「――で、まあ結局なにが言いたいのかって言うと、勘違いさせる男ほど、悪質なもんはないってことっすよね。ねえちゃんがフラれるたんびに、一晩愚痴に付き合わされる弟の不憫さったら、はあ……」
よく話に聞く、そのお姉さんには会ったことないけれど、丸見《まるみ》君にそっくりなんだろうな。と苦笑を洩らし、彼の長い話を聞きながら思ってしまう。
「大変だね。それで丸見君、あのね、たぶんそろそろ本当に、信楽《しがらき》君来ちゃうと思うんだけど……」
「待ってるあいだ、文原《ふみはら》先輩が暇だと思ったから一緒にいるのに、おれ邪魔っすかー……?」
一時間に一本やって来るか来ないかのバス停に、並んで座るわたしと丸見君。断じて邪魔というわけではない。ただ、信楽君と丸見君は似たもの同士のくせに、妙に拒絶しあっているというか……。磁石でいえば、きっとお互い同じ極で。珍しく信楽君が仲良くなれない存在が丸見君なのである。
ふたりが初めて会ったのは、引っ越した信楽君がおばあさんの一回忌で帰ってきたときのこと。突然、旧校舎の教室に現れた信楽君と、偶然、不定期に来ていた丸見君が鉢合わせたときから、なぜだか馬が合わないのだ。
「丸見君はいいの? 信楽君のこと苦手って言ってたじゃない」
約一時間まえのバスから偶然降りてきた、高校の制服姿の彼。そのときわたしが信楽君を待っているのだと教えれば、即座に顔を歪めていたくらいなのに。いつ次のバスが来てしまわないかと、こちらがひやひやしてしまう。
「正直、苦手っすけど、まあなんかこの状態で帰るの気に食わないんで」
「そ、そっか? でもさっきからずっと連絡きてない?」
「ああ、小鳥遊《たかなし》先輩からっすね。このあと会う約束してて」
「え!? じゃあわたしなんかに付き合ってる場合じゃないって! 小鳥遊君、可哀想だから行ってあげて!」
なぜかわたしのほうが慌ててベンチから立ち上がり、丸見君を立たせようと必死になる。彼はふてくされたように口を尖らせ「えー……」と気怠そうに立ち上がった。
そんなときエンジンの音が聞こえてきて、バスよりも軽い音だったけれどそちらへと目を向けたなら、水色の乗用車がわたしたちのすぐ側に停車した。
「し、信楽君っ?」
運転席から窓を開けて、細めたまぶたからわたしたちを見つめる信楽君は「久しぶりー。ずいぶんと愉そうでなによりだね」なんて皮肉めいた口調で話す。
「なんで車で? 免許いつ取ってたの!?」
バスで来ると言っていたからここで待っていたのに、状況が読み取れず、わたしは思わず信楽君に詰め寄ってしまう。
「先輩、これねえちゃんのクズな元彼と似た戦法っすよ。車で迎えに来るなんて狡知だ。それに初心者の車なんて乗るもんじゃないし!」
「残念、おれもう初心者じゃないんだ」
「……ってことは、十八歳になってすぐ取ったの? 信楽君、なんで言ってくれなかったの?」
わたしが驚けば驚くほど、信楽君は細めていた目を柔らかくして笑う。
窓枠に腕をついてそこに顎先を乗せた彼は、「文原さんのその顔、見たかったから」なんて軽口たたくから、咄嗟なまでに後ずさってしまう。
そうしたら、とすっと丸見君にぶつかってしまって謝ろうと振り返ったなら、丸見君はじとーっとした不機嫌な眼差しを信楽君へと向けていた。
「お家まで送っててあげよーか? マル君」
「いーえ! おれ、すぐそこなんでぇ、文原先輩じゃあまた明日!」
「明日……? あ、じゃあね、またね」
明日会う約束してたっけ? 首を傾げつつも、靴底を踏み鳴らして帰って行ってしまう丸見君に挨拶を返す。
「それで信楽君」
「なあに?」
今度はわたしが目を細めながら信楽君へ視線を戻せば、彼は助手席に置いていた荷物をぽいぽいと後部座席に投げている最中。
「あなたってひとはいつもお喋りなのに、ときどきこういうサプライズするの好きだよね」
帰ると言わずに突然この街に帰ってきたり。セーターを送ってくれたり。ほかにも信楽君が引っ越してから五年間。色々驚くようなことされたけれど、今回の車に関しては群を抜いて驚いた。免許取ったことすら一年以上も黙っているなんて。
「あはは。おれって愉しいよね」
「それじぶんでいう?」
「文原さん、どーぞ」
ぽんぽんと綺麗にした助手席に手をあてる満足げな彼に、わたしは呆れ半分に微笑した。
半信半疑だったけれど、本当に運転慣れしている信楽君はなんのトラブルもなく安全に車を走行させている。
そんな彼をちらちらと見ていると、なんだか既視感がある気がして膝に置いていた手元に視線を落とせば、ふとじぶんがチェック柄のスカートを着ていた光景を思い出す。
ああこれ、旧校舎の教室で座っていた座り位置と同じだ。あの頃の信楽君を思えば、当然だけど車を運転している姿なんて一ミリも想像できないのに、時の流れは不思議なものだ。
「これ、レンタカーなんだね」
「ん。駅前のとこで借りてきた」
「向こうでは普段も運転してるの?」
「いや、車はまだ持ってないから、小田《おだ》さんにこき使われるときぐらいかな。親はおれの運転は怖いって、車貸してくれなくてさ」
前方を見据えたまま笑う信楽君。なんだか本当に大人になっていってるんだな。わたしは親でもないのに、そうしみじみ思ってしまう。
「そっかぁ」
「文原さんは、免許取らないの?」
「取ろうとは思ってるんだけど、去年の夏休みは鈴木《すずき》さんと紙芝居に熱入れすぎちゃって……。だから今年の夏休みこそは、取れたらなって」
わたしは高校生のときボランティア部に入部していて。一年遅れで鈴木さんも同じ高校に入学して、ボランティア部で一緒に活動していくうちに、鈴木さんの提案で、紙芝居のフレームを作って図書館などで子供たちに読み聞かせをしてみよう。ということになりそれを初めてみたら、意外にも図書館だけではなく様々な施設からも呼ばれることが増えたのだ。去年はもう大学に入っていたけれど、人気でてんてこ舞いな鈴木さんを助けるために、わたしもそのひと夏は一緒に奔走していたのだ。
鈴木さんが紙芝居をやってみようと思ったきっかけは、もちろん井原さんの影響だ。その井原《いばら》さんと仙人さんが営むフリースクールで紙芝居をやらせてもらったときは、終わったあと子供たちが若干引くくらいに三人で泣いてしまったのだけれど、本当にとても愉しかった。
「紙芝居、おれも観たかったなあ。井原さんと小鳥遊君からは動画送ってもらったけどさ。てかいいなふたりとも、おれも紙芝居のあの箱、作りたかった」
そっちもか、と笑ってしまうけれど。まあ確かに信楽君ならわたしたちが作ったものより、もっと綺麗に作っちゃえそうだ。
「ところでどこに向かってるの? こっちの方角ってことはさよちゃんさんのお店?」
「んー……さよちゃんの店は行きたいような、行きたくないような」
二年程前の話。水田の精肉店が食堂になることは実は知っていた。でも信楽君が知ればすぐにでも阻止しに乗り込んでくるだろう、とオープンするまで箝口令がしかれていた。
事後報告された信楽君が怒るのはあたりまえのことだ。とことん愚痴に付き合ったのはわたしだけじゃないだろう。
けれど、さよちゃんもきっと色々と悩んで決めたことだろうし。お店には何度か行ったことがあって、看板にはもともと使っていたイラストも使われていたり、売り場の窓ガラスに使っていたものも店内に飾っていたりと。レトロだった精肉店の名残りを大切にしつつ、とても居心地良い空間に生まれ変わっていた。
それにさよちゃんの友人で、元々有名なホテルの料理長だったひとが新たな店主となって料理を振る舞っているから、どのメニューもぴかいちなのだ。それにその店主の方もその昔、井原さんに恩があるらしく、縁は不思議なほどに見えない糸で繋がっているようだった。
だから信楽君も行けばきっと気にいるはずだけれど。片頬を膨らませ表情を顰める彼に、いまは無理強いしないでおこうと静かに思う。
「どこ行っても懐かしいから適当に走ってたんだけど、文原さんどっか行きたいとこある?」
「えっと、じゃあ――」
信楽君がこの街に帰ってくるのは、約二年ぶりだった。
いつもはおばあさんの法事がある冬に帰ってきていたのだけれど、去年は受験があったから参列せず。今年はウイルス性の風邪で寝込み、また参列できず。
来年は会えるだろうか……と思っていた矢先、わたしの大学と信楽君の服飾学校の春休みが重なる頃、突如帰省するとの吉報が送られたのだ。
二年振りなのだから、おばあちゃんっ子の信楽君が一番行きたいところはここじゃないかって。わたしは部外者だけれど、提案して一緒に着いて来てしまった。
「さよちゃんが月命日で毎月来てるみたいだから、これ必要なかったね」
「そうみたいだね」
そう言った信楽君は、水を汲んだ桶を持ち上げて苦笑する。
【水田家】と彫られている墓石は砂埃なくも綺麗だった。
「花、多すぎたかも」
信楽君は買ってきたおばあさんが好きだという、カラフルなアネモネの花束をふたつに分けて花瓶に飾れば、途端彩りがあふれる光景に小さくふたりで笑ってしまう。
「はい、文原さんのぶん」
買ってきたお線香を取り出すとわたしにも分けてくれて、なぜだかすこし緊張しながらも、信楽君に続き火をつけて台の上に置いた。
手を合わせて瞼を閉ざす。「はじめまして」から始まり、月並みな挨拶を浮かべていたら、ふいにメンチカツまでも浮かべてしまった。不謹慎だ、とは思いつつも信楽君がさんざんメンチカツのことを自慢してくるから、彼のせいだということにして、口元に微苦笑を滲ませていた。
「文原さん、ばあちゃんにおれの悪口言ってない?」
そんな声に瞼を開けて隣を見れば、しゃがんだままの信楽君が膝に頬杖をついて「怪しげだな」というような視線を宿し、わたしを見ていた。
「まさか」
「じゃあなんで笑ってんのさ」
「それは……内緒」
「ほらー、やっぱりなんかチクってたじゃん」
「ふふ、違うってば」
夏とは違いすこし静かな墓地だから、笑い声を響かせないようにしながらも、しつこい信楽君をいなしながら笑ってしまう。しかたなくメンチカツのことを白状すれば、盛大に笑う彼には、きっとおばあさんも笑っているのではないかな、とこれも都合良く思うことにした。
「――いつかはって思ってたけど、案外、簡単に入らせてもらえるものね」
つぎはどこ行こうか、と話せば、中学校に行ってみようかとなった。春休み中だったけれど、顔馴染みの事務員さんがまだいて、その事務員さんも有難いことにわたしたちのことを覚えてくれていたから、快く校内を見学することを許してくれた。
「万が一、学年主任が教頭先生になってたら無理だったね」
本校舎の来客玄関から出て、また外に出ながらそんな会話をする。
「ふふ。確かに」
「てか、文原さん本校舎入るの初めて?」
「あ、そうかも!」
目を丸めたわたしに、もともと大きな目の信楽君はその目を優しく細めて、「やったね」とピースサインをした。
卒業して四年も経って初めて入ったのは、喜ばしいのか、どこか恥ずかしいような。それでも頷きながら気弱なピースを作った。
本校舎の背中へとまわったなら、記憶よりもかなり歳をとってしまった旧校舎は変わらず影のなか、出迎えてくれるように佇んでいた。
「ほんとだ、入れなくなってる」
昇降口の玄関は板で覆われ釘を打たれて、もう開けられないようにされていた。廊下が見えるはずの窓も向こう側にはすべてカーテンが掛けられている。
つい先ほど、もう入れないけれど、と事務員さんが申し訳なさそうに教えてくれたのだ。
「裏回ってみる?」
「うん」
旧校舎のサポートクラスが廃止されたことは、丸見君から聞いていた。彼が中三の梅雨、雨漏りが本格的にどうしようもなくなり、直すまで一時的にサポートクラスは本校舎に移動となり、そのまま戻ることなく移転されたという。きっとひとつの教室のために全体の雨漏りを直すのは現実的ではなかったのだろう。
知っていても、永遠に閉じられてしまった旧校舎の姿を目の当たりにするのは、やっぱりどこか淋しい。
「あ! なんでだろ、おれらの教室だけカーテン掛かってない」
先に角を曲がった信楽君が振り返って、嬉しそうにそう告げた。
確かにサポートクラスがあったところだけは、不自然にもカーテンが掛けられていなくて。まるでだれかが見に来ることを、だれかが見据えてくれていたかのように思えた。
寺崎先生か、井原さんか、はたまたほかのだれかだろうか。
「だった数年で、ここまで廃墟チックになっちゃうとは」
手で日除けを作り、窓硝子の向こうを覗く信楽君。落ち込みを隠せていない声色でつぶやく。
あったはずのテーブルや椅子などは片付けられていた。唯一、古めかしいストーブだけが奥側にぽつんと残されている。それは火を灯す仕事を終えて、深い深い眠りについているようにも見えた。
「文原さん、泣かんでね。たぶんつられておれも泣いちゃうから」
そういわれては泣くに泣けない。じわじわとなり始めた涙腺を誤魔化しながら、「信楽君こそ」と返す。
「いつかさ、もしかしたら近いうち、取り壊されちゃうかも知れないじゃん、ここ。だからそのまえに、もう一回くらいは、みんなで来たいね」
「うん」
ただでさえ暗かったのに、ことさらに真っ暗で冷たい教室。でも記憶のなかのストーブの火はまだ暖かく灯っている。淋しくて優しい記憶と共に。わたしはこれ以上見つめていたら本当に泣いてしまいそうで、足を翻して乱雑に並ぶ木々に視線を逃せば、そこは教室から見ていたあの頃となにも変わらない光景だった。
教室のなかの思い出はほぼなくなってしまったけれど、ひとつの木に変わらず鳥の巣箱がある事実が慰めてくれている気がした。
「信楽君、信楽君見て、まだあの巣箱は残ってるよ」
「おお、ほんとだ」
彼のジャケットを軽く引っ張って教えたなら、そこに目を向けた信楽君も嬉しそうに微笑む。
「結局ツバメは戻って来なかったし、どの鳥も入ってくれなかったけど。あれ作ってるとき、普段はばらばらな先輩たちが一丸となっててさ、愉しかったな」
巣箱を見つめながら、遠い記憶を見つめているように信楽君は言った。
きっとわたしがほとんど知らない熊谷先輩との思い出を、下北先輩も一緒に幸せだったときのことを思い出しているんだろう。
――その瞬間、それまで薄暗かったその空間に光が射した。信楽君の横顔が綺麗に色づく。
それは知るはずもなかった事実だった。いつの間にか青かった空は徐々に淡く色を変えて、橙色へ染まりかかっていた。ずっと日陰のなかだと思っていた旧校舎が、裏庭からでは微かだけれど夕焼けに染まる真実に見惚れていた。
そんな景色のなかで、偶然お互いの手が触れた。春先の空気はまだ冷えびえとしている。わたしの手はひどく冷たいから、すぐに引っ込めようとした。けれど温もりが冷たさを奪いさらって、鼓動は高鳴り溶け込んでいく。
「……し、信楽君」
これも彼が好きな気まぐれのサプライズだろうか。左手が包まれていることに頬へと熱がこもる。
声の低さも、あの頃よりも落ち着いた喋りかたなのも。いつの間にか、一人称がぼくじゃなくなっていることも。信楽君が変わっていくことに、わざと気づかないふりをしてきた。
「文原さん」
出会った頃は目線の先に彼の大きな目があって、でもいまは見上げなければその目を見つめることが叶わない。
変わってしまうことが怖かった。でも変われないこともきっと怖くて、わたしはそっと顔を上げた。
優しいその眼差しと目が合えば、やわらかく笑むそんな信楽君のことが、確かにずっとわたしは恋しかった。
ふいにこぼれ頬に伝ってしまった涙をいまは許してほしいと願う。冷たいのにごめんね、と思いながらわたしも握り返した。
「文原さん、おれね――」
わたしの涙に触れるように拭った彼がそう言いかけたとき、ばさりと音が鳴った。わたしたちは目を丸めて巣箱へと視線を向けたなら、小窓から姿を現したウグイスが止り木にふわりと飛び移った。
そして木陰の下で綺麗な緑色のウグイスは、短い歌を口遊《くちずさ》み終えたなら橙色に染まる小さな羽をはばたかせて、柔らかい光のなかを泳いでいった。
了
よく話に聞く、そのお姉さんには会ったことないけれど、丸見《まるみ》君にそっくりなんだろうな。と苦笑を洩らし、彼の長い話を聞きながら思ってしまう。
「大変だね。それで丸見君、あのね、たぶんそろそろ本当に、信楽《しがらき》君来ちゃうと思うんだけど……」
「待ってるあいだ、文原《ふみはら》先輩が暇だと思ったから一緒にいるのに、おれ邪魔っすかー……?」
一時間に一本やって来るか来ないかのバス停に、並んで座るわたしと丸見君。断じて邪魔というわけではない。ただ、信楽君と丸見君は似たもの同士のくせに、妙に拒絶しあっているというか……。磁石でいえば、きっとお互い同じ極で。珍しく信楽君が仲良くなれない存在が丸見君なのである。
ふたりが初めて会ったのは、引っ越した信楽君がおばあさんの一回忌で帰ってきたときのこと。突然、旧校舎の教室に現れた信楽君と、偶然、不定期に来ていた丸見君が鉢合わせたときから、なぜだか馬が合わないのだ。
「丸見君はいいの? 信楽君のこと苦手って言ってたじゃない」
約一時間まえのバスから偶然降りてきた、高校の制服姿の彼。そのときわたしが信楽君を待っているのだと教えれば、即座に顔を歪めていたくらいなのに。いつ次のバスが来てしまわないかと、こちらがひやひやしてしまう。
「正直、苦手っすけど、まあなんかこの状態で帰るの気に食わないんで」
「そ、そっか? でもさっきからずっと連絡きてない?」
「ああ、小鳥遊《たかなし》先輩からっすね。このあと会う約束してて」
「え!? じゃあわたしなんかに付き合ってる場合じゃないって! 小鳥遊君、可哀想だから行ってあげて!」
なぜかわたしのほうが慌ててベンチから立ち上がり、丸見君を立たせようと必死になる。彼はふてくされたように口を尖らせ「えー……」と気怠そうに立ち上がった。
そんなときエンジンの音が聞こえてきて、バスよりも軽い音だったけれどそちらへと目を向けたなら、水色の乗用車がわたしたちのすぐ側に停車した。
「し、信楽君っ?」
運転席から窓を開けて、細めたまぶたからわたしたちを見つめる信楽君は「久しぶりー。ずいぶんと愉そうでなによりだね」なんて皮肉めいた口調で話す。
「なんで車で? 免許いつ取ってたの!?」
バスで来ると言っていたからここで待っていたのに、状況が読み取れず、わたしは思わず信楽君に詰め寄ってしまう。
「先輩、これねえちゃんのクズな元彼と似た戦法っすよ。車で迎えに来るなんて狡知だ。それに初心者の車なんて乗るもんじゃないし!」
「残念、おれもう初心者じゃないんだ」
「……ってことは、十八歳になってすぐ取ったの? 信楽君、なんで言ってくれなかったの?」
わたしが驚けば驚くほど、信楽君は細めていた目を柔らかくして笑う。
窓枠に腕をついてそこに顎先を乗せた彼は、「文原さんのその顔、見たかったから」なんて軽口たたくから、咄嗟なまでに後ずさってしまう。
そうしたら、とすっと丸見君にぶつかってしまって謝ろうと振り返ったなら、丸見君はじとーっとした不機嫌な眼差しを信楽君へと向けていた。
「お家まで送っててあげよーか? マル君」
「いーえ! おれ、すぐそこなんでぇ、文原先輩じゃあまた明日!」
「明日……? あ、じゃあね、またね」
明日会う約束してたっけ? 首を傾げつつも、靴底を踏み鳴らして帰って行ってしまう丸見君に挨拶を返す。
「それで信楽君」
「なあに?」
今度はわたしが目を細めながら信楽君へ視線を戻せば、彼は助手席に置いていた荷物をぽいぽいと後部座席に投げている最中。
「あなたってひとはいつもお喋りなのに、ときどきこういうサプライズするの好きだよね」
帰ると言わずに突然この街に帰ってきたり。セーターを送ってくれたり。ほかにも信楽君が引っ越してから五年間。色々驚くようなことされたけれど、今回の車に関しては群を抜いて驚いた。免許取ったことすら一年以上も黙っているなんて。
「あはは。おれって愉しいよね」
「それじぶんでいう?」
「文原さん、どーぞ」
ぽんぽんと綺麗にした助手席に手をあてる満足げな彼に、わたしは呆れ半分に微笑した。
半信半疑だったけれど、本当に運転慣れしている信楽君はなんのトラブルもなく安全に車を走行させている。
そんな彼をちらちらと見ていると、なんだか既視感がある気がして膝に置いていた手元に視線を落とせば、ふとじぶんがチェック柄のスカートを着ていた光景を思い出す。
ああこれ、旧校舎の教室で座っていた座り位置と同じだ。あの頃の信楽君を思えば、当然だけど車を運転している姿なんて一ミリも想像できないのに、時の流れは不思議なものだ。
「これ、レンタカーなんだね」
「ん。駅前のとこで借りてきた」
「向こうでは普段も運転してるの?」
「いや、車はまだ持ってないから、小田《おだ》さんにこき使われるときぐらいかな。親はおれの運転は怖いって、車貸してくれなくてさ」
前方を見据えたまま笑う信楽君。なんだか本当に大人になっていってるんだな。わたしは親でもないのに、そうしみじみ思ってしまう。
「そっかぁ」
「文原さんは、免許取らないの?」
「取ろうとは思ってるんだけど、去年の夏休みは鈴木《すずき》さんと紙芝居に熱入れすぎちゃって……。だから今年の夏休みこそは、取れたらなって」
わたしは高校生のときボランティア部に入部していて。一年遅れで鈴木さんも同じ高校に入学して、ボランティア部で一緒に活動していくうちに、鈴木さんの提案で、紙芝居のフレームを作って図書館などで子供たちに読み聞かせをしてみよう。ということになりそれを初めてみたら、意外にも図書館だけではなく様々な施設からも呼ばれることが増えたのだ。去年はもう大学に入っていたけれど、人気でてんてこ舞いな鈴木さんを助けるために、わたしもそのひと夏は一緒に奔走していたのだ。
鈴木さんが紙芝居をやってみようと思ったきっかけは、もちろん井原さんの影響だ。その井原《いばら》さんと仙人さんが営むフリースクールで紙芝居をやらせてもらったときは、終わったあと子供たちが若干引くくらいに三人で泣いてしまったのだけれど、本当にとても愉しかった。
「紙芝居、おれも観たかったなあ。井原さんと小鳥遊君からは動画送ってもらったけどさ。てかいいなふたりとも、おれも紙芝居のあの箱、作りたかった」
そっちもか、と笑ってしまうけれど。まあ確かに信楽君ならわたしたちが作ったものより、もっと綺麗に作っちゃえそうだ。
「ところでどこに向かってるの? こっちの方角ってことはさよちゃんさんのお店?」
「んー……さよちゃんの店は行きたいような、行きたくないような」
二年程前の話。水田の精肉店が食堂になることは実は知っていた。でも信楽君が知ればすぐにでも阻止しに乗り込んでくるだろう、とオープンするまで箝口令がしかれていた。
事後報告された信楽君が怒るのはあたりまえのことだ。とことん愚痴に付き合ったのはわたしだけじゃないだろう。
けれど、さよちゃんもきっと色々と悩んで決めたことだろうし。お店には何度か行ったことがあって、看板にはもともと使っていたイラストも使われていたり、売り場の窓ガラスに使っていたものも店内に飾っていたりと。レトロだった精肉店の名残りを大切にしつつ、とても居心地良い空間に生まれ変わっていた。
それにさよちゃんの友人で、元々有名なホテルの料理長だったひとが新たな店主となって料理を振る舞っているから、どのメニューもぴかいちなのだ。それにその店主の方もその昔、井原さんに恩があるらしく、縁は不思議なほどに見えない糸で繋がっているようだった。
だから信楽君も行けばきっと気にいるはずだけれど。片頬を膨らませ表情を顰める彼に、いまは無理強いしないでおこうと静かに思う。
「どこ行っても懐かしいから適当に走ってたんだけど、文原さんどっか行きたいとこある?」
「えっと、じゃあ――」
信楽君がこの街に帰ってくるのは、約二年ぶりだった。
いつもはおばあさんの法事がある冬に帰ってきていたのだけれど、去年は受験があったから参列せず。今年はウイルス性の風邪で寝込み、また参列できず。
来年は会えるだろうか……と思っていた矢先、わたしの大学と信楽君の服飾学校の春休みが重なる頃、突如帰省するとの吉報が送られたのだ。
二年振りなのだから、おばあちゃんっ子の信楽君が一番行きたいところはここじゃないかって。わたしは部外者だけれど、提案して一緒に着いて来てしまった。
「さよちゃんが月命日で毎月来てるみたいだから、これ必要なかったね」
「そうみたいだね」
そう言った信楽君は、水を汲んだ桶を持ち上げて苦笑する。
【水田家】と彫られている墓石は砂埃なくも綺麗だった。
「花、多すぎたかも」
信楽君は買ってきたおばあさんが好きだという、カラフルなアネモネの花束をふたつに分けて花瓶に飾れば、途端彩りがあふれる光景に小さくふたりで笑ってしまう。
「はい、文原さんのぶん」
買ってきたお線香を取り出すとわたしにも分けてくれて、なぜだかすこし緊張しながらも、信楽君に続き火をつけて台の上に置いた。
手を合わせて瞼を閉ざす。「はじめまして」から始まり、月並みな挨拶を浮かべていたら、ふいにメンチカツまでも浮かべてしまった。不謹慎だ、とは思いつつも信楽君がさんざんメンチカツのことを自慢してくるから、彼のせいだということにして、口元に微苦笑を滲ませていた。
「文原さん、ばあちゃんにおれの悪口言ってない?」
そんな声に瞼を開けて隣を見れば、しゃがんだままの信楽君が膝に頬杖をついて「怪しげだな」というような視線を宿し、わたしを見ていた。
「まさか」
「じゃあなんで笑ってんのさ」
「それは……内緒」
「ほらー、やっぱりなんかチクってたじゃん」
「ふふ、違うってば」
夏とは違いすこし静かな墓地だから、笑い声を響かせないようにしながらも、しつこい信楽君をいなしながら笑ってしまう。しかたなくメンチカツのことを白状すれば、盛大に笑う彼には、きっとおばあさんも笑っているのではないかな、とこれも都合良く思うことにした。
「――いつかはって思ってたけど、案外、簡単に入らせてもらえるものね」
つぎはどこ行こうか、と話せば、中学校に行ってみようかとなった。春休み中だったけれど、顔馴染みの事務員さんがまだいて、その事務員さんも有難いことにわたしたちのことを覚えてくれていたから、快く校内を見学することを許してくれた。
「万が一、学年主任が教頭先生になってたら無理だったね」
本校舎の来客玄関から出て、また外に出ながらそんな会話をする。
「ふふ。確かに」
「てか、文原さん本校舎入るの初めて?」
「あ、そうかも!」
目を丸めたわたしに、もともと大きな目の信楽君はその目を優しく細めて、「やったね」とピースサインをした。
卒業して四年も経って初めて入ったのは、喜ばしいのか、どこか恥ずかしいような。それでも頷きながら気弱なピースを作った。
本校舎の背中へとまわったなら、記憶よりもかなり歳をとってしまった旧校舎は変わらず影のなか、出迎えてくれるように佇んでいた。
「ほんとだ、入れなくなってる」
昇降口の玄関は板で覆われ釘を打たれて、もう開けられないようにされていた。廊下が見えるはずの窓も向こう側にはすべてカーテンが掛けられている。
つい先ほど、もう入れないけれど、と事務員さんが申し訳なさそうに教えてくれたのだ。
「裏回ってみる?」
「うん」
旧校舎のサポートクラスが廃止されたことは、丸見君から聞いていた。彼が中三の梅雨、雨漏りが本格的にどうしようもなくなり、直すまで一時的にサポートクラスは本校舎に移動となり、そのまま戻ることなく移転されたという。きっとひとつの教室のために全体の雨漏りを直すのは現実的ではなかったのだろう。
知っていても、永遠に閉じられてしまった旧校舎の姿を目の当たりにするのは、やっぱりどこか淋しい。
「あ! なんでだろ、おれらの教室だけカーテン掛かってない」
先に角を曲がった信楽君が振り返って、嬉しそうにそう告げた。
確かにサポートクラスがあったところだけは、不自然にもカーテンが掛けられていなくて。まるでだれかが見に来ることを、だれかが見据えてくれていたかのように思えた。
寺崎先生か、井原さんか、はたまたほかのだれかだろうか。
「だった数年で、ここまで廃墟チックになっちゃうとは」
手で日除けを作り、窓硝子の向こうを覗く信楽君。落ち込みを隠せていない声色でつぶやく。
あったはずのテーブルや椅子などは片付けられていた。唯一、古めかしいストーブだけが奥側にぽつんと残されている。それは火を灯す仕事を終えて、深い深い眠りについているようにも見えた。
「文原さん、泣かんでね。たぶんつられておれも泣いちゃうから」
そういわれては泣くに泣けない。じわじわとなり始めた涙腺を誤魔化しながら、「信楽君こそ」と返す。
「いつかさ、もしかしたら近いうち、取り壊されちゃうかも知れないじゃん、ここ。だからそのまえに、もう一回くらいは、みんなで来たいね」
「うん」
ただでさえ暗かったのに、ことさらに真っ暗で冷たい教室。でも記憶のなかのストーブの火はまだ暖かく灯っている。淋しくて優しい記憶と共に。わたしはこれ以上見つめていたら本当に泣いてしまいそうで、足を翻して乱雑に並ぶ木々に視線を逃せば、そこは教室から見ていたあの頃となにも変わらない光景だった。
教室のなかの思い出はほぼなくなってしまったけれど、ひとつの木に変わらず鳥の巣箱がある事実が慰めてくれている気がした。
「信楽君、信楽君見て、まだあの巣箱は残ってるよ」
「おお、ほんとだ」
彼のジャケットを軽く引っ張って教えたなら、そこに目を向けた信楽君も嬉しそうに微笑む。
「結局ツバメは戻って来なかったし、どの鳥も入ってくれなかったけど。あれ作ってるとき、普段はばらばらな先輩たちが一丸となっててさ、愉しかったな」
巣箱を見つめながら、遠い記憶を見つめているように信楽君は言った。
きっとわたしがほとんど知らない熊谷先輩との思い出を、下北先輩も一緒に幸せだったときのことを思い出しているんだろう。
――その瞬間、それまで薄暗かったその空間に光が射した。信楽君の横顔が綺麗に色づく。
それは知るはずもなかった事実だった。いつの間にか青かった空は徐々に淡く色を変えて、橙色へ染まりかかっていた。ずっと日陰のなかだと思っていた旧校舎が、裏庭からでは微かだけれど夕焼けに染まる真実に見惚れていた。
そんな景色のなかで、偶然お互いの手が触れた。春先の空気はまだ冷えびえとしている。わたしの手はひどく冷たいから、すぐに引っ込めようとした。けれど温もりが冷たさを奪いさらって、鼓動は高鳴り溶け込んでいく。
「……し、信楽君」
これも彼が好きな気まぐれのサプライズだろうか。左手が包まれていることに頬へと熱がこもる。
声の低さも、あの頃よりも落ち着いた喋りかたなのも。いつの間にか、一人称がぼくじゃなくなっていることも。信楽君が変わっていくことに、わざと気づかないふりをしてきた。
「文原さん」
出会った頃は目線の先に彼の大きな目があって、でもいまは見上げなければその目を見つめることが叶わない。
変わってしまうことが怖かった。でも変われないこともきっと怖くて、わたしはそっと顔を上げた。
優しいその眼差しと目が合えば、やわらかく笑むそんな信楽君のことが、確かにずっとわたしは恋しかった。
ふいにこぼれ頬に伝ってしまった涙をいまは許してほしいと願う。冷たいのにごめんね、と思いながらわたしも握り返した。
「文原さん、おれね――」
わたしの涙に触れるように拭った彼がそう言いかけたとき、ばさりと音が鳴った。わたしたちは目を丸めて巣箱へと視線を向けたなら、小窓から姿を現したウグイスが止り木にふわりと飛び移った。
そして木陰の下で綺麗な緑色のウグイスは、短い歌を口遊《くちずさ》み終えたなら橙色に染まる小さな羽をはばたかせて、柔らかい光のなかを泳いでいった。
了
