耳朶に響く甘い声が聞きたくて、俺は名前を呼ばれても聞こえないふりをした。それを明宏はわかっているのだろう。俺の優秀な鼓膜はくすりと笑う小さな笑い声すらも繊細に拾った。
「累――羽柴累くん。聞こえてるんでしょ」
脇腹を小突かれて俺は顔を上げた。隣を見ると明宏が夏の青空みたいな爽やかな笑顔を向けてくれる。
笑い声に合わせて動く黒い髪やきゅっと小さくなる目尻に目がいく。明宏のことが大好きだと改めて実感した。
けれど俺は莫迦正直にニヤけたりせず、ぶすっと唇を尖らせる。
「なに?」
「もう着くよ」
車窓から外を覗けば校舎が見えた。校門前には風紀委員が身だしなみをチェックするために立っている。少しでも制服を着崩している生徒がいると追いかけて指導していた。
私立故に服装には厳しいが、髪色は主体性を重んじるとかで自由だ。ほとんどは黒髪だが、派手ではないチョコレートのようなブラウンに染めてる人もいる。
バス停に着くと次々と紺色のポロシャツを着た生徒が降りていく。夏服のポロシャツはすぐ乾くし、アイロンがけが不要なのでばあちゃんは喜んでいるけど、生徒たちからはダサいと不満がのぼっていた。
俺は結構好きなんだけどな。それにーー
俺は隣の明宏に視線を戻した。襟元の隙間から見える鎖骨が色っぽく、肌の白い明宏に紺色がよく映える。
夏限定しか見れない制服だからこそ、価値は高い。
俺と目が合うと明宏は首を傾げた。
「なぁに?」
「……なんでもねぇ」
見惚れてたなんて言えるはずもない。
俺と明宏は最後尾に乗っているのでみんなが降りるまでじっと待った。
明宏はカバンから定期券を出し、背筋を伸ばしてじっと前を向いている。
ただそれだけなのになんて絵になるんだろう。どうしたって視線が明宏に向いてしまうのだ。
「あ、そうだ累」
内緒話をするかのように明宏は顔を寄せた。ふわりと香るレモンの香りに心臓がざわざわとする。
「放課後、話があるから校舎裏に来てもらってもいい?」
「いまじゃだめなのか?」
「誰にも聞かれたくない大事な話だから」
意味深に微笑まれ、俺の心拍は過去最高なほど脈を打った。
ようやく明宏が俺に告白する決心が固まったのかもしれない。
小学一年生のとき明宏に惚れて以来、俺はずっとそばにいた。明宏が塾に通うなら俺も行き、スイミングに通うなら俺も通った。
明宏に見合う男になりたくて努力をし続けてきている。お陰で高二になった現在まで、親友というポディションを護ってきた。
でも明宏と過ごすにつれ、この想いは一方通行ではないと確信している。
これだけ一緒にいるのだから明宏も当然俺のことを好きだろう。いや、好きに決まっている。
俺は明宏から告白をしてもらいたくて、長年想いを告げないでいたのだ。
その日がとうとうやってきた!
小躍りしたい気持ちをぐっと堪え、俺は表情筋を総動員させて微笑を浮かべた。
「わかった。俺も話したいことあるし」
「じゃあ放課後ね。あ、そろそろ降りようか」
明宏が立ち上がり、俺も後ろに続いた。
外に出ると真夏を思わせる日差しがこれでもかと降り注ぐ。梅雨が明けたばかりの六月下旬は、日増しに気温が上がっている。
だが俺からしてみれば神の祝福のようだ。このじめっとした暑さすら愛おしい。
バス停から横断歩道を渡ればすぐ校門に着く。それまで明宏と話したいところだが、人気者の明宏はバスを降りた途端に学友たちの目に留まり人だかりができてしまう。
「おはよう、今園。小テストの勉強した?」
「今園〜課題うつさせて」
「ソクラテスについての論文をまとめたんだけど、読んでもらえるかい?」
「小テストの予習はしたよ。あとで山張ったとこ教えてあげる。課題は自分でやりな。論文はぜひ読ませて欲しい」
こんな調子で聖徳太子ばりに四方八方から明宏に声がかかる。まぁ男子校だから男しかいないんだけどね。
それでも明宏は嫌な顔一つせず、聖人君子のような笑顔を浮かべて一人ずつ丁寧に答えている。
明宏の取り巻きの一人と肩がぶつかった。そいつが明宏に向けていた笑顔は俺と目が合うと途端に曇る。
「うわ……金魚のフンじゃん」
ぴきり、と俺のこめかみに青筋が立つ。いまここに明宏がいてよかったな。俺一人だったら殴り飛ばしていたかもしれない。
成績優秀、運動神経も抜群な明宏は学校でも人気者だ。そんな明宏に近づこうと周りは必死にアピールしていた。
だが俺は幼馴染というだけで当たり前のように隣にいる。それが面白くない連中が俺のことを「金魚のフン」とあだ名をつけて、よくない噂話を流すのだ。
ここで俺が明宏のように優秀だったら黙らせられたんだけど、成績は中の中で運動神経は普通の凡人なのだ。
でもこんなこといまに始まったことではない。
俺を押しのけようとする奴を華麗にディフェンスしていると腹の底を震わせるモーター音が響いた。
顔を上げると赤色の車体がトレードマークのスポーツカーが校門前に停まった。つるりとしたボンネットに馬が跳ねているエンブレムが付いている。
助手席から降りてきた金髪の男にみんなの注目が集まった。
「香坂、また高級車乗りつけてるよ」
「しかも運転してるの若い女だぜ」
「ママ活してるって噂、マジなのかな」
周りはヒソヒソと噂を始めた。その声を拾いながら俺は金髪の男を見た。
一年生の香坂歩夢。入学式当日にも高級車を校門前に停めて、話題をかっさらった有名人だ。
香坂くんは肩まである金髪をハーフアップに結わき、背が自販機くらい高くて、身体の厚みがある。目は三白眼でいつも機嫌悪そうに細められていた。
お坊ちゃま学校であるうちでは珍しいザ・不良って感じの生徒だ。
香坂くんは周りの視線などお構いなく、長い足を出して優雅に車から降りた。
呆けていた俺たちにちらりと視線を寄越すが、特になにも言われることなく校舎へと消えていった。さすがの風紀委員も指導ができないようで見ないふりをしている。
小さくなる香坂くんの肩にはスクールバックではない、黒くて細長いバックが背負われている。
俺は首を傾げた。
「なにあのバッグ? スナイパー?」
「楽器だよ」
俺の莫迦っぽい発言に明弘は笑うでもなく生真面目に答えてくれた。
だが楽器と聞いて驚いた。ライフルだと言われてもみんな信じると思う。
「あいつ、あんな身なりで楽器なんてやってるの?」
「確かサックス。その道だと結構有名な人らしいよ」
さすが人気者の明弘だ。いろんな人と話すから一学年下のことまで把握しているらしい。
「ふうん」
でも俺の香坂くんへの興味はすぐに失せ、明弘と共に校門を潜った。
放課後まで俺は気もそぞろで授業を受けた。小テストは散々な結果だったけど、そんなことはどうでもいい。
お陰であっという間に下校のチャイムが鳴り、俺は急いで校舎裏に走った。
期待で弾む胸が押さえようにも止められない。
だってようやく明宏と恋人になれるんだ。期待するなというのが無理な話である。
俺が中靴のまま校舎裏へと向かうと新緑の葉をつけた桜の木を明宏が見上げていた。
初夏の風に煽られ、明宏の黒髪がふわりと舞う。その毛先の靡くさまを見ていると、明宏の視線が俺に向けられた。
「来るの早いね」
「今日掃除当番じゃなかったし」
そんなの言い訳だ。教室から全力疾走したからに決まっている。
俺は口の中が乾いていくのを感じながら、じっと明宏をみつめる。
返事はなんて答えよう。イエスがいいか。それともはい、か。どちらにしろ了承する以外の選択肢はない。
「あのさ、累」
「……なに?」
はやる胸を押さえるつもりで制服のポロシャツを掴んだ。ぎりっと胸元のボタンが悲鳴をあげる。
じっと俺をみつめる明宏の目元が赤らんでいく。いよいよだ。やっぱり「はい」って言おう。日本人なんだからイエスはおかしい。
明宏がゆっくりと唇を開いた。
「恋人ができたんだ」
「…………ん?」
「恋人……、えっと男なんだけど」
「んんんん?」
明宏は恥ずかしそうに頰を掻いている。
俺は首を傾げた。おかしい、直前まで告白される雰囲気だったよな?
俺がシーソーのように首を左右に振っていると桜の木の後ろから小柄な男が出てきた。
「こんにちは」
ポロシャツの襟元のラインが水色だから一年生なのだろう。マッシュルームカットとよばれるオシャレな黒髪にくりっとした大きな目が愛らしい子だ。
当たり前のように明宏の隣に並んだその子は、にっと口角を上げる。
愛おしそうに目を細めた明宏は、あろうことかその子の肩を抱いたのだ。
もう一回言うぞ。
その子の肩を、抱いたのだ!
おい、誰か嘘だと言ってくれ。
俺が呆然としていると明宏は続けた。
「この子は、一年生の松岡月斗くん。最近付き合い始めたんだ。幼馴染の累には知って欲しくて」
「よろしくお願いします。羽柴先輩」
礼儀正しく頭を下げた松岡くんを明宏はよくできましたと褒めるように髪を撫でた。
明宏が……見ず知らずの男の頭に触れ……触れて、いる。
二人の仲良しぶりに卒倒しそうだ。
いやいやだめだ。こんなところで倒れるなんてダサすぎる。
俺は舌を噛んで理性を取り戻して、再び松岡くんに視線を向けた。
手入れの行き届いた髪に艶のある白い肌。おまけに黒豆のように澄んだ黒い瞳は可愛い以外の表現が浮かばない。
とてもじゃないが俺とは真逆の容姿だ。
そうか、明宏は可愛い系が好きだったのか。さっと血の気が失せていく。夏はもうすぐそこなのに寒さを覚えた。
なんて残酷な現実なのだろう。
今日まで過ごしてきた明宏との思い出が走馬灯のように流れる。そのどれもがキラキラと輝いていたはずなのに、トンカチで叩き割ったような亀裂が入った。
なにが両想いだ。
俺が勝手に思い上がっていただけじゃないか。
明宏は乱れた前髪を直し、俺に顔を向けた。
「で、累の話は? さっき俺もあるって言ってたよね」
そうだ。てっきり明宏に告白されるものだと踏んでいたから、俺からも言うつもりでいたのだ。そして両想いだねって笑い合う予定でいた。
まさか恋人を紹介されるとは予想していない。
「いや……その」
俺はキョロキョロと辺りを見回した。なにか話を反らしたいが、校舎裏には桜の木以外なにもない。
――♪〜♪♪
突然、風に乗って音が聴こえてくる。たぶんサックスとかトランペットとかのラッパっぽい。
反対側の桜の木に金色の髪が見えた。俺たちに背を向けて、一心不乱に楽器を奏でている。
俺は吸い寄せられるように近づいた。
「紹介するよ、俺の恋人!」
俺は男の肩を掴んだ。演奏が止まり、男が振り返る。
三白眼の鋭い眼光がぎろりと俺を睨む。演奏を途中で邪魔されたから怒っているのだろう。
あれ、この顔どこかで見たことがあったな。
「げ……香坂歩夢」
松岡くんがげんなりとした様子で男――香坂くんを見た。
そうだ、今朝見たばかりの不良じゃないか。
香坂くんは俺が掴んだ肩を乱暴に振り解いた。
「なんすか、いきなり」
だがここで引くわけにはいかない。
「俺の恋人!」
俺はもう一度繰り返し、助けを求めるように香坂くんを見上げた。
いま自分がエスパーだったらよかったのに。そしたら香坂くんの脳内に俺の思考を送りたい。
瞬きもせずにじっとみつめていると、俺の圧に屈したのか香坂くんは俺と明宏、松岡くんを見やってからもう一度俺を見下ろした。
なんとなく察してくれたのだろう。香坂くんはハーフアップに結ばれた髪をガリガリと掻き、俺たちの方へ身体を向けた。
香坂くんの首には彼の上半身より長いサックスがかけられていた。金色にピカピカと光るさまは自信に満ちあふれている。
「……きれい」
サックスをこんな近くで初めて見た。いや、楽器自体だ。せいぜい触ったことがあるのはピアニカとリコーダーくらい。
プラスチックと違い金貨のような輝きのある楽器に、俺の目は簡単に奪われた。
「へぇ、わかってんじゃん」
香坂くんはそう呟くと俺の肩を抱いた。
「彼氏です」
「え、二人は付き合ってるの?」
愕然とした様子の明宏と顔を青くさせる松岡くんに俺は何度も頷いた。
明宏たちを見送り、俺と香坂くんは校舎裏に残った。
さすがに香坂くんに事情を説明しないとだめだよね。
俺は香坂くんに向き直って頭を下げた。
「恋人のふりをしてくれてありがとう」
「なんすか、さっきの」
「えっと、友だちに恋人ができたから俺もいるってことにしたくて」
しどろもどろに返答すると香坂くんの眼光が鋭くなる。
「いまから追いかけてもあの二人に追いつきますよね。嘘だって言ってこようかな」
「好きな人に恋人ができて悔しかったので彼氏のフリをしてもらいました。ごめんなさい!」
「正直でよろしい」
まるでイタズラを白状した生徒を慰めるような言葉だ。ちょっと偉そうだな。でも俺の方が立場が低いので仕方がない。
「でも本当にありがとう。助かったよ」
「これで満足なんすか?」
「えっと……」
松岡くんが帰り際に「今度ダブルデートをしましょう」と言ってきたのだ。予定を確認するとその場は濁せたけど、何度も誘われて行かないのも不自然だよね。
俺はじっと香坂くんを見上げた。
スナドリネコみたいな三白眼に黄金に輝く髪が風で靡く。肩幅も広くて厚みもあり、立っているだけで圧がある。
当然香坂くんのような華々しい人とは付き合いがない。
正直苦手な分類だ。
でも背に腹は代えられない。今更別の誰かを彼氏の代役に変えたら、短期間で恋人を変えるビッチだと明宏に思われる可能性がある。
それだけは避けたい。
俺は再び頭を下げた。
「もう少しだけ、彼氏のフリって延長してもらえる?」
「なんでオレが」
「ですよね」
承諾してもらえるはずがない。香坂くんにメリットはなにもないから当然だ。
諦めようとしていたとき、香坂くんは人差し指をずいと俺の眼前に向けた。
「交換条件ってのはどうでしょう」
「交換条件?」
俺がオウム返しをすると香坂くんは頷いた。
「オレもよく多方面から「たくさんの彼女がいる」だの「遊び人」だのと勝手に噂されて迷惑してたんです。だから羽柴先輩が彼氏のフリをしてくれるなら、正直オレも都合がいいです」
「少女漫画みたいにモテるんだな」
「ほとんどがやっかみですけどね」
香坂くんはうんざりした様子で眉を寄せた。よほど困っているのかもしれない。
「それともう一つ、オレのことを絶対好きにならないでください」
「え」
「これが交換条件の二つ目です」
香坂くんはふんと鼻を鳴らせた。
条件を二つも出すなんてフェアじゃなくない? でも年下だからそこは融通してあげなきゃだめだよな。
てか俺にとったら条件は一つのようなものだ。
「香坂くんを好きになることはないよ。大丈夫」
「……」
だって俺には明宏だけなんだ。やっと付き合えるんだって舞い上がってた。
でも結局、俺は選ばれなかったんだ。
香坂くんは乱暴に頭を掻いた。
「じゃあ連絡先教えてください」
「もちろん」
俺はスマホを出して連絡先を交換した。家族と明弘しか入ってなかった友だち欄に「香坂歩夢」が加わる。
なんだか変な気分だ。
香坂くんはさっとポケットにスマホをいれた。
「付き合ってるのに苗字で呼ぶのは変だから「累先輩」でもいいですか?」
「じゃあ俺は「歩夢くん」って呼ぶね。てかどうして俺の名前を知ってるの?」
自慢じゃないが俺は地味だ。成績も中の中だし、部活動もやっていないし、生徒会にも入っていない。同級生でも俺のフルネームを知っている人なんてほとんどいないだろう。
でもはたと気がつく。
「俺が明宏の金魚のフンだからか」
俺の変なあだ名はどうやら下級生にも広まってしまっているらしい。
明宏が他学年にまで人気があるのは知ってたけど、まさかここまでだとは思わなかった。
「ま、なんでもいいや。これからよろしく」
「はぁ」
気のない返事だが、俺が差し出した手を歩夢くんは握り返してくれた。その手が大きく骨ぼったい。
握手をしているとサックスが俺の手の甲に触れた。
「それってサックスだよね?」
「アルトサックスです」
「へぇ〜やっぱりカッコいいな」
金ピカに輝くサックスは日差しを浴びると宝箱に入っている金塊のように輝いている。
風で靡く歩夢くんの金髪がちらりと映った。
「髪色、サックスとお揃いだね」
俺の言葉に歩夢くんは目をまんまるくさせた。三角形が丸になるような不思議な形をしている。
歩夢くんは一瞬鼻白み、サックスを構えた。
「一曲吹きましょうか」
「いいの?」
「失恋記念に」
「……おまえ、結構失礼だな」
歩夢くんはいたずらっぽく片頬を上げるとサックスを口につけた。
長い指先がボタンに添えられて、歩夢くんが身体を揺らすと音色が響く。
導入部分はゆったりとして柔らかい。けれどサビは悲痛さを内包させた、胸が痛くなる音だった。
確かこの曲は有名な女性シンガーの失恋ソングだ。音楽に疎い俺でも知っている。
自然と歌詞が頭に浮かぶと目尻がじんわりと熱くなってきた。
そっか、つい色んなことがあって忘れてたけど、失恋したんだよな。
初恋だった。ずっと好きだった。でも言えないまま終わってしまったのだ。
「うっ……うぅ」
俺が泣き出しても歩夢くんは演奏をやめないでいてくれた。



