生徒会長の恋人役になった件



体育祭から1ヶ月が過ぎようとしていた。
11月。廊下を渡る風はいつの間にか冬の匂いを孕み、下校時刻を告げるチャイムが鳴る頃には、空は濃い群青色に染まっている。


「成瀬、これ。数学のノート」
「あ、ありがと。山名」


昼休みの教室。ノートを受け取る際、一瞬だけ指先が触れた。
山名は体育祭であんな告白をしたとは思えないほど、普通に接してくれている。
「答えは待つ」と言った言葉通り、山長は一度も俺を急かさない。

……なんで、そんなに優しいんだよ

山名が俺を気遣ってくれているのは痛いほど分かる。
だからこそ、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
彼が普通に接してくれればくれるほど、俺の中の答えが出ていない不誠実さが浮き彫りになる。


「なあ、成瀬」
「……っ、なに?」


不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
顔を上げた俺に、山名は少し困ったような、それでいてどこか優しい苦笑いを浮かべた。


「困らせてごめんな」


山名だって、苦しいはずなのに。
こんな顔させたいわけじゃ無かったのに。


「……山名さ。俺、」
「わかってるよ」


遮るように、山名が口を開く。
その瞳は真っ直ぐで、射抜くような強さと、すべてを包み込むような静けさが混在していた。


「お前が真面目なのは知ってる。だから、俺はちゃんと待つって決めた」


山名を苦しめているのは俺だ。
それなのに、気を使わせている自分が情けなくて、頭の中は常にノイズが走っているようだった。


「ほら、飯食お」
「……うん」


自分で自分が嫌になってくる。
俺は、どうするのが正解なんだろう。



ーーーー



放課後、逃げるように向かった生徒会室。
ストーブの微かな燃焼音だけが響く室内で、中井がぽつりと呟いた。


「もうすぐ12月だな」


その言葉に、資料を整理していた俺の手が止まる。
今期の生徒会は12月末、つまり2学期終了までだ。


「俺と涼介の任期も後1ヶ月かぁ。来期は智也と悠、どっちが会長になるの?」
「さぁ……」


佐伯先輩に話を振られ、俺は曖昧に視線を彷徨わせた。
会長の任期が終わる。
それは、俺が「会長の恋人」という役を終える日でもある。

……なのに、なんで

胸の奥が、冷たい水に浸されたように重い。
山名の告白に答えなきゃいけない。
でも、会長とのこの関係が終わるのが、どうしようもなく恐ろしかった。
謎の焦燥感が、指先からじわじわと体温を奪っていく。
役目が終われば、俺がこの人の隣にいる正当な理由はなくなる。
それが、どうしようもなく苦しくて、悲しくて。
なぜなのかもわからないけど、でも、それを考える余裕すらなくて。

結局今日も、たいして仕事が進められないまま終わってしまった。



ーーーー



「悠、帰ろうか」


振り返ると、マフラーを巻いた会長が、優しく俺を見つめていた。
校門を出て、駅へと続く並木道を歩く。
いつもなら、会長との何気ない会話が心地よいはずなのに、今の俺の頭の中は、気遣ってくれる山名への罪悪感と、迫りくる「期限」でパンパンに膨れ上がっていた。


「……悠?」


不意に足を止めた会長が、俺の顔を覗き込んできた。
その瞳は、俺の心の澱みをすべて見透かしているかのように澄んでいる。


「生徒会室で任期の話を始めてから……いや、最近ずっと浮かない顔してるように見えて。何か、悩んでる?」


心臓が跳ねた。
この人は、いつだって俺の異変に気づいてしまう。
山名との約束、偽装がバレたこと、そして山名からの告白。
不器用で、恋愛なんて一文字も分かっていない俺のキャパシティは、とうに限界を迎えていた。
けれど、目の前にいるこの人だけは、俺を正解へ導いてくれるという絶対的な信頼があった。


「……涼介、先輩」


俺は震える声で、ようやく言葉を絞り出した。
山名を傷つけている自分への嫌悪も、この心地よい嘘が消えることへの恐怖も、すべてをこの人に預けたかった。
自分勝手だけど、会長なら全て受け止めてどうにかしてくれる気がして。


「すみません……俺、大事な報告を、ずっと黙ってました」
「報告?」
「……山名に、バレたんです。俺たちが本当は付き合ってないって」


会長の眉が、微かに動いた。
いつも通りの完璧な微笑が、一瞬だけ、剥がれ落ちたような気がした。


「それに、あの……山名に、言われたんです。本物の恋人を作ってもいいだろって……っ、好きだって、告白されて……」


言葉にすると、堰を切ったように感情が溢れ出した。

山名にどう返せばいいのか分からない。
山名をこれ以上苦しませたくない。
会長とのこの時間が終わるのが怖い。

ぐちゃぐちゃになった思考が涙となって、視界を熱く歪ませる。


「……報告が遅れて、すみません。俺、どうすればいいのか、もう全然分からなくて……っ」


冷たい夜風の中、俺は子供のように、情けなく泣きそうになりながら、会長のコートの袖をぎゅっと握りしめた。

山名に嘘がバレたこと。
そして、山名から向けられた真っ直ぐな好意。
それを隠していた罪悪感と、初めて直面する「本物の恋愛」という重圧に、俺のキャパシティはとうに限界を迎えていた。


「……悠」


頭上で、低く落ち着いた声が響く。
怒られるかと思った。
でも、次に感じたのは、凍える空気を遮断するように俺を包み込む、厚手のコートの温もりだった。


「っ、先輩……」


会長は何も言わず、俺をその胸の中に引き寄せた。
驚きで体が強張ったが、後頭部に添えられた大きな手のひらが、迷子をなだめるようにゆっくりと髪を撫でる。
そのリズムがあまりに優しくて、俺は無意識に、会長の胸元に顔を押し当てていた。

安心、してしまった。

最低だ。
山名の気持ちを預かっている身でありながら、俺は今、偽物の彼氏であるこの人の腕の中から「離れたくない」と強く願ってしまっている。
この温かさが、12月が来れば消えてしまうものだなんて、今は考えたくもなかった。


「……大丈夫だよ。山名くんが他の誰かにバラすなんてことはしない。彼はそれくらい、分別のつく男だろう?」


会長の声が、胸板を通して微かに震えながら伝わってくる。


「……はい。山名は、そういうやつじゃありません」
「そうだね。だから、バレてしまったこと自体は問題ない……ただ」


会長は俺の体を少しだけ離すと、潤んだ俺の瞳をじっと覗き込んだ。
街灯の光を反射するその瞳は、いつもの完璧な微笑を湛えている。


「……山名くんの気持ちには、どう答えるつもりなのかな?」


会長は一つトーンを下げて、どこか確認するようにそう口を開く。


「……わからない、です」


俺は震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。
山名の真っ直ぐな好意は痛いほど伝わってきた。
でも、それを「恋」として受け入れられるのかと問われれば、胸の奥に広がる霧は晴れないままだ。


「俺、恋愛なんて一度もしたことなくて……何が正解なのか、どう答えるのが正解なのか、全然……」


俯く俺の視界に、街灯に照らされた会長の靴が映る。


「……そう」


会長はそう呟くと、俺の背中を優しく撫でた。
会長の胸に顔を埋めながら、俺は無意識にそのコートを強く握りしめる。
「役目」という言葉で自分を縛らなければ、今にもこの温もりに溺れてしまいそうだった。


「恋愛、か……」


耳元で、会長の声が鼓膜を優しく揺らした。
俺を抱きしめる腕の力はそのままに、会長は夜の闇を見つめたまま、静かに言葉を紡ぎ出す。


「……俺が思うに、それはきっと、理屈じゃない」


会長の指先が、俺の項にそっと触れる。
その熱に、背筋がゾクりと震えた。


「ずっと一緒にいたいと願ったり。離れるのが怖くて、たまらなくなったり。そう、どうしようもなく思えてしまう相手がいること……だと、俺は思う」
「…………」


心臓が、嫌なほど大きく脈打った。
会長が語るその「定義」が、あまりにも今の俺の心に、ぴったりと重なってしまったからだ。
12月が来て、この時間が終わるのが怖い。
この場所に、ずっといたいと願っている。
誰にも見せたくないこの涙を、この人にだけは預けてしまいたいと思っている。

……これ、が……?

それが「恋」だと言うのなら。
俺が今、この人に抱いているこの感情に、一体どんな名前をつければいいのか。


「悠?」


覗き込んできた会長の瞳は、どこまでも深く、慈しむように俺を映している。
俺はその瞳から逃げるように、また会長の胸に顔を伏せた。


「……分かりません……まだ、俺には」


嘘だ。本当は、何かが胸の奥で音を立てて崩れたことに気づいている。
けれど、それを認めてしまえば、俺たちの「仕事」は、その瞬間に瓦解してしまう。


「いいよ。ゆっくり、見つけていけばいい」


会長は満足げに目を細めると、俺の背中を優しく叩いた。


「帰ろうか。冷えてきたし、風邪を引いたら大変だ」
「……はい」


歩き出した会長の隣で、俺は冷たい夜風を肺いっぱいに吸い込んだ。

砂時計の砂は、音もなく、けれど確実に落ち続けている。
最後の一粒が落ちる時、俺がこの感情に名前をつけてしまったら、俺たちはどうなってしまうのだろう。

会長の横顔を見上げると、彼は何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべて夜の道を歩いていた。