『――ふたりは、文原《ふみはら》さんに謝りたいって。でもね、文原さんの気持ちを優先してほしいの。一度起こしたいじめは、たとえ本心から謝ったところで到底許されることじゃない。そのことは私からもふたりに伝えてあるから、許す、許さない。会う、会いたくない。それは文原さんが思うままに決めていいんですからね』
わたしの国語の教科書にいたずら書きをした人物は、とくべつ仲良くしていたわけでもないふたりの少女だった。
落書きのこと、じぶんたちから名乗り出たらしい。そんなふたりに最初はなんで? と疑問が湧いて、いくら考えても悩んでも、辿り着くのは恐怖に満ちた感情だった。
その答えを聞く選択も出来ずに学校に行けなくなって、家に引きこもるようになったわたしのもとに、当時の担任だった釘間《くぎま》先生は何度も会いに来てくれた。
けれど、会いに来てくれても、わたしは先生に会うことすら心が重くなって部屋からは出られずにいた。インターフォンが鳴るたび、お母さんと先生の話し声が聞こえてくるたび、被った真っ暗な布団のなかで絶望感に呑みこまれて、思い出してしまうのは、白と黒の視線が突き刺さったあの日の光景だった。
好奇心、同情、厄介、困惑――普段見慣れていたはずのクラスメイトのそんな顔に絶句して、いっぺんに突き刺さる視線がこわくてたまらなかった。その瞬間がフラッシュバックされるたびに、この先、ひとの目を見ることは二度と出来ないんじゃないか、と蝕んでいた。
『中学校にはね、サポートクラスって教室があるんだって。保健室登校とは違って、普通の教室に行っている生徒とは会わないように配慮してくれてるみたいなの。どう? 一度だけでも、お母さんと一緒に行ってみない?』
届いてからも一度も袖を通さずに、クローゼットにしまわれていた中学の制服。着ないまま季節がひとつ変わり、それでもいつでも着られるようにと、お母さん夏服のシャツとチェック柄のスカートを洗濯をして、リビングでアイロン掛けしてくれている時のことだった。
お母さんは優しく笑ってそう言っていたけれど、どこか後悔と緊張が伝わってくるようだった。たぶんその理由は、わたし自身が小学校の卒業式が近づいて来ることにただ焦るばかりで、このままじゃだめだと心と身体がばらばらのままなのに、むりやり保健室登校をした日のことがあったせいだ。
学校に来ること自体にゆっくり慣れていけたら、と保健室の隅にカーテンの間仕切りで小さな個人空間を作ってくれた。先生たちが申し訳ないくらいに気遣ってくれても、それでも生徒が来るたびに心臓が跳ね上がって、ばくばくと心臓は速いのに時計の針は一向に進んでくれないような、ここに来ると選択したのはじぶんなのに、とても長く苦痛な時間だった。
帰りたい、いますぐに、どうしようもなく帰りたくてたまらない。そんな思念に押しつぶされながら、やっと帰宅時間が訪れて安堵していたときだった。釘間先生がきっと良かれと思って、わたしと仲良くしてくれていた子を連れて見送りに来てくれたのだ。
数ヶ月ぶりに会ったその子とは、まともに顔を合わせられなかった。そんなわたしの態度に、その子の困惑を滲ませた雰囲気が伝わっていた。それでも優しく話しかけてくれたのだけど、わたしは言葉が喉に張りついて、無意識に力がこもった手には爪が突き刺さって、ひと言すらまともに喋ることは叶わなかった。
嫌われることをした覚えはなかったはずなのに。つぎはだれに嫌われてしまうのか。すでにもう嫌われてしまっているんじゃないか。そんな思考が、脱げない鎧のように重く纏わりついていた。
だれも悪くないのに優しくしてくれただけなのに、心が折れてしまったわたしは、それから小学校の卒業式も中学の入学式も出られずに、お母さんに提案されるまで学校へは行けなかった。
『いま、ここのサポートクラスに通っているのは、三年生の男子ふたりと、女子三人。二年生の女子ふたりと。文原さんと同じ一年の男子ひとり。信楽《しがらき》君っていう子だけど、たしか文原さんとは小学校は別々だったはずだから、初対面ね』
たぶんそこに行ってもまたすぐに心が折れて、わたしは引きこもってしまうんだろうと半ば投げやりのまま、案内された旧校舎に足を踏み入れた。
むし暑い一階の廊下を進み、サポートクラスと張り紙が垂れさがる教室を硝子越しに見つめれば、すこし開いた扉から声が洩れて聞こえていた。
『一年に一度の七夕ゼリーの日。なのに、今日ここにいるのはぼくだけ、なんちゅう贅沢と孤独感。みんなもったいないなー』
大きな扇風機にひとり煽られながらデスクチェアに座り、開けた窓枠に足を乗せて、退屈そうにそんな台詞みたいなひとりごとをぼやく少年がいた。
先生が教室の扉を開けたなら、その少年は振り返ってひとが来たことに嬉しそうな表情を見せると、窓枠を蹴ってデスクチェアを滑らせる。
『信楽君、それやめなさい! 転ぶでしょ!』
『すんませーん。え、その子だれ? 新たなお仲間?』
少年はすたっと立ち上がると、お母さんの横にいるわたしを大きな目で物珍しげに見つめてくる。
その視線から逃れるようにわたしはお母さんのほうを見た。汗をハンカチで拭き取っていたお母さんの口元はかろうじて笑みを保っていたものの、どこか不安げに古めかしい校舎のあちこちに視線が移ろっていて、わたし以上に帰りたそうな雰囲気だった。
『彼女は同じ一年生で、一組の文原さん。今日はここに見学に――』
『――ぼく四組の信楽。文原さん、あと三十分もすれば給食の時間になるし、一緒に食べて行きなよ。今日は七夕ゼリーの日なのにあまりがたくさんあるからさあ』
目のまえでそんな彼がにーっと垂れ目に笑う。その目はぱっちりと大きく、瞳は見入ってしまうほど黒々しい。幼い頃、近所のひとが散歩していて触らせてくれたスピッツを思い出した。
素朴で人懐っこいような、そんな目だったからだろうか。それまでずっと家族以外とは目を合わせられなかったのに、初めて逸らさずにいられた。
同い年にしてはちょっと無邪気すぎる気がするし、初対面なのにやたらぐいぐいと懐に入りこもうとする少年にとにかく戸惑っていたのだけれど。きっとわたしはその時から、お母さんの目に映っている真実よりも、その教室が明るく見えてしまっていたのだと思う。その日初めて袖を通した硬い制服の着心地の悪さも、少年の愉しげな声を聞くたびいつの間にか忘れていた。
○
「文原さんは、井原《いばら》さんの言ってたこと理解できた?」
教室の掃除を終えて手を洗い、寒さで真っ赤に染まった手をストーブに寄せて暖を取っていた信楽君が、その向かい側で同じ行動をするわたしに、首を傾げて視線を合わせながら訊ねてくる。
「……難しかったけど、言いたいことはなんとなく」
ガラガラと教室の扉が開いて閉じて、とたたっとストーブに駆け寄ってきた鈴木《すずき》さんはしゃがみ込み、わたしたちと同じ行動をする。
「鈴木さんは? 井原さんの言ってたことわかった?」
「すこしだけなら……」
鈴木さんの後ろにいた小鳥遊君は、手を制服のポケットに入れたままじぶんの島に戻ろうとしていた。でもそんな彼を信楽君がストーブの横へと引っ張りこみながら、「小鳥遊《たかなし》君は?」と同様に訊ねる。
「……なんと、なく、は」
おずおずとしつつも、ポケットから霜焼けた手を出してストーブに寄せる小鳥遊君。三人の答えを聞き終えた信楽君は、「そっかぁ」ひとことこぼして、ぎゅっと口を尖らせた。
「ぼくはわかんなかった、ほとんど」
ゆっくりとまばたきをくり返す信楽君は、「みんなが、なんとなく理解できんのに、なんでこんなにわかれないんだろって、じぶんに腹が立つ。ぼくが質問したから井原さんは答えてくれたのに」いつになく悔しそうで、いつになく真剣に吐露する。
小さな炎のはぜる音が聞こえるほど、静まり返る教室。
一昨年の夏に出会ってから信楽君は、いつなんどきでも信楽君だった。明るさ、自由奔放さ、優しさで構成されていた彼が今日は――というかここ最近、どこか気落ちしているように見えてしかたない。
大人しくはないけれど、大人しい。
そんなわけのわからないことを思ってしまうわたしは、得体の知れない不安がじりじりと導火線を辿って近づいてくるように感じていた。
「たった週に一、二度来るだけのひとの言葉なんて、そんな熟考《じゅっこう》しても意味ないよ」
オレンジ色の学校ジャージの上に黒いダウンジャケットを着た下北《しもきた》先輩が、間仕切りの奥から気怠げに現れて、そんな言葉を放つ。
「熟考?」
「よく考えること」
下北先輩は下ろしていた長い黒髪を後ろでひとまとめにすると、姿を見せる両耳には、きっと初見ではぎょっとしてしまう数や大きさのピアスが飾られている。喋るたびに舌の上で光るのもピアスだろうか。前回来たときにはなかった気がするけど。なんともアグレッシブな先輩だ。
「まあだからって、毎日顔合わせる教師の言葉も胡散臭いけどね」
「下北先輩は毎日顔合わせてないじゃん」
「あっははは。そうだけど、逆にきみらは、あんなんたちとよく合わせようなんて思えるよ。感心感心」
あざけるような。本当に感心しているような。知り合って二年くらい経つけれど、いつだってその本音がわからない下北先輩は、わたしたちの側に来ると普段信楽君が座っているデスクチェアに座り、それを滑らせてわたしと鈴木さんの間に収まる。
「先生たちはまあ……まあねって思っちゃうひともいるけどさあ。井原さんは良いひとだよ。あのひとは、なんか他の大人とは違う感じがする」そう言った信楽君は手を頬に寄せて、膝の上で頬杖をつく。
「ここの教師がひどすぎてそう見えてんのよ。だってそれにあのひと、よく文原ちゃんの名前間違えてるじゃん? 結局、あたしらのことなんてその程度の認識なんだって」
確かに井原さんはわたしの名前をときどき『フミバラさん』と間違える。そのたびに信楽君が『フミハラさんだよ』とつっこんでくれて。井原さんはまたやってしまった、と苦笑を浮かべて謝るのだ。
そのことについてはわざとじゃないってわかっているから、わたしは特段気にせず、フミバラさん呼びでも普通に返事をしてしまうようになっていた。
「わたしはそんなに気にしては……」
「いや、名前のことは気にするべきだよ、文原さん」
穏便にこの話題を流そうとしたのに、なぜか信楽君が期待を裏切ってくるからわたしは首をひねる。
「そうそう。だからあたしは純粋無垢なかわいいきみらが、大人に騙されないこと願ってるよ」
下北先輩は両手を伸ばして、わたしと鈴木さんの髪をひと束摘むとくるくるとまわながらなぜかそんなことを言うから、「そんなお別れみたいなこと言わないでください」と彼女を見つめて口にすれば。
「お別れなんだ。あたし、ここ来るの今日で最後のつもりだから」――にっこりと平然と、下北先輩は突如そう告げた。
「え?」
「なんでっ?」
「えっ……」
「……っ?」
一節間を置いて、わたしたちの戸惑った声が重なる。もう一月も半ばに差し掛かる頃だけど、三年生が卒業するまではまだすこし時間はあるのに。
「あたし、春になるまえにはこの街出て行くの。その準備があるからもう学校には来る気ない。で、今日はため込んでた荷物取りに来たんだけどね。最後の最後まであんな偽善に満ちた言葉聞こえてくるから、笑いこらえるの必死だったわ」
信楽君はその下北先輩の言葉にとたんにむすっとして、なにを言うのかと思えば「偽善ってなに?」と問うから、肩透かしを食らった気分になる。
「うわべを繕って、いかにもじぶんを良いひとぶるひとのこと」
重そうなピアスを揺らしながら、やさしく答える下北先輩。
「……今日がほんとに下北先輩と会えるの最後なら、ぼくは先輩のこと悪く思いたくないし、先輩にも井原さんのことそんな風に思っててほしくない」
「大人を信用できないあたしが、信楽の慕ってるひとを悪く言えば、不満に思っちゃうのは普通でしょ。それが正解。それでも、信楽に嫌われてもね、あたしはじぶんを曲げる気ないから。ごめんね」
下北先輩が立ち上がると、座っていたデスクチェアのキャスターが音を立ててゆっくりと後ろに下がって止まる。
先輩は、口を真一文字に強く合わせている信楽君のところに歩むと、わしゃわしゃとその頭を雑に撫でてただ微笑んだ。
「この大っ嫌いな場所も、きみらといるときだけは愉しかったよ。バイバイ、元気でね」
信楽君の横でうつむいて眉間に力を込めている小鳥遊君の髪も同様にぼさぼさにさせてから、下北はじぶんの島に戻って大きな鞄を肩にかけるとわたしたちにもう一度、「バイバイ」と笑って告げて教室を出て行ってしまった。
「――ごめん。ぼくが余計なこと言ったから、下北先輩とちゃんとお別れできなくしちゃった」
リュックの垂れた紐部分を掴み、とぼとぼと歩く信楽君。そんな彼を明るく励ましたい気持ちもあるけれど、不甲斐なくわたしも同様に気分を沈ませたままとぼとぼと隣を歩く。
「信楽君のせいじゃないよ。下北先輩、いつも急に現れて急に消えちゃうひとだもん……。わたしたちが引きとめて湿っぽくなってたら、たぶん先輩嫌だったと思うし」
側からはとんでもなく暗い中学生がふたり、危なげに歩いているように見えていると思う。
らしくない。らしくないよ信楽君。去年、三年生だった先輩たちを見送ったときでさえ、いつもの調子で明るく笑っていたのに。いつもの陽気はどこにしまってしまったの。
「――碧《みどり》? ああ、やっぱり碧だ、おーい!」
そんな声が耳に届いたと思えば、信楽君は足を止める。持ち上げた視線をきょろきょろとさせて歩道の反対側へと顔を向けたなら、路肩にあるドラッグストアの駐車場にいた女性を見つけて、「あ、さよちゃん」と手を上げて返事をした。
さよちゃん――耳にしたことのある名前だったから記憶をめくれば、信楽君の『ばあちゃん』のつぎくらいに登場していたひとの名前だと思い出す。
「なーに碧、女の子と帰っちゃってー! あんたやるわね」
信楽君にさよちゃんと呼ばれたその女性は、車が通ってない道路を小走りで横切り彼の側に来ると、ばしばしとその背中を叩いて微笑む。
「そーゆーからかいは時代遅れだよ、さよちゃん」
「あはは。いやねえ、そんな一丁前なこと言っちゃって。こんにちは、碧のお友達?」
「こ、こんにちは」
快活に笑うそのひとの首元には、見覚えのあるベージュ色のスヌードが巻かれているのに気づく。わたしはそのすぐ隣にいるそれを作ったひとと交互見つめたなら、下る一方だった気持ちがふわりと上昇するようにほっこりとした気持ちへと軽くなってゆく。
「お友達ってなんだろーね。ぼくら遊びにいったりもしないし、喋るのはこの帰り道か、教室くらいだし」
『お友達?』と訊かれて、返答に困っていたわたし。それに信楽君が気づいてくれたのかは微妙なところだけれど、彼は胸のまえで腕を組んで首を傾げてこっちを見るから、わたしも「なんだろうね」と苦笑を洩らして同調する。
「いやねえ、いまどきの子ってみんなこんななの? 友達なんてそんな難しく考えるもんじゃないでしょうよ。少なくとも一緒に帰ることが普通なんだったら、もうそれは友達よ」
そう言って、やれやれとそんな言葉が聞こえてきそうな感じで首を横に振っていた。
逆にほうほうと小さく頷く信楽君は、「らしいよ、文原さん」とピースして笑うから、わたしも口元が緩む。
それにしても、いまになってはじめて知った信楽君の〝ミドリ〟という名前。そもそも彼のフルネームを知らなかったじぶん自身になにより驚いていた。
ああ、そっか。まともな自己紹介もあの場では不必要だったからか。小学生のように名札をぶら下げているわけでもなくて、きっと普通の教室で飾るような自己紹介カードも、夏休みに出るような宿題の作文や絵や習字なんかも、旧校舎の教室には飾られない。
そんな教室で過ごすわたしたちに『いまどきの子』を当てはめていいのかわからないけれど、あの場で過ごすだけの不鮮明な関係性にはじめて名前がついたようで、こそばゆくも嬉しさが滲む。
「あなたが文原さんなのね」
「は、はい」
「そう、お友達の文原さん。で、文原さん、このさよちゃんは、ぼくのばあちゃんの……どちらさんだっけ?」
ボケか本気かわからない信楽君の言葉に、彼女は気が抜けてしまったように肩を落としつつ「碧の、おばあちゃんの、弟の、娘」と信楽君を差した指をじぶん自身に移しながら、代わりに自己紹介をしてくれる。
「まあ、この子の親戚のおばさんよ。気軽にさよちゃんって呼んでね。あ、そうそう、私いまからおばちゃんの店に行くんだけど、碧とよかったら文原さんも一緒に――」
「――え、お店開けるの?」
目を丸めた信楽君が話をかぶせるから、さよちゃんは呆れた表情を浮かべながら頷いた。
「その準備しにね。仕入れのこととかもあるし、そろそろ止まってられないからねぇ」
その言葉に大きな目を伏せる信楽君は、リュックの紐を掴む手は骨が白く浮き出るほど強く握られていた。
「どうかなー……、見た目はそれなりのはずなんだけど」
「とっても美味しいです」
「あら嬉しい」
熱された油の匂いが充満した銀色のキッチン。
角バットには、じゅわりと油が滲む茶色のメンチカツがつぎつぎに並べられていく。にこにことした男の子のイラストが印刷された紙袋でメンチカツを包みざくりと頬張れば、甘味と旨みが凝縮された熱々の肉汁が口いっぱいに広がった。
「美味しくない」
なのに、ばっさりとそう言ってのける信楽君。それじゃあ、わたしが嘘ついているみたいじゃない。
「美味しいよ」
「これは、違うもん」
普段は見たことのない反抗期をたったいま濃縮してるのか。信楽君はふんっと顔を背けながら、味がわからなくなりそうなくらいソースをかけたメンチカツの残りを口に放り投げて、もぐもぐと不満げに咀嚼する。
「きびしいねえ、碧は。まあレシピ通りに作っても、おばちゃんの味と食感じゃないのはたしかだけどね」
揚げ油に浮かぶ揚げかすと灰汁を網ですくい上げながら、苦笑をこぼすさよちゃん。
「ばあちゃんが治るまで、店開けるの待てばいいのに」
「できることならそうしたいよ。でもそうも言ってられないのが、大人の事情なわけよ」
お肉の匂いが染み込んでいる店内。キッチンの奥にはショーケースと小窓がある売り場ようだった。その奥はシャッターが下ろされている。ショーケースはすべて空っぽ。ひとつの小窓には紙袋と同じイラストと【水田《みずた》のお肉屋さん】という文字がこちらからは鏡文字になって見えていた。
さっきさよちゃんと会った場所から車で三十分ほどの場所にあるここは、信楽君の母方のおばあさんが営む精肉店だ。その信楽君のおばあさんは、転んで腰の骨にひびが入ってしまって先月からずっと入院をしているのだという。
ついさっきそれを聞いたとき、だから信楽君はここ最近様子がおかしかったのか、と腑に落ちた。
編み物をはじめたきっかけがおばあさんだということや、ここの精肉店のことも。ことあるごとによくおばあさんの話題を話すくらい、信楽君はおばあちゃんっ子だって知っていたから、こんな状況下ならだれだって気落ちしてしまうに決まっている。
「そもそも、もう結構な歳だからねぇ。本当なら父さんが死んじゃったときに閉めたほうがよかったのにさ。でもまあ、やっぱり失くせないよなぁ……」
キッチンペーパーにとんとんと網を叩きつけて揚げかすを落とすさよちゃんは、「あ、父さんってのは私のね。この店を継いでたんだけど十二年前に亡くなっちゃって。そのとき碧のおばあちゃんが先代からのこのお店潰したくないって、それからほとんどワンオペで切り盛りしてたのよ」と丁寧に教えてくれて、わたしは相槌を打つ。
「私が仕事辞めて、やっと手伝えるってなったときにこれだもんな……。まいったまいった」
腰に手をつきながら深いため息を吐くさよちゃんは、つぎは隣の油の温度を確認するとコロッケを揚げはじめた。
そういえば信楽くん、珍しく黙っているな……。
どうしたのかと視線を向けたなら、文句言ってたくせにその口には何個目かのメンチカツが咥えられているもので、思わず笑みがこぼれる。信楽君は丸椅子に腰掛けて手も使わず器用に食べ進めながら、リュックのなかから赤い糸を引っ張ってセーターを編むそのゆひざきはいつもより急いでいるように見えた。
ひとの車の匂いは新鮮な感覚で、外が暗くなっても制服姿でいることがいままでなかったから、なんだかそわそわと落ち着かないまま家のまえで止めてもらった車から降りた。
「送ってもらって、ありがとうございました」
「いえいえー。あ、ご家族にご挨拶したほうがいい? 学校帰り急に誘っちゃったし、心配させちゃってるかも」
運転席の窓を開けたさよちゃんがそう言いながらシートベルトを外そうかとしているのを見て、わたしは咄嗟に首を横に振る。
「いえ! 事前にお母さんに電話してもらいましたし、大丈夫です。お土産も本当にありがとうございます」
「文原さん本当にしっかりしてる。ね、碧?」
車の揺れもなんのその。相変わらずその手を動かし続けていた信楽君は、助手席に座ったまま「どうせぼくは、文原さんの半分もしっかりしてないよーだ」なんて口を尖らせていた。
「もう、そういうこと言ったわけじゃないでしょう。やあね、あんたらしくもない。文原さんなんか今日はいろいろとごめんね。またね、お店開けたら遊びに来てね」
「はい……」
忙しなく編み続けている信楽君とは、最後まで目は合わないままだった。走り去ってゆく車を見つめて、まだほんのり温かいメンチカツとコロッケが入った袋を抱えなおす。
信楽君は嫌だったのかもしれない。わたしが彼のパーソナルスペースに入ってしまったこと。彼の気持ちも考えないで、お友達という言葉に浮かれすぎてしまったんだ。
曲がって見えなくなった車の光の残像を見つめて、ため息が落ちた――。
「おはよー、文原さん。今日いつもより遅かったね」
信楽君に嫌われてしまったんじゃないか。そんな負の感情が延々ループした夜が明けて、学校に来ることをこんなにも躊躇してしまったのはいつぶりだったか。
それでも頑張ることをいまやめてしまえば、わたしはもう頑張ることができなくなっちゃう気がして重たい足を引きずってなんとか教室に入ったなら、昨日の信楽君はどこへやら。けろりと笑顔を見せる信楽君は、こちらが拍子抜けしてしまうほどいつも通りだった。
「文原先輩、おはようございます!」
「お、おはよう鈴木さん」
「今日ね、小鳥遊君、熱でおやすみなんだってー。文原さんも来んかったら、ぼくらふたりだけになっちゃうとこだった。鈴木さんよかったねえ、ずっとドアのほう気にしてたもんねえ」
「そんなことは、けっして、ないです……」
鈴木さんは咄嗟に否定したもののだんだんと言葉の勢いは弱まって、最終的に口をぎゅっと閉ざして眼鏡を上げたなら、その目を泳がす姿にわたしは笑みが浮かぶ。
信楽君は相変わらず赤い毛糸を編み込んでいるけれど、昨日とは打って変わって鼻歌まじりにリズムよく、棒針を重ね合わせている。それを見ながらわたしはいつもの席に座った。
「今日は寺崎《てらざき》先生が来るんだってー。やだなあ、絶対ワークやらされる」
「でも信楽君、そろそろ本気で進めないと、二年のうちに二年の範囲終わらないと思うよ」
「んーでもいまは、そんなんやってる場合じゃないんだよなあ」
信楽君の場合、いまは、というより、常に、な気がするけど。苦笑しながら、わたしはじぶんのワークを取り出して昨日の続きから解いていく。
ふと斜めに視線を向ければ、カーテンの間仕切りがずれたままの主人のいないデスクが映って、無意識にシャーペンを握るゆびに力を込めてしまう
もともと下北先輩は不定期にしか現れず、その場所は空いていることが多かった。けれど覆らない現実が淋しく映って、そんな光景から目を逸らしてまた目の前の問題へと視線を落とした。
頁をめくる音。棒針の重なる音。ふたりがそんないつも通りでいてくれることがいまはありがたくて。小鳥遊君のペンが落ちる音さえここに加わったのなら、どうしても芽生えてしまう不安をそのうち摘みとれる。ただ確信なくそう思い込みながら、わたしはシャーペンを握り込んだ。
「昨日の話なんだけどさ」
「……昨日?」
放課後、積もったばかりでまだ踏み固められていない新雪を、ぎゅっぎゅと踏んでいたときのこと。鼻先を赤く染めた信楽君が白い息をこぼしてそう言うから、ひやりとしてしまう。
「ぼくらって、教室かこの帰り道でしか関わらないって話」
「……ああ、うん」
今日は一段と冷え込んでいるからか、マフラーと同じ毛糸で編んだミトン型の手袋をつけている信楽君は、その手袋でうっすらと髪につもる雪を払いながら言葉を続ける。
信楽君、ミドリって名前だから、私物に緑色のものが多いのかも。そういうところも実に信楽君らしくてほっこりする。
今日は傘を忘れたという信楽君。わたしの折りたたみの小さい傘ではふたりで入っても結局はみ出してしまうから意味ないし、それにさすがに相合傘をする勇気を持てなくて、わたしも傘は鞄にしまったまま忘れたふりをして、しんしんと雪が降るなか歩いていた。
「いままでそれが普通だって思って、なんも考えなかったんだけどさ、なんかもったいないなあって」
「もったいない?」
「だって、夏休みと冬休みは二回、春休みは一回、あとゴールデンウィークとか普通の休みの日とかも、ぼくら遊ばずに過ごしてきちゃったわけじゃん? それってめちゃくちゃもったいないよ」
信楽君の言葉にわたしは肯定も否定も出来ずに、冷たさのあまり動かしにくい頬がさらに固まる気がした。
普段の週末のお休みはもちろん、祝日も連休も、わたしは遊びにどこかへ出掛けたりはほとんどしてこなかった。それは狭い街のなかで同級生に会ってしまうことが怖かったからだ。
もしどこかで会ってしまったなら、〝教室には来れないくせに、遊ぶことは出来るんだ〟なんて思われてしまうのでは、と。 そんなの被害妄想でしかないとわかっていても、見えない視線と聞こえない声に怯えて遊びに行きたいとすらも、いつの間にか考えなくなっていた。
そんなわたしを両親が心配して、知り合いには会わないところまで遠出をしよう、と何度か家から連れ出してくれたことがあった。それでもやっぱりどうしても、ひとの目を気にしてしまうわたしは外に出るということがひどく疲れてしまって、事実、学校に行く以外は引きこもりのまま過ごしてきた。
「いまはちょっと難しいんだけど、たぶん春休みくらいには大丈夫になると思うから。だからさ、遊びに行こうよ。お友達の小鳥遊君と鈴木さんも誘って」
信楽君は浮き足だったようにもうすでに愉しげに言うものだから、氷が溶けるように頬の強張りも解けて、こぼれた笑みにつられて涙腺が刺激されるものでひどく困った。
「うん……行こう、遊びに」
かじかむ手をぎゅっと握り込めば、わずかな熱が生まれた気がして、わたしは頬を持ち上げながら強く頷いた。
「じゃあまた明日ー」
「また明日ね」
いつもの別れ道。いつも通りお互い足を止めることなく軽く手をあげて、別方向の帰路へ進む。
そんな変わることのない日々の繰り返しに、わたしは灯されたばかりの喜びと高揚感を感じながら雪を踏みならし歩んだ。
わたしの国語の教科書にいたずら書きをした人物は、とくべつ仲良くしていたわけでもないふたりの少女だった。
落書きのこと、じぶんたちから名乗り出たらしい。そんなふたりに最初はなんで? と疑問が湧いて、いくら考えても悩んでも、辿り着くのは恐怖に満ちた感情だった。
その答えを聞く選択も出来ずに学校に行けなくなって、家に引きこもるようになったわたしのもとに、当時の担任だった釘間《くぎま》先生は何度も会いに来てくれた。
けれど、会いに来てくれても、わたしは先生に会うことすら心が重くなって部屋からは出られずにいた。インターフォンが鳴るたび、お母さんと先生の話し声が聞こえてくるたび、被った真っ暗な布団のなかで絶望感に呑みこまれて、思い出してしまうのは、白と黒の視線が突き刺さったあの日の光景だった。
好奇心、同情、厄介、困惑――普段見慣れていたはずのクラスメイトのそんな顔に絶句して、いっぺんに突き刺さる視線がこわくてたまらなかった。その瞬間がフラッシュバックされるたびに、この先、ひとの目を見ることは二度と出来ないんじゃないか、と蝕んでいた。
『中学校にはね、サポートクラスって教室があるんだって。保健室登校とは違って、普通の教室に行っている生徒とは会わないように配慮してくれてるみたいなの。どう? 一度だけでも、お母さんと一緒に行ってみない?』
届いてからも一度も袖を通さずに、クローゼットにしまわれていた中学の制服。着ないまま季節がひとつ変わり、それでもいつでも着られるようにと、お母さん夏服のシャツとチェック柄のスカートを洗濯をして、リビングでアイロン掛けしてくれている時のことだった。
お母さんは優しく笑ってそう言っていたけれど、どこか後悔と緊張が伝わってくるようだった。たぶんその理由は、わたし自身が小学校の卒業式が近づいて来ることにただ焦るばかりで、このままじゃだめだと心と身体がばらばらのままなのに、むりやり保健室登校をした日のことがあったせいだ。
学校に来ること自体にゆっくり慣れていけたら、と保健室の隅にカーテンの間仕切りで小さな個人空間を作ってくれた。先生たちが申し訳ないくらいに気遣ってくれても、それでも生徒が来るたびに心臓が跳ね上がって、ばくばくと心臓は速いのに時計の針は一向に進んでくれないような、ここに来ると選択したのはじぶんなのに、とても長く苦痛な時間だった。
帰りたい、いますぐに、どうしようもなく帰りたくてたまらない。そんな思念に押しつぶされながら、やっと帰宅時間が訪れて安堵していたときだった。釘間先生がきっと良かれと思って、わたしと仲良くしてくれていた子を連れて見送りに来てくれたのだ。
数ヶ月ぶりに会ったその子とは、まともに顔を合わせられなかった。そんなわたしの態度に、その子の困惑を滲ませた雰囲気が伝わっていた。それでも優しく話しかけてくれたのだけど、わたしは言葉が喉に張りついて、無意識に力がこもった手には爪が突き刺さって、ひと言すらまともに喋ることは叶わなかった。
嫌われることをした覚えはなかったはずなのに。つぎはだれに嫌われてしまうのか。すでにもう嫌われてしまっているんじゃないか。そんな思考が、脱げない鎧のように重く纏わりついていた。
だれも悪くないのに優しくしてくれただけなのに、心が折れてしまったわたしは、それから小学校の卒業式も中学の入学式も出られずに、お母さんに提案されるまで学校へは行けなかった。
『いま、ここのサポートクラスに通っているのは、三年生の男子ふたりと、女子三人。二年生の女子ふたりと。文原さんと同じ一年の男子ひとり。信楽《しがらき》君っていう子だけど、たしか文原さんとは小学校は別々だったはずだから、初対面ね』
たぶんそこに行ってもまたすぐに心が折れて、わたしは引きこもってしまうんだろうと半ば投げやりのまま、案内された旧校舎に足を踏み入れた。
むし暑い一階の廊下を進み、サポートクラスと張り紙が垂れさがる教室を硝子越しに見つめれば、すこし開いた扉から声が洩れて聞こえていた。
『一年に一度の七夕ゼリーの日。なのに、今日ここにいるのはぼくだけ、なんちゅう贅沢と孤独感。みんなもったいないなー』
大きな扇風機にひとり煽られながらデスクチェアに座り、開けた窓枠に足を乗せて、退屈そうにそんな台詞みたいなひとりごとをぼやく少年がいた。
先生が教室の扉を開けたなら、その少年は振り返ってひとが来たことに嬉しそうな表情を見せると、窓枠を蹴ってデスクチェアを滑らせる。
『信楽君、それやめなさい! 転ぶでしょ!』
『すんませーん。え、その子だれ? 新たなお仲間?』
少年はすたっと立ち上がると、お母さんの横にいるわたしを大きな目で物珍しげに見つめてくる。
その視線から逃れるようにわたしはお母さんのほうを見た。汗をハンカチで拭き取っていたお母さんの口元はかろうじて笑みを保っていたものの、どこか不安げに古めかしい校舎のあちこちに視線が移ろっていて、わたし以上に帰りたそうな雰囲気だった。
『彼女は同じ一年生で、一組の文原さん。今日はここに見学に――』
『――ぼく四組の信楽。文原さん、あと三十分もすれば給食の時間になるし、一緒に食べて行きなよ。今日は七夕ゼリーの日なのにあまりがたくさんあるからさあ』
目のまえでそんな彼がにーっと垂れ目に笑う。その目はぱっちりと大きく、瞳は見入ってしまうほど黒々しい。幼い頃、近所のひとが散歩していて触らせてくれたスピッツを思い出した。
素朴で人懐っこいような、そんな目だったからだろうか。それまでずっと家族以外とは目を合わせられなかったのに、初めて逸らさずにいられた。
同い年にしてはちょっと無邪気すぎる気がするし、初対面なのにやたらぐいぐいと懐に入りこもうとする少年にとにかく戸惑っていたのだけれど。きっとわたしはその時から、お母さんの目に映っている真実よりも、その教室が明るく見えてしまっていたのだと思う。その日初めて袖を通した硬い制服の着心地の悪さも、少年の愉しげな声を聞くたびいつの間にか忘れていた。
○
「文原さんは、井原《いばら》さんの言ってたこと理解できた?」
教室の掃除を終えて手を洗い、寒さで真っ赤に染まった手をストーブに寄せて暖を取っていた信楽君が、その向かい側で同じ行動をするわたしに、首を傾げて視線を合わせながら訊ねてくる。
「……難しかったけど、言いたいことはなんとなく」
ガラガラと教室の扉が開いて閉じて、とたたっとストーブに駆け寄ってきた鈴木《すずき》さんはしゃがみ込み、わたしたちと同じ行動をする。
「鈴木さんは? 井原さんの言ってたことわかった?」
「すこしだけなら……」
鈴木さんの後ろにいた小鳥遊君は、手を制服のポケットに入れたままじぶんの島に戻ろうとしていた。でもそんな彼を信楽君がストーブの横へと引っ張りこみながら、「小鳥遊《たかなし》君は?」と同様に訊ねる。
「……なんと、なく、は」
おずおずとしつつも、ポケットから霜焼けた手を出してストーブに寄せる小鳥遊君。三人の答えを聞き終えた信楽君は、「そっかぁ」ひとことこぼして、ぎゅっと口を尖らせた。
「ぼくはわかんなかった、ほとんど」
ゆっくりとまばたきをくり返す信楽君は、「みんなが、なんとなく理解できんのに、なんでこんなにわかれないんだろって、じぶんに腹が立つ。ぼくが質問したから井原さんは答えてくれたのに」いつになく悔しそうで、いつになく真剣に吐露する。
小さな炎のはぜる音が聞こえるほど、静まり返る教室。
一昨年の夏に出会ってから信楽君は、いつなんどきでも信楽君だった。明るさ、自由奔放さ、優しさで構成されていた彼が今日は――というかここ最近、どこか気落ちしているように見えてしかたない。
大人しくはないけれど、大人しい。
そんなわけのわからないことを思ってしまうわたしは、得体の知れない不安がじりじりと導火線を辿って近づいてくるように感じていた。
「たった週に一、二度来るだけのひとの言葉なんて、そんな熟考《じゅっこう》しても意味ないよ」
オレンジ色の学校ジャージの上に黒いダウンジャケットを着た下北《しもきた》先輩が、間仕切りの奥から気怠げに現れて、そんな言葉を放つ。
「熟考?」
「よく考えること」
下北先輩は下ろしていた長い黒髪を後ろでひとまとめにすると、姿を見せる両耳には、きっと初見ではぎょっとしてしまう数や大きさのピアスが飾られている。喋るたびに舌の上で光るのもピアスだろうか。前回来たときにはなかった気がするけど。なんともアグレッシブな先輩だ。
「まあだからって、毎日顔合わせる教師の言葉も胡散臭いけどね」
「下北先輩は毎日顔合わせてないじゃん」
「あっははは。そうだけど、逆にきみらは、あんなんたちとよく合わせようなんて思えるよ。感心感心」
あざけるような。本当に感心しているような。知り合って二年くらい経つけれど、いつだってその本音がわからない下北先輩は、わたしたちの側に来ると普段信楽君が座っているデスクチェアに座り、それを滑らせてわたしと鈴木さんの間に収まる。
「先生たちはまあ……まあねって思っちゃうひともいるけどさあ。井原さんは良いひとだよ。あのひとは、なんか他の大人とは違う感じがする」そう言った信楽君は手を頬に寄せて、膝の上で頬杖をつく。
「ここの教師がひどすぎてそう見えてんのよ。だってそれにあのひと、よく文原ちゃんの名前間違えてるじゃん? 結局、あたしらのことなんてその程度の認識なんだって」
確かに井原さんはわたしの名前をときどき『フミバラさん』と間違える。そのたびに信楽君が『フミハラさんだよ』とつっこんでくれて。井原さんはまたやってしまった、と苦笑を浮かべて謝るのだ。
そのことについてはわざとじゃないってわかっているから、わたしは特段気にせず、フミバラさん呼びでも普通に返事をしてしまうようになっていた。
「わたしはそんなに気にしては……」
「いや、名前のことは気にするべきだよ、文原さん」
穏便にこの話題を流そうとしたのに、なぜか信楽君が期待を裏切ってくるからわたしは首をひねる。
「そうそう。だからあたしは純粋無垢なかわいいきみらが、大人に騙されないこと願ってるよ」
下北先輩は両手を伸ばして、わたしと鈴木さんの髪をひと束摘むとくるくるとまわながらなぜかそんなことを言うから、「そんなお別れみたいなこと言わないでください」と彼女を見つめて口にすれば。
「お別れなんだ。あたし、ここ来るの今日で最後のつもりだから」――にっこりと平然と、下北先輩は突如そう告げた。
「え?」
「なんでっ?」
「えっ……」
「……っ?」
一節間を置いて、わたしたちの戸惑った声が重なる。もう一月も半ばに差し掛かる頃だけど、三年生が卒業するまではまだすこし時間はあるのに。
「あたし、春になるまえにはこの街出て行くの。その準備があるからもう学校には来る気ない。で、今日はため込んでた荷物取りに来たんだけどね。最後の最後まであんな偽善に満ちた言葉聞こえてくるから、笑いこらえるの必死だったわ」
信楽君はその下北先輩の言葉にとたんにむすっとして、なにを言うのかと思えば「偽善ってなに?」と問うから、肩透かしを食らった気分になる。
「うわべを繕って、いかにもじぶんを良いひとぶるひとのこと」
重そうなピアスを揺らしながら、やさしく答える下北先輩。
「……今日がほんとに下北先輩と会えるの最後なら、ぼくは先輩のこと悪く思いたくないし、先輩にも井原さんのことそんな風に思っててほしくない」
「大人を信用できないあたしが、信楽の慕ってるひとを悪く言えば、不満に思っちゃうのは普通でしょ。それが正解。それでも、信楽に嫌われてもね、あたしはじぶんを曲げる気ないから。ごめんね」
下北先輩が立ち上がると、座っていたデスクチェアのキャスターが音を立ててゆっくりと後ろに下がって止まる。
先輩は、口を真一文字に強く合わせている信楽君のところに歩むと、わしゃわしゃとその頭を雑に撫でてただ微笑んだ。
「この大っ嫌いな場所も、きみらといるときだけは愉しかったよ。バイバイ、元気でね」
信楽君の横でうつむいて眉間に力を込めている小鳥遊君の髪も同様にぼさぼさにさせてから、下北はじぶんの島に戻って大きな鞄を肩にかけるとわたしたちにもう一度、「バイバイ」と笑って告げて教室を出て行ってしまった。
「――ごめん。ぼくが余計なこと言ったから、下北先輩とちゃんとお別れできなくしちゃった」
リュックの垂れた紐部分を掴み、とぼとぼと歩く信楽君。そんな彼を明るく励ましたい気持ちもあるけれど、不甲斐なくわたしも同様に気分を沈ませたままとぼとぼと隣を歩く。
「信楽君のせいじゃないよ。下北先輩、いつも急に現れて急に消えちゃうひとだもん……。わたしたちが引きとめて湿っぽくなってたら、たぶん先輩嫌だったと思うし」
側からはとんでもなく暗い中学生がふたり、危なげに歩いているように見えていると思う。
らしくない。らしくないよ信楽君。去年、三年生だった先輩たちを見送ったときでさえ、いつもの調子で明るく笑っていたのに。いつもの陽気はどこにしまってしまったの。
「――碧《みどり》? ああ、やっぱり碧だ、おーい!」
そんな声が耳に届いたと思えば、信楽君は足を止める。持ち上げた視線をきょろきょろとさせて歩道の反対側へと顔を向けたなら、路肩にあるドラッグストアの駐車場にいた女性を見つけて、「あ、さよちゃん」と手を上げて返事をした。
さよちゃん――耳にしたことのある名前だったから記憶をめくれば、信楽君の『ばあちゃん』のつぎくらいに登場していたひとの名前だと思い出す。
「なーに碧、女の子と帰っちゃってー! あんたやるわね」
信楽君にさよちゃんと呼ばれたその女性は、車が通ってない道路を小走りで横切り彼の側に来ると、ばしばしとその背中を叩いて微笑む。
「そーゆーからかいは時代遅れだよ、さよちゃん」
「あはは。いやねえ、そんな一丁前なこと言っちゃって。こんにちは、碧のお友達?」
「こ、こんにちは」
快活に笑うそのひとの首元には、見覚えのあるベージュ色のスヌードが巻かれているのに気づく。わたしはそのすぐ隣にいるそれを作ったひとと交互見つめたなら、下る一方だった気持ちがふわりと上昇するようにほっこりとした気持ちへと軽くなってゆく。
「お友達ってなんだろーね。ぼくら遊びにいったりもしないし、喋るのはこの帰り道か、教室くらいだし」
『お友達?』と訊かれて、返答に困っていたわたし。それに信楽君が気づいてくれたのかは微妙なところだけれど、彼は胸のまえで腕を組んで首を傾げてこっちを見るから、わたしも「なんだろうね」と苦笑を洩らして同調する。
「いやねえ、いまどきの子ってみんなこんななの? 友達なんてそんな難しく考えるもんじゃないでしょうよ。少なくとも一緒に帰ることが普通なんだったら、もうそれは友達よ」
そう言って、やれやれとそんな言葉が聞こえてきそうな感じで首を横に振っていた。
逆にほうほうと小さく頷く信楽君は、「らしいよ、文原さん」とピースして笑うから、わたしも口元が緩む。
それにしても、いまになってはじめて知った信楽君の〝ミドリ〟という名前。そもそも彼のフルネームを知らなかったじぶん自身になにより驚いていた。
ああ、そっか。まともな自己紹介もあの場では不必要だったからか。小学生のように名札をぶら下げているわけでもなくて、きっと普通の教室で飾るような自己紹介カードも、夏休みに出るような宿題の作文や絵や習字なんかも、旧校舎の教室には飾られない。
そんな教室で過ごすわたしたちに『いまどきの子』を当てはめていいのかわからないけれど、あの場で過ごすだけの不鮮明な関係性にはじめて名前がついたようで、こそばゆくも嬉しさが滲む。
「あなたが文原さんなのね」
「は、はい」
「そう、お友達の文原さん。で、文原さん、このさよちゃんは、ぼくのばあちゃんの……どちらさんだっけ?」
ボケか本気かわからない信楽君の言葉に、彼女は気が抜けてしまったように肩を落としつつ「碧の、おばあちゃんの、弟の、娘」と信楽君を差した指をじぶん自身に移しながら、代わりに自己紹介をしてくれる。
「まあ、この子の親戚のおばさんよ。気軽にさよちゃんって呼んでね。あ、そうそう、私いまからおばちゃんの店に行くんだけど、碧とよかったら文原さんも一緒に――」
「――え、お店開けるの?」
目を丸めた信楽君が話をかぶせるから、さよちゃんは呆れた表情を浮かべながら頷いた。
「その準備しにね。仕入れのこととかもあるし、そろそろ止まってられないからねぇ」
その言葉に大きな目を伏せる信楽君は、リュックの紐を掴む手は骨が白く浮き出るほど強く握られていた。
「どうかなー……、見た目はそれなりのはずなんだけど」
「とっても美味しいです」
「あら嬉しい」
熱された油の匂いが充満した銀色のキッチン。
角バットには、じゅわりと油が滲む茶色のメンチカツがつぎつぎに並べられていく。にこにことした男の子のイラストが印刷された紙袋でメンチカツを包みざくりと頬張れば、甘味と旨みが凝縮された熱々の肉汁が口いっぱいに広がった。
「美味しくない」
なのに、ばっさりとそう言ってのける信楽君。それじゃあ、わたしが嘘ついているみたいじゃない。
「美味しいよ」
「これは、違うもん」
普段は見たことのない反抗期をたったいま濃縮してるのか。信楽君はふんっと顔を背けながら、味がわからなくなりそうなくらいソースをかけたメンチカツの残りを口に放り投げて、もぐもぐと不満げに咀嚼する。
「きびしいねえ、碧は。まあレシピ通りに作っても、おばちゃんの味と食感じゃないのはたしかだけどね」
揚げ油に浮かぶ揚げかすと灰汁を網ですくい上げながら、苦笑をこぼすさよちゃん。
「ばあちゃんが治るまで、店開けるの待てばいいのに」
「できることならそうしたいよ。でもそうも言ってられないのが、大人の事情なわけよ」
お肉の匂いが染み込んでいる店内。キッチンの奥にはショーケースと小窓がある売り場ようだった。その奥はシャッターが下ろされている。ショーケースはすべて空っぽ。ひとつの小窓には紙袋と同じイラストと【水田《みずた》のお肉屋さん】という文字がこちらからは鏡文字になって見えていた。
さっきさよちゃんと会った場所から車で三十分ほどの場所にあるここは、信楽君の母方のおばあさんが営む精肉店だ。その信楽君のおばあさんは、転んで腰の骨にひびが入ってしまって先月からずっと入院をしているのだという。
ついさっきそれを聞いたとき、だから信楽君はここ最近様子がおかしかったのか、と腑に落ちた。
編み物をはじめたきっかけがおばあさんだということや、ここの精肉店のことも。ことあるごとによくおばあさんの話題を話すくらい、信楽君はおばあちゃんっ子だって知っていたから、こんな状況下ならだれだって気落ちしてしまうに決まっている。
「そもそも、もう結構な歳だからねぇ。本当なら父さんが死んじゃったときに閉めたほうがよかったのにさ。でもまあ、やっぱり失くせないよなぁ……」
キッチンペーパーにとんとんと網を叩きつけて揚げかすを落とすさよちゃんは、「あ、父さんってのは私のね。この店を継いでたんだけど十二年前に亡くなっちゃって。そのとき碧のおばあちゃんが先代からのこのお店潰したくないって、それからほとんどワンオペで切り盛りしてたのよ」と丁寧に教えてくれて、わたしは相槌を打つ。
「私が仕事辞めて、やっと手伝えるってなったときにこれだもんな……。まいったまいった」
腰に手をつきながら深いため息を吐くさよちゃんは、つぎは隣の油の温度を確認するとコロッケを揚げはじめた。
そういえば信楽くん、珍しく黙っているな……。
どうしたのかと視線を向けたなら、文句言ってたくせにその口には何個目かのメンチカツが咥えられているもので、思わず笑みがこぼれる。信楽君は丸椅子に腰掛けて手も使わず器用に食べ進めながら、リュックのなかから赤い糸を引っ張ってセーターを編むそのゆひざきはいつもより急いでいるように見えた。
ひとの車の匂いは新鮮な感覚で、外が暗くなっても制服姿でいることがいままでなかったから、なんだかそわそわと落ち着かないまま家のまえで止めてもらった車から降りた。
「送ってもらって、ありがとうございました」
「いえいえー。あ、ご家族にご挨拶したほうがいい? 学校帰り急に誘っちゃったし、心配させちゃってるかも」
運転席の窓を開けたさよちゃんがそう言いながらシートベルトを外そうかとしているのを見て、わたしは咄嗟に首を横に振る。
「いえ! 事前にお母さんに電話してもらいましたし、大丈夫です。お土産も本当にありがとうございます」
「文原さん本当にしっかりしてる。ね、碧?」
車の揺れもなんのその。相変わらずその手を動かし続けていた信楽君は、助手席に座ったまま「どうせぼくは、文原さんの半分もしっかりしてないよーだ」なんて口を尖らせていた。
「もう、そういうこと言ったわけじゃないでしょう。やあね、あんたらしくもない。文原さんなんか今日はいろいろとごめんね。またね、お店開けたら遊びに来てね」
「はい……」
忙しなく編み続けている信楽君とは、最後まで目は合わないままだった。走り去ってゆく車を見つめて、まだほんのり温かいメンチカツとコロッケが入った袋を抱えなおす。
信楽君は嫌だったのかもしれない。わたしが彼のパーソナルスペースに入ってしまったこと。彼の気持ちも考えないで、お友達という言葉に浮かれすぎてしまったんだ。
曲がって見えなくなった車の光の残像を見つめて、ため息が落ちた――。
「おはよー、文原さん。今日いつもより遅かったね」
信楽君に嫌われてしまったんじゃないか。そんな負の感情が延々ループした夜が明けて、学校に来ることをこんなにも躊躇してしまったのはいつぶりだったか。
それでも頑張ることをいまやめてしまえば、わたしはもう頑張ることができなくなっちゃう気がして重たい足を引きずってなんとか教室に入ったなら、昨日の信楽君はどこへやら。けろりと笑顔を見せる信楽君は、こちらが拍子抜けしてしまうほどいつも通りだった。
「文原先輩、おはようございます!」
「お、おはよう鈴木さん」
「今日ね、小鳥遊君、熱でおやすみなんだってー。文原さんも来んかったら、ぼくらふたりだけになっちゃうとこだった。鈴木さんよかったねえ、ずっとドアのほう気にしてたもんねえ」
「そんなことは、けっして、ないです……」
鈴木さんは咄嗟に否定したもののだんだんと言葉の勢いは弱まって、最終的に口をぎゅっと閉ざして眼鏡を上げたなら、その目を泳がす姿にわたしは笑みが浮かぶ。
信楽君は相変わらず赤い毛糸を編み込んでいるけれど、昨日とは打って変わって鼻歌まじりにリズムよく、棒針を重ね合わせている。それを見ながらわたしはいつもの席に座った。
「今日は寺崎《てらざき》先生が来るんだってー。やだなあ、絶対ワークやらされる」
「でも信楽君、そろそろ本気で進めないと、二年のうちに二年の範囲終わらないと思うよ」
「んーでもいまは、そんなんやってる場合じゃないんだよなあ」
信楽君の場合、いまは、というより、常に、な気がするけど。苦笑しながら、わたしはじぶんのワークを取り出して昨日の続きから解いていく。
ふと斜めに視線を向ければ、カーテンの間仕切りがずれたままの主人のいないデスクが映って、無意識にシャーペンを握るゆびに力を込めてしまう
もともと下北先輩は不定期にしか現れず、その場所は空いていることが多かった。けれど覆らない現実が淋しく映って、そんな光景から目を逸らしてまた目の前の問題へと視線を落とした。
頁をめくる音。棒針の重なる音。ふたりがそんないつも通りでいてくれることがいまはありがたくて。小鳥遊君のペンが落ちる音さえここに加わったのなら、どうしても芽生えてしまう不安をそのうち摘みとれる。ただ確信なくそう思い込みながら、わたしはシャーペンを握り込んだ。
「昨日の話なんだけどさ」
「……昨日?」
放課後、積もったばかりでまだ踏み固められていない新雪を、ぎゅっぎゅと踏んでいたときのこと。鼻先を赤く染めた信楽君が白い息をこぼしてそう言うから、ひやりとしてしまう。
「ぼくらって、教室かこの帰り道でしか関わらないって話」
「……ああ、うん」
今日は一段と冷え込んでいるからか、マフラーと同じ毛糸で編んだミトン型の手袋をつけている信楽君は、その手袋でうっすらと髪につもる雪を払いながら言葉を続ける。
信楽君、ミドリって名前だから、私物に緑色のものが多いのかも。そういうところも実に信楽君らしくてほっこりする。
今日は傘を忘れたという信楽君。わたしの折りたたみの小さい傘ではふたりで入っても結局はみ出してしまうから意味ないし、それにさすがに相合傘をする勇気を持てなくて、わたしも傘は鞄にしまったまま忘れたふりをして、しんしんと雪が降るなか歩いていた。
「いままでそれが普通だって思って、なんも考えなかったんだけどさ、なんかもったいないなあって」
「もったいない?」
「だって、夏休みと冬休みは二回、春休みは一回、あとゴールデンウィークとか普通の休みの日とかも、ぼくら遊ばずに過ごしてきちゃったわけじゃん? それってめちゃくちゃもったいないよ」
信楽君の言葉にわたしは肯定も否定も出来ずに、冷たさのあまり動かしにくい頬がさらに固まる気がした。
普段の週末のお休みはもちろん、祝日も連休も、わたしは遊びにどこかへ出掛けたりはほとんどしてこなかった。それは狭い街のなかで同級生に会ってしまうことが怖かったからだ。
もしどこかで会ってしまったなら、〝教室には来れないくせに、遊ぶことは出来るんだ〟なんて思われてしまうのでは、と。 そんなの被害妄想でしかないとわかっていても、見えない視線と聞こえない声に怯えて遊びに行きたいとすらも、いつの間にか考えなくなっていた。
そんなわたしを両親が心配して、知り合いには会わないところまで遠出をしよう、と何度か家から連れ出してくれたことがあった。それでもやっぱりどうしても、ひとの目を気にしてしまうわたしは外に出るということがひどく疲れてしまって、事実、学校に行く以外は引きこもりのまま過ごしてきた。
「いまはちょっと難しいんだけど、たぶん春休みくらいには大丈夫になると思うから。だからさ、遊びに行こうよ。お友達の小鳥遊君と鈴木さんも誘って」
信楽君は浮き足だったようにもうすでに愉しげに言うものだから、氷が溶けるように頬の強張りも解けて、こぼれた笑みにつられて涙腺が刺激されるものでひどく困った。
「うん……行こう、遊びに」
かじかむ手をぎゅっと握り込めば、わずかな熱が生まれた気がして、わたしは頬を持ち上げながら強く頷いた。
「じゃあまた明日ー」
「また明日ね」
いつもの別れ道。いつも通りお互い足を止めることなく軽く手をあげて、別方向の帰路へ進む。
そんな変わることのない日々の繰り返しに、わたしは灯されたばかりの喜びと高揚感を感じながら雪を踏みならし歩んだ。
