この春に青はいない

 また明日、と別れた日から二日が経っても、信楽《しがらき》君が旧校舎の教室に現れることはなかった。
「信楽君がお休みなんて珍しいね。体調でも悪いのかな」
 井原《いばら》さんは持っていた紙袋をテーブルの端に置きながら、空席が奇怪にも思えてしまう信楽君のデスクチェアを見つめて、淋しそうに声を落とした。
「寺崎《てらざき》先生がご家庭の事情、って言ってました」
 そう答えたわたしに、「そっか……。元気ならいいんだけれど」と柔らかく微笑む井原さんは、側にあったパイプ椅子によいしょと腰掛けた。紙袋から画用紙の束を取り出したなら、とんとんと軽く叩きつけてひとまとめにテーブルに置く。
 三センチほどあるその束は彩り豊かに重なっていた。一番上の茶色の画用紙にはすこし薄い絵のような模様がいくつか描かれていて、そのひとつひとつに番号が振られている。
「これね、ペーパークラフトって言って、紙を切って重ねて立体感なジオラマを作れるものなんだ」
 井原さんはそう説明しながらクリアファイルから説明書のようなものを取り出して、わたしと鈴木《すずき》さんの間に置く。
「友人がこういったものを設計して作るのが趣味でね。私にはちんぷんかんぷんなんだけど、こういう細々としたもの、きみたちならあっという間に完成させちゃうんじゃないかって、持って来てみたんだ」
 説明書には完成図が載っている。それはとても見覚えのあるものだったから、思わず目を丸めた。
「……これって」
「そう、この旧校舎のジオラマだよ。以前、写真をいくつか撮らせてもらって、それを友人に送ったらすぐに図面に起こしてくれてたんだ。本当は組み立てまでお願いしようかと思っていたんだけど、じぶんたちで作ったほうが、そのぶん思い出になるかなって」
 井原さんはちらりとこちらを見ていた小鳥遊《たかなし》君にも視線を向けて、説明書を渡しながらにっこりと微笑む。
「信楽君がいたら大喜びしそう」
「はは、そうだよね。私もそう思って愉しみにしていたんだけどね。さすがに一日では完成できないと思うから、信楽君が月曜日に来れたなら、私の代わりに説明してくれるかい?」
「はい」
 もくもくと雲は形を変えて流れて、もくもくと手元に神経を注ぐ。そんな時間が悠々と流れていた。
『じゃあ、また明日ー』
 信楽君がそう言ったつぎの日。今日からしてみたら昨日のこと。だいたい一番手にこの教室に来て、みんなを迎えてくれていた信楽君がお昼になっても来ることはなく。給食を持って来てくれたのがちょうど寺崎先生だったから理由を訊けば、『ご家庭の事情でしばらく休むそうだ』とだけ教えてくれた。
 わたしはそれを聞くまで、雪が降っていたのに傘を差し出さなかったじぶんを責めたり。最近すこしずつ変わってきた信楽君がもしかして本校舎に行けてしまって、こちらにはもう来ないんじゃないか、なんて不安になったりしていたのだけど。
〝ご家庭の事情〟という言葉は、そんな思考を募らせていたじぶんを恥じるには十分すぎるものだった。
 集中力が切れて手が止まる。ふぅ、と息を洩らして視線をあげたなら、毛糸が積まれた信楽君専用のボックスが目に入った。
 信楽君大丈夫かな。お家で、なにがあったんだろう……。
 不安で心が揺らぐのを誤魔化すように周りを見渡せば、体勢を低くして手元を見つめる井原さん、鈴木さん、小鳥遊君の姿があって、それぞれあまりにも真剣だから口元に微笑が滲む。
 細工用のカッター、カッティングマット、説明書を、じぶんのぶんも含めて六人分用意した井原さん。そのうちのふたつは、テーブルの隅にぽつんとまとめ置かれて淋しげだ。
『……つぎはいつ来てくれるだろうか』しばらく姿を見せていない下北《しもきた》先輩のことを、ひどく心配げの井原さん。
 わたしは迷ったすえに、きっと先輩は先生たちには言わないまま消えてしまった事実を、井原さんにそっと打ち明けた。途端、井原さんは途端に悔やんだように眼鏡をずらして眉間を摘み、ふたたび開いた目は充血していて悲しさを滲ませていた。
 井原さんに心を開く信楽君。井原さんに心を閉ざす下北先輩。先輩が心を見せないのは、井原さんだけに限った話じゃない。信頼しているひとが、信頼しているひとを、手放しにじぶんも同じように信頼できるなんて思ってない。
 しかたないこと、しかたなかったことなんだ、と呑み込もうとはしても。じぶんのことのように、わたしたちのことに一喜一憂をしてくれる井原さんをまえにすると、信楽君が以前言ったように〝井原さんはほかの大人とは違う〟と思ってしまう。
 だからもしも下北先輩が、ほんのすこしでも井原さんと話す選択肢を選んでくれていたなら、あの日のお別れだけは、違う結末もあったんじゃないかと切望に似た考えがどうしてもよぎってしまう。

 午後の授業が終わりを告げるチャイムの音が鳴り響き、井原さんは口元をはっとさせて腕時計を確認した。
「すっかり夢中になってしまったよ……やれやれ。東小《ひがししょう》にも行かなきゃいけないというのに」
 急いで周りを片付けながら呟く井原さんのその言葉に、わたしはカッターを持っていた手元を狂わせてしまい、左の人差し指を軽く引っ掻いてしまった。
「痛っ……」
「だ、大丈夫かいっ? 文原《ふみはら》さんっ」
「大丈夫です! たぶん深くは切ってないので」
 血が滲む指を押さえながら咄嗟に笑ってみせても、井原さんは小さく首を横に振って、「保健室で見てもらわないと」と焦っていた。
「本当に、大丈夫です、あの――」
「――あ、いや、私が行って保健の先生を呼んでくるから」
 そう言った井原さんは早急に立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足元で教室を出て行ってしまう。
 そんななか、あわあわと心配げな後輩ふたりが同時にティッシュを差し出してくれて、こんな状況だけれど笑ってしまいそうになりながら、受け取ってお礼を告げる。いやいや、井原さんを追いかけなきゃ。ほっこりしている場合じゃない、とわたしは教室を飛び出した。

「井原さんっ!」
 腰痛持ちの井原さんは長いこと椅子に座っていたから、かなり痛みを背負っているはずなのに、腰を押さえながらも小走りで昇降口へと向かっている後ろ姿が映った。
「井原さん、あの、わたしぜんぜん――」
「――フミバラさんは、教室で待っててくれていいからね……って、ああ、また私名前を」
 追いついたわたしに、片手で口元を覆う井原さんは足を止めて、またやってしまったというようにまぶたを強く閉じると、「すまない」声色を沈め言った。
「いえ、あの名前よりも、指本当に掠っただけで、ほら、もうほとんど血も出てないので大丈夫です!」
 ティッシュで血を拭えば、皮に短く亀裂が入っているだけでもう鮮血は滲んでない。それを井原さんに見せたなら、彼はほっとした表情をみせて腰を落として両膝に手をつくと息を吐いた。
「でも、一応消毒を」
「救急箱ならサポートクラスにも置いてあるので、消毒ならじぶんで出来ます。井原さんすみません、心配かけてしまって」
 わたしが小さく頭を下げると、「私のほうこそ、いつも名前を間違えて嫌な思いさせてしまって、本当に申し訳ない」と頭を下げ返されてしまった。
「なぜかいつも信楽君が気にするよりも、本当にわたし気にしてないんですよ。だってたぶん井原さん、じぶんの〝原《ばら》〟と混ざって、間違えちゃってるだけですよね?」
 微苦笑をこぼしながらそう言えば、苦い顔してこくりと頷く井原さん。
「文原さんの原《はら》には濁点をつけないと、毎回頭で繰り返しているんだけどね。ときどき濁点の有無を考える思考が絡まって、間違ったほうが口を衝いて出てしまうんだ。本当に不甲斐ないよ」
 しょんぼりと肩を落とす井原さんのその姿が、このまえ落ち込んでいた信楽君の姿に重なって見えた。年齢はおそらく祖父と孫ほど離れててもおかしくないから、いままで気づかなかったけれど、信楽君と井原さんの雰囲気はなんだかすこし似ているのかもしれない。
 見た目とか性格とかが似ているとかではないのに、不意にそう思ったことを不思議に感じた。
「信楽君がいたら、また怒られてしまっていたね。あいたたた……」と腰を伸ばす井原さんが心配になるわたしは、意味ないと思いつつも腰の近くに手を差し伸べてしまう。そうすると、わたしのそんな手に気づいた井原さんは口元に微笑を浮かべた。
「きみたちは本当にやさしくて良い子たちだね」
「え?」
 突然の褒め言葉に、どんな顔をしたらいいわからず、目を泳がせてしまう。
「嫌味とかは一切ないよ。きみたちの優しさに触れると、本当に嬉しくなるんだ」
「……ふふ」
 井原さんは自身の胸あたりをぽんぽんと手のひらをあてて目尻の皺を深くさせるから、こっちまで嬉しくなるような、やっぱり恥ずかしいような、そんな感情が入り混じった。
 井原さんの言葉はときにストレート過ぎて、こちらのほうが照れてしまうことがある。ああ、じぶんに素直なそういうところが信楽君に似ていると思ったのかもしれない。
「そんな優しさを知っている子よりも、本来ならもっと話さなければならない子たちが沢山いるというのにね。……まだまだ、頑張らないとな」
 微笑んで腰を摩りながらまたサポートクラスに足を進める井原さんの背中は、大人なのだから大きいのはあたりまえなのに、いまはすこしだけ目で見えているよりも小さく思えてしまう。
 井原さんのような大人が沢山いたなら、きっと井原さんがひとり心を痛めながら頑張らずに済むのに――。わたしだって大人を悩ませている子供のひとりなのに、じぶんを棚に上げるようなこと思いながらその背中を見つめていた。

「白ごはん、味付け海苔、磯辺揚げ、冷凍パイナップル、ABCスープ、ツナサラダ、きな揚げ粉パン……」
 雨と雪が混じって、じゃりじゃりの帰り道をひとり歩きながら、信楽君が来なかった二日間の給食の献立を呟いて白い息に変える。
 どれも信楽君が朝からうきうきとしてしまうだろう、彼の好きなものばかりだ。空席を横目に食べる給食はいつもよりひどく冷たくて味気なかった。明日からの休日を挟んで月曜日には来てくれるだろうか。
 ……信楽君はいまどうしているかな。ただいつもみたいに笑って喋って編み物を編んでいてくれていたら、それだけでいいのにな。

「――たっかなしくーん! 久しぶりー!」
 月曜日にわたしは勝手に裏切られてしまったような気分を抱いた。
 そんな午後を過ごし、わたしと鈴木さんはお手洗いに行って教室に戻ろうとしたとき、廊下の先で三人組の男の子がサポートクラスに入って行く姿が見えて、嫌な予感が胸のなかをざわめかせた。
「ねえ、返事くらいしよーよ」
「はははっ、なんでおまえだけこんな端っこに座ってんの? ここでも除け者扱い?」
「かわいそーに……あははっ!」
「いいよなぁ、ここにいれば勉強しなくていいんだろ? おれもここ来ようかなー」
 急いで教室に向かえば、机にうずくまるように背中を丸めた小鳥遊君の姿に心臓がばくばくと忙しなくなる。そんな彼を囲む三人は、いったいなにが面白くてそんなに笑っているのか、恐ろしいくらい理解できなくて、おかしいのはわたしの方なのかもとまた恐ろしくなった。
 こんがらがる思考のなか視線を動かしたなら、彼らたちの靴に入っている差し色が目に留まった。黄色のそれは小鳥遊君と同じ一年生だ。だけど、絶対〝お友達〟なんかじゃない。
「……あのっ、ここは、一般生徒の立ち入りは、禁止されてるはずですよ」
 わたしは開いていた扉から教室内に一歩踏み込んで、彼らにそう言葉を投げかけた。
「は?」
 すぐさま向けられた視線に、途端ひゅっと喉がしまって、じとりと厭な汗が浮かぶ。
「先輩? お言葉ですが、おれら、こいつの担任の先生に頼まれて会いに来たんすよねぇ。仲良くしてた友達と喋れば、教室戻る勇気出るだろって。だから会いに行ってやれーってね」
「そうそう。なー小鳥遊、おれたち友達だもんな?」
 なにが友達だ。どこが友達だ。
 うつむき小刻みに肩を揺らす小鳥遊君の表情は窺い知れない。でも彼の気持ちはいま痛いほどにわかる。わかってあげられているのに、足がすくんで声も出せないじぶんがひどく惨めだ
「あ! おまえもここにいたんだー? まじか、うけるわ」
 小鳥遊君を囲むそのなかのひとりが、目を丸めこちらへと指差すからわたしは後ろをふりむけば。まだ廊下にいる鈴木さんが、そんな彼を見て怯えたように後退りをして顔を伏せた。
「だれあれ?」
「おれと同じクラスだったの。給食中にげろぶちまけて、そっから来なくなったやつ。名前なんだっけなー、忘れた」
「うっわぁ、最悪じゃん」
 噛み締めた奥歯が音を鳴らす。
 どうして、向こう側にいられるひとたちが土足でここを踏み荒らせるの。どうして、傷ついてきたひとの傷口を掘り返そうとできるの。
 小鳥遊君が本校舎の教室に行けなくなったのは、小学校のころからいじめの標的にされていたからだ。それがだれかまでは知らなかったけれど、いま目のまえにいる三人だと確信を持った。
 鈴木さんが本校舎に行けなくなったのは、アレルギーをちゃんと理解できていなかった同級生が、彼女のお弁当に良かれと思って給食のおかずをいれて、鈴木さん食べてアレルギー発作を起こしてしまったことが原因だ。
 その子はじぶんのしてしまったことを深く反省して、何度も謝罪したという。でも鈴木さんからすれば、許す、許さないの次元ではなくて、それがただ耐えがたいトラウマになってしまったのだ。いじめではなくとも、悪気のないひとの善意からの行動だったとしても。一度生まれてしまったトラウマは、そう簡単には乗り越えられるわけない。
 それを彼らはわからないんだろうな。わかれない。わかろうとしない。きっと、たぶん、ずっと。じゃなきゃ、どうしてひとを馬鹿にして笑えるというのか。
「……帰って、ください」
「え? 聞こえませーん、もっと大きく言ってくださーい」
 もしこの場に下北先輩がいてくれたなら、そもそも彼らは近づいていなかっただろうし。信楽君がいてくれたなら、ああいう嫌がらせが後輩たちの傷口を開いてしまうまえに彼の持ち前の明るさと人懐っこさで覆いかぶさって、むしろ仲良くしてしまっていたと思う。
 ああもうやだ、なんでわたしはふたりを守れないんだろう。
 絆創膏を貼った指を強く押す。手のひらには爪が食い込む。滲む視界に、たえろこらえろと呪文を繰り返す。わたしは結局なにも成長できてない。こんなじぶんが大っ嫌いでたまらない。
「――おいっおまえたち! なにしてんだっ?」
 そのとき、わたしの背後の廊下側の窓が乱暴に開く音とともに、寺崎先生の怒号が耳をつんざく。
「……えっといや、おれらは、」
「だれの許可を得てここに入ってんるんだ? まさか勝手に入ったりしたんじゃないだろうな?」
「あの、岩嶋《いわじま》先生の……」
 振り向けば顔を真っ赤にして、彼らを睨みつける寺崎先生が窓枠を握りしめながらそこにいて。
 そんな先生をまえに、気随を失くしたような声を洩らして、それまでの笑い声を凍らせた彼ら。
「いいから、いますぐ出てこいっ、はやく!」
「は、はいっ」
 わたしと鈴木さんの間を縫って急いでこの場から去ってゆく彼らの姿を見て、やっと水のなかから抜け出せたように肺に空気を送り込んだ。
 その空気はひどく冷たくて、こらえきれず咳が不意に出た。


「おはよー、あ、もうこんにちはかな? 文原さん久しぶりー」
 旧校舎の教室には、もうだれも来ないんじゃないかと行くのがこわかった。
 教室を開けたとき、真っ暗で、寒くて、やっぱりだれもいなくて、進むことも戻ることもできずにしばらく佇んでしまった。
 先生がストーブの灯油を持って来てくれるまで、廂《ひさし》に覆われた淋しく冷たい硝子のなかで、心をおっことさないように椅子のうえで膝を抱えてまるまって座った。
 蛍光灯が教室を明るくして、ストーブのタライ水がお湯に変わり、室温と湿度があがってしばらく経った頃、一緒に教室に入ってきた鈴木さんと小鳥遊君を見て泣いてしまうかと思った。
『校長先生と岩嶋先生に、呼び止められてました』と鈴木さんが説明してくれているとき、じぶんに泣いてはだめだと言い聞かせながら、必死に頬を持ちあげた。
『もう、ああいうことは、させないって約束してくれて』
 そのときは三人ともひどい顔をしてたと思う。嬉しさと、もどかしさと、安堵と、ふがいなさ。そのどれもをこぼさないように、いつも通りの空間に戻るように、それぞれ定位置に島に戻ってペーパークラフトの続きを再開させた。
「あれ、え……? 文原さん、なんで泣いて……」
 昇降口の掃除をしていたわたしの目のまえに、いつも通りにこやかに現れた信楽君。
 そんなつもりはなかったのに、ぽろぽろと熱い涙がこぼれ出る。
「もう、給食、終わっちゃったよ」
「え、ああ、うん……」
 どれだけ心配したと思ってるの?
 いったいなにがあったの?
 昨日はね、とても大変だったの。
 わたしひとりじゃ、後輩たちを守れなかった。
 よかった、信楽君がまたここに戻ってきてくれて。
「今日、はね、カレーだったよ。しかもね、今日のは、グリーンピース、入ってなかったの」
 言いたい言葉を飲み込んだ。言えない言葉を深く深くに沈めて、そんなどうでもいい言葉を代わりに口にした。
 なんで信楽君がいなかったときに限って、信楽君が好きな献立が続いたのか。いつも彼が口を尖らせるグリンピースが、今日にかぎってなぜカレーに入っていなかったのか。
 神様はいないと信じたいのに、神様はいじわるだと叫びたくなった。
「なんだ、それ……ぼくが、いないのに、ひどいや」
 すのこのうえで力が抜けてしゃがんでいたわたしのまえに、信楽君はとぼとぼと近づいて同じようにしゃがみ込んだ。
 ぐるぐるに巻かれた深緑色のマフラーに埋もれる口元。ちょっとだけくぐもった声は微かに震えている気がした。
 リュックの肩紐を握る手も、頬も、鼻先も、耳も、目元も同じくらいの赤く染まっていて。その大きな目から大粒の涙を落とした信楽君は、「ばあちゃんがね、死んじゃったんだ」と色を濃くしたまつ毛をゆっくりと下げてゆく。
「……おばあさんが?」
「水曜日の夜にいきなり具合悪くなって、木曜日に喋れなくなって、金曜日になるまえに。……あー、もう泣かないって決めてたのに、なんで文原さん泣いてんのさ、つられるじゃん」 
 袖で目元を覆ってごしごしと擦る信楽君。
「学校、来ても、大丈夫なの?」
「みんな、もうすこし休みなって言ってきたけどね。でもさ、いままで散々ぼくが、文原さんに休まないでってお願いしてたのに、こんなに休んでたら、ぼくひどいやつじゃん」
 目尻から涙を流しながら、えへへと笑う信楽君。
 わたしは必死になって首を横にふった。
 ひどいなんて思うわけない。ごめんね、信楽君。わたしのほうがこの数日間ひどいことばかり思ってきた。信楽君がきっと泣いているときに、笑ってくれてたらいいなんて思ってしまっていた。
「ごめん、ごめんね」
「えー……あはは、なんで文原さんが謝るの? だからなんで文原さんは泣いてんのってばぁ」
 半分開いたままの扉から、つららのような冷たい風が吹きこむ。近くの蛍光灯はときどきぱちんっと音を弾けさせて、いまにも消えかかりながらわたしたちを不完全に照らしていた。

 ぽかんとした表情がふたつ、こちらを見て言葉をなくしている。
「なにこれっ、めちゃくちゃ面白そうなことやってんじゃん! ぼくがやるぶんもちゃんと残ってるよね?」
 信楽君は首元のマフラーをぐるぐると巻取りながら、リュックとともにロッカーに放り込んでコートは脱がないままいつものデスクチェアに腰を下ろすとテーブルに腕をついて、中央に置かれた組み立て途中の紙のジオラマに首を伸ばした。
 赤く腫らした目できらきらと見つめる信楽君に、鈴木さんも小鳥遊君も戸惑った様子で掃除途中の手をとめていた。
「あー、もう一時間もないかぁ。もっとはやく来たらよかった」
 信楽君は掛け時計をうらめしそうに見て、わたしの椅子のまえに置かれた説明書を手にすると、ふんふんふんと愉しげにその眼《まなこ》を上下左右に移動させる。
「これ、井原さんが持ってきてくれたの。ペーパークラフトっていって、お友達がこういうの作るの得意なんだって。みんなでこの旧校舎のジオラマ作ったら思い出になるんじゃないかって、お願いして作ってもらったんだって」
「へえ! 井原さんっぽいねえ」
 いまはまだティッシュ箱ひとつくらいの旧校舎。みんな各パーツをそれぞれに作っているから形になってないけれど、信楽君は一階部分の右端をゆびさして、「ぼくたちがいる教室」と嬉しそうに微笑んだ。
「ほらふたりとも、文原さんも、ぼやぼやしてないで、ぱっぱと掃除終わらせちゃおう」
 よし、と信楽君は立ち上がって振り返ると、ほうきとちりとりを持ったまま沈黙するふたりに、「あ、そういえば、小鳥遊君鈴木さん、久しぶり」とピースサインを作った。