今日は作業が休みらしく、重機も止まっている。昨日タイムカプセルが出てきた場所には、青いシートが被せられていた。
体育館の扉を開けると、既に何人かが集まっていた。見覚えのある顔、見覚えのない顔。この五年で、みんな随分と変わっている。背が伸びた子、髪型が変わった子、雰囲気がガラッと変わった子。でも、よく見ると、面影が残っている。ああ、あの子だって、わかる。
「陽向!」
声をかけてきたのは、神崎蒼だった。私の幼馴染で、今も同じ高校に通っている。蒼は相変わらず無口で、いつも少し距離を置いているような雰囲気だけど、私のことはよく見てくれている。困ったときは、いつも助けてくれる。
「蒼も来たんだ」
「当たり前だろ。宮本先生から連絡来たし」
蒼は短く答えて、体育館の中を見回した。美術部に入っているだけあって、観察眼が鋭い。一人一人の顔を、じっくりと見ている。
「久しぶりに会う子、多いね」
「ああ。あいつは……田代か? すげえ背が伸びてる」
蒼が指差す方を見ると、確かに田代がいた。小学生の頃は小柄だったのに、今では180センチ近くありそうだ。バスケ部に入ったのかもしれない。隣にいる鈴木は、逆にあまり変わっていない。相変わらず小柄で、でも笑顔は変わらない。
「あの子は……あ、楓ちゃん!」
私は、一人の女子に気づいた。水瀬楓。今は別の高校に通っているけれど、SNSで繋がっている。たまに、インスタで近況を見る。いつも、成績優秀とか、生徒会副会長とか、そういう投稿をしている。
楓は相変わらず、清楚で完璧な雰囲気を纏っていた。長い黒髪を一つに結んで、きちんとした服装で立っている。姿勢もいいし、表情も穏やか。まるで、雑誌のモデルみたいだ。
「橘さん、久しぶり。神崎くんも」
楓が近づいてきて、柔らかく微笑んだ。
「楓ちゃん、元気だった?」
「ええ、まあ」
楓は微笑んだけれど、その笑顔はどこか疲れているように見えた。目の下に、かすかに隈がある。完璧に見える楓も、何か抱えているのかもしれない。
他にも、次々とクラスメイトが集まってくる。知っている顔、知らない顔。中学は別々だった子、高校も別になった子。この五年の間に、みんなそれぞれの道を歩んできたんだろう。
早川隼人も来ていた。小学生の頃からサッカーが得意で、いつもグラウンドを走り回っていた隼人。中学は別だったけれど、今も隣の高校でサッカー部のキャプテンをやっているらしい。SNSで、試合の写真を投稿しているのを見たことがある。会うのは卒業式以来だ。でも、今日の隼人は、いつもより元気がないように見えた。
「隼人くん、久しぶり」
私が声をかけると、隼人は少し驚いた顔をしてから笑顔を作った。
「お、陽向。久しぶり。元気だった?」
「うん。隼人くんは?」
「まあ、なんとかな」
隼人は明るく笑ったけれど、その目は笑っていなかった。何か、心配事でもあるのだろうか。
佐藤も来ていた。小学生の頃は、いつも保健室にいた佐藤。体が弱くて、よく休んでいた。でも、今は元気そうに見える。背も伸びて、顔色もいい。
「佐藤、元気そうだね」
私が声をかけると、佐藤は嬉しそうに笑った。
「うん、最近は体調もいいの。橘、変わってないね」
「そうかな」
高橋も来ていた。小学生の頃は、お菓子作りが得意だった高橋。家庭科の授業で、いつも美味しいクッキーを作っていた。今も、お菓子作りを続けているのだろうか。
最終的に、二十七人全員が揃った。小学校時代、同じ教室にいた仲間たち。今はそれぞれ違う学校に通っていて、普段は会うこともないけれど、今日はこうして集まっている。
体育館の隅に、例の錆びた箱が置かれていた。昨日見たときよりも、少しきれいになっている。誰かが洗ってくれたのかもしれない。箱の隣には、小さなテーブルが置かれていて、その上には当時の写真が何枚か並べられていた。入学式の写真、運動会の写真、遠足の写真。みんな、幼い。
宮本先生が前に立った。先生も、小学校の頃よりも少し老けたように見える。髪に白いものが混じっていて、顔にも皺が増えている。でも、優しそうな笑顔は変わっていなかった。
「みんな、久しぶりだな。よく来てくれた」
先生の声は、温かかった。
「先生も変わってないですね」
誰かがそう言うと、先生は少し照れくさそうに笑った。
「君たちは随分大人になったな。もう高校生か。ちょっと前まで、ランドセル背負ってたのに」
宮本先生は、一人一人の顔を見回した。そして、箱の前に立った。
「十年前、君たちは『十年後の自分へ』手紙を書いた。覚えてるか?」
何人かが頷いた。何人かは首を傾げた。私は、うっすらと覚えている。小学一年生の時、教室で先生に言われて、便箋に手紙を書いた。『十年後のわたしへ』って。何を書いたかは、もう覚えていない。
「あの時、君たちは純粋だった。夢を語って、希望を語って、未来を信じていた。十年後の自分は、きっと素晴らしい人生を送っているって、疑わなかった」
宮本先生の声は、静かだけれど、体育館全体に響いている。みんな、黙って先生の話を聞いている。
「でも、十年経った。君たちは、現実を知った。才能の限界、環境の制約、周りの期待。いろんなものに直面して、夢を諦めた子もいるだろう。それは、仕方ないことだ」
宮本先生は、優しく微笑んだ。
「今日、これを開ける。十年前の君たちと、再会する日だ」
宮本先生がゆっくりと蓋を開けた。金属音が、静かな体育館に響く。ギギギという、錆びた蝶番の音。中から出てきたのは、色褪せた封筒の束、写真、子供たちの絵だった。一つ一つに、丁寧にラベルが貼られている。
先生が封筒の束を取り出すと、懐かしい匂いがした。古い紙の匂い、カビの匂い、そして子供の頃の思い出の匂い。
「自分の名前の封筒を取ってくれ」
みんなが前に出て、自分の封筒を探し始めた。私も、箱の中を覗き込む。たくさんの封筒が、重なって入っている。一つ一つ、名前を確認していく。田代、佐藤、鈴木、高橋……そして、『橘陽向』と書かれた封筒を見つけたとき、胸がきゅっと締め付けられた。
子供っぽい字。丸っこくて、バランスが悪くて。でも、懐かしい。
周りを見ると、みんなそれぞれの封筒を手に取っている。田代は封筒を見つめて、苦笑いしている。鈴木は封筒を胸に抱きしめている。佐藤は、少し震えている。
Scene 4:十年前の自分からの手紙
私は震える手で封筒を開けた。封をしていたテープは、もうべたべたになっている。慎重に剥がして、中から便箋を取り出す。ピンク色の、花柄の便箋。小学生の頃、お気に入りだった便箋だ。
便箋を広げると、子供っぽい字で書かれた手紙が現れた。インクは少し滲んでいるけれど、ちゃんと読める。
10ねんごのわたしへ
こんにちは! 7さいのひなたです。
げんきにしてますか?
わたしは、いま小学1年生です。
べんきょうはちょっとむずかしいけど、まいにちたのしいです。
ともだちもたくさんできました。
10ねんごのわたしは、なにをしていますか?
こうこうせいですか? それとも、もうおしごとをしていますか?
わたしのゆめは、えほんをかくひとになることです。
だって、えほんをよむと、しらないせかいにいけるから。
まほうのせかいとか、どうぶつがしゃべるせかいとか、そらをとべるせかいとか。
わたしもそんなせかいをつくりたいです。
こどもたちがよろこぶえほんをかきたいです。
10ねんご、ゆめはかなっていますか?
えほんをかくひとになれましたか?
——たちばな ひなた(7さい)
私は、手紙を握りしめた。
絵本作家……
そんな夢、すっかり忘れていた。いや、忘れていたわけじゃない。諦めていたんだ。いつからだろう。中学の時? 高校に入ってから?
小学生の頃は、本当に絵本作家になりたかった。図書室で絵本を読むのが大好きで、家でも絵本ばかり読んでいた。自分でも、ノートに絵を描いて、物語を作っていた。先生に見せたら、「上手だね」って褒めてくれた。母も、「陽向は絵が上手だね」って言ってくれた。
でも、中学に入って、現実を知った。
『絵なんて仕事にならない』
『ちゃんと勉強しなさい』
『現実を見なさい』
親にも、先生にも、そう言われた。友達も、もっと現実的な夢を語るようになった。医者とか、看護師とか、教師とか。
いつの間にか、夢を箱にしまい込んでいた。
私は涙が溢れそうになるのをこらえた。周りを見ると、他のクラスメイトたちも、それぞれの手紙を読んで様々な表情をしている。涙を流している子、苦笑いしている子、呆然としている子。みんな、十年前の自分と再会して、何かを感じているんだろう。
蒼が隣に来た。
「お前の手紙、なんて書いてあった?」
蒼の声は、いつもより少し柔らかかった。
「蒼は?」
蒼が自分の手紙を見せてくれた。
10年後のぼくへ
ぼくは、絵かきになりたい。
ピカソみたいなすごい絵をかきたい。
びじゅつかんに、ぼくのえがかざられるようになりたい。
——かんざきあおい(7さい)
「蒼、今も美術部だもんね」
「ああ。でも……」
蒼は言葉を切って、遠くを見つめた。
「絵で食っていけるとは思ってない。親も反対してる。『趣味でやる分にはいいけど、仕事にするのは無理だ』って」
蒼は、そう言って視線を逸らした。いつもの無表情だけど、その目には、諦めのようなものが浮かんでいる。
私は、他のクラスメイトの方を見た。楓は手紙を読みながら、顔を曇らせている。サッカー部のキャプテンだった早川隼人も、手紙を握りしめて、歯を食いしばっている。
私は隼人に近づいた。
「隼人くん」
私が声をかけると、隼人は顔を上げた。
「お、陽向」
「手紙、なんて書いてあったの?」
隼人は少し躊躇してから、手紙を見せてくれた。
10年後のぼくへ
ぼくのゆめは、プロサッカーせんしゅになることです。
Jリーグでかつやくして、にほんだいひょうにもなりたいです。
ワールドカップにでて、ゴールをきめたいです。
——はやかわはやと(7さい)
「今もサッカーやってるんでしょ?」
私が尋ねると、隼人は複雑な表情を浮かべた。
「ああ。キャプテンもやってる。でも……去年、怪我してさ。膝の靭帯を痛めて、手術した。リハビリはしてるけど、もう前みたいには走れない。プロは、無理かもしれない」
隼人は苦笑いした。
「七歳の俺、ごめんな。夢、叶えてやれなくて」
その時、楓が近づいてきた。
「早川くん、久しぶり」
「楓も久しぶり」
隼人が柔らかく微笑む。
四人は、何となく一緒にいた。小学生の時も、よく一緒に遊んでいた四人。給食も一緒に食べていたし、休み時間も一緒に過ごしていた。
楓が自分の手紙を見せてくれた。
10年後のわたしへ
わたしのゆめは、ピアニストです。
ピアノをひいて、みんなをしあわせにしたいです。
コンサートをひらいて、たくさんのひとにきいてもらいたいです。
——みなせかえで(7さい)
隼人が懐かしそうに呟いた。
「そういえば楓、ピアノやってたよね」
「昔はね。毎日練習してた。コンクールにも出てた。でも、中学に入ってから、やめちゃった」
楓の声は、どこか遠かった。
「なんで?」
蒼が首を傾げる。
「勉強に集中するために、って親に言われて。『ピアノは趣味でやる分にはいいけど、プロになるのは難しい。ちゃんと勉強して、いい大学に入りなさい』って」
楓は寂しそうに笑った。
「私、いつから自分の意思で生きるのやめたんだろう。親の言う通り、先生の言う通り、周りの期待通りに生きてきた。気づいたら、自分が何をしたいのか、わからなくなってた」
四人は、しばらく沈黙した。体育館の中には、ざわざわとした声が響いている。誰かが泣いている声も聞こえる。誰かが笑っている声も聞こえる。
田代が大声で笑っている。
「俺、宇宙飛行士になりたいって書いてる! マジで!? 宇宙飛行士!?」
友達が笑いながらツッコむ。
「お前、理科の成績、悪かったもんな」
「うるせえ! 夢くらい見させろよ!」
佐藤は涙を流しながら、手紙を握りしめている。
「私……お医者さんになりたいって……でも、今は看護師を目指してる。医者になる頭はないから」
隣にいた友達が、佐藤の肩を抱いた。
「でも、看護師も立派だよ。人を助ける仕事には変わりないじゃん」
鈴木は苦笑いしている。
「漫画家になりたいって書いてあるけど、絵、全然描いてないわ。中学の時、美術の成績、悪かったし」
高橋は呆然としている。
「パティシエになりたいって……確かに、お菓子作り好きだったけど、もうやってない。高校受験で忙しくなって、やめちゃった」
一人一人が、それぞれの夢と、それぞれの現実に向き合っている。
宮本先生の声が、体育館に響いた。
「どうだった? 十年前の自分と、再会して」
誰も答えなかった。みんな、それぞれの手紙を見つめている。
「夢、叶えられたか?」
沈黙。重い、重い沈黙。体育館全体が、何かに押しつぶされそうな空気に包まれている。
一人の男子生徒が、ぽつりと呟いた。
「先生、俺……医者になりたいって書いてあったけど、今は普通に就職考えてます。医学部なんて、無理ですから」
「俺もです。漫画家になりたいって書いてあったけど、絵、全然描いてないです。才能ないって、気づいたから」
「私も……アナウンサーになりたいって書いてあったけど、もう諦めました。顔も悪いし、頭も悪いし」
「俺は……プロ野球選手になりたいって。でも、中学で野球部やめちゃったし」
「私は……バレリーナになりたいって。でも、身長伸びすぎて、もう無理」
次々と、クラスメイトたちが自分の現状を語った。ほとんどが、夢を諦めている。私も、同じだった。
宮本先生は静かに頷いた。
「……そうか」
宮本先生は、しばらく黙っていた。体育館の中は、シーンと静まり返っている。時計の音だけが、カチカチと響いている。そして、先生は優しく微笑んだ。
「でも、まだ遅くない。君たちには、まだ未来がある」
「でも先生……」
私は思わず声を上げていた。
「もう、夢なんて……無理ですよ。現実を見ないと」
「夢は諦めても、未来は諦めるな」
宮本先生は、私の目をまっすぐ見つめた。
「大事なのは、ここからだ」
宮本先生は、みんなを見回した。
「十年前の君たちが書いたのは、『結果』だった。『〇〇になりたい』って。でも、結果は、自分だけでコントロールできるものじゃない。才能も必要だし、運も必要だし、環境も必要だ。だから、叶わないこともある」
宮本先生は、箱の隣に立った。
「でも、今回は違う。今の君たちが、十年後の自分に約束するのは、『行動』だ。『〇〇をする』って。行動は、自分でコントロールできる。才能がなくても、環境が悪くても、自分の意思で続けられる」
「行動……」
誰かが小さく呟いた。
「そうだ。例えば、『絵本作家になる』じゃなくて、『絵を描き続ける』。『ピアニストになる』じゃなくて、『ピアノを弾き続ける』。『サッカー選手になる』じゃなくて、『サッカーを楽しみ続ける』」
宮本先生の言葉が、体育館に静かに響いた。私は、手の中の手紙を見つめた。七歳の私が書いた、純粋な夢。それは叶わなかったけれど、でも……
「結果は、約束できない。でも、行動は、約束できる。そして、行動を続けていれば、いつか何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも、それでいい。大事なのは、自分が何をするかだ」
未来は、まだ終わっていない。
私は、ゆっくりと顔を上げた。蒼を見る。楓を見る。隼人を見る。みんな、同じような表情をしていた。諦めと、希望が、混ざったような表情。
宮本先生が続けた。
「来週、またここに集まってくれ。次は、『十年後の自分への約束』を書いてもらう。結果じゃなく、行動を。今度は、叶えられる約束を」
先生は、私たちを見回した。
「十年前、君たちは『夢』を埋めた。でも、今度は『約束』を埋める。自分にできること、自分が続けられること。それを、十年後の自分に約束するんだ」
田代が手を挙げた。
「先生、でも……行動を続けても、夢が叶うとは限らないですよね?」
田代の声には、不安が滲んでいた。
「ああ、叶わないかもしれない。でも、行動を続けることに、意味がある。結果じゃなく、過程に意味がある」
宮本先生は、優しく微笑んだ。
「十年後、君たちがこのタイムカプセルを開けたとき、『ああ、約束を守れた』って思えたら、それでいい。夢が叶わなくても、行動を続けた自分を誇れたら、それでいい」
体育館の中に、温かい空気が流れた。さっきまでの重苦しさが、少しずつ消えていく。
【第1章 完】



