空も地面も真っ白け。旧校舎の教室から見える木は重たそうに雪を抱えている。鳥の巣箱もかくれんぼ中らしい。
そんな白銀の世界から室内に目を戻すと、となりの席で信楽《しがらき》君が手に持つ赤いセーターがまばゆいほど鮮やかに映った。
太い針に赤い毛糸を通して、胴体と袖部分を編み込み繋げてゆく手捌きは彼らしくなく、時間を忘れたようにゆっくりとしたものだった。
赤一色で編まれたセーターは、表も裏も袖部分にも綺麗な模様がほどこされている。みつあみのような柄。ダイヤのような柄。不規則に、だけど調和されたポンポンの配置。
そんな複雑な模様が入り混じっているのに、編んでる途中に編み図を確認したりメモしたりなんてしていなくて、信楽君の頭のなかはどうなっているのだろうと毎度不思議に思う。
『今回は大作の予定』
数週間まえにそう言って愉しげに作っていたものが、たったいま完成された。信楽君は小さなハサミと切った糸をテーブルに置いたなら、裏返ったセーターを表に戻して、座ったまま腕を伸ばしてそのセーターを掲げて見つめる。
ぱちぱちとまばたきをくり返す彼の口元は、への字に曲がっていて、「あーあ、間に合わんかった」と小さく声を洩らした。
その瞬間、信楽君の声を聞いたのが久しぶりなことに気づく。久しぶりと言っても、三、四十分の話だと思うけど。それでも、本から顔を持ち上げた鈴木《すずき》さんも目を大きくしていて、これがおかしなくらい変わった真実だと共感してくれている気がした。
「文原《ふみはら》さんちょっと着てみて」
「わっ……」
急に頭から被せられたセーター、途端視界が真っ赤になる。
新品の毛糸独特の油っぽい香りに包まれながら、もがくようにわたしは襟元から顔を持ち上げた。髪がばちばちと逆立つ。
袖口を探して両手をやっと自由にできたなら、顔にまとわりつく髪の毛を払って、「急にひどいじゃない」と信楽君に言いかけた言葉は、すぼまって音をなくした。
「あはは……ぶかぶかだ」
かろうじて涙が流れてないだけで、泣いているような表情をしているものだから、わたしはセーターのなかに頭を戻して顔を隠してしまいたくなった。
「もしかしてこのセーター、おばあさんに作ってたの?」
「そー。ばあちゃんが昔から着てたお気に入りのやつがあったんだけど、乾燥機に間違えていれちゃって縮んじゃって。すんごく落ち込んでたから、じゃあ似たのぼくが作るって約束したんだ」
信楽君は余った毛糸を手に取ると、その柔らかい手触りを愉しむように握ったり引っ張ったり、手持ち無沙汰や焦燥感を誤魔化すように見つめていた。
「わたし、あの、これ、もらってもいいかな……?」
考えなしに不意をついて出た言葉だった。
「え?」
「もちろん、お金は払うから! む、むりにとは言わないよ、信楽君がいやなら、ぜんぜん断ってくれていいんだけど」
励まそうとか思ってるわけじゃない。こんな提案が励ませるとも思ってない。
でも大切な想いを紡いで編んだこのセーターが、もし行き場をなくしてしまっているのなら。信楽君のおばあさんの代わりになんてなれないけれど、おばあさんのぶんまで大切にしたいと思ってしまった。
「いいよ――くないな」
「……え」
わたしに視線を戻した信楽君は頷きかけたのに、「やっぱだめ」と首を横に振った。
……思ってなかったよ。そんな簡単にもらえるなんて、いや、でも本当はちょっとだけ期待をしていた。
いままで完成するのを見ていたばかりで信楽君が編んだものを貰ったことなかったから、もしかしたらはじめて貰えるかもしれないなんて、この状況で恥ずべき感情を抱いていたじぶんが憎たらしい。
ほんの一瞬のぬか喜びにしょんぼりする気持ちを隠せないまま、またばちばちと静電気を纏わせ、セーターを脱いで信楽君に返す。
「ごめん、これはじぶんで着る。ぼくのがまだサイズあってるし」
そう言って信楽君はセーターを着て、わたしと同じように髪を逆立てる。
「文原さんには、ちゃんと文原さんにあったやつ作るから、まあ首長くして待っててよ」
「いいの?」
信楽君は「基本予約順だから、たぶん遅くなっちゃうけど」と目尻を下げて笑った。
「――すごいねぇ。やはり若者の手に掛かれば、こういうものは朝飯前だね」
乙女のように胸のまえでぎゅっと手を握り合わせる井原《いばら》さんは、体を傾けながら様々な角度で完成した旧校舎のジオラマを覗き込む。
三日間はほぼ、鈴木さん、小鳥遊《たかなし》君、わたしの三人でちまちまと進めていたペーパークラフト。それでも信楽君が来るまでは半分くらいしかできていなかったのに、手先の器用な彼が加わった途端まさに百人力。その翌日中には見事完成することができたのだ。
高級めなティッシュ箱を、気持ち横に伸ばしたくらいのサイズ感。そこまで大きいものではなかったものの、慣れない細かい作業を連日続けて完成させたなら、生まれた達成感よりも、〝しばらくはもう物作りはいいよね〟なんて疲れ切ったのが正直な感想だった。
けれどもテーブルに突っ伏すわたしたちの横で、『本校舎に、体育館、プールも揃えよう、あと倉庫とかも』そんな野望を掲げる信楽君だけは実に物足りなそうなものだから、めずらしく小鳥遊君が声を洩らし笑いつつも、首を横に振っていた。
「こんなの設計できちゃう井原さんのお友達って、なにものなの?」
「一応、建築士の資格を持ってる高等遊民《こうとうゆうみん》なひとかな。旧友からは仙人と呼ばれていてね。私は仙ちゃんって呼んでいるんだ」
「高等遊民?」
「定職には就かず、自由気ままな、じぶんの憧れだけに懸命なひとのことだよ」
仙人みたいな高等遊民。勤勉な井原さんとはまるで正反対な、そのお友達の仙ちゃんを思い浮かべてみても、いまいち想像がつかない。むしろアニメなんかで出てきそうな、白髭長髪の雲に乗った本物の仙人を浮かべてしまって、思わず苦笑する。
信楽君もわたしと似た想像をしているのか、その目を爛々とさせて「高等遊民かぁ……」だなんて、憧れを抱いてしまったような口ぶりで呟くから、ちょっとだけ心配になった。
「文原さん、手はもう大丈夫かい?」
「はい、もうすっかり。傷跡もほとんど残ってないくらいに」
そう返事をすれば安堵を滲ませる井原さん。鈴木さんと小鳥遊君にも怪我はしてないかと尋ねていて、過保護に加速がかかっている気がする。
きっとそれはこの短な間でいろいろと、本当にいろいろと出来事が起こってしまったからだと思う。薄く開けた口から重たい息がこぼれ出す。
「文原さん、手ってなに? どーしたの?」と、目を細めてわたしの手を確認する信楽君の肩を、とんとんと叩く井原さんはやさしい表情で、「信楽君、となりの教室でちょっとだけお話しないかい?」久しぶりにそんな提案するものだから、この場の空気が一瞬だけ止まった気がした。
信楽君のおばあさんのこと、井原さんにも当然耳に入っているはず。そんな状況でカウンセラーがカウンセリングをするのは、なにもおかしいことではないけれど。わたしは手に関しては全然大丈夫だと信楽君に告げながら、内心では逆に信楽君のほうが大丈夫なのかと不安が浮かぶ。
いまではお友達のように仲がいい信楽君と井原さんだけれど。わたしが信楽君と出会ったころは、彼は井原のことを嫌う……まではいかないけれど、誰とでも隔てなく接する信楽君が珍しく井原さんだけには、かなり警戒して避けていたのを思い出してしまう。その理由は、カウンセリングというものが信楽君にとって、ひどく苦痛だったかららしい。
大人とふたりっきりになって、家族ともしない深い会話をして心の内を覗かれるというのは、わたしにとっても呼吸がしづらく厭な汗が浮かぶような、あまり好きにはなれない時間だったもの。信楽君の性格からして、そういう時間は苦手以外のなにものでもないのだろう。
だから、すこしずつ時間をかけていまの関係性を構築してきたのに、信楽君と井原さんの関係がまた崩れてしまわないか、とふたりの顔色を交互に見つめながらわたしは息を呑む。
「んー、寒いからいまはいいや。春になったらね」そんな信楽君の答えに、きょとんと拍子抜けした顔の井原さん。
そのあとすぐに眉尻を下げて安堵したように柔らかい表情を見せるから、そんな表情を見る限り、きっと井原さんも緊張感を抱いていたんだと伝わってくるみたいだった。
一方で信楽君はのほほんと笑って、空き缶に立てかけられた多種類のかぎ針からお目当ての号を抜き抜いて、しゅるしゅると白い毛糸をひっぱり伸ばすと、またいつものように編み物を始める。もうすでに高等遊民の片鱗が見え隠れしている気がする。
「あはは。そうだね、暖かくなったらにしよう」
それで大丈夫なのかな、とも思うけれど。井原さんにはわたしには知り得ない信楽君の心の内を理解できているんじゃないかと察する。それはやっぱりふたりがどこか似ているからなのかも。
またいつものように会話を始めるふたりを見つめながら、わたしもいつも通りの日常へと心を落ち着かせた。
「じゃあ、また明日ー」
「また明日ねー」
いつも通り四人で学校の校門から出て、手を振りお母さんが迎えに来てくれた車に乗り込む鈴木さんと、わたしたちとは反対方向に歩いて行く小鳥遊君を、信楽君と手を振って見送る。それからわたしたちも帰り道へと翻り歩き出す。
「そういえば信楽君」
「なあに?」
「昨日信楽君、いつもの道曲がらないで、そのまま道まっすぐ進んで帰っていったじゃない?」
「あ、うん」
「なにか向こう側に用でもあったの?」
踏切を過ぎて別れ道の十字路が迫って来た頃、わたしは目のまえに続く道をゆびさしながら訊ねた。
「さよちゃんちがこっちの方向なんだ」
「さよちゃん、さんの家行ってたんだ」
「うん。今日もさよちゃんちに帰る」
用があるとかじゃなくて、帰る?
その言葉にまたひとつ疑問が浮かぶけれど、いま信楽君のお家のことは事情がいろいろあるはずだから、これ以上訊いてはいけない気がして、「へえ、そうなんだ」と何気ない口調で合図を返す。
そんなとき、わたしたちのすぐ傍で若草色の車が停車するのが視界の隅に映った。
「碧《みどり》っ!」
「……げ」
助手席の窓がさがって運転席から信楽君の名前を呼んだのは、彼と似た大きな目をした女性だった。歳はさよちゃんと同じくらいだろうか。信楽君を見つめるその目はどこか苛立ちのような、焦りのようなものを映している気がした。
「今日は迎えに行くから、学校で待っててって言ったでしょう? ちょっとっ、止まりなさい碧!」
顔を歪めたままの信楽君は、ふいっとそのひとから目を逸らして歩みを再開させてしまう。
わたしはどうしようか、と足元をまごつかせていたなら、「いきなりごめんなさいね。あの、もしかしてあなたが文原さん?」そう訊かれて、こくこくと頷く。
「はじめまして、信楽碧の母親の信楽葉子です」
「はじめまして!」
「いつも息子がお世話になってるみたいなのに、本当にごめんなさい、こんな挨拶の仕方で」
「い、いえっ」
口早にそう言う信楽君のお母さんは車道で停車しているから、後車がきてしまわないかを気にしている様子で随時バックミラーを確認しながら、ゆっくりと車を発進させて信楽君に追いつく。
「碧、いい加減にしてちょうだい! またさよちゃんに迷惑かける気なの? ねえ、いいから止まって車乗りなさい!」
十字路を目前に、直進の信号が赤になってしまったから大人しく足を止めた信楽君だったけれど、相変わらずお母さんの呼びかけは無視を決めこんでいる。そんな状況に、わたしは視線を行ったり来たりさせるので精一杯だった。
「じゃあね文原さん、また明日」
わたしは信号を渡る必要がないから、そのまま左に曲がればいいのだけれど、この空気感のなかでいつものように平然と帰る精神はさすがに持ち合わせていない。
「……信楽君、お母さん困ってるみたいだから、とりあえず車に乗ったほうがいいんじゃない?」
おずおずとわたしがそう言ったなら、口元をむっとさせる彼。
「あ、そうそう文原さん! そこの反抗期の息子とさよちゃんからずっとお話聞いててね、私もあなたとお話したいと思っていたの。だからお話するついでにお家まで送らせてくれない?」
歩道の青信号が点滅をはじめて、信楽君のお母さんの車の後ろには後車が迫っていて、一刻の猶予も残されていないのは明白だった。
「は、はい」
「え、文原さん、なに言ってんの」
信楽君親子の関係性をよく知らないままなうえに、つい最近信楽君のパーソナルスペースに入りこんでしまったことを悔やんだばかりだというのに。またもやなにをやっているのか、とじぶんに呆れてながらも、勢い任せに信楽君のお母さんの車に乗り込んでしまった。
「じゃあ、碧はさよなら――」
「――ぼくも乗るから、文原さん詰めて」
これでよかったのか、よくなかったのか、と訊かれたらたぶんよくはないとわかっている。
シートベルトを引っ張りながらとなりを見れば、同じ行動をしながらますます口を尖らせ鼻にしわを寄せる信楽君がいて、今回ばかりは本当に嫌われてしまった気がする。気持ちはずーんと急降下だ。
「文原さん、巻き込んじゃってごめんなさい。お家、どっちの方かしら?」
「えっと、東丘公園の近くです」
「ああ、小学校が近くにある広い公園よね?」
「……はい」
車を直進させていた信楽君のお母さんが、つぎの交差点を左折するためにウインカーをつけた。かちかちと鳴る音に共鳴するように、鼓動がどくどくと静かに響いて聞こえた。
「文原さん、いつもありがとうね。わがままで大変でしょう、その子」
否定も肯定もできなくて、苦笑を口からこぼれる。
「その子ったらいつも文原さんと、えっと鈴木さん? とタカハシ君の話ばっかりしてるのよ」
「小鳥遊《タカナシ》君」
きつく口を閉ざしていたのに、やっぱり名前のこととなると信楽君は黙ってられないらしく、ちゃんと訂正する。
「あ、ごめんね。タカナシ君ね。ごめんってば、そんな睨まないでよ」
バックミラー越しにお母さんと目を合わせていた信楽君は、リュックを抱えなおすと、ふんっと効果音を出すように窓の外へ顔を背けた。またも反抗期を濃縮させている。
「……あの教室に行くの心配してたから、碧が文原さんたちと愉しく過ごせてるみたいで安心してるのよ。文原さんはえっと、あの場所、大丈夫?」
旧校舎の教室に、きっと信楽君のお母さんはいい印象を持っていないんだろうな。わたしのお母さんも似たような感じだから、ほかのみんなの親御さんもそうなのかもしれない。
みんな本校舎に入れない理由はそれぞれ違うけれど。じぶんの子供が、古めかしくて暗くて淋しげな旧校舎に通っているのは、親としてはいい顔できるものではきっとないはずだ。
心配させている。そんなのはわかってるけど、側から見るよりは、あの場所もそんなに悪い場所ではなくて。もしかしたら、そう思い込もうとしてるだけなのか、じぶんでもわからないけれど。みんな他愛のない会話をしたり、ときどき信楽君が事件を起こしてみんなで吹き出したり、ジオラマを作って愉しんでいることは、紛れもない事実なのだ。
「はい、わたしは愉しいです」
「そっか。あの――」
「――かあちゃん、ぼくはじいちゃんのとこには行かないからね」
突拍子もなくそんな言葉を発した信楽君。
「碧それは……」
「ひどすぎるでしょ、ばあちゃん死んだばっかなのに、じいちゃんのとこに行こうなんて。さよちゃんにばあちゃんの店押しつけて、かあちゃんは悪いと思わんの?」
じいちゃん? ……たしか信楽君まえに、おじいさんがいるのは父方だけで、かなり遠方に住んでいるからあまり会えないと言ってた気がする。
どこだっけとぐるぐるする思考で考えても、新幹線を使ってもかなり遠い場所だという話しか思い出せない。
「……悪いと思ってるよ。でもそれはさよちゃんと話し合って決めたことだって言ってるでしょ。それに、お父さんの実家に引っ越すことは前々から決まってたんだから、いまさら困らせること、言わないでって」
ひどく疲れた切った声だった。
信楽君にとってのおばあさんは、信楽君のお母さんにとってのお母さんなはずで。じぶんのお母さんが亡くなったばかりなのに、心労を抱えているのはあたりまえだ。
「それにばあちゃんのことだって、みんなして、はなっから〝きっともうだめだ〟とか……そんなことばっか言ってたから、だからばあちゃん本当にいなくなっちゃったじゃんっ!」
「……碧、そんな大声だしたら文原さんがびっくりしちゃうでしょ。言いたいことは、お母さんあとでちゃんと聞くから……」
そんな悲痛な声と苛立った声が車内を行き交うなかで、わたしはじぶんのスニーカーの汚れに目を留めながら、体中がばくばくとうるさい音を立てることに、意味がないとわかっていても耳を塞ぎたくてたまらない。
『引っ越す』って信楽君が? ずっと様子がおかしいのはおばあさんのことがあったからだと思っていた。けれどもしかして引越しのことも抱えていたから、だから信楽君がやたら〝春〟を口にすることが多かったのはそのせい?
それはまるで約束を重ねて、春になってもここにいるのだ、とじぶん自身に言い聞かせていたよう。いまとなってはそう思えてしまう。
「文原さんも言ってやって。かあちゃんはね、あの教室のこと、すんごく嫌ってんの。でもぼくたちにとっては、馬鹿にされる場所じゃないもんね?」
「馬鹿にしてるわけじゃないってば。ただ私は、碧が追いやられて、あの場所にいる事実が許せないのよ」
「そうだけど、でもぼくが選んだんだよ、あの教室に行くこと。いまもちゃんとじぶんで選んで行ってるし。だから、これからもぼくはどこにも行く気ないから」
信楽君がわたしのことを見ている気がした。どうして喋らないの、と問われているような気がした。それでも視線は持ち上げられず、ただ唇を噛んで黙った。
わたしが信楽君の味方になっても、ひとの家庭の事情が覆るわけない。なにを口にしても迷惑になるだけ。――なんてそれらしいことを思い浮かべてじぶんだけ納得しようとして、いつも大切なときに、なんにも話せなくなるこんなじぶんがいやになる。本当に大っ嫌いだ。
ごめんね信楽君。こんなわたしなんかが、やっぱり信楽君の内側にすこしでも入り込んだりしたらいけなかった。
あの教室に信楽君がいなかった数日間は途方もなく淋しくてたまらなかったのに、泣いて困らせたくせに、なんの力にもなれなくてごめん。
「文原さんとはもう絶交だ」
翌朝、まちぶせをしていたように昇降口入ってすぐの傘立てに腰掛けていた信楽君。わたしと目が合うなりそう告げるから、閉じかけていた傘がぼんっと音を立ててまた開いた。
「……信楽君だって、引っ越すこと、ずっと隠してたんでしょ」
「そもそもぼくは引っ越す気なかったから言わんかっただけだし。でもかあちゃんが文原さんに絶対言っちゃうと思ったから、そのまえに言ったのにさ、なんで黙ってたの、ずっと」
「所詮わたしたちは子供だもん。なに言ったって、大人が決めたことに逆らうなんて出来っこないでしょ」
力のこもった信楽君の目から逃れるように視線を落とした。
「約束したじゃん。春になったら遊びに行くって」
「春になるまえでも、遊びには行けるよ」
「やだよ、ぼくは寒いの嫌いだから」
「それはただの、信楽君のわがままじゃない」
「文原さんはぼくが引っ越してもいいの?」
いやに決まってる。先輩たちを送り出したときとはまったく違って、同級生なのに、まだわたしはこの場所にいるのに、お別れしなきゃいけないなんて、悲しいに決まってるじゃない。
「いやだって言ったら、信楽君はここにいてくれるの? むりでしょ?」
「むりじゃない。ぼくはここに残って、さよちゃんちに住むから。そんでいままで通りここに通いながら、ばあちゃんのお店手伝うって決めてるし」
頬が引きつる、これは寒さのせいだ。
「そんなわがまま言ったら、きっとお母さんのこと悩ませるだけだよ。サポートクラスなんて名ばかりのここに固執したって、意味ないもの。信楽君は本校舎行ってたんだからわかってるでしょ? あっち側は天国で、こっち側が地獄だってこと」
大切で綺麗な硝子を自ら傷つけて、ひび割れていく音がした。
「天国? じゃあその天国からぼくは追い出されたんだよ」
その声は、言葉は、信楽君らしくなかった。それをわたしが言わせてしまった。心臓が痛くなる。なのに言葉はあふれて止まってくれなかった。
「でも信楽君、二年になったとき寺崎《てらざき》先生から、本校舎に戻って来ないかって訊かれたんでしょ?」
「なんで文原さんが知ってんの?」
「まえに沢渡先生が愚痴ってたの聞いたの。信楽君は、わたしとは違って、本当は本校舎も同級生も避けなくても、平気なはずでしょ……。だれとだって仲良くなれる信楽君なら、転校したとしても、きっとうまくやっていけるよ」
この旧校舎は夏は茹だり、冬は凍える。廊下はところどころ電気がつかないし、お手洗いはすべて和式で、ホラー映画さながらの雰囲気を醸し出している。
学力だって同級生とは雲泥の差。音楽を習うこともなければ、実験をすることもない。体育館とも無関係で、どれだけ暑くてもプールは眩しいだけ。体育祭や文化祭の日は登校すらしない。
旧校舎にいることはただ選択を狭めているだけで、本当は自由なんかじゃない。旧校舎しか居場所がないからと思い込んで、ただ依存していただけだ。だけど、それでも、強くなれないわたしはここにいるしかなかった。
昨日は、側から思うより悪くない場所だ、なんて思ってたくせに、沸き出すネガティブに自嘲が滲み出す。大切なのは真実なのに、苦しいのも真実でしかなかった。
信楽君は一年生のとき担任だった岩嶋《いわじま》先生とは相性が悪すぎただけで、きっといまの担任の寺崎先生とだったら、本校舎で本来の教室に行ってもうまくやっていけると思う。
だから本当は、ほかの生徒に会わないように登校を遅めたり下校を早めたり、いちいち学年主任の沢渡先生に嫌味を言われ続けなくたっていいはずなのに。
じゃりっと靴底が擦れる音が聞こえた。
信楽君の深緑色のスニーカーが視界に映って、視線を持ち上げたなら、その大きな目に涙を溜めた少年が見下ろしていた。
「言ったじゃん、ぼくはじぶんで選んでここにいるんだって」
〝ほんとのほんとーに絶交だ〟――そう小さくつぶやいて、信楽君は歩き出す。
背後で昇降口の扉が古めかし音を立てて開き、すぐに閉じる。
はらりと落ちた涙が、くすんだオレンジ色のタイルに染みを残した。
ひどく冷えた空気には、透明な針が浮かんでいるのではないか、と思うほどじくじくと肺に突き刺さる。痛みで悲鳴に似た呼吸がこぼれて、喉の奥から鉄の味がする。
雪が足元を重くさせる。必死に走っているはずなのに、歩くよりも遅い感覚に襲われて、痛くてしかたない横腹を押さえつけた。
途中、肩にかけて引っ張っているだけの傘が走るのに邪魔だと気づいて、肩で息をしながら傘を閉じる。それを握り込みながら真っ白な足跡をたどって走って、やっと深緑色の傘が視界に映った。
「信楽君!」
白い息が立ち上った声はちゃんと届いてくれたらしい。信楽君は一瞬振り返って、でもまたすぐに翻ってしまう。
「ごめんね!」
もう泣かないって決めていた信楽君を、わたしのせいで二度も泣かせてしまった。
お友達だと笑ってくれたのに、絶交なんて悲しい顔をさせてしまった。
「ごめん……ってば」
信楽君が引っ越してしまうのはどうしようもないとしても、わたしまで大人と一緒になって、彼の心を不安にさせることはなかったのに。
運動不足がたたって重くてしかたない足を無理に急かしていたから、ついにもつれた足に体のバランスを取られわたしは正面から倒れ込んだ。まだ踏み固められていない雪がクッション代わりになってくれたおかげで、痛みはさほどなかったものの冷たさが肌に滲みる。
「風邪引くよ、はやく起きて」
ばっと顔だけを上げたなら、わたしを見る信楽君がやれやれ、と言わんばかりに肩をすくませてこちらへ歩いてくる。
もたつきながら立ちあがろうとするわたしのまえに、立ち止まって手を差し伸べてくれる信楽君。目のすぐ下までマフラーが覆われていて、その見えている瞳もまつ毛も色を濃くさせていた。
じぶんの目元がまたひりひりとなるのを感じながら、その手を取って立ち上がった。
信楽君が差している傘から、薄く降り積もっていた雪が合わさったわたしたちの手に落ちた。冷たさのあまり同時にそれを払った手は、しばらく行き場をなくしたように宙に漂っていた。
「文原さんのせいで、ぼくが風邪引きそうだな」
「……絶交を撤回してくれたら、こ、今後の給食、代わりにストーブで温めるよ」
「んー……それだけじゃなあ」
信楽君はししゃも破裂事件を起こして以降、温まる以外ではストーブに接近禁止令が発令されていた。
それまで給食のメニューなど色々と温めていた信楽君からしたら、その発令はかなり致命的だったらしい。だから代わりに温めて欲しいと頼まれることが多々あった。けれども、熱いタライをどかしすのは面倒で断ってばかりだったもので、この提案は彼にとって結構魅力的なものだと思ったのに、なかなか首を縦に振ってくれない。
「じゃあウグイス餅が出たときは、わたしのぶんもあげる」
「ぼく、ウグイス餅好きだったっけ? ああ緑色だから?」
これはすこし考えなしの提案だったかもしれない。わたしはうなずきながらも苦笑してしまう。
「ウグイス餅って、いつ出るっけ?」
「二月とか、三月かな……」
信楽君は、「そっか」と白息をこぼしたあと、おもむろにその場にしゃがみ込むから、どうしたのかと心配になる。
「ぼくの名前の漢字、こう書くんだ」
信楽君は唐突にそう口にすると、人差しゆびで雪に文字を書いていく。
わたしの転んだ跡が残るその横に、負けないサイズで書かれた〝碧〟の名前。
ミドリと聞いて、思い浮かべていたのが〝緑〟の漢字だったから、わたしはとなりにしゃがみ込みながら、「そうだったんだ」とどこか納得した気持ちになる。
「この漢字、アオとも読むよね?」
「そー、何度も間違えられてきた。だから、なんでこんなややこしい漢字にしたんだって、ちょっとまえは嫌いだったんだ」
やっぱり。だから信楽君は名前のこととなると、あんなにも敏感だったのか。やっと腑に落ちた。
「読める色と一緒で、青緑色なのこれ。とことんぼくとは合ってない漢字だと思う」
たしかに白黒はっきりさせたい性格の信楽君には、ミドリという名前なのに、アオが混じっているのは許しがたいのかもしれない。だから信楽君は私物に濃い緑色を、あえて選んでいるんだろうな。
「でもね、ばあちゃんが決めてくれた漢字なんだって、これ。ミドリの名前はとうちゃんが決めてて、普通の緑にする予定だったけど、ばあちゃんが、『それならこの漢字にすれば』って提案したんだって」
信楽君は碧の下に、半分の大きさで〝縁〟と書くから、わたしがその横に〝緑〟と書き直せば、ふたりの笑い声が小さく重なる。
「かあちゃんの結婚するまえの苗字がね、水田《みずた》で、名前には葉っぱが入ってるから、碧はそのふたつの色を混ぜた色の漢字なんだよ、って。ぼくは信楽だけど、碧がいるだけで縁はいつまでも繋がってるんだよ、って、ばあちゃんが言うからさ。それ聞いたらさすがにもう文句言えなくなるから、ずるいよなあって」
また目を潤ませる信楽君を見て胸が締めつけられる。
「ばあちゃんのメンチ、ほんとに美味しんだ」
「うん」
「さよちゃんのもね、本当は美味しかったんだけど、ばあちゃんのはもっとで、文原さんにも食べてもらいたかった」
ぱちぱちとまばたきをするたびに涙がこぼれた。
「うん」
「でももう食べれないんだなって。ばあちゃんのこと、あのお店で待ってても、もう帰って来ないんだなって……」
膝に乗せていた腕に顔を伏せる信楽君。
「文原さん」
「うん?」
「ごめんね」
その『ごめんね』には、きっといろいろな想いが込められていて。でもその一番上にあるものが伝わってきてしまうから、わたしは涙をこらえながら、「うん」とただそれだけ返事をする。
『結構あうんの呼吸してると思うよー、ぼくら。自信持って』
持ちたくないなぁ、本当に。こんな自信なんて、はずれていたらいいのに。
そんな白銀の世界から室内に目を戻すと、となりの席で信楽《しがらき》君が手に持つ赤いセーターがまばゆいほど鮮やかに映った。
太い針に赤い毛糸を通して、胴体と袖部分を編み込み繋げてゆく手捌きは彼らしくなく、時間を忘れたようにゆっくりとしたものだった。
赤一色で編まれたセーターは、表も裏も袖部分にも綺麗な模様がほどこされている。みつあみのような柄。ダイヤのような柄。不規則に、だけど調和されたポンポンの配置。
そんな複雑な模様が入り混じっているのに、編んでる途中に編み図を確認したりメモしたりなんてしていなくて、信楽君の頭のなかはどうなっているのだろうと毎度不思議に思う。
『今回は大作の予定』
数週間まえにそう言って愉しげに作っていたものが、たったいま完成された。信楽君は小さなハサミと切った糸をテーブルに置いたなら、裏返ったセーターを表に戻して、座ったまま腕を伸ばしてそのセーターを掲げて見つめる。
ぱちぱちとまばたきをくり返す彼の口元は、への字に曲がっていて、「あーあ、間に合わんかった」と小さく声を洩らした。
その瞬間、信楽君の声を聞いたのが久しぶりなことに気づく。久しぶりと言っても、三、四十分の話だと思うけど。それでも、本から顔を持ち上げた鈴木《すずき》さんも目を大きくしていて、これがおかしなくらい変わった真実だと共感してくれている気がした。
「文原《ふみはら》さんちょっと着てみて」
「わっ……」
急に頭から被せられたセーター、途端視界が真っ赤になる。
新品の毛糸独特の油っぽい香りに包まれながら、もがくようにわたしは襟元から顔を持ち上げた。髪がばちばちと逆立つ。
袖口を探して両手をやっと自由にできたなら、顔にまとわりつく髪の毛を払って、「急にひどいじゃない」と信楽君に言いかけた言葉は、すぼまって音をなくした。
「あはは……ぶかぶかだ」
かろうじて涙が流れてないだけで、泣いているような表情をしているものだから、わたしはセーターのなかに頭を戻して顔を隠してしまいたくなった。
「もしかしてこのセーター、おばあさんに作ってたの?」
「そー。ばあちゃんが昔から着てたお気に入りのやつがあったんだけど、乾燥機に間違えていれちゃって縮んじゃって。すんごく落ち込んでたから、じゃあ似たのぼくが作るって約束したんだ」
信楽君は余った毛糸を手に取ると、その柔らかい手触りを愉しむように握ったり引っ張ったり、手持ち無沙汰や焦燥感を誤魔化すように見つめていた。
「わたし、あの、これ、もらってもいいかな……?」
考えなしに不意をついて出た言葉だった。
「え?」
「もちろん、お金は払うから! む、むりにとは言わないよ、信楽君がいやなら、ぜんぜん断ってくれていいんだけど」
励まそうとか思ってるわけじゃない。こんな提案が励ませるとも思ってない。
でも大切な想いを紡いで編んだこのセーターが、もし行き場をなくしてしまっているのなら。信楽君のおばあさんの代わりになんてなれないけれど、おばあさんのぶんまで大切にしたいと思ってしまった。
「いいよ――くないな」
「……え」
わたしに視線を戻した信楽君は頷きかけたのに、「やっぱだめ」と首を横に振った。
……思ってなかったよ。そんな簡単にもらえるなんて、いや、でも本当はちょっとだけ期待をしていた。
いままで完成するのを見ていたばかりで信楽君が編んだものを貰ったことなかったから、もしかしたらはじめて貰えるかもしれないなんて、この状況で恥ずべき感情を抱いていたじぶんが憎たらしい。
ほんの一瞬のぬか喜びにしょんぼりする気持ちを隠せないまま、またばちばちと静電気を纏わせ、セーターを脱いで信楽君に返す。
「ごめん、これはじぶんで着る。ぼくのがまだサイズあってるし」
そう言って信楽君はセーターを着て、わたしと同じように髪を逆立てる。
「文原さんには、ちゃんと文原さんにあったやつ作るから、まあ首長くして待っててよ」
「いいの?」
信楽君は「基本予約順だから、たぶん遅くなっちゃうけど」と目尻を下げて笑った。
「――すごいねぇ。やはり若者の手に掛かれば、こういうものは朝飯前だね」
乙女のように胸のまえでぎゅっと手を握り合わせる井原《いばら》さんは、体を傾けながら様々な角度で完成した旧校舎のジオラマを覗き込む。
三日間はほぼ、鈴木さん、小鳥遊《たかなし》君、わたしの三人でちまちまと進めていたペーパークラフト。それでも信楽君が来るまでは半分くらいしかできていなかったのに、手先の器用な彼が加わった途端まさに百人力。その翌日中には見事完成することができたのだ。
高級めなティッシュ箱を、気持ち横に伸ばしたくらいのサイズ感。そこまで大きいものではなかったものの、慣れない細かい作業を連日続けて完成させたなら、生まれた達成感よりも、〝しばらくはもう物作りはいいよね〟なんて疲れ切ったのが正直な感想だった。
けれどもテーブルに突っ伏すわたしたちの横で、『本校舎に、体育館、プールも揃えよう、あと倉庫とかも』そんな野望を掲げる信楽君だけは実に物足りなそうなものだから、めずらしく小鳥遊君が声を洩らし笑いつつも、首を横に振っていた。
「こんなの設計できちゃう井原さんのお友達って、なにものなの?」
「一応、建築士の資格を持ってる高等遊民《こうとうゆうみん》なひとかな。旧友からは仙人と呼ばれていてね。私は仙ちゃんって呼んでいるんだ」
「高等遊民?」
「定職には就かず、自由気ままな、じぶんの憧れだけに懸命なひとのことだよ」
仙人みたいな高等遊民。勤勉な井原さんとはまるで正反対な、そのお友達の仙ちゃんを思い浮かべてみても、いまいち想像がつかない。むしろアニメなんかで出てきそうな、白髭長髪の雲に乗った本物の仙人を浮かべてしまって、思わず苦笑する。
信楽君もわたしと似た想像をしているのか、その目を爛々とさせて「高等遊民かぁ……」だなんて、憧れを抱いてしまったような口ぶりで呟くから、ちょっとだけ心配になった。
「文原さん、手はもう大丈夫かい?」
「はい、もうすっかり。傷跡もほとんど残ってないくらいに」
そう返事をすれば安堵を滲ませる井原さん。鈴木さんと小鳥遊君にも怪我はしてないかと尋ねていて、過保護に加速がかかっている気がする。
きっとそれはこの短な間でいろいろと、本当にいろいろと出来事が起こってしまったからだと思う。薄く開けた口から重たい息がこぼれ出す。
「文原さん、手ってなに? どーしたの?」と、目を細めてわたしの手を確認する信楽君の肩を、とんとんと叩く井原さんはやさしい表情で、「信楽君、となりの教室でちょっとだけお話しないかい?」久しぶりにそんな提案するものだから、この場の空気が一瞬だけ止まった気がした。
信楽君のおばあさんのこと、井原さんにも当然耳に入っているはず。そんな状況でカウンセラーがカウンセリングをするのは、なにもおかしいことではないけれど。わたしは手に関しては全然大丈夫だと信楽君に告げながら、内心では逆に信楽君のほうが大丈夫なのかと不安が浮かぶ。
いまではお友達のように仲がいい信楽君と井原さんだけれど。わたしが信楽君と出会ったころは、彼は井原のことを嫌う……まではいかないけれど、誰とでも隔てなく接する信楽君が珍しく井原さんだけには、かなり警戒して避けていたのを思い出してしまう。その理由は、カウンセリングというものが信楽君にとって、ひどく苦痛だったかららしい。
大人とふたりっきりになって、家族ともしない深い会話をして心の内を覗かれるというのは、わたしにとっても呼吸がしづらく厭な汗が浮かぶような、あまり好きにはなれない時間だったもの。信楽君の性格からして、そういう時間は苦手以外のなにものでもないのだろう。
だから、すこしずつ時間をかけていまの関係性を構築してきたのに、信楽君と井原さんの関係がまた崩れてしまわないか、とふたりの顔色を交互に見つめながらわたしは息を呑む。
「んー、寒いからいまはいいや。春になったらね」そんな信楽君の答えに、きょとんと拍子抜けした顔の井原さん。
そのあとすぐに眉尻を下げて安堵したように柔らかい表情を見せるから、そんな表情を見る限り、きっと井原さんも緊張感を抱いていたんだと伝わってくるみたいだった。
一方で信楽君はのほほんと笑って、空き缶に立てかけられた多種類のかぎ針からお目当ての号を抜き抜いて、しゅるしゅると白い毛糸をひっぱり伸ばすと、またいつものように編み物を始める。もうすでに高等遊民の片鱗が見え隠れしている気がする。
「あはは。そうだね、暖かくなったらにしよう」
それで大丈夫なのかな、とも思うけれど。井原さんにはわたしには知り得ない信楽君の心の内を理解できているんじゃないかと察する。それはやっぱりふたりがどこか似ているからなのかも。
またいつものように会話を始めるふたりを見つめながら、わたしもいつも通りの日常へと心を落ち着かせた。
「じゃあ、また明日ー」
「また明日ねー」
いつも通り四人で学校の校門から出て、手を振りお母さんが迎えに来てくれた車に乗り込む鈴木さんと、わたしたちとは反対方向に歩いて行く小鳥遊君を、信楽君と手を振って見送る。それからわたしたちも帰り道へと翻り歩き出す。
「そういえば信楽君」
「なあに?」
「昨日信楽君、いつもの道曲がらないで、そのまま道まっすぐ進んで帰っていったじゃない?」
「あ、うん」
「なにか向こう側に用でもあったの?」
踏切を過ぎて別れ道の十字路が迫って来た頃、わたしは目のまえに続く道をゆびさしながら訊ねた。
「さよちゃんちがこっちの方向なんだ」
「さよちゃん、さんの家行ってたんだ」
「うん。今日もさよちゃんちに帰る」
用があるとかじゃなくて、帰る?
その言葉にまたひとつ疑問が浮かぶけれど、いま信楽君のお家のことは事情がいろいろあるはずだから、これ以上訊いてはいけない気がして、「へえ、そうなんだ」と何気ない口調で合図を返す。
そんなとき、わたしたちのすぐ傍で若草色の車が停車するのが視界の隅に映った。
「碧《みどり》っ!」
「……げ」
助手席の窓がさがって運転席から信楽君の名前を呼んだのは、彼と似た大きな目をした女性だった。歳はさよちゃんと同じくらいだろうか。信楽君を見つめるその目はどこか苛立ちのような、焦りのようなものを映している気がした。
「今日は迎えに行くから、学校で待っててって言ったでしょう? ちょっとっ、止まりなさい碧!」
顔を歪めたままの信楽君は、ふいっとそのひとから目を逸らして歩みを再開させてしまう。
わたしはどうしようか、と足元をまごつかせていたなら、「いきなりごめんなさいね。あの、もしかしてあなたが文原さん?」そう訊かれて、こくこくと頷く。
「はじめまして、信楽碧の母親の信楽葉子です」
「はじめまして!」
「いつも息子がお世話になってるみたいなのに、本当にごめんなさい、こんな挨拶の仕方で」
「い、いえっ」
口早にそう言う信楽君のお母さんは車道で停車しているから、後車がきてしまわないかを気にしている様子で随時バックミラーを確認しながら、ゆっくりと車を発進させて信楽君に追いつく。
「碧、いい加減にしてちょうだい! またさよちゃんに迷惑かける気なの? ねえ、いいから止まって車乗りなさい!」
十字路を目前に、直進の信号が赤になってしまったから大人しく足を止めた信楽君だったけれど、相変わらずお母さんの呼びかけは無視を決めこんでいる。そんな状況に、わたしは視線を行ったり来たりさせるので精一杯だった。
「じゃあね文原さん、また明日」
わたしは信号を渡る必要がないから、そのまま左に曲がればいいのだけれど、この空気感のなかでいつものように平然と帰る精神はさすがに持ち合わせていない。
「……信楽君、お母さん困ってるみたいだから、とりあえず車に乗ったほうがいいんじゃない?」
おずおずとわたしがそう言ったなら、口元をむっとさせる彼。
「あ、そうそう文原さん! そこの反抗期の息子とさよちゃんからずっとお話聞いててね、私もあなたとお話したいと思っていたの。だからお話するついでにお家まで送らせてくれない?」
歩道の青信号が点滅をはじめて、信楽君のお母さんの車の後ろには後車が迫っていて、一刻の猶予も残されていないのは明白だった。
「は、はい」
「え、文原さん、なに言ってんの」
信楽君親子の関係性をよく知らないままなうえに、つい最近信楽君のパーソナルスペースに入りこんでしまったことを悔やんだばかりだというのに。またもやなにをやっているのか、とじぶんに呆れてながらも、勢い任せに信楽君のお母さんの車に乗り込んでしまった。
「じゃあ、碧はさよなら――」
「――ぼくも乗るから、文原さん詰めて」
これでよかったのか、よくなかったのか、と訊かれたらたぶんよくはないとわかっている。
シートベルトを引っ張りながらとなりを見れば、同じ行動をしながらますます口を尖らせ鼻にしわを寄せる信楽君がいて、今回ばかりは本当に嫌われてしまった気がする。気持ちはずーんと急降下だ。
「文原さん、巻き込んじゃってごめんなさい。お家、どっちの方かしら?」
「えっと、東丘公園の近くです」
「ああ、小学校が近くにある広い公園よね?」
「……はい」
車を直進させていた信楽君のお母さんが、つぎの交差点を左折するためにウインカーをつけた。かちかちと鳴る音に共鳴するように、鼓動がどくどくと静かに響いて聞こえた。
「文原さん、いつもありがとうね。わがままで大変でしょう、その子」
否定も肯定もできなくて、苦笑を口からこぼれる。
「その子ったらいつも文原さんと、えっと鈴木さん? とタカハシ君の話ばっかりしてるのよ」
「小鳥遊《タカナシ》君」
きつく口を閉ざしていたのに、やっぱり名前のこととなると信楽君は黙ってられないらしく、ちゃんと訂正する。
「あ、ごめんね。タカナシ君ね。ごめんってば、そんな睨まないでよ」
バックミラー越しにお母さんと目を合わせていた信楽君は、リュックを抱えなおすと、ふんっと効果音を出すように窓の外へ顔を背けた。またも反抗期を濃縮させている。
「……あの教室に行くの心配してたから、碧が文原さんたちと愉しく過ごせてるみたいで安心してるのよ。文原さんはえっと、あの場所、大丈夫?」
旧校舎の教室に、きっと信楽君のお母さんはいい印象を持っていないんだろうな。わたしのお母さんも似たような感じだから、ほかのみんなの親御さんもそうなのかもしれない。
みんな本校舎に入れない理由はそれぞれ違うけれど。じぶんの子供が、古めかしくて暗くて淋しげな旧校舎に通っているのは、親としてはいい顔できるものではきっとないはずだ。
心配させている。そんなのはわかってるけど、側から見るよりは、あの場所もそんなに悪い場所ではなくて。もしかしたら、そう思い込もうとしてるだけなのか、じぶんでもわからないけれど。みんな他愛のない会話をしたり、ときどき信楽君が事件を起こしてみんなで吹き出したり、ジオラマを作って愉しんでいることは、紛れもない事実なのだ。
「はい、わたしは愉しいです」
「そっか。あの――」
「――かあちゃん、ぼくはじいちゃんのとこには行かないからね」
突拍子もなくそんな言葉を発した信楽君。
「碧それは……」
「ひどすぎるでしょ、ばあちゃん死んだばっかなのに、じいちゃんのとこに行こうなんて。さよちゃんにばあちゃんの店押しつけて、かあちゃんは悪いと思わんの?」
じいちゃん? ……たしか信楽君まえに、おじいさんがいるのは父方だけで、かなり遠方に住んでいるからあまり会えないと言ってた気がする。
どこだっけとぐるぐるする思考で考えても、新幹線を使ってもかなり遠い場所だという話しか思い出せない。
「……悪いと思ってるよ。でもそれはさよちゃんと話し合って決めたことだって言ってるでしょ。それに、お父さんの実家に引っ越すことは前々から決まってたんだから、いまさら困らせること、言わないでって」
ひどく疲れた切った声だった。
信楽君にとってのおばあさんは、信楽君のお母さんにとってのお母さんなはずで。じぶんのお母さんが亡くなったばかりなのに、心労を抱えているのはあたりまえだ。
「それにばあちゃんのことだって、みんなして、はなっから〝きっともうだめだ〟とか……そんなことばっか言ってたから、だからばあちゃん本当にいなくなっちゃったじゃんっ!」
「……碧、そんな大声だしたら文原さんがびっくりしちゃうでしょ。言いたいことは、お母さんあとでちゃんと聞くから……」
そんな悲痛な声と苛立った声が車内を行き交うなかで、わたしはじぶんのスニーカーの汚れに目を留めながら、体中がばくばくとうるさい音を立てることに、意味がないとわかっていても耳を塞ぎたくてたまらない。
『引っ越す』って信楽君が? ずっと様子がおかしいのはおばあさんのことがあったからだと思っていた。けれどもしかして引越しのことも抱えていたから、だから信楽君がやたら〝春〟を口にすることが多かったのはそのせい?
それはまるで約束を重ねて、春になってもここにいるのだ、とじぶん自身に言い聞かせていたよう。いまとなってはそう思えてしまう。
「文原さんも言ってやって。かあちゃんはね、あの教室のこと、すんごく嫌ってんの。でもぼくたちにとっては、馬鹿にされる場所じゃないもんね?」
「馬鹿にしてるわけじゃないってば。ただ私は、碧が追いやられて、あの場所にいる事実が許せないのよ」
「そうだけど、でもぼくが選んだんだよ、あの教室に行くこと。いまもちゃんとじぶんで選んで行ってるし。だから、これからもぼくはどこにも行く気ないから」
信楽君がわたしのことを見ている気がした。どうして喋らないの、と問われているような気がした。それでも視線は持ち上げられず、ただ唇を噛んで黙った。
わたしが信楽君の味方になっても、ひとの家庭の事情が覆るわけない。なにを口にしても迷惑になるだけ。――なんてそれらしいことを思い浮かべてじぶんだけ納得しようとして、いつも大切なときに、なんにも話せなくなるこんなじぶんがいやになる。本当に大っ嫌いだ。
ごめんね信楽君。こんなわたしなんかが、やっぱり信楽君の内側にすこしでも入り込んだりしたらいけなかった。
あの教室に信楽君がいなかった数日間は途方もなく淋しくてたまらなかったのに、泣いて困らせたくせに、なんの力にもなれなくてごめん。
「文原さんとはもう絶交だ」
翌朝、まちぶせをしていたように昇降口入ってすぐの傘立てに腰掛けていた信楽君。わたしと目が合うなりそう告げるから、閉じかけていた傘がぼんっと音を立ててまた開いた。
「……信楽君だって、引っ越すこと、ずっと隠してたんでしょ」
「そもそもぼくは引っ越す気なかったから言わんかっただけだし。でもかあちゃんが文原さんに絶対言っちゃうと思ったから、そのまえに言ったのにさ、なんで黙ってたの、ずっと」
「所詮わたしたちは子供だもん。なに言ったって、大人が決めたことに逆らうなんて出来っこないでしょ」
力のこもった信楽君の目から逃れるように視線を落とした。
「約束したじゃん。春になったら遊びに行くって」
「春になるまえでも、遊びには行けるよ」
「やだよ、ぼくは寒いの嫌いだから」
「それはただの、信楽君のわがままじゃない」
「文原さんはぼくが引っ越してもいいの?」
いやに決まってる。先輩たちを送り出したときとはまったく違って、同級生なのに、まだわたしはこの場所にいるのに、お別れしなきゃいけないなんて、悲しいに決まってるじゃない。
「いやだって言ったら、信楽君はここにいてくれるの? むりでしょ?」
「むりじゃない。ぼくはここに残って、さよちゃんちに住むから。そんでいままで通りここに通いながら、ばあちゃんのお店手伝うって決めてるし」
頬が引きつる、これは寒さのせいだ。
「そんなわがまま言ったら、きっとお母さんのこと悩ませるだけだよ。サポートクラスなんて名ばかりのここに固執したって、意味ないもの。信楽君は本校舎行ってたんだからわかってるでしょ? あっち側は天国で、こっち側が地獄だってこと」
大切で綺麗な硝子を自ら傷つけて、ひび割れていく音がした。
「天国? じゃあその天国からぼくは追い出されたんだよ」
その声は、言葉は、信楽君らしくなかった。それをわたしが言わせてしまった。心臓が痛くなる。なのに言葉はあふれて止まってくれなかった。
「でも信楽君、二年になったとき寺崎《てらざき》先生から、本校舎に戻って来ないかって訊かれたんでしょ?」
「なんで文原さんが知ってんの?」
「まえに沢渡先生が愚痴ってたの聞いたの。信楽君は、わたしとは違って、本当は本校舎も同級生も避けなくても、平気なはずでしょ……。だれとだって仲良くなれる信楽君なら、転校したとしても、きっとうまくやっていけるよ」
この旧校舎は夏は茹だり、冬は凍える。廊下はところどころ電気がつかないし、お手洗いはすべて和式で、ホラー映画さながらの雰囲気を醸し出している。
学力だって同級生とは雲泥の差。音楽を習うこともなければ、実験をすることもない。体育館とも無関係で、どれだけ暑くてもプールは眩しいだけ。体育祭や文化祭の日は登校すらしない。
旧校舎にいることはただ選択を狭めているだけで、本当は自由なんかじゃない。旧校舎しか居場所がないからと思い込んで、ただ依存していただけだ。だけど、それでも、強くなれないわたしはここにいるしかなかった。
昨日は、側から思うより悪くない場所だ、なんて思ってたくせに、沸き出すネガティブに自嘲が滲み出す。大切なのは真実なのに、苦しいのも真実でしかなかった。
信楽君は一年生のとき担任だった岩嶋《いわじま》先生とは相性が悪すぎただけで、きっといまの担任の寺崎先生とだったら、本校舎で本来の教室に行ってもうまくやっていけると思う。
だから本当は、ほかの生徒に会わないように登校を遅めたり下校を早めたり、いちいち学年主任の沢渡先生に嫌味を言われ続けなくたっていいはずなのに。
じゃりっと靴底が擦れる音が聞こえた。
信楽君の深緑色のスニーカーが視界に映って、視線を持ち上げたなら、その大きな目に涙を溜めた少年が見下ろしていた。
「言ったじゃん、ぼくはじぶんで選んでここにいるんだって」
〝ほんとのほんとーに絶交だ〟――そう小さくつぶやいて、信楽君は歩き出す。
背後で昇降口の扉が古めかし音を立てて開き、すぐに閉じる。
はらりと落ちた涙が、くすんだオレンジ色のタイルに染みを残した。
ひどく冷えた空気には、透明な針が浮かんでいるのではないか、と思うほどじくじくと肺に突き刺さる。痛みで悲鳴に似た呼吸がこぼれて、喉の奥から鉄の味がする。
雪が足元を重くさせる。必死に走っているはずなのに、歩くよりも遅い感覚に襲われて、痛くてしかたない横腹を押さえつけた。
途中、肩にかけて引っ張っているだけの傘が走るのに邪魔だと気づいて、肩で息をしながら傘を閉じる。それを握り込みながら真っ白な足跡をたどって走って、やっと深緑色の傘が視界に映った。
「信楽君!」
白い息が立ち上った声はちゃんと届いてくれたらしい。信楽君は一瞬振り返って、でもまたすぐに翻ってしまう。
「ごめんね!」
もう泣かないって決めていた信楽君を、わたしのせいで二度も泣かせてしまった。
お友達だと笑ってくれたのに、絶交なんて悲しい顔をさせてしまった。
「ごめん……ってば」
信楽君が引っ越してしまうのはどうしようもないとしても、わたしまで大人と一緒になって、彼の心を不安にさせることはなかったのに。
運動不足がたたって重くてしかたない足を無理に急かしていたから、ついにもつれた足に体のバランスを取られわたしは正面から倒れ込んだ。まだ踏み固められていない雪がクッション代わりになってくれたおかげで、痛みはさほどなかったものの冷たさが肌に滲みる。
「風邪引くよ、はやく起きて」
ばっと顔だけを上げたなら、わたしを見る信楽君がやれやれ、と言わんばかりに肩をすくませてこちらへ歩いてくる。
もたつきながら立ちあがろうとするわたしのまえに、立ち止まって手を差し伸べてくれる信楽君。目のすぐ下までマフラーが覆われていて、その見えている瞳もまつ毛も色を濃くさせていた。
じぶんの目元がまたひりひりとなるのを感じながら、その手を取って立ち上がった。
信楽君が差している傘から、薄く降り積もっていた雪が合わさったわたしたちの手に落ちた。冷たさのあまり同時にそれを払った手は、しばらく行き場をなくしたように宙に漂っていた。
「文原さんのせいで、ぼくが風邪引きそうだな」
「……絶交を撤回してくれたら、こ、今後の給食、代わりにストーブで温めるよ」
「んー……それだけじゃなあ」
信楽君はししゃも破裂事件を起こして以降、温まる以外ではストーブに接近禁止令が発令されていた。
それまで給食のメニューなど色々と温めていた信楽君からしたら、その発令はかなり致命的だったらしい。だから代わりに温めて欲しいと頼まれることが多々あった。けれども、熱いタライをどかしすのは面倒で断ってばかりだったもので、この提案は彼にとって結構魅力的なものだと思ったのに、なかなか首を縦に振ってくれない。
「じゃあウグイス餅が出たときは、わたしのぶんもあげる」
「ぼく、ウグイス餅好きだったっけ? ああ緑色だから?」
これはすこし考えなしの提案だったかもしれない。わたしはうなずきながらも苦笑してしまう。
「ウグイス餅って、いつ出るっけ?」
「二月とか、三月かな……」
信楽君は、「そっか」と白息をこぼしたあと、おもむろにその場にしゃがみ込むから、どうしたのかと心配になる。
「ぼくの名前の漢字、こう書くんだ」
信楽君は唐突にそう口にすると、人差しゆびで雪に文字を書いていく。
わたしの転んだ跡が残るその横に、負けないサイズで書かれた〝碧〟の名前。
ミドリと聞いて、思い浮かべていたのが〝緑〟の漢字だったから、わたしはとなりにしゃがみ込みながら、「そうだったんだ」とどこか納得した気持ちになる。
「この漢字、アオとも読むよね?」
「そー、何度も間違えられてきた。だから、なんでこんなややこしい漢字にしたんだって、ちょっとまえは嫌いだったんだ」
やっぱり。だから信楽君は名前のこととなると、あんなにも敏感だったのか。やっと腑に落ちた。
「読める色と一緒で、青緑色なのこれ。とことんぼくとは合ってない漢字だと思う」
たしかに白黒はっきりさせたい性格の信楽君には、ミドリという名前なのに、アオが混じっているのは許しがたいのかもしれない。だから信楽君は私物に濃い緑色を、あえて選んでいるんだろうな。
「でもね、ばあちゃんが決めてくれた漢字なんだって、これ。ミドリの名前はとうちゃんが決めてて、普通の緑にする予定だったけど、ばあちゃんが、『それならこの漢字にすれば』って提案したんだって」
信楽君は碧の下に、半分の大きさで〝縁〟と書くから、わたしがその横に〝緑〟と書き直せば、ふたりの笑い声が小さく重なる。
「かあちゃんの結婚するまえの苗字がね、水田《みずた》で、名前には葉っぱが入ってるから、碧はそのふたつの色を混ぜた色の漢字なんだよ、って。ぼくは信楽だけど、碧がいるだけで縁はいつまでも繋がってるんだよ、って、ばあちゃんが言うからさ。それ聞いたらさすがにもう文句言えなくなるから、ずるいよなあって」
また目を潤ませる信楽君を見て胸が締めつけられる。
「ばあちゃんのメンチ、ほんとに美味しんだ」
「うん」
「さよちゃんのもね、本当は美味しかったんだけど、ばあちゃんのはもっとで、文原さんにも食べてもらいたかった」
ぱちぱちとまばたきをするたびに涙がこぼれた。
「うん」
「でももう食べれないんだなって。ばあちゃんのこと、あのお店で待ってても、もう帰って来ないんだなって……」
膝に乗せていた腕に顔を伏せる信楽君。
「文原さん」
「うん?」
「ごめんね」
その『ごめんね』には、きっといろいろな想いが込められていて。でもその一番上にあるものが伝わってきてしまうから、わたしは涙をこらえながら、「うん」とただそれだけ返事をする。
『結構あうんの呼吸してると思うよー、ぼくら。自信持って』
持ちたくないなぁ、本当に。こんな自信なんて、はずれていたらいいのに。
