残念なことに、時間は止まってくれない。
俺は、自分の気持ちがわからないふりをしたまま12月中旬──会長の任期が終わる1週間前を迎えていた。
生徒会室では、任期終了に伴って備品整理や引き継ぎ作業が進んでいる。
「先生に呼ばれたから行ってくるよ。みんなで進めといて」
会長はそう言い残すと、生徒会室を後にした。
みんなはそれを見送って、それぞれの仕事に戻る。
俺も作業に戻ろうと、パソコンの画面を眺めた。
画面の中の数字を目で追いながら、頭は全く別のことを考えていた。
──ずっと一緒にいたいと願ったり。離れるのが怖くて、たまらなくなったり。そう、どうしようもなく思えてしまう相手がいること……だと、俺は思う。
頭の中で会長の言葉が何度もよぎる。
そう思える相手が、自分にできたかもしれないこと。
それと同時に、ある人伝えなければいけないこと。
いっそわからないふりをしたままの方が楽なんじゃないか、なんて思考になる自分が嫌になる。
山名は多分、俺より苦しんでいるはずなんだ。
同性の友達に告白する勇気が、どれだけのものか俺には計り知れない。
その告白の返事を待ち続けるのも、俺が考えているよりずっと苦しい。
頭じゃわかっているのに、心が追いつかない。
山名に言わなきゃいけないことも、会長に伝えたいことだって、たくさんあることくらいわかりきっているのに。
それをわかりたくない自分がいる。
俺はどうすればいいんだろうか。
「……せ、なるせ、成瀬!」
「……え、あ、なに」
我に返った俺を見て、中井ははぁーっとため息をついた。
俺の画面をのぞいて、一点を指差す。
「ここ、ミスってるぞ」
「あぁ……ごめん」
「ったく、最近ずっと上の空じゃね?お前」
「そんなことは……」
そうは言ったものの、思い当たる節しかなくて俯いていると、佐伯先輩が俺のパソコンをパタンと閉じた。
「さすがにこんな状態の後輩残して引退は、後味悪いかなぁ〜」
「お茶、出しますね!」
庶務の川島がパッと立ち上がる。
書記の三浦も、心配そうにこちらをうかがっていた。
佐伯先輩が俺の隣に座って、俺の肩に腕を回す。
「で、どうしたの?何かあった?」
「いや……」
「言わないのは無し」
バッサリと切られて顔を上げると、全員が俺のことを見つめていた。
観念して口を開く。
「山名……友達に、俺と涼介先輩が本当は付き合ってないってことバレたんです」
俺は山名に偽装がバレたこと、そして告白されたことを話した。
「偽装がバレたこと、黙っててすみません」
「いや……別に成瀬が山名は他のやつに言いふらすやつではない、って言うんだったらいいんだけどよ」
頭を下げた俺に、中井は頭を掻きながらそう呟く。
「問題は……そこじゃないんじゃ……?」
三浦がオドオドとしながら痛いところをついてくる。
なにも返せずにいると、隣の佐伯先輩が川島が出してくれたお茶を一口啜った。
「それで?悠はどうしたいの?もう涼介との偽装も終わるし……山名くんと付き合うの?」
「俺……山名のことは人として好きだけど、多分そういう意味じゃない……と思います」
「そこはわかってるんだ〜」
佐伯先輩は頬杖をつきながら俺をじっと見つめた。
中井はカップを持ちながら壁にもたれる。
「わかってるなら、そう伝えればいいだけ……って訳にもいかなそうだな」
みんなの視線から逃れたくて、机に置かれたカップに目を落とした。
手に取って一口含んだその時、川島がおもむろに口を開く。
「会長、ですか?」
「……っ、ごふっ!ごほっ!」
「図星だな」
「図星だね〜」
吹き出した俺を見て、中井と佐伯先輩が呟く。
佐伯先輩はむせる俺の背中を「はいはい、落ち着いて〜」とさすった。
「山名くんのこと、人として好きだけど付き合えないのは、他に好きな人がいるから……で、その相手が涼介ってことね」
その名前が出た瞬間、顔が熱くなる。
俺は絞り出すように口を開いた。
「……っ、違いますよ。涼介先輩とは、ただの偽物の恋人で、仕事の関係で……偽装が終わったら、それで全部終わりだから。だから……」
「成瀬は、それでいいのかよ」
中井は壁から背を離し、一歩こちらに踏み出した。
「それじゃ嫌だから、そんなに悩んでるんじゃねぇの」
「……嫌だよ」
気づいたら、口からこぼれ落ちていた。
視界が熱くなって、俺は拳を強く握りしめる。
「嫌だよ、終わらせたくない……仕事だから、嘘だから、涼介先輩の隣にいられた。でも……」
一度口にすると、止まらなかった。
机の上に、ぽた、と熱い雫が落ちる。
「分かっちゃったら、もう『仕事だから』なんて顔して隣にいられない。山名を振って、この嘘を全部壊して……その先に、何があるのか分からないのが……怖い」
山名に不誠実な自分も、先輩への執着を捨てられない自分も、全部が情けなくて涙が止まらない。
静まり返った生徒会室に、俺の鼻をすする音だけが響く。
中井が大きなため息をついて、俺の頭を乱暴に、けれど優しく小突いた。
「……バカだな、お前は。わからないのは当たり前だろ。それに、そんなに怖いなら、仕事じゃなくて本物にしちまえばいいじゃん。会長だって、お前が動くのをずっと待ってんじゃねーの」
「そうだよ〜、悠」
佐伯先輩も、いつになく真剣な目で、でもいつものようにのらりくらりとした様子で口を開く。
「涼介はああ見えて格好つけだからね〜」
川島も三浦も、何も言わずに俺を見守ってくれている。
今更だが、後輩の前でボロ泣きしてきまったな。
恥ずかしさを誤魔化すように袖で涙を拭う。
その時、廊下から聞き慣れた足音が近づいてきた。
慌ててパソコンを開ける。
扉が開いて、会長が戻ってきた。
「お待たせ……って、なんかあった?」
先輩はいつものように穏やかに微笑む。
けれど、少し赤くなった俺の目元を見て、少し焦ったような表情を浮かべた。
「どしたの、悠」
「……なんでも、ありません。ちょっと、画面見すぎて目が痛いだけです」
俺はわざとぶっきらぼうに答えて、開いたばかりのパソコンに視線を落とした。
自分の声が少し震えているのがわかって、心臓が嫌な音を立てる。
「本当に? 佐伯、悠に何かした?」
「心外だな〜。そんなことするわけないでしょ」
佐伯先輩がひらひらと手を振って、いつもの調子で受け流す。
中井も何も言わずにカップを片付け始めた。
「……そう」
会長は納得しきれていない様子だったが、それ以上は踏み込んでこなかった。
俺は画面を見つめたまま、拳を握りしめる。
さっきまで溢れそうだった涙は止まったけれど、代わりに胸の奥がじりじりと熱い。
会長は、俺が動くのを待っているんだろうか。
佐伯先輩の言葉を信じていいのか、俺にはわからない。
でも、わからないままでいられる時間は、もうほとんど残されていない。
山名に返事をするということは、この「恋人役」を自ら壊すということだ。
それでも、隣にいたいと願うなら。
離れるのが怖くてたまらないなら。
俺は、「仕事」という逃げ道を、自分の手で塞がなければならない。
「……涼介先輩」
不意に名前を呼ぶと、会長がこちらに目を移す。
「なに、悠」
その穏やかな、どこまでも優しい瞳。
俺は一瞬だけ言葉に詰まってから、精一杯の普通を装って告げた。
「一緒に帰りましょう」
冬の夕暮れ、オレンジ色の光が差し込む生徒会室で、会長はゆっくりと頷いた。
「そうだね」
その声が、終わりの合図のように聞こえた。
同時に、それは新しい何かが始まる、たった一つの入り口のようにも思えた。



