この春に青はいない

 ――今年の初雪は去年よりもはやかった。
 ひとりで帰ることにも慣れたくないのに、慣れてしまった帰り道。ふわりと顔に冷たいものがふれて、腕を上げれば、手のひらに降り落ちる雪の結晶は、またたく間に溶けて消えてしまう。
 まだ今年。たった十ヶ月まえまで、雪を踏みならして一緒に帰っていた信楽君は隣にはいなくて。いくらそれを日常として受け入れても、季節がめぐるとやっぱり一番に思い出してしまうから、わたしは事実どうしようもない。
 信楽君のいま住んでいるところでは雪はあまり降らないらしい。冬はここより寒くないらしいんだ、と嬉しそうに電話で話していたのはつい最近のことだった。
 信楽君との連絡は続くこともあれば、一ヶ月くらい空くこともある。そういうところは、まめであり、ふまじめな信楽君らしい。
 彼は彼なりに向こうで愉しく過ごせているらしい。それはとてもよかった。よかった。よかったのだけれど……。
 びゅうっと背中から押されるような風に煽られて、わたしはとめていた足を一歩一歩と踏み出して、底冷えするような冷気に身震いをした。


「おや、文原さん、なんだかとても久しぶりだね」
 冷蔵庫よりも冷たい旧校舎の廊下を進んで、がらりと扉を開けたなら、教室にはストーブのまえで温まる井原さんの姿だけだった。
「井原さん、お久しぶりです。……あれ? 今日はもしかしてだれも来てないですか?」
「いいや、来ているよ。鈴木さんと小鳥遊君は今日はテストがあって、寺崎先生と本校舎の空き教室行っているんだ。丸見《まるみ》君は、図書室に本を探しに行ってる」
 丸見君は、ふらりと現れる一年生だ。ここにはときどき来たり、たまに本校舎の教室にも顔を出したりと、ある意味信楽君より自由だから図書室に行ってても驚きはしないけれど、鈴木さんと小鳥遊君に関して、わたしは目を丸めた。
「本校舎にですか?」
「うん。今日のは一時間ほどで終わるらしいんだけど、その間は絶対生徒に会わないよう取り計らってくれるって、寺崎先生が約束しててね。やっぱりここは寒すぎるから、テストのときくらい温かい部屋で集中させてあげたいって、校長先生に直談判してくれたみたいなんだ」
「寺崎先生らしいですね」
「うん。ふたりにはいきなり酷なことかもしれないけれど、でもそうやってすこしずつ慣らせていけたなら、ここもすこしは変わるかもしれないね」
 小さく微笑む井原さんは、マイバッグから赤いネットに入ったみかんを取り出して、「一緒に食べよう」とまだ入り口にいたわたしに手招きをした。
 中央に置かれたテーブルには信楽君の毛糸などの私物がなくなった代わりに、ペーパークラフトのジオラマがいくつか置かれている。
 本校舎に体育館、プールと倉庫。これは信楽君が井原さんのお友達の仙人さんに頼んで、また設計してもらったものだった。
 信楽君の野望は本物だったらしく、編み物と並行しながらひとりで完成させていた。というか、わたしたちにはほぼ手伝わせてくれなかった。
 この学校敷地内の建物たちは実際と同じ配置で並んでいるのたまけれど、旧校舎のところだけはがらんどう。
 それは信楽君がここを去る日、『これだけはもらってもいい?』なんて、彼らしくもなくしおらしく訊いてくるから、当然みんなで頷くと、嬉しそうに手にして行ったからだ。荷物過多のせいで、結局最後まで信楽君のお母さんが持っていたけれど……。

 タライからぶくぶくと沸き立つ音。風で軋む窓硝子の音。べりべりとみかんを剥く音。香りたつ柑橘の香り。
 静かで穏やかで、淋しいけれど、特別な空間だった。
 あとわたしは三ヶ月後にはここには来れなくなってしまう。
「もうすぐだったよね? 合格発表」
「はい。今週中です」
「それは、緊張するね」
 井原さんは剥いたみかんを皮の上に戻して、ぎゅっと手を握って祈るようなポーズをするから、柔く笑みがこぼれる。
「前期がもしだめだったときに備えて、最近は塾に入り浸ってたんですけど。やっぱり発表が気になって集中できなくて、今日は息抜きでここに来てみたんです」
「うん、息抜きは大切だ。私でよかったら、いくらでも話し相手になるからね。愚痴でもなんでも話してくれていいからね」
「ふふ。ありがとうございます」
 話さなくても、井原さんがそばにいてくれるだけで落ち着く。井原さん自体が癒しの存在な気がする。
 高校を決めるときも、井原さんはかなり力になってくれた。
 あまり遠すぎず、けれどここの同級生はあまり多くなく、わたしの学力でも問題なく、井原さんが信頼できる知り合いの先生がいる高校。
 そんなところを見つけるのは大変だったと思うのに、いくつか提案してくれたときは井原さんのやさしさが暖かすぎてしばらく泣いてしまった。そんなわたしの涙が移ったのか井原さんまで泣いてしまって、鈴木さんと小鳥遊君はおろおろと困って、でも最後には笑いにあふれていた。
「信楽君も、たぶん発表は同じ頃だよね」
「え、いえ、信楽君は昨日合格したって、あれ、井原さんに連絡……」
「……来てないね」としょんぼりと肩を落としつつも、嬉しそうに微笑む井原さん。
「信楽君も高校生かぁ。ふたりともついこの間まで一年生だったのに、もうすぐ中学卒業しちゃうんだもんなぁ。はやいねぇ、子供の成長は本当にはやい。喜ばしいけれど、ちょっとだけ、淋しいな」
 みかんを口にしながらしみじみと目尻を下げてしわを濃くする井原さんを見て、まるで本当のおじいちゃんと会話しているような感覚が浮かんできて、わたしは頬が緩む。
「ああ、だめだ。すまないね、私がしんみりなんかしちゃって」
「いえいえ」
「こんなんで、来年度からのフリースクールの職員をやっていけるか……私自身が一番不安だなあ」
 そう言いつつも、マイペースにみかんを食べ続ける井原さんは、やっぱり信楽君と重なって見える。
 井原さんはお友達の仙人さんと、数年まえからフリースクールの設立の計画を立てていたらしい。そして今年、やっと念願だったそのフリースクールを開校させるのだ、と数ヶ月まえに教えてくれたのだ。
 ここら辺にはそう言った施設がなかったから、きっと学校に居場所を持てないひとも。わたしたちのようにこうしてサポートクラスに通っているひとも。サポートクラスには来ない選択をしているひとも。どの立場にいたとしても、だれかの選択の幅が広がって、きっとそこに井原さんがいるのなら、救われるひとが絶対増えると思う。
「大丈夫ですよ、井原さんなら」
「あはは、ありがとう。でも受験生に逆に励まされてるのは、やっぱり大丈夫とは言えないねえ。それにもっとはやく創始できていたら、文原さんたちにもここより良い環境を作れてたかもしれないのに」
 名ばかりのサポートクラス。大人が顔を顰めるこんな場所でも、わたしにとっては最後の砦だった。
 本校舎では学べなかったことも山ほど沢山あるのだろうけど、ここでしか得られなかったことも海ほど深くあると信じている。
「もちろん、井原さんが作るフリースクールも通ってみたかったです。でもわたしここで先輩たちと、信楽君と、鈴木さんと小鳥遊くんと、ときどき丸見君と、もちろん井原さんとも、過ごせて本当によかったと思ってます。つらい記憶もいっぱいあるけど、みんなとこの教室で過ごせたことは、ひとつも無駄にならないと思うんです。将来、愉しかったなーって、思っちゃいますもん、絶対」
 見送った先輩たちや信楽君との愉快な日常を思い出して、もうすでに恋しいと思ってしまっているのだから、卒業して、いずれ大人になったときにもっと恋しくなるに決まってる。
「そうだね。愉しかったね」
 井原さんは教室を見渡して、感慨深くそう言って頷いた。
「――文原さん」
「はい?」
「本当はね、ずっと迷ってて。渡すにしても、せめて受験が終わったらにしようと思っていたんだけれど。いまの文原さんを見たら、大丈夫だと確信持てた気がしてね」
 井原さんはどこか緊張したようにウエットティッシュで手を綺麗に拭くと、革鞄からファイルケースを取り出す。
 そのケースを開いて迷いなくページを捲り、一枚の封筒を取り出してそれをわたしに差し出した。
「東小の釘間《くぎま》先生を、覚えているかい?」
「……はい」
 白い封筒の表には、覚えのあるやさしく達筆な字で【文原さんへ】と書かれていて。裏返せば【釘間】と小さく書かれていた。
「一年ほどまえに、釘間先生と別の小学校で知り合ってね。私、生徒だけではなくて、教師のカウンセリングも請け負っているから、その釘間先生からもいくつか相談を受けたことがあって。本来ならこれは話してはいけないことなんだけど、先生がもしこれの手紙を渡すことになったら、説明してくれていいとおっしゃってくれてね」
 井原さんは眼鏡をそっと上げ直しながら、口角を硬く持ち上げて話を続ける。
「釘間先生、生徒の傷ついた心を救いきれなかったことに、ずっと悩んでいる、と打ち明けてくれたんだ。その生徒はいじめのせいで、学校に来れなくなってしまって。小学六年生の特別な年の、生涯残るはずだった愉しい思い出を、じぶんが奪わせてしまったんじゃないかって――」
 わたしは手紙から視線が外せないまま、小さく首を横にふった。
 口のなかが痛い。強く噛んでいるからだ。それに気づいて力を抜けば、鉄の味が滲む。
「話を聞いていくうちに、釘間先生はその生徒の名前は一度も出さなかったけれど、私のなかで糸が引っ張られて結ばれていくような感覚を覚えて、カウンセリングを終える頃には、その生徒が文原さんのことだと悟ってしまったんだ」
 井原さんに視線を戻せば、眉を下げたその表情は話していることに対する後悔が滲んでいるようで、わたしはその目を見ながら頷いた。
「――文原さんが卒業したあとも、本当は連絡を取りたいと思っていたらしい。でもね、文原さんの担任の先生だったときはただ必死で、その必死さが余計に文原さんを傷つけてしまってたんじゃないかって思ってしまったら、連絡を取ることも、文原さんの近況を知ることも、こわくなってしまったとおっしゃっていた。でも不安は積もるばかりで、そんなとき、私と会ってこの話をしてね。私も迷ったすえに、文原さんのこと伝えてしまったんだ。本当にすまない、勝手なことを」
 膝に手をついて深く頭を下げる井原さんに、強く首を左右にふった。
「怒ってないですよ、顔上げてください」
 また声が出てくれないんじゃないか、とちょっとだけ不安だったけれど、ちゃんと出てくれたことに安堵する。
「すまない……。文原さんがこのサポートクラスに通うために、毎日学校に来れていることを伝えたら、釘間先生とても安心した顔をしていてね。それならじぶんのことを思い出させないほうがなおのこと良いとも、おっしゃっていたんだが。それでも、心の引っ掛かりが取り去れていない先生に、私が提案したんだ。なにか伝えたいことがもしあるのなら、折を見て私から手紙を渡すと」
 わたしがテーブルに置いた手紙に、井原さんはもう一度ふれる。
「これを渡したことも、文原さんにすべてを話したことも、私からはもう釘間先生には伝えない。これを読むことも、突き返すことも、文原さんが思うままに、心が痛まない選択を大前提に、決めてほしい」
 そう言ってからもう一度、井原さんは「勝手ばかりですまない」と謝るから、わたしは下がっていた口端に力を込めて、その手紙を受け取った――。

【文原さんへ。
 お久しぶりです。釘間です。この手紙をしたためていいのか、井原さんに託してもいいのか、本当はいまも迷っています。
 文原さんが私を思い出してしまったなら、同時につらい記憶を思い出させてしまうのではないか。なによりそれな恐ろしいのです。
 それでも文原さんのことを第一に考えて、この手紙の行くすえを決めてくれると言ってくれた井原さんを信じて、あなたに伝えられなかった気持ちをここに記したいと思います。勝手なことばかりでごめんなさい。
 文原さんが私に教科書を差し出したとき、頭が真っ白になってしまって、すぐにあなたの心を守ろうとしなかったことを、一番後悔しています。
 きっとあの場からすぐにあなたを引き離すべきだった。なぜそうせずに、犯人探しをしようとしてしまったのか。ほかの生徒たちの気持ちも、文原さんの恐怖もなにもわかれずに、あんな選択をしてしまったこと、どれだけ悔やんでも悔やみきれないです。
 文原さんがいた六年三組を受け持つまでも、たくさんのクラスと生徒とふれあって。もちろん、だれひとりとして同じ生徒はいなくて、自己表現が得意な子、奥手な子、だれにでも手を差し伸べられる子、ひとに当たりが強くなってしまう子、みんなばらばらで、でもクラスメイトとして一年間を共にしなくちゃいけなくて。
 大人だってひととの関わり方を模索して、悩んだり、傷ついたりするのに。まだじぶんのことも社会のことも学んでいる最中の子供が、ひとつの教室のなかで、たくさんいるじぶん以外の子たちとうまく過ごしていくのは、きっと簡単なことじゃない。
 でもそれを見守り支えるのが担任としての役目だと思って、私なりにひとりひとりをちゃんと見ていたつもりでいたけれど、たくさんのクラスを見送っていくうちに、どこか驕っていたのかもしれない。文原さんが傷ついてしまったときも、じぶんの悲しみと怒りを優先させてしまったことが、そもそもの間違いだった。
 文原さんの気持ちも考えずに突っ走って、いやな思いをたくさんさせてしまってごめんなさい。
 文原さんが勇気を出して学校に一度来てくれたときも、ただ嬉しくて、またじぶんの気持ちしか考えられていなくて、保健室にお友達と一緒に会いに行ってしまったこと、ふたりにはとんでもない私のわがままを押しつけてしまった、とあとから気づいて後悔して。いまでも正解だったかもしれない道を探して、戻すことのできない時間に悔やんでしかたない。
 もし正解の道を歩めていたなら、文原さんが卒業式に参加できたかもしれない。お友達ともじぶんたちだけの力でまた話せるようになってたかもしれない。
 そんな大切なものを私は奪ってしまったのではと、どうしたってもう時間は戻せないのにまた考えて、文原さんに会ってもう一度謝りたいのに、情けない私はそんな勇気も持てずに、この手紙に気持ちを落とし込んでいる始末です。
 結局じぶんのことばかりで本当にごめんなさい。傷つけてばかりで本当にごめんなさい。
 井原さんにお会いして、文原さんの名前を偶然にも聞けたとき、会って謝れるチャンスをもらえたと一瞬思ってしまったの。でも中学校のサポートクラスに通えていることや、そのクラスで一緒の子たちと笑えていることを教えてもらって。それがただ嬉しくて。喜べる資格はないとわかっていても、どうしようもなく安堵にたえないのです。
 いまは文原さんの日常を壊してしまわないように、心から信頼できる井原さんに託して、私はあなたに会うべきではないと、こんなのはただの責任逃れかもしれないけれど、そう思っています。 
 文原さんが通っているサポートクラスは、どんなところなのかわからないけれど、文原さんが心から安らげて、たのしいと思える場所なことを、ただひたすらに願っています。どうかお元気で。
 釘間】

 充電の残量が二〇%だと知らせてくれるスマホ画面には、通話時間が二時間を過ぎてることも教えてくれていて、微苦笑がこぼれた。
『――それでさぁ、小田《おだ》さんが孵化したあとどう責任とんだって、うずらの卵全部没収されちゃってさ。ひどいよねえ、せっかく温めてたのにさー』
 充電コードを繋いだスマホのスピーカーから、駄弁る少年の声が延々と聞こえる。
 思えば、すこしまえより低くなったその声は、少年というより青年に近いかもしれない。でも喋りかたはそのまま。
『責任なんて取るに決まってんじゃんね? なんたってぼく、旧校舎でツバメの雛育てた経験あるし。なのに文原さん、つぎの日に中華丼を出されたぼくの気持ちわかる?』
 小田さんは信楽君のお父さんのいとこの、そのまたいとこの――とりあえずいま、信楽君のお家の近くに住んでいる親戚のおじさんらしい。
 信楽君が引っ越してから一番話に登場するから、たぶんかなり心を許しているひとなんだと思う。年齢はわたしたちよりかなり上なようだけれど、そんな現在の信楽君のお友達、会ったことなければ顔も知らない小田さんに妬いてしまっているのはわたしだけの秘密だ。
『ねー文原さん、さっきから返事ないけどちゃんと聞いてる?』
「聞いてるよ、一応」
『一応なんて、ひどいなあ』
 レースのカーテンをめくって外に視線を向けたなら、細雪がぱらぱらと降っていた。
 わたしは上着を着て机に置いていた封筒を手に取ると、折れないようにクリアファイルに挟んでから鞄に入れる。
『ねえねえ、まさか、なんかさっきから忙しない音聞こえてるけど、どこか行く気?』
「うん。ちょっとすぐそこのコンビニ――」
『――それっていま行かなきゃだめなの?』
「だめ、ってわけじゃないけど……信楽君、なにかあるの?」
 そう訊いて、しばらく黙り込む信楽君。
『春休みなんだからいいじゃん。それにまだ午前中だよ? まだ家でゆっくりして、出掛けるなら午後からにしてよ』
 これはなにか隠してる、企んでいる。スマホ越しの見えない信楽君に目を細めた。
 しばらく既読無視してたくせに、突然電話してきたと思えば、それからずっと喋っている。まあそれは特段おかしなことではないから、気に留めずにいたのだけれど。
「信楽君なにか――」
 わたしがそう言いかけたとき、うちのインターホンが鳴った音が聞こえた。部屋の扉を開けたなら、一階でお母さんが宅配業者のひとと会話する声が聞こえてくる。
『だれか来た?』
「ううん、たぶん荷物が届いただけ」
 手にしたスマホから聞こえた問いに、そう返せば『あ、そっかぁ。あははっ。じゃあもういいや』なんて、よくわからない笑い声が聞こえてくるから首を傾げる。
『文原さん、合格おめでとー』
「え、なんでいま? 合格って高校のことよね? それなら一ヶ月まえにも聞いたけど……」
『んー。まあいいじゃん、何度言っても』
 わかりそうで、わかれない。信楽君は本当に掴みどころがないひとだ。
「それなら、ありがとう、信楽君もおめでとう」
『うん、ありがと。あ、ぼくこのあと、小田さんとポピーにお茶会しに行くんだった。文原さん、じゃあまたねー』
 いまのいままでじぶんが引き留めてたくせに、また勝手なひとだ。それにポピーって? お茶会ってことは喫茶店とかの名前? なんて、いろいろな不満と疑問が交差するなか、一方的に通話の途切れたスマホの画面を見て、口元を歪めながらもくすりと笑みがこぼれた。
「あら、どこか出掛けるの?」
 階段を下りようとすると、上ってこようとするお母さんと出くわした。
「うん、ちょっとコンビニのほうに。なにか買うものある?」
「ああ、ちょうどよかった。さっきね、いちご大福の特集見てたら、お母さんいちご大福の口になっちゃって」
「ふふ、わかった。買ってくるね」
 頷いたわたしに、お母さんは微笑んで、持っていた段ボールを「はい、あなた宛に届いたわ」そういって渡して、もう一度にこっと笑うと階段を下りていく。
 さっき届いたものわたしのだったんだ。なんだろう、高校関係のものかな?
 わたしは階段を上り直しながら、半分残された伝票に視線を落とせば、とたんに目を丸めてしまう。
 個性的な右下がりの字――信楽碧から届いたものだった。
 急いで部屋に戻ってそれを机の上に置く。
 カッター……が見当たらない。じゃあハサミで!
 三十センチほどの段ボールは、その大きさの割にはやけに軽いものだった。中身がなにかわからないから伝票の品名部分を確認したなら、信楽君の字で【毛糸】とだけ記載されている。
 それでいいのだろうか。とまた笑みがこぼれながら、開いたハサミの刃を入れすぎないように巻かれたガムテープを慎重に切ってゆく。
 蓋をあければ深緑色の包装紙が見えて頬が緩む。
 それを持ち上げて裏返せば、似た色のマスキングテープでとめられていて、一度机に置いて「ふー……」と息を吐いて、やけに緊張を抱きながらテープを剥がして袋を開いた。
 ぐるっと丸まった水色の毛糸を両手にして目の前に掲げたなら、それは水色のセーターだった。
 目が合った綺麗な模様には見覚えがある。たぶん、おばあさんに編んでいたあの真っ赤なセーターと同じもの。
 その色はいつか見た、晴れ渡った空の色に似ていた。
 いつだったっけ。
 ゆっくりまばたきをしながら見つめていると、ひどく暑い教室で、『七夕ゼリー』を熱く語っていたときの信楽君を思い出した。
 はじめてあった日。まだすこし氷が残るシャーベットのようなゼリーを食べながら、あの旧校舎の教室から見上げた空にとてもよく似ていた――。
【文原美空(みそら)様】と表記された伝票に視線を戻せば、きっと丁寧に書いてくれたんだろうなと伝わってくるその字に、つい涙がこぼれた。
 信楽君、わたしの名前知ってくれていたんだ。住所もいったいだれから訊いたのか。
『文原さんには、ちゃんと文原さんにあったやつ作るから、まあ首長くして待っててよ』
 遊ぶ約束も果たされてないから、この約束も忘れちゃってると思ってた。本当にどれだけ首を長くして待っただろう。ろくろっ首になっちゃうところだった。
 ティッシュで顔を拭いてから上着を脱いで、それを被って着る。本当にぴったりのサイズだったもので笑いながら、また泣いてしまった。

 雪はやんでいた。みぞれに近い薄く積もった雪をしゃりしゃりと踏みならす。
 わたしは何度も視線を下げては、頬を持ち上げて、淡い世界に白い息を滲ませた。
 寒いというのに、隠すのがもったいなくて上着を着られなかった。風邪をひいたら信楽君のせいだ。
 コンビニの横に立つ真っ赤なポスト。そのまえに立って、鞄からクリアファイルに挟んだ手紙を取り出したわたしは、じっと宛先を見つめたあと、かじかむゆびさきに想いを込めて手紙を投函した――。