生徒会長の恋人役になった件



「……う、悠、おきて」


体が軽く揺らされて意識が浮上する。
目を開くと、イケメンがこちらを見て微笑んでいた。


「おはよ」
「あ……おはようございます」


そういえば会長の家に泊まったんだっけ。
回らない頭でそう考えながら体を起こす。
会長を見ると、すでに着替えていて準備はできているようだった。
会長は優しく笑いながら俺の頭を撫でる。


「よく寝れた?」
「はい……おかげさまで」
「それはよかった」


最近よく撫でられるからか、会長の手が心地よく感じる。
また寝そうになって慌てて頭を振った。


「もう準備します。すみません、遅くなって」
「いいよ。朝ごはん作ってあるから、顔洗っておいで。母さんはまだ寝てるから、静かにね」
「あ、はい……」


促されるまま、俺はまだふわふわとした足取りで洗面所へ向かった。
家の中はしんと静まり返っていて、窓から差し込む朝の光だけが廊下を白く照らしている。
冷たい水で顔を洗うと、少しずつ意識が鮮明になっていく。

そういえば俺、昨日会長に醜態を晒したような……

寝ぼけてたのではっきりとは覚えていないが、それでもその感覚は覚えている。
頭を抱えたくなっていると、洗面所の入り口に会長が立っていた。


「悠、タオル。これ使って」
「あ、ありがとうございます……」


手渡されたタオルからは、会長と同じ、あのビターで清潔感のある香りがした。
包まれるたびに、昨夜のシーツの感触や、背中に感じた体温が蘇ってきて心臓に悪い。


「朝ごはん、適当に作ったから食べようか」


リビングへ戻ると、机の上にはトーストと目玉焼き、それから温かいスープが並べられていた。
会長が俺のために用意してくれたのだと思うと、胸の奥がくすぐったい。


「いただきます」


二人きりの、静かな食卓。
食器の触れ合う音だけが響く空間で、会長は自分のコーヒーを飲みながら、時折俺の様子を窺うように目を向けてくる。


「……涼介先輩、どうかしましたか?」
「いや……やっぱり、服大きいね」


会長が、俺の襟元から覗く鎖骨のあたりをじっと見つめて目を細めた。
その視線に、食べかけのパンを喉に詰まらせそうになる。


「すみません、なんかだらしなくて……」
「いや、可愛いよ」
「そっ、それなら……よかったです……?」


その瞳の奥に隠しきれない熱が灯っている気がして、俺は慌ててスープを流し込んだ。


「さ、食べ終わったら着替えて。今日は体育祭本番だから、気合入れないとね」


会長は立ち上がると、俺の肩をポンと叩いて爽やかに笑った。



ーーーー



準備を整え、会長と一緒に家を出る。
いつものように会長と手を繋いで歩きだす。


「いい天気だね。体育祭日和だ」
「そうですね……絶好の仕事日和ですよ」


俺のぼやきに、会長がくすくすと楽しそうに笑う。
学校までは徒歩15分。
住宅街を抜ける静かな道。
朝の澄んだ空気の中に、二人の足音だけが規則正しく重なる。


「……悠、昨日のこと覚えてる?」


不意に投げかけられた問いに、心臓が跳ねた。
「昨日」の定義が広すぎて、どこを指しているのか分からない。寝落ちしたことか、会長に仕事をさせたことか、それとも、他に……


「えっと……半分くらい、ですかね……」
「そう……まあ、無理に思い出さなくていいよ。俺だけが覚えておけばいいことだし」


会長は前を見つめたまま、意味深に口角を上げる。その余裕たっぷりの横顔に、俺はまた「何かとんでもないことを言ったんじゃないか」と不安に駆られる。


「あ、あの……俺、変なこと言いましたか?」
「さあね。まあ、可愛かったよ」


「可愛い」の中身が気になって仕方ないが、会長はそれ以上語ろうとはしなかった。繋がれた手から伝わる体温が、朝の冷気を追い出すように熱を帯びていく。

やがて、通学路の先に賑やかな学校の門が見えてきた。
制服や体操服をきた生徒たちが校内へ吸い込まれていく。
校門をくぐる直前、会長は名残惜しそうに一度だけ強く俺の手を握り、それからゆっくりと指を解いた。
さっきまでの甘い空気が、体育祭特有の喧騒にかき消されていく。


「頑張ろうね、悠」


いつもの完璧な笑みを浮かべた会長の背中を追いながら、俺は赤くなった頬を隠すように深く息を吐いた。
嵐のような一日が、幕を開けようとしていた。



ーーーー



「じゃあ、一度教室に顔を出してから着替えて生徒会室に集合ね」
「はい。すぐ行きます」


会長と別れ、俺は自分の教室へと向かった。
扉を開けると、クラスメイトたちが慌ただしく準備をしている。
その中で、山名がこちらに気づいて手を振った。


「成瀬、おはよ……ってお前、今日なんか匂い違くね?」


山名は俺の隣に来るなり、不審そうに鼻を動かした。


「えっ、そう?」
「うん……いつもと違う感じが」


山名が首を傾げるので、俺は「あぁ」と納得して、特に隠す様子もなく答えた。


「昨日、涼介先輩の家に泊まったからさ。シャンプーとか借りたんだよね」
「…………は?」


山名の動きが、彫像のように止まった。


「…………泊まった?」
「うん。仕事が終わらなくて。先輩の家、学校から近いから」


俺がそう答えると、なぜか山名の顔から血の気が引いていく。
山名が何か確認するように口を開いた。


「夜、寝る時とかは……?」
「あー……あんま覚えてないけど、涼介先輩と一緒に寝た」
「は?」


山名の声が、見たこともないほど掠れている。


「いや、先輩のベッド。一個しかなかったから」
「……そういうことじゃないんだけど」
「俺も断ったんだけど、結局押し切られちゃったんだよ」


俺が至って真面目に返すと、山名は天を仰いで深いため息をついた。
その表情は、得体の知れない何かに追い詰められているようにも見える。


「……あ、やばい。生徒会室行かないと。涼介先輩待たせてるんだ」


時計を見て、俺は慌てて山名の腕をすり抜けた。


「悪い、山名! また後で!」
「おい、成瀬……!」


背後で山名が俺を呼び止める声が聞こえたが、立ち止まっている暇はない。俺は軽く手を振って、そのまま教室を飛び出した。



ーーーー



急いで着替えた後、生徒会室の重い扉を開けると、そこには既に役員たちが揃っていた。


「悠、遅い〜! 涼介はもうグラウンドの最終確認に行ったよ〜」


佐伯先輩がメガホンを片手にニヤニヤしながら言ってくる。
中井も俺の顔を覗き込んでくる。


「なんか今日、成瀬の顔色良くね? 昨日のクマどこ行ったんだよ」
「……あ、しっかり寝かしてもらったから」


俺が曖昧に笑って答えると、なぜか2人が顔を見合わせてニヤリと笑った気がしたが、深く考えないことにした。
今はとにかく、目の前の膨大な仕事を片付けなければならない。

グラウンドに出ると、抜けるような青空の下、全校生徒が集まり始めていた。
本部テントに入ると、すでに会長が準備に取り掛かっていた。


「悠、こっちおいで」


俺が来たのに気づいた会長に手招きされる。
促されるままに会長の元に行くと、会長はにこりと笑った。


「はちまき、つけてあげるよ。持ってる?」
「あぁ、はい」


俺はポケットの中からはちまきを取り出して会長に渡す。
会長はそれを受け取ると、俺の背後に回った。


「ここ、押さえといて」
「はい」


会長は器用に俺にはちまきを巻いて結ぶ。
会長の指が髪に触れる感覚が妙に落ち着かなかった。


「はい、できたよ」
「ありがとうございます」
「うん。可愛い」
「ど、どうも……」


なぜか満足げな会長から視線を逸らすと、こちらを見ていた佐伯先輩と中井の2人と目が合う。


「……なんですか」
「いや、別に?いちゃついてるな〜って思っただけ」
「いちゃついて……仕事中ですよ」


顔が熱くなるのを自覚しながら、俺はあえて事務的なトーンで返した。だが、佐伯先輩は「はいはい、わかってまーす」と生温かい視線を向けてくる。


「悠、記録用紙の準備はいい? もうすぐ開会式だ」


会長が、まるで今のやり取りなど耳に入っていないかのように、穏やかな声で俺を呼んだ。


「はい。得点板の担当も確認済みです」


俺は本部テントのテーブルに並べられた書類を指先で整える。
視界の端で、全校生徒がクラスごとに整列を開始するのが見えた。色とりどりのクラスTシャツが波のように揺れ、グラウンドの熱気が一段と高まっていく。


「成瀬先輩! テント用のパイプ椅子、予備をこっちに並べてもいいですか?」


後輩の川島が声をかけてくる。


「あ、うん。そこにお願い」


忙しなく動き回る役員たち。
スピーカーからは、開会式直前のBGMがボリュームを上げて流れ始めた。
いよいよ始まるんだという緊張感が、昨日までの疲労を完全に上書きしていく。

ふと、整列している生徒たちの列に目を向けると、最前列でこちらをじっと見つめている山名と目が合った。
距離があるはずなのに、山名の視線がひどく鋭く感じられて、俺は思わず肩を跳ねさせた。


「悠?」


隣にいた会長が、俺の視線を追うように山名の方へ顔を向けた。
会長は一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの涼しげな微笑を浮かべて、俺の肩をポンと叩いた。


「今日は沢山仕事あるんだから、集中ね」
「…はい」


その言葉が、純粋な激励なのか、それとも山名の視線から俺を逸らすためのものなのか。
考える間もなく、生徒指導の先生の野太い声がスピーカー越しに響き渡った。


『全校生徒、整列完了! これより体育祭、開会式を執り行う!』
「よし。行こうか」


会長はマイクを手に取り、迷いのない足取りで朝礼台へと向かっていく。
俺はその背中を追いながら、本部テントの定位置についた。



ーーーー



体育祭は午後の部に入り、グラウンドの熱気は最高潮に達していた。
次の種目は借り物競走。
俺はスタートラインに立ってため息をつく。


「なんで俺が……」


生徒会でバタバタしている間に勝手に決められていた。
こういうのはもっと適任が他にいるだろうに。
そう心の中で愚痴をこぼしながら空を仰ぐ。

お願いします。なるべく簡単なお題で……

ひたすら当てもなく祈っていると、パン!という破裂音が聞こえた。
ピストルの音と同時に一斉に駆け出し、俺はコース中央の箱から一枚の紙を掴み取った。
簡単なお題であるようにと、祈るように紙を広げる。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。


『好きな人』


一瞬、思考が真っ白になる。
周囲では、他の走者たちが次々と観客席へ走り込み、友達や知り合いの手を引いてゴールへと向かっている。

その時、脳裏に浮かんだのは1人の姿だった。

俺は迷うことなく踵を返す。
全校生徒の視線が突き刺さる中、本部テントまで全力で駆け抜け、息を切らしながら会長の前に立った。


「涼介先輩、一緒に来てください!」
「えっ」
「早く!負けちゃうんで!」


半ば強引に会長を引っ張り出す。
会長は一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、すぐに口角を滑らかに上げた。
会長の大きな手が、俺の手を包み込むようにギュッと握りしめてくる。
これだけでなぜか安心するのは、いつも手を繋いで登校していたおかげだろうか。

ゴールテープを1位で切った後、係員の生徒がマイクを向けてくる。


「さて、1位でゴールした成瀬会計は、真宮会長を連れてきたようですが、お題は何ですか?」


会場がなにかを待ち侘びるように騒めく。

これは仕事だ。俺は、与えられた「恋人役」を全うしなければいけない。


「お題は……好きな人、です」


その瞬間、グラウンドに爆発的な歓声が沸き起こった。
女子生徒たちの悲鳴に近い叫びと、男子連中の野次、それらが混ざり合って地響きのように足元から伝わってくる。

俺は心臓の鼓動をなだめるように、ぐっと拳を握りしめる。

全校生徒の前で、堂々と会長を「好きな人」だと指名する。これこそが、偽装工作における最大のパフォーマンスであり、完璧な「役作り」のはずだ。

……そう、納得しているはずだった。

それなのに。

口にした瞬間の、あの妙な感覚。
「好きな人」という言葉が唇を滑り落ちたとき、胸の奥を通り抜けた得体の知れない熱さ。
演技として言った言葉が、言葉が喉の奥に張り付いて、剥がれなくなるような、奇妙な重みがあった。

ただの「役」なら、もっと軽々しく言えたはずだ。
ただの「仕事」なら、こんなに指先まで痺れるような感覚に陥るはずがない。


「悠?どうかした?」
「……いえ」


見上げれば、そこにはいつもの完璧な微笑み。
けれど、その瞳に吸い込まれそうになる自分に、俺はまた正体不明の戸惑いを覚えた。

これは、一体なんなのだろうか。
胸の奥で燻り始めたその違和感の正体に、俺はまだ、気づくことができなかった。



ーーーー



体育祭は無事終了、生徒会役員と体育祭実行委員会が居残りをして片付けも終えた。
片付けを終えたグラウンドには、祭りの後の寂しさと土埃の匂いが混じり合っていた。


「悠、お疲れ様。一度教室に戻って荷物をまとめておいで。生徒会室で待ってるね」


会長にそう言われ、俺は「はい、お疲れ様です」と短く返して校舎へと向かった。

喧騒から離れ、静まり返った廊下を歩く。
窓から差し込む西日が、オレンジ色の長い影を床に落としていた。

好きな人、か……

借り物競走で、全校生徒の前で口にした言葉。
あれは仕事だ。役作りだ。完璧なパフォーマンスだった。
何度も自分に言い聞かせているはずなのに、その言葉を思い出すたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、妙な感覚が込み上げてくる。
仕事だと思い込もうとする自分に、「本当にそれだけか?」と問いかけてくるような、名前のつかない違和感。
その正体が何なのか、今の俺にはまだ分からない。
ただ、心臓の音がいつもより少しだけ、重く響いていることだけは確かだった。

教室の扉を開けると、そこには窓際で自分の机に腰掛けている山名の姿があった。
他のクラスメイトはおらず、全員帰ったようだ。


「山名、お疲れ」


山名にそう声をかけると、山名はおもむろに立ち上がった。


「山名?」


俯いていて顔の見えない山名を覗き込む。
いつもと様子が違うのが明らかだった。


「どした……って、わっ!?」


腕をグイッと引かれたかと思うと、その勢いのまま抱きしめられる。


「ちょ、山名?いきなりどうし……」
「成瀬は……会長のこと、好きなの」
「……え?」


耳元で、掠れた山名の声が響く。
肩に回された腕にぎゅっと力がこもり、山名の荒い鼓動が服越しに伝わってきた。


「借り物競走、成瀬が会長を連れてた」
「それは……」
「仕事だから、だよな」


どこか確認するように呟く山名に、言葉が詰まる。
今までなら、「そうだよ」って淀みなく言えていたはずなのに。
なにも答えない俺を見て、山名は腕の力を強めた。


「なぁ、成瀬──俺にしない?」
「……え」


その言葉の意味を理解するよりも先に、抱きしめられている腕の熱さが、逃げ場のない現実として押し寄せてくる。


「……山名、なに……言って……」
「会長と本当の意味で付き合ってないなら、本物の恋人は作ってもいいってことだろ」


切羽詰まった山名の声色に、俺はなにも言うことができない。


「成瀬、俺さ──成瀬のことが好き」


真っ直ぐな、けれどどこか震えている山名の告白が、静まり返った教室に響く。
耳に届いた言葉の意味を脳が理解しようとするたび、胸の奥がざわついて、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
俺は、山名の腕の中から逃げることもできず、ただ硬直していた。


「……俺と付き合ってよ」


山名が、俺の肩に額を預けるようにして、独り言のように呟く。


「……山名、待って」


俺は震える手で、山名の胸元を弱々しく押し返した。
山名は抵抗することなく、名残惜しそうに、けれどゆっくりと腕を解く。
窓から差し込む西日が、俺と山名の間に、越えられない境界線のように長く伸びていた。


「……困らせてごめん」


山名が我にかえったように目を伏せる。
その言葉はひどく必死で、今にも壊れてしまいそうな危うさを孕んでいた。


「今日の体育祭で会長と一緒にいる成瀬を見たら、胸の奥がざわざわして……どうすればいいかわかんなくて」
「山名……」


言わなきゃいけない。でも、何を言えばいいのか分からない。
恋愛なんて、俺にはまだ、小説や映画の中の遠い出来事のように感じられていた。
「好き」と言われて、どう反応するのが正解なのか。
胸の奥にあるこの「違和感」が、会長への感情なのか、それとも山名への申し訳なさなのか、今の俺には判断がつかない。


「……答え、すぐに出さなきゃ、だめ?」


掠れた声で、俺はそれだけを絞り出した。


「……え」


山名は伏せていた顔を上げる。
その目は潤んでいるようにも、迷っているようにも見えた。


「俺は正直、恋愛とかよく分からなくて。今日、涼介先輩に『好きな人』って言ったのも、自分では仕事だって思ってたけど……山名に言われて、なんだか自分でも自分が分からなくなって……」


俺は、西日が差し込む床に視線を落とした。
オレンジ色の光の中に、俺と山名の影が長く伸びている。


「だから……ちゃんと答えを出すまで、時間が欲しい。山名の気持ちを、適当な返事で返したくない」


淀みなく拒絶することも、受け入れることもできない。
それが今の、俺の精一杯だった。
山名は、驚いたように目を見開いた後、ふっと力を抜いて、優しい笑みを浮かべた。


「……そっか。ありがと」


山名は俺の頭を、いつもより少しだけ丁寧に、大きな手で一度だけ撫でた。


「……待つよ。成瀬が、ちゃんと自分で納得できる答えが出るまで」


山名は机の上のカバンを掴むと、「じゃあな」と教室を出て行った。
扉が閉まる乾いた音が、静まり返った廊下に響き渡る。

一人残された教室。
胸の奥を締め付けるような、あの名前のない熱は、まだ静かに脈打っていた。



ーーーー



教室を出て、静まり返った廊下を急ぐ。

……どうすればいいんだ、俺

今まで、恋愛なんて自分とは無縁のものだと思っていた。
誰かに好意を向けられることも、誰かを特別に想うことも、全部物語の中の出来事だと。
だから、山名の真っ直ぐな言葉にどう応えるのが正解なのか、今の俺には一文字も分からない。
ただ、山名を傷つけたくない。けれど、自分の気持ちに嘘もつきたくない。
そんな当たり前のことさえ、今のぐちゃぐちゃになった頭では整理がつかなかった。
生徒会室の扉の前で一度立ち止まり、深呼吸をする。


「……失礼します」


中に入ると、窓際で資料を眺めていた会長が顔を上げた。
夕闇に紛れそうなオレンジ色の光が、会長の整った横顔を縁取っている。


「おかえり、悠。遅かったね」
「……すみません、ちょっと手間取って」


努めて冷静に、いつものトーンで返したつもりだった。
けれど、会長の瞳が俺を捉えた瞬間、その微かな揺らぎを逃さず見抜いたのが分かった。
会長は資料をデスクに置くと、静かな足取りでこちらへ近づいてくる。


「悠?何かあった?」


伸ばされかけた会長の手が、俺の目の前で止まる。
その指先から伝わってくる心配そうな熱に、俺は思わず視線を泳がせてしまった。


「いえ、なんでもないです。ただ、少し疲れただけで」


喉の奥が引き攣るような感覚。
本当は、今すぐこの混乱を誰かにぶちまけてしまいたかった。
でも、これは俺の問題だ。俺が向き合わないといけない。


「……そう」


会長は、俺の瞳の奥をじっと覗き込むと、パッといつも通りの笑みを浮かべた。


「分かった。じゃあ、一緒に帰ろう」


校舎を出ると、夜の風が火照った頬を撫でていく。

ちゃんと、考えないとな。

恋愛なんて初めてで、慣れないことばっかりで、正直逃げ出したい。
でも、山名が真っ向からぶつけてくれた気持ちには、俺も逃げずに、俺自身の言葉で向き合いたいと思う。

隣を歩く会長の気配を感じながら、俺は夜空を見上げた。

星が、嫌になる程綺麗に光っていた。