――Domと分かったばかりの高校生が、自分で見つけたSubを意識しないなんて無理な話だと思わないか? 相手がとんでもなく可愛くない奴だったら特に。
休み時間、教室の壁に寄りかかりながら廊下で暁斗は友人と喋っている。話題は高校の第二学年に上がってすぐ行われたダイナミクス判定についてだ。
「なぁ〜アキってさ、Domだったんだろ?」
「お前それ大声で言うなよ。プライバシーって知ってる?」
「ごめ〜ん、でもあれだろ? くねーる、だっけ。そういうの言うとSubの子が従ってくれるんだよな!」
「くねーるって……馬鹿なの? kneelだよ」
実際には日本語でもいい。言葉にCommandを込めるだけだから、いまのは恐ろしく英語が苦手な友人ヤスのためだったはずだ。
『おすわり』と口に出した正しい発音は、生徒たちの声でざわめく廊下に溶けていった。ただ、一人を除いて。
ぺたん……とちょうど通りかかった小柄な男が腰を抜かす。
「ちょっと朔? どうしたの大丈夫?」
「だいじょうぶ……ちょっと足挫いた」
隣を歩いていた友人らしき男が驚いたように声をかける。床に座り込んだ男は平気そうに返事をするが、なかなか立ち上がれないようだった。
視線を感じたのか彼が横を振り向き、パチ……と眼鏡のガラス越しに目が合う。俺は気づいていた。
自分が意図せずGlareを放ち、言葉をコマンドとして発してしまったことを。そして目の前の男がSubだということを……多分、お互いだけが気づいた。
まとう雰囲気は地味で、小さい顔に対して大きめの眼鏡と長めのショートカットが目元まで隠している。切れ長の目尻が隙間から見えた。
隣に立つ男も眼鏡をかけていて、こちらはスマートな優等生顔。いかにも真面目ちゃんグループの二人という感じだ。
ブレザーにつけた校章の色は緑。一学年上の三年生だと素早く確認し、俺は思わず手を差し出した。だって、彼がこうなっているのは自分のせいだから。
「先輩……ですよね。大丈夫ですか?」
「ひぁっ……。僕に触れるなガキが! くそ、武蔵ちょっと肩貸してくれ、保健室いきたい」
肩に置いた手は素気なく振り払われた。後半の言葉は隣に立つ友人へ向けたものだ。思ったよりも口が悪い。――ぴくっと反応した声、小さく震えた肩は見逃さなかったけれど。
ぽかんと口を開けて固まる俺を置いて、友人に肩を借りた男がチッと舌打ちして離れていく。
『無差別にコマンド投げてんじゃねーよ』と言わんばかりの、明らかに俺へ向けた舌打ちだった。
「可愛くねーー……」
「それ男の先輩に対する感想じゃないっしょ。どしたん?」
確かに自分が悪かった。興味本位の言動があの先輩に迷惑をかけてしまったのだ。
ダイナミクスは欧米で血液型を訊くのと同様、オープンにすることはタブー視されている。
DomやSubは家によっては後継問題に関わるし、周囲が勝手に騒いで人間関係に影響したりする。勝手にカーストトップに祭り上げられたり、逆に苛められたり。
まぁウチの高校は家柄の良い奴が多いので結構ゆるい。言い換えればおおらかだと思う……この友人然り。
より秘すべきなのはSubだ。彼らはDomに支配されたり庇護される性質を持つ。そのせいで下に見られることが多いし、遊び混じりにコマンドを投げかけられたり、時には事件に巻き込まれることさえある。
危うく先輩のダイナミクスを露見させてしまうところだった。こんな、人の多い場所で。
しかし成人前に行なわれるダイナミクス判定直後は、意図しないミスや些細な事件はよく起こる。未熟な学生は人のダイナミクスを知りたがるし、Domであれば特に自分の力を持て余し、みんなどこかで試したいと思ってしまうからだ。
俺もやっちまった〜〜と大いに反省したが。同じ学校の先輩なら、後輩のあやまちを優しく見逃してくれたってよくないか?
あーあ、何を期待してたんだか。よく見れば顔の綺麗な男だったから、つい……なんだ。
確かに涼しげな目を隠しているのはもったいないと思ったし、小さめの鼻や口が日焼けのない肌にバランスよく並んでいて……いやいや、雰囲気を思い出せ。地味で口が悪いだけの男だぞ?
あーくそっ、心臓の音がうるさい。図らずも、初めてコマンドが通ってしまったからかもしれない。
DomやSubという二次性を持つ人間は、その他大勢のUsualと違い、その欲求を適度に発散しないと調子を崩す。逆に欲求が満たされると心身の安定や満足感をもたらすらしいのだ。
二次性に関しても、その成熟スピードは人によって異なる。だいたいが成人するあたりから徐々に成熟し、働き始めたり大学へ進んだころ、真剣に自分の性と向き合うことになる。
つまり欲求を発散する相手を見つけるか、そういう店に世話になるか、薬の世話になるか、だ。男の性欲と違ってひとりで解決できないのが悩ましい。
確かにあの先輩がこちらを見上げてきたときにはドキッとしたが、どうせPlayするなら可愛いげのある女の子がいい。
まぁ、もう二度とあんなことにはならんだろ。グレアには気をつけるし……会っても気まずいだけだ。
「あ」
意外にもその先輩の姿は翌日見かけた。
選択科目で少数派の科目に対して使われる空き教室。俺たち理系の生徒なら、日本史とか地学の授業でそこは使われる。
俺が次の授業のためにその教室へ向かうと、先輩がだるそうに授業を聞いているのを見つけたのだ。
机に肘をついて、前髪の隙間から教師を見ている……と思ったら大きな欠伸。手で隠した隙間から、赤い舌がチラと見えた。
悪いのは口だけかと思ったら、授業態度も悪い。真面目そうな見た目とは正反対の性格らしい。
というかもう休み時間なんですが、と思っていると、この前も先輩の隣りにいたスマート優等生風の男が「先生、もうそろそろ」と控えめに声をかける。
自分の授業に熱中していた教師は「あっ、ご、ごめんねぇ!」となんとも気の抜ける謝罪をして唐突に授業を終わらせた。聞いていた十人ほどの生徒は慣れたように挨拶をして、教科書とノートを片付け部屋を出ていく。
俺は廊下の窓からじっとその様子を眺めていたものの、その姿に気付いた女の先輩がチラチラこちらを見てくる。ついには話しかけようとこちらに足を向けたのを感じて、わずらわしい視線を振り払うように入口へと向かった。
もうほとんどの生徒が部屋を出たからいいだろう。あーあ、去年の文化祭で迂闊にミスターコンなんて出るんじゃなかったな……
確かにいま彼女はいないし、要らないのかと言われれば欲しいけど……向こうからガツガツくる積極的な女は苦手だ。
もともと目立つ容姿をしているのに、コンテストがきっかけで余計注目を浴びてしまった。結果、苦手なタイプに囲まれるようになって、ちょっと恋愛にも辟易している。
ドアを抜けると、教師は次の授業のために慌てて黒板を消している。この授業はヤスとも別だし、俺も暇だったから気まぐれに手伝おうとした――のだが。
「先生、手伝いますよ」
「あっ、飛鳥井くん! ありがとう」
真面目そうに見えて不真面目な先輩が教師に声を掛けた。やっぱ真面目なのか……? どっちなんだ。つか、そろそろ次の授業に間に合わないだろ。
飛鳥井先輩――偶然名字を知ってしまった――が黒板の上の方を背伸びして消しているところで、後ろから言葉を発した。
「俺がやりますよ、次の授業ここなんで……先輩」
「ああ、ありが……」
振り向いて、固まる。口元に乗っていた愛想の笑みさえすぐに消えてしまった。
舌打ちこそ聞こえなかったけど、先輩は黒板消しをバフッと置き教師に話しかける。チョークの粉がちょっと舞った上、俺の存在は無視だ。
「先生、あとはこの……二年がやってくれるみたいなんで、行きましょう」
「助かるよ! えーっと、君は……あっ、ミスター君だね!?」
ミスター君て。おおかた、ミスターコンで優勝したから顔だけ知ってたって感じか。まぁ、あるあるなんだが。
「あーっと、風谷です」
「風谷くん! いやー、近くで見てもモデル級のイケメンだねぇ。背も高いし、脚も……なんでこんなに長いの?」
「さぁ……」
のんびり屋すぎる教師の話に付き合っているあいだに、先輩はしれっと姿を消してしまっていた。俺たちの授業のためにやってきた日本史の担当教師が、地学ののんびり教師をつまみ出していく。
――え、なんなん。ガチスルーって、まじむかつくんですけど。愛想笑いさえ見せる価値ないってか?
会っても気まずいとか思っていたことは自分でも忘れていた。別に好きで取っている授業でもないし仲のいい友人もいないから、気を紛らわす方法が見つからない。
毎回ラリホーでも使われてるんじゃないかと思うほど眠くなる日本史の授業を聞いても、イライラして一向に眠気はやってこないのだった。
それから何度も飛鳥井先輩の姿は見かけた。
移動教室での廊下とか、窓から見える運動場でだるそうに体育してる姿とか、たまに行く学内の食堂で眼鏡を曇らせてうどんをすすってる姿とか。
別にマンモス校でもないから、これまでもすれ違ってはいたんだろう。でも気づけば俺はあの気に食わない先輩を探していて、なにか――知らない一面を見つけようと躍起になっている。
俺がジッと見ているから、たまに目は合う。その瞬間氷のように冷たい目で睨まれ、すぐに逸らされて、決してまたこちらを見ることはない。徹底されている。
わざとじゃないにせよ、相手にとって不快なことをしてしまった。だから嫌われても仕方がないとは感じる……のだけれど、初めて校内で見つけたSubにここまで冷たくされると地味に傷つく。
俺の両親はともにDomで、それぞれSubのパートナーがいる。そしてそのSub同士も夫婦というちょっと変わった関係だ。俺もたまに挨拶するが、彼らはとても好意的で優しい。
まぁ、この見た目のおかげか好意を見せて寄ってくる人の方が多く、逆の態度に慣れていないというのもある。みんながみんなじゃないけどな。
「あの眼鏡の先輩ってさぁ、学年一位らしいよ」
「眼鏡のって、どれ?」
眼鏡と聞いた瞬間あの顔が浮かんだが、何気ないふりをして確認する。ヤスこと康裕は俺の真似をして「『可愛くねー』って言ってたじゃん」と言う。声真似が引くほど似てないな。俺の声はそんなに高くない。
「アスカイ、って人。めちゃくちゃ頭いいんだって。部活の先輩が話してた」
「へー……」
無意識に低い声が出て、チリ、と胸の奥が火花を立てた。
自分で言うのもなんだが、俺は部活にも入らずけっこう真面目に勉強している。
しかしどんなに頑張っても成績上位に食い込めない。中学までならクラスで一番とかにもなれたのに、いい高校に来たとたんこれだ。せいぜい中の上。
それなのに、あの真面目そうで不真面目な男が一位なのか……と面白くない気分になった。
「あーゆー人って東大とか行くんかな?」
「さぁ?」
「はぁ……いってぇ〜……」
白いティーシャツに紺ジャージのパンツ。まさに体育の授業を抜け出してきました、という格好で廊下を歩いている。授業中の廊下はとても静かで、俺の足音だけが響く。
バスケのチーム戦で、ヤスの繰り出したノールックパスを受け取りそこねた。まじダセぇ。右手の指、付け根が赤くなっている。
犯人のヤスは『アキちゃんごめ〜ん!』とふざけた感じで謝ってきたが、顔はガチで焦っていた。
保健室へ一緒に行くと言われたのは断った。大袈裟にされるとよけい恥ずかしいんだよ。
教師も見慣れた様子で『突き指だね』と何でもないように告げた。
普段はこんな凡ミスしないのだ。一年のとき、あらゆる運動部から勧誘を受けたくらいには運動神経にも自信がある。
入学して以来場所だけ知っていた保健室へ到着し、ガラッとドアを開けた。
「センセ〜、頭痛薬くださーい」
理由はこれ。さいきん頻繁に頭が痛くなる。
体育の授業がはじまる時点ではちょっと痛いかも程度だったのに、途中からガンガン響くような痛みに変化した。おかげで試合に集中できず、こんなダサい怪我をする羽目になったのだ。
「きみ。いま寝てる子いるから、静かにね。頭痛いの? いつから? ――そう……ごめんね、保健室で薬は出せないの」
「え……そーなんすか。知りませんでした」
まじか。申し訳なさそうに告げた養護教諭の言葉に、俺は素直に驚いた声を出した。
昔から保健室にはあまり縁がなかったし、頭痛みたいな不調だってここ最近始まった。それならまっすぐ教室へ向かえばよかったな。
後悔しながら、はーっとため息を吐きつつ椅子に座る。教室にある自分の鞄には市販の頭痛薬が入っているものの、今から取りに行く気力もなかった。
「ちょっと横になってたら? 目を閉じるだけで楽になることもあるから。あんまり酷かったら親御さんに連絡して、病院に連れて行ってもらいなさい」
「はーい……あ」
「あ! 保健だより配布しなきゃいけないんだったー! ちょっと出るけど、きみは勝手にベッド使っていいから。飛鳥井くんも、良くなるまで寝ててねー!」
「…………」
手の処置をしてもらおうと思ったのに、それを伝える前に養護教諭はあわてて部屋を出ていってしまった。ずっと保健室にいるだけの仕事だと思っていたが、意外に忙しそうだ。
そんなことより……
俺はふり向いて保健室の一角を見た。春の日差しが生成りのカーテンを通りぬけ、柔らかく室内を照らしている。手前のベッド二つは無人で佇んでいるが――奥のベッドを囲うよう、薄緑色のカーテンが引かれている。
あそこに、あの人がいるのか。
(いや……だからなんだってんだ)
会話になるほど話したこともない。それどころか頑なに無視してくる男が保健室で寝てるからって、なんなんだ?
どうしてもベッドの方へ意識が向かうのを無理やり引きはがし、俺は自分で手の応急処置をすることにした。湿布は消毒や絆創膏と一緒に置かれているのを見つけたし、使って事後報告でも多分大丈夫だろ。
(つーか冷やした方がいいんだろうなー……氷嚢とかあるかな。あー。頭いてー)
怪我したのが利き手じゃなかったのは不幸中の幸いだ。それでも片手で貼った湿布はかなり皺が寄ってしまった。
とにかく手より頭の痛みが酷くて、そこで限界だった。少し横になろうと、ふらふら空いているベッドの方へ向かう。
しかし、半分目を閉じていたせいで――俺はパイプベッドの脚を思いきり蹴飛ばしてしまった。ガァーン!と大きな音が室内に鳴り響き、「やべ」と小さく呟く。
足は無事だけど、これはまた……ウザがられる案件じゃ……。
飛鳥井って名字のやつは他にもいるかも……なんて淡い期待は打ち砕かれ。そっと開けられたカーテンの向こうから怪訝な表情で顔を覗かせたのは、あの飛鳥井先輩だった。
「…………」
「すいません、煩くして……」
自分が圧倒的に悪い状況に、若干血の気が引いた。この人も体調が悪くてここで寝ていたはずなのに、バカでかい音で起こしてしまったのだ。
先輩は何も言わずに立ち上がり、そのまま保健室の出入り口に向かう。その行動にも、俺は胸の内を引っ掻かれたような心地になった。
謝罪さえ無視される。同じ空間にも居たくないのか……。
そのまま背中を見送ろうとして、小さな違和感に気づく。あれ、なんかいつもと違った?
顔色は良くなかったように思う。保健室で休むほど体調が優れないのだから当然だろう。いつも白いけど、今日は紙のようで。ただそれだけじゃなくて、なんか顔が幼く見えたというか……
「あ」
先輩がいたベッドのカーテンが半分開いている。その枕元に、眼鏡が置いてあった。俺はとっさにそれを取り、ドアを開けようとしている先輩を呼び止めた。
「先輩っ」
「…………」
呼んでも振り向かない。また無視かよ……。頭痛で気が短くなっているのを感じながら、理由があるのをいいことに俺は先輩の肩を掴んだ。あ、突き指が痛ぇ。
肩を掴んだ手はしかし、全く手応えがなかった。
「ちょっ、先輩!」
その瞬間、ドアに縋りつくように――先輩が倒れた。
咄嗟にしゃがみ込み、先輩の身体を支える。触れた指先はあたたかい室内とは対照的に冷え切っていた。
「どうしたんすか、大丈夫ですか!」
必死の呼びかけも、先輩がぎゅっと目を閉じているから聞こえているのかもわからない。唇も紫色になり、どんどん顔が青くなっていることに気付いた。
こんなのどうすればいいんだ! せっかく保健室にいるのに、養護教諭が戻って来る気配はない。俺の対処が遅れたせいで、取り返しのつかないことになったら……!
過去の記憶がフラッシュバックし、余計パニックに陥った。すぐに誰か、いや救急車を呼ぼう!
「ああもう! スマホ教室だし……この部屋に電話とかあったか?」
「……から」
ジャージのポケットは空だった。悪態をついて電話を探そうとするが、先輩をこのまま床に転がしておくわけにもいかないと纏まらない思考で迷っていたとき。下から先輩の声が聞こえた。
「だい、じょぶ、だから……横に、ならせてくれ」
「……!」
力ない声が余計に不安を煽ったものの、眉尻を下げたつらそうな表情で頼まれたことを無下にできるはずもない。なるべく揺らさないようにそっと抱き上げ、元のベッドへと運んでいく。
半分閉じたカーテンの内側に入りシーツの上に身体を横たえると、カーテン越しの光でも眩しいのか目の上に腕を乗せてからは微動だにしない。
見たことのない弱々しい様子に、これがあの飛鳥井先輩なのかと疑いたくなる。焦りで汗がこめかみを伝った。
まだパニックから抜け出せていなかった俺は、もう一度電話を探そうとそこから出て行こうとした。
「う……ぅ」
「先輩!?」
うめき声に振り返れば、先輩は身体を胎児のように小さく丸め、ガクガクと震えている。尋常じゃない様子に目を離すことができない。
「さむ……さむぃ」
その言葉を聞いてようやくひとつやるべきことを把握した。隣のベッドからブランケットを取り、先輩に掛ける。ブランケットの上から身体をさすると、わずかに震えが落ち着いたような気がした。
にもかかわらず、今度は浅かった呼吸に異変が生じた。ハッ、ハッと激しく息を吸い、喉を掻きむしろうとする。
「息がっ……、くるし……ッ!」
「ちょっ、先輩!」
その症状を俺は見たことがあった。先輩が自らの首に当てた指を引き剥がし、「ゆっくり息をして!」と声掛けする。
だが先輩の視界に俺は映っていないように感じる。声も届かず、俺は必死になってなんども先輩と視線を合わせようとした。押さえていても、くり返し手が皮膚を掻きむしろうとする。
「飛鳥井先輩! だめだって、落ち着いて! ……止めろ!」
ぴた、と先輩の動きが止まった。いきなり言うことを聞いて俺の方が驚いたくらいだ。しかも先輩の震えまで止まっていることに気づき、まさか……と思い至る。
苦しんでいたときの中途半端な体勢のまま固まってしまったので、試しにコマンドをひとつ投げてみた。
「先輩、寝転がってください」
すると丸めていた身体から力を抜き、先輩はごろんと仰向けになった。俺は最近読み返したDom向けの本に書いてあったことを思い出し、グレアが出せているといいなと思いながらなるべく優しい声を発した。
「よくできました。先輩」
その瞬間――先輩がこちらを見てふにゃ……と表情を崩し、嬉しそうに笑った。
驚きに目を見張る。
(うわ……まじか……! いつも超絶クールなこの人が!?)
前髪は冷や汗で額に張り付いているし眼鏡がないから、薄い二重の目をキラキラとさせているのがよくわかる。警戒心ゼロの微笑みは控えめに言って破壊力抜群だ。
ドクン、ドクンと焦っていたときとは違う動きで、心臓が居場所を主張する。
俺は戸惑いを隠せなかった。先輩が俺の命令を聞いてくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。
しかも湧き上がってくる感情は、目の前のSubをもっと褒めたい、甘やかしたいという感じたことのないものだ。
俺は先輩の頭に手を伸ばし撫でたくなったのを我慢して、身体を起こしてベッドの端に腰掛けた。自分も必死で先輩の上に覆い被さったままだったのだ。
「こっち見て。ゆっくり息を吐いて、吸って……慌てないで。大丈夫ですから」
後半はコマンドになっていなかったかもしれない。だが、まだ息の浅かった先輩は俺の顔にちゃんと目を向けながら、指示した通りにゆっくりと息を吐く。
しばらく続けているとようやく安定した呼吸に戻った。頬に朱が差し、顔色もだいぶ良くなってきている。
「ちゃんとできましたね。偉いです、先輩」
「えへへ」
褒めると歳上とは思えないほど幼い顔で、目を細めてふにゃふにゃ頬を緩める。あー、まつ毛が長いな……
見てはいけないものを見てしまっている心地になって、俺は天を仰いだ。これはまずい。
今回のプレイは偶然だが応急処置になった。俺も冷静じゃなく、また意図せずグレアが出てしまったのだろう。焦ってかけた言葉がコマンドになって、先輩の症状は落ち着いた。その理由にひとつだけ思い当たることがある。
――ダイナミクス由来の不安症だ。
SubやDomといった二次性をもつ人間は、欲求の程度こそ個人差はあれど、プレイをしないでいるとさまざまな不調が出る。高校生でも、ダイナミクスの成熟が早ければあり得ると聞いた。
俺はまだ、その辺りよく分からないけど……プレイというのも可笑しいほど未熟なプレイは、驚くほど心の柔らかい部分をくすぐってきた。
少しでも、この人の助けになれていたらいい。苦しむ人を見ているだけなのはつらいから。
「先輩。目を閉じて、眠って……今のことは忘れてください」
願いを込めて差し出した言葉は、温かい陽の光に混ざって溶けてゆく。触れないようにしながら目の上をそっと手で覆い、先輩が素直に微睡むのを見守った。
これ以上ここにいては駄目だと判断し、ベッドの周りをカーテンで覆う。このままだと自分がなにを仕出かすかわからないし、先輩を見ていると心臓が変な音を立てるのだ。
保健室を出てから、忘れかけていた手の痛みがズキズキと戻ってくる。もっとも、頭痛に苦しんでいたことを思い出したのはずいぶん後になってからのことだった。
休み時間、教室の壁に寄りかかりながら廊下で暁斗は友人と喋っている。話題は高校の第二学年に上がってすぐ行われたダイナミクス判定についてだ。
「なぁ〜アキってさ、Domだったんだろ?」
「お前それ大声で言うなよ。プライバシーって知ってる?」
「ごめ〜ん、でもあれだろ? くねーる、だっけ。そういうの言うとSubの子が従ってくれるんだよな!」
「くねーるって……馬鹿なの? kneelだよ」
実際には日本語でもいい。言葉にCommandを込めるだけだから、いまのは恐ろしく英語が苦手な友人ヤスのためだったはずだ。
『おすわり』と口に出した正しい発音は、生徒たちの声でざわめく廊下に溶けていった。ただ、一人を除いて。
ぺたん……とちょうど通りかかった小柄な男が腰を抜かす。
「ちょっと朔? どうしたの大丈夫?」
「だいじょうぶ……ちょっと足挫いた」
隣を歩いていた友人らしき男が驚いたように声をかける。床に座り込んだ男は平気そうに返事をするが、なかなか立ち上がれないようだった。
視線を感じたのか彼が横を振り向き、パチ……と眼鏡のガラス越しに目が合う。俺は気づいていた。
自分が意図せずGlareを放ち、言葉をコマンドとして発してしまったことを。そして目の前の男がSubだということを……多分、お互いだけが気づいた。
まとう雰囲気は地味で、小さい顔に対して大きめの眼鏡と長めのショートカットが目元まで隠している。切れ長の目尻が隙間から見えた。
隣に立つ男も眼鏡をかけていて、こちらはスマートな優等生顔。いかにも真面目ちゃんグループの二人という感じだ。
ブレザーにつけた校章の色は緑。一学年上の三年生だと素早く確認し、俺は思わず手を差し出した。だって、彼がこうなっているのは自分のせいだから。
「先輩……ですよね。大丈夫ですか?」
「ひぁっ……。僕に触れるなガキが! くそ、武蔵ちょっと肩貸してくれ、保健室いきたい」
肩に置いた手は素気なく振り払われた。後半の言葉は隣に立つ友人へ向けたものだ。思ったよりも口が悪い。――ぴくっと反応した声、小さく震えた肩は見逃さなかったけれど。
ぽかんと口を開けて固まる俺を置いて、友人に肩を借りた男がチッと舌打ちして離れていく。
『無差別にコマンド投げてんじゃねーよ』と言わんばかりの、明らかに俺へ向けた舌打ちだった。
「可愛くねーー……」
「それ男の先輩に対する感想じゃないっしょ。どしたん?」
確かに自分が悪かった。興味本位の言動があの先輩に迷惑をかけてしまったのだ。
ダイナミクスは欧米で血液型を訊くのと同様、オープンにすることはタブー視されている。
DomやSubは家によっては後継問題に関わるし、周囲が勝手に騒いで人間関係に影響したりする。勝手にカーストトップに祭り上げられたり、逆に苛められたり。
まぁウチの高校は家柄の良い奴が多いので結構ゆるい。言い換えればおおらかだと思う……この友人然り。
より秘すべきなのはSubだ。彼らはDomに支配されたり庇護される性質を持つ。そのせいで下に見られることが多いし、遊び混じりにコマンドを投げかけられたり、時には事件に巻き込まれることさえある。
危うく先輩のダイナミクスを露見させてしまうところだった。こんな、人の多い場所で。
しかし成人前に行なわれるダイナミクス判定直後は、意図しないミスや些細な事件はよく起こる。未熟な学生は人のダイナミクスを知りたがるし、Domであれば特に自分の力を持て余し、みんなどこかで試したいと思ってしまうからだ。
俺もやっちまった〜〜と大いに反省したが。同じ学校の先輩なら、後輩のあやまちを優しく見逃してくれたってよくないか?
あーあ、何を期待してたんだか。よく見れば顔の綺麗な男だったから、つい……なんだ。
確かに涼しげな目を隠しているのはもったいないと思ったし、小さめの鼻や口が日焼けのない肌にバランスよく並んでいて……いやいや、雰囲気を思い出せ。地味で口が悪いだけの男だぞ?
あーくそっ、心臓の音がうるさい。図らずも、初めてコマンドが通ってしまったからかもしれない。
DomやSubという二次性を持つ人間は、その他大勢のUsualと違い、その欲求を適度に発散しないと調子を崩す。逆に欲求が満たされると心身の安定や満足感をもたらすらしいのだ。
二次性に関しても、その成熟スピードは人によって異なる。だいたいが成人するあたりから徐々に成熟し、働き始めたり大学へ進んだころ、真剣に自分の性と向き合うことになる。
つまり欲求を発散する相手を見つけるか、そういう店に世話になるか、薬の世話になるか、だ。男の性欲と違ってひとりで解決できないのが悩ましい。
確かにあの先輩がこちらを見上げてきたときにはドキッとしたが、どうせPlayするなら可愛いげのある女の子がいい。
まぁ、もう二度とあんなことにはならんだろ。グレアには気をつけるし……会っても気まずいだけだ。
「あ」
意外にもその先輩の姿は翌日見かけた。
選択科目で少数派の科目に対して使われる空き教室。俺たち理系の生徒なら、日本史とか地学の授業でそこは使われる。
俺が次の授業のためにその教室へ向かうと、先輩がだるそうに授業を聞いているのを見つけたのだ。
机に肘をついて、前髪の隙間から教師を見ている……と思ったら大きな欠伸。手で隠した隙間から、赤い舌がチラと見えた。
悪いのは口だけかと思ったら、授業態度も悪い。真面目そうな見た目とは正反対の性格らしい。
というかもう休み時間なんですが、と思っていると、この前も先輩の隣りにいたスマート優等生風の男が「先生、もうそろそろ」と控えめに声をかける。
自分の授業に熱中していた教師は「あっ、ご、ごめんねぇ!」となんとも気の抜ける謝罪をして唐突に授業を終わらせた。聞いていた十人ほどの生徒は慣れたように挨拶をして、教科書とノートを片付け部屋を出ていく。
俺は廊下の窓からじっとその様子を眺めていたものの、その姿に気付いた女の先輩がチラチラこちらを見てくる。ついには話しかけようとこちらに足を向けたのを感じて、わずらわしい視線を振り払うように入口へと向かった。
もうほとんどの生徒が部屋を出たからいいだろう。あーあ、去年の文化祭で迂闊にミスターコンなんて出るんじゃなかったな……
確かにいま彼女はいないし、要らないのかと言われれば欲しいけど……向こうからガツガツくる積極的な女は苦手だ。
もともと目立つ容姿をしているのに、コンテストがきっかけで余計注目を浴びてしまった。結果、苦手なタイプに囲まれるようになって、ちょっと恋愛にも辟易している。
ドアを抜けると、教師は次の授業のために慌てて黒板を消している。この授業はヤスとも別だし、俺も暇だったから気まぐれに手伝おうとした――のだが。
「先生、手伝いますよ」
「あっ、飛鳥井くん! ありがとう」
真面目そうに見えて不真面目な先輩が教師に声を掛けた。やっぱ真面目なのか……? どっちなんだ。つか、そろそろ次の授業に間に合わないだろ。
飛鳥井先輩――偶然名字を知ってしまった――が黒板の上の方を背伸びして消しているところで、後ろから言葉を発した。
「俺がやりますよ、次の授業ここなんで……先輩」
「ああ、ありが……」
振り向いて、固まる。口元に乗っていた愛想の笑みさえすぐに消えてしまった。
舌打ちこそ聞こえなかったけど、先輩は黒板消しをバフッと置き教師に話しかける。チョークの粉がちょっと舞った上、俺の存在は無視だ。
「先生、あとはこの……二年がやってくれるみたいなんで、行きましょう」
「助かるよ! えーっと、君は……あっ、ミスター君だね!?」
ミスター君て。おおかた、ミスターコンで優勝したから顔だけ知ってたって感じか。まぁ、あるあるなんだが。
「あーっと、風谷です」
「風谷くん! いやー、近くで見てもモデル級のイケメンだねぇ。背も高いし、脚も……なんでこんなに長いの?」
「さぁ……」
のんびり屋すぎる教師の話に付き合っているあいだに、先輩はしれっと姿を消してしまっていた。俺たちの授業のためにやってきた日本史の担当教師が、地学ののんびり教師をつまみ出していく。
――え、なんなん。ガチスルーって、まじむかつくんですけど。愛想笑いさえ見せる価値ないってか?
会っても気まずいとか思っていたことは自分でも忘れていた。別に好きで取っている授業でもないし仲のいい友人もいないから、気を紛らわす方法が見つからない。
毎回ラリホーでも使われてるんじゃないかと思うほど眠くなる日本史の授業を聞いても、イライラして一向に眠気はやってこないのだった。
それから何度も飛鳥井先輩の姿は見かけた。
移動教室での廊下とか、窓から見える運動場でだるそうに体育してる姿とか、たまに行く学内の食堂で眼鏡を曇らせてうどんをすすってる姿とか。
別にマンモス校でもないから、これまでもすれ違ってはいたんだろう。でも気づけば俺はあの気に食わない先輩を探していて、なにか――知らない一面を見つけようと躍起になっている。
俺がジッと見ているから、たまに目は合う。その瞬間氷のように冷たい目で睨まれ、すぐに逸らされて、決してまたこちらを見ることはない。徹底されている。
わざとじゃないにせよ、相手にとって不快なことをしてしまった。だから嫌われても仕方がないとは感じる……のだけれど、初めて校内で見つけたSubにここまで冷たくされると地味に傷つく。
俺の両親はともにDomで、それぞれSubのパートナーがいる。そしてそのSub同士も夫婦というちょっと変わった関係だ。俺もたまに挨拶するが、彼らはとても好意的で優しい。
まぁ、この見た目のおかげか好意を見せて寄ってくる人の方が多く、逆の態度に慣れていないというのもある。みんながみんなじゃないけどな。
「あの眼鏡の先輩ってさぁ、学年一位らしいよ」
「眼鏡のって、どれ?」
眼鏡と聞いた瞬間あの顔が浮かんだが、何気ないふりをして確認する。ヤスこと康裕は俺の真似をして「『可愛くねー』って言ってたじゃん」と言う。声真似が引くほど似てないな。俺の声はそんなに高くない。
「アスカイ、って人。めちゃくちゃ頭いいんだって。部活の先輩が話してた」
「へー……」
無意識に低い声が出て、チリ、と胸の奥が火花を立てた。
自分で言うのもなんだが、俺は部活にも入らずけっこう真面目に勉強している。
しかしどんなに頑張っても成績上位に食い込めない。中学までならクラスで一番とかにもなれたのに、いい高校に来たとたんこれだ。せいぜい中の上。
それなのに、あの真面目そうで不真面目な男が一位なのか……と面白くない気分になった。
「あーゆー人って東大とか行くんかな?」
「さぁ?」
「はぁ……いってぇ〜……」
白いティーシャツに紺ジャージのパンツ。まさに体育の授業を抜け出してきました、という格好で廊下を歩いている。授業中の廊下はとても静かで、俺の足音だけが響く。
バスケのチーム戦で、ヤスの繰り出したノールックパスを受け取りそこねた。まじダセぇ。右手の指、付け根が赤くなっている。
犯人のヤスは『アキちゃんごめ〜ん!』とふざけた感じで謝ってきたが、顔はガチで焦っていた。
保健室へ一緒に行くと言われたのは断った。大袈裟にされるとよけい恥ずかしいんだよ。
教師も見慣れた様子で『突き指だね』と何でもないように告げた。
普段はこんな凡ミスしないのだ。一年のとき、あらゆる運動部から勧誘を受けたくらいには運動神経にも自信がある。
入学して以来場所だけ知っていた保健室へ到着し、ガラッとドアを開けた。
「センセ〜、頭痛薬くださーい」
理由はこれ。さいきん頻繁に頭が痛くなる。
体育の授業がはじまる時点ではちょっと痛いかも程度だったのに、途中からガンガン響くような痛みに変化した。おかげで試合に集中できず、こんなダサい怪我をする羽目になったのだ。
「きみ。いま寝てる子いるから、静かにね。頭痛いの? いつから? ――そう……ごめんね、保健室で薬は出せないの」
「え……そーなんすか。知りませんでした」
まじか。申し訳なさそうに告げた養護教諭の言葉に、俺は素直に驚いた声を出した。
昔から保健室にはあまり縁がなかったし、頭痛みたいな不調だってここ最近始まった。それならまっすぐ教室へ向かえばよかったな。
後悔しながら、はーっとため息を吐きつつ椅子に座る。教室にある自分の鞄には市販の頭痛薬が入っているものの、今から取りに行く気力もなかった。
「ちょっと横になってたら? 目を閉じるだけで楽になることもあるから。あんまり酷かったら親御さんに連絡して、病院に連れて行ってもらいなさい」
「はーい……あ」
「あ! 保健だより配布しなきゃいけないんだったー! ちょっと出るけど、きみは勝手にベッド使っていいから。飛鳥井くんも、良くなるまで寝ててねー!」
「…………」
手の処置をしてもらおうと思ったのに、それを伝える前に養護教諭はあわてて部屋を出ていってしまった。ずっと保健室にいるだけの仕事だと思っていたが、意外に忙しそうだ。
そんなことより……
俺はふり向いて保健室の一角を見た。春の日差しが生成りのカーテンを通りぬけ、柔らかく室内を照らしている。手前のベッド二つは無人で佇んでいるが――奥のベッドを囲うよう、薄緑色のカーテンが引かれている。
あそこに、あの人がいるのか。
(いや……だからなんだってんだ)
会話になるほど話したこともない。それどころか頑なに無視してくる男が保健室で寝てるからって、なんなんだ?
どうしてもベッドの方へ意識が向かうのを無理やり引きはがし、俺は自分で手の応急処置をすることにした。湿布は消毒や絆創膏と一緒に置かれているのを見つけたし、使って事後報告でも多分大丈夫だろ。
(つーか冷やした方がいいんだろうなー……氷嚢とかあるかな。あー。頭いてー)
怪我したのが利き手じゃなかったのは不幸中の幸いだ。それでも片手で貼った湿布はかなり皺が寄ってしまった。
とにかく手より頭の痛みが酷くて、そこで限界だった。少し横になろうと、ふらふら空いているベッドの方へ向かう。
しかし、半分目を閉じていたせいで――俺はパイプベッドの脚を思いきり蹴飛ばしてしまった。ガァーン!と大きな音が室内に鳴り響き、「やべ」と小さく呟く。
足は無事だけど、これはまた……ウザがられる案件じゃ……。
飛鳥井って名字のやつは他にもいるかも……なんて淡い期待は打ち砕かれ。そっと開けられたカーテンの向こうから怪訝な表情で顔を覗かせたのは、あの飛鳥井先輩だった。
「…………」
「すいません、煩くして……」
自分が圧倒的に悪い状況に、若干血の気が引いた。この人も体調が悪くてここで寝ていたはずなのに、バカでかい音で起こしてしまったのだ。
先輩は何も言わずに立ち上がり、そのまま保健室の出入り口に向かう。その行動にも、俺は胸の内を引っ掻かれたような心地になった。
謝罪さえ無視される。同じ空間にも居たくないのか……。
そのまま背中を見送ろうとして、小さな違和感に気づく。あれ、なんかいつもと違った?
顔色は良くなかったように思う。保健室で休むほど体調が優れないのだから当然だろう。いつも白いけど、今日は紙のようで。ただそれだけじゃなくて、なんか顔が幼く見えたというか……
「あ」
先輩がいたベッドのカーテンが半分開いている。その枕元に、眼鏡が置いてあった。俺はとっさにそれを取り、ドアを開けようとしている先輩を呼び止めた。
「先輩っ」
「…………」
呼んでも振り向かない。また無視かよ……。頭痛で気が短くなっているのを感じながら、理由があるのをいいことに俺は先輩の肩を掴んだ。あ、突き指が痛ぇ。
肩を掴んだ手はしかし、全く手応えがなかった。
「ちょっ、先輩!」
その瞬間、ドアに縋りつくように――先輩が倒れた。
咄嗟にしゃがみ込み、先輩の身体を支える。触れた指先はあたたかい室内とは対照的に冷え切っていた。
「どうしたんすか、大丈夫ですか!」
必死の呼びかけも、先輩がぎゅっと目を閉じているから聞こえているのかもわからない。唇も紫色になり、どんどん顔が青くなっていることに気付いた。
こんなのどうすればいいんだ! せっかく保健室にいるのに、養護教諭が戻って来る気配はない。俺の対処が遅れたせいで、取り返しのつかないことになったら……!
過去の記憶がフラッシュバックし、余計パニックに陥った。すぐに誰か、いや救急車を呼ぼう!
「ああもう! スマホ教室だし……この部屋に電話とかあったか?」
「……から」
ジャージのポケットは空だった。悪態をついて電話を探そうとするが、先輩をこのまま床に転がしておくわけにもいかないと纏まらない思考で迷っていたとき。下から先輩の声が聞こえた。
「だい、じょぶ、だから……横に、ならせてくれ」
「……!」
力ない声が余計に不安を煽ったものの、眉尻を下げたつらそうな表情で頼まれたことを無下にできるはずもない。なるべく揺らさないようにそっと抱き上げ、元のベッドへと運んでいく。
半分閉じたカーテンの内側に入りシーツの上に身体を横たえると、カーテン越しの光でも眩しいのか目の上に腕を乗せてからは微動だにしない。
見たことのない弱々しい様子に、これがあの飛鳥井先輩なのかと疑いたくなる。焦りで汗がこめかみを伝った。
まだパニックから抜け出せていなかった俺は、もう一度電話を探そうとそこから出て行こうとした。
「う……ぅ」
「先輩!?」
うめき声に振り返れば、先輩は身体を胎児のように小さく丸め、ガクガクと震えている。尋常じゃない様子に目を離すことができない。
「さむ……さむぃ」
その言葉を聞いてようやくひとつやるべきことを把握した。隣のベッドからブランケットを取り、先輩に掛ける。ブランケットの上から身体をさすると、わずかに震えが落ち着いたような気がした。
にもかかわらず、今度は浅かった呼吸に異変が生じた。ハッ、ハッと激しく息を吸い、喉を掻きむしろうとする。
「息がっ……、くるし……ッ!」
「ちょっ、先輩!」
その症状を俺は見たことがあった。先輩が自らの首に当てた指を引き剥がし、「ゆっくり息をして!」と声掛けする。
だが先輩の視界に俺は映っていないように感じる。声も届かず、俺は必死になってなんども先輩と視線を合わせようとした。押さえていても、くり返し手が皮膚を掻きむしろうとする。
「飛鳥井先輩! だめだって、落ち着いて! ……止めろ!」
ぴた、と先輩の動きが止まった。いきなり言うことを聞いて俺の方が驚いたくらいだ。しかも先輩の震えまで止まっていることに気づき、まさか……と思い至る。
苦しんでいたときの中途半端な体勢のまま固まってしまったので、試しにコマンドをひとつ投げてみた。
「先輩、寝転がってください」
すると丸めていた身体から力を抜き、先輩はごろんと仰向けになった。俺は最近読み返したDom向けの本に書いてあったことを思い出し、グレアが出せているといいなと思いながらなるべく優しい声を発した。
「よくできました。先輩」
その瞬間――先輩がこちらを見てふにゃ……と表情を崩し、嬉しそうに笑った。
驚きに目を見張る。
(うわ……まじか……! いつも超絶クールなこの人が!?)
前髪は冷や汗で額に張り付いているし眼鏡がないから、薄い二重の目をキラキラとさせているのがよくわかる。警戒心ゼロの微笑みは控えめに言って破壊力抜群だ。
ドクン、ドクンと焦っていたときとは違う動きで、心臓が居場所を主張する。
俺は戸惑いを隠せなかった。先輩が俺の命令を聞いてくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。
しかも湧き上がってくる感情は、目の前のSubをもっと褒めたい、甘やかしたいという感じたことのないものだ。
俺は先輩の頭に手を伸ばし撫でたくなったのを我慢して、身体を起こしてベッドの端に腰掛けた。自分も必死で先輩の上に覆い被さったままだったのだ。
「こっち見て。ゆっくり息を吐いて、吸って……慌てないで。大丈夫ですから」
後半はコマンドになっていなかったかもしれない。だが、まだ息の浅かった先輩は俺の顔にちゃんと目を向けながら、指示した通りにゆっくりと息を吐く。
しばらく続けているとようやく安定した呼吸に戻った。頬に朱が差し、顔色もだいぶ良くなってきている。
「ちゃんとできましたね。偉いです、先輩」
「えへへ」
褒めると歳上とは思えないほど幼い顔で、目を細めてふにゃふにゃ頬を緩める。あー、まつ毛が長いな……
見てはいけないものを見てしまっている心地になって、俺は天を仰いだ。これはまずい。
今回のプレイは偶然だが応急処置になった。俺も冷静じゃなく、また意図せずグレアが出てしまったのだろう。焦ってかけた言葉がコマンドになって、先輩の症状は落ち着いた。その理由にひとつだけ思い当たることがある。
――ダイナミクス由来の不安症だ。
SubやDomといった二次性をもつ人間は、欲求の程度こそ個人差はあれど、プレイをしないでいるとさまざまな不調が出る。高校生でも、ダイナミクスの成熟が早ければあり得ると聞いた。
俺はまだ、その辺りよく分からないけど……プレイというのも可笑しいほど未熟なプレイは、驚くほど心の柔らかい部分をくすぐってきた。
少しでも、この人の助けになれていたらいい。苦しむ人を見ているだけなのはつらいから。
「先輩。目を閉じて、眠って……今のことは忘れてください」
願いを込めて差し出した言葉は、温かい陽の光に混ざって溶けてゆく。触れないようにしながら目の上をそっと手で覆い、先輩が素直に微睡むのを見守った。
これ以上ここにいては駄目だと判断し、ベッドの周りをカーテンで覆う。このままだと自分がなにを仕出かすかわからないし、先輩を見ていると心臓が変な音を立てるのだ。
保健室を出てから、忘れかけていた手の痛みがズキズキと戻ってくる。もっとも、頭痛に苦しんでいたことを思い出したのはずいぶん後になってからのことだった。



