腹が立って腹が立って、その日も次の日も、俺はずっとイライラしていた。
ふとした時にドアップに迫ったあいつの顔や唇の感触を思い出してしまうのだ。最悪だ。
勿論、バイト中はなるべく笑顔で接客していたが。
あいつから何度かメッセージが入ってきていたが、当然ながら完無視を決め込んでいた。
イライラのしすぎだろうか日曜の夕方頃から頭痛がし出して、俺はバイトから帰宅して早めに寝た。
そして、月曜の朝。
「だっる……」
ベッドからなんとか起き上がって呟くと、その声はガラガラで酷いものだった。
そのまま数回咳き込む。
頭痛は酷くなっているし、身体は熱いし、この久しぶりの感覚はあれだ。
(これ、熱あるくせーな)
しかし、確認しようにもこの家に体温計はない。
基本健康体なので必要ないと思って引っ越す際用意しなかったのだ。
バイト連チャンの後、夜間観測会で朝まで屋上にいたのがいけなかっただろうか。
一応厚手のジャケットは羽織っていたのだが、確かに首元はスースーしていた。マフラーも用意すべきだったか。
重い身体を引きずるようにして洗面所に行き鏡を見ると、案の定自分の顔がやたらと赤かった。
(どうしよ……学校休むか?)
紫苑と顔を合わせたら更に熱が上がりそうな気がする。
しかし。
(いや、これで俺が休んだら逃げたみたいじゃねーか)
あいつにそう思われるのは癪で、俺はまず冷たい水で顔を洗った。
お陰で頭が少しスッキリして顔の赤みもいくらか消えたように思えた。
(どうせもうすぐゴールデンウィークだ。行けんだろ)
そう自分に言い聞かせ、俺はそのまま髪のセットを開始した。
「おはよー、翔くん!」
「……おはよ」
いつものコンビニあたりでいつものように元気に声をかけてきた紫苑に俺は低い声で応える。
……今日はなるべく省エネで行くと決めたのだ。
紫苑から何を言われてもムカつかない、怒鳴らない、手を出さない。
本当は関わりたくないが、どうせ学校では顔を合わせることになるし、今日は余計なことに体力を使いたくはない。
それで今日一日なんとか乗り越えようと思った。
「あれー、翔くんまだ怒ってる?」
「……怒ってねーよ」
早速ムっとするが顔を見ずに短く答える。
「でも翔くん全然メッセージ見てくれないし」
「バイトで忙しかったんだよ」
「そっかぁ。頑張るのはいいけど、身体壊さないでね?」
内心ドキリとしながら俺は「ああ」とまた短く返事をする。
「メッセージでも送ったんだけど、じゃあ、直接訊いちゃうね」
「?」
「この間の告白の返事、いつ聞かせてくれる?」
「!?」
さすがにぎょっとして振り向くと、紫苑は少し照れたような顔で続けた。
「好きだよって僕言ったでしょ。その返事」
「返事って……」
「だから、翔くんの気持ちと、僕とお付き合いしてくれるかどうか?」
それを聞いて俺はぽかんと口を開ける。
確かに好きだと言われてキスまでされた。2回も。しかし。
――お付き合い?
(紫苑と、付き合う……?)
そんなの、当然ながら全く考えていなかった。
紫苑は恥ずかしがっているのか、落ち着きなく自分の長い前髪をいじりながら言う。
「僕は翔くんとお付き合い出来たら嬉しいけど」
「や、ありえねーし」
考える前に、俺はそう口にしていた。
「え?」
ぴたりと紫苑の手が止まる。
「だから、お前と付き合うとかありえねーって言ってんだ」
もう一度、俺ははっきりと言う。
少しの間があって、ハハと紫苑は笑った。
「そっか。……そう、だよね。会ってからまだ一ヶ月も経ってないもんね」
「ああ」
そうだ。常識的に考えてありえない。
あんなふうにやりたい放題しておいて、OKの返事がもらえると思っていたのだろうか。
「……」
「……」
それから長い沈黙が訪れた。
朝の通学路は色んな学生の話し声で溢れていて、まるで俺たちだけが切り離された別の空間にいるようだった。
ちらりと隣を見上げる。
(ひょっとして、傷ついたのか?)
さすがに言い方がキツかっただろうか……?
そう考えて、いやいやと前に向き直る。
(こいつが俺にしたことに比べたら、もっと言ってやってもいいくらいだ)
そう自分を正当化していると。
「……うん。決めた」
「え?」
明るい声が聞こえて顔を上げると、奴も俺を見ていた。
「翔くんに好きになってもらえるように、僕頑張るよ」
「…………?」
頭の中にたくさんの疑問符が浮かぶ。
(……いやいやいや)
意味がわからない。
俺は今はっきりと断った。
はっきりとこいつを振ったのだ。
なのに、頑張るよ?
「そこは潔く諦めろよ!」
「諦めないよ」
即答されて絶句する。
「だって、こんなに楽しいの初めてなんだもん」
無邪気にも思える笑顔で、紫苑は続けた。
「だから翔くん、これからもよろしくね!」
……省エネだ。
今日は省エネで行くって決めただろ。
(だから落ち着け、俺)
そう自分に言い聞かす。
でも、どうしても抑えることが出来なかった。
「あのなぁ、だから俺はお前のことなんて……っ」
そう声を張り上げた途端、ズキンっと頭が痛んで俺は思わず足を止めた。
「翔くん?」
「……な、なんでもねー」
軽く頭を振って、ふぅと一息ついてから俺は再び歩き出す。
やはり今日は省エネでいかなくてはダメだ。
「なんか、翔くん顔色悪くない?」
そう言ってこちらに伸びてきた手を、俺はバシっと払いのける。
「触んな!」
今触られたら、この熱に気付かれてしまう。
「あ、ご、ごめん」
でもそんな紫苑の驚いた声を聞いてハっとする。
こいつは普通に心配してくれたのに。
「や、その……」
紫苑を見上げたそのとき、ぐにゃりと、世界が歪んだように見えた。
(あ、れ……?)
「翔くん!?」
紫苑の大きな声が聞こえて、そのまま俺の意識はブラックアウトした。
……熱があるときに見る夢なんて、大抵悪夢に決まっている。
正体の分からない何か巨大で真っ赤なものが迫ってきて、俺は必死で逃げる。
怖くて、熱くて、もうダメだ! そう思った時、急に辺りの雰囲気が一変した。
そこは穏やかな海だった。頬をなぜる潮風が気持ち良くて、先ほどの危機は去ったのだとほっとする。
そのまま、俺の意識はゆっくりと浮上して……。
「翔くん?」
呼び声が聞こえて、重い瞼をゆっくりと上げていく。
ぼんやりと視界に映った人影が、心配そうに俺を見下ろしていた。
「しおん……?」
「うん。翔くん、大丈夫?」
ゆっくりと辺りを見回すと、そこはやたらと白い空間だった。
「ここは?」
「保健室だよ」
「保健室……」
白いのは天井とベッドとカーテンの色だとわかった。
「ごめんね、翔くん家に送ろうかとも思ったんだけど、一人暮らしだっていうし、学校の方が安心かと思って」
ベッド脇の椅子に座る紫苑の話を聞きながら、俺は記憶を辿っていく。
「えっと、俺……」
「翔くん、道で急に倒れたんだよ」
……そうか。俺、あのまま倒れちまったのか。
(最悪だ。めちゃくちゃカッコ悪いじゃねーか)
頭に手をやって、額に冷却シートが貼られていることに気付く。
手を乗せるとひんやりと気持ちが良かった。
「酷い熱だし、びっくりしたよ」
怒るように紫苑が言う。
と、そのときだ。
「目が覚めた?」
女の人の声がしてザっと勢いよくカーテンが開いた。
入ってきたのは30代くらいの白衣を着た優しそうな女性。
確かこの高校の保健の先生だ。入学式で紹介があった気がする。名前は思い出せないけれど。
「具合はどう?」
「あ、えーと。熱い、です」
「でしょうね。39度近く熱あるから」
そんなにあったのかとげんなりする。
「ほら、由羅くんはもう教室に戻りなさい」
「え、でも」
「起きるまでって約束でしょ? もう一時間目始まってるから」
「……はい」
紫苑は渋々といった顔で立ち上がり、俺を見下ろした。
「じゃあね、翔くん。またメッセージ送るね」
「あ、ああ」
そうして、紫苑は保健室を出て行った。
「元気になったら、ちゃんとお礼言わないとね」
「え?」
「ここまで安久津くんを運んでくれたの彼だから」
「!」
俺が驚いていると、先生は微笑ましそうにふふと笑った。
「すごく焦った様子でね。『先生! 翔くんが死んじゃう!』ってここに飛び込んできたのよ。見かけによらず力持ちなのね~」
それを聞いてまた熱が上がった気がした。
(あいつ……)
ちょっと熱出したくらいで死ぬわけねーだろとツッコミたい。
「安久津くんのことが大好きなのね」
どきっとする。
先生の言う「大好き」は、そういう意味ではないと思うけれど。
「高校のときの友達は一生ものって言うから、大事にしないとね」
「……はい」
「さ、もう一度熱計ろうか。はい、これ脇に入れて」
手渡された体温計を言われた通り脇に挟む。
「一昨日、天文部の夜間観測会に参加したんですって?」
「はい」
「多分それが原因ね。それと環境が変わって疲れが出ちゃったかな」
言われてみれば、4月頭にこちらに引っ越してきて一人暮らしを始め、落ち着く間もなくバイトを始めここ一ヶ月休みなしで動いていた気がする。
ピピピと電子音が聞こえて、俺は体温計を取り出し先生に渡した。
「38.5度か。やっぱり高いわね。安久津くん、一人暮らししてるんですって?」
「はい」
「そう。念のため近くの病院に行った方がいいと思うけど、ひとりで行けそう? もしきついようなら私が車で送るけれど」
「いえ、ひとりで大丈夫です」
俺は笑顔で答えた。
これ以上、カッコ悪い姿を晒したくはなかった。
その後俺は学校を早退してそのまま先生が教えてくれた近くの内科へと向かった。
保健の先生が電話しておいてくれたようで、行くとすぐに鼻に綿棒を突っ込むあの痛い検査をされ、その後おじいちゃん先生が診てくれた。
「風邪だね。お薬出しておくからそれ飲んで。それと水分はしっかりとってね」
そして隣接する薬局で薬をもらった。
その薬局を出て、俺はふぅと一息吐く。
(コンビニ寄って、飲み物とアイスでも買うか)
もう少しだと重い足を動かそうとしたときだ。
「翔くん!」
(は?)
幻聴だろうか。
紫苑の声が聞こえた気がして振り返ると、そこには間違いなく本人がいた。
「おま……なんで、学校は……?」
まだ午前中で授業中のはずだ。
紫苑はこちらに駆け寄ってきて言う。
「僕もちょっと具合悪いからって早退してきちゃった」
「え?」
「勿論、仮病だけどね!」
悪びれもなく言って奴は手にしていたビニール袋を持ち上げた。
「これお見舞い。スポドリとゼリーと、あとアイスもあるよ」
「……」
呆気にとられている俺に、奴は続けて言った。
「やっぱひとりじゃ心配だし、僕今日は翔くんのお世話係するから。なんでも任せてよ!」
「……」
もう何も言う気力がなくて、俺はがくりと頭を垂れた。



