校舎の古木は濃く色褪せて、甘く香ばしいチョコレートのような香りを漂わせる。穴ぼこだらけの靴箱。今日はわたしが一番早いと思ったのに、スニーカーはすでに二足埋まっていた。
どこか負けたという感情と、ほっとするような安堵が心に滞在していたのも束の間。
「あっはははー!」
ひとつの教室から笑い声が突如こだまするものだから、毎度軋む廊下の床音が今回は息を顰めてしまったみたいで、わたしはその場で足を止めた。
「笑ってないでさー、下北《しもきた》先輩も手伝ってよ。こんなん岩嶋《いわじま》先生にでも見っかったら、ぼく出禁食らっちゃう」
どれだけお天気の空だろうと、ここは常に薄暗いもので。中途半端に開いたドアから洩れる明かりと共に、古木を覆い尽くしてしまう香ばしい香りも洩れていた。そこからは多少焦っているような、けれどまあるい口調のマイペースは健在された信楽《しがらき》君の声が聞こえていて、くすりと口元が持ち上がる。
今日は一体なにをやらかしたのだろうか。わたしは止めていた足をふたたび動かして、光が浮かぶ教室へと手を伸ばした。
「おはよう」
「わっ! ……あ、なんだ文原《ふみはら》さんか、びびったあ! よかった、おはよ」
海苔が巻かれた大きなおにぎりを片手にしゃがみ込み、床を雑巾で拭いている信楽君は、ただでさえ大きな目をいつも以上にまるめてわたしを見ると、ほっとしたついでに手にしていたおにぎりを齧っていた。
それを見てまたけらけらと笑う下北先輩。彼女はオレンジ色の学校ジャージを羽織りながら、「文原ちゃん、おはー」とわたしに寄り掛かって挨拶してくれて、「おはようございます」と挨拶を交わす。
教室が香ばしい。まるで夕食時の台所を思い浮かべるような、良く言えば言えば魚が焼かれた美味しそうな匂い。悪く言えば燻された魚臭さが、教室後方に置かれたストーブを中心に広がっていた。
「文原さんも証拠隠滅手伝って」
「これは、なにしたの?」
白っぽい細かいものが床や、近くに置かれているデスクチェアなどにも散らばっている。
「ししゃもストーブで焼いて、破裂させちゃったんだって」
また頬張ったおにぎりのせいで喋れない信楽君に代わって、下北先輩がそう説明してくれた。先輩は自身の長い髪を手に取ってくんくんと嗅げば髪や服に匂いが染み込んでいるようで、敵わないというように顔をしかめて窓辺へと向かう。
「はぁ……おかずが」
「信楽君、この間も勝手に焼きおにぎりして怒られてたのに、さすがにこれは……」
「冷めたししゃもと、こんがり焼けたししゃも、文原さんならどっち食べたい?」
「そりゃあ、焼けたのがいいけども」
おにぎりを食べるのか、証拠隠滅を謀るのかは、いまは後者に推進したほうがいいと思うけれど。わたしは苦笑をこぼしながら、下北先輩の後を追って窓を開けるのを手伝うことにした。
外は冷えびえとしているけれど、こもった匂いを追い出すためには窓をすべて開け放って換気するしかない。立て付けが悪くなっている窓を奮闘して開けたなら、びゅうっと吹き込む風に肩がすくむ。目がしばしばとなりながら隣へと視線を向けると、下北先輩が外に視線を向けたままなにかをじっと見つめていることに気づいて、その視線を追った。
窓の外は裏庭になっている。木々が乱雑に広がっていて、その奥には敷地を囲むフェンスが垣間見える。そのまた奥には山が連なった景色が映っていた。
下北先輩の視線は近くのひとつの木へ向けられているようだった。その木の枝には三角屋根の鳥の巣箱が設置されていて、それを見つめて表情を強張らせていた下北先輩は、わたしの視線に気づくと静かに視線を合わせて苦々しくも柔らかく微笑んだ。
「何人かの足音が聞こえるね。これは先輩たちか、先生か、さてどっちか」
残りのおにぎりをすべて口に放り込む。〝もう叱られる準備はばっちりだ〟とでもいうように、あっけらかんとした信楽君。そんな彼を見て下北先輩は、高らかにどこまでも愉しげに笑っていた。
【一番古い、始まりの記憶を文章にしてみましょう】
お風呂上がり、宿題を忘れていたことに気がついて、もらったプリントを鞄から取り出せばそんな宿題の内容が記載されていた。
「一番古い、始まり」ぼそりと音読してみると、間違ってはいないはずなのに、おかしな気がして小さく笑う。
一番古い記憶が人生の始まりなのだろうか。だとしたらわたしが二歳の頃、ベビーカーから転げ落ちる瞬間、母の肝を冷やした顔を見たのが一番古い記憶だ。痛みは覚えていないけれど、母の表情や世界がひっくり返るような視界が脳裏に焼き付いて覚えている。
椅子を引き出して座り、芯の出していないシャーペンの先をこつんこつんと紙の上で弾ませる。かちかちとノックすれば芯が顔を見せ、いましがた思い出したことを文字に変換してみると、黒く言葉になっていく文章に首を傾げてしまう。たしかにこの記憶もいまのわたしに繋がっているものに違いない。けれど、そんな一番古い記憶よりも、たぶん、いや――それは不祥だけれど、やたらとしっくりきてしまうひとつの鮮明で強烈な記憶が「始まりだ」と確証してしまう。
○
下唇を噛み締めたなら、ぶちっと皮が千切れて、口のなかに生暖かい鉄の味が広がった。冷や汗なのか脂汗なのか。おでこや鼻頭、手のひらに厭な汗が滲んで気持ち悪い。
目元はじりじりと痛み、熱がこもっていた。感動しているわけじゃない。悲しくて、怖くて、悔しくて、どうしようもなかった。
目のまえでは担任の釘間《くぎま》先生が、わたしが持っているものを唖然と見つめ、しばらく言葉を失くした様子で薄く口を開けていた。
「……だれですか、こんなことしたのは」
どれくらいの時間だっただろう。ひどく長く思えたけれど、実際は一分も経ってなかったかもしれない。釘間先生は教室の入り口前方から、声色はあくまで落ちつけたまま、けれど叱責に近い声量で教室内を見渡しながら言葉を放った。
震えるな震えるな、そう呪文のように心のなかで繰り返しても、手元は小刻みに震えてしまう。
先生はそのわたしの手から国語の教科書を受け取り、それを持ち上げ翳すと、もう一度「だれですかっ? 名乗りなさいっ」生徒を見回した。
柔らかい色合いの表紙には、黒いマジックで『バーカ!』『ぶりっこ』『消えろ』そう殴り書かれている。
まるでドラマや漫画で出てくるような昔からある典型的ないじめが具体化されたもの。でもじぶんには無根拠に無縁だと思っていたもの。
たった数十秒前まで騒がしかった空間が冷水を浴びせられたように静まり返った。その瞬間、じぶんがやらかしてしまったことに気づいて、わたしはお腹の前で両手を合わせて握り込んだ。
先生が教室に入ってきた姿を見て、咄嗟に足を動かしてしまったじぶんを恨んだ。みんながいる教室で、たったいまいじめを受けたことを自ら広めてしまうなんて、愚かなことだった。間違えた。恥ずかしい。どうしよう。目まぐるしい感情に、だらだらと汗が噴き出してくる。
教科書の悪戯書きに気付いたのは、ついさっき休み時間から戻ってきた時だった。違うクラスの子と廊下で喋っていて、じぶんの席に座ろうとした時、机に出しておいた教科書のその悪戯書きがどうどうとわたしを見つめていた。
マジックで書かれているのだから消えるわけないのに、咄嗟に手で擦ってしまえば、すこしだけ掠れるその文字。黒く汚れたゆびさきは、書かれて間もないという事実だけを突きつけてきた。
途端に熱くなった顔や首は虫が這うように痒くなった。
視線を持ち上げて周りを見ても、それぞれが自由にじぶんやだれかとの時間を愉しんでいて、だれもわたしのことなんて見ていなかった。いま味方がいないのはわかるのに。じゃあいったいだれが敵なのかもわらからなかった。
「……こんな悪意をぶつけることが、六年生にもなって、どんなに最低なことか、なぜわからないんですか! そんなひとがこのクラスにいるのなんて、先生は信じたくもないです。これを書いたひとは、名乗らないでいれば見つかりっこないって思い込んでいるんでしょうけど、それは大きな間違いですよ。あなたの最低な行為を悪意に満ちた顔を、だれかは必ず気づいて見ていますからね、見られているんですからね」
目を赤くさせた先生が放ったその言葉は、唯一の味方に思えた。先生だけは敵じゃないのだ、と信じなければ心がばらばらに崩れてしまいそうだった。
じわじわと涙が迫ってくる。でもどうしても涙を流すのはいやだった。ぐっとこらえた。この教室のどこかでわたしが泣いて喜ぶひとがいると思うと悔しくて、泣いてやるものかと、爪は肌に食い込む。絶対泣かない。泣かない、泣いてなんかない。それを証明するために振り向いたとき、その瞬間、わたしはすぐにでもこの場から消えてしまいたくなった――。
○
「――ねえねえ、今日の空が白っぽく見えるのは気のせいだろうか。雲なんてないのに青が薄い」
「それ、なんでだっけな。たしか大気中の水蒸気量がなんたらかんたらって、教科書に書いてあった気がする」
「ははっ、なんたらかんたかか、そっかあ。なんか空が清々しくないと気分すっきりしないなあ。炭酸飲みたくなってくる」
信楽君はそう言いながら背もたれを弾ませて、ぎーこぎーことデスクチェアをきしませる。
「まえまえまえまえ、うら。にーしーろーはー……あーらら、やっぱ合わない? んー、なんか今日は手が動かしにくいなあ。ゆび温まらん」
教室の後方に置かれたストーブの上、熱されたタライがぶくぶくと熱湯を踊らせる。
控えめに本をめくる音。ペン回しに失敗してそれが床を転がる音。そのたび椅子が床を擦れる音。かちかちと棒針がぶつかる音。ノートを歩むシャーペンの音。
穏やかであり、もの淋しくもある。そんな冷たい教室で、駄弁《だべ》る少年の声が今日もまた延々と聞こえていた。
しばらくすると、タライからじゅわーっと沸騰の終わりを告げる音が鳴る。わたしはシャーペンを置いて席から立ち上がり、バケツにいれていた水を足してゆく。するとぶわりと浮かぶ湯気に目を薄めながら顔を背ける。このぬくさが寒さに打ち勝って、教室中に居座ってくれたらどれくらい嬉しいものか。
「んー、やっぱ合わないなあ」
香ばしい古木の匂いがこもる古めかしい教室には、普通の教室とは違って個人の机はひとつしか置かれていない。唯一のそのひとつは後方の窓際にくっつけられていて、だぼっとした制服を着た一年生の小鳥遊《たかなし》君が、こちらに背中を向けて座っている。あの席は彼の島だ。
ほかに個別の机がない代わりに、中心には大きな長方形の折りたたみテーブルがふたつ並び、それを囲む椅子は、生徒用の木製のやパイプ椅子、デスクチェアまでもがちぐはぐに点在している。
「今日の給食炊き込みご飯なんだよねえ。ぼく、白ごはん以外食べれんから困る」
前方の窓際には、保健室にあるようなカーテンのついた間仕切りで遮られたスペースがあって、その奥には教師用のデスクが置かれているのだけれど、今日は誰も使っていない。そこはときどきふらりと現れる下北先輩の島。
「わあ、ルリビタキだ。めっずらしー」
中央のテーブルでは、眼鏡をかけた一年生の鈴木《すずき》さんが黙々と読書中。そんな彼女は廊下側に背を向けて座っていて、わたしはその真向かいで窓側に背を向け座っている。
「青で思い出したんだけどさあ。やたら青が使われる言葉って多いのって、昔は白と黒と赤と青しか、色を分ける言葉なかったからなんだって。だからどう見ても緑色のものを、いまも青って言ったりするらしいんだな、これが」
「へえ。葉っぱのこととか青々しいっていうもんね。あ、青信号とかもか」
「青信号は、青じゃん」
「え、あれは緑でしょ」
わたしから見て右側、一メートルほど離れたところに座ってさっきから飽きることなく駄弁り続けているのは、同じ二年生の信楽君だ。そんな彼は鳥小屋へ向けていた視線をこちらへ移し、デスクチェアを回転させると同時に棒針の先も向けて「絶対、青」と豪語する。
いや緑でしょ。とは思いつつも、信楽君と言い合いしてもくたびれるだけだから、「だね」と適当に認めてしまうのが一番だったりする。
教室と廊下を仕切る格子の入った硝子は、どこの窓も開けていない屋内にも関わらず、ときどきがたがたと隙間風で揺れる。その奥に浮かぶ教室のプレートには、【サポートクラス】と書かれた紙がぶら下がっていて、やっぱりそれもときどき揺れていた。
そんな隙間風が入り放題のおんぼろなこの建物は、旧校舎と呼ばれている中学校の校舎だ。
小高い丘にある学校敷地内の南側には四階建ての本校舎が鎮座していて、その後ろ姿を見つめるように、取り壊されそこなったこの二階建ての旧校舎が北側に腰を下ろしている。
縦も横も本校舎は倍近くあるものだから、ここは常に日陰だ。電気をつけなければ日中も薄暗い上に、夏は茹だり、冬は凍える。廊下はところどころ電気がつかないし、お手洗いはすべて和式なもので、ホラー映画さながらの雰囲気を醸し出している。
本校舎は特別新しいわけではないけれど、時代に合わせてアップグレードされて綺麗に保たれていると聞く。トイレが洋式なのはもちろん、教室にはすべてエアコンが導入されているらしいから、きっと向こうと比べたらこっちは時代錯誤もいいところ。
それでもわたしにとってここは、毎日制服を着て自尊心を保てる最後の砦だった。
「あーやだやだ、やっぱ失敗。やり直しじゃ。一時間ぶん無駄にした」
信楽君は下唇をむっとつきだして息を吹くから、まぶたの上で綺麗に整列していた前髪があおられて微かに跳ねる。
連なる毛糸から編み棒をしゅっと引き抜いて、真っ赤な毛糸を引っ張ると、編んで形になってきていたものを短くさせてゆく。
わたしには綺麗にできていたようにしか見えなかったから、あーあ、とすこしもったいなく思って見つめていたのだけれど、不意にはっとなる。
引き抜かてちぢれ麺のようになった毛糸は、ぱっぱっと適当に机の上にはらわれて重なる。わたしはそれ以上乱雑に積まれるまえに、「ストップ!」と手を突き出した。
「信楽君、それある程度のとこで毛糸巻いておかないと、また絡んじゃうよ」
以前も似たような行動をして毛糸がこんがらがり、いつもの倍喋るほど愚痴が止まらなかったのだ。
わたしと鈴木さんもほどくのを手伝ったけれど、どうにもお手上げで結構な長さを切るはめになっていた。信楽君も思い出したらしく、薄めていた目をはっと丸める。
「あ、そうだった、あぶねかった。ありがと文原さん」
「信楽君、毛糸には妥協しないんだから、もっと大切にするべきだと思うな」
以前なにげなしにひと玉の値段を訊いたところ、思わず身震いしたわたしからすれば、一センチたりともむだになってほしくないと毛糸に親心のような想いが浮かぶのだ。
「ふはは。うん、気ぃつける」
「それセーター? いつものより手混んでそうだね」
「そーなの。今回は大作の予定」
信楽君は毛糸を引き抜いては巻くを繰り返しながら、こっくりと頷く。
かれこれ一年程まえ。ああ確か、ししゃも破裂事件のすぐあとあたりだった。それまで退屈で暇を持て余して、現在よりももっと駄弁っていた彼が突如編み物を始めたのだ。最初こそたどたどしく、かぎ針編みで巾着など小物を編んでいたのだけれど、もともと手先の器用な彼はみるみるうちに上達して、いまや棒編みもなんのその。次第にややこしそうな道具も併用するようになって、凝った模様のマフラーやセーターなどの大物を、つぎつぎと完成させるまでになっていた。
わたしが『これは売れるね』といえば、『売ってるよ、ばあちゃんたちに』とにんまりと笑う彼。その趣味はとてもいいお小遣い稼ぎになるらしい。
――廊下からがらがらと車輪の回る音が近づいてくる。
「給食持ってきたぞー」
教室の前方の扉が開かれ、配膳台を引いて入って来たのは信楽君の担任の先生だった。
「寺崎《てらざき》先生、ありがとー」
「ありがとうございます」
すでに食器によそられていて、ラップに覆われた三つの給食が配膳台の上下に乗っている。わたしたちは先生にお礼を言いながら、それをテーブルに運ぶ。
今日の給食の献立は、タルタルソースがかかった白身フライに、いんげんの胡麻和え、卵とじスープに、信楽君が渋い顔をして見ている炊き込みご飯だ。
「じゃあ、食べ終わったらいつものとこ片しといてな」
「はい」
いつものとこ、とはこの旧校舎の昇降口のこと。
わたしたちは基本、本校舎には入らないから、給食の時間になるとこうして日替わりで、だれかの担任の先生が給食を運んで来てくれていた。
続いて小鳥遊君も給食を受け取ると、とてもか細くお礼を言ってからまたじぶんの島へと戻ってゆく。そんな彼に寺崎先生は苦笑をこぼしつつ、教室を出るまえに、「あっ」となにかを思い出したように振り向いた。
「そうだ信楽、渡してた漢字の宿題やったか?」
「あーうん、やったよー」
信楽君は「どこやったっけなあ」と、リュックのなかやロッカー、私物を入れている段ボールを順々に探す。
「あったあった」
テーブルの上、多彩な毛糸があふれたボックスの下から、やっと見つけた紙をひっぱり出して、それをあきれ顔の寺崎先生に手渡す。すこしよれた紙を見つめる先生は、眉を落として自身の額へと手をついた。
「時間掛かってもいいから、もうすこし丁寧な字で書いてくれって。信楽の字、解読するの毎度どれだけ苦労することか」
「あはは。つぎからは頑張るよ、先生も頑張って」
「おまえはいつもそんな調子でさぁ……」
こんな感じのやりとり見るのは何度目だろう。わたしはそんなふたりを眺めながら、椅子と太ももの下に手を挟んで足をぶらぶらとさせて待つ。
のらりくらり返答をする信楽君に、先生はほとほとあきれ果てた様子なのだけど最終的には観念したように笑うものだから、そこは信楽君が持つ愛嬌の賜物だと思う。とっても羨ましい。
「いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
「……ます」
鈴木さんのまえにはあるのは給食ではなく、曲げわっぱのお弁当箱だ。下にはそれを包んでいた小花柄のランチクロスが綺麗に敷かれている。彼女は手を合わせたあとに蓋を開けた。
お弁当の中身は、細く切られた海苔がおしゃれに巻かれた丸いおにぎりに、魚の照り焼きやいんげんの白和え、その隙間を埋めるように綺麗に紫キャベツやブロッコリーが添えられていた。いつ見ても手の込んだ美味しそうなお弁当は、給食の献立とかけ離れないようにしているのが伝わってくる。
鈴木さんは重度の食物アレルギーを持っているらしく、とくに小麦や卵がだめなようで。そのほかにもいろいろと食べられないものが多いから、いつもお母さんが作るお弁当を持参していた。
「ぼく、海苔ごはんは食べれるんだよね。むしろ好物」
「え、あ、えっとじゃあ……信楽先輩、食べますか?」
信楽君は牛乳にさしたストローを咥えながら、じーっと羨ましげにお弁当箱のおにぎりを見つめるものだから、気を遣ったように鈴木さんがそれを差し出そうとする。
「だめだよ、信楽君! 交換はしちゃだめだからね」
「……わかってるし。ぼくのは絶対あげないし」
「それじゃあ鈴木さんのが減っちゃうだけでしょ。鈴木さんは気にしないで食べてね、信楽君は食べられないじゃなくて、食べたくないだけだから」
「はい。ふふっ」
文原さんのけちんぼうのわからずやの鬼。なんて声が聞こえてくるけれど、わたしはそれをいつものごとく受け流して炊き込みご飯を口にした。
「ぼちぼち帰りますかあ」
外からの賑わっていた声が聞こえなくなり、午後の授業を告げるチャイムが鳴り終えてしばらく経った頃。信楽君は毛糸に棒針を刺すと背もたれに体を預けて、ぐいーっと背を伸ばしながらそう提案する。毎度それを合図にわたしたちは帰り支度を始め出す。
朝は一時間目の授業が開始したあとに登校して、帰りは五時間目が終わるまえまでに帰るのがルーティンだ。
今日はほとんど先生は来なかったけれど、ときどき手の空いている先生がこの教室にやって来て、一緒に給食を食べたり勉強を見てくれたりする。
じぶんのクラスや学年でテストがあるときは、わたしたちも同じように個別でテストを受けたりもするし。週に一、二度はスクールカウンセラーも訪れて、いまではあまり立ち入った話はしないけれど、悩みを話す機会を作ってもらえたりする。
けれど前進も後退もしないまま、ただ似た日々を過ごして季節がめぐり、ほかの同級生と同じじゃないのに、同じように学年が上がってゆく。あと三ヶ月後にはわたしと信楽君は三年生になって。その頃には下北先輩はもう卒業していて。鈴木さんと小鳥遊君は二年生になる。
喜ばしくはないけれど、もしかしたら下北先輩がいなくなるところに新入生が新たに入ってくるかもしれない。そうやって変われないまま変わって、時間は進んでいるのに進めないまま大人に近づく。――焦らないわけじゃない。けれども、みんなが出来ている普通と和解する方法が見つけられずにいた。
ストーブがちゃんと消えたかを確認し終えてから電気を消してがたつく教室の扉を閉めて、冷えびえとした廊下を四人でのんびりと進む。
ふと目を向けた窓枠には薄らと雪が積もっている。その奥には本校舎の後ろ姿がいつも通りの影を纏っていた。
「信楽先輩……毛糸が」
小鳥遊君が信楽君のリュックや制服のあちこちに張り付いた短い毛糸に気づくと、それを小声で教えながら取ってあげていた。
信楽君は「小鳥遊君やさおー、ありがと」と笑って受け取って、ころころと手のひらでひとまとめにするとポケットに突っ込んだ。
たまに信楽君は、複雑に絡んでどうしようもなくなった毛糸の玉をはさみで切り離して、新しい部分と結ぶ。毛糸はそのぶん短くなるけれど、でもすっきりと綺麗で。もう使い物にならない残された毛玉はゴミ箱にぽいっと放られる。
無情でもったいなく思えるけれど、それが時間を無駄にしない最善の手段なんだとじぶんでもわかっている。わたしはまた窓のほうへ向けてしまいそうになった視線を、軋む廊下の床板へと落とした。
昇降口から出て薄く積もった雪を踏めば、土と混じった靴跡が模様を残してゆく。
「あららー、よりにもよって沢渡《さわたり》先生しかいないや。今日はとんとついてないなぁ」
ここから数十メートル先、まっすぐ見つめた本校舎の一階に職員室がある。信楽君のぼやき声に目を細めて職員室の窓の奥を見つめれば、広い室内には二年生の学年主任である沢渡先生だけがいる事実に口角は下り坂だ。
「ふたりは先帰ってていいよ」
そんな重たい口元をむりやり持ち上げて、わたしは後ろにいた一年生たちにそう告げた。
「え、でも……」
「まあいいからおかえり。明日ぼくたちのしかばねがあったら拾っておくれ」
にかっと笑う信楽君に、眉をハの字にした鈴木さんはリュックの肩紐を握りしめながら頭を下げた。小鳥遊君もそれに続く。
「ありがとうございます」
「……ます」
先輩たちがわたしたちにしてくれていたように、わたしたちもそんな先輩たちの心意気を見習って、ふたりを見送る。らしくない強がりに、口元はぎゅっとなってしまうけれど、たぶんこれが最善だ。
「さてさて、機嫌良いこと願って、いざいざ」
帰宅時、サポートクラスに教師がいない場合は、窓の外から職員室に報告することが決まりだった。
基本報告する相手は誰でもいいのだけど、大体だれかの担任の先生か事務員さんに報告して帰れることがほとんどだから、今日はほんとうについてない。
信楽君は頬をめいいっぱい膨らませながら窓をノックして、ばっとこちらに向けた厳つい目つきの沢渡先生と視線がかち合うと、ふう……とその頬をしぼませた。
「なんだ? 帰るのか?」
ガラッと窓を開けた沢渡先生は、窓枠に片手をつきながらわたしたちを見下ろす。
「はい、帰ります」
先生はぎろりと旧校舎を見遣ると、「ほかの生徒は?」と問う。
「残ってないです」
「勢ぞろいで報告することでもないかなあ、って」
すると、ぎろりとこちらに視線を戻すから肩がすくむ。
短く重いため息を吐く先生は目線を、わたしと信楽君を交互に泳がせてからまた口を開く。
「勝手なことをするな! こっちは見届ける責任があるんだ!」
「すんません」
「……すみません」
ほかの先生に報告するときは、代表者がひとりで来てもとくになにも言われたことはなかった。それが良いことか悪いことかわからないけれど、とにかくいまは沢渡先生の逆鱗に触れてしまったことだけは確かだ。
「大体おまえたちは、その身勝手な行いを見直そうとは思わないのか? 一向に向上心を見せない甘え体質のままで、これから一体どうする気でいるんだ? 俺が中学生のときなんかは――」
〝大体おまえたちは〟から始まれば、最低でも十分は噴き出した言葉がとまることはないのがセオリーだ。それでもって途中、信楽君も黙っていられずに口を挟むものだから、また延長に延長を重ね、解放されたのは五時間目が終わる直前のことだった。
職員室に戻ってきた事務員さんがきっとみかねて、教頭先生を探して連れてきてくれるまでは無限地獄だったけれど。さすがの沢渡先生も、教頭先生のまえではそれまでの調子も出ない様子で口をつぐんでくれた。それにどっと安堵を滲ませながら、わたしたちは退散するように学校の敷地をあとにする。
「あー、おっかなかった」
そうは言いつつもげらげらと笑う信楽君はリュックを背負わずにフック部分を掴み、それをぶらぶらとゆらして歩いている。
そんな彼にわたしは目を細めて、「そのわりには、結構自由な発言してた気がするんだけど」と首を傾げた。
「文原さんも知ってるでしょー。ぼくただでさえ黙ってられんのに、あんなん言われちゃむりむり。このせいで教室から追い出されちゃったんだし」
へへ、と笑う信楽君はあくまで軽いノリで言ったと思うのだけど。途端に頬が固まってしまうわたしは、路肩にどかされた泥だらけに固まった雪に視線を落としてしまう。
信楽君といえばおしゃべり。五分以上黙っているところを見たことがないくらいにおしゃべり。
基本ひとりごとが多くて、それは「暑い」「寒い」「面倒い」「お腹減った」とか、だれでもぽつりとこぼしてしまう言葉だったりするのだけど。そのタイミングを選ばないのが信楽君である。
ひとりごとに飽きると、だれかを巻き込んでおしゃべりしたり。疑問が浮かんだら、答えに納得するまで黙れないんだ、と一年生のときに教えてくれた。
「それにしてもさあ、いまどきあんなNGワード連発して逆にほれぼれしちゃうよねー。まあ仮にぼくが親に告げ口したところで、ぼくんちはわざわざ学校にクレームいれないし。文原さんはそもそも、言われたことを親に報告するタイプじゃあないってわかってて、選んでて言ってんだろうね。相変わらずの沢渡せんせーは。ほんとずるいなあ、ああいう大人って」
学校から出て五分くらい歩いていると、耳をつんざく踏切の警笛が聞こえてくる。
「うん、ずるい」
遮断機のまえで足を止めてそう呟けば、走り去る轟音が言葉をかき消してゆく。吹きつけてくる暴風は肌を突き刺し冷たくて、コートのポケットに手をいれながら身を縮ませた。
「さむぅ。はやく冬終わんないかなぁ。春が恋しい」
隣に視線を戻せば、深緑色のリュックを抱きしめながら似た色のマフラーに口元を埋める信楽君。そのマフラーはもちろん自作のもの。
「文原さん風邪なんてひかんでね。文原さんが休んだら、ぼくの話し相手いなくなるからさ。後輩たちには、ぼくの面倒は見切れないもんで」
「あはは、わたしだって見切れてないよ」
遮断機が上がってまた歩き出す。
「いやあ、結構あうんの呼吸してると思うよー、ぼくら。自信持って」
「持ちたくないなぁ、その自信は……」
大きな目をぱちぱちとさせる信楽君に、ゆるゆるとわたしは首を横にふる。
踏切をすこし歩けば十字路の交差点があって、そこが帰路の別れ道だった。ちょうど右折方向の信号が青に変わり、信楽君は軽く手を持ち上げたなら、「じゃあまた明日ー」とのん気に足を止めることなく進んでゆく。
わたしも「またね」と返して、信楽君とは反対方向の道へ進んだ。
本をめくる音。ペンが落ちて転がる音。棒針の重なる音。ノートを歩むシャーペンの音。
今日はそれに加えて、一定のリズムでカチカチとスマホ画面に爪があたる音と、うんともすんともいわないCDラジカセをあの手この手で復活させようと健闘する音が聞こえる。そんな旧校舎の一角にあるサポートクラス。
「先週までは使えていたけどなー……、さすがに寿命かな」
「この時代にラジカセ持ち歩くの、井原《いばら》さんくらいじゃない?」
「あはは。いまはパソコンで再生させる時代?」
「んーそもそもの話、いまはほぼCDの再生自体しないかなぁ。スマホのサブスクでだいたい聞けちゃうし」
鼻先にずり落ちた小さな丸眼鏡を人差し指の関節で持ち上げ、白髪が混じる髪をぽりぽりと搔くスクールカウンセラーの井原さんは、「どんどん時代に置いていかれちゃうな」と自嘲する。
「じゃあ今日は、私のしわがれた下手な声で申し訳ないけれど。ああ、じぶんのしたいことを優先させてていいからね。ラジオ感覚で聞き流してくれるだけでも、御の字だから」
井原さんは自身の使い古された革鞄から一冊の本を取り出す。さらりと撫でるように表紙をひらき、小さな咳払いをしてから言葉を紡ぐ。
本をめくっていた音、ペンを落とす音、シャーペンの歩む音は消えて。スマホ画面をタップする音と、毛糸を編み続ける音は続く。
録音であろうと肉声であろうと、本の読み聞かせをされていること自体、中学生のじぶんからしてみたらすこし恥ずかしい気もする。それでも耳を傾けてしまうのは、以前井原さんが語っていた言葉が、心に染み込んでいるからだと思う。
『――絵とも映像とも違う、小説を読んだときだけに浮かぶ空想や疑問を惟る時間は、大人になってからもきっと役立ってくれるはずだよ。別になにも読まなくたっていいんだ。ただ言葉を聞くだけで頭が勝手に物語の上映をはじめるからね。それが想像力ってものさ。それに、同じときを過ごして同じ話を聞いているはずなのに、きみたちの頭のなかでは、まったく別の物語が描《えが》かれている面白さ、それが十人十色のひとつだということを、片隅でもいいから覚えていてほしいんだ』
井原さんは、この時間は特権だと微笑む。わたしたちだけの特別な特権だと。
『きみたちには少々退屈で、お節介かもしれないけれどね。ああ、それに鈴木さんには本当にお節介かな、ごめんね、物語を物語で邪魔をしてしまって』
鈴木はゆるゆると首を横にふって、『わたしはこの時間、いつも愉しみにしてます』と口角を持ち上げるから、その言葉にまぶたをしばしばとさせて、嬉しさを滲ませるように井原さんはラジカセのボタンを押すのだ。
――いま井原さんが読んでいるのは彼の愛読書なのか、たぶん純文学という部類の小説だと思う。普段は児童書の読み聞かせが多いから、わからない単語や理解できない言い回しの多いその小説に、わたしはいちいち思考をとめてしまって、物語から置いていかれそうになる。
「お隣と帽子の廂《ひさし》のせいで真っ暗なんて、ここと同じだ」
編む手を止めないから、一見興味なさそうに見える信楽君だけど。物語についてのひとりごとや疑問を、いつものようにぽつりぽつりとこぼしている。
「あはは。言われてみれば、そうだね」
その都度井原さんは目尻を落としながら、愉しげに返事をしていた。
わたしも質問できたらいいのに、言葉に割り込む勇気が持てない。だから信楽君がそうやって呟いてくれるたび、新雪を踏みならしてくれているような有難さが浮かぶ。わたしはそんなふたりのあとをついていく気分で、頁をめくる井原さんの手元を見つめ耳を澄ましていた。
「――おしまい」
「えー、終わり? 意味わからん」
「この小説は高校で習うお話だから、ちょっと難しかったかな」
本を閉じて微笑を浮かべる井原さん。
口を真一文字にした鈴木さんは、テーブルの模様をじっと見つめていて、考えをめぐらせているように見える。
小鳥遊君は静かにまたペン回しを再開させた。
「まあかく言う私も、もう何十年も物語の正解を思案して、ああなんじゃないか、こうだろうなんて、そのときどきに浮かぶ答えを結びつけようとしてきたけど。結局ひとの描いた物語を解りきるなんて出来やしないからね。対面していても、ひとの考えてることはどれだけ悩んでもわからない、世の中そんなものさ」
その言葉に信楽君ははじめて手を止めて、井原さんに視線を向けた。
「じゃあ、そんなだれも正解がわからないものを、なんで授業にするの? 国語のテストでもさ、よく『どうしてこうなった』とか、『なんでそう思った』とか、解答欄に書かなきゃいけないとき、ぼくの答え大体バツで、よくて三角だけど、正解がないなら採点するのおかしくない?」
「んー……そうだね。それが情操教育の難しいところだと私も思う。たとえば国語のテストで、『この主人公はどうしてこんな行動をした?』なんて問題文が出たときに、解答する側に必要とされるのは、読む力、理解する力。それとそのふたつを踏まえて最後に求められるのは、〝共感する力〟だね」
信楽君は口角を片方だけ歪めて、耳の上をがしがしと掻く。
それはただ意味がわからないというようにも、彼なりにいまは黙って聞こうと我慢してるようにも見えた。
「共感力というのはね、たとえば、目の前で転んで怪我をしてしまったひとを見たとき、〝可哀想〟と思うのはじぶん自身の気持ちで。〝痛いだろうな〟と、そう思えることが相手に共感するということ、これはわかるかな?」
「んー、なんとなく……」
「いまはなんとなくでもいいんだよ。ぼやけているものを少しずつ理解して、鮮明に近づけていくのが勉強するということだからね。第一、相手が感じている痛みの度合いなんてものは、じぶんには絶対わからない。でもそれをなるべく想像して真意を汲み取ろうとすることが、共感力として大切なことだと思う。だから、そういうことがテストに反映されてなければ、どうしても丸はつかないのかも知れないね」
井原さんが椅子に座り直して軋む音が鳴る。その背後のストーブでは火がゆらめき、ふわふわとタライから蒸気が浮かんでは冷たい空気に溶けてゆく。
スマホをタップする音はいつの間にか止んでいて、ペン回しを再開していたはずの小鳥遊君の手も気づけば止まっていた。
「難しいよね」
「井原さんにも?」
「うん。いくつになっても難しいことだと思う」
井原さんは手を擦り合わせて膝の上で硬く握る。言葉を発することに迷いを抱いているように、口を開けてまた閉じて、もう一度あけたなら話の続きを再開させた。
「同じ教室で同じ授業を受けて学んでも、あたりまえに個々で理解度やスピードは変わる。ましてや、正解が定かではない授業はことさらにね。先生自身が、そうやって生徒がみんな横並びで学んでいけるわけじゃないことを念頭から忘れて、生徒の気持ちをなおざりにしてしまうことも、悲しいけれどあってしまう。もちろん一年という限られた時間のなかで、全員の理解度が等しくなるまで待てないのも、致し方ないとわかるのだけど」
信楽君、わたし、鈴木さん、小鳥遊君、カーテンの間仕切りの奥。井原さんのやさしい色の双眸がゆっくりと移される。
「周りが簡単に理解できて、平然とこなせてしまう姿に焦って、漠然と他者との間に溝を持った子供が、不安を抱えたまま大人になって、馴染めない社会に息苦しさを抱えるなんてこと、本来決してあってはならない。だから抱えこんでしまうまえに、子供の焦る心を大人が見つけて、ひとには様々な分野で個人差があるということを教えて一緒に答えを見つけていくことを、決してぞんざいにすべきではないというのに……。許しがたい現状を許してしまう私たち大人は本当、どこまでも情けないと思う」
『私たち』と言いながら、視線を落とす井原さんはいつになく
傷心的だった。
信楽君は棒針に繋がっている毛糸を無意識に引っ張ったのか、テーブルから転げ落ちた赤い毛糸がころころと転がって、わたしの足に当たってとまる。
わたしが拾い上げたなら、信楽君は濃い色をした瞳を向けて受け取って、彼にしてもいつになく小さな声でお礼を言って受け取ったあと、顔を背けてくしゃみをひとつ落とした。
「今日は寒いね」
おとといも昨日も今日も寒い。明日もきっと。冬の間、ここはずっと寒くてしかたない。
どこか負けたという感情と、ほっとするような安堵が心に滞在していたのも束の間。
「あっはははー!」
ひとつの教室から笑い声が突如こだまするものだから、毎度軋む廊下の床音が今回は息を顰めてしまったみたいで、わたしはその場で足を止めた。
「笑ってないでさー、下北《しもきた》先輩も手伝ってよ。こんなん岩嶋《いわじま》先生にでも見っかったら、ぼく出禁食らっちゃう」
どれだけお天気の空だろうと、ここは常に薄暗いもので。中途半端に開いたドアから洩れる明かりと共に、古木を覆い尽くしてしまう香ばしい香りも洩れていた。そこからは多少焦っているような、けれどまあるい口調のマイペースは健在された信楽《しがらき》君の声が聞こえていて、くすりと口元が持ち上がる。
今日は一体なにをやらかしたのだろうか。わたしは止めていた足をふたたび動かして、光が浮かぶ教室へと手を伸ばした。
「おはよう」
「わっ! ……あ、なんだ文原《ふみはら》さんか、びびったあ! よかった、おはよ」
海苔が巻かれた大きなおにぎりを片手にしゃがみ込み、床を雑巾で拭いている信楽君は、ただでさえ大きな目をいつも以上にまるめてわたしを見ると、ほっとしたついでに手にしていたおにぎりを齧っていた。
それを見てまたけらけらと笑う下北先輩。彼女はオレンジ色の学校ジャージを羽織りながら、「文原ちゃん、おはー」とわたしに寄り掛かって挨拶してくれて、「おはようございます」と挨拶を交わす。
教室が香ばしい。まるで夕食時の台所を思い浮かべるような、良く言えば言えば魚が焼かれた美味しそうな匂い。悪く言えば燻された魚臭さが、教室後方に置かれたストーブを中心に広がっていた。
「文原さんも証拠隠滅手伝って」
「これは、なにしたの?」
白っぽい細かいものが床や、近くに置かれているデスクチェアなどにも散らばっている。
「ししゃもストーブで焼いて、破裂させちゃったんだって」
また頬張ったおにぎりのせいで喋れない信楽君に代わって、下北先輩がそう説明してくれた。先輩は自身の長い髪を手に取ってくんくんと嗅げば髪や服に匂いが染み込んでいるようで、敵わないというように顔をしかめて窓辺へと向かう。
「はぁ……おかずが」
「信楽君、この間も勝手に焼きおにぎりして怒られてたのに、さすがにこれは……」
「冷めたししゃもと、こんがり焼けたししゃも、文原さんならどっち食べたい?」
「そりゃあ、焼けたのがいいけども」
おにぎりを食べるのか、証拠隠滅を謀るのかは、いまは後者に推進したほうがいいと思うけれど。わたしは苦笑をこぼしながら、下北先輩の後を追って窓を開けるのを手伝うことにした。
外は冷えびえとしているけれど、こもった匂いを追い出すためには窓をすべて開け放って換気するしかない。立て付けが悪くなっている窓を奮闘して開けたなら、びゅうっと吹き込む風に肩がすくむ。目がしばしばとなりながら隣へと視線を向けると、下北先輩が外に視線を向けたままなにかをじっと見つめていることに気づいて、その視線を追った。
窓の外は裏庭になっている。木々が乱雑に広がっていて、その奥には敷地を囲むフェンスが垣間見える。そのまた奥には山が連なった景色が映っていた。
下北先輩の視線は近くのひとつの木へ向けられているようだった。その木の枝には三角屋根の鳥の巣箱が設置されていて、それを見つめて表情を強張らせていた下北先輩は、わたしの視線に気づくと静かに視線を合わせて苦々しくも柔らかく微笑んだ。
「何人かの足音が聞こえるね。これは先輩たちか、先生か、さてどっちか」
残りのおにぎりをすべて口に放り込む。〝もう叱られる準備はばっちりだ〟とでもいうように、あっけらかんとした信楽君。そんな彼を見て下北先輩は、高らかにどこまでも愉しげに笑っていた。
【一番古い、始まりの記憶を文章にしてみましょう】
お風呂上がり、宿題を忘れていたことに気がついて、もらったプリントを鞄から取り出せばそんな宿題の内容が記載されていた。
「一番古い、始まり」ぼそりと音読してみると、間違ってはいないはずなのに、おかしな気がして小さく笑う。
一番古い記憶が人生の始まりなのだろうか。だとしたらわたしが二歳の頃、ベビーカーから転げ落ちる瞬間、母の肝を冷やした顔を見たのが一番古い記憶だ。痛みは覚えていないけれど、母の表情や世界がひっくり返るような視界が脳裏に焼き付いて覚えている。
椅子を引き出して座り、芯の出していないシャーペンの先をこつんこつんと紙の上で弾ませる。かちかちとノックすれば芯が顔を見せ、いましがた思い出したことを文字に変換してみると、黒く言葉になっていく文章に首を傾げてしまう。たしかにこの記憶もいまのわたしに繋がっているものに違いない。けれど、そんな一番古い記憶よりも、たぶん、いや――それは不祥だけれど、やたらとしっくりきてしまうひとつの鮮明で強烈な記憶が「始まりだ」と確証してしまう。
○
下唇を噛み締めたなら、ぶちっと皮が千切れて、口のなかに生暖かい鉄の味が広がった。冷や汗なのか脂汗なのか。おでこや鼻頭、手のひらに厭な汗が滲んで気持ち悪い。
目元はじりじりと痛み、熱がこもっていた。感動しているわけじゃない。悲しくて、怖くて、悔しくて、どうしようもなかった。
目のまえでは担任の釘間《くぎま》先生が、わたしが持っているものを唖然と見つめ、しばらく言葉を失くした様子で薄く口を開けていた。
「……だれですか、こんなことしたのは」
どれくらいの時間だっただろう。ひどく長く思えたけれど、実際は一分も経ってなかったかもしれない。釘間先生は教室の入り口前方から、声色はあくまで落ちつけたまま、けれど叱責に近い声量で教室内を見渡しながら言葉を放った。
震えるな震えるな、そう呪文のように心のなかで繰り返しても、手元は小刻みに震えてしまう。
先生はそのわたしの手から国語の教科書を受け取り、それを持ち上げ翳すと、もう一度「だれですかっ? 名乗りなさいっ」生徒を見回した。
柔らかい色合いの表紙には、黒いマジックで『バーカ!』『ぶりっこ』『消えろ』そう殴り書かれている。
まるでドラマや漫画で出てくるような昔からある典型的ないじめが具体化されたもの。でもじぶんには無根拠に無縁だと思っていたもの。
たった数十秒前まで騒がしかった空間が冷水を浴びせられたように静まり返った。その瞬間、じぶんがやらかしてしまったことに気づいて、わたしはお腹の前で両手を合わせて握り込んだ。
先生が教室に入ってきた姿を見て、咄嗟に足を動かしてしまったじぶんを恨んだ。みんながいる教室で、たったいまいじめを受けたことを自ら広めてしまうなんて、愚かなことだった。間違えた。恥ずかしい。どうしよう。目まぐるしい感情に、だらだらと汗が噴き出してくる。
教科書の悪戯書きに気付いたのは、ついさっき休み時間から戻ってきた時だった。違うクラスの子と廊下で喋っていて、じぶんの席に座ろうとした時、机に出しておいた教科書のその悪戯書きがどうどうとわたしを見つめていた。
マジックで書かれているのだから消えるわけないのに、咄嗟に手で擦ってしまえば、すこしだけ掠れるその文字。黒く汚れたゆびさきは、書かれて間もないという事実だけを突きつけてきた。
途端に熱くなった顔や首は虫が這うように痒くなった。
視線を持ち上げて周りを見ても、それぞれが自由にじぶんやだれかとの時間を愉しんでいて、だれもわたしのことなんて見ていなかった。いま味方がいないのはわかるのに。じゃあいったいだれが敵なのかもわらからなかった。
「……こんな悪意をぶつけることが、六年生にもなって、どんなに最低なことか、なぜわからないんですか! そんなひとがこのクラスにいるのなんて、先生は信じたくもないです。これを書いたひとは、名乗らないでいれば見つかりっこないって思い込んでいるんでしょうけど、それは大きな間違いですよ。あなたの最低な行為を悪意に満ちた顔を、だれかは必ず気づいて見ていますからね、見られているんですからね」
目を赤くさせた先生が放ったその言葉は、唯一の味方に思えた。先生だけは敵じゃないのだ、と信じなければ心がばらばらに崩れてしまいそうだった。
じわじわと涙が迫ってくる。でもどうしても涙を流すのはいやだった。ぐっとこらえた。この教室のどこかでわたしが泣いて喜ぶひとがいると思うと悔しくて、泣いてやるものかと、爪は肌に食い込む。絶対泣かない。泣かない、泣いてなんかない。それを証明するために振り向いたとき、その瞬間、わたしはすぐにでもこの場から消えてしまいたくなった――。
○
「――ねえねえ、今日の空が白っぽく見えるのは気のせいだろうか。雲なんてないのに青が薄い」
「それ、なんでだっけな。たしか大気中の水蒸気量がなんたらかんたらって、教科書に書いてあった気がする」
「ははっ、なんたらかんたかか、そっかあ。なんか空が清々しくないと気分すっきりしないなあ。炭酸飲みたくなってくる」
信楽君はそう言いながら背もたれを弾ませて、ぎーこぎーことデスクチェアをきしませる。
「まえまえまえまえ、うら。にーしーろーはー……あーらら、やっぱ合わない? んー、なんか今日は手が動かしにくいなあ。ゆび温まらん」
教室の後方に置かれたストーブの上、熱されたタライがぶくぶくと熱湯を踊らせる。
控えめに本をめくる音。ペン回しに失敗してそれが床を転がる音。そのたび椅子が床を擦れる音。かちかちと棒針がぶつかる音。ノートを歩むシャーペンの音。
穏やかであり、もの淋しくもある。そんな冷たい教室で、駄弁《だべ》る少年の声が今日もまた延々と聞こえていた。
しばらくすると、タライからじゅわーっと沸騰の終わりを告げる音が鳴る。わたしはシャーペンを置いて席から立ち上がり、バケツにいれていた水を足してゆく。するとぶわりと浮かぶ湯気に目を薄めながら顔を背ける。このぬくさが寒さに打ち勝って、教室中に居座ってくれたらどれくらい嬉しいものか。
「んー、やっぱ合わないなあ」
香ばしい古木の匂いがこもる古めかしい教室には、普通の教室とは違って個人の机はひとつしか置かれていない。唯一のそのひとつは後方の窓際にくっつけられていて、だぼっとした制服を着た一年生の小鳥遊《たかなし》君が、こちらに背中を向けて座っている。あの席は彼の島だ。
ほかに個別の机がない代わりに、中心には大きな長方形の折りたたみテーブルがふたつ並び、それを囲む椅子は、生徒用の木製のやパイプ椅子、デスクチェアまでもがちぐはぐに点在している。
「今日の給食炊き込みご飯なんだよねえ。ぼく、白ごはん以外食べれんから困る」
前方の窓際には、保健室にあるようなカーテンのついた間仕切りで遮られたスペースがあって、その奥には教師用のデスクが置かれているのだけれど、今日は誰も使っていない。そこはときどきふらりと現れる下北先輩の島。
「わあ、ルリビタキだ。めっずらしー」
中央のテーブルでは、眼鏡をかけた一年生の鈴木《すずき》さんが黙々と読書中。そんな彼女は廊下側に背を向けて座っていて、わたしはその真向かいで窓側に背を向け座っている。
「青で思い出したんだけどさあ。やたら青が使われる言葉って多いのって、昔は白と黒と赤と青しか、色を分ける言葉なかったからなんだって。だからどう見ても緑色のものを、いまも青って言ったりするらしいんだな、これが」
「へえ。葉っぱのこととか青々しいっていうもんね。あ、青信号とかもか」
「青信号は、青じゃん」
「え、あれは緑でしょ」
わたしから見て右側、一メートルほど離れたところに座ってさっきから飽きることなく駄弁り続けているのは、同じ二年生の信楽君だ。そんな彼は鳥小屋へ向けていた視線をこちらへ移し、デスクチェアを回転させると同時に棒針の先も向けて「絶対、青」と豪語する。
いや緑でしょ。とは思いつつも、信楽君と言い合いしてもくたびれるだけだから、「だね」と適当に認めてしまうのが一番だったりする。
教室と廊下を仕切る格子の入った硝子は、どこの窓も開けていない屋内にも関わらず、ときどきがたがたと隙間風で揺れる。その奥に浮かぶ教室のプレートには、【サポートクラス】と書かれた紙がぶら下がっていて、やっぱりそれもときどき揺れていた。
そんな隙間風が入り放題のおんぼろなこの建物は、旧校舎と呼ばれている中学校の校舎だ。
小高い丘にある学校敷地内の南側には四階建ての本校舎が鎮座していて、その後ろ姿を見つめるように、取り壊されそこなったこの二階建ての旧校舎が北側に腰を下ろしている。
縦も横も本校舎は倍近くあるものだから、ここは常に日陰だ。電気をつけなければ日中も薄暗い上に、夏は茹だり、冬は凍える。廊下はところどころ電気がつかないし、お手洗いはすべて和式なもので、ホラー映画さながらの雰囲気を醸し出している。
本校舎は特別新しいわけではないけれど、時代に合わせてアップグレードされて綺麗に保たれていると聞く。トイレが洋式なのはもちろん、教室にはすべてエアコンが導入されているらしいから、きっと向こうと比べたらこっちは時代錯誤もいいところ。
それでもわたしにとってここは、毎日制服を着て自尊心を保てる最後の砦だった。
「あーやだやだ、やっぱ失敗。やり直しじゃ。一時間ぶん無駄にした」
信楽君は下唇をむっとつきだして息を吹くから、まぶたの上で綺麗に整列していた前髪があおられて微かに跳ねる。
連なる毛糸から編み棒をしゅっと引き抜いて、真っ赤な毛糸を引っ張ると、編んで形になってきていたものを短くさせてゆく。
わたしには綺麗にできていたようにしか見えなかったから、あーあ、とすこしもったいなく思って見つめていたのだけれど、不意にはっとなる。
引き抜かてちぢれ麺のようになった毛糸は、ぱっぱっと適当に机の上にはらわれて重なる。わたしはそれ以上乱雑に積まれるまえに、「ストップ!」と手を突き出した。
「信楽君、それある程度のとこで毛糸巻いておかないと、また絡んじゃうよ」
以前も似たような行動をして毛糸がこんがらがり、いつもの倍喋るほど愚痴が止まらなかったのだ。
わたしと鈴木さんもほどくのを手伝ったけれど、どうにもお手上げで結構な長さを切るはめになっていた。信楽君も思い出したらしく、薄めていた目をはっと丸める。
「あ、そうだった、あぶねかった。ありがと文原さん」
「信楽君、毛糸には妥協しないんだから、もっと大切にするべきだと思うな」
以前なにげなしにひと玉の値段を訊いたところ、思わず身震いしたわたしからすれば、一センチたりともむだになってほしくないと毛糸に親心のような想いが浮かぶのだ。
「ふはは。うん、気ぃつける」
「それセーター? いつものより手混んでそうだね」
「そーなの。今回は大作の予定」
信楽君は毛糸を引き抜いては巻くを繰り返しながら、こっくりと頷く。
かれこれ一年程まえ。ああ確か、ししゃも破裂事件のすぐあとあたりだった。それまで退屈で暇を持て余して、現在よりももっと駄弁っていた彼が突如編み物を始めたのだ。最初こそたどたどしく、かぎ針編みで巾着など小物を編んでいたのだけれど、もともと手先の器用な彼はみるみるうちに上達して、いまや棒編みもなんのその。次第にややこしそうな道具も併用するようになって、凝った模様のマフラーやセーターなどの大物を、つぎつぎと完成させるまでになっていた。
わたしが『これは売れるね』といえば、『売ってるよ、ばあちゃんたちに』とにんまりと笑う彼。その趣味はとてもいいお小遣い稼ぎになるらしい。
――廊下からがらがらと車輪の回る音が近づいてくる。
「給食持ってきたぞー」
教室の前方の扉が開かれ、配膳台を引いて入って来たのは信楽君の担任の先生だった。
「寺崎《てらざき》先生、ありがとー」
「ありがとうございます」
すでに食器によそられていて、ラップに覆われた三つの給食が配膳台の上下に乗っている。わたしたちは先生にお礼を言いながら、それをテーブルに運ぶ。
今日の給食の献立は、タルタルソースがかかった白身フライに、いんげんの胡麻和え、卵とじスープに、信楽君が渋い顔をして見ている炊き込みご飯だ。
「じゃあ、食べ終わったらいつものとこ片しといてな」
「はい」
いつものとこ、とはこの旧校舎の昇降口のこと。
わたしたちは基本、本校舎には入らないから、給食の時間になるとこうして日替わりで、だれかの担任の先生が給食を運んで来てくれていた。
続いて小鳥遊君も給食を受け取ると、とてもか細くお礼を言ってからまたじぶんの島へと戻ってゆく。そんな彼に寺崎先生は苦笑をこぼしつつ、教室を出るまえに、「あっ」となにかを思い出したように振り向いた。
「そうだ信楽、渡してた漢字の宿題やったか?」
「あーうん、やったよー」
信楽君は「どこやったっけなあ」と、リュックのなかやロッカー、私物を入れている段ボールを順々に探す。
「あったあった」
テーブルの上、多彩な毛糸があふれたボックスの下から、やっと見つけた紙をひっぱり出して、それをあきれ顔の寺崎先生に手渡す。すこしよれた紙を見つめる先生は、眉を落として自身の額へと手をついた。
「時間掛かってもいいから、もうすこし丁寧な字で書いてくれって。信楽の字、解読するの毎度どれだけ苦労することか」
「あはは。つぎからは頑張るよ、先生も頑張って」
「おまえはいつもそんな調子でさぁ……」
こんな感じのやりとり見るのは何度目だろう。わたしはそんなふたりを眺めながら、椅子と太ももの下に手を挟んで足をぶらぶらとさせて待つ。
のらりくらり返答をする信楽君に、先生はほとほとあきれ果てた様子なのだけど最終的には観念したように笑うものだから、そこは信楽君が持つ愛嬌の賜物だと思う。とっても羨ましい。
「いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
「……ます」
鈴木さんのまえにはあるのは給食ではなく、曲げわっぱのお弁当箱だ。下にはそれを包んでいた小花柄のランチクロスが綺麗に敷かれている。彼女は手を合わせたあとに蓋を開けた。
お弁当の中身は、細く切られた海苔がおしゃれに巻かれた丸いおにぎりに、魚の照り焼きやいんげんの白和え、その隙間を埋めるように綺麗に紫キャベツやブロッコリーが添えられていた。いつ見ても手の込んだ美味しそうなお弁当は、給食の献立とかけ離れないようにしているのが伝わってくる。
鈴木さんは重度の食物アレルギーを持っているらしく、とくに小麦や卵がだめなようで。そのほかにもいろいろと食べられないものが多いから、いつもお母さんが作るお弁当を持参していた。
「ぼく、海苔ごはんは食べれるんだよね。むしろ好物」
「え、あ、えっとじゃあ……信楽先輩、食べますか?」
信楽君は牛乳にさしたストローを咥えながら、じーっと羨ましげにお弁当箱のおにぎりを見つめるものだから、気を遣ったように鈴木さんがそれを差し出そうとする。
「だめだよ、信楽君! 交換はしちゃだめだからね」
「……わかってるし。ぼくのは絶対あげないし」
「それじゃあ鈴木さんのが減っちゃうだけでしょ。鈴木さんは気にしないで食べてね、信楽君は食べられないじゃなくて、食べたくないだけだから」
「はい。ふふっ」
文原さんのけちんぼうのわからずやの鬼。なんて声が聞こえてくるけれど、わたしはそれをいつものごとく受け流して炊き込みご飯を口にした。
「ぼちぼち帰りますかあ」
外からの賑わっていた声が聞こえなくなり、午後の授業を告げるチャイムが鳴り終えてしばらく経った頃。信楽君は毛糸に棒針を刺すと背もたれに体を預けて、ぐいーっと背を伸ばしながらそう提案する。毎度それを合図にわたしたちは帰り支度を始め出す。
朝は一時間目の授業が開始したあとに登校して、帰りは五時間目が終わるまえまでに帰るのがルーティンだ。
今日はほとんど先生は来なかったけれど、ときどき手の空いている先生がこの教室にやって来て、一緒に給食を食べたり勉強を見てくれたりする。
じぶんのクラスや学年でテストがあるときは、わたしたちも同じように個別でテストを受けたりもするし。週に一、二度はスクールカウンセラーも訪れて、いまではあまり立ち入った話はしないけれど、悩みを話す機会を作ってもらえたりする。
けれど前進も後退もしないまま、ただ似た日々を過ごして季節がめぐり、ほかの同級生と同じじゃないのに、同じように学年が上がってゆく。あと三ヶ月後にはわたしと信楽君は三年生になって。その頃には下北先輩はもう卒業していて。鈴木さんと小鳥遊君は二年生になる。
喜ばしくはないけれど、もしかしたら下北先輩がいなくなるところに新入生が新たに入ってくるかもしれない。そうやって変われないまま変わって、時間は進んでいるのに進めないまま大人に近づく。――焦らないわけじゃない。けれども、みんなが出来ている普通と和解する方法が見つけられずにいた。
ストーブがちゃんと消えたかを確認し終えてから電気を消してがたつく教室の扉を閉めて、冷えびえとした廊下を四人でのんびりと進む。
ふと目を向けた窓枠には薄らと雪が積もっている。その奥には本校舎の後ろ姿がいつも通りの影を纏っていた。
「信楽先輩……毛糸が」
小鳥遊君が信楽君のリュックや制服のあちこちに張り付いた短い毛糸に気づくと、それを小声で教えながら取ってあげていた。
信楽君は「小鳥遊君やさおー、ありがと」と笑って受け取って、ころころと手のひらでひとまとめにするとポケットに突っ込んだ。
たまに信楽君は、複雑に絡んでどうしようもなくなった毛糸の玉をはさみで切り離して、新しい部分と結ぶ。毛糸はそのぶん短くなるけれど、でもすっきりと綺麗で。もう使い物にならない残された毛玉はゴミ箱にぽいっと放られる。
無情でもったいなく思えるけれど、それが時間を無駄にしない最善の手段なんだとじぶんでもわかっている。わたしはまた窓のほうへ向けてしまいそうになった視線を、軋む廊下の床板へと落とした。
昇降口から出て薄く積もった雪を踏めば、土と混じった靴跡が模様を残してゆく。
「あららー、よりにもよって沢渡《さわたり》先生しかいないや。今日はとんとついてないなぁ」
ここから数十メートル先、まっすぐ見つめた本校舎の一階に職員室がある。信楽君のぼやき声に目を細めて職員室の窓の奥を見つめれば、広い室内には二年生の学年主任である沢渡先生だけがいる事実に口角は下り坂だ。
「ふたりは先帰ってていいよ」
そんな重たい口元をむりやり持ち上げて、わたしは後ろにいた一年生たちにそう告げた。
「え、でも……」
「まあいいからおかえり。明日ぼくたちのしかばねがあったら拾っておくれ」
にかっと笑う信楽君に、眉をハの字にした鈴木さんはリュックの肩紐を握りしめながら頭を下げた。小鳥遊君もそれに続く。
「ありがとうございます」
「……ます」
先輩たちがわたしたちにしてくれていたように、わたしたちもそんな先輩たちの心意気を見習って、ふたりを見送る。らしくない強がりに、口元はぎゅっとなってしまうけれど、たぶんこれが最善だ。
「さてさて、機嫌良いこと願って、いざいざ」
帰宅時、サポートクラスに教師がいない場合は、窓の外から職員室に報告することが決まりだった。
基本報告する相手は誰でもいいのだけど、大体だれかの担任の先生か事務員さんに報告して帰れることがほとんどだから、今日はほんとうについてない。
信楽君は頬をめいいっぱい膨らませながら窓をノックして、ばっとこちらに向けた厳つい目つきの沢渡先生と視線がかち合うと、ふう……とその頬をしぼませた。
「なんだ? 帰るのか?」
ガラッと窓を開けた沢渡先生は、窓枠に片手をつきながらわたしたちを見下ろす。
「はい、帰ります」
先生はぎろりと旧校舎を見遣ると、「ほかの生徒は?」と問う。
「残ってないです」
「勢ぞろいで報告することでもないかなあ、って」
すると、ぎろりとこちらに視線を戻すから肩がすくむ。
短く重いため息を吐く先生は目線を、わたしと信楽君を交互に泳がせてからまた口を開く。
「勝手なことをするな! こっちは見届ける責任があるんだ!」
「すんません」
「……すみません」
ほかの先生に報告するときは、代表者がひとりで来てもとくになにも言われたことはなかった。それが良いことか悪いことかわからないけれど、とにかくいまは沢渡先生の逆鱗に触れてしまったことだけは確かだ。
「大体おまえたちは、その身勝手な行いを見直そうとは思わないのか? 一向に向上心を見せない甘え体質のままで、これから一体どうする気でいるんだ? 俺が中学生のときなんかは――」
〝大体おまえたちは〟から始まれば、最低でも十分は噴き出した言葉がとまることはないのがセオリーだ。それでもって途中、信楽君も黙っていられずに口を挟むものだから、また延長に延長を重ね、解放されたのは五時間目が終わる直前のことだった。
職員室に戻ってきた事務員さんがきっとみかねて、教頭先生を探して連れてきてくれるまでは無限地獄だったけれど。さすがの沢渡先生も、教頭先生のまえではそれまでの調子も出ない様子で口をつぐんでくれた。それにどっと安堵を滲ませながら、わたしたちは退散するように学校の敷地をあとにする。
「あー、おっかなかった」
そうは言いつつもげらげらと笑う信楽君はリュックを背負わずにフック部分を掴み、それをぶらぶらとゆらして歩いている。
そんな彼にわたしは目を細めて、「そのわりには、結構自由な発言してた気がするんだけど」と首を傾げた。
「文原さんも知ってるでしょー。ぼくただでさえ黙ってられんのに、あんなん言われちゃむりむり。このせいで教室から追い出されちゃったんだし」
へへ、と笑う信楽君はあくまで軽いノリで言ったと思うのだけど。途端に頬が固まってしまうわたしは、路肩にどかされた泥だらけに固まった雪に視線を落としてしまう。
信楽君といえばおしゃべり。五分以上黙っているところを見たことがないくらいにおしゃべり。
基本ひとりごとが多くて、それは「暑い」「寒い」「面倒い」「お腹減った」とか、だれでもぽつりとこぼしてしまう言葉だったりするのだけど。そのタイミングを選ばないのが信楽君である。
ひとりごとに飽きると、だれかを巻き込んでおしゃべりしたり。疑問が浮かんだら、答えに納得するまで黙れないんだ、と一年生のときに教えてくれた。
「それにしてもさあ、いまどきあんなNGワード連発して逆にほれぼれしちゃうよねー。まあ仮にぼくが親に告げ口したところで、ぼくんちはわざわざ学校にクレームいれないし。文原さんはそもそも、言われたことを親に報告するタイプじゃあないってわかってて、選んでて言ってんだろうね。相変わらずの沢渡せんせーは。ほんとずるいなあ、ああいう大人って」
学校から出て五分くらい歩いていると、耳をつんざく踏切の警笛が聞こえてくる。
「うん、ずるい」
遮断機のまえで足を止めてそう呟けば、走り去る轟音が言葉をかき消してゆく。吹きつけてくる暴風は肌を突き刺し冷たくて、コートのポケットに手をいれながら身を縮ませた。
「さむぅ。はやく冬終わんないかなぁ。春が恋しい」
隣に視線を戻せば、深緑色のリュックを抱きしめながら似た色のマフラーに口元を埋める信楽君。そのマフラーはもちろん自作のもの。
「文原さん風邪なんてひかんでね。文原さんが休んだら、ぼくの話し相手いなくなるからさ。後輩たちには、ぼくの面倒は見切れないもんで」
「あはは、わたしだって見切れてないよ」
遮断機が上がってまた歩き出す。
「いやあ、結構あうんの呼吸してると思うよー、ぼくら。自信持って」
「持ちたくないなぁ、その自信は……」
大きな目をぱちぱちとさせる信楽君に、ゆるゆるとわたしは首を横にふる。
踏切をすこし歩けば十字路の交差点があって、そこが帰路の別れ道だった。ちょうど右折方向の信号が青に変わり、信楽君は軽く手を持ち上げたなら、「じゃあまた明日ー」とのん気に足を止めることなく進んでゆく。
わたしも「またね」と返して、信楽君とは反対方向の道へ進んだ。
本をめくる音。ペンが落ちて転がる音。棒針の重なる音。ノートを歩むシャーペンの音。
今日はそれに加えて、一定のリズムでカチカチとスマホ画面に爪があたる音と、うんともすんともいわないCDラジカセをあの手この手で復活させようと健闘する音が聞こえる。そんな旧校舎の一角にあるサポートクラス。
「先週までは使えていたけどなー……、さすがに寿命かな」
「この時代にラジカセ持ち歩くの、井原《いばら》さんくらいじゃない?」
「あはは。いまはパソコンで再生させる時代?」
「んーそもそもの話、いまはほぼCDの再生自体しないかなぁ。スマホのサブスクでだいたい聞けちゃうし」
鼻先にずり落ちた小さな丸眼鏡を人差し指の関節で持ち上げ、白髪が混じる髪をぽりぽりと搔くスクールカウンセラーの井原さんは、「どんどん時代に置いていかれちゃうな」と自嘲する。
「じゃあ今日は、私のしわがれた下手な声で申し訳ないけれど。ああ、じぶんのしたいことを優先させてていいからね。ラジオ感覚で聞き流してくれるだけでも、御の字だから」
井原さんは自身の使い古された革鞄から一冊の本を取り出す。さらりと撫でるように表紙をひらき、小さな咳払いをしてから言葉を紡ぐ。
本をめくっていた音、ペンを落とす音、シャーペンの歩む音は消えて。スマホ画面をタップする音と、毛糸を編み続ける音は続く。
録音であろうと肉声であろうと、本の読み聞かせをされていること自体、中学生のじぶんからしてみたらすこし恥ずかしい気もする。それでも耳を傾けてしまうのは、以前井原さんが語っていた言葉が、心に染み込んでいるからだと思う。
『――絵とも映像とも違う、小説を読んだときだけに浮かぶ空想や疑問を惟る時間は、大人になってからもきっと役立ってくれるはずだよ。別になにも読まなくたっていいんだ。ただ言葉を聞くだけで頭が勝手に物語の上映をはじめるからね。それが想像力ってものさ。それに、同じときを過ごして同じ話を聞いているはずなのに、きみたちの頭のなかでは、まったく別の物語が描《えが》かれている面白さ、それが十人十色のひとつだということを、片隅でもいいから覚えていてほしいんだ』
井原さんは、この時間は特権だと微笑む。わたしたちだけの特別な特権だと。
『きみたちには少々退屈で、お節介かもしれないけれどね。ああ、それに鈴木さんには本当にお節介かな、ごめんね、物語を物語で邪魔をしてしまって』
鈴木はゆるゆると首を横にふって、『わたしはこの時間、いつも愉しみにしてます』と口角を持ち上げるから、その言葉にまぶたをしばしばとさせて、嬉しさを滲ませるように井原さんはラジカセのボタンを押すのだ。
――いま井原さんが読んでいるのは彼の愛読書なのか、たぶん純文学という部類の小説だと思う。普段は児童書の読み聞かせが多いから、わからない単語や理解できない言い回しの多いその小説に、わたしはいちいち思考をとめてしまって、物語から置いていかれそうになる。
「お隣と帽子の廂《ひさし》のせいで真っ暗なんて、ここと同じだ」
編む手を止めないから、一見興味なさそうに見える信楽君だけど。物語についてのひとりごとや疑問を、いつものようにぽつりぽつりとこぼしている。
「あはは。言われてみれば、そうだね」
その都度井原さんは目尻を落としながら、愉しげに返事をしていた。
わたしも質問できたらいいのに、言葉に割り込む勇気が持てない。だから信楽君がそうやって呟いてくれるたび、新雪を踏みならしてくれているような有難さが浮かぶ。わたしはそんなふたりのあとをついていく気分で、頁をめくる井原さんの手元を見つめ耳を澄ましていた。
「――おしまい」
「えー、終わり? 意味わからん」
「この小説は高校で習うお話だから、ちょっと難しかったかな」
本を閉じて微笑を浮かべる井原さん。
口を真一文字にした鈴木さんは、テーブルの模様をじっと見つめていて、考えをめぐらせているように見える。
小鳥遊君は静かにまたペン回しを再開させた。
「まあかく言う私も、もう何十年も物語の正解を思案して、ああなんじゃないか、こうだろうなんて、そのときどきに浮かぶ答えを結びつけようとしてきたけど。結局ひとの描いた物語を解りきるなんて出来やしないからね。対面していても、ひとの考えてることはどれだけ悩んでもわからない、世の中そんなものさ」
その言葉に信楽君ははじめて手を止めて、井原さんに視線を向けた。
「じゃあ、そんなだれも正解がわからないものを、なんで授業にするの? 国語のテストでもさ、よく『どうしてこうなった』とか、『なんでそう思った』とか、解答欄に書かなきゃいけないとき、ぼくの答え大体バツで、よくて三角だけど、正解がないなら採点するのおかしくない?」
「んー……そうだね。それが情操教育の難しいところだと私も思う。たとえば国語のテストで、『この主人公はどうしてこんな行動をした?』なんて問題文が出たときに、解答する側に必要とされるのは、読む力、理解する力。それとそのふたつを踏まえて最後に求められるのは、〝共感する力〟だね」
信楽君は口角を片方だけ歪めて、耳の上をがしがしと掻く。
それはただ意味がわからないというようにも、彼なりにいまは黙って聞こうと我慢してるようにも見えた。
「共感力というのはね、たとえば、目の前で転んで怪我をしてしまったひとを見たとき、〝可哀想〟と思うのはじぶん自身の気持ちで。〝痛いだろうな〟と、そう思えることが相手に共感するということ、これはわかるかな?」
「んー、なんとなく……」
「いまはなんとなくでもいいんだよ。ぼやけているものを少しずつ理解して、鮮明に近づけていくのが勉強するということだからね。第一、相手が感じている痛みの度合いなんてものは、じぶんには絶対わからない。でもそれをなるべく想像して真意を汲み取ろうとすることが、共感力として大切なことだと思う。だから、そういうことがテストに反映されてなければ、どうしても丸はつかないのかも知れないね」
井原さんが椅子に座り直して軋む音が鳴る。その背後のストーブでは火がゆらめき、ふわふわとタライから蒸気が浮かんでは冷たい空気に溶けてゆく。
スマホをタップする音はいつの間にか止んでいて、ペン回しを再開していたはずの小鳥遊君の手も気づけば止まっていた。
「難しいよね」
「井原さんにも?」
「うん。いくつになっても難しいことだと思う」
井原さんは手を擦り合わせて膝の上で硬く握る。言葉を発することに迷いを抱いているように、口を開けてまた閉じて、もう一度あけたなら話の続きを再開させた。
「同じ教室で同じ授業を受けて学んでも、あたりまえに個々で理解度やスピードは変わる。ましてや、正解が定かではない授業はことさらにね。先生自身が、そうやって生徒がみんな横並びで学んでいけるわけじゃないことを念頭から忘れて、生徒の気持ちをなおざりにしてしまうことも、悲しいけれどあってしまう。もちろん一年という限られた時間のなかで、全員の理解度が等しくなるまで待てないのも、致し方ないとわかるのだけど」
信楽君、わたし、鈴木さん、小鳥遊君、カーテンの間仕切りの奥。井原さんのやさしい色の双眸がゆっくりと移される。
「周りが簡単に理解できて、平然とこなせてしまう姿に焦って、漠然と他者との間に溝を持った子供が、不安を抱えたまま大人になって、馴染めない社会に息苦しさを抱えるなんてこと、本来決してあってはならない。だから抱えこんでしまうまえに、子供の焦る心を大人が見つけて、ひとには様々な分野で個人差があるということを教えて一緒に答えを見つけていくことを、決してぞんざいにすべきではないというのに……。許しがたい現状を許してしまう私たち大人は本当、どこまでも情けないと思う」
『私たち』と言いながら、視線を落とす井原さんはいつになく
傷心的だった。
信楽君は棒針に繋がっている毛糸を無意識に引っ張ったのか、テーブルから転げ落ちた赤い毛糸がころころと転がって、わたしの足に当たってとまる。
わたしが拾い上げたなら、信楽君は濃い色をした瞳を向けて受け取って、彼にしてもいつになく小さな声でお礼を言って受け取ったあと、顔を背けてくしゃみをひとつ落とした。
「今日は寒いね」
おとといも昨日も今日も寒い。明日もきっと。冬の間、ここはずっと寒くてしかたない。
