この春に青はいない

 青葉に雨粒が降りそそぐ。ぱらぱら、ばしゃり、と頭上に音がこだましていた。
 空は青々しい。雨は陽《ひ》に照らされてきらきらと光っていた。
 気まぐれなにわか雨が過ぎ去って、雨やどりしていた緑々《あおあお》しい木の日陰から出たなら、熱気と湿気が混じった日差しがふたたび肌を焼き始める。雨で湿ったアスファルトから、なんとも言いがたい匂いがむわりと鼻をつく。
『こーいう匂いね、ペトリコールって言うんだって』
 一度気になったら気が済まない少年の声が、途端に思い起こされる。いつも側にいたその声が聞こえなくなってから、四ヶ月が過ぎ去っていた。
 もくもくと浮かぶ入道雲は、グラニュー糖がふりかけられているみたいにきらきらと煌めく。
 きっと信楽《しがらき》君ならあれを見て、ソフトクリームが食べたいとか、クリームソーダが飲みたいとか言いそう。なんて、ひとりくだらないことを思い浮かべながら図書館への坂道を下っていく。
 春休みが来るまえに、信楽君はやっぱり引っ越してしまった――。

 ○

「あの子ったら私だけには、小さい頃からずうっと反抗期なのよ」と信楽君のお母さんは苦々しく笑っていた。
 ――それは春休みには届かない、三月は中旬のこと。
 旧校舎のジオラマを手にして、あいも変わらず翳った旧校舎を見つめている信楽君のお母さん。わたしはその横に立って、「お母さんだけにですか?」と目を丸めた。
「ええ。碧とって、父親は尊敬できるひとで。祖母は人生の師匠って感じ。さよちゃんは姉のような親友のような、頼れるひとだと思う。で、母親の私は、ただこうるさい鬼ばばあって存在ね」
 目を薄めて頷き言った言葉に、私は苦笑と失笑がまじった息を洩らしてしまう。
「ふふ。まあでも、碧の目線に立ってみれば、そんな態度を取りたくなるのも、いまになってようやく理解できるようになった」
 本校舎の音楽室からは、どこかの学年のどこかのクラスが演奏する楽器の不協和音が聞こえる。体育館からは白熱したような応援や歓声が響く。そんないつも通り、なにも変わらない日常が映った旧校舎。
 最後にもう一度、今度は冷静に、旧校舎を知りたいと言った信楽君のお母さん。わたしは手の離せない信楽君に代わって案内役となり、小さくて古いこの校舎を一緒に見まわっていた。
「私ね、碧《みどり》の学校には絶対行くなって、母や夫、さよちゃんからも、口を酸っぱく言われてたの」
 校舎内を見終えて、次は鳥の巣箱を見たいとのリクエストに、校舎裏へと向かって歩く。その道中のそんな吐露に、わたしは首を傾げた。
「碧が一年のとき、呼び出された職員室で岩嶋《いわじま》先生に、『お宅の息子さんは普通じゃない、異常だ』って言われてしまってね。そのとき、いままで感じたことないくらい怒りが心頭して、怒鳴り散らしちゃったの……モンペって、まさにあのときの私のことをいうんだろうなって、思い出すたび、いまでも恥ずかしくてたまらなくてね」
 信楽君のお母さんは片手を頬にあてると弱々しく笑った。
「それは怒って当然です。こんなこと言ったら良くないけど……岩嶋先生には、一ミリたりとも尊敬できるところはないですもん」
 本当にあの先生ときたら、どれほどNGワードにまみれれば気が済むのだろう。いままで見てきた信楽君に対する態度も、ひとの手を使ってまで小鳥遊君や鈴木さんの傷を開くようなことをしたり、全部許せるわけない。
 だけども、それでも、大人はそう簡単には変わらないんだろうな、と諦めてしまってるじぶんもいて、わたしは口を尖らせながらひそひそとそう言った。
「あらやっぱり。文原さんがそんな辛辣になるなんて、よっぽどなのね」と信楽君のお母さんは真似て、そうひそひそと言うものだから、お互い顔を見合わせるとくすくすと笑ってしまう。
「それで、『先日の発言は許されないものでした』って、口先だけの謝罪をされてすぐに、ここの旧校舎にあるサポートクラスを提案されたの。それはそれ、これはこれ、って言われたみたいで、落ち込みながらも見学に来てみたなら、碧自身がこの場所を気に入ってしまってね。でも私は正直、一部の生徒をこんなところに押し込めるなんて、ここの教師はなにを考えているのって失望しかなかった」
 わたしがこの旧校舎に通うと決めてから、わたしのお母さんは『したいようにしていい』と言ってくれていたけれど。本当は笑顔の裏で、信楽君のお母さんと同じことを思っていたのかも知れない。もしかしたらそれはいま現在でも。
「でも実際、碧が昔から授業を妨げて、先生にもクラスメイトにも迷惑を掛けてしまっていたのは事実だったし。仮に転校を選んで同じこと繰り返してしまったら、とか。この辺りにもフリースクールとかがあればって、そんなたらればばかり考えて、結局碧にとって良い環境を見出せないままだった」
 校舎の角をふたつ曲がれば、裏庭の乱雑な木々と、フェンスの遠くにはまだ雪を被った山々が視界へと入る。
「でもそんなときに母とさよちゃんが、親の私が意固地に悩んでたってしかたないんだから、碧自身がサポートクラスに行きたいっていうのなら、お試しだと思って行かせてみなさいって、喝を入れてくれて」
 そこから歩いてすぐのひとつ木、その枝に設置された鳥の巣箱のまえで足を止めた信楽君のお母さんは、複雑ななかに優しげな表情を浮かべた。

 ――あれは、わたしがここに通うようになるまえに信楽君と、いまは卒業してしまった先輩たちで作ったものだという。
 一年生の初夏の頃。信楽君が暇なあまり開けた窓から体を乗り出していたなら……うん、いや、まずなぜ体を乗り出したのかが謎だけれど、そうしていたなら、頭になにかが降ってきてバウンドして落ちていくものを咄嗟にキャッチしたら、それは巣から落ちてきたツバメの雛だったらしい。
 信楽君は迷ったものの、とりあえず親鳥の姿がないうちに巣へその雛を戻してしばらくすると、また地面に落ちて一羽だけで必死に鳴く雛。親鳥は戻ってきても落ちた雛には餌を運ばず、みるみる衰弱していく姿に耐えかねて信楽君は教室でその雛を育てることにしたという。当然、先生には内緒だったらしい。
 どんなときでも信楽君は信楽君らしく、それまでツバメの知識は皆無だったけれど、雛を育てあげるために短期間であらゆる知識を詰め込んで、見事無事に巣立ちまで見届けたらしい。
 そんな旅立っていくツバメに、彼だけではなく先輩たちも愛着を抱いてしまっていたみたいで、淋しさのあまりツバメがいつか帰ってきたときに使ってくれたら、とみんなで作った巣箱だと聞いていた――。

 きっと信楽君のお母さんも、その逸話を知っているのだろう。しばらくその巣箱を眺めてからわたしに視線を戻した。
「ここ通うこと、碧が愉しんでいるってわかっていたけど。夫が実家の家業をね、継がないといけないかもしれないって話が上がって、これは碧にとっても、新しい道に進むチャンスじゃないかって、思ってしまったの」
 ちらりと旧校舎に目を向けて、窓の奥の教室でなにやら忙しない息子に対して苦笑しつつも、憂いた視線を手元の旧校舎のジオラマへと落とす。
「碧が嫌がるのはわかっていたし、逃げているのは誰でもない私なんだってこともわかってても、勝手なまでに大人だけで話を進めてしまったの」
 沈んだ声で、「そんな親、誰だって反抗したくなるわね」そう言った信楽君のお母さんと同じように、わたしは視線を落とした。
 信楽君が以前、先生に不服なことを言われて、親に告げ口したところでじぶんの親は学校にはなにも言わない、と言っていたから。わたしは勝手に、信楽君の親御さんはあまり子供に鑑賞するタイプではないんだ、なんて思い込んでいた。
 そうやってすぐ妄想して決め込むじぶんの性格に恥いるばかりだ。わたしは首を横にぶんぶんと振りながらも、「反抗する相手がお母さんだけなら、信楽君が一番の本音を見せられているのが、きっとお母さんなんだと思います」と告げた。
 これだけはたぶん決め込んでもいいはずだ、と都合良い言い訳を浮かべながら、わたしはじぶんの右手を握り込んだ。
「文原さん、本当に中学生?」
「え?」
「ふふ。ありがとう。ちゃんと話すのは今日が初めてなのに、文原さんの優しさに、碧がどれほど救われてたかってわかってしまうわ」
 信楽君似ている目は、笑うと垂れ目になるところもやっぱりそっくりで、わたしは照れ隠しに顔のまえで「いえいえ」と手を振りながら小さく笑う。
「もっと、知ろうとすればよかった。文原さんのことや、先輩後輩とか井原さんこととか。この場所で過ごす日々を話に聞くばかりで、ここに入ったのがたったの二回だなんて、いまさらほんと後悔ばかり」
 旧校舎の壁は、たぶん昔は真っ白に塗装されていたんじゃないかと思う。けれど現在ではぼろぼろにところどころ剥げていて、吹きさらされた木目は色濃く、それがまた旧校舎の存在感を歪に際立たせていた。
 小さなジオラマにも塗装のそんなこだわりが反映されている。きっとあと十数年も経てば、いまの風貌よりもっと古めかしくなって、案外ジオラマのほうが新しく見えるようになるのかもしれない。
 視線を手元に落とす信楽君のお母さんは、親指でやさしくそれをさすっていた。そして歩き出しながら、「あの子、困ったことにまだまだ掛かりそうだから、文原さんのここでの思い出も聞かせてくれないかしら」と柔らかく微笑む。
「はい、じゃあ、席を決めるときの話から――」
 話しているうちに旧校舎の表まで戻ってきていた。日の当たらないせいで、雪はほかの場所よりも溶け残っていて、まだ冬は止まったままに思える。なのに昇降口のそばに鎮座する梅の木からは、梅の花の凛とした香りがあたりを漂い包んでいるものだから、春はすぐそこなのだと告げられているようだった。

 思い出を語るうちに、どうしたって話の中心は信楽君ばかりになってしまうことに、わたしは熱くなる目元を誤魔化すように笑った。
 この旧校舎で初めて出会えたのが信楽君でよかった。じゃなきゃ、たぶんわたしはいまここにいられてなかったと思う。
 そう思った直後、大荷物を抱えて昇降口から出てくる信楽君の姿が視界に入った。段ボールやその上にも色々積まれていて、背負ったリュックは限界まで膨らんでいるし、両腕にも袋がぶら下がっている。
 そんな姿を目にして、わたしたちは顔を見合わせて吹き出てしまう。
「もうやだ恥ずかしい、なにその大荷物は……。いったいどれだけ私物ため込んでたの?」
「たぶんこれで全部だと思うけど、自信はあんまりないなあ」
 信楽君の後ろにいた小鳥遊君も荷物を持つのを手伝っていて、信楽君のお母さんはそれに気づくと謝って彼から荷物を受け取っていた。
 そうして身軽になった小鳥遊君は、なぜか深緑色のネックピローをつけていて、片手はそのネックピローに、もう片手は赤い目元を隠そうと前髪を撫でつけている。そんな彼に信楽君は、「ぼくだと思って、それ大事にしておくれ」なんてふざけて口にするものだから、呆れてしまう。
 わたしですら初めて見たそのネックピロー。たぶん本人もあったことを忘れていそうな、さほど想い入れのないものだろうけど、きっと小鳥遊君なら本当に後生大事にしてしまいそう。
 こくこくと頷くそんな小鳥遊君の横から、鈴木さんが信楽君の荷物事情に困惑を醸しつつも、手にしていた紙袋を持ち上げた。
「信楽先輩、これ母が作ってくれて、もしよかったら」
「えー! まさかこれ、ぼくがずっと食べたかったお弁当っ!?」
「はい。もちろんおにぎりも入ってます」
「やったー! ありがとー!」
 持てる余地を無理やり作って、涙目の鈴木さんから紙袋を受け取った信楽君は、積み上げている荷物を危なしげに揺らしながら喜んでいた。
「井原さん、申し訳ないです。安静するべきなときに見送りに来ていただいて」
「いえいえ。こんな大事な日に出向かずに寝てなんていたら、それこそ、後悔で悪化してしまいますから」
 一方では、病院の名前が書かれた車椅子に乗る井原さんは滲む涙を指で払いながら、頭を下げてお礼を告げる信楽君のお母さんに、ゆっくり頷き答えていた。そんな井原さんは前日ギックリ腰になってしまったのだけれど、痛み止めを打ってまで駆けつけたという。
 そしてそんな井原の車椅子を押しながら、この場にいる誰よりも素直に号泣する寺崎先生が、信楽君のお母さんに謝罪とお礼を涙ながらに伝えるものだから、信楽君のお母さんはハンカチを目元に押し当て、ふたりに何度もお礼を告げていた。
 そんな大人たちの横で、当の本人である信楽君はもらったお弁当のことで頭がいっぱいそう。最後まで彼らしい。わたしは後手に合わせた拳に力を込めながら、微笑して視線を下げた。
「碧、そろそろ行こうか。下でお父さんたち待ってるから」
「んー」
 もしかしたら、今生のお別れになるかもしれないのに。信楽君ってば、本当に最後まで寒いという理由だけで、遊びに行く約束を果たしてくれなかった。わたしはそのことにふてくされつつも、最後はやっぱり笑って送り出さなきゃ、とうつむいたまま笑顔を作る努力をした。
 でもどうしたって、笑えそうになくて、小刻みに震える口元は力が入ったまま下ってしまう。
「文原さん」
 じぶんのスニーカーがだんだんと揺らぎ滲む視界のなかで、呼ばれたその声にわたしはぱちぱちと涙を落としながら、視線を向けた。
「じゃあ、またね」と、一瞬目があった信楽君はゆるく笑って、みんなにも同じく別れを告げると呆気もなく行ってしまう。
 咄嗟にわたしはその背中に「またね!」と返した。信楽君は一瞬足をとめた気がしたけれど、荷物を揺らしながら、そのまま振り返ることなく行ってしまう。
 明日は約束されてないお別れの言葉。
 その〝またね〟は来るのか来ないのか、信楽君のことだから確証は持てない。でも今回は都合よく信じてみようと思い込んだ。

 ○

 ――図書館の自動ドアが開くと冷気が汗にふれて、その涼しさに思わず、ふうっと息がこぼれてしまう。
 夏休みの図書館は当然ひとが多い。そのなかには同い年くらいのひとたちも沢山いる。もしかしたら同じ学校の学生や、ちゃんと顔を確認すれば知り合いだっているかもしれない。でも、いないかもしれない。
 人間って不思議な生き物だと思う。
 信楽君がいなくなってから、彼の楽観的なところが移ってしまったのか。残されたリスペクトを似せているだけなのか。どちらにしても、ずっとくよくよとひと目を気にして過ごしていたのに、それがいまでは薄れて、図書館やスーパーなどにはひとりでも外出が出来るようになっていた。
 そんなことを信楽君に電話で近況報告したなら、『あーだから最近肩凝ってんのかなあ』と、信楽君の生き霊取り憑き説が浮かんで、冗談だとは知りつつも身震いをしてみたり。
 まあ、それでも薄れたと言っても本校舎には一歩も足を踏み入れずにはいて、変わらず旧校舎の教室に通ってる日々だ。そんな旧校舎は、信楽君がいなくなってもそれほど変わらずに、けれど時計の針は確実に進んでいっていた。

「しっ、下北《しもきた》先輩……っ!」
 図書館からの帰り道、さっき雨やどりした木がある広い公園から、バイクを押し歩き出てきた下北先輩を見つけて、わたしは咄嗟に名前を呼んだ。
「わあ、文原ちゃんじゃん!」
 こちらに目を丸め、コンビニ袋がぶら下がった腕をあげた下北先輩。すぐさま駆け寄ったわたしに歯を見せて笑うと、まるで犬を撫でるようにわしゃわしゃと頭を撫でてくるから、嬉しくて笑みがあふれる。
「せ、先輩! ふふ、ボンバーヘアになっちゃう」
「あははっ。文原ちゃんどうしちゃったの? いつも不健康そうな青白い肌だったのに、小麦色に焼いちゃって」
 下北先輩こそ、かなり雰囲気が変わったように見える。髪型はショートになっていて、そのためよく見える耳には、じゃらじゃらの数だったピアスが見るからに姿を消して、ピアスホールは目立つもののどことなく落ち着きを感じる。
 だけどその代わりなのか、眉のところに新たなピアスが生まれている。そんなアグレッシブさは健在のようで、先輩らしさに安堵が浮かんだ。
「運動不足解消のために図書館に行ってたんです。下北先輩は、もしかして戻って……?」
「一時凱旋ってとこかな。報告しにね」
「報告?」
 下北先輩は「文原ちゃん、このあとちょっと時間ある?」と微笑むから、わたしは素早くこくこくと頷いて先輩の行く方向へ着いてゆく。
「どれだけ時間経っても、熊谷《くまや》のこと、どこ行ったって思い出しちゃうからさ、やっぱりいやなんだよね、この街にいるの」
 いまさっき出てきた公園や、先輩は道路を挟んだ奥にあるコンビニ。高くて上るのが大変な歩道橋を順々に見つめながら、先輩は吐露するように小さく呟いた。

 熊谷――下北先輩がその名前を口にするのは、かなり久しぶりなように思えた。
 熊谷先輩は下北先輩の同級生で、あの旧校舎の教室に通っていた生徒のひとり。わたしは一度だけ、あの教室に通い始めた頃に会ったことある。
『わたし人見知りなの。口下手だけど、仲良くしてね』
 そう恥ずかしそうに柔らかく笑うひとだったのを覚えている。その初めて会った日からあまり日を経たずして、自ら命を絶ってしまったことを聞いた。
 熊谷先輩と下北先輩は小学生の頃からの親友だった、と当時の三年生の先輩に教えてもらった。本当にいつも一緒だったという。
 ある日突然、大切だったひとがいなくなってしまって荒れ果てていた下北先輩は、当時ふたりの担任の先生だった沢渡《さわたり》先生や、その取り巻きの先生とも、学校に来るたび口論をしていた。
『あんたがあの子の心を壊したんだよ! 〝来られるだけでお荷物だから、家で大人しく引きこもってればいい〟――ねえ、どんな神経したらそんなこと言えんの? あんた本当に教師かよ? よくのうのうと平気な顔で先生やってんね? ふざけんなっ。どいつもこいつも大人のくせに庇い合いやがって』
『おまえ、いつまで大人に向かってそんな態度をして、許されると思ってんだ? 熊谷のことがあったから大目に見てきたが、調子乗るのも大概にしろ! 何度も言ってんだろうが、熊谷の自殺は家庭環境が原因だって――』
 旧校舎の外から聞こえる、大人と子供の怒声。
 それまで愉快に駄弁っていた信楽君が、じぶんについてはどれほど嫌味を言われたところで怒ったことなんてなかったのに。そのときは彼らしくもなく怒って、窓から飛び出してしまいそうな彼を、三年生と一緒に必死にとめた。
〝ここの教師がひどすぎてそう見えてんのよ〟
 下北先輩が教師を、大人を信用しない理由は虚しいほどに理解できる。
 ずる賢い子供がいるように、ずる賢い大人もいる。どちらが先かなんて、鶏が先か卵が先かを考えるくらい無意味なことだ。
 人間以外の生き物同士でも〝いじめ〟は存在するのだ、と信楽君が教えてくれた。
 もしかしたら、一定数の個体が一定数の個体を排除しようとするのは生き物に備わった自然の摂理なのかもしれない。でもそうなら人間はなぜ、ほかの生き物よりも高い知能を持てるように進化して、複雑な感情を、他者と意思疎通できる言葉を持つようになったのだろう。
 わざとひとを傷つけて、それに傷つけられるひとがいる。それはどれだけ進化しても、なにひとつ変われないのなら、こんな長く痛みを感じる生き物なんかにならなくてもよかったのに。
 大切な友人を亡くして、どうしようもない現実をまえに泣き叫ぶ下北先輩の声を聞いていたその時のわたしは、見下げたじぶんの影を憎たらしく思うことしかできなかった。

「――着いた」
 その場所に近づくまえにお花やお線香を持って歩くひとがいて、どこに行き着くのかは予想出来ていた。
 下北先輩は駐輪場にバイクを停めると、「あたしも初めて来るから、場所わかんないんだよね」と微笑する。
「熊谷先輩の、お墓ですか?」
「そう。お墓って言っても樹木葬っていうらしくて、個別でもないって聞いたから、想像してるお墓とはかなり違うと思うけどね」
 墓石が並ぶ霊園を下北先輩はスマホで行き先を確かめながら、いままで見せたことない硬い面持ちで歩いていた。
 一般的な墓地を横切ってひらけた場所へと出ると、そこには数十歩の小さめ木が、等間隔に並んだ花壇に真ん中に植えられている。先輩はスマホの写真と見比べながら、あるひとつの花壇のまえで足をとめた。
 木の周りには小さな石のプレートが並んでいた。
「あった、ここだ」と先輩はほっとしたような表情で言うと、額から流れる汗を手の甲で拭う。
 先輩の視線の先のプレートには【熊谷家】と書かれている。先輩は「あっついなぁ」そうぼやきながらも、その名前を大事そうに撫でていた。
「最近ね、やっと納骨してあげられたって、熊谷のねえちゃんから連絡もらったの」
 下北先輩のとなりで手を合わせていると、先輩は息を吐いてしゃがみ込みながら言葉を続ける。
「あたしの家もやばいもんだけど、熊谷んち、ほんと親が親なの? ってくらい最低でね。娘が死んで骨になってんのにそれが大したことでもないみたいに、遺骨、持っててもしかたないからって、火葬場に処分お願いしたらしいの。それを熊谷のねえちゃんが怒って引きとめて、妹はじぶんが納骨してあげるって」
 先輩は乾いた笑みを浮かべながら、また汗を拭う。
「……ごめんね、こんな話。ここにも付き合ってもらっちゃって、迷惑よね」
 わたしは首を横にふりながら、先輩の横にしゃがんだ。
「下北先輩がもし、ひとりでここに来るのが淋しかったら、わたし何度だって一緒に来ますよ」
「やさしいなぁ、文原ちゃんは。ありがとね」
 笑ってうつむく先輩の顎先から、ぽたりと汗が滴る。
「文原ちゃん、熊谷に会ったことあるっけ?」
「一度だけ」
「あーそっか、あはは、そうだね。あの子が人見知り全開にしてたね、確か」
「はい」
 空を見つめたあと、ふたりで小さく笑った。それから先輩はぎゅっと瞼を閉ざしながら、「懐かしいな、熊谷がいたあの教室」と唇を震わせる。

 誰かにとって大切なひとが、誰かにとって悪意の的になる。
 だれかにとっての善人が、だれにとってはそうじゃないように、わたしが悪人だと思ってしまうひとも、だれかにとっては大切なひとだったり。そんな簡単なこと。簡単だけど、ひどく暖かくて残酷な現実だ。
 平等じゃない現実に、だれかの悪意に、羨んで、憎んで、嫉妬して、ひとを嫌いになって。でもひとのやさしさにふれては、結局ひとを好きになる。
 灯るやさしさは明日には吹き消されてしまうかもしれない。今日失ったやさしさがいつかは暖かく宿るかもしれない。きっと延々とそんな日々の繰り返しだ。
 まるで生き急いでいるかのような蝉の声が響く。
 きっと生まれたことに意味なんてないように、生きていくことにだって意味は必要ない。ただこの世界で呼吸をして、いまがある。なんてことのない現実だけが寄り添っている気がした。
 顎の下に流れる気持ち悪い汗を拭う。夏の空気にも見えない針がいて、日光の下にいるだけでちくちくと突き刺してくるから冬の針よりもどこか横暴なような気がした。
 ばしゃりと水が跳ねる音と子供の笑い声が聞こえて、わたしはふりむいた。
 あちらこちらで香りという足跡を残して、見えないところへと立ち上り、だれかといまを繋ぐようなお線香の煙。会えないひとに捧げられた花束。きっと思い出の詰まった食べものや飲みもの。陽の光を纏って落ちてゆく水。そんな悲しくてやさしい光景が広がっていた。
 綺麗事かもしれないそんな世界がうつくしいと思えてしまった。この場所でわたしは部外者でしかないのに、下北先輩が涙をこらえているというのに、涙がこぼれてしかたなかった。
「やだもう……文原ちゃんのせいで、我慢できなくなるじゃん。あはは、なんでそんな泣いてんのよー……」
「ごめんなさい」
 ふたりして鼻を啜りながら、汗か涙かわからないものを拭った。
 下北先輩はこのままじゃ脱水症になると、供えようと買ったというサイダーをコンビニ袋から出して、「ぬるっ」と笑いながら飲んで、わたしにも差し出してくれる。
 喉を焼きつけて流れる、ぬるくてあまいサイダーの味。一生忘れてはいけないと、もう一口飲み込んで強く焼きつけた。
「――……そっか、信楽いないのか。みんなは大丈夫なの?」
 わたしの家まで見送ってくれるという下北先輩に、先輩がいなくなってから、旧校舎で起こったことを話しながら歩いていた。
「いつも通りですよ、鈴木さんも小鳥遊君も、教室が静かすぎること以外は、ほとんど下北先輩が知ってるままです、あの旧校舎は」
 春、学年が上がり、ときどき新一年生の子たちがまばらに現れては、定着することなく姿を見せなくなってしまう。信楽君がいなくなったあとは、ほとんどを三人で過ごしていた。
 一年生が来ない日は、駄弁る少年の声も編み棒が重なる音も聞こえてこない教室で、三人揃って暗い顔をしていたと思う。
 心配げな表情で、新品のCDラジカセを持って教室に入ってくる井原さんを見て、そのラジカセから信楽君の駄弁りが流れてこないかな……なんて、馬鹿なことを思ったりもしていたけれど。
 どれだけ淋しくても記憶に時間が重なることで、ひとは慣れてしまうものなのかもしれない。旧校舎の日常は形を変えても、とまることなく針は進んでいた。
「そうなんだ。まあ心配なのはきみたちよりも信楽のほうよね。大丈夫かな、あの子、うまくやれてるといいけど」
「引っ越した先の近くには、ちゃんとしたフリースクールがあるらしくて、いまはそこに通ってるみたいです」
「なら安心か。ここら辺ないもんね、そういうとこ」
 安心したような表情を見せる先輩に、わたしもこくんと頷く。
「それと引っ越すまえに、あの信楽君が〝我慢〟を覚えたんです。だからきっと、信楽君は大丈夫です」
 頬を持ち上げながらわたしがそう言えば、「あの信楽が?」と目を丸める下北先輩。
「引っ越しちゃう一週間くらいまえのことなんですけど。帰るときに職員室にだれもいなくて、しょうがないから信楽君とわたしだけ残って、職員室の外で腰掛けて待ってたんです、そしたら――」

 ○

 目のまえの旧校舎は相変わらず影を被っていて、となりで信楽君は相変わらず編み物をしていて、手持ち無沙汰なわたしは、拾った小枝で地面に絵を描いて暇を潰していた。
「文原さんって、絵はへただけど、字はうまいよね」
「それって褒めてる? 貶してる?」
「へへ」
 笑って誤魔化す信楽君に目を細めれば、「ぼくの名前書いてみてよ」とお願いされて、口をむっとさせながら嫌味なくらい丁寧に、〝信楽碧〟と書いてみせた。
 そうすると信楽君はわたしに小枝を貸してと受け取って、わたしの字を見ながら真似て、書き終えた字を見てじぶんで笑う。
「あはは。真似したのにいつもよりひどいや」
 右下がりの信楽君の字は、なんともこう、個性的な字である。うん。さすがにじぶんの名前は間違ってないのはいいことだと思う。うん。
「ふーみー、はーらー」
 信楽君、つぎはわたしの名前書いていて、原の字まできたときに、〝小〟の部分が〝水〟になっているから訂正すれば、笑い声が重なる。
「……はぁ疲れた。何度同じことすれば、あいつらは身につくのかねぇ。集会くらい黙ってきびきび並んで集まって、さっさと黙ってきびきび戻れよって」
 そのとき背後の職員室の扉が開く音とともに、そんな声が聞こえた。咄嗟に黙って耳を傾けたなら、そのひとりが学年主任の沢渡先生だということに気づいて、わたしたちは顔を見合わせて苦笑する。
 集会してたからだれもいなかったんだ。じゃあ、そろそろわたしか信楽君の担任の先生も戻ってくるかもしれない。
 そう思って小声で「待とう」と話し合い、信楽君は喋ってしまわないように、口元をぎゅっと結んでいた。
「校長の話が長いって、なんで大昔からあるあるなんですかねぇ? あれがなければ二十分は巻けてましたよ」
 もうひとりの声は、よりにもよって岩嶋《いわじま》先生のものだから、わたしたちの顔から苦笑すら消えかける。
「ちっ。まーた着信入ってる。あのモンペ大概にしろよな。めんどくせえ」
「ああ、二年の関本《せきもと》のですか? あの親は一年のときから、なにかとうるさかったっすからねー。がちで僕もまいってましたよ。とくに信楽とも相性最悪で、その文句を言いに何度学校に乗り込んできたか……」
 心配になってとなりを横目で見れば、信楽君は声を出さないように笑っている。それでいいのだろうか、とは思いながらも内心ほっとした。
「信楽といえば、そろそろだな。はーあ、あそこからひとりいなくなると思うだけで清々するな」
 思わず手に力がこもる。靴底を擦ってじゃりっと音を出してしまったわたしに、信楽君は首を横に振りながら〝しーっ〟と人差しゆびを立てて、じぶんは気にしていないと言っているようだった。
 くやしい。腹立たしい。――それは向こう側にいる大人と、最後まで信楽君がいやな思いをしているのに庇えないじぶん自身に対しても。
「まだ三人残ってますけどねぇ。このまま減ってくれないかなぁ。給食持って行くのとか勉強見に行かなきゃならないのとか、面倒いんすよねぇ」
「本当にな。あそこに好き好んで行ってんの、寺崎先生くらいだしな」
「あはは。寺崎先生まだ若手で熱いから。いつまであれが持ちますかねー? まあ信楽のとこの親が一番モンペで、あとは生徒同様、親も大人しめだからまだましなほうか。信楽の母親も一度だけ怒鳴り込みにきたことあるけど、まじでだるかったっすもん」
「ああ、サポートクラスに移す提案したときだろ? じぶんの息子棚に上げて、よくもまあ怒鳴れたもんだったよな。親が親なら子も子って、よく言ったもんだ」
 笑い声が響く。棚に上げてるのはじぶんたちだって同じなのに。さすがに黙ってられない。膝の上で怒りで小刻みに震える拳に力を入れて立ち上がろうとすれば、信楽君の手に押さえつけられて動きを制しさせられた。
 信楽君は下唇をひどく歪むほど噛み締めていて、その眼差しには怒りだって浮かんでいる。
 けれどその首をゆっくり横にふってわたしの手を掴み、足で地面のらくがきをそっと消す。それから職員室からは見えないように腰を低くして移動して、その場から離れようとするから、わたしは言葉を呑み込みついていく。
「信楽君! いいのっ? 最後まであんなひどいこと……」
 唇を赤くした信楽君は、まばたきを何度かしたあと息を深く吐いて、にーっと垂れ目に笑う。
「いいんだ。こっちだってあんなやつらの顔、もう見ないと思うだけですかっとするし! でもさ、文原さんは違うじゃん。まだまだいやでも顔合わせなきゃいけないんだし。ぼくのこと、もし文句言っちゃったら、今後文原さんが、あいつらにいやな目に合わせられるかもしんないじゃん。それはぼくが一番いやだから、ほんとはむかつくけど、いいんだよこれで」
「……ごめんね」
「えー? ははっ、謝んないでよ! 文原さん悪くないじゃん。ぼくちょっと本校舎入って、あのふたり以外の先生みっけて帰ること行ってくる。文原さん、門の外で待ってて、ちゃちゃっと行ってくるからー」
 家族の悪口を言われて、普段の信楽君なら絶対黙っていることなんて出来なかったと思う。
 それでも唇に血が滲むほど耐えて、笑ってそう言ってくれた彼が、今度はこんなひどい大人がいるような場所じゃなくて。井原さんみたいな、やさしい大人がたくさんいる場所で幸せに過ごしてほしいと涙をこらえて強く願った。

 ○

 バイクのエンジンをかけた下北先輩は、口に咥えていた皮手袋をさっと装着した。そのさまがなんともかっこよくて、ほれぼれと見つめてしてしまう。
「じゃあ文原ちゃん、元気でね。一年ちゃんたち、ああもう二年ちゃんか、ふたりにもよろしくね。あと、漢《おとこ》信楽にも」
 信楽君のことを話し終えると、先輩は先生たちのことはボロカスに言いつつ、信楽君のことを『漢だね』と誇らしげに笑った。
 家のまえまで送ってくれた下北先輩とのあっという間にお別れに、自然と口元に力が入ってしまうわたしは、たぶん間抜けな顔だ。
「先輩……あの、また会えますか?」
「ははっ。そのために連絡先交換したんでしょ? 今度はさ、みんな揃って会おうね。あんなお別れになっちゃったの、やっぱよくないねぇ。ずっと心残りだったもん。漢信楽にも強制参加だって言っといてよ」
「はい!」
 下北先輩はヘルメットを被ると、わたしの頭をまたわしゃわしゃと撫でて「またね」と告げたあと、バイクを走らせ颯爽と風を切って小さくなっていく。
 その姿が見えなくなったら、すぐに信楽君に連絡しよう。鈴木さんにも、それともしかしたら誰よりも喜ぶであろう小鳥遊君にも。