文化祭が終わると瞬く間に体育祭準備だ。
文化祭同様、体育祭にも生徒会役員は動員される。
体育祭が明日に迫った放課後の生徒会室には、張り詰めた空気が漂っていた。
「佐伯先輩、プログラムの最終稿確認してもらっていいすか?」
「おっけ〜。じゃあ中井もBGMとか確認しといて〜」
「了解っす」
悪ガキコンビである中井と佐伯先輩は、普段俺を揶揄ってくる様子からは考えられないほどテキパキと仕事をこなしている。
「三浦、川島。2人の方はどう?」
そんな中、会長のいつもと変わらない穏やかな声が響く。
「とっ、得点の記録用紙と…表彰状の準備は、全部終わりました……!」
「備品の方も問題ないです!予備の椅子とテントも確保できました!」
1年生の2人も問題なく仕事をこなせたようだ。
晴れやかな顔をしたその2人に、頼もしい後輩だとつくづく思う。
佐伯先輩と中井の確認作業も終わり、生徒会室に「終わり」の空気が漂っている一方。
「あー……どうなってんだよこれ……」
俺はパソコンの前で頭を抱える。
他のメンバーは仕事を全てこなしているのに、俺はまだ大量に仕事が残っていた。
「……計算が合わない」
ディスプレイに並ぶ数字の羅列が、皮肉なほど冷たく光る。
俺の担当する会計の仕事は、一度は終わるはずだった。けれど、直前になって発覚したテント業者の見積もりミスに加え、各クラスが競技や応援合戦で使う用具の追加申請予算の計上漏れが多発。さらに、熱中症対策で急遽買い足した数百本単位のスポーツドリンクの決済エラーまで重なり、収支がめちゃくちゃになっていた。
そのせいでここ最近、まともに寝られていない。
「な、成瀬先輩……あ、あの僕手伝いましょうか……?」
目頭を押さえる俺に、隣にいた三浦がそう声をかけてきたが、首を横に振る。
「大丈夫。これは俺の仕事だし」
心配させないように笑い、周りで俺を心配そうな目で見つめる面々に口を開く。
「俺が戸締りするんで、先帰ってていいですよ」
「大丈夫かよ、成瀬。クマひどいぞ」
俺の顔を覗き込みながら言う中井に頷く。
「なんとか明日には間に合わせる。みんなも仕事大変だったんだし、早く帰って明日に備えてください」
生徒会役員は体育祭本番である明日も仕事は大量だ。
ここで他のメンバーの手を煩わせるわけにはいかないだろう。
「でも……」
「じゃあ俺が手伝うよ」
言い渋った他の面々の言葉を断ち切ったのは会長だった。
「俺、去年は会計だったし。手伝えることも多いと思う」
「いや、悪いですよ。涼介先輩も帰ってください」
「生徒会長はこういう時のためにいるんだよ。一緒にやれば早く終わるし。ね?」
そう言って笑う会長にどこかホッとする自分がいた。
「……すみません。助かります」
本来俺がしなければいけない仕事なのに、会長が隣にいてくれると言ってくれただけで、どうしてこんなに安心するのだろうか。
それは他のメンバーも同じだったようで、会長の言葉を聞くと「じゃあ大丈夫か」と言わんばかりの空気感に包まれた。
「じゃあ、後は頼みます。無理すんなよ、成瀬」
「明日も頑張ろ〜ね〜」
「お、お疲れ様です……!」
「また明日!失礼しまーす!」
中井、佐伯先輩、三浦、川島は口々にそう言うと生徒会室から出て行った。
みんなを見送った後、またパソコンに向き直る。
会長も俺の後ろに立つ。
「収支ぐちゃぐちゃだね……」
「……はい。一からやり直しですね」
短く息を吐いて、領収書の山と向き合う。
俺が打ち込んで、会長がその場で確認してくれる。
これだけでも手間は大分省ける。
20分、作業を続けたところで放送が流れ出す。
『下校時刻10分前です。校内に残っている生徒の皆さんは速やかに下校してください』
スピーカーから流れるどこか急かすような旋律が、静まり返った室内を余計に狭く感じさせる。
俺の目の前には、まだ半分も片付いていない領収書の束。
焦れば焦るほど、電卓を叩く指先がもつれていく。
「悠」
後ろに立っていた会長が、俺の肩にそっと手を置いた。
その指先から伝わる温度が、酷使し続けた頭の芯にじんわりと染み込んでいく。
「一旦ここまでにしよう」
「え、いやでも……」
「もう下校時刻だし。続きは、そうだな……」
会長は手を顎に当てて考え出したかと思うと、「あっ」と声を上げた。
「悠、俺の家来る?」
「はっ?」
ーーーー
「いやいや、やっぱり悪いですよ……」
「いいよ。それに、悠一人じゃ終わらないでしょ?」
「それは、そうですけど……」
「悠は家遠いんだし、ここでやる方がその分の時間が省けるよ」
こんな会話が行われたのは、学校から徒歩15分の会長の家の前だ。
流れるように会長の家まで手を引かれ、ここまで来てしまった。
モダンな一軒家で、会長が生活してるところが容易に想像できるほどお洒落だ。
「ね?おいでよ」
選択肢など、俺には与えられていないらしい。
「……お邪魔、します」
観念して会長に促されるまま家の中に入ると、玄関ホールには、少しビターで清潔感のあるアロマの香りが漂っていた。
「適当に座ってて。お茶淹れるよ」
リビングに入ると、会長はそう言ってキッチンに向かった。
俺は言われるがまま、リビングのソファに深く腰を下ろす。上質な革の感触が、限界を迎えていた体に吸い付くように馴染んで、意識がふっと遠のきそうになった。
「はい、どうぞ。ミルクと砂糖入れておいたけどよかった?」
「はい。ありがとうございます」
差し出されたカップからは、甘い香りが立ち上っている。
一口飲むと、程よい温かさで、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていくのが分かった。
俺の猫舌を気遣ってか、少しぬるめに作ってある。
一息つき、カバンの中からパソコンと書類を取り出してリビングの机に置く。
「よし、やろうか」
「はい」
会長の言葉に頷き、作業に取り掛かる。
パソコンに映し出される数字の羅列。先輩の淀みのない指示に従って、俺は領収書をめくり、入力を修正していく。
そして30分後。
「この項目は予備費から……うん、これで整合性が取れるね」
「……はい。あ、ここは、重複入力されてますね……」
カチカチと響くマウスの音。先輩の落ち着いた声と、適温に保たれた空気、そして何より、連日の不眠。
安心感という名の毒が、じわじわと俺の意識を蝕んでいく。
……だめだ。終わらせないと。まだ途中なのに……
重くなるまぶたを必死に押し上げる。けれど、隣から伝わってくる先輩の体温が、子守唄のように心地よい。
視界の中の数字が、ゆっくりと滲んでいく。
「悠?大丈夫?」
「だい、じょうぶ……です」
そう答えたのを最後に、俺の意識はぷつりと途切れた。
ーーーー
甘いにおいが鼻を掠めて目を覚ます。
と、同時に頭が真っ白になる。
勢いよく起き上がると、それに驚いた会長と目が合った。
「あ、悠。起きた?」
「ほんとすみません。いつのまにか……」
「全然いいよ」
「……俺どのくらい寝てました?」
「2時間半くらいかな」
いつの間にか寝ていた俺は、リビングのソファーの上にいた。ブランケットもかけられている。
会長は飛び起きた俺の隣に腰掛けると、マグカップを手渡してきた。
「ココア飲める?」
「あぁ、はい……どうも」
大人しく受け取り、その湯気をじっと見つめる。
「悠が飲めるくらいには冷ましたよ」
会長はそう言って、自分用に淹れていたコーヒーを一口含んだ。
俺もココアを少し飲んで、パソコンに目を移す。
「すみません。仕事、続きやります……ってあれ」
画面の中の収支報告書は完成していた。
バッと会長を見ると、会長はにこやかに笑った。
「終わらせたよ」
俺が寝落ちした時、まだ半分も終わってなかったのに。
会長は俺が寝ている2時間半の間に、膨大な量の仕事を全て終わらせてしまったらしい。
「本当にすみません……俺の仕事なのに、会長に全部押し付けて……」
情けなくて、申し訳なくて、消えてしまいたくなる。
「言ったでしょ、こういう時のための会長だって。それに……」
会長はじっと俺を見つめると、俺の頭を優しく撫でた。
「悠には、借りを返さないとって思ってたから」
「借り?」
会長に貸しはないはずだ。
むしろ俺の方が、会長に色々迷惑をかけているだろう。
「覚えてる?去年の今頃。悠が生徒会を手伝いに来てくれた時のこと」
「あぁ、あの時」
俺が1年、会長が2年の時。
原則一学年2人ずつの6人体制の生徒会だが、去年の生徒会には1年が1人足りず5人だったのだ。
文化祭と体育祭の行事ラッシュで、生徒会は多忙を極めていた。
そんな中、既に生徒会役員だった中井に半ば強制で助っ人として呼ばれたのが俺だった。
「あの時、悠が来てくれてほんと助かった」
「いや……たまたま暇してただけなんで……」
「それでも、俺たちは……俺は、助かったんだよ」
会長はそう言って懐かしむように目を細めた。
「そのまま生徒会入ってくれて、俺の恋人役まで請け負ってくれて。感謝してるよ」
「……それは、俺の方こそ。会長がいなきゃ、今の俺はないんで」
喉の奥が熱くなるのを感じて、俺は視線を落とした。
偽りの恋人役。最初はただの「仕事」だったはずなのに、こうして二人の時間を重ねるたびに、境界線が曖昧になっていく。
会長の言葉はいつだって甘くて、俺をこの場所に繋ぎ止める鎖のようだ。
俺をじっと見つめる会長と目が合う。
「悠、俺……」
会長が何か言いかけたその時。
ピリリリリリリリ。
俺のスマホが鳴る。
「すみません。出ても……?」
「……うん。いいよ」
会長に断って電話に出ると、甲高い声が聞こえてくる。
『ゆーちゃん!?今どこにいるの?遂にグレた!?』
「……姉ちゃん。もし仮にグレたとしても直接聞くなよ」
4歳年上の姉からの電話だった。
21時を回っても帰ってこない弟を心配していたらしい。
「今、生徒会の先輩の家にいる。明日の体育祭の仕事がまだ残ってたから」
『えっ!!!もしかしてあのイケメンな会長!?』
「……うん、そうだよ」
21時だとは思えないほどテンションの高い姉に苦笑していると、トントンと肩を叩かれた。
俺は電話をスピーカーにして会長にスマホを渡す。
「こんにちは。こんな遅くまで弟さんを拘束してしまってすみません」
『えっ!!!!あ、いえ〜。こちらこそ、いつも弟がお世話になっております〜』
姉の声が即座に外向けに変わる。
落ち着きで言えば、会長の方が年上に見えるな。
電話の先の姉が俺に向かって言う。
『ゆーちゃん、迎えに行こうか?明日も早いでしょ!』
「あ、おねが……」
俺が頷こうとしたのとほぼ同時に、隣の会長が口を開く。
「悠、ここに泊まってく?」
「えっ」
『えっ!?』
俺と電話の中の姉の声が重なる。
驚いて会長を見ると、いつものように完璧な笑みを浮かべた。
「明日も朝早いし、俺の家の方が学校に近いからゆっくり休める。悠、最近寝れてなかったでしょ」
「それは……」
俺は言葉を詰まらせた。
最近まともに寝れていなかった結果、寝落ちして会長に仕事を全て押し付けてしまったのだ。
それに関して反論することはできなかった。
「もちろん悠のご家族が許してくれたら、だけどね」
『それは全然大丈夫ですけど……会長さんのご家族にご迷惑では!?』
勝手に話を進めないでほしい。
しれっと許可出さないでよ、姉ちゃん……
「うちの親には既に許可取ってるんで、ご心配なく」
「えっ、いつの間に!?」
「悠が寝てる時」
さらっと返されてまた言葉に詰まる。
そんなところまで仕事が速いのか、この人は。
「だから、いいよね。悠」
逃げ道なんて、最初から用意されていなかったらしい。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
電話の向こうで「じゃあ会長さん、よろしくお願いしますね!」と上機嫌な姉の声が響き、通話が切れた。
ーーーー
「お風呂、入ってきなよ。着替えは俺が準備するから」
会長に言われるがままにお風呂に入り、脱衣所に出ると、着替えが準備してあった。
会長のものなのか、全体的に大きい気がする。
案の定、肩幅も丈も俺には大きくて、鏡に映る自分の姿がなんだかひどく子供っぽく見えて落ち着かない。
おそるおそるリビングに戻ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。涼介、起きてる?」
「おかえり、母さん。お疲れ様」
キッチンで片付けをしていた会長が、穏やかな笑顔で迎え入れる。入ってきたのは、会長によく似た、品のある綺麗な女性だった。
「あら、彼が?」
「そう。生徒会の後輩の成瀬悠くん」
「あ、はじめまして。成瀬です。夜分に突然お邪魔してしまって、本当にすみません……」
俺は慌てて深く頭を下げた。大きすぎるシャツの袖が手の甲まで隠れてしまい、余計に挙動不審に見えていないか不安になる。
「成瀬くんね!涼介から話は聞いてるわよ。ゆっくりしてってね」
お母さんは優しく目を細めて、俺の緊張をほぐすように笑ってくれた。
「涼介、成瀬くんに失礼のないようにね。明日は体育祭なんだから、しっかり休ませてあげるのよ」
「わかってるよ、母さん。おやすみ」
お母さんが自室へ上がっていくのを見送ると、リビングには再び二人きりの静かな時間が戻ってきた。
「お風呂入ってくるから、悠はソファーで髪を乾かしな」
「わかりました」
会長からドライヤーを受け取って、会長が脱衣所に向かうのを見届けた後ソファーに座る。
改めて息をつくと、疲れがドッと出てきた。
今にもまぶたが落ちてきそうだが、気合いでドライヤーのスイッチを入れる。
けれど、乾かす間にも眠気が襲ってきて抗えなくなる。
結局、このぐらいでいいやとスイッチを切り俺は目を閉じた。
ーーーー
体が動かされる感覚がして、微かに意識が浮上する。
「かいちょ……?」
「ごめん、起こした?」
眠気と格闘しながら周りを見ると、先ほどいたリビングとは別の部屋にいた。
「……ここは?」
「俺の部屋だよ。リビングでそのまま寝ちゃいそうだったから」
どうやら俺は、会長に抱えられるようにしてここまで運ばれたらしい。
「すみません……おれ、そふぁーでねるんで……」
重い頭をなんとか動かして身を起こそうとするが、毛布の上から会長の手が優しく肩を抑えた。
「ダメだよ。そんなクマを作っている人をソファで寝かせるわけにはいかない。明日に備えて、しっかり休まないと」
「でも……」
それだと、会長がソファーで寝ることになってしまう。
流石に先輩でありこの部屋の主である会長を押し退けて、ベッドに1人で寝るなんてことは俺にはできない。
じゃあ、どうしたらいい?
眠気に支配され、ぽやぽやとした意識の中で考える。
「かいちょう、いっしょにねますか……?」
「……え?」
聞き返した会長の声が、心なしか微かに震えたような気がした。
けれど、今の俺にはそれを分析するだけの思考回路は残っていない。ただ、広いベッドを独り占めすることへの申し訳なさと、一人で寝るにはこの部屋が少しだけ静かすぎるような気がして、口が勝手に動いていた。
「……だめ、ですか……?」
自分でも何を言っているのか怪しい。
重いまぶたの隙間から会長を見上げれば、目を見開いて硬直していた。
「……悠、自分が何を言ってるか分かってる?」
「……ねむい、です……」
答えになっていない返事をして、俺は枕に顔を埋めた。
すると、ふっと短く息を吐く音が聞こえ、隣のマットレスが沈み込む。
パチン、と明かりが消え、視界が深い闇に包まれる。
隣から伝わる会長の温度が妙に心地よい。
「おやすみ、悠」
暗闇の中で、大きな手が俺の頭を一度だけ、包み込むように撫でた。
その優しさが最後の一押しとなって、俺の意識はぷつりと途切れた。



