放課後の教室は、いつも同じ空気で満たされている。
友達同士で明日の予定を確認し合う声、部活の準備をする音、誰かが冗談を言って笑い合う声が教室中に響いていて、誰もが次の場所へ向かう準備をしている。その喧騒の中で、僕だけは窓際の席に座ったまま外を眺めていた。別に行くところがないわけじゃない。帰ろうと思えば帰れるし、図書館に寄ることもできるし、コンビニで時間を潰すこともできる。ただ、そうする理由が見つからなかった。
生きることに本気になれない。死ぬことにも本気になれない。ただ、なんとなく毎日が過ぎていく。
そんな日々を繰り返しながら、僕は高校二年生になっていた。気づけば春が終わり、梅雨が近づいている。季節は移り変わっていくのに、僕の中では何も変わらない。まるで時計の針が止まっているかのように、同じ景色を見続けている。教室の窓から見える景色も、毎日同じだった。
窓の外には校庭が見える。サッカー部が練習していて、誰かが大きな声で指示を出している。その声が遠くから聞こえてきて、僕の耳を素通りしていく。彼らは汗を流しながら、必死にボールを追いかけている。きっと彼らには目標があって、それに向かって頑張っているのだろう。でも、僕にはそういうものが何もなかった。目指すべき場所も、行きたい場所も、なりたい自分も。全てが霧の中にあって、輪郭が見えない。
「桐谷君、部活とか入らないの?」
声をかけられて振り向くと、クラスメイトの神崎理沙が立っていた。彼女はいつも明るくて、誰にでも気軽に話しかける性格だった。入学式の日から積極的に友達を作っていて、今ではクラスの中心的存在になっている。休み時間はいつも誰かと話していて、放課後も友達と遊びに行くことが多い。僕のような無気力な人間にも、時々こうして声をかけてくれる。
「別に、入る気はないかな」
僕はそう答えた。理沙は少し残念そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を作った。彼女はいつもそうだった。どんなときでも明るく振る舞って、周りを元気づけようとする。
「そっか。でも、何か楽しいことあるといいね」
彼女はそう言って教室を出ていった。廊下では友達が待っていたようで、「遅いよー」という声が聞こえてきた。二人は楽しそうに話しながら歩いていく。その後ろ姿を見ながら、僕は何も言えなかった。楽しいこと。そんなものが自分にあるのだろうか。
中学時代、僕には親友がいた。大樹という名前で、いつも一緒にいた。彼は明るくて、僕とは正反対の性格だったけれど、なぜか気が合った。小学校からの付き合いで、物心ついた頃から隣にいた。放課後はいつも一緒に帰って、くだらない話をしながら笑っていた。ゲームの話、アニメの話、好きな女の子の話。どんな話題でも、大樹と話していると時間があっという間に過ぎた。
大樹は将来の夢を持っていた。漫画家になりたいと言っていて、いつもノートに絵を描いていた。授業中もこっそり描いていて、先生に怒られることもあったけれど、それでも描き続けていた。「いつか週刊誌に載せるんだ」と言って、目を輝かせていた。僕はそれを横で見ながら、「すごいな」と思っていた。夢を持っている人間は、輝いて見える。目標に向かって進んでいる人間は、生きている実感があるように見える。僕にはそういう夢がなかったから、大樹が羨ましかった。
でも、ある日、大樹は屋上から飛び降りた。
それは中学三年生の秋だった。進路を決める時期で、誰もが受験のことで頭がいっぱいだった。大樹も美術系の高校を目指していて、毎日絵を描いていた。ポートフォリオを作るために、何十枚もの絵を描いていた。でも、彼は次第に表情が暗くなっていった。休み時間も一人で絵を描いていて、誰とも話さなくなった。
僕はそれに気づいていたけれど、何も言えなかった。きっと受験のプレッシャーだろうと思っていた。
その前日、彼は僕に「ちょっと話があるんだ」と言った。放課後、いつもの帰り道で、大樹は少し真剣な顔をしていた。でも僕は塾があって急いでいたから、「明日でいいだろ」と流してしまった。大樹は少し寂しそうな顔をしたけれど、「うん、わかった」と言って別れた。
それが最後の会話になった。
翌日、大樹は学校の屋上から飛び降りた。遺書はなかった。理由もわからなかった。ただ、彼がいなくなったという事実だけが残った。
もしあのとき話を聞いていたら、何かが変わっていたのだろうか。大樹は僕に何を話したかったのだろうか。今でもわからない。ただ、自分が彼を救えなかったという事実だけが、重くのしかかっている。あの日、「明日でいい」と言わなければ。そんな後悔が、今でも胸を締め付ける。
僕はそれから、生きることに意味を見出せなくなった。大樹を救えなかった自分を責め続けながら、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々を送っている。高校に入学しても、その気持ちは変わらなかった。
教室に残っているのは僕だけになっていた。外はもう夕方で、オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。教室の時計を見ると16時45分。そろそろ帰ろうかと思って鞄に手を伸ばしたとき、教室のドアが開いた。
「なあ、桐谷」
振り向くと、クラスメイトの藤崎健太が立っていた。彼とはほとんど話したことがない。同じクラスになって二ヶ月が過ぎたけれど、会話をしたのは出席確認で返事をした程度だった。藤崎は普段から物静かで、いつも一人でいる印象がある。昼休みも一人で本を読んでいるし、放課後もすぐに帰ってしまう。友達がいるのかどうかもわからない。そんな彼が、なぜ僕に声をかけてきたのだろうか。
「なんだよ」
僕は答えた。藤崎は教室に入ってきて、僕の隣の席に座った。彼は鞄を床に置いてから、窓の外を見た。しばらく沈黙が続いた。僕は藤崎の横顔を見ていたけれど、彼は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめている。その表情は読み取れなかった。夕日が彼の顔を照らしていて、影が濃く落ちている。
三十秒ほど経ってから、彼はゆっくりと口を開いた。
「お前、屋上行ってみたら?」
唐突な言葉だった。僕は藤崎の顔を見たけれど、彼は相変わらず窓の外を見たままだった。
「屋上? 立ち入り禁止じゃなかったっけ」
僕は聞き返した。この学校の屋上は、安全上の理由で立ち入り禁止になっている。ドアには鍵がかかっていて、生徒は誰も入れないはずだった。
「そう、普通はね」
藤崎は淡々と答えた。彼の声には抑揚がなくて、まるで機械的に言葉を並べているようだった。
「でも放課後の17時43分から17時58分だけは、入れるんだ」
17時43分から17時58分。なんて中途半端な時間なんだろう。部活が終わる時間でもないし、下校時間でもない。そして、たった15分間だけ。
「どういうことだよ」
「その時間だけ鍵が開いてる。監視カメラも機能停止する。スマホの電波も入らない」
藤崎は僕の方を向いた。彼の目は虚ろで、何かを見ているようで何も見ていないような、不思議な印象を受けた。
「そこで、みんな死ぬ練習をしてる」
死ぬ練習。
その言葉が妙に耳に残った。僕は藤崎の顔をじっと見たけれど、彼は冗談を言っているようには見えなかった。むしろ、真剣そのものだった。
「死ぬ練習って……何をするんだ」
「もし今日が最後なら、自分はどう死ぬかを話すんだ」
藤崎の言葉は静かだったけれど、重かった。僕は何も言えなくなった。自分がどう死ぬかを話す。そんな場所が、本当にこの学校にあるのだろうか。
「実行しちゃいけない。泣いちゃいけない。慰めちゃいけない。嘘もつけない。ただ語るだけ」
四つのルール。藤崎は淡々と並べた。
「もしルールを破ったら?」
僕は聞いた。藤崎は少し間を置いてから、答えた。
「翌日から、学校に来なくなる」
藤崎はそう言って立ち上がった。彼は鞄を持って、教室のドアに向かって歩き出した。そして、振り返ることなく最後に言った。
「気が向いたら、来てみろよ」
ドアが閉まる音が教室に響いた。僕は一人取り残されて、藤崎の言葉を反芻していた。死ぬ練習。なぜそんなことをするのだろう。でも、なぜか興味が湧いた。もしかしたら、そこに何かがあるのかもしれない。生きる意味を失った僕のような人間が、そこに集まっているのかもしれない。
僕は時計を見た。今は16時50分。17時43分まで、まだ時間がある。でも、行くべきなのだろうか。
藤崎は嘘をつくような人間には見えなかった。彼の目は本気だった。あの虚ろな目は、何かを諦めた人間の目だった。僕はそれを知っている。なぜなら、僕も同じ目をしているからだ。
僕は教室を出た。
気づけば、僕は屋上へ続く階段の前に立っていた。
この階段は普段使われることがない。立ち入り禁止の看板が立っていて、誰も近づかない場所だった。看板には「危険」「立入禁止」と大きく書かれている。階段の入口は薄暗くて、少し不気味な雰囲気がある。でも、今の僕には恐怖心がなかった。むしろ、吸い込まれるような感覚があった。
僕は階段を上がり始めた。足音だけが静かに響いていて、それが妙に大きく聞こえた。途中、踊り場があって、壁には落書きがあった。誰かが書いた文字が読めた。「もう疲れた」「誰か助けて」「消えたい」「生きるのしんどい」。そんな言葉が並んでいて、見ているだけで胸が苦しくなった。きっと、ここを通った誰かが書いたのだろう。
階段を上りきると、屋上へのドアがあった。灰色の金属製のドアで、取っ手には錆が浮いている。長い間使われていないように見えた。僕はドアノブに手をかけてみた。でも、開かなかった。
時計を見ると17時30分。僕は踊り場に座り込んで、時間が過ぎるのを待つことにした。大樹のことを思い出していた。彼が死ぬ前、僕に何を話したかったのだろう。もしあのとき、ちゃんと話を聞いていたら。
17時43分になった。
僕は立ち上がって、ドアノブに手をかけた。そして、軽く押してみた。
ドアが開いた。
驚きよりも、不思議な納得感があった。藤崎の言葉は本当だったのだ。僕はドアを押し開けて、屋上に足を踏み入れた。
屋上は夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の空が一面に広がっていて、遠くに見える街並みがシルエットになっている。ビルの輪郭、マンションの形、遠くの山並み。全てが黒く塗りつぶされて、空の色だけが際立っている。風が吹いていて、僕の髪を揺らした。空気は冷たくて、でもどこか心地よかった。
そして、そこには既に何人かの生徒がいた。
フェンスに寄りかかっている者、地面に座り込んでいる者、ただ立ち尽くしている者。全員が無言で、それぞれの場所で何かを待っているようだった。異様な静けさが屋上を支配していて、誰も話そうとしない。
僕は生徒たちの顔を見渡した。藤崎もいた。彼は屋上の端に立っていて、相変わらず虚ろな表情をしている。海の方を見つめていて、動かない。他にも見たことがある顔があったけれど、名前は知らなかった。全員が僕と同じように、どこか生気を失っているように見えた。目に光がない。表情が乏しい。
数えてみると、全部で7人いた。藤崎を含めて、男子が4人、女子が3人。僕を入れると8人になる。みんな制服を着ていて、鞄を持っている。普通の高校生に見えるけれど、その表情は普通じゃなかった。
その中に、彼女がいた。
屋上の中央に立っていて、こちらを見ていた。長い黒髪が風に揺れていて、整った顔立ちが夕焼けに照らされている。背は高くなくて、細身の体型をしている。制服は他の生徒と同じだけれど、着こなし方が少し違う。リボンの結び方が丁寧で、スカートの長さも膝が隠れるくらいだった。
でも、一番印象的だったのは、その表情だった。悲しくもなく、楽しくもなく、怒ってもいない。ただ異様に安定している。感情が読み取れない顔だった。
彼女は僕に気づくと、軽く手を上げた。そして、ゆっくりとこちらに歩いてきた。他の生徒たちは相変わらず無言で、彼女の動きを見ているだけだった。
「初めて?」
彼女の声は静かで、でもはっきりと聞こえた。高くも低くもない、中性的な声だった。僕は頷いた。
「……うん」
「じゃあ、ルールだけ教えておくね」
彼女は淡々と言った。その口調には感情が乗っていなくて、まるで決まり文句を読み上げているようだった。
「ここでは、一つだけやることがある。もし今日が最後なら、自分はどう死ぬかを話すこと」
僕は何も言えなかった。死ぬことを話す。先ほど藤崎から聞いた通りだ。
「実行しちゃダメ。泣いちゃダメ。慰めちゃダメ。嘘もダメ。ただ語るだけ。それがルール」
彼女の言葉は明確だった。四つの禁止事項。実行、涙、慰め、嘘。
「……もし破ったら?」
僕は聞いた。彼女は少し考えるような仕草を見せてから、答えた。
「翌日から、学校に来なくなるらしいよ」
彼女は微笑んだ。でも、その笑顔には何の温度もなかった。まるで作り物のように、表面的な笑顔だった。僕は背筋が冷たくなるのを感じた。
「私は七瀬詩織。よろしくね」
「桐谷蓮」
僕は自分の名前を答えた。詩織は頷いて、元の場所に戻っていった。僕は屋上の隅に移動して、フェンスに寄りかかった。他の生徒たちは相変わらず無言で、ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。
しばらくすると、誰かが動き出した。一人の男子生徒が中央に立って、他の生徒たちを見渡した。そして、淡々と語り始めた。
「俺は、高いところから飛び降りる。落ちてる間だけ、自由でいたい」
彼の声には感情がなかった。まるで天気予報を読み上げるかのように、自分の死に方を語っている。でも、その言葉には重みがあった。「落ちてる間だけ、自由でいたい」。きっと彼は、普段自由じゃないのだろう。
誰も反応しない。ただ静かに聞いているだけだった。
次に、別の女子生徒が語り始めた。彼女は地面に座り込んだまま、膝を抱えながら話した。
「私は薬を飲む。眠るように消えたい」
彼女の声は震えていた。でも、泣いてはいなかった。ルールに従って、涙を堪えている。「眠るように消えたい」。きっと彼女は、苦しみたくないのだろう。
また別の男子生徒が語った。彼はフェンスに寄りかかったまま、前を見つめながら話した。
「俺は電車に飛び込む。一瞬で終わる」
短い言葉だった。でも、その中には確かな意志があった。
次の女子生徒が語った。彼女は立ったまま、空を見上げながら話した。
「私は、誰にも見つからない場所で消える。森の奥とか、山の中とか」
彼女の声は少し震えていた。でも、誰も慰めない。それがルールだから。
次の男子生徒が語った。
「俺は首を吊る。部屋で、一人で」
彼の声は低かった。でも、はっきりと聞こえた。
一人、また一人と、生徒たちが自分の死に方を語っていく。その光景は異様だったけれど、なぜか妙な安心感があった。ここでは、誰も取り繕う必要がない。誰も明るく振る舞う必要がない。ただ、自分の本当の気持ちを語ればいい。
そして、藤崎の番が来た。彼は相変わらず屋上の端に立ったまま、海の方を見ながら語った。
「俺は、海に沈む。誰にも見つからない場所で」
藤崎の声は他の誰よりも静かだった。まるで独り言のように、自分に言い聞かせるように話していた。
次に、詩織の番が来た。彼女は中央に立って、全員を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、海に沈む。深いところまで行って、静かに目を閉じる」
詩織の死に方は、藤崎とほぼ同じだった。二人とも海に沈むと言った。でも、誰もそれを指摘しない。
詩織が話し終えると、全員の視線が僕に向いた。僕の番だった。
でも、僕は何も言えなかった。
語るべき言葉が見つからなかった。どう死にたいのか、考えたこともなかった。死ぬことは怖い。でも、生きることも辛い。その矛盾の中で、僕は答えを出せずにいた。
沈黙が流れた。誰も急かさないし、誰も文句を言わない。ただ、静かに待っているだけだった。風が吹いて、誰かの髪が揺れる音がした。
僕は口を開こうとしたけれど、言葉が出てこなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
詩織が口を開いた。
「無理に話さなくていいよ」
彼女の声は優しかった。でも、その優しさは表面的で、本当の温もりは感じられなかった。
「ここでは、生きてるふりもしなくていいから」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
生きてるふり。
そう、僕はずっとそうしてきた。学校では普通に振る舞って、誰とも深く関わらないようにして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。生きているように振る舞って、でも本当は何も感じていなかった。心は死んでいた。大樹が死んでから、僕の心も一緒に死んだ。でも、体は生きている。だから、生きているふりをしなければいけなかった。学校に行って、授業を受けて、テストを受けて、帰る。その繰り返し。でも、全てが空虚だった。
ここでは、それすらしなくていいのか。
僕は詩織を見た。彼女は相変わらず無表情だったけれど、その目には何かがあった。それが何なのか、僕にはわからなかった。
17時58分が近づいていた。誰かの腕時計がアラームを鳴らした。電子音が屋上に響いて、それを合図に全員が動き出した。誰も話さず、一人ずつ屋上を去っていく。まるで儀式が終わったかのように、静かに、でも確実に。
僕も同じように階段を降りた。ドアを出ると、後ろで誰かがドアを閉める音がした。振り返ると、詩織が立っていた。彼女は僕を見て、小さく頷いた。僕も頷き返した。
階段を降りる途中、僕は振り返った。屋上のドアは閉まっていて、まるで何もなかったかのように静かだった。でも、僕の中には確かに何かが残っていた。あの場所で感じた安心感。生きてるふりをしなくていいという解放感。そして、詩織の言葉。
校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。
まるで何事もなかったかのように、世界は動いている。生徒たちが部活を終えて帰っていく姿が見える。誰かが笑いながら話している。「明日のテストやばい」「今日の練習きつかった」そんな会話が聞こえてくる。普通の日常が、そこにあった。
でも、僕の中では何かが変わっていた。屋上での15分間が、僕の心に何かを残していた。それが何なのか、まだわからない。でも、確かに何かが変わった。あの場所では、本当の自分でいられた。誰も取り繕わない。誰も明るく振る舞わない。ただ、自分の気持ちに正直でいられる。
僕は自転車置き場に向かって歩き出した。自転車に鍵をかけながら、屋上での出来事を思い出していた。あれは現実だったのだろうか。それとも、夢だったのだろうか。でも、僕の記憶には確かに残っている。7人の生徒たち。それぞれの死に方。そして、詩織の顔。
家に帰る途中、僕はコンビニに寄った。いつも通りの道を、いつも通りに歩いている。でも、何かが違う気がした。世界が少しだけ、違って見える。
その夜、僕は眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。屋上での出来事が頭から離れない。あの場所は何なのだろう。なぜあんなルールがあるのだろう。そして、詩織は何者なのだろう。
時計を見ると、午前1時を過ぎていた。明日も学校がある。でも、眠れない。僕は起き上がって、机に向かった。
あの場所のことを考えると、不思議と落ち着く。あそこでは、何も偽らなくていい。ただそこにいるだけで、心が少しだけ軽くなる。
僕は再びベッドに入った。今度は少しずつ眠気が襲ってきた。目を閉じると、屋上の景色が浮かんできた。夕焼けに染まった空。風に揺れる詩織の髪。無言で立ち尽くす生徒たち。
翌日、教室は相変わらず賑やかだった。
誰もが普通に話していて、昨日と何も変わらない日常が続いている。でも、僕は全く集中できなかった。頭の中では、昨日の屋上のことでいっぱいだった。
僕は窓際の席に座って、外を眺めていた。今日も行くべきなのだろうか。
昼休みになると、神崎理沙が話しかけてきた。彼女は弁当を持って、僕の席の前に立った。
「桐谷君、昨日何してたの?」
「別に。何も」
僕はそう答えた。理沙は少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
僕は屋上での出来事を思い出していた。あの静けさ。みんなが語った死に方。詩織の言葉。そして、あの解放感。
でも、なぜか僕はあの場所に戻りたいと思っていた。あそこでは、本当の自分でいられる気がした。
放課後になって、僕は再び屋上への階段に向かった。時計を見ると17時40分。階段の前に着くと、既に誰かが待っていた。藤崎だった。彼は階段の入口に立っていて、壁に背中を預けている。僕に気づくと、軽く頷いた。
「来たんだな」
「ああ」
僕は答えた。藤崎は何も言わず、再び黙り込んだ。しばらくすると、他の生徒たちも集まってきた。昨日見た顔ぶれだった。みんな無言で、ただ時間を待っている。
17時43分になると、藤崎が階段を上がり始めた。他の生徒たちも続いた。僕も同じように階段を上がって、屋上に入った。
今日も、屋上は夕焼けに染まっていた。
昨日と同じ光景。同じ空気。同じ静けさ。詩織は既に屋上にいた。彼女は中央に立っていて、全員が揃うのを待っているようだった。僕が入ると、彼女は僕を見て小さく頷いた。僕も頷き返した。昨日よりも、少しだけ親しみを感じた。
全員が揃うと、また死に方を語り始めた。昨日と同じ順番で、同じように淡々と。ある者は高いところから飛び降りると言い、ある者は薬を飲むと言い、ある者は電車に飛び込むと言った。
詩織も、昨日と同じように「海に沈む」と語った。
そして、僕の番が来た。
今日も、僕は何も言えなかった。語るべき言葉が見つからなかった。詩織は相変わらず「無理に話さなくていいよ」と言ってくれた。その言葉に、僕は少し救われた。
でも、それでもよかった。ここにいるだけで、僕は少しだけ楽になれる気がした。生きてるふりをしなくていい。ただ、自分の気持ちに正直でいられる。それだけで、心が軽くなる。
17時58分、アラームが鳴った。全員が無言で屋上を去った。僕も階段を降りて、校舎を出た。
帰り道、僕は思った。
また、明日も来よう。
あの場所には、何かがある。まだわからないけれど、確かに何かがある。それを見つけるまで、僕は通い続けるだろう。生きてるふりをしなくていい場所。本当の自分でいられる場所。そこに、僕の居場所があるのかもしれない。
友達同士で明日の予定を確認し合う声、部活の準備をする音、誰かが冗談を言って笑い合う声が教室中に響いていて、誰もが次の場所へ向かう準備をしている。その喧騒の中で、僕だけは窓際の席に座ったまま外を眺めていた。別に行くところがないわけじゃない。帰ろうと思えば帰れるし、図書館に寄ることもできるし、コンビニで時間を潰すこともできる。ただ、そうする理由が見つからなかった。
生きることに本気になれない。死ぬことにも本気になれない。ただ、なんとなく毎日が過ぎていく。
そんな日々を繰り返しながら、僕は高校二年生になっていた。気づけば春が終わり、梅雨が近づいている。季節は移り変わっていくのに、僕の中では何も変わらない。まるで時計の針が止まっているかのように、同じ景色を見続けている。教室の窓から見える景色も、毎日同じだった。
窓の外には校庭が見える。サッカー部が練習していて、誰かが大きな声で指示を出している。その声が遠くから聞こえてきて、僕の耳を素通りしていく。彼らは汗を流しながら、必死にボールを追いかけている。きっと彼らには目標があって、それに向かって頑張っているのだろう。でも、僕にはそういうものが何もなかった。目指すべき場所も、行きたい場所も、なりたい自分も。全てが霧の中にあって、輪郭が見えない。
「桐谷君、部活とか入らないの?」
声をかけられて振り向くと、クラスメイトの神崎理沙が立っていた。彼女はいつも明るくて、誰にでも気軽に話しかける性格だった。入学式の日から積極的に友達を作っていて、今ではクラスの中心的存在になっている。休み時間はいつも誰かと話していて、放課後も友達と遊びに行くことが多い。僕のような無気力な人間にも、時々こうして声をかけてくれる。
「別に、入る気はないかな」
僕はそう答えた。理沙は少し残念そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を作った。彼女はいつもそうだった。どんなときでも明るく振る舞って、周りを元気づけようとする。
「そっか。でも、何か楽しいことあるといいね」
彼女はそう言って教室を出ていった。廊下では友達が待っていたようで、「遅いよー」という声が聞こえてきた。二人は楽しそうに話しながら歩いていく。その後ろ姿を見ながら、僕は何も言えなかった。楽しいこと。そんなものが自分にあるのだろうか。
中学時代、僕には親友がいた。大樹という名前で、いつも一緒にいた。彼は明るくて、僕とは正反対の性格だったけれど、なぜか気が合った。小学校からの付き合いで、物心ついた頃から隣にいた。放課後はいつも一緒に帰って、くだらない話をしながら笑っていた。ゲームの話、アニメの話、好きな女の子の話。どんな話題でも、大樹と話していると時間があっという間に過ぎた。
大樹は将来の夢を持っていた。漫画家になりたいと言っていて、いつもノートに絵を描いていた。授業中もこっそり描いていて、先生に怒られることもあったけれど、それでも描き続けていた。「いつか週刊誌に載せるんだ」と言って、目を輝かせていた。僕はそれを横で見ながら、「すごいな」と思っていた。夢を持っている人間は、輝いて見える。目標に向かって進んでいる人間は、生きている実感があるように見える。僕にはそういう夢がなかったから、大樹が羨ましかった。
でも、ある日、大樹は屋上から飛び降りた。
それは中学三年生の秋だった。進路を決める時期で、誰もが受験のことで頭がいっぱいだった。大樹も美術系の高校を目指していて、毎日絵を描いていた。ポートフォリオを作るために、何十枚もの絵を描いていた。でも、彼は次第に表情が暗くなっていった。休み時間も一人で絵を描いていて、誰とも話さなくなった。
僕はそれに気づいていたけれど、何も言えなかった。きっと受験のプレッシャーだろうと思っていた。
その前日、彼は僕に「ちょっと話があるんだ」と言った。放課後、いつもの帰り道で、大樹は少し真剣な顔をしていた。でも僕は塾があって急いでいたから、「明日でいいだろ」と流してしまった。大樹は少し寂しそうな顔をしたけれど、「うん、わかった」と言って別れた。
それが最後の会話になった。
翌日、大樹は学校の屋上から飛び降りた。遺書はなかった。理由もわからなかった。ただ、彼がいなくなったという事実だけが残った。
もしあのとき話を聞いていたら、何かが変わっていたのだろうか。大樹は僕に何を話したかったのだろうか。今でもわからない。ただ、自分が彼を救えなかったという事実だけが、重くのしかかっている。あの日、「明日でいい」と言わなければ。そんな後悔が、今でも胸を締め付ける。
僕はそれから、生きることに意味を見出せなくなった。大樹を救えなかった自分を責め続けながら、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々を送っている。高校に入学しても、その気持ちは変わらなかった。
教室に残っているのは僕だけになっていた。外はもう夕方で、オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。教室の時計を見ると16時45分。そろそろ帰ろうかと思って鞄に手を伸ばしたとき、教室のドアが開いた。
「なあ、桐谷」
振り向くと、クラスメイトの藤崎健太が立っていた。彼とはほとんど話したことがない。同じクラスになって二ヶ月が過ぎたけれど、会話をしたのは出席確認で返事をした程度だった。藤崎は普段から物静かで、いつも一人でいる印象がある。昼休みも一人で本を読んでいるし、放課後もすぐに帰ってしまう。友達がいるのかどうかもわからない。そんな彼が、なぜ僕に声をかけてきたのだろうか。
「なんだよ」
僕は答えた。藤崎は教室に入ってきて、僕の隣の席に座った。彼は鞄を床に置いてから、窓の外を見た。しばらく沈黙が続いた。僕は藤崎の横顔を見ていたけれど、彼は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめている。その表情は読み取れなかった。夕日が彼の顔を照らしていて、影が濃く落ちている。
三十秒ほど経ってから、彼はゆっくりと口を開いた。
「お前、屋上行ってみたら?」
唐突な言葉だった。僕は藤崎の顔を見たけれど、彼は相変わらず窓の外を見たままだった。
「屋上? 立ち入り禁止じゃなかったっけ」
僕は聞き返した。この学校の屋上は、安全上の理由で立ち入り禁止になっている。ドアには鍵がかかっていて、生徒は誰も入れないはずだった。
「そう、普通はね」
藤崎は淡々と答えた。彼の声には抑揚がなくて、まるで機械的に言葉を並べているようだった。
「でも放課後の17時43分から17時58分だけは、入れるんだ」
17時43分から17時58分。なんて中途半端な時間なんだろう。部活が終わる時間でもないし、下校時間でもない。そして、たった15分間だけ。
「どういうことだよ」
「その時間だけ鍵が開いてる。監視カメラも機能停止する。スマホの電波も入らない」
藤崎は僕の方を向いた。彼の目は虚ろで、何かを見ているようで何も見ていないような、不思議な印象を受けた。
「そこで、みんな死ぬ練習をしてる」
死ぬ練習。
その言葉が妙に耳に残った。僕は藤崎の顔をじっと見たけれど、彼は冗談を言っているようには見えなかった。むしろ、真剣そのものだった。
「死ぬ練習って……何をするんだ」
「もし今日が最後なら、自分はどう死ぬかを話すんだ」
藤崎の言葉は静かだったけれど、重かった。僕は何も言えなくなった。自分がどう死ぬかを話す。そんな場所が、本当にこの学校にあるのだろうか。
「実行しちゃいけない。泣いちゃいけない。慰めちゃいけない。嘘もつけない。ただ語るだけ」
四つのルール。藤崎は淡々と並べた。
「もしルールを破ったら?」
僕は聞いた。藤崎は少し間を置いてから、答えた。
「翌日から、学校に来なくなる」
藤崎はそう言って立ち上がった。彼は鞄を持って、教室のドアに向かって歩き出した。そして、振り返ることなく最後に言った。
「気が向いたら、来てみろよ」
ドアが閉まる音が教室に響いた。僕は一人取り残されて、藤崎の言葉を反芻していた。死ぬ練習。なぜそんなことをするのだろう。でも、なぜか興味が湧いた。もしかしたら、そこに何かがあるのかもしれない。生きる意味を失った僕のような人間が、そこに集まっているのかもしれない。
僕は時計を見た。今は16時50分。17時43分まで、まだ時間がある。でも、行くべきなのだろうか。
藤崎は嘘をつくような人間には見えなかった。彼の目は本気だった。あの虚ろな目は、何かを諦めた人間の目だった。僕はそれを知っている。なぜなら、僕も同じ目をしているからだ。
僕は教室を出た。
気づけば、僕は屋上へ続く階段の前に立っていた。
この階段は普段使われることがない。立ち入り禁止の看板が立っていて、誰も近づかない場所だった。看板には「危険」「立入禁止」と大きく書かれている。階段の入口は薄暗くて、少し不気味な雰囲気がある。でも、今の僕には恐怖心がなかった。むしろ、吸い込まれるような感覚があった。
僕は階段を上がり始めた。足音だけが静かに響いていて、それが妙に大きく聞こえた。途中、踊り場があって、壁には落書きがあった。誰かが書いた文字が読めた。「もう疲れた」「誰か助けて」「消えたい」「生きるのしんどい」。そんな言葉が並んでいて、見ているだけで胸が苦しくなった。きっと、ここを通った誰かが書いたのだろう。
階段を上りきると、屋上へのドアがあった。灰色の金属製のドアで、取っ手には錆が浮いている。長い間使われていないように見えた。僕はドアノブに手をかけてみた。でも、開かなかった。
時計を見ると17時30分。僕は踊り場に座り込んで、時間が過ぎるのを待つことにした。大樹のことを思い出していた。彼が死ぬ前、僕に何を話したかったのだろう。もしあのとき、ちゃんと話を聞いていたら。
17時43分になった。
僕は立ち上がって、ドアノブに手をかけた。そして、軽く押してみた。
ドアが開いた。
驚きよりも、不思議な納得感があった。藤崎の言葉は本当だったのだ。僕はドアを押し開けて、屋上に足を踏み入れた。
屋上は夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の空が一面に広がっていて、遠くに見える街並みがシルエットになっている。ビルの輪郭、マンションの形、遠くの山並み。全てが黒く塗りつぶされて、空の色だけが際立っている。風が吹いていて、僕の髪を揺らした。空気は冷たくて、でもどこか心地よかった。
そして、そこには既に何人かの生徒がいた。
フェンスに寄りかかっている者、地面に座り込んでいる者、ただ立ち尽くしている者。全員が無言で、それぞれの場所で何かを待っているようだった。異様な静けさが屋上を支配していて、誰も話そうとしない。
僕は生徒たちの顔を見渡した。藤崎もいた。彼は屋上の端に立っていて、相変わらず虚ろな表情をしている。海の方を見つめていて、動かない。他にも見たことがある顔があったけれど、名前は知らなかった。全員が僕と同じように、どこか生気を失っているように見えた。目に光がない。表情が乏しい。
数えてみると、全部で7人いた。藤崎を含めて、男子が4人、女子が3人。僕を入れると8人になる。みんな制服を着ていて、鞄を持っている。普通の高校生に見えるけれど、その表情は普通じゃなかった。
その中に、彼女がいた。
屋上の中央に立っていて、こちらを見ていた。長い黒髪が風に揺れていて、整った顔立ちが夕焼けに照らされている。背は高くなくて、細身の体型をしている。制服は他の生徒と同じだけれど、着こなし方が少し違う。リボンの結び方が丁寧で、スカートの長さも膝が隠れるくらいだった。
でも、一番印象的だったのは、その表情だった。悲しくもなく、楽しくもなく、怒ってもいない。ただ異様に安定している。感情が読み取れない顔だった。
彼女は僕に気づくと、軽く手を上げた。そして、ゆっくりとこちらに歩いてきた。他の生徒たちは相変わらず無言で、彼女の動きを見ているだけだった。
「初めて?」
彼女の声は静かで、でもはっきりと聞こえた。高くも低くもない、中性的な声だった。僕は頷いた。
「……うん」
「じゃあ、ルールだけ教えておくね」
彼女は淡々と言った。その口調には感情が乗っていなくて、まるで決まり文句を読み上げているようだった。
「ここでは、一つだけやることがある。もし今日が最後なら、自分はどう死ぬかを話すこと」
僕は何も言えなかった。死ぬことを話す。先ほど藤崎から聞いた通りだ。
「実行しちゃダメ。泣いちゃダメ。慰めちゃダメ。嘘もダメ。ただ語るだけ。それがルール」
彼女の言葉は明確だった。四つの禁止事項。実行、涙、慰め、嘘。
「……もし破ったら?」
僕は聞いた。彼女は少し考えるような仕草を見せてから、答えた。
「翌日から、学校に来なくなるらしいよ」
彼女は微笑んだ。でも、その笑顔には何の温度もなかった。まるで作り物のように、表面的な笑顔だった。僕は背筋が冷たくなるのを感じた。
「私は七瀬詩織。よろしくね」
「桐谷蓮」
僕は自分の名前を答えた。詩織は頷いて、元の場所に戻っていった。僕は屋上の隅に移動して、フェンスに寄りかかった。他の生徒たちは相変わらず無言で、ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。
しばらくすると、誰かが動き出した。一人の男子生徒が中央に立って、他の生徒たちを見渡した。そして、淡々と語り始めた。
「俺は、高いところから飛び降りる。落ちてる間だけ、自由でいたい」
彼の声には感情がなかった。まるで天気予報を読み上げるかのように、自分の死に方を語っている。でも、その言葉には重みがあった。「落ちてる間だけ、自由でいたい」。きっと彼は、普段自由じゃないのだろう。
誰も反応しない。ただ静かに聞いているだけだった。
次に、別の女子生徒が語り始めた。彼女は地面に座り込んだまま、膝を抱えながら話した。
「私は薬を飲む。眠るように消えたい」
彼女の声は震えていた。でも、泣いてはいなかった。ルールに従って、涙を堪えている。「眠るように消えたい」。きっと彼女は、苦しみたくないのだろう。
また別の男子生徒が語った。彼はフェンスに寄りかかったまま、前を見つめながら話した。
「俺は電車に飛び込む。一瞬で終わる」
短い言葉だった。でも、その中には確かな意志があった。
次の女子生徒が語った。彼女は立ったまま、空を見上げながら話した。
「私は、誰にも見つからない場所で消える。森の奥とか、山の中とか」
彼女の声は少し震えていた。でも、誰も慰めない。それがルールだから。
次の男子生徒が語った。
「俺は首を吊る。部屋で、一人で」
彼の声は低かった。でも、はっきりと聞こえた。
一人、また一人と、生徒たちが自分の死に方を語っていく。その光景は異様だったけれど、なぜか妙な安心感があった。ここでは、誰も取り繕う必要がない。誰も明るく振る舞う必要がない。ただ、自分の本当の気持ちを語ればいい。
そして、藤崎の番が来た。彼は相変わらず屋上の端に立ったまま、海の方を見ながら語った。
「俺は、海に沈む。誰にも見つからない場所で」
藤崎の声は他の誰よりも静かだった。まるで独り言のように、自分に言い聞かせるように話していた。
次に、詩織の番が来た。彼女は中央に立って、全員を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、海に沈む。深いところまで行って、静かに目を閉じる」
詩織の死に方は、藤崎とほぼ同じだった。二人とも海に沈むと言った。でも、誰もそれを指摘しない。
詩織が話し終えると、全員の視線が僕に向いた。僕の番だった。
でも、僕は何も言えなかった。
語るべき言葉が見つからなかった。どう死にたいのか、考えたこともなかった。死ぬことは怖い。でも、生きることも辛い。その矛盾の中で、僕は答えを出せずにいた。
沈黙が流れた。誰も急かさないし、誰も文句を言わない。ただ、静かに待っているだけだった。風が吹いて、誰かの髪が揺れる音がした。
僕は口を開こうとしたけれど、言葉が出てこなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
詩織が口を開いた。
「無理に話さなくていいよ」
彼女の声は優しかった。でも、その優しさは表面的で、本当の温もりは感じられなかった。
「ここでは、生きてるふりもしなくていいから」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
生きてるふり。
そう、僕はずっとそうしてきた。学校では普通に振る舞って、誰とも深く関わらないようにして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。生きているように振る舞って、でも本当は何も感じていなかった。心は死んでいた。大樹が死んでから、僕の心も一緒に死んだ。でも、体は生きている。だから、生きているふりをしなければいけなかった。学校に行って、授業を受けて、テストを受けて、帰る。その繰り返し。でも、全てが空虚だった。
ここでは、それすらしなくていいのか。
僕は詩織を見た。彼女は相変わらず無表情だったけれど、その目には何かがあった。それが何なのか、僕にはわからなかった。
17時58分が近づいていた。誰かの腕時計がアラームを鳴らした。電子音が屋上に響いて、それを合図に全員が動き出した。誰も話さず、一人ずつ屋上を去っていく。まるで儀式が終わったかのように、静かに、でも確実に。
僕も同じように階段を降りた。ドアを出ると、後ろで誰かがドアを閉める音がした。振り返ると、詩織が立っていた。彼女は僕を見て、小さく頷いた。僕も頷き返した。
階段を降りる途中、僕は振り返った。屋上のドアは閉まっていて、まるで何もなかったかのように静かだった。でも、僕の中には確かに何かが残っていた。あの場所で感じた安心感。生きてるふりをしなくていいという解放感。そして、詩織の言葉。
校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。
まるで何事もなかったかのように、世界は動いている。生徒たちが部活を終えて帰っていく姿が見える。誰かが笑いながら話している。「明日のテストやばい」「今日の練習きつかった」そんな会話が聞こえてくる。普通の日常が、そこにあった。
でも、僕の中では何かが変わっていた。屋上での15分間が、僕の心に何かを残していた。それが何なのか、まだわからない。でも、確かに何かが変わった。あの場所では、本当の自分でいられた。誰も取り繕わない。誰も明るく振る舞わない。ただ、自分の気持ちに正直でいられる。
僕は自転車置き場に向かって歩き出した。自転車に鍵をかけながら、屋上での出来事を思い出していた。あれは現実だったのだろうか。それとも、夢だったのだろうか。でも、僕の記憶には確かに残っている。7人の生徒たち。それぞれの死に方。そして、詩織の顔。
家に帰る途中、僕はコンビニに寄った。いつも通りの道を、いつも通りに歩いている。でも、何かが違う気がした。世界が少しだけ、違って見える。
その夜、僕は眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。屋上での出来事が頭から離れない。あの場所は何なのだろう。なぜあんなルールがあるのだろう。そして、詩織は何者なのだろう。
時計を見ると、午前1時を過ぎていた。明日も学校がある。でも、眠れない。僕は起き上がって、机に向かった。
あの場所のことを考えると、不思議と落ち着く。あそこでは、何も偽らなくていい。ただそこにいるだけで、心が少しだけ軽くなる。
僕は再びベッドに入った。今度は少しずつ眠気が襲ってきた。目を閉じると、屋上の景色が浮かんできた。夕焼けに染まった空。風に揺れる詩織の髪。無言で立ち尽くす生徒たち。
翌日、教室は相変わらず賑やかだった。
誰もが普通に話していて、昨日と何も変わらない日常が続いている。でも、僕は全く集中できなかった。頭の中では、昨日の屋上のことでいっぱいだった。
僕は窓際の席に座って、外を眺めていた。今日も行くべきなのだろうか。
昼休みになると、神崎理沙が話しかけてきた。彼女は弁当を持って、僕の席の前に立った。
「桐谷君、昨日何してたの?」
「別に。何も」
僕はそう答えた。理沙は少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
僕は屋上での出来事を思い出していた。あの静けさ。みんなが語った死に方。詩織の言葉。そして、あの解放感。
でも、なぜか僕はあの場所に戻りたいと思っていた。あそこでは、本当の自分でいられる気がした。
放課後になって、僕は再び屋上への階段に向かった。時計を見ると17時40分。階段の前に着くと、既に誰かが待っていた。藤崎だった。彼は階段の入口に立っていて、壁に背中を預けている。僕に気づくと、軽く頷いた。
「来たんだな」
「ああ」
僕は答えた。藤崎は何も言わず、再び黙り込んだ。しばらくすると、他の生徒たちも集まってきた。昨日見た顔ぶれだった。みんな無言で、ただ時間を待っている。
17時43分になると、藤崎が階段を上がり始めた。他の生徒たちも続いた。僕も同じように階段を上がって、屋上に入った。
今日も、屋上は夕焼けに染まっていた。
昨日と同じ光景。同じ空気。同じ静けさ。詩織は既に屋上にいた。彼女は中央に立っていて、全員が揃うのを待っているようだった。僕が入ると、彼女は僕を見て小さく頷いた。僕も頷き返した。昨日よりも、少しだけ親しみを感じた。
全員が揃うと、また死に方を語り始めた。昨日と同じ順番で、同じように淡々と。ある者は高いところから飛び降りると言い、ある者は薬を飲むと言い、ある者は電車に飛び込むと言った。
詩織も、昨日と同じように「海に沈む」と語った。
そして、僕の番が来た。
今日も、僕は何も言えなかった。語るべき言葉が見つからなかった。詩織は相変わらず「無理に話さなくていいよ」と言ってくれた。その言葉に、僕は少し救われた。
でも、それでもよかった。ここにいるだけで、僕は少しだけ楽になれる気がした。生きてるふりをしなくていい。ただ、自分の気持ちに正直でいられる。それだけで、心が軽くなる。
17時58分、アラームが鳴った。全員が無言で屋上を去った。僕も階段を降りて、校舎を出た。
帰り道、僕は思った。
また、明日も来よう。
あの場所には、何かがある。まだわからないけれど、確かに何かがある。それを見つけるまで、僕は通い続けるだろう。生きてるふりをしなくていい場所。本当の自分でいられる場所。そこに、僕の居場所があるのかもしれない。



