アッチェレランドの住人達

 これで、私の人生は終わりなのかもしれない。たったの17年。なんてあっけない幕引き。だけど、もし、この目がもう一度開くことがあるのなら、神様、お願いです。どうか、そのときは、私からあの人の記憶を消して下さい。

 一緒にいることが叶わないのなら、いっそ忘れさせて―――。

 激しい衝撃によって身体が、濃藍の空へと飛び出した。上空から大勢の真っ白な天使たちが静かに舞い降りてくる。それらが全て、雪なのだと気がついたとき、私は瞳を閉じた。

***

 顔が冷たい……。
 私は頬に手をやった。指の腹に伝わる冷たさと濡れた感触にうんざりしながら、ベッドの上で半身を起こした。
 はぁ、まただ。
 仕方なしに鼻をすすり、頬を流れ落ちていく涙を手の甲で拭い取る。毎朝、目を覚ましては、自分が泣いていることに気がつく。こんな日が、もう何日繰り返されただろう。すっかり日課となったこの現象を、私は朝の涙と呼んでいる。きっかけは、二カ月前の交通事故。奇跡的に身体は無傷で済んだものの、こうやって毎朝涙を流すようになった。ほかにも大きな違いはある。それは感情の欠落と一部の記憶の喪失。
 感情が欠落してるといっても、もともと表情豊かだったわけではないし、そんなに問題はない。記憶についても日常生活に全く支障はない。正直に言えば、記憶が欠けてるって嘘じゃないのかなって思うこともある。だけど、お医者さんによれば、間違いなく何かが頭の中から抜け落ちているらしい。それがどこの部分なのか、家族や友人は知っているようだけど教えてくれない。うちの両親の勝手な『記憶喪失=私が忘れたかったこと、という可能性が否定できない以上、無理に思い出す必要はないし、周りが思い出させる必要はない』という意見が採用されて、見事なまでに箝口令が敷かれている。
名前、生年月日、年齢、住所、家族や幼馴染、それに友人の名前は余裕で言えた。もっと詳しく言えば学校の知人レベルの同級生も、ピアノで弾いたことのある曲名も。
 他に忘れてることなんてある?っていつも思ってしまう。だって、私の人生は、家、学校、ピアノの三要素さえあれば成り立っているから。特に、ピアノコンクールで賞をもらい出してからは、生活はピアノ中心だったはず。
 だけど、単純にそういう訳じゃないっていうのも、本能みたいなところで感じてる。というのも、ピアノの音が薄っぺらくなってしまってる。コンクールで受賞を逃したときでさえ、もうちょっとマシな音色が紡ぎ出せていたはずなのに……。事故で指が―――とかそういう話じゃない。指は問題なく動く。
 きっと、その失われた記憶は感情と強く結びついていたんだと思う。私は感情が音に反映されやすいタイプだから。
 それなら、昼間の私から感情が消えた理由も説明がつく。意識の働かない夜中に涙を流すのは、身体がバランスを保つのに必要なことなのかもしれない。日中は泣けない私のために。
 実は、事故以来泣いたことがない。それだけじゃなくて、お腹を抱えて笑ったことも、激しく怒ったことも。もちろん、くすりと笑うことや、嫌なニュースに気持ちが暗くなることはあっても、感情の振れ幅はぐっと少なくなった。 前から感情を表に出すタイプではなかったけれど、冷静過ぎる自分に驚いてしまう。
両頬をぱんと打つと起き上がった。これから、顔を洗い、朝食を摂って、制服に着替えなければならない。そしたら、髪を結んで、登校する。このルーティンをプログラミングされたロボットみたいに私はこなしていく。

「沙羅、今朝も泣いたのか」
 家の前で立っていると、視界の中に黒縁眼鏡が割り込んできた。
「おはよう、壮ちゃん。やっぱり、分かっちゃう?」
「分かるよ」
幼なじみの壮ちゃんこと久我《くが》壮平《そうへい》がトレードマークの眼鏡が押し上げた。同じ高校の先輩でもある壮ちゃんは、黒く長い髪を後ろに束ね、濃紺のダッフルコートにマフラーで口元を隠すという出で立ちで万全な防寒対策をしていた。
「うーん、嫌だなぁ」
 目に触れようとして、ベージュのコートから手を出すと、容赦ない冷気の洗礼に肩をすくめた。
 事故以来、壮ちゃんと一緒に登下校をしている。提案してくれたのは壮ちゃんだ。私の両親も、それはさすがに申し訳ないから、なんて口では言っていたけれど、本音は好意に甘えようとしているのが透けて見えていた。
「どうしても、多少腫れぼったくなるな。まぁ、気が付くのは俺くらいかもしれないけど。まぁ、いいんじゃない? いつも通り泣くってことは、いつも通りの毎日が送れるんだから。俺は、むしろ泣いた痕を見つけるとホッとする」
 ふっと笑みを浮かべると、壮ちゃんは歩き出した。
「勝手に泣くのはいいけど、目を腫らすのはやめて欲しい。毎朝、目を冷やさなくちゃいけないんだもん」
「その言い方だと、まるで他人事みたいだな」
 壮ちゃんは苦笑いすると、あ、と小さく呟いた。
「俺、今日、放課後、担任と話しがあるんだ。悪いけど待っててもらえるか?」
「うん。でも、私、一人で帰れるよ」
「いやいや多分、そんなに時間はかからないから」
「過保護すぎない? 記憶に問題はあっても、電車の乗り方は覚えてるんだよ」
「記憶に問題のない時に、下校中事故に合ったのは誰だっけ?」
 そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
「分かった」
壮ちゃんのしたり顔を横目に私は首を縦に振った。

―――悪い。遅くなりそう。まだ待てそうか?
 放課後、誰もいなくなった教室でぼんやりしていると、壮ちゃんからメッセージがスマホに届いた。先に帰れとは言わず、待てるかと尋ねてくるのは、私がイエスと返事するのを期待しているからだ。だけど、今日の私は、空気を読むのをやめて、不意に訪れた自由を満喫してみたくなった。
―――今日は、もう帰るね。大丈夫、心配しないで。
 既読はすぐについたのに、返信がなかなか来ないところに、壮ちゃんの葛藤が手に取るように分かった。しばらく経ってから送られてきた文章に苦笑せざるを得なかった。
―――絶対に寄り道はするなよ。電車は急行が来るまで待てよ。
 子供じゃないんだから。
心の中で突っ込みを入れながら、スマホを鞄に仕舞いこんだ。ふと、私の胸がざわついた。
―――電車は急行まで待てよ。
一体どうして、そんなことをわざわざ? 学校と家は確かに急行停車駅ではあるけれど、実際には二駅しか離れていない。各停に乗っても、そこまで時間の差はない。それなのに、付け足されたこの一文……。
 頭を整理するために、ぽんぽんと指で刺激した。
 急行は大丈夫だけど、各停ではダメなもの。それは、きっと学校と家の最寄駅の間にある唯一の駅で、各停でしか行けない―――風が丘駅!
普段は、壮ちゃんと一緒にいるから、各停に乗ったとしても風が丘駅で降りるなんてことは絶対にないし。
じゃあ、壮ちゃんはなぜ風が丘に私を行かせたくないの? 
私はぱちんと指を鳴らした。
そんなのは決まってる。それは、消えた記憶に関係しているから。
 鞄をむんずと掴むと、教室から飛び出した。

 私の推理なんて単純なものだし、なんの収穫がなくてもといいと気楽に考えていた。けれど、意を決して降り立った風が丘駅の改札を抜けると、「Musik」とドイツ語で音楽を意味する名前が付けられた喫茶店が、目を惹いた。
 外から様子を窺うと、喫茶店には珍しく奥にグランドピアノがあるのが見える。その瞬間、重そうなビターチョコレート色をした扉を身体が押し開けていた。
あ、壮ちゃんに怒られるかも……。
まずいと思ったときにはすでに、ショパンの雨だれと共に扉に取り付けられたベルがちりんちりんという鳴っていた。

 年齢は三十前後。背は高く、痩せ型。切れ長の黒い瞳は、物静かで思慮深そうな印象を与える。
 衝動的に立ち寄った喫茶店「Musik」のマスターはそんな男性だった。
 前のお客さんが残したコーヒーカップやミルクポット、それに砂糖壺を銀色のお盆にのせると、マスターは私の前に戻ってきた。私とマスターの間にあるのはカウンターだけ。灰色のセーターの袖をたくし上げると、銀色のティーポットから縁に赤い花模様のついたティーカップに紅茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
 私の前に紅茶が大きな手によってゆっくりと押し出された。ティーカップの中で紅茶がゆっくりと波打った。ソーサーには角砂糖が三つ。
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げると、角砂糖を全部落とし込んだ。ぽとんぽとんとビートを効かせながら、砂糖が底へと沈んでいく。別の小皿に用意された薄切りのレモンを浮かべ、銀色のスプーンで湯気の立つ褐色の液体をかき混ぜた。レモンがくるくると華麗なターンを披露した。
「記憶が一部欠けてるらしいんです、私」
 そんなことを言うつもりはなかったのに、なぜか口が勝手に動いていた。
「……そういうのは、見ず知らずの人間には言わないほうがいいんじゃないかな」
 客からの突然のカミングアウトに、カウンターの中で作業していたマスターが顔を上げた。手には白い布巾とグラスが握られている。洗い終えたグラスを拭いていたらしい。
「お金を貸してるから返せとかって言われる可能性もあるよ」
 大人としてなのか、私の不用心な発言を諌めると、再び白い布巾を持つ大きな手を動かした。
「マスターが私にそんなことを言うってことですか?」
 店内をぐるりと見回した。店の中にいるのは、私とマスターの二人だけ。それにあえて付け足すなら、やたらと存在感のあるグランドピアノ。平日の午後四時半過ぎというのは、喫茶店では、一番閑古鳥が鳴いている時間なのかもしれない。自分がマスターだったら、この客の入りで大丈夫かと心配せざるを得ないけれど、私としてはそれがむしろありがたかった。
「俺は言わないけど……ね」
 目が合うと、マスターは顔に戸惑いの色をかすかに浮かべ、すぐさま視線を手元に戻した。
「だったら大丈夫です。誰にでも言いふらしてるわけじゃないですから。それに、さっき、マスターは自分を見ず知らずの人間ってバラしてますからね。もしお金を返せなんて言われたら、嘘だって一瞬で分かります」
「しまったな。小金を稼ぐチャンスだったのに」
 伏せ目がちのままマスターは苦笑いした。グラスの底を掴むマスターの左手は指が細長く、どこにも装飾品はついていなかった。
「原因は事故だったんです。歩道の端に立っていたら、濡れた路面でスリップした車が突っ込んできて。私、飛んだんですよ。それと一緒に記憶も飛んでしまったんですけど。で、気がついたら、病院でした」
「……身体は大丈夫だったの?」
「はい。不幸中の幸いで」
 私の十本の指が、後ろで流れる曲を弾くように自然に動いた。『雨だれ』はいつの間にか、ラヴェルの水の戯れに変わっていた。その動作をマスターに注視されているような気がして、思わず手を止めた。
「……そうか、それは何より」
小さな声で放たれたマスターの言葉を最後に、会話がふつりと途切れた。きゅっきゅっとグラスが磨かれる音をBGMに聴きながら、また口を開いた。
「……記憶がないって言っても、日常生活には問題がないんです。家族も、親戚も、学校の友達も先生のことも誰一人欠けることなく覚えてる。あまりにスムーズ過ぎて、自分でも本当に記憶喪失なのかと思うくらい。それでも、お医者さんに言わせると、全ての記憶が戻ってるわけじゃないんですって」
「家族や友達は教えてくれないの?」
「両親は、記憶喪失になったということは、私が忘れたかったことかもしれないって。だから、自分で思い出せないなら、周りが口出しすることじゃないって。お姉ちゃんや友達にも絶対に言うなって釘を刺してるみたい。そこまでされると、却って私に思い出して欲しくないんじゃないかって勘ぐっちゃいますよね」
 取り繕ったように浮かべた笑顔がバレないように紅茶に口をつけた。酸味と甘さが絶妙のバランスで、熱さと共に喉元を過ぎていった。
「携帯は?」
 マスターが、カウンターに置かれた私のスマホをちらと一瞥した。
「事故のときに、粉々になったらしくて。これは、新しく買ってもらったものなんです。だから、手がかりになりそうなものは何も残ってなくて」
「それで普段の生活に差し障りがないなら、親御さんの言うようにあえて思い出さなくてもいいのかもしれない……ね」
 マスターはくるりと背を向けると、食器を後ろの棚に片付け始めた。
「もし、私が、ある人のことだけを忘れてしまってるとしたら、その人は辛いのかな、それとも今頃ホッとしてるのかな……」
「……忘れられてホッとすることなんてある?」
 いつの間にか向き直っていたマスターが、私の目をじっと見据えていた。随分と間をおいて発せられた言葉の端々に、なぜか怒りと無念がないまぜになったようなものが感じ取れた。そのオーラに圧倒されて、思わず息を呑んだ。
「……そうですね。もし、私が相手にものすごく迷惑をかけていたら……。例えば私が誰かに付きまとっていた―――とか。そういう場合、相手の対馬なら自分が忘れられてようやく胸を撫で下ろしてるかもしれない」
「……そうか、そういう考えは思いつきもしなかったな」
 マスターの目が大きく見開かれた。目から鱗が落ちた、そんな様子だった。
「それなら良かった……」
 そっと胸を撫で下ろした。
「何か言った?」
「いえ、こっちの独り言です」
 手と頭を左右に振り、言葉を続けた。
「でも、記憶を取り戻すことって実は簡単だとさっき気がついたんです」
「……どうして?」
「少し言い方を間違えました。記憶は戻らなくても、何を忘れているのかを辿ることはできるって意味です」
「どうやって?」
 心なしかマスターが身を乗り出したように感じた。
「マスターにだって記憶のない時間はあるんですよ」
 私の返答にマスターが眉根に皺を寄せる。そんなものあるわけないとでも言いたげな顔で。
「寝ているときとか……ね。もし、マスターが朝起きたとき、カーテンを開けるでしょう? 外が一面真っ白だったらどう思います?」
 意表を突かれたのかマスターの薄い唇から、あぁという言葉が漏れた。
「……夜中に雪が積もったんだなって」
「そうなんです。もし、一面が真っ白でなくても、道路が濡れていて、車のフロントガラスだったり、植木鉢の葉っぱに白いものが溜まっていたら、やっぱりそれも雪が降ったなって考えると思うんです。マスターに雪が降っていた記憶はない。だけど、朝の様子で雪が降ったことは知ることができる。そうでしょう?」
「なるほどね」
「私の記憶がないっていうのも、その感覚に似てます。要は、全ての記憶が失われているわけじゃなかったら、何を思い出せないのかは推測できるってことです。箱に入った状態では、ひとつ欠けたパズルの形を言い当てることはできなくても、全てが組み上がれば自ずと分かるみたいに。ヒントはいっぱい溢れてるんですよ」
「……じゃあ、もう何を忘れているかは分かってる?」
 時々投げかけられるマスターの鋭い視線に、心臓が早鐘を打ち始めた。
「……いいえ、まだ」
 嘘をついた。声が震えていたのを気づかれていませんようにと心の内で祈った。
 本当は気がついている。
 例えば、私が、ここの扉を開けたときのマスターの驚いた顔。まるで亡霊にでも遭遇したような顔つきだった。あれは絶対に一見の客に対して見せる表情ではなかった。それだけじゃない、私の紅茶についていた三つの角砂糖。あれだっておかしい。他のお客さんには、砂糖壺を使っていたのに。
 極め付けは、私の鼓動。こんなに加速できるなんて知らなかった。徐行運転しかできないと思っていたけれど、ちゃんとアクセルがついていたみたい。
 だけど、私が忘れてるのは、マスター、あなたでしょう? なんてことは言わない。だって、言ってしまったら、ここには戻れなくなりそうだから。
「……そうか」
 マスターが少し顔を俯けた。心なしか寂しげに見えるのが、私の思い違いでなければいいのにと願う自分がいる。
 刹那、カウンターの上でスマホが小刻みに震え始めた。ブーブーと不穏な唸り声を上げる。画面に表示された「お母さん」という文字に、胃酸のような苦さがお腹の底から込み上げてくる。壮ちゃんからなんらかの連絡が行ったか、五時を過ぎても帰らないことを心配してか。いずれにしろタイムリミット、これ以上ここに居座るのは得策ではなさそうだ。まだまだここで過ごしたかったけれど仕方がない。ため息を動力にして重たい腰を上げた。こちらの行動が分かっているみたいに、スマホの振動がぴたりと止んだ。
「あの、そろそろ帰らないと……。お代はいくらですか?」
「あー、それはいいよ。事故のお見舞いってことで」
 マスターは片方の手を腰に当てると、もう一方の手で堅そうな黒髪をわしゃわしゃと掻いた。
「でも……」
「本当に大丈夫だから」
「……だったら、また来てもいいですか?」
 意を決して尋ねた。マスターの長い首の真ん中に鎮座する男らしい喉仏が上下に動くのを見ながら、固唾を呑んだ。
 客はいつでも店に来ていいもんだから、などとごにょごにょと呟いたあと、マスターがすっと姿勢を正した。
「あぁ。……待ってる」
「良かった」
 言葉が口を衝いて出た。ついでに、なぜか笑顔と涙も。私は、自身の想定外の反応に驚愕して、二の句が継げなかった。

 駅まで送るというマスターの何度目かの申し出を丁重に断り、ホームまでやってくると、ちょうど電車がやって来た。
 乗り込んだ瞬間、馴染みのある顔が目に飛び込んで来た。
「沙羅!」
「……壮ちゃん」
 咄嗟に顔をしかめた。
まさか、こんなに早く自分の悪足掻きがばれるとは……。
「どうしてこんなところにいるんだ? 急行に乗れって言っただろ?」
「それはそうだけど、ちょっと冒険してみたくなって」
 そう答えると、壮ちゃんは額に手をあてた。伊達に生まれたときから幼馴染をやってるわけじゃない。壮ちゃんが、いかに自分の忠告が不用意だったのかと後悔しているのが、手に取るように分かった。
「おばさんには伝えたのか? 心配してるだろ?」
「それは大丈夫。さっき、メールしたばかりだから」
「けど、こんな時間までどこにいたんだ? まさか、お前……」
 壮ちゃんが不意に口を噤んだ。私の状況を把握していない段階で、勢いに任せて発言することは危険ということに気がついたらしい。
「なに?」
 黒縁メガネの奥に戸惑いが浮かんだ瞳を見つめながら、しらを切った。
「なんでもない……。で、どこにいたの?」
「素敵な喫茶店があったの。グランドピアノがあってね」
 なんでもない日常の1ページを知らせるように、できるだけ平静を装って話した。けれど私が口を開くたび、壮ちゃんの顔色が青ざめていく。同時に、失くした記憶に近づいていく。
 ごめんね、壮ちゃん。試すようなことをして……。
 苦悩する幼馴染の横顔を見つめながら、胸の内で謝った。

 完全ではないけれど、漠然と記憶が姿を現し始めていた。あの日、宙に舞い上がりながら、願ったことがある。
一緒にいることが叶わないのなら、いっそ忘れさせて――と。
 私は誰かに心を寄せていた。それは間違いなくマスターに。だけど、それは一方的だったのか、それとも双方向からのものだったのか。
―――忘れられてホッとすることなんてある?
 マスターの一言が頭の中で再生される。
 私たちには一回りほど年の差がある。自分が推し活みたいに、マスターを無理やり追っかけ回していたとしたら、この言葉は出てこないはずだと言い聞かせる。
 だけど、私たちは上手くいっていたわけじゃない。やっぱり障害は、永遠に埋まることのない年齢の問題だったのだろうか。
 だから、私はマスターの存在自体をなかったことにしようとした?
 だけど、私は大きな間違いをしていた。
記憶がなくなっても、人の性質が変わるわけじゃない。苦手なものは苦手だし、好きなものは好き。あの砂糖たっぷりのレモンティーみたいに。だから、出会ってしまえば、また惹かれてしまう。現に、マスターのことを考えるだけで、血が沸き立つような感覚に陥る。
 振り出しに戻ったようなものだと思う。結局、また繰り返してしまう。
楽譜の途中で出会うダ・カーポみたいだ。
 だけど、今度こそは違う結末になるように注意を払う必要がある。
 これから私は、あなたに必ず恋をする。記憶を取り戻す必要はない。だって、これが私の最大の武器になるはずだから。
「沙羅、着いたぞ」
 壮ちゃんに促されて、私は電車を降りた。