朝倉の家にお邪魔させてもらった日から、一か月が経とうとしていた。
あれ以来、朝倉は昼休みに俺の席まで来てくれるようになって、最近はこの時間が一日で一番の楽しみになっている。
とはいえ馬渕と三人で食べることばかりだから、たまには俺のほうから誘って二人で――とも思うのだけど。決意して目をやれば、杏里サンの圧にびびって、めげてしまう……。そんな日々を送っている。
「あっ! それ今日発売のやつじゃん!」
「ん?」
「チョコミントクリームパン!」
チョコミントに目がないんだと騒ぐ馬渕に、俺はパンを一口ちぎって渡した。
「末広、俺にもちょーだい」
「なに、そんなにチョコミントって流行ってんだ」
俺はもう一口ちぎって、今度は朝倉に渡す。
ちなみにあまり俺は好みじゃなかったけど、二人の口には合うかな。
「うまいっ! クリーム感が強すぎず!」
「……うん、まあ、まあ」
馬渕は絶賛、朝倉はたぶん、こっち側だ。
なんとも言い表せない微妙な表情で、ちらちら顔色を窺われている。
「普通のクリームパンのがうまくね」
だから俺も公平に意見を述べてから、朝倉としっかり目を合わせてにやついた。
「んだよ、二人して俺のこと邪魔もの扱いか? あ?」
「いちいち凄むなよ、こえーんだよ……」
「まだそんなこと言ってんのか、俺とスエの仲だろー」
馬渕の言う通り、実際はもう怖くはない。でも、びびりはする。『あ?』って言うのときの治安が悪すぎる。
「つか海、このあと応援団の練習あんじゃん? 今日も行く?」
「さすがに行くわ、一年なんだし」
「だよなぁ、だるー」
二人は体育祭の応援団という、陽キャしか入ることの許されていない集団に推薦されて、最近の昼休みは少し慌ただしい。
朝倉なんて特に。あれだけの量を食べるから、時間が足りなそうで、なにか手伝ってやりたくなる。俺が代わりに咀嚼してあげたい気分で、わんぱくな横顔をぼーっと眺めていた。
「んな見んなよ、食べ方汚いとか思ってんだろ!」
「いや思ってない、喋んなくていいから早く食べな?」
「うざぁ」
と言って焼きそばパンにかぶりつけば、ぷくっと頬が膨らむ。そんなに一気に口に入れたら、喉に詰まるぞ。
「見ーんーなぁ」
「はいはい。つか、ハムスターなの、朝倉のほうじゃんね」
「あー!?」
なにかに似てるなと思ったら、ハムスターの頬袋と一緒じゃん。
馬渕の凄みはびびるけど、朝倉の凄みは、ただただかわいいなぁと思う。顔つき?
「うーん……?」
それも違うような。朝倉の真顔なんて、綺麗すぎて馬渕とは別の意味でおっかないのに。
「おーい、いちゃついてんな、先着替えてんぞー?」
馬渕に思考を遮られ、朝倉は慌ててそのあとについて行った。
取り残された俺は一人、食べカスを拭いたり、ゴミを捨てたり。それから、日課の落書きをしたりして過ごしている――いつもは。
「うちらの目の保養、二人も独り占めにしてどんな気分ですかぁー」
突然背後から飛んできた、女子の刺々しい声。……嫌な予感がする。
できれば俺へ向けてじゃないといいな、と願いながら一応振り向いてみると。
「まじで、ちょっと顔貸せよなぁ」
かわいい顔して、とんでもないことを言う人だ。
「……杏里、サン」
「名前呼びすんな、博士クンの分際で!」
杏里サンは、引きつれてきたお友達とは手を振って別れた。そしてなぜか馬渕の席に腰を下ろして、足を組む。
「え、なに……ていうか、ごめん。名字なんだっけ……?」
「うっっざ! 水谷だよ!」
「水谷さんか」
「ねえ、なんでうみんちゅもまぶちんも持ってくわけ? うざいんだけど」
いたって真剣な顔なんだけれど、まぶちん、がちょっと変なツボに入ってしまった。なんだ、まぶちんって。あの強面のあだ名にしては、あまりにも間抜けすぎるだろ。
「はぁ? なにちょっとかわいく笑ってんだよ! もっとオタっぽくしとけ!」
「いたぁ! な、理不尽すぎ……」
すね蹴りされた。凶暴すぎる。女子って怖い……。
「たまにはこっちにも回して。ねえ、わかった?」
圧がすごくて、なんだか前に朝倉と話していたときとは、様子が違う。くりんと上向きまつ毛のかわいらしさが、まったく台無しだ。
「……回すとか、ないでしょ。行きたいとこに行くじゃん、二人だって」
「はぁ? だからたまには断れって言ってんの!」
「や、やだよ」
「……博士クン、意外と生意気!」
これ、前に馬渕にも言われたな。
そうだ、俺は真面目に見える不真面目だからな。なめてもらっちゃ困る――とは言えないけど、さすがに。もう蹴られたくないし。
それから黙りこくった水谷さんだけど、なぜかまだ馬渕の席に座ったままだ。
時折スマホから俺のノートに視線が移るのがわかる。
「あのー……?」
「まじで絵うますぎて引く」
「引くんだ」
なんだそれ。
「これ、わかる。ティラノサウルスでしょ!」
「違う、タルボサウルス」
「はぁ? しらねーよそんなの」
「逆ギレかよ……」
水谷さんのグーが肩に叩きつけられる。けどまあ、全然、痛くはない。さっきのすね蹴りよりは、かなりマシ。
「ちょい! 今、末広のこと殴んなかった!?」
ちょうどそのとき、汗を拭いながら朝倉率いる陽キャ軍団が帰ってきた。
暴力を目撃されたというのに、水谷さんに焦った様子はなくて、一層おっかなさが増す。
「えー、じゃれてただけだけどぉ」
「声、全然違うじゃん……」
「うっせ」
「いっ……!」
またすね蹴りかよ……! 肩パンだとダメージが少なかったこと、バレたのかな。
「また! なんかしただろ杏里!」
「してなぁーいー」
朝倉は慌てた様子で駆け寄ってきてくれるけど、それは俺じゃなくて、水谷さんにだった。
「まじで末広に手ぇ出さないで」
「出してないってば! こんなオタクに興味ないし~」
「そういう意味じゃなくて、まじの意味! 叩いたり蹴ったりすんなってこと!」
「えー?」
白々しく水谷さんに目配せされて、俺はつい目を逸らしてしまった。動物ならこれは、降参の合図だ。きっと恐竜も同じで――って今恐竜はどうでもいいんだよ。
「……トイレ」
――バカだな俺。これじゃあほんとうに降参になっちゃうわ。
わかっていてもなんとなく、そこにいられなかった。
俺の隣にいるときとは違う、男らしい顔つき。やわらかな声が呼ぶ、水谷さんの下の名前。しかも呼び捨て。女子に腕に巻き付かれても、拒否しないんだな、朝倉。
なんだかすごく、胃がむかむかする。
また、これだ……。最近はずっと凪いでいた大海原が、次第に荒れ狂っていく予感がした。
十月の半ば。空は快晴、気温は半袖日和。
「っしゃあ、いけー! 末広ー!」
――勘弁しろよぉ……!
馬渕の気合いの入った声を背に、情けない気持ちで走り出した俺は、ハードル走の走者だった。
なぜか普通に走るよりハードル走のほうがクラスでのタイムがいい俺の順位は、六人中の四位。……微妙だ。
「がんばった、がんばった!」
競技を終えて水道で顔を洗っていると、背中側から朝倉の声がした。
慌てて振り向くと、顔から滴った水滴がびしょびしょと体操服の首元を濡らす。
「あは、おまえ、ちゃんと顔拭けよ!」
そう言うと、朝倉は持っていたタオルで俺の顔をぽんぽんと優しく押さえつけるように拭いてくれる。
「あ、ありがと……」
目を開けるとそこに、朝倉の綺麗な顔がある。まぶしい笑顔がある。嬉しいと思う。
思うけど――頭に巻かれたハチマキが気になって、なんだか素直に喜べない。
教室からグラウンドへ移動するとき、「うみんちゅ~リボンしてあげる~」なんて水谷さんに呼びつけられた朝倉は、クラスカラーの黄色のハチマキを、リボンみたいにかわいく頭に結ばれていた。
すごく似合ってる、かわいい、めろい……どれも事実だけど、なんとなく朝倉に言ってやりたくない。
「……朝倉はまだまだ出番こないね」
「そ、応援団のほうが先だし~」
最終種目のクラス対抗選抜リレーが、朝倉の出場する種目だった。ちなみに、応援合戦の次に盛り上がる種目だ。
まあなんというか、陽キャの定番、というか。
午前はちやほやされて、昼休憩明けには応援合戦できゃあきゃあ騒がれ、最後のリレーでアンカーを務める、っていう。
「さすがだなぁ」
あ、やばい。また俺の非モテが……。でもこんなの、羨むなってほうが無理だろ。スペックが学園ドラマのヒーローじゃん。
「んー? なにが?」
朝倉はそんな非モテの卑屈さを気にも留めない様子で、いつも通りまぶしく笑う。こんなにも芋感を漂わせる体操服を着ているのに、朝倉はやっぱりかっこいい。すごいな、ほんと。
さっきから何人もの女子に写真をせがまれているし、これで応援団の学ラン姿になったら、いよいよ失神する女子でも出るんじゃないか?
「……なんでもないでーす」
あーあ。
俺だって朝倉の学ラン姿、楽しみにしてたのにな。
今日も俺の心のケントロサウルスは健在だ。
「なあ、末広、今日鏡見た?」
「は?」
「おまえハチマキ巻くの、下手すぎん?」
いたずらっぽく笑った朝倉の頭で、リボン結びのハチマキが揺れている。
「……あーあ、朝倉はいいな! かわいく巻いてもらえて!」
「え、なに急に、情緒」
「うるせー」
急じゃない。こっちは、ずっと我慢して我慢して、けど朝倉がなんにも気づかないで呑気にリボン揺らしてるから――。
いや、我慢して、ってなんだ?
「いや……ごめん。たしかに情緒おかしいわ」
「変なの、暑さでやられてんじゃん? 保健室行っとく?」
「いい、元気だから」
そうだ、俺はいたって元気だ。
朝一番のハードル走が終わって、以後俺は暇だ。
部活にも入っていないから、ただただ騒ぎまくる人間を眺めているだけでいい。たまに珍プレー好プレーが出れば目を見開いたり、口元を緩めたり。そんなのでいいんだ。
なにが我慢だ? 朝倉の頭で、水谷さんの巻いたハチマキが揺れている。だからなんだっての。それは俺が我慢することじゃない。
「巻いてあげよっか」
「へ?」
「俺でよければ、だけど」
朝倉の手が、俺の下手くそらしいハチマキの結び目をほどいた。
「もうやる気じゃん……」
とか言って、俺もちょっと頭を差し出して。
「おまえもな」
ばれてた――。
「リボンがいーの?」
「いや全然。まったく」
「じゃあ普通のな!」
前髪と額の間に、薄い布が滑り込んできて、そのまま後頭部に朝倉の手が回っていく。
息がかかるくらいの距離で時折混ざりあう視線が、なんだかくすぐったい。
「……あ、う、うしろ、向こうか?」
「ふっ……いいよ。もうできる」
「なんで笑うんだよ!」
こんな距離に人の顔があったら、誰だって気まずいだろ。なんだよ、モテる男にとっては、こんなの笑いごとなわけか。
なんだかおもしろくなくて、俺はぷいと顔を逸らしていた。
「あ、こら」
朝倉はそんな俺を許さないって言うみたいに、両頬に手を添えてぐっと引き寄せてくる。
「すねんなよ、かわいーなって思っただけだから!」
「……べつに、すねてねーし……」
「あっはは! なに、ツンデレにキャラ変?」
「うるせーな、もう!」
……だめだな、やっぱ。こんなふうにからかわれたって、本気でむかつくと思えない。朝倉の笑顔ってまぶしくて、それからちょっと、ずるい。
「はい、でーきた!」
そのまぶしい笑顔が、視界を埋め尽くす。
いつか水谷さんは俺に、朝倉を独り占めにするなって言っていたけど。
これは――独り占めしたいな、俺。
こんなふうに笑いかけてくれるの、俺だけだったらいいのにって思ってしまう。こんな人気者に、俺ってやっぱり、とんでもない大バカだな。
それから三人で昼を食って、朝倉と馬渕は、慌ただしく応援団の準備へと駆けて行った。
学ラン……きっと似合うだろうな。いや絶対か。間違いないな。それで轟く女子の悲鳴さえ間違いないと言い切れる。
「おいこら、博士ぇ」
「うわぁ……」
「ちょっと! その痛々しいヤツ見る目やめて!」
水谷さんは、体操服の袖を肩まで捲り上げて、そのほそっこい腕にはなぜか太いマジックでクラス名が書かれている。そんなのわざわざ書かなくたって、ハチマキの色でわかるのに、だ。
極め付け、綺麗な肌にはなんか派手なシール?みたいなの貼ってるし。
痛々しい、っていうよりも。
「騒々しい……」
「まじで生意気、ワードチョイスがむかつく!」
また足蹴りされたけど、前より威力が弱まってるように感じるのは、気のせいかな。
「つかさぁ、応援合戦、鬱だよねー」
まるで友達に話しかけるように、水谷さんは俺に言う。
「なんで鬱なの? 朝倉も馬渕も出るじゃん」
「バーカ、だからだよ! 先輩にはさすがに歯向かえないだろっ!」
デコピン……女子でも陽キャならデコピンは強いのか。なんで。
「絶対モテるじゃん~うみんちゅも~まぶちんも~まじで鬱だわ~」
「……たしかに。それは鬱だ」
「お、めずらしく意見合ったじゃん、いえーい」
水谷さんも体育祭テンションに呑まれてんだな。まさかのハイタッチを促され、夢かと思った。
「こういうイベントんときってさぁ、みんな気が大きくなんのだるいよね」
「え」
「普段から頑張ってるこっちはなんだっつうの、ミーハーがよぉ」
すると水谷さんの手は俺の弁当に伸びてきて、そのままひょいとミニトマトを奪われた。
「あー泥棒」
「うわ、ピック恐竜じゃん! 子どもかっ」
「いーだろ別に……これ、ラプトル」
「ん、なんか聞いたことある」
「映画……恐竜の映画、結構メインで出てるし」
「それだ!」
なんか普通に話してるけど……これが共通の敵ができたことによる、仲間意識ってやつなのか?
それからなんだかんだと水谷さんの愚痴を聞いていると、なんと昼休憩後、グラウンドまで連れ立って出るという、奇跡が起きた。
次は、応援合戦です――。
品のいい声でアナウンスが入ると、グラウンドには歓声が響く。
「はー、まじでだるー」
隣でテンション急降下中の水谷さんはともかく、俺の胸は高鳴っている。
勢いのある和太鼓の音もそうだし、なにより朝倉たちが慌ただしく練習に駆けていく後ろ姿を、何度も見送った。
その成果を見せてもらえるのは、素直に嬉しいし、楽しみだ。
「どうしよう、俺楽しみなんだけど」
「終わったあとに自分の浅はかさを思い知れ」
「こわ……」
予言者みたいなことを言って、けど水谷さんだって、ちゃっかりスマホをかまえていた。
そして応援団の入場とともに、グラウンドには悲鳴が轟く。
「やばやばやばっ! うみんちゅー! まぶちーん!」
水谷さんに追随するように、他の女子も黄色い声援を浴びせている。
三年生と思われる先輩たちは素肌に長い学ランを羽織って、二年と一年は、短い学ランをまとっていた。前のボタンはきっちり閉じられていて、ちょっと安心だけど。
三年になったら朝倉も脱ぐのかぁと思うと、鬱、だった。
「あ」
ぱちっと目が合ったのは、馬渕だ。こちらに向かって大きく手を振ってくれて、クラス席はわあっと盛り上がった。
「また博士かよ! ふざけんな!」
あれ、共同戦線はいつの間にか解除されていたらしい。
――それより、朝倉。朝倉。
朝倉は、クラス席とは反対の校舎側に立っていた。
呼んだら、気づくかな。いや、もし大声で陰キャが叫んで、振り向きもしなかったら? 俺、とんだ笑い者だぞ?
「うみくーん!」
どっかで誰かが、朝倉の名前を呼んでいる。
水谷さんは「気安く呼ぶな」と、ひそかにピキっている。
朝倉、かっこいいな。ちゃんと朝倉の声で「押忍」って聞こえる……ような気がする。学ランも、ながーいハチマキも、よく似合ってる。
今ここに、スケッチブックがあればいいのに。あの姿、後世に残さなきゃいけないよ、絶対。
けど今ここに、スケッチブックはなくて。俺の目に焼き付けるしか、なくて。
横顔ばっかりじゃ、ちょっとさみしい。
「あ、あ、朝倉ぁーっ!」
俺だって、やればできる。でかい声の出し方は、知っている。
いつか放課後の廊下で、朝倉にキレたときだって出せた。
「朝倉ぁー! かっこいいぞー!」
もうやけくそになって、力いっぱい叫んだ。
朝倉は演技中だったけど、くしゃくしゃの顔でこっちを見て……いや、ここは俺を、って思っておきたい。
「やば! 博士、超声張れんじゃん! いけいけ! 男の声のほうが響くから!」
「博士ー! いいぞー!」
黄色いハチマキの女子たちは、途中からなぜか俺の応援を始めて、カオスだったけど。
俺は生まれて初めて、学校行事を「楽しい」なんて思ったりしたんだ。
応援合戦が終わって、水谷さんにはすごく褒められた。
嘘みたいだ。あの鬼の水谷さんが……。
「あの、水谷さん」
「んー?」
相変わらず向けられる目は、つんっとしているけど。
「朝倉の応援、一緒にしてくれてありがとう」
「……はぁー? なに? あんたのうみんちゅじゃないんですけど! 我が物顔すんな?」
「天邪鬼……いって!」
腕の皮をつねられたけど、その顔はいつもの鬼の形相とはちがった、気がする。きんぴかシールでデコレーションされた、愉快な顔面のせいもあるかもしれない。
「その顔のやつ、シール? なの? ちゃんと綺麗に剥がれるの?」
「剥がれるに決まってんだろ、濡らせば取れんの!」
「へえー」
「だから顔汗かくとやばいんだよ、ほらここ。もう取れかかってるっしょ」
「あー……?」
よくわかんないな、と思って、水谷さんに顔を寄せたときだった。
「末広っ!」
水谷さんの向こう側から、走ってくる朝倉が見えた。その姿に、目を疑う。
「きゃあっ! 海くんだぁーっ」
思わず肩がびくっと跳ねてしまうほどの大きな悲鳴が、朝倉に浴びせられている。……当然だ。朝倉は応援団のコスチュームのまま、クラス席までやってきたのだから。
「うみんちゅ、学ランじゃんっ! ちょ、写真撮ろ!」
「杏里! 末広に手ぇ出すなっつったろ!」
「はぁ? 手出してないが?」
こればっかりは言いがかりなので、俺も同意した。ちょっと前に腕はつねられたけど、さっきはほんとうになにもされていない。
そんなことより、早くそれを脱げ。今すぐに。
朝倉と写真を撮りたがる女子の列がぬるっと形成され始めていて、なんか嫌だ。朝倉は客寄せパンダじゃないし……とにかくなんか嫌だ。
「なあ、朝倉――」
「末広。杏里と顔近すぎだから」
朝倉は頬を赤らめて、俺にそう抗議してきた。
「……あー……シール、見せてもらっただけだよ」
これだから陽キャは嫌だ。
平気で自分のみっともない感情を見せつけてきて、それが純粋無垢なもののように主張してくる。
俺なんかにまで嫉妬して、そんなに水谷さんが大事なのか。
「顔のシール、取れそうなんだって。見てあげれば?」
やけっぱちで言うと、朝倉は怪訝そうに俺を見つめた。
「なんで俺が?」
「は……?」
おまえが今抗議してきたんだろ、水谷さんに顔近づけすぎだって。
「つか末広の声、ちゃんと聞こえたよ」
「ん……そりゃな。人生で一番声張ったから」
「言い過ぎだわ」
わりと本気だ。運動部でもなきゃ声を張り上げる機会なんて、そうそうないだろ。それでも俺は、頑張って叫んだんだ。朝倉の名前を。
けどおまえが駆け寄ってくるのは、今日も俺じゃなくて、水谷さんなんだよな。
「ねねね! ほら博士! 写真写真っ」
水谷さんは、俺と朝倉の間に物理的に割って入ってきて、写真を撮れとスマホを押し付けてくる。
断ったらまたうるさそうだから、俺は大人しく、二人より何歩も後ろに下がって、カメラをかまえた。
「いきまーす、はいちーず」
「抑揚! 抑揚つけてよ、テンションあがんない!」
「注文が多いな……」
テンションあがんないのは、こっちだって同じだっつうの。なにが楽しくて、学ラン姿のレアな朝倉と、体育祭満喫女子のツーショットを撮ってやらなきゃいけないんだ。
「はい、よく撮れてます」
「それあたしが決めることなんだよ!」
つっけんどんにスマホを突き返すと、水谷さんは案外写りに満足してくれたようで「まあ、モデルがいいからね」とかなんとか言っていた。
「末広も撮ろうよ、一緒に!」
朝倉は明るく言って、俺の肩に腕を回してくる。
初めは驚いたな、この距離感に。けど、今となっては納得してる。
朝倉をはじめ、陽キャって距離が近いんだよな。
馬渕も平気で人の頭を撫で回してくるし、水谷さんもタッチの強度はともかく、蹴ったりつねったり、相手の身体に触れることにためらいがないもんな。
この肩組みに、なにか特別な意味なんてないんだよな。
「……撮る」
心の内は荒れ狂っていても、ちゃっかり写真は撮ってもらったけど。
あんまり、楽しい気持ちではなかった。
朝倉と写真を撮ろうと列をなしていた女子たちは、水谷さんが蹴散らした。
ミーハーかよ、と冷たく言い放つ、あの視線……怖かった。
それに鋭い視線を返す女子たちも怖かったから、いい勝負だったけど。
「海、とっとと着替えろよ。目立ちたがりみたいになってんぞ」
「げえ、それは最悪、もう脱ぐここで」
小さく悲鳴があがったけど、朝倉はそんなの気にせず学ランを脱いだ。
下に体操服を着ていたからどうってことはないけど、俺さえその仕草には、ドキッとしてしまう。
「無防備だな、相変わらず……」
だから簡単に惚れられてしまうんだって。
「末広にだけは言われたくねーわ」
それから朝倉と馬渕と三人で、クラス席の後ろのほうに座って、次々行われていく競技を眺めていた。
途中で、水谷さんが出場する借り物競争に馬渕が借りられていったり、また朝倉の頭に黄色のハチマキリボンがかけられたりした。
応援合戦のときは、たしかに楽しいと思ったはずなのに。今はなんだか、また胸がもやもやする。
俺の手は自然と地面へ向かい、砂に指でケントロサウルスを描いていた。
「また恐竜描いてる~」
「朝倉……馬渕は?」
トイレに行くと連れ立っていったはずなのに、戻ってきたのは朝倉一人だ。
「三年の先輩に拉致られた」
「モテんな、あいつも……」
それから、よく朝倉は無事だったなとも思った。
ケントロサウルスのとげは、長く鋭い。すうっと指を動かし、綺麗に描けたと思う。
「ステゴサウルス……じゃないよな、これ。なんていうの?」
「ケントロサウルス」
「初めて聞いたわ、かっけ~」
隣にしゃがみこんだ朝倉は、俺の描いた恐竜をスマホのカメラに収めてくれている。きっとそれを、ハルくんに見せてくれるんだろう。
「ハルは知ってんのかなー、ケントロサウルス」
にこにこと微笑む朝倉の頭では、また黄色のリボンが揺れている。
あれが揺れるたび、自分の足元もぐらぐら揺れるような感覚になって、なんだか落ち着かない。今日はずっとそうだ。
「朝倉――」
たまらなくなって、俺が名前を呼んだとき。
「海くん、ちょっといいかな?」
ピンク色のハチマキを手首に巻いた女子が、俺たちの前に立った。
ふと視線を持ち上げると、赤いリップがぱっと目に飛び込んでくる。
――刺繍が緑色だから、二年生か……。
体操服の胸元の刺繍の色は、学年を表している。青は三年、緑は二年、赤は一年。
二年生の女の先輩は、朝倉に向けて甘い視線を送り、どうやら朝倉もそれを受け取るらしい。
「……ちょっと、なら。俺このあとリレーあるんで、すんません」
「うん、全然! すぐ終わらすから」
立ち上がった朝倉は、やっぱり女子と並ぶと、いつも以上にたくましく見える。俺が朝倉の隣に並んでも、絶対ああはならない。
華奢で、やわらかそうで、守ってあげなきゃいけない存在。
きっと朝倉だって、無意識にそう思っているんだ。
近くでふざけていた男子生徒がよろけたとき、先輩を守るようにして、腕を優しく引き寄せていた。
「あ……ありがとぉ」
恥じらうように呟いた先輩の手首では、ピンクのハチマキがゆらゆら。
朝倉の頭では、黄色のリボンがゆらゆら。
不安定で、怖い。
「――朝倉」
縋るような気持ちで、朝倉の手首を掴んでいた。
「末広? どした?」
心配そうに見下ろされて、はっとする。俺さっきから、なにしてんだろ……。
「あ、ご、ごめん、なんでもない」
慌てて手首を離して、俺はまた砂の上のケントロサウルスと向き合うことにした。
「すぐ戻ってくるから、な?」
「ん」
朝倉はやっぱり、俺のことを五歳児だと思っている。
まるでハルくんに話しかけるような口調で言われて、一層情けなくなった。
「あれー、海いねーじゃん」
「馬渕……馬渕」
「なんで二回呼んだよ」
拉致られたらしい馬渕は、朝倉と入れ替わるかのように、すぐに戻ってきた。
このあとの最終種目のリレーに、馬渕も出るからだと思う。やっぱり陽キャは、顔もよくて足も速いと、相場が決まっているらしい。
「朝倉も拉致られた。赤いリップの二年の先輩に」
「ありゃまあ。それで落ちてんのか、スエは」
「落ちてる……のか」
自分でもよくわからない。
けど、不安定でぐらぐらした気持ちなのは間違いない。
「馬渕と朝倉って友達じゃん。こういうの、どう思う?」
「こういうのって? 告られること?」
「……やっぱ、告白されてんのか……」
当然予想はしてたけど。それ以外ないとも思ったけれど。
なんとなく目を逸らしたかった事実を、馬渕はしれっと言ってしまう。
「それ以外ねーだろ、この空気で」
バカだな、って言いたそうに、俺の頭を撫でまわす馬渕。口に出さないだけ、普段よりは気遣いを感じた。
「べつにどうも思わねーよ。スエだって、俺が告られててもなんも思わなくね?」
「それはまあ」
「少しは悩めよ!」
たしかに、馬渕が呼び出されたり、拉致られたり、きゃあきゃあ騒がれたり。そういう場面も何度も目にしているけど、なんとも思わない。……いや、モテるなぁと羨む気持ちは、多少あるかもしれない。
けど、朝倉に抱く、このぐらぐらの気持ちはない。
「馬渕とは友達じゃないのか……?」
考察が口に出ていたらしく、グーが飛んできた。
「バーカ、そっちじゃねえよ」
「そっち?」
「これだから人間初心者はよぉ」
馬渕はなぜか、ぎゅっと俺の手を握ってくる。
「どう? ドキドキする?」
「しない」
「これは?」
手を離したら、今度は肩に頭を乗っけてきた。
「重い」
「うざぁ」
それから朝倉がよくやるみたいに、よしよし、と優しく髪を撫でてきたり。
「……なにをしてんの馬渕は……?」
「まだわかんねーのかよ、この鈍感恐竜オタク! 子どもでもわかるわ!」
「なにがだよ……!」
ちっとも馬渕の言いたいことがわからない。
俺はなんて質問したんだっけ。友達が告白されてどう思う? か。
馬渕が告白されても、俺はなにも思わない。
それで馬渕のことを友達じゃないのかと疑ったら、そっちじゃないと言われた。
「で、これ……?」
馬渕に手を繋がれても、肩にすり寄ってこられても、頭を撫でられても。当然なんとも思わない。
だからつまり……どういうことだ?
「あ、海、戻って来たぜ」
頭の中がハテナマークでいっぱいになっていると、馬渕が一人で戻って来た朝倉を見つけた。
またぎゅ、っと手を握られて、やっぱりなにも思わないんだけど? とハテナが増える。
朝倉とはこんなふうに手を繋いだことはないけど……手首を掴まれたまま一緒に歩いたあのときは、今よりもっと、なんだか胸の奥がくすぐられているような気持ちで、触れあっている場所が、すごく熱かったことを覚えている。
……なにが違うんだろう? なにかがわかりそうだった、そのとき。
「末広」
「うわっ!」
いつの間にか目の前に迫っていた朝倉は、あまりに乱暴に俺の腕を掴み上げた。さっきの女の先輩のときとは、全然違う。あの先輩に同じことしてたら、たぶん肩の関節外れてる。
「なんだよ、朝倉……?」
「こっち」
強引に腕を引かれ、馬渕と繋いでいた手がほどける。
あ、と振り向くと、馬渕はニヤニヤとしながら、俺たちを見送っていた。
「え、なに、ちょっとまって、馬渕――」
「……は? え、なに、馬渕と手ぇ繋ぎたいの?」
「ちがっ! そうじゃなくて!」
「じゃあなんだよ」
ずんずんと足を進めながら、朝倉は低い声で俺を問い詰めてくる。
明るくて、どこまでも澄んだ声色が、俺の知っている朝倉の声だ。
こっちが恥ずかしくなってしまうくらいまっすぐに目を合わせてくるのが、俺の知っている、いつもの朝倉だ。
「朝倉、怒ってんの……?」
こんなふうに低い声で、しかも背中を向けたままなんて、怒っているとしか思えない。まるで仏のような朝倉を、怒らせたんだ。
俺ってほんとう、バカで鈍くさい。
「……怒ってるわけじゃ、なくて」
朝倉が、ぽつ、と呟く。
けれど、それに続く言葉はなかった。



