好きとか、嫌いとか、普通とか。俺が人間に対してそういう感情を抱くことって、なかった。
あえて言うなら『無』。これが一番近い感情な気がする。
家には家族がいる。学校に行けば、先生やクラスメイトがいる。電車や街には、もっと大勢の人間がいる。ただ、それだけ。
俺の描く恐竜を褒めてくれる人もいれば、バカにしてくる人もいるけど、だからって好きとも嫌いとも思わない。
俺が気持ちを向けるのは、いつだって恐竜だけだ。――……だけ、だった。
二学期が始まってすぐ、席替えをした。
こんなことだって、今まで特に気にしたこともなかった。
なるべく落書きがバレないよう、後ろの方だといいな、とか、それくらいなものだ。それが叶っても叶わなくても、どっちでもよかったのに。
今度の席替えで、俺は一番後ろの席を手に入れた。
だけどそれは、たった一つ願ったこととは、まったく違ったんだ。
「ブラキオサウルスだろ、これは」
「違う、アルゼンチノサウルス」
「なんそれ、聞いたことなぁい」
前の席に座る馬渕は、ふざけた声を出しながら俺のノートに『アルゼンチン』と意味もなく書いた。そのスペースにだって恐竜を描けるんだから、無駄遣いしないで欲しい。
「んだよ、怖い顔すんなって。海と離れちゃってさみしーのはわかるけどぉ」
こいつ……また人のことおちょくりやがって。むかつく奴だと睨みつけると、「あっはは」と得意の絵文字スマイルで返された。
こっちは図星をつかれて、ちっとも笑えないっていうのに。
「レッサーパンダくんは怖いねえ」
「バカにすんな……!」
馬渕はすぐ俺をおもちゃにして遊んでくる。むかつくなぁと思う。
けど、好きか嫌いか普通なら……普通だ。夏休みも三人で遊んだりしたし。
「やっぱ代わりゃよかったのに、海も変なとこ潔癖だよな。スエが言えば違ったんだろーけど」
くじ引きの番号をせーので開くと、俺は六番で、朝倉は二十三番だった。
廊下側の俺と、窓側の朝倉……少しだけ気持ちが沈んだのは、たぶん俺だけだった。
五番を引いた馬渕が朝倉に交換を提案してくれたのに、朝倉はそれを断っていたから。それなのに、俺が代わってくれよだなんて言えるわけない。
「……朝倉は真面目なんだよ、馬渕と違って」
「いやー? あいつも結構曲がりくねってるだろ」
「マウントやめろ」
「まじで言うようになったよね、博士クンよぉ」
馬渕はそう言いながら、俺の頭に手を伸ばしてくる。
「うわっ、やだ!」
先週、新学期に向けてさっぱりしてこいと言われ、優雅と床屋に行った。……あ、床屋じゃないんだった、美容院、か。
わがままボーイのご希望で、やけに明るいカフェみたいなお店で髪を切る羽目になったわけだけど、サイドと後ろを少し刈り上げてもらって、髪型は多少今っぽくなった気がする。もちろん、髪型だけの話だ。
それがおしゃれな馬渕には気に入られたようで、こうして隙を見ては、刈り上げの部分をしょりしょりと撫でまわされるようになってしまった。
「髪やだってば! くすぐったいんだよ!」
「だからそれ意味わかんねー」
「こう……地肌をさわさわされてる感じがすんの」
「ちょい、やってみて」
そう言って馬渕は、不自然に真っ黒になった頭を差し出してくる。
やってみてと言われても、馬渕は刈り上げてないんだから、絶対俺の気持ちはわからないと思う。なので指先だけで、そっと生え際あたりをなぞってみた。これくらいすれば、不快さは伝わるだろ。
「くくくっ……おまえ、わざとやってんだろ!」
「ほんとにこれくらい! これくらいくすぐったいんだよ!」
「ぜってー嘘、誇張すんな」
「してないってば!」
ぎゃあぎゃあ言い合っていると、ふと窓際の席に座る朝倉と目が合った。
机の横に足を投げ出して座っている朝倉の周りには、派手な男女が集い、なんだか大盛り上がりしている。朝倉も楽しそうに笑っていた。
朝倉には、たくさんの友達がいる。俺なんかとは違う。
だからどこへ行ったって、べつにさみしいとか、つまんないとか、きっと思わない。わざわざ俺の席まで足を運ぶとか、そんなことする必要だってない、けど。
「……なんでおまえんとこにもこねーんだよ……」
「ん?」
俺のとこに来なくたって、いつメンの馬渕のところには、遊びに来たっていいじゃんか。
「……ごめん、八つ当たり」
机に突っ伏して、視界を遮った。
朝倉の笑顔は、見ているとこっちまで明るい気持ちになれるはずなのに。
今はあんまり、見たくない。
――そういや朝倉は俺の髪、うんともすんとも言ってくれなかったな……。
俺の髪の毛で暇つぶしをする馬渕の手が、朝倉の手だったらいいのに、なんて思う。かまってくれる馬渕には、ごめんだけど。
それから数週間が経ち、朝倉との距離は、少しずつ離れている気がしてる。
朝会えば、挨拶を交わす。帰りもそう。朝倉が馬渕と一緒に帰るときには、俺にも『またね』と言ってくれる。
昼休みも初めの数日は馬渕と三人で食べていたけど、気づけば朝倉はいつメンたちと過ごすことが多くなっていて、俺たちの席には来なくなった。
最近はお互い自席に座ったまま、馬渕と二人で食べることばかりだ。
「朝倉、行こ?」
「おー!」
だから、週に一度の選択授業の時間だけは、俺から誘いに行くようにしている。
陽キャ一軍たちに囲まれた朝倉に話しかけるのは難しくても、この時間だけは朝倉の体が空くし、同じ場所へ向かうという大義名分があるだけで、難易度はかなり下がる。
肩を並べて廊下を歩く。それだけで、なんだか気持ちがすっと落ち着く。
「なあ、朝倉――」
今日は一緒に昼食べない? そう誘おうと思ったのに。
「朝倉ぁ! おはよー!」
「おはよーって、もう昼前~」
「きゃははは! まじだー」
そうやって、どこぞの女子たちとじゃれ合っているうちに、あっという間に美術室に着いてしまった。
結局いつもこうだ。朝倉は人気者なので、移動中もあちこちから話しかけられてしまう。
「ごめん、なに末広――」
「はーい、授業始めるぞー」
……はあ。今度は先生が教室に入ってきて中断。
ゆっくり二人で話したのは、いつが最後だろうな。
無言で顔を見合わせると、朝倉は困ったように微笑んだ。
「またあとで、な」
俺はそれにこくりと頷いたけど、きっとその『あとで』がこないのはわかっていた。
だって毎週そうだから。
「朝倉――」
「なあなあなあ! 海、スエ! 聞いて、今日の俺、ハットトリック~!」
授業が終わり美術室を出ようとすると、どこからともなく馬渕のでかい声が飛んでくる。それと同時、ぞろぞろとその仲間たちもやってきて。
「いや、あれは俺のアシストのおかげな!?」
「はいはい、あんがとあんがと! 杏里、動画撮ったっしょ? ちょっと見せてやってよ!」
「まぶちんだるっ!」
まるで波に吞み込まれるように、あっという間に陽キャたちに取り囲まれて、朝倉とさっきの続きを話すような雰囲気ではなくなってしまうのだ。
これは毎週のことで、もう慣れた。
「またな、末広」
「ん……」
「え、海も一緒に昼食おうぜ」
馬渕がこうして誘っても。
「……いい」
朝倉はいつも断る。
「なんでだよ! スエ見ろよ、泣きそうだぞ!」
「はぁ!? 泣くわけないだろ! 馬渕、選択のあとのテンションだるすぎる」
「アドレナリンだよ! つかなに? だるいっつった?」
「言ったよ、さっき女子にも言われて……いってえ!」
強烈なデコピンが飛んできても、ヘッドロックをかまされても、朝倉は俺を助けてはくれない。目も合わさずに、自分の席へと戻っていってしまう。
そうして今日も、一週間で一番楽しみだった選択授業の時間は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
最近の俺が描く恐竜は、とげとげしい恐竜ばかりだ。
けれど、次の日の放課後。
思いもよらない絶好のチャンスが、俺のもとへ舞い込んできた。
「朝倉」
「お、末広だ」
「ノート、出してないよ」
日直はノートを集めて職員室まで、なんて言いつけられたのだ。
女子の日直は女子の分だけを集めて、早々に帰ってしまった。「あとはよろしくね!」なんて弾ける笑顔で言われたら、クラス全員分おまえが持ってけよって意味でも「うん」と頷くしかない。
朝倉ならすぐに出しに来るだろうと待っていたけれど、帰りのHRが終わってもまだ来ないものだから。勇んで俺が、朝倉の席まで催促にきたってわけ。
「やべ、そうだった」
「うみんちゅ、うっかりさーん」
「あー、しかも今日ちょっと寝ちゃったんだよなぁ」
「写す? あたしの」
「……えー……」
朝倉の前の席に座る大人っぽい女子は、俺の手元から自分のノートを探し当てて、遠慮なく引き抜いた。その名前を見て、納得する。
水谷杏里。前に馬渕が言っていた『杏里サン』は、この子のことか。
「あ、でも杏里、今日バイトあんでしょ?」
「あっ!」
「杏里こそうっかりさーん」
「やめてよも~!」
真っ白で華奢な杏里サンの手が、朝倉の手の甲にふわりと触れる。そのままさりげなく人差し指を絡め合って、俺はとっさに二人から目を逸らした。
「……あの、遅れるなら自分で出し行って」
「え」
「うわ、博士クンおこだ」
「怒ってない」
いたたまれなくなっただけだ。陽キャのイチャイチャを前に、ノートを抱えて棒立ちしている自分が。
さっと踵を返して、俺は教室を出た。
というか、ノートだってクラスの人数分になればそれなりに重いし、朝倉一人のために待ってやる義理なんてない。
杏里サンにノートを借りて、二人分、朝倉が自分で職員室に出しに行けばいいんだ。
……息がうまく吸えない。最近ずっと、俺はおかしい。
なにかやばい病気にでも罹った気がしてならない。
「末広! 待って!」
すると、背中のほうから声がする。
「……終わったの?」
廊下の真ん中で足は止めたけど、振り返らなかった。職員室へと続く階段を見つめたまま、朝倉に返事をした。
「もうちょい待って?」
でたよ、この甘えた声。朝倉の要望の通し方、もう俺だって知ってるんだ。
「ごめんだけど、急いでるから。先生には伝えとくから――」
「末広」
ふ、と横から手が伸びてきたと思えば、腕が軽くなる。
「半分持ってくから、もうちょい待って」
……なんだそれ。わざわざ俺に待っとけって、意味がわかんない。
杏里サンのと自分の、それだけ持ってきゃいーじゃん。それともあれか、放課後の教室で一人ノートを写すのが、そんなにみじめか? 俺なんていつだってそうなのに。
「意味わかんない」
「……わかれよ」
「はぁ? べつに一人って恥ずかしいことじゃない、俺なんていつも――」
「末広、なに言ってんの? それこそ意味わかんないんだけど」
あー、だめだ。今の俺は、ケントロサウルスくらいとげとげしちゃってんだよ。変に刺激してくんなよ。
「待っててくんないの、末広」
そうやって甘えた声で頼めば、なんだって叶えられてきた奴。
杏里サンにもそうやって色んなこと、叶えてもらってんのかな。
同じやり方で、俺にも頼むんだな。
なんか……なんか、むかつくな。
「だから! わざわざ俺に待っとけって、意味がわかんないっつってんの!」
下校時刻を過ぎた廊下に、ブチ切れた陰キャの声が響き渡った。
――せっかく……せっかく朝倉とゆっくり話せると思ったのに。こんなの台無しだ。
二学期になってから、俺は変だ。こんなにぐらぐら、不安定な毎日は初めてだった。
いままではいなかった『友達』と呼べるかもしれない存在のせいでこんなふうになるなら、一人で恐竜と向き合ってる方が、ずっとラクじゃないか。
「……朝倉、もうやだ」
そう思っているのに、足が、ちっとも動いてくれない。
面と向かって友達契約の終了を言い渡されたら、今の俺はきっと立ち直れない。
それならここで大人しくフェードアウトしたほうが、きっといい。はっきり終わらせないほうが、傷も浅いはずだ。それくらい、俺だってわかるのに。
「……末広、ごめんて」
朝倉のやわらかな声が、まだ隣にある。
たったそれだけが、俺の足を止めてしまう。
「なにがだよ」
「だから……ちょっといじわるだったと思った」
「……わかったならもう一人で職員室行って」
「それは無理」
「はぁ……?」
すると朝倉は、ノートを抱えたまま突進してきた。
「うわっ!」
不意を突かれた俺は、腕の中のノートを廊下にぶちまけてしまった。
「な、なにしてんの! パキケファロサウルスか!」
「ふっ……そのツッコミ、あんま伝わんないって」
なにを呑気に笑ってんだ、拾えノートを……!
「…………笑って、る」
「ん? まあ俺はわかるし、パキケファロサウルス。デコが硬いあれだろ?」
笑ってる、朝倉が。俺の隣で。
「なんか、久しぶりだな」
「毎日会ってんだろーが」
「そういう意味じゃ……なくて」
久しぶりだ。こんなふうに二人きりで笑い合う時間が。
すうっと心が凪いでいく。
穏やかな大海原に、ぷかぷか浮かんでいるような気持ち。
「……末広と二人になりたかったんだよ、俺は」
「へ?」
朝倉は拾い集めたノートを持って、俺の前にしゃがみこんだ。
「おまえ最近、馬渕とばっか」
「なっ、それは――」
「言い訳は受け付けません」
「理不尽……!」
まるで拗ねた子どものように、朝倉は不服さを隠そうとしない。こんな朝倉を見たのは、初めてだ。
「ノートだって、普通に書いてるよ。末広じゃないんだし」
「え、じゃあなんで……」
と、言いかけて、朝倉の視線の熱で、はっと気づく。
ふにゃりと腕の力が抜けて、せっかく拾い集めたノートは、また、バサバサと床に散らばった。
「おまえ、なにしてんの! さすがにみんなに申し訳ないわ!」
朝倉は爆笑しながら、それを拾ってくれているけど。こうさせたのは……おまえだぞ。
「……朝倉ぁー……」
さっきまでは痛かった胸の奥が、今度はくすぐったい。やっぱり俺の身体、なんかおかしい。ぎゅっとなにかにしがみつきたくなって、気づけば朝倉の袖をつまんでいた。
「んー?」
目と目が合う。優しい笑顔が、俺だけに向けられている。足りなかったなにかが、満たされていく感覚。……そっか。俺、そうだったんだ。
「俺も同じだ……。ずっと朝倉と二人になりたかったんだ」
言葉にすると、どうしてこんなに簡単なことがわからなかったんだろうと、不思議な気持ちになる。
思い返せば、夏休みは馬渕が取り仕切ってくれて、三人では遊んだけど。結局あの図書館のあとは、予定が合わず朝倉と二人では遊べなかった。
それでようやく学校が始まったのに、今度は席替えで離れてしまって、思うように話せなくなって。
朝倉と二人になりたい。なのに、なれない。
たったそれだけのことが、俺をケントロサウルスのようにちくちく、とげとげさせてたんだ。
人間の感情って怖いな。自分でもわからないことばかりなのか。
「あれ……? でもさ、朝倉、昼来なくなったよね」
「あー……ね」
「馬渕が誘っても、来なくなった」
べつにそれを責めたいわけじゃない。朝倉が誰と昼を食うかは、朝倉が決めることだ。けれど、俺と同じ気持ちでいてくれたのなら、どうして最近は一緒に食べてくれなかったのか、不思議だったんだ。
だって俺はそのー……朝倉と昼を食えないのは、さみしかったから。
「……末広が誘ってくれれば、普通に行ったけど」
「へ?」
「あー……いや、ごめん、今のナシ!」
そう言って朝倉は俺の手を取り、人さし指だけをきゅっと握った。
「とにかく、遊び行こ、二人で」
――二人で。
疑いようのない素直な物言いも、まっすぐな視線も、いつもと変わらない。
光属性の朝倉らしい振る舞いだ。……なのに、なんでだろう。
なんだか今は無性に――恥ずかしいんだけど。
「ぇ……や、ちょっと……そんな目で見んな」
「は? いーから返事は!」
「必死かよ……」
「必死に決まってんだろ。もう後悔したくないから」
その言葉を裏付けるような強い視線に釘付けになっていると、さっきまでは人差し指にだけ触れていた手が、手のひらぜんぶを強く握り締めてくる。
それに反応するように、俺の心臓もドクッと大きく跳ね上がった。
「……行くの、行かねえの?」
「……行くに決まってんだろぉ……!」
朝倉の甘い視線を浴びて、全身から力が抜けていく。
ダンゴムシみたいに丸まってしまったけど、繋いだ手だけは離れない。
朝倉が、強く握っていてくれるから。
「末広、いつ予定空いてんの?」
「だからいつでも暇だって、俺は」
「そんな切ないこと言うなよ、泣けてくるじゃん」
「うるさ……顔笑ってんだよ」
「ああ、ばれた?」
いたずらっ子のような茶目っ気たっぷりの笑顔に、また胸がドクンと鳴る。
「んじゃとりあえず明日、俺んちでゲームでもする? 末広、ゲームやだ?」
「する。やじゃない、全然」
「即答~」
それからようやくまとまったノートを揃えて、俺たちは職員室へと肩を並べて歩いた。
たまに触れ合う朝倉の腕が、どうしようもなく嬉しくて。
なんだか思わずスキップでもしたくなるような、そんな夏の終わりの放課後だった。



