チートキャラかよ。信楽《しがらき》碧《みどり》に対して、そんなことを考えるのは、あたしだけではないはずだ。
「信楽! 頼んだ!」
「うっす」
そうはさせまい、と邪魔する敵の妨害なんて造作もなく人工芝を駆け抜ける。勢いよく蹴られ、ゴールキーパーの手もするりと抜け、蛍光色のボールはゴールネットを弾ませた。
ほら、パスもまかされたうえ、簡単にシュート決めちゃうんだもんな。あのひとはチートでしょ。
高卒後、服飾専門学校に入学して早半年。ブラウス製作の課題が再提出になり、自信喪失に苛まれていた。手芸用品店へ行く道すがら、防球ネットに囲われたフットサル場になにげなく目を向けたなら、同じクラスの見知った人物を何人か見つけ、そのなかのひとりが信楽碧だった。
裁縫はだれよりも素早く綺麗。デザイン画も多少独特だが、ド素人から見ても目を見張るものがある。コミュ力だって高いし、見目も愛嬌があるから、もう向かう所敵なしって感じだ。講師にも一目置かれている上に、クラスメイトからもよく頼られている。いつもひとの中心にいて、まさにカースト上位の陽キャ。それでもって運動神経すらもそなわっているなんて、神様ってどこまで不公平なんだろう。
もう辞めちゃおうかな、服飾。なんとなく親に言われるがまま入学したけども、まず手先が器用でもないし、ほかのひとたちみたいな物作りへの情熱もない。こんな人間が入っちゃいけないとこだった。
スニーカー片側の紐が地面に擦れる視界から逃げて、夕焼け迫る橙色の空を見遣った。
はあ、もう全部面倒くさい。あたしの人生ってなんなんだろう。
「朔《はじめ》さん、朔さん。おーい、朔さん?」
自習室のテーブルに広げたパターン用紙の線をゆびでなぞって、幾重にも連なる線の合流地点で迷子になる。ひとり、それをぼんやりと繰り返していたなら、手のひらが突然現れて、その手は挨拶するように揺れた。
はっとしながら顔を上げれば、テーブルを挟んだ先に信楽碧が立って、その大きな目をぱちぱちとさせていた。
「……あっ、ごめん、イヤホンしてて」
「なに聴いてたの?」
なに聴いてるんだっけ。まだ片耳についているイヤホンに耳をすませば、昔好きだったアニソンが流れている。けどタイトルが思い出せずに、「えーっと」なかなか答えられないでいた。だから咄嗟に外した方のイヤホンを差し出してしまったのだ。
いやいや、なにやってんのあたし。
ほぼ喋ったことのない相手に、なんともなれなれしい行動をしてしまった。そう思い引き戻そうとしたのだが、それより先に、信楽碧はイヤホンを受け取ってじぶんの耳にはめる。
「わ、懐かしー! なんだっけ、これ……なんかのアニメの歌だよね?」
「そうそう、忍者が出てくる」
「うんうん、おれも見てた、中学の頃だよね」
遠くから見ていたときは大人びて見えていたのに。目のまえの彼は、無邪気な子供のような笑顔で笑っている。そのギャップがなんともおそろしい。
あたしは頷いたあと、「ところで、えーと?」と首を傾げた。
そうすると信楽碧は「あ、これ」と思い出したように、左手に持っていたクリアファイルからチラシのようなものを取り出す。
「イヤホンもありがと」
差し出されたのは、この専門校がある駅からそう遠くない住所が書かれた、喫茶店の広告だった。
そのお店は約半月後に新装オープンらしい。そんな情報を読みながら、返ってきたイヤホンとじぶんの耳のイヤホンを取ってケースにしまう。
「ポピー、初河店?」
「これおれの親戚のおじさんちの近くにある、ポピーって喫茶店から暖簾分けさせてもらって、おじさんが新しく始める喫茶店なんだ。だから、いまみんなに絶賛宣伝中なの。おれの名前出せば、初回三割引きしてくれるから、朔さんもよかったら行ってみて。これから時期のおすすめはホットショコラ、雪だるま乗っててかわいいんだ」
喫茶店も暖簾分けがあるんだ。なんて、くすりとなりながら「うん、行ってみる」と返事をした。
「あ、ごめんね、邪魔しちゃって」
「ううん」
信楽碧はテーブルの上に視線を移すと、それをほんの数秒見つめただけで「シャツ作るの?」と訊いてくる。
彼がいま目にしているのは、シャツやブラウスの解説本についている、パターン用紙だ。ひとつの紙のなかに何種類ものパターンが引かれているから、あたしなら初見でこれがなにがなんだか検討もつかない自信だけはある。このひと本当にすごいな。
「うん。このまえの課題、基礎からぜんっぜん出来てないって、再提出になっちゃってね」
自嘲しながら、あたしは丸まっているハトロン紙を広げてパターン用紙の上に敷く。
「角田《かくた》先生、厳しいもんね」
薄いハトロン紙には下のパターンが透ける。しゃりしゃりとする紙を伸ばしながら、錘を乗せて固定すると、信楽碧も反対側に錘を乗せてくれた。
「ありがとう。まあ厳しいのも確かだけど、あたしが根本的に壊滅し過ぎてるんだと思う。あはは……」
シャーペンと透明な定規を使ってパターンをトレースしていく。このあとはじぶんの寸法に型紙計算し直してって、それから……ああ、線引くところ間違えた、消して直さなきゃ。
「こういうパターン用紙って、小学男児がノートいっぱいに描いてた迷宮路みたいな、本当にゴールあるの? って感じにしか見えなくて、苦手なんだよね」
消しゴムで消しながら、言い訳するみたいにつぶやいてしまった。
「あははっ。なんかわかる。あれ、おれも描いてた」
「へえ。信楽、君もそういうタイプだったんだ?」
「タイプだったねえ。てか、あんましあの頃から成長してないと思う」
信楽碧はいつの間にか目のまえの椅子に座っていて、側に積んでいた洋裁本のひとつを手にするとぱらぱら捲っていた。
目が大きいぶん、それを守るために睫毛も長いのか。あらためて見ると綺麗な横顔だなぁ、なんて暢気なこと考えているじぶんにまた自嘲が浮かぶ。
「小田さんにも、お前は成長せんなぁって呆れられてるし。あ、小田さんってのは、この喫茶店始めるひとね」
こちらをちらっと見て、ふわっと歯を見せて笑う彼。目が合ったことがなんだか恥ずかしくなって、「そうなんだ」と早口で合図しながらあたしはトレース作業に戻った。
「おれも製図すんの苦手。できるなら頭んなかだけで浮かべた通りに切って、思うがままに縫えたら楽だけどね。洋裁ってそうはいかないもんなあ」そう言った彼は、回転椅子を軽く揺らしながら、「まあそれを勉強するために、ここに入ったんだけどさ」ひとりごとのようにそう呟いた。
勝手になんでもできるチートキャラだと思っていたけれど、あたしが雑魚キャラすぎるだけで、そりゃあ勇者には勇者なりの悩みはあるか。
「信楽君はもう就きたい仕事とか、決まってる?」
「んー。おれ、中学生のときからずっと編み物やってて、でも趣味の範囲だったし、洋裁本格的にやろうかなって思ったのは、高三に入ってからだったし。それまでは学校で学んでまでやらんでもいいかなあって思っててね。漠然と将来は地元帰って、精肉店の店主って想像してたんだ」
ぱたんと閉じた本を戻して、今度はパーカーの紐をゆびに巻きつける信楽碧。蛍光灯が並ぶ天井に視線を向けて、それを数えるように眼を動かしていた。
「地元って、ポピーの本店があるところ?」
「んーん。まあそこも地元っちゃそうなんだけど。中学までは母親の地元に住んでて、高校卒業したら、そこに帰りたいなあってずっと思ってた」
帰りたいなんて、その地元にはよほど思い出があるんだろうな。
「お友達ともしばらく会えてないし。本気で帰るつもりだったんだけど、進路決めるあたりでまずいことが起きててさ」
「まずいこと?」
ぐるりと椅子を回転させる音と、こちらに声が向いた気がして、あたしは手元に戻していた顔を持ち上げた。そうすると渋い顔して襟足をさする信楽碧と目が合う。
「母親の実家の精肉店が、いつの間にか食堂に生まれ変わってたんだ。しかももう雇われ店長までいる始末で、おれの将来設計が一瞬でパー」
もう失笑するしかない、というように笑う彼。あたしもよく知らないながらも、つられて小さく笑った。
「それを色んなひとに愚痴ってたら、中学んときお世話になったひとに、『いまから無理に料理人目指してお店奪還を企むよりも、どうせならこの際、信楽君の得意分野を極めてみたらどうかな?』って言われてね。ぎりぎりまで迷ったけど、じゃあじぶんじゃ手こずってる洋裁、習おうかなーってここに入学してみたんだ。だから、まだ仕事なにしたいかも特別決まってない」
ああ、なんだか。信楽碧のそばにいつでもひとがいる理由、わかった気がする。
ひとの懐に入るのが上手いというか。あたしなんて、彼からしてみればモブもいいところだろうに、まるで長年の友人のような距離感。しかもそれが馴れ馴れしいと思わないのは、彼特有の愛嬌のせいか。なんというかまあ、要約すると漫画の主人公的な特別枠のひとだ。
「そっか、そうなんだ」
「朔さんはなんでここ入ったの?」
「あたしは……、実家がスポーツ用品店なの。弟がいるんだけど、弟は家継ぐ気とか一切ないって断言してるから、なんとなくあたしが継ぐ感じになっちゃってて……。大学行きたいなら学費は実費で、服飾なら出してくれるって言われたから、それならって。あはは」
なにやっても上手くいかないのも、不器用だから、と言い訳。情熱が持てないのも、親の期待から逃げられなかったから、と言い訳。ごしごしと消しカスが広がり、がさがさと紙がよれる。
将来が決まっているあたしよりも、いまはまだ決まっていない信楽碧のほうが、とてつもなく愉しそうで、眩しくて。やっぱり彼は解像度の高い主人公そのもので、あたしは適当なシナリオを携えたモブに思えてしかたない。
「へえ! じゃあ朔さんのが先に店主になれちゃうじゃん。いいなあ。おれが就職に困ったら雇ってね」
ただただ明るく、にっこりと笑った信楽碧。そんな彼を見ていたら、じぶんの卑屈さがばかばかしくなってくる。
「えーやだなー。なんか信楽君が就職してきたら、あっという間に乗っ取られちゃいそう」
「あははっ。一年後とかには、メンチカツ専門店に生まれ変わってるかも」
なんでメンチカツなのだ。とハテナが浮かびつつも、そうなったらそうなったで愉しそうだ。もういっそのこと、じぶんでそうしちゃうのも悪くない気がしてきた。
「沼ったら終わりさ。ああいう男には」
湯気立つホットコーヒーを持ち上げながら、同じクラスで友人のともちゃんが悟りを開くように言った。
その視線の先には、オレンジ色のジャージを着た信楽碧がカウンター席に腰掛けながら、愉しげに店主と喋っている姿があった。
すこしサイズが小さいんじゃないか。と思うそのジャージの左胸部分には、【信楽】の名前と見慣れないロゴが小さく刺繍されている。それはたぶん学校ジャージだと思われる。
先日、そんな彼に宣伝されたポピーに、ともちゃんを誘い来ていた今日。あたしたちが席について間もない頃、ふらりと現れた信楽碧。彼は本当に来たことがよほど嬉しかったのか、一緒の席に座りしばらく会話していた。すると、見かねたような店主に『もうそろそろ空気読め』と向こうに側へと連行されて行ったのだ。
「ともちゃん、信楽君みたいなひとが好みなの?」
「うーん。見た目で言ったら、あっちのイケおじのほうが好みだけど」そう言ってこっそりゆびさしたのは、信楽碧の親戚らしい、この喫茶店の店主だった。たぶん五十代くらいだと思われる。
「し、渋いね」
「ふふっ。あの信楽君の懐っこさは、母性本能くすぐられそうになるのはわかる。でもねえ、ああいうのに勘違いしちゃうと痛い目見るから、真奈《まな》ちゃん、要注意よ」
見透かすようなともちゃんの視線に、あたしは苦笑する。
クリームでできた雪だるまは、もうとっくに溶けてしまったホットショコラ。溶け残りをティースプーンでゆっくりかき混ぜ口にすれば、甘く馴染むなかにわずかにほろ苦さが舌に残った。
あたしはともちゃんに何度か頷いてみせる。
わかってるよ。信楽碧と話すようになったのはまだひと月程度。だけども、ぽつりぽつり、と話してくれる地元での思い出のなかに、彼が大切にしてるひとが沢山居て。そんななかでも特別な、会いたいひとがいるんだろうな。なんて、いやでも気づいてしまうもの。
○
「あ、ごめん電話だ」――それは半月程まえの話。
ありがたいことに信楽碧が課題を手助けしてくれることになり。ミシンやマネキンが並ぶ教室で、彼はそう言ってポケットからスマホを取り出した。
「どうぞどうぞ、気にせず」
彼はスマホ画面を確認するや否や、一瞬のうちにその口元に弧を描かせる。場所を移動する時間も惜しいのか、その場でその電話を取るものだから、あたしはなるべく聞いてませんよ、のテイで裁断し終えた布にまち針を刺していた。
「久しぶり! どうしたの、文原さんから電話来るなんて珍し……」
ボールが飛び上がるような弾んだ声の信楽碧。けれど、すぐさま下降してしまうかのように言葉尻が掠れていく。
「文原さん? え……どーした? 泣いてんの?」
その言葉にあたしは視線を持ち上げた。信楽碧の表情は、見えない状況に焦り、苛立っているようにも窺えた。
聞いてはいけないと思いつつも、こういうときに限ってほかには誰もおらず。低音の空調機だけが静かに反響する室内では、案外スピーカーにしてなくても、電話越しの声を耳が拾ってしまうから困る。確かに、鼻を啜って言葉を詰まらせる女の子の声が聞こえていた。
「なにがあったの? いまから行くから」と我を忘れたように、座っていた椅子から立ち上がる信楽碧。
勢い余って椅子は危うく倒れかけるものだから、ひとりひやっとする。あまりの気まずい空気に、できるなら空気も読まずミシンの轟音で音を塗りつぶしてしまいたくなる。
『ご、ごめん。急にごめんね! 違うの、あのね――』そう焦った声の持ち主は、言葉を詰まらせながらも、信楽碧にじぶんは大丈夫なことを伝えていた。
断じて聴こうとしていない。聞こえてしまうのだ。と胸のなかで言い訳がましいことを浮かべながら、実際のところいまはもう手を止めて耳を傾けてしまってるじぶんがいる。
『釘間先生に会ってきたの。ずっと手紙ではやりとりしてたけど、やっと会えたの。いまその帰りなんだけど、なんかぐわーって、いろんな感情出てきて、でも嬉しくて、気づいたら信楽君に電話しちゃってて』
その声は幸せを噛み締めているように聞こえた。
そんな彼女に対して途端に安堵を滲ませた信楽碧は、「そっかあ、よかったじゃん」とじぶんのほうが幸せな顔をして、微笑んでいた――。
○
まあ、あの顔を見たらね。良くわからないけど特別そうな会話を盗み聴きしてしまったらね。ずっと会えてない〝お友達〟が彼にとってただの友人ではないこと、わかっちゃうもんなぁ。
実はほんのちょっと落胆を覚えたことは、この先もだれにも口に出すことはないだろう。あたしはホットショコラを飲み終えて、静かに緩やかに持ち上げた頬のまま、「そろそろお暇しよっか」とともちゃんに言った。
「――あれ、もうふたり帰っちゃうの?」
ジャージから着替えた信楽碧は、ポピーのロゴが入ったエプロンを身につけ、そのポケットに手を入れながらバックヤードから出てきた。
「あれ、信楽君のバイトってここだったんだ?」
会計をわざと長引かせてるともちゃんの横で、申し訳なく思っていたときに現れた、そんな信楽碧の姿に目を丸める。
彼は質問返しされたことがおかしかったのか、「ははっ」と笑いながら頷く。
「おうおう、そこの新人さんよお。お客様にいつまでも絡んでないで、ちゃっちゃか働かねえとクビ切るぞ」
レジをしていた店主がそう言ったなら、信楽碧は得意げな笑顔を見せ、「小田さんパワハラだなあ。まあでもクビになったら、朔さんがおれのこと雇ってくれるもんね?」なんて冗談まじりに首を傾げる。
『沼ったら終わりさ』眉を落としつつも笑み、まるでそう言ってるかのような視線を向けてくるともちゃんに、あたしも似たような表情を返す。
「ごめんね、メンチカツ専門店の野望には手を貸せません」
わかってるよ。沼らないよ。たぶん。
「また将来設計がパーに……」と口を尖らせる信楽碧に、あたしは笑いながら「じゃあね、また学校で」とさよならを告げた。
チートキャラかよ。なんて、つい最近まで信楽碧のことを良く知らないくせに決めつけていた。
『おれのお節介はひとを成長させないやつ、って角田先生にこのまえ言われてさ。ほんとはひとの課題首突っ込むのだめなんだろーね』
『いやいや! あたしはめちゃくちゃ助かってます……』
『ふははっ、それならよかったけど。おれさ、 ひととの距離感バグってるらしいから、お節介してても気づけないんだよね。集中力とかも切れるの早いから、すぐ諦めて道草するし。だから、朔さんが負けじと集中して頑張ってるの見てると、羨ましいなあって憧れる』
あたしが手間取ってしまうことを、魔法みたいに完璧にこなしてしまうひと。でもそんな彼でも、ふと垣間見るじぶんへの葛藤を持っていて、きっと当然表面上にはわかり得ない悩みはたくさんあるのだろう。
あたしが人生に悩むように、彼だって当然悩んでいることがある。そんなあたりまえの事実に気づけば、じぶんの幼さを思い知るようで、とほとほと呆れてしまう。
と同時に、ずっとふてくされて、じぶんの人生に期待なんて持ってこなかったけど。信楽碧が憧れるなんて、たいそうな言葉を使ってくれたんだし。いざとなれば実家をメンチカツ専門店にしちゃえばいいや、のノリで。もっと気負わず気軽に生きてみるのも悪くないんじゃないか、って考えるまでに、前を向けるようになった気がする。
とりあえずはいまある人生、腐らずこなしていこう。なんて、そんなじぶんの心境の変化をもたらす彼は、やっぱり漫画の主人公的な存在だと思ってならない。そして、願うことなら沼らずに良いお友達でいたいものだ――。
「信楽! 頼んだ!」
「うっす」
そうはさせまい、と邪魔する敵の妨害なんて造作もなく人工芝を駆け抜ける。勢いよく蹴られ、ゴールキーパーの手もするりと抜け、蛍光色のボールはゴールネットを弾ませた。
ほら、パスもまかされたうえ、簡単にシュート決めちゃうんだもんな。あのひとはチートでしょ。
高卒後、服飾専門学校に入学して早半年。ブラウス製作の課題が再提出になり、自信喪失に苛まれていた。手芸用品店へ行く道すがら、防球ネットに囲われたフットサル場になにげなく目を向けたなら、同じクラスの見知った人物を何人か見つけ、そのなかのひとりが信楽碧だった。
裁縫はだれよりも素早く綺麗。デザイン画も多少独特だが、ド素人から見ても目を見張るものがある。コミュ力だって高いし、見目も愛嬌があるから、もう向かう所敵なしって感じだ。講師にも一目置かれている上に、クラスメイトからもよく頼られている。いつもひとの中心にいて、まさにカースト上位の陽キャ。それでもって運動神経すらもそなわっているなんて、神様ってどこまで不公平なんだろう。
もう辞めちゃおうかな、服飾。なんとなく親に言われるがまま入学したけども、まず手先が器用でもないし、ほかのひとたちみたいな物作りへの情熱もない。こんな人間が入っちゃいけないとこだった。
スニーカー片側の紐が地面に擦れる視界から逃げて、夕焼け迫る橙色の空を見遣った。
はあ、もう全部面倒くさい。あたしの人生ってなんなんだろう。
「朔《はじめ》さん、朔さん。おーい、朔さん?」
自習室のテーブルに広げたパターン用紙の線をゆびでなぞって、幾重にも連なる線の合流地点で迷子になる。ひとり、それをぼんやりと繰り返していたなら、手のひらが突然現れて、その手は挨拶するように揺れた。
はっとしながら顔を上げれば、テーブルを挟んだ先に信楽碧が立って、その大きな目をぱちぱちとさせていた。
「……あっ、ごめん、イヤホンしてて」
「なに聴いてたの?」
なに聴いてるんだっけ。まだ片耳についているイヤホンに耳をすませば、昔好きだったアニソンが流れている。けどタイトルが思い出せずに、「えーっと」なかなか答えられないでいた。だから咄嗟に外した方のイヤホンを差し出してしまったのだ。
いやいや、なにやってんのあたし。
ほぼ喋ったことのない相手に、なんともなれなれしい行動をしてしまった。そう思い引き戻そうとしたのだが、それより先に、信楽碧はイヤホンを受け取ってじぶんの耳にはめる。
「わ、懐かしー! なんだっけ、これ……なんかのアニメの歌だよね?」
「そうそう、忍者が出てくる」
「うんうん、おれも見てた、中学の頃だよね」
遠くから見ていたときは大人びて見えていたのに。目のまえの彼は、無邪気な子供のような笑顔で笑っている。そのギャップがなんともおそろしい。
あたしは頷いたあと、「ところで、えーと?」と首を傾げた。
そうすると信楽碧は「あ、これ」と思い出したように、左手に持っていたクリアファイルからチラシのようなものを取り出す。
「イヤホンもありがと」
差し出されたのは、この専門校がある駅からそう遠くない住所が書かれた、喫茶店の広告だった。
そのお店は約半月後に新装オープンらしい。そんな情報を読みながら、返ってきたイヤホンとじぶんの耳のイヤホンを取ってケースにしまう。
「ポピー、初河店?」
「これおれの親戚のおじさんちの近くにある、ポピーって喫茶店から暖簾分けさせてもらって、おじさんが新しく始める喫茶店なんだ。だから、いまみんなに絶賛宣伝中なの。おれの名前出せば、初回三割引きしてくれるから、朔さんもよかったら行ってみて。これから時期のおすすめはホットショコラ、雪だるま乗っててかわいいんだ」
喫茶店も暖簾分けがあるんだ。なんて、くすりとなりながら「うん、行ってみる」と返事をした。
「あ、ごめんね、邪魔しちゃって」
「ううん」
信楽碧はテーブルの上に視線を移すと、それをほんの数秒見つめただけで「シャツ作るの?」と訊いてくる。
彼がいま目にしているのは、シャツやブラウスの解説本についている、パターン用紙だ。ひとつの紙のなかに何種類ものパターンが引かれているから、あたしなら初見でこれがなにがなんだか検討もつかない自信だけはある。このひと本当にすごいな。
「うん。このまえの課題、基礎からぜんっぜん出来てないって、再提出になっちゃってね」
自嘲しながら、あたしは丸まっているハトロン紙を広げてパターン用紙の上に敷く。
「角田《かくた》先生、厳しいもんね」
薄いハトロン紙には下のパターンが透ける。しゃりしゃりとする紙を伸ばしながら、錘を乗せて固定すると、信楽碧も反対側に錘を乗せてくれた。
「ありがとう。まあ厳しいのも確かだけど、あたしが根本的に壊滅し過ぎてるんだと思う。あはは……」
シャーペンと透明な定規を使ってパターンをトレースしていく。このあとはじぶんの寸法に型紙計算し直してって、それから……ああ、線引くところ間違えた、消して直さなきゃ。
「こういうパターン用紙って、小学男児がノートいっぱいに描いてた迷宮路みたいな、本当にゴールあるの? って感じにしか見えなくて、苦手なんだよね」
消しゴムで消しながら、言い訳するみたいにつぶやいてしまった。
「あははっ。なんかわかる。あれ、おれも描いてた」
「へえ。信楽、君もそういうタイプだったんだ?」
「タイプだったねえ。てか、あんましあの頃から成長してないと思う」
信楽碧はいつの間にか目のまえの椅子に座っていて、側に積んでいた洋裁本のひとつを手にするとぱらぱら捲っていた。
目が大きいぶん、それを守るために睫毛も長いのか。あらためて見ると綺麗な横顔だなぁ、なんて暢気なこと考えているじぶんにまた自嘲が浮かぶ。
「小田さんにも、お前は成長せんなぁって呆れられてるし。あ、小田さんってのは、この喫茶店始めるひとね」
こちらをちらっと見て、ふわっと歯を見せて笑う彼。目が合ったことがなんだか恥ずかしくなって、「そうなんだ」と早口で合図しながらあたしはトレース作業に戻った。
「おれも製図すんの苦手。できるなら頭んなかだけで浮かべた通りに切って、思うがままに縫えたら楽だけどね。洋裁ってそうはいかないもんなあ」そう言った彼は、回転椅子を軽く揺らしながら、「まあそれを勉強するために、ここに入ったんだけどさ」ひとりごとのようにそう呟いた。
勝手になんでもできるチートキャラだと思っていたけれど、あたしが雑魚キャラすぎるだけで、そりゃあ勇者には勇者なりの悩みはあるか。
「信楽君はもう就きたい仕事とか、決まってる?」
「んー。おれ、中学生のときからずっと編み物やってて、でも趣味の範囲だったし、洋裁本格的にやろうかなって思ったのは、高三に入ってからだったし。それまでは学校で学んでまでやらんでもいいかなあって思っててね。漠然と将来は地元帰って、精肉店の店主って想像してたんだ」
ぱたんと閉じた本を戻して、今度はパーカーの紐をゆびに巻きつける信楽碧。蛍光灯が並ぶ天井に視線を向けて、それを数えるように眼を動かしていた。
「地元って、ポピーの本店があるところ?」
「んーん。まあそこも地元っちゃそうなんだけど。中学までは母親の地元に住んでて、高校卒業したら、そこに帰りたいなあってずっと思ってた」
帰りたいなんて、その地元にはよほど思い出があるんだろうな。
「お友達ともしばらく会えてないし。本気で帰るつもりだったんだけど、進路決めるあたりでまずいことが起きててさ」
「まずいこと?」
ぐるりと椅子を回転させる音と、こちらに声が向いた気がして、あたしは手元に戻していた顔を持ち上げた。そうすると渋い顔して襟足をさする信楽碧と目が合う。
「母親の実家の精肉店が、いつの間にか食堂に生まれ変わってたんだ。しかももう雇われ店長までいる始末で、おれの将来設計が一瞬でパー」
もう失笑するしかない、というように笑う彼。あたしもよく知らないながらも、つられて小さく笑った。
「それを色んなひとに愚痴ってたら、中学んときお世話になったひとに、『いまから無理に料理人目指してお店奪還を企むよりも、どうせならこの際、信楽君の得意分野を極めてみたらどうかな?』って言われてね。ぎりぎりまで迷ったけど、じゃあじぶんじゃ手こずってる洋裁、習おうかなーってここに入学してみたんだ。だから、まだ仕事なにしたいかも特別決まってない」
ああ、なんだか。信楽碧のそばにいつでもひとがいる理由、わかった気がする。
ひとの懐に入るのが上手いというか。あたしなんて、彼からしてみればモブもいいところだろうに、まるで長年の友人のような距離感。しかもそれが馴れ馴れしいと思わないのは、彼特有の愛嬌のせいか。なんというかまあ、要約すると漫画の主人公的な特別枠のひとだ。
「そっか、そうなんだ」
「朔さんはなんでここ入ったの?」
「あたしは……、実家がスポーツ用品店なの。弟がいるんだけど、弟は家継ぐ気とか一切ないって断言してるから、なんとなくあたしが継ぐ感じになっちゃってて……。大学行きたいなら学費は実費で、服飾なら出してくれるって言われたから、それならって。あはは」
なにやっても上手くいかないのも、不器用だから、と言い訳。情熱が持てないのも、親の期待から逃げられなかったから、と言い訳。ごしごしと消しカスが広がり、がさがさと紙がよれる。
将来が決まっているあたしよりも、いまはまだ決まっていない信楽碧のほうが、とてつもなく愉しそうで、眩しくて。やっぱり彼は解像度の高い主人公そのもので、あたしは適当なシナリオを携えたモブに思えてしかたない。
「へえ! じゃあ朔さんのが先に店主になれちゃうじゃん。いいなあ。おれが就職に困ったら雇ってね」
ただただ明るく、にっこりと笑った信楽碧。そんな彼を見ていたら、じぶんの卑屈さがばかばかしくなってくる。
「えーやだなー。なんか信楽君が就職してきたら、あっという間に乗っ取られちゃいそう」
「あははっ。一年後とかには、メンチカツ専門店に生まれ変わってるかも」
なんでメンチカツなのだ。とハテナが浮かびつつも、そうなったらそうなったで愉しそうだ。もういっそのこと、じぶんでそうしちゃうのも悪くない気がしてきた。
「沼ったら終わりさ。ああいう男には」
湯気立つホットコーヒーを持ち上げながら、同じクラスで友人のともちゃんが悟りを開くように言った。
その視線の先には、オレンジ色のジャージを着た信楽碧がカウンター席に腰掛けながら、愉しげに店主と喋っている姿があった。
すこしサイズが小さいんじゃないか。と思うそのジャージの左胸部分には、【信楽】の名前と見慣れないロゴが小さく刺繍されている。それはたぶん学校ジャージだと思われる。
先日、そんな彼に宣伝されたポピーに、ともちゃんを誘い来ていた今日。あたしたちが席について間もない頃、ふらりと現れた信楽碧。彼は本当に来たことがよほど嬉しかったのか、一緒の席に座りしばらく会話していた。すると、見かねたような店主に『もうそろそろ空気読め』と向こうに側へと連行されて行ったのだ。
「ともちゃん、信楽君みたいなひとが好みなの?」
「うーん。見た目で言ったら、あっちのイケおじのほうが好みだけど」そう言ってこっそりゆびさしたのは、信楽碧の親戚らしい、この喫茶店の店主だった。たぶん五十代くらいだと思われる。
「し、渋いね」
「ふふっ。あの信楽君の懐っこさは、母性本能くすぐられそうになるのはわかる。でもねえ、ああいうのに勘違いしちゃうと痛い目見るから、真奈《まな》ちゃん、要注意よ」
見透かすようなともちゃんの視線に、あたしは苦笑する。
クリームでできた雪だるまは、もうとっくに溶けてしまったホットショコラ。溶け残りをティースプーンでゆっくりかき混ぜ口にすれば、甘く馴染むなかにわずかにほろ苦さが舌に残った。
あたしはともちゃんに何度か頷いてみせる。
わかってるよ。信楽碧と話すようになったのはまだひと月程度。だけども、ぽつりぽつり、と話してくれる地元での思い出のなかに、彼が大切にしてるひとが沢山居て。そんななかでも特別な、会いたいひとがいるんだろうな。なんて、いやでも気づいてしまうもの。
○
「あ、ごめん電話だ」――それは半月程まえの話。
ありがたいことに信楽碧が課題を手助けしてくれることになり。ミシンやマネキンが並ぶ教室で、彼はそう言ってポケットからスマホを取り出した。
「どうぞどうぞ、気にせず」
彼はスマホ画面を確認するや否や、一瞬のうちにその口元に弧を描かせる。場所を移動する時間も惜しいのか、その場でその電話を取るものだから、あたしはなるべく聞いてませんよ、のテイで裁断し終えた布にまち針を刺していた。
「久しぶり! どうしたの、文原さんから電話来るなんて珍し……」
ボールが飛び上がるような弾んだ声の信楽碧。けれど、すぐさま下降してしまうかのように言葉尻が掠れていく。
「文原さん? え……どーした? 泣いてんの?」
その言葉にあたしは視線を持ち上げた。信楽碧の表情は、見えない状況に焦り、苛立っているようにも窺えた。
聞いてはいけないと思いつつも、こういうときに限ってほかには誰もおらず。低音の空調機だけが静かに反響する室内では、案外スピーカーにしてなくても、電話越しの声を耳が拾ってしまうから困る。確かに、鼻を啜って言葉を詰まらせる女の子の声が聞こえていた。
「なにがあったの? いまから行くから」と我を忘れたように、座っていた椅子から立ち上がる信楽碧。
勢い余って椅子は危うく倒れかけるものだから、ひとりひやっとする。あまりの気まずい空気に、できるなら空気も読まずミシンの轟音で音を塗りつぶしてしまいたくなる。
『ご、ごめん。急にごめんね! 違うの、あのね――』そう焦った声の持ち主は、言葉を詰まらせながらも、信楽碧にじぶんは大丈夫なことを伝えていた。
断じて聴こうとしていない。聞こえてしまうのだ。と胸のなかで言い訳がましいことを浮かべながら、実際のところいまはもう手を止めて耳を傾けてしまってるじぶんがいる。
『釘間先生に会ってきたの。ずっと手紙ではやりとりしてたけど、やっと会えたの。いまその帰りなんだけど、なんかぐわーって、いろんな感情出てきて、でも嬉しくて、気づいたら信楽君に電話しちゃってて』
その声は幸せを噛み締めているように聞こえた。
そんな彼女に対して途端に安堵を滲ませた信楽碧は、「そっかあ、よかったじゃん」とじぶんのほうが幸せな顔をして、微笑んでいた――。
○
まあ、あの顔を見たらね。良くわからないけど特別そうな会話を盗み聴きしてしまったらね。ずっと会えてない〝お友達〟が彼にとってただの友人ではないこと、わかっちゃうもんなぁ。
実はほんのちょっと落胆を覚えたことは、この先もだれにも口に出すことはないだろう。あたしはホットショコラを飲み終えて、静かに緩やかに持ち上げた頬のまま、「そろそろお暇しよっか」とともちゃんに言った。
「――あれ、もうふたり帰っちゃうの?」
ジャージから着替えた信楽碧は、ポピーのロゴが入ったエプロンを身につけ、そのポケットに手を入れながらバックヤードから出てきた。
「あれ、信楽君のバイトってここだったんだ?」
会計をわざと長引かせてるともちゃんの横で、申し訳なく思っていたときに現れた、そんな信楽碧の姿に目を丸める。
彼は質問返しされたことがおかしかったのか、「ははっ」と笑いながら頷く。
「おうおう、そこの新人さんよお。お客様にいつまでも絡んでないで、ちゃっちゃか働かねえとクビ切るぞ」
レジをしていた店主がそう言ったなら、信楽碧は得意げな笑顔を見せ、「小田さんパワハラだなあ。まあでもクビになったら、朔さんがおれのこと雇ってくれるもんね?」なんて冗談まじりに首を傾げる。
『沼ったら終わりさ』眉を落としつつも笑み、まるでそう言ってるかのような視線を向けてくるともちゃんに、あたしも似たような表情を返す。
「ごめんね、メンチカツ専門店の野望には手を貸せません」
わかってるよ。沼らないよ。たぶん。
「また将来設計がパーに……」と口を尖らせる信楽碧に、あたしは笑いながら「じゃあね、また学校で」とさよならを告げた。
チートキャラかよ。なんて、つい最近まで信楽碧のことを良く知らないくせに決めつけていた。
『おれのお節介はひとを成長させないやつ、って角田先生にこのまえ言われてさ。ほんとはひとの課題首突っ込むのだめなんだろーね』
『いやいや! あたしはめちゃくちゃ助かってます……』
『ふははっ、それならよかったけど。おれさ、 ひととの距離感バグってるらしいから、お節介してても気づけないんだよね。集中力とかも切れるの早いから、すぐ諦めて道草するし。だから、朔さんが負けじと集中して頑張ってるの見てると、羨ましいなあって憧れる』
あたしが手間取ってしまうことを、魔法みたいに完璧にこなしてしまうひと。でもそんな彼でも、ふと垣間見るじぶんへの葛藤を持っていて、きっと当然表面上にはわかり得ない悩みはたくさんあるのだろう。
あたしが人生に悩むように、彼だって当然悩んでいることがある。そんなあたりまえの事実に気づけば、じぶんの幼さを思い知るようで、とほとほと呆れてしまう。
と同時に、ずっとふてくされて、じぶんの人生に期待なんて持ってこなかったけど。信楽碧が憧れるなんて、たいそうな言葉を使ってくれたんだし。いざとなれば実家をメンチカツ専門店にしちゃえばいいや、のノリで。もっと気負わず気軽に生きてみるのも悪くないんじゃないか、って考えるまでに、前を向けるようになった気がする。
とりあえずはいまある人生、腐らずこなしていこう。なんて、そんなじぶんの心境の変化をもたらす彼は、やっぱり漫画の主人公的な存在だと思ってならない。そして、願うことなら沼らずに良いお友達でいたいものだ――。
