20畳はあろうかという畳敷きの部屋で、澤田 哮は黒服の男2人に両脇から腕を押さえ込まれた姿で、辻一族の宗主・辻 鏡花と対面していた。
部屋は薄暗い。四隅に、細長い柄の上に白い紙で囲った蝋燭が1本立てられているだけだ。妙な、何かくすぶったような異臭もしていたが、それほど強くはない。
着物姿の鏡花が背にしたふすまの向こうからは野太い声で読経がしていた。その声からして数十人はいると推察できる。
ふすま越しに聞こえる男たちの読経の声と、鏡花が無言で浴びせる冷たい視線に、哮は内心では恐々としていた。必死に、それとさとられないよう面には出さないようにしていたが、おそらく鏡花は見抜いていたに違いない。
「……辻は?」
ごくりと生唾を飲み込み、慎重に発した哮の問いに、鏡花は眉をひそめ
「生きていますよ、まだね」
と答えた。
「ほんまか!? ほんまに、あいつは生きとるんやな!?」
彼女の元へ駆け寄ろうとした直後、ぐんっと両腕が後ろに引かれた。その勢いに、学生服のボタンが弾け飛ぶ。
罰だというように、腕を押さえていた男たちが無言でぎりりと締め上げてきて、その痛みに思わず哮は悲鳴を上げそうになった。
歯を食いしばり、悲鳴をかみ殺して面を上げた哮の前、鏡花は横を向いてため息をつく。
「まったく。とんだことをしでかしてくれましたね。あなたたちのような者と付き合ってはいけないと、この1年、何度あの子に言ったでしょう。あなたには大切な使命があるのだからと。
あの子はそれを守らなかった。そのせいで、このざまです」
鏡花は左の廊下側のふすまの前に立った女性に視線で合図を出した。女性が無言でふすまを引くと、廊下で待機していた男たちが辻を中へ運び込む。
しかしそれは、宗主の息子にするような運び方ではなかった。
まるで罪人を引き立てているかのように、今哮にしているのと同じく2人の黒服の男が両脇から腕を取って、持ち上げるように支えているが、頭も足もだらりと垂れたままだ。意識があるのかどうかも定かでない、脱力した姿で、ずるずると辻は無抵抗で引きずられていく。
「辻!!」
哮は辻の名を呼んだ。
しかし辻は無反応だ。
「辻! 辻! 辻!」
辻から何らかの反応を引き出そうと、哮は夢中で辻を連呼する。
騒がしさに鏡花が眉をひそめた。その反応から察した黒服の男たちが、即座に黙らせようと両脇から哮の腕を締め上げたが、哮は構わず辻の名を大声で呼び続け、そしてさらには2人を引きずりながら、じりじりと少しずつ、辻へ向かって前進を始めたのだった。
(生きとるんやろ!? おまえ! 俺を見ろ! 返事をしてくれ!)
「つじぃぃぃっ!!」
自身の痛みをものともせず、目尻に涙を浮かべ、ひたすらに辻が生きている証を求めて叫び続ける哮の思いが、ついに通じたか。
「…………さわ、だ……?」
辻が言葉を発した。
その声はとても小さく、離れた哮の耳には何と言っているかまでは聞こえなかったが、唇の動きが、彼が死んでいないことを哮に知らせた。
「辻!」
(生きてた!)
喜ぶ哮の前、辻が首をわずかに動かして哮のほうを向く。
傷だらけで腫れた顔。熱が出ているらしく、赤く腫れた顔が熟れた果実のようだった。顔面の損傷は右目が特にひどく、閉じた瞼の上からぱっくり割れている。
頭からシャワーを浴びた直後のようにぐっしょりと濡れた重そうな髪からぽたぽたと落ちているのも、水にあらず、彼の血の雫だった。
哮には辻本人しか見えていなかったが、辻が引きずられた畳の上にも血の跡がついていて、その量は決して少なくない。
俺のせいだ、と哮は全身をわななかせる。
あの化け物女から俺たちを逃がすために、辻はあんな姿になったのだ。
涙が目に痛くて、ぎゅっと目をつぶる。
「……澤田…………。鳥野たち、は……?」
辻の力ない声に、哮は首を振ることしかできなかった。
「……そう、か……」
風船から漏れる空気のようなしぼんだ声で、辻はため息のように口にした。
辻自身、覚悟してたのかもしれない。あの絶望的な瞬間。せめて哮たちだけでもと、その一心で化け物の前に身を投げ出したけれど、きっと哮たちを救うことはできないだろう、と。
「おばさん!」
哮は、今度は辻の前に立つ鏡花に向かって叫んだ。
「救急車呼んでくれ! 今すぐ辻を病院に運ぶんや!
辻を助けてくれ! お願いや! こいつがこうなったのは俺のせいやから、罰なら俺が受ける!」
だから……だから辻を……!
「お願い、します……」
手が自由だったなら、その場で平身低頭土下座していただろう。けれども両腕をとられている身ではそれもできず、ただうなだれて頭を下げるしかない。
泣きながら懇願する哮に、しかし鏡花は表情をわずかも崩さなかった。
ふん、と鼻を鳴らし、虫けらを見るような目で哮を見、その目を傍らの瀕死の辻へと向ける。
俺の母ちゃんなら、絶対あんな顔はしない。あんな姿になった俺を見たらあわてふためいて、泣きながら救急車を呼ぶに違いないのに――そう思った瞬間、哮は頭にきて叫んだ。
「あんた、辻の母ちゃんやろ!? 息子が大けがで死にかけてるんやぞ!! なんでそんな冷静なんや!!
はよ救急車呼べよ! 病院に連れてけ! ――うっ」
左横にいた男が哮の腹に拳を入れた。宗主に対し礼を欠いた、その代償だと見下ろす目は告げている。
みぞおちの激痛に、哮は反抗はおろか、息もまともにできなかった。力が抜け、がくりとその場に膝をつく。
そんな哮には目もくれず、鏡花は息子に向かって言った。
「結、聞こえていますか」
「…………はい……母さま……」
「私がどれほどおまえに失望しているか、分かっていますか?
おまえを産み、育てるために、どれほどの人、物、年月、忍耐を私たちが必要としたのかも。それも総てはこの日のためであったのに。
おまえは、あの愚かで浅はかな者たちのために、その総てを台なしにしてしまった。そのことによって私たちに与えた失望が……いいえ、絶望が、あなたは本当に分かっていると言えるのですか?」
「…………申し、わけ……」
辻は、喉をせり上がってきた熱いものに言葉を失ったように、ぐっと喉を伸ばすと、次の瞬間ぼたぼたと血の塊を吐いた。
そんな息子を見ても、鏡花の冷徹な視線は、ほんの少しも揺らがない。
『私が』『私たちが』鏡花の言葉はそればかりだった。辻がどう考え、何を思って動き、こんな姿になってしまったのか、微塵も考慮していない。
あるいは。そのすべてを理解し――重傷を負った辻がこの場にいるということは、あそこから彼を連れ出したのは彼らだと推察できることから――、その上で、彼女はその行為にひとかけらの意味も、価直も、感じていないのだろう。
だが哮は違った。
辻の、わが身を犠牲にしてでも自分たちを助けようとした行為は何より尊く、そこまで彼は自分たちのことを大切に思ってくれていたのだという証左は、彼にとって何より勝る、かけがえのないものだった。
誰も――実の母親でさえ、彼の英雄的行為を褒めたたえない。この場にいる誰一人として、彼のしたことを認めずに、ただ無価値と、愚か者と断じていることに哮は猛烈に腹が立ち、また殴られてもいい、これまで思ってきたことを全部ぶちまけてやる、と思ったのだが、うなだれて、口から血をしたたらせながらこちらを見た辻の目に、
『言っても無駄だよ。僕の母さんは、きみの母さんじゃないんだ』
以前、そう言ったときの辻を思いだして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
今の辻の目はそのときと同じ、諦めと寂しさを浮かべていた。
「今のあなたに期待できるのは1つだけです」
辻に向かいそう告げると、鏡花は後ろを向き、ふすまを開ける。そこには、こちらに背を向けて座った、数十人の僧侶の背中があった。
彼らがはたして本物の僧侶なのかは疑問の余地があったが、空気が白一色に染まり、霧のようにたゆたうほど香をたき、黒い着物姿で声を合わせて読経をする姿は、哮には法事のときなどに見るお寺のお坊さんによく似て見えた。
数十人の座した男たちの体から放たれる、むぅんとした熱気と、体臭と、汗のにおい、そして香の強くて甘い香りといった、それらがふすまが開かれた瞬間どっとこちらの部屋に流れ込む。あの妙な異臭はこれだったのかと理解した瞬間、その濃密さに喉が詰まり、哮は激しく咳き込んだ。
哮以外の者たちは慣れているようで、微動だにしない。
そしてふすまが開けられても彼らの読経は途切れず、こちらを振り向く者もいなかった。全員、ふすまが開いたことにも気付いていない様子で、一心不乱に読経を続けていた。
だがそうして読経をしているのに、不思議と彼らの正面には祭壇も、像も、それらしい絵姿も、何もない。
(あいつら、何に向かってあんなに読経してるんや?)
その異様な光景に、今おかれている状況を忘れて首をひねって考えていると、誰に言われたわけでもないのに彼らは身を揺すって少しずつ隙間をつくり出し、ずりずりと左右に身を寄せて道を開けた。
それで哮も気付いたのだが、その部屋は今いる部屋のように畳敷きではなかった。薄暗いのはこちらの部屋と同じだが、床は板張りで、奥には穴としか思えない黒い何かがある。
穴は直径5メートルはあるかと思えるほど巨大で、彼らは祭壇でも仏像でもなく、その穴に向かって読経を唱えていたのだった。
(部屋ん中に穴?)
その不思議さにますます首をひねる哮の前、開けた道に鏡花が踏み出した。ぎしりときしむ床板。そのまま歩いていく鏡花に従って、辻を両側から持ち上げていた男たちが無言で辻を引きずっていく。
やがて鏡花は穴の前で歩を止め、振り返って辻を見た。
(まさか……)
嫌な予感が胸を焼く。
「やめろ!!」
その先が想像できた哮は、こみ上がってくる恐怖から、狂ったように叫んだ。
「やめろ! やめてくれ!!」
だが鏡花たちは哮の声など聞こえないというように、彼を見もしない。
哮は滅茶苦茶に暴れて左腕を押さえていた手から腕を引っこ抜くと、右の男の股間に蹴りを入れてこちらも放させ、辻に向かって走った。
「辻!!」
そんな哮に気付いた鏡花が、早く中へ落とせと男たちに手を振る。
穴の縁に運ばれた辻は頭を動かし、肩越しに哮を見ると、かすかに笑みを見せて、そして唇だけで言った。
『おまえは、僕の分も、生きろ』
「だめだ辻!!」
最初から、間に合うはずもない距離だった。
必死に伸ばした手の向こうで、辻は穴に放り込まれた。
辻は何の抵抗もせず――1人で立つこともできない傷だらけの体を思えば、抵抗できるはずもない――穴へと落ちていき。やがて、重い物が硬い床にぶつかるぐちゃりという音が、小さく聞こえた……。
「辻ぃぃぃいっ!!」
穴の縁に両手をついて、中を覗き込む。
穴は、井戸のように石を組んで造られていた。穴が先にあり、その穴を囲むようにこの屋敷が造られたのだろう。この部屋もまた、先の部屋のように薄暗く、絶対的に光量の足りていない状態でははるか下の底まで見通せず、そこにはただただ暗い闇が広がっているだけだ。
何度呼んでも、いくら耳を澄ましても、哮の呼び声に応える辻の声は聞こえない。
「辻……うそやろ……こんな……」
(こんなことがあってたまるか)
哮は茫然とそんなことを思う。
ここに連れてこられてから見聞きしたすべてが彼の日常からはほど遠く、悪夢のように現実味がないのに、両手から感じ取れる石の硬さ、凍えるような冷たさ、穴から上がってきている猛烈な悪臭は、彼にこれは現実に起こっていることだと告げていた。
「心配せずとも、あなたもすぐあの子のあとを追えますよ」
穴をのぞき込んだまま動けなくなっている哮を見下ろして、鏡花が素っ気ない声で言った。
「ほら、聞こえませんか? ケモノの唸る声が。見えませんか? 石壁を削る鉄爪が。
もうすぐ蠱毒の壺で勝ち抜いたケモノが、敗北したモノの魂を総てその身に従えて這い上がってきます。結の尊い血肉を啜ったケモノがね。
あなたはそのケモノの最初の贄となるのですよ。光栄に思いなさい」
鏡花は淡々と言い、黒服や、その他の読経をやめた男たちとともに後ろの部屋まで後退した。
彼女たちは、これから何が起きるか知っていたからだ。
ただ1人、それを知らない哮だけが、穴の縁にとり残されて、落ちる寸前のぎりぎりまで身を乗り出して穴をのぞき込んでいる。
暗闇の向こうから辻の声か、動く姿が感じられないかと、そればかり考えて……。
だがそんな哮に見えたのは、鏡花の言ったとおり、獣の爪だった。
グルルと唸る獣の声。黒毛に覆われた腕が闇からぬっと伸びて、がちりと硬い石壁に爪を食い込ませる。
獣は、空気がびりびり震える咆哮を上げたと思うや次の瞬間には石壁を駆け上がり、穴から飛び出していた。
巨大な白い獣だった。
胴が長く、ふさふさの長くて白い毛に覆われた体は尾の先端が黒い。黒くて丸い耳はテンみたいだったけど、似ているのはそこまでだった。渦を巻いた黒い目は憎悪と殺意に満ち満ちて、耳まで裂けたギザギザの口は血に濡れて湯気を放っている。黒い短めの四つ足からは、湾曲した、鉄でできているような鋭い爪が伸びて、板に食い込んでいた。
白い体毛は、飛び散った返り血で赤く染まっていて……。
その体から発散されている、何かが腐ったような甘ったるいにおいと、野生の獣特有の獣臭に息が詰まる。
哮は怪獣のようなその姿に圧倒され、叫び声を上げることもできず、ただ、獣を見上げることしかできないでいた。
これは、哮が辻と出会い、別れて、再び会うまでの物語―――。
部屋は薄暗い。四隅に、細長い柄の上に白い紙で囲った蝋燭が1本立てられているだけだ。妙な、何かくすぶったような異臭もしていたが、それほど強くはない。
着物姿の鏡花が背にしたふすまの向こうからは野太い声で読経がしていた。その声からして数十人はいると推察できる。
ふすま越しに聞こえる男たちの読経の声と、鏡花が無言で浴びせる冷たい視線に、哮は内心では恐々としていた。必死に、それとさとられないよう面には出さないようにしていたが、おそらく鏡花は見抜いていたに違いない。
「……辻は?」
ごくりと生唾を飲み込み、慎重に発した哮の問いに、鏡花は眉をひそめ
「生きていますよ、まだね」
と答えた。
「ほんまか!? ほんまに、あいつは生きとるんやな!?」
彼女の元へ駆け寄ろうとした直後、ぐんっと両腕が後ろに引かれた。その勢いに、学生服のボタンが弾け飛ぶ。
罰だというように、腕を押さえていた男たちが無言でぎりりと締め上げてきて、その痛みに思わず哮は悲鳴を上げそうになった。
歯を食いしばり、悲鳴をかみ殺して面を上げた哮の前、鏡花は横を向いてため息をつく。
「まったく。とんだことをしでかしてくれましたね。あなたたちのような者と付き合ってはいけないと、この1年、何度あの子に言ったでしょう。あなたには大切な使命があるのだからと。
あの子はそれを守らなかった。そのせいで、このざまです」
鏡花は左の廊下側のふすまの前に立った女性に視線で合図を出した。女性が無言でふすまを引くと、廊下で待機していた男たちが辻を中へ運び込む。
しかしそれは、宗主の息子にするような運び方ではなかった。
まるで罪人を引き立てているかのように、今哮にしているのと同じく2人の黒服の男が両脇から腕を取って、持ち上げるように支えているが、頭も足もだらりと垂れたままだ。意識があるのかどうかも定かでない、脱力した姿で、ずるずると辻は無抵抗で引きずられていく。
「辻!!」
哮は辻の名を呼んだ。
しかし辻は無反応だ。
「辻! 辻! 辻!」
辻から何らかの反応を引き出そうと、哮は夢中で辻を連呼する。
騒がしさに鏡花が眉をひそめた。その反応から察した黒服の男たちが、即座に黙らせようと両脇から哮の腕を締め上げたが、哮は構わず辻の名を大声で呼び続け、そしてさらには2人を引きずりながら、じりじりと少しずつ、辻へ向かって前進を始めたのだった。
(生きとるんやろ!? おまえ! 俺を見ろ! 返事をしてくれ!)
「つじぃぃぃっ!!」
自身の痛みをものともせず、目尻に涙を浮かべ、ひたすらに辻が生きている証を求めて叫び続ける哮の思いが、ついに通じたか。
「…………さわ、だ……?」
辻が言葉を発した。
その声はとても小さく、離れた哮の耳には何と言っているかまでは聞こえなかったが、唇の動きが、彼が死んでいないことを哮に知らせた。
「辻!」
(生きてた!)
喜ぶ哮の前、辻が首をわずかに動かして哮のほうを向く。
傷だらけで腫れた顔。熱が出ているらしく、赤く腫れた顔が熟れた果実のようだった。顔面の損傷は右目が特にひどく、閉じた瞼の上からぱっくり割れている。
頭からシャワーを浴びた直後のようにぐっしょりと濡れた重そうな髪からぽたぽたと落ちているのも、水にあらず、彼の血の雫だった。
哮には辻本人しか見えていなかったが、辻が引きずられた畳の上にも血の跡がついていて、その量は決して少なくない。
俺のせいだ、と哮は全身をわななかせる。
あの化け物女から俺たちを逃がすために、辻はあんな姿になったのだ。
涙が目に痛くて、ぎゅっと目をつぶる。
「……澤田…………。鳥野たち、は……?」
辻の力ない声に、哮は首を振ることしかできなかった。
「……そう、か……」
風船から漏れる空気のようなしぼんだ声で、辻はため息のように口にした。
辻自身、覚悟してたのかもしれない。あの絶望的な瞬間。せめて哮たちだけでもと、その一心で化け物の前に身を投げ出したけれど、きっと哮たちを救うことはできないだろう、と。
「おばさん!」
哮は、今度は辻の前に立つ鏡花に向かって叫んだ。
「救急車呼んでくれ! 今すぐ辻を病院に運ぶんや!
辻を助けてくれ! お願いや! こいつがこうなったのは俺のせいやから、罰なら俺が受ける!」
だから……だから辻を……!
「お願い、します……」
手が自由だったなら、その場で平身低頭土下座していただろう。けれども両腕をとられている身ではそれもできず、ただうなだれて頭を下げるしかない。
泣きながら懇願する哮に、しかし鏡花は表情をわずかも崩さなかった。
ふん、と鼻を鳴らし、虫けらを見るような目で哮を見、その目を傍らの瀕死の辻へと向ける。
俺の母ちゃんなら、絶対あんな顔はしない。あんな姿になった俺を見たらあわてふためいて、泣きながら救急車を呼ぶに違いないのに――そう思った瞬間、哮は頭にきて叫んだ。
「あんた、辻の母ちゃんやろ!? 息子が大けがで死にかけてるんやぞ!! なんでそんな冷静なんや!!
はよ救急車呼べよ! 病院に連れてけ! ――うっ」
左横にいた男が哮の腹に拳を入れた。宗主に対し礼を欠いた、その代償だと見下ろす目は告げている。
みぞおちの激痛に、哮は反抗はおろか、息もまともにできなかった。力が抜け、がくりとその場に膝をつく。
そんな哮には目もくれず、鏡花は息子に向かって言った。
「結、聞こえていますか」
「…………はい……母さま……」
「私がどれほどおまえに失望しているか、分かっていますか?
おまえを産み、育てるために、どれほどの人、物、年月、忍耐を私たちが必要としたのかも。それも総てはこの日のためであったのに。
おまえは、あの愚かで浅はかな者たちのために、その総てを台なしにしてしまった。そのことによって私たちに与えた失望が……いいえ、絶望が、あなたは本当に分かっていると言えるのですか?」
「…………申し、わけ……」
辻は、喉をせり上がってきた熱いものに言葉を失ったように、ぐっと喉を伸ばすと、次の瞬間ぼたぼたと血の塊を吐いた。
そんな息子を見ても、鏡花の冷徹な視線は、ほんの少しも揺らがない。
『私が』『私たちが』鏡花の言葉はそればかりだった。辻がどう考え、何を思って動き、こんな姿になってしまったのか、微塵も考慮していない。
あるいは。そのすべてを理解し――重傷を負った辻がこの場にいるということは、あそこから彼を連れ出したのは彼らだと推察できることから――、その上で、彼女はその行為にひとかけらの意味も、価直も、感じていないのだろう。
だが哮は違った。
辻の、わが身を犠牲にしてでも自分たちを助けようとした行為は何より尊く、そこまで彼は自分たちのことを大切に思ってくれていたのだという証左は、彼にとって何より勝る、かけがえのないものだった。
誰も――実の母親でさえ、彼の英雄的行為を褒めたたえない。この場にいる誰一人として、彼のしたことを認めずに、ただ無価値と、愚か者と断じていることに哮は猛烈に腹が立ち、また殴られてもいい、これまで思ってきたことを全部ぶちまけてやる、と思ったのだが、うなだれて、口から血をしたたらせながらこちらを見た辻の目に、
『言っても無駄だよ。僕の母さんは、きみの母さんじゃないんだ』
以前、そう言ったときの辻を思いだして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
今の辻の目はそのときと同じ、諦めと寂しさを浮かべていた。
「今のあなたに期待できるのは1つだけです」
辻に向かいそう告げると、鏡花は後ろを向き、ふすまを開ける。そこには、こちらに背を向けて座った、数十人の僧侶の背中があった。
彼らがはたして本物の僧侶なのかは疑問の余地があったが、空気が白一色に染まり、霧のようにたゆたうほど香をたき、黒い着物姿で声を合わせて読経をする姿は、哮には法事のときなどに見るお寺のお坊さんによく似て見えた。
数十人の座した男たちの体から放たれる、むぅんとした熱気と、体臭と、汗のにおい、そして香の強くて甘い香りといった、それらがふすまが開かれた瞬間どっとこちらの部屋に流れ込む。あの妙な異臭はこれだったのかと理解した瞬間、その濃密さに喉が詰まり、哮は激しく咳き込んだ。
哮以外の者たちは慣れているようで、微動だにしない。
そしてふすまが開けられても彼らの読経は途切れず、こちらを振り向く者もいなかった。全員、ふすまが開いたことにも気付いていない様子で、一心不乱に読経を続けていた。
だがそうして読経をしているのに、不思議と彼らの正面には祭壇も、像も、それらしい絵姿も、何もない。
(あいつら、何に向かってあんなに読経してるんや?)
その異様な光景に、今おかれている状況を忘れて首をひねって考えていると、誰に言われたわけでもないのに彼らは身を揺すって少しずつ隙間をつくり出し、ずりずりと左右に身を寄せて道を開けた。
それで哮も気付いたのだが、その部屋は今いる部屋のように畳敷きではなかった。薄暗いのはこちらの部屋と同じだが、床は板張りで、奥には穴としか思えない黒い何かがある。
穴は直径5メートルはあるかと思えるほど巨大で、彼らは祭壇でも仏像でもなく、その穴に向かって読経を唱えていたのだった。
(部屋ん中に穴?)
その不思議さにますます首をひねる哮の前、開けた道に鏡花が踏み出した。ぎしりときしむ床板。そのまま歩いていく鏡花に従って、辻を両側から持ち上げていた男たちが無言で辻を引きずっていく。
やがて鏡花は穴の前で歩を止め、振り返って辻を見た。
(まさか……)
嫌な予感が胸を焼く。
「やめろ!!」
その先が想像できた哮は、こみ上がってくる恐怖から、狂ったように叫んだ。
「やめろ! やめてくれ!!」
だが鏡花たちは哮の声など聞こえないというように、彼を見もしない。
哮は滅茶苦茶に暴れて左腕を押さえていた手から腕を引っこ抜くと、右の男の股間に蹴りを入れてこちらも放させ、辻に向かって走った。
「辻!!」
そんな哮に気付いた鏡花が、早く中へ落とせと男たちに手を振る。
穴の縁に運ばれた辻は頭を動かし、肩越しに哮を見ると、かすかに笑みを見せて、そして唇だけで言った。
『おまえは、僕の分も、生きろ』
「だめだ辻!!」
最初から、間に合うはずもない距離だった。
必死に伸ばした手の向こうで、辻は穴に放り込まれた。
辻は何の抵抗もせず――1人で立つこともできない傷だらけの体を思えば、抵抗できるはずもない――穴へと落ちていき。やがて、重い物が硬い床にぶつかるぐちゃりという音が、小さく聞こえた……。
「辻ぃぃぃいっ!!」
穴の縁に両手をついて、中を覗き込む。
穴は、井戸のように石を組んで造られていた。穴が先にあり、その穴を囲むようにこの屋敷が造られたのだろう。この部屋もまた、先の部屋のように薄暗く、絶対的に光量の足りていない状態でははるか下の底まで見通せず、そこにはただただ暗い闇が広がっているだけだ。
何度呼んでも、いくら耳を澄ましても、哮の呼び声に応える辻の声は聞こえない。
「辻……うそやろ……こんな……」
(こんなことがあってたまるか)
哮は茫然とそんなことを思う。
ここに連れてこられてから見聞きしたすべてが彼の日常からはほど遠く、悪夢のように現実味がないのに、両手から感じ取れる石の硬さ、凍えるような冷たさ、穴から上がってきている猛烈な悪臭は、彼にこれは現実に起こっていることだと告げていた。
「心配せずとも、あなたもすぐあの子のあとを追えますよ」
穴をのぞき込んだまま動けなくなっている哮を見下ろして、鏡花が素っ気ない声で言った。
「ほら、聞こえませんか? ケモノの唸る声が。見えませんか? 石壁を削る鉄爪が。
もうすぐ蠱毒の壺で勝ち抜いたケモノが、敗北したモノの魂を総てその身に従えて這い上がってきます。結の尊い血肉を啜ったケモノがね。
あなたはそのケモノの最初の贄となるのですよ。光栄に思いなさい」
鏡花は淡々と言い、黒服や、その他の読経をやめた男たちとともに後ろの部屋まで後退した。
彼女たちは、これから何が起きるか知っていたからだ。
ただ1人、それを知らない哮だけが、穴の縁にとり残されて、落ちる寸前のぎりぎりまで身を乗り出して穴をのぞき込んでいる。
暗闇の向こうから辻の声か、動く姿が感じられないかと、そればかり考えて……。
だがそんな哮に見えたのは、鏡花の言ったとおり、獣の爪だった。
グルルと唸る獣の声。黒毛に覆われた腕が闇からぬっと伸びて、がちりと硬い石壁に爪を食い込ませる。
獣は、空気がびりびり震える咆哮を上げたと思うや次の瞬間には石壁を駆け上がり、穴から飛び出していた。
巨大な白い獣だった。
胴が長く、ふさふさの長くて白い毛に覆われた体は尾の先端が黒い。黒くて丸い耳はテンみたいだったけど、似ているのはそこまでだった。渦を巻いた黒い目は憎悪と殺意に満ち満ちて、耳まで裂けたギザギザの口は血に濡れて湯気を放っている。黒い短めの四つ足からは、湾曲した、鉄でできているような鋭い爪が伸びて、板に食い込んでいた。
白い体毛は、飛び散った返り血で赤く染まっていて……。
その体から発散されている、何かが腐ったような甘ったるいにおいと、野生の獣特有の獣臭に息が詰まる。
哮は怪獣のようなその姿に圧倒され、叫び声を上げることもできず、ただ、獣を見上げることしかできないでいた。
これは、哮が辻と出会い、別れて、再び会うまでの物語―――。
