床屋の二階へ家出する一週間

じっとりと濡れた傘を閉じ、傘立てに突っ込む。
床屋の扉を開けると、独特のヘアトニックの香りがした。
白衣を着たババアは、ちょうど客の髪を切り始めるところだ。
客はよく見知った顔で、商店街外れにある煎餅屋のオヤジだと一目でわかる。

「学校にもちゃんと行ったし、家に書き置きもしてきた。着替えも持ってきたから」

ババアにそう告げた俺を、煎餅屋のオヤジが鏡越しに見てくる。

「おぉ、酒屋の息子。配達サボって家出か!いいな、青春だなぁ。俺がここへ家出させてもらったのは、高校二年のときだったなぁ。あんときは俺も血気盛んでさ……」

話が長くなりそうだったから遮って、上を指差す。

「二階上がっていい?」

「アンタは右を使いな」

「右?」

「玄関を背にして右側だよ」

ババアの言う「右」の意味はわからなかったけれど、俺は店の奥にある急な階段を初めて登る。
一階は床屋、三階はババアの住居。
そして二階が通称「家出部屋」だ。

今朝、学校へ行く前にも、一度この床屋を訪ねた。
ババアはちょうど、入口に置かれた赤と白と青のサインポールを拭いているところだった。
「家出したい」と伝えると、ババアは「あいよ。学校終わったらおいで」と答えてくれる。
事情など何も聞かれないのは、ありがたかった。

二階にあがると、扉が一つだけあった。
ノブを回すと鍵は掛かっておらず、いきなり小さな玄関が現れる。
玄関の先には、すぐにリビングらしきスペースが広がっていた。

「えっ、びっくりしたなー!オマエ、誰?」

「は?アンタは、三年の及川?」

リビングには古びたテーブルと椅子二脚、小さなテレビ、そして年代物のソファとクッションだけがある。
左側に配置されたテーブルには、この間まで生徒会副会長をしていた及川が、長い脚を組んで椅子に座り、スマホをいじっていた。

「及川『先輩』だよ。緑のネクタイってことは、オマエ二年だろ?」

「なんでアンタがここにいるんだよ?この部屋は今日から一週間、俺が使うんだけど」

「いやいや、なに言ってんの?俺は今朝、ちゃんとババアに家出したいって伝えたよ」

「俺だって伝えた」

「えー。あぁ、そういうこと?まさか俺たち、家出のタイミングが被っちゃった?うわー、まじ最悪。オマエ、日を改めろよ。今日からは俺が使うんだから」

ふとリビングの床を見ると、部屋を横断するように、真新しい白いビニールテープが貼られていた。

「アンタ、もしかしてババアに「左を使え」って言われた?」

「左?なんか言ってたな。そういえば」

「俺は右って言われた。つまりこっちのソファ側か」

俺は玄関で靴を脱ぎ、リビングへ足を踏み入れる。
そして白線より右側を歩き、奥にある襖を開けた。
六畳の和室で、どうやらこっちが寝室だ。
どこもかしこも古臭いが、きちんと掃除され、清潔なのがよくわかる。

この六畳間の畳の上にも、領土を真っ二つに分けるための、白いテープが貼られていた。

なるほど……。
一旦落ち着こう。
とりあえずリビングに戻り、俺はリュックを降ろして、ソファへ座った。



築五十年は経ってると思われる、古びた三階建て。
壁には、いつ貼られたのか不明な、黄ばんだ紙が掲示されている。
筆ペンで書かれたような綺麗な文字は、ババアの筆跡だろうか。

①学校へは休まず通うこと(自転車置き場は無い。徒歩で通え!)
②親に、ここに居ると伝えること
③自炊すること
④洗濯は花屋の隣のコインランドリーを使うといい
⑤一週間で出ていくこと(立つ鳥跡を濁さず)
⑥家賃は出世払い

これがこの「家出部屋」のルールだ。

深夜営業のファミレスも、カラオケも、ネットカフェもないこの山間の町では、若者がプチ家出することも叶わない。
鬱憤を溜め込んだ者が、電車に乗って、どこか遠くへ行ってしまうくらいなら、町内に家出する場所を設けるという、昭和の終わりに出来たシステムだと聞いている。

この辺りの子どもは、中学に上がる頃まで、皆、ババアの床屋で髪を切るらしい。
そして、幼いうちに家出部屋の存在を知り、いつか、二階への階段を登ることに憧れるという。
小学五年のとき引っ越してきた俺にも、その話はちゃんと伝わってきた。

俺の義父からも、高校の頃にここで一週間過ごした話を、度々聞く。
おそらく義父の頃は、今のババアではなく、先代のババアだろう。
今のババアは、当然のようにババア呼ばわりされているけど、高校の校長と同い年くらいだから。

この「家出部屋」は高校生の間にたった一度、一週間だけ使っていいとされている。
ただこの令和の世、使用したいと名乗りを上げる者は、ぐっと減っているらしい。

「あのさ、ここ電波がかなり悪いんだよねー。ゲームとか全然動かない。ババアにWi-Fiがないか聞いてきて」

「は?なんで。及川が聞いてくればいいだろ」

「及川『先輩』な。ていうか、せっかく家出してるんだから、苗字で呼ぶとかやめて。親の顔が浮かんで気分が落ちるじゃん。今だけ特別にナル先輩って呼んでいいから」

聞きに行くまでもなく、Wi-Fiなんてものが、ここにあるわけない。

彼は、いいとこの息子だ。
確か父親は町会議員で、次の町長選に出ると、噂されてる。

ナルは見目も良く、身長170センチの俺より、10センチ以上背が高いモデルみたいな体形をしていた。
誰から見てもイケメンで、女子にキャーキャー言われているが、クラスメイトとも少し距離を置いていて、いつも一人でいるイメージがある。
彼には二人の兄がいて「兄たちはもっと凄かった」という伝説のような話をよく耳にした。

「ナルは、なんで今日から家出なんだよ?中途半端な水曜日からなんて変だろ」

「さっきから質問ばっかり、うるさいなー。しかも呼び捨てって生意気な奴。いつからでもいいだろ。オマエこそ、なんで今日からなんだよ」

「俺は間宮ゲン。ゲンって呼べよ」

どうして今朝、急に家出を決めたかなんて、一言で説明して、わかってもらえるものではない。

今日発売の漫画の最新刊を電子書籍で購入し、ベッドの中で読み始めたら、登場人物たちの狂気の理由が「生い立ち」にあると語られていた。
その「生い立ち」は様々だったけれど、まるで「生い立ち」のせいで、そういう人間になったみたいに書かれていたことに、酷く腹が立った。

俺は絶対に「生い立ち」に引きずられない。
そう決めているから。
もしもそれが無理ならば、一人で暮らす。
誰とも深く関わらず、誰のそばにも近づかない。
そしたら、暴力を振るうようなことは起きないはずだ。

だから、練習しなければと思った。
一人で暮らす練習を。
つまり、あの漫画のせいで衝動的に決めた家出だった。

ナルが椅子から立ち上がり、こっちに向かって歩いてくる。
そして、長い脚で軽々しく白線を跨いだ。

「おい!右は俺の領地だろ!」

「ト・イ・レ。風呂とトイレはこっちにしかないでしょ?」

確かに。
逆に台所は左にしかない。
つまり、一部屋の右と左を使って家出するなんて、どう考えても無理なことだ。
静かに一人で考え込むことすら、叶いそうもない……。



階段を上がってくる足音が聞こえた。
「コンコン」と二回ノックされ、扉が開く。

「互いの自己紹介は済んだかい?」

ババアはサンダルを脱ぎ、リビングに上がる。
そしてテーブルに、胡麻がついた煎餅の袋を置いた。

「煎餅屋からの差し入れだよ」

硬くて歯が折れそうな煎餅だ。

「ババア、俺が右で、ナルが左って、トイレと風呂と台所はどうすればいいんだよ」

「そんなの知らないよ。アンタたちが勝手に決めな」

「なんだよそれ」

俺は不貞腐れたような声を出してしまう。

「何しろ初めてだからね。この部屋で二人一緒に家出っていうのは」

「えっ、まじか。片方を断ればよかったじゃん」

ナルもババアに不満をぶつける。

「今朝、そっちの小さいのが「家出したい」って言いに来た三分後に、こっちの大きいのが「家出させてほしい」って来たんだ。この令和の世にだよ」

「誰が小さいのだ!ナルが大きいだけで、俺は小さくない!」

俺の怒りは別の方向へも伸びる。

「アンタたちは二人とも、アタシが幼い頃から髪を切ってやったってわけじゃない子だからね。余計に嬉しかったよ」

確かに俺はここに来る前は東京に住んでいた。
ナルは、幼少期から洒落た美容院に行っていたのだろう。

「そんなこの町では稀有な二人が、運命的じゃないか。人の縁っていうのは大事にしないといけないよ。暮らしやすいように白いテープを貼っておいてやっただろ。あと、布団も一組、新品を買っておいた。アタシとしても、大出費だよ」

そこまで言うと、回れ右して、部屋を出て行こうとする。

「本来、家出人がいるときには、アタシは部屋にあがらないんだけどね。見逃しておくれ。あとは一週間、二人で上手くやるといい」

「あのさ、ここWi-Fiって飛んでる?」

ババアの背中にナルが問う。

「そんなものあると思うかい?」

振り向いてニッコリと笑った顔は、思いのほか優しかった。



しばらくの間、俺はソファに、ナルはテーブルの椅子に座って、黙って過ごした。
彼もスマホをテーブルに放り出したまま、何かを考え込んでいる。
その整った横顔は、少し寂しげだ。

十分ほどして、ナルが煎餅の袋に手を伸ばし、パッケージを開ける。
そして一枚を取り出し、律儀に白線ぎりぎりまできて、俺に「食べる?」と渡してくれた。

「もらう。ありがとう」

ナルと俺は同じ高校の制服を着ているのに、彼だけ、どこかの王子様みたいに見えるのはどうしてだろう?
仕草なのか、生まれ持った雰囲気なのか。

バリバリと、煎餅を齧る音が聞こえる。
ナルの音と、自分の音。
この硬い煎餅を口にした時点で、二人で家出することが決定したような空気になった。

二人で過ごすことで、自分の心持ちが、どう転ぶかは分からない。
でも、書き置きをして出てきた今、母、義父、義弟、義妹、弟、妹がいる家に帰る気にもならない。
他に行く当てもない。
それはきっと、ナルも同じだろう……。

「これ、美味いな。硬いけど」

俺が呟けば、ナルが返事をくれる。

「うん。胡麻が美味しい。硬いけど」

窓の外から「夕焼け小焼け」のメロディが響いてきた。
これが鳴るということは、もう十七時だ。
外は梅雨時らしく、シトシトとした雨が降り続いている。

煎餅で腹は満たされず、むしろ自分の空腹に気がついてしまった。
それはナルも同じだったようだ。

「腹減ったー。ゲンなにか作ってよ」

「は?」

「いいじゃん。どうせ、一人で家出だったら自分で作るつもりだったんでしょ?」

「それは、アンタも同じだろ!」

俺の声が耳に入らないかのように、ナルは優雅な仕草で二枚目の煎餅に手を伸ばす。
この男、王子様なんかじゃない。
まるで我が儘なお嬢様だ。
まさか、俺を執事のように使うつもりじゃないだろうな。

そう思ったら腹が立って、ソファに置かれていたクッションを、ナル目掛けて投げつけた。
ちゃんとキャッチした彼は、「危ないなー」と頬を膨らませる。

「で?何食べたいんだよ」

イラつきながらも、そう口にしてしまった俺の一週間は、前途多難だ。