柊の花に触れずに、恋をした。

旅行当日。車に乗り込んだとき、まだ空気は眠っていた。エンジンがかかり、窓の外がゆっくりと後ろへ流れ始める。

後部座席。
隣には柊先輩が座っている。

肩が触れそうで触れない、そのわずかな隙間を、互いに意識しているのが分かった。

車内では音楽が流れ、誰かが話し、笑い声が混じる。
普段なら耳につくはずの騒がしさが、隣の気配に押し出されて、意識に残らなかった。

窓の外の景色が変わっていく。
建物が減り、色が抜け、空が広くなる。
それを見ているうちに、頭の中で張っていた糸が、少しずつ緩んでいく。

途中で車を降り、飯を食い、また走る。
決まった予定があるわけでもなく、誰かが思いついた方向に動く。

時間が過ぎている感覚はあるのに、奪われている感じがしない。ただ、今が続いているだけだった。

柊先輩は相変わらず多くを語らない。
でも、離れているわけでもなく、必要なときには、自然とそこにいる。

横顔を見るたび、視線を逸らす理由を探して、見つからないまま、また見てしまう。

宿に着いてからも、その流れは途切れなかった。
荷物を置き、飯を食い、酒を飲み、誰かが笑い、誰かが静かになる。

おれは少し飲みすぎて、身体の輪郭(りんかく)が曖昧になっていた。楽しい、というより、解けている感覚に近い。

部屋に戻っても、そのまま横になる気にはなれず、上着を羽織(はお)って外に出た。

空気は少し冷んやりしていて、昼とは明確に違う。
建物の脇に回ると、タバコの匂いがした。

柊先輩が、壁にもたれて立っている。
指に挟んだタバコの先が、暗がりで小さく赤く灯っていた。

「……起きてたんだ」
「はい」

それだけで、言葉は途切れた。

風が吹き、遠くの音が、近くに集まってくる。
沈黙は重くはない。ただ、薄く張りつめていた。

何かを言えば、この距離が変わる。
そんな予感だけが、はっきりしている。

「昼さ」

柊先輩が、低く言った。

「楽しそうだったな」

責める調子ではない。
感想を落としただけの声。

「……そう、ですか」
「写真撮って、飯食って」

少し間を置いてから、続く。

「……ああいうの、俺、どう過ごせばいいか、分かんなかった」

タバコの先が、暗がりで小さく揺れる。
言い訳でも、照れ隠しでもない。ただ事実を置いたような声だった。

「何もしない時間とか、目的のない時間とか。嫌い、っていうより、どう過ごせばいいか、分かんなくて」

柊先輩は視線を外したまま、言葉を選ぶ。

「うちは、母親ひとりで、ずっと働いてた。俺も、高校の頃からバイトして、やることが決まってない時間って、ほとんど、なかったんだ」

指先で、タバコを持ち替える。
吸わずに、そのまま下ろした。

「大学に入ってからも通うっていうより先に進むために、ここにいる感じで、やりたいこともあるし、そこに行くには、金も時間も要る。」

そこでようやく、こちらを見る。

「だから何もしないで時間が過ぎると.....自分が止まってる気がして、なんか、焦る。」

言葉がきれる。
その時、はじめて柊先輩の内側に触れた気がした。

すぐには、言葉が出なかった。
頭の中で何かが重なって、うまく形にならない。

しばらく、夜の空気を吸う。

「……おれも」

自分でも驚くほど、静かな声だった。

「先輩ほど、ちゃんとした理由はないですけど、その感覚少し分かります」

一拍置く。
柊先輩は何も言わない。続きを待っている。

「本当はおれ、医学部、行きたかったんです」

そう言ってから、少し遅れて胸が痛んだ。
今さら口にするつもりはなかったはずの言葉だ。

「でも諦めたんです。お金も、時間も、かかりすぎるなと思って。母さんにこれ以上、迷惑かけたくなくて」

視線を落とす。

「だから、医学部にいきたかったこと母さんにはちゃんと言えたことないんです」

言えなかった、というより、
言わない方がいいと自分の気持ちに無理矢理(ふた)をしたという方が正しいかもしれない。

「大学出て、ちゃんと就職して、早く安心させてあげたい。その気持ちが強くて。だから、今の学科にはいりました。ただ……たまに考えちゃって」

言葉が途切れる。

「もし、あのまま行ってたら、どうなってたんだろうな、とか。後悔してる、っていうより考え始めると、止まんなくなる感じで」

息を吐く。

「だから、予定を詰めてるんだと思います。走ってると、考えなくて済むから....」

少し、間が落ちる。

「おれの場合は、立ち止まるのが苦手っていうより、止まると余計なこと、考えちゃうんでそれが嫌で動いてるだけ、かもしれないです」

それだけ言って、口を閉じた。

柊先輩の方を見るのが、少し怖かった。
軽く見られたらどうしよう、とか、
同情されたら嫌だな、とか。

でも、柊先輩は何も言わなかった。
ただ、目を逸らさずに、そこに立っている。

その沈黙が、否定でも、(なぐさ)めでもないことだけは、分かった。

しばらく、夜の音だけが流れていた。
柊先輩が、短く息を吐く。

「……寮で言ったこと」

低い声だった。

「お前みたいなやつ、好きじゃないって」

一度、言葉を切る。

「正直、あのときはちゃんと考えて言ったわけじゃない」

視線を外したまま、続ける。

「お前が目的もなく大学生活を過ごしてるように見えて、それが、どうしても引っかかって自分の感覚だけで、判断した。お前がどういう理由で、どういう背景でそうしてるのか考えもしなかった」

そこで、こちらを見る。

「……今日、話聞いて、俺、何も知らなかったって分かった。考えて動いてるとか、ちゃんとしてるとか、そういう話じゃなくて、お前にも、いろいろあるってこと。最初から、分かろうとしなかった。それを否定した」

一拍、間が開いた。

「……悪かった」

それだけだった。
謝り方も、言葉も、不器用だった。
でも、その一言に、余計なものは混じっていない。

しばらく、その場に立ったまま、二人とも動かなかった。

謝られた、というより、
同じ場所に立った気がしていた。

胸の奥が、静かに温かい。
跳ねるほどじゃない。
でも、冷えていたところに、ちゃんと熱が戻ってきた感じだった。

柊先輩は、もう何も言わない。
それが、終わりの合図だと分かった。
なのに、立ち去る気にもなれなかった。

「……先輩」

声をかけた瞬間、
自分でも分かるくらい、少しだけ声が軽かった。
柊先輩は顔だけこちらに向ける。

「一個だけ、気になったんですけど....」

間を置く。
空気が、さっきより柔らかい。

「タバコを吸う時間って、先輩的には、アリなんですか笑」

自分で言っておいて、少し笑いそうになる。

「目的、特に、ないですよね」

からかう、というより、
様子を探るみたいな言い方だった。

柊先輩は一瞬だけ目を細めて、
すぐに分かった、という顔をする。

「……今、いじっただろ」

低い声なのに、(とが)める感じはない。

「いじってないです。ちょっと、聞いただけで」

肩をすくめると、
柊先輩は短く息を吐いた。

タバコを指で転がす。
すぐには火をつけない。

「一番、無駄な時間だって分かってる」

そこで、少しだけトーンが落ちる。

「でも、これを吸ってるときだけ、......時間が止まってる気がする」

理由を探す調子じゃない。説明でもない。
ただ、そう感じている、という声だった。
その横顔を見て、胸の奥が、じんわり熱を持つ。

ギャップ、なんて言葉じゃ足りない。
でも、目を逸らす理由も見つからない。

「……あの、おれ、二十歳になったんで」

言いながら、少し照れる。

「記念に一本だけ、吸ってみてもいいですか」
「やめとけ」

即答だった。

「後悔するぞ」
「一回だけです」

少しだけ、意地になる。
柊先輩は、こちらを見てから、短く息を吐いた。

「……吸うなら、覚悟しろ」

差し出されたタバコを受け取る。
指先が触れそうで、触れない。

ライターの火が近づく。
先輩の手が、思ったより近い。

「深く吸うな」

言われた通りにしたつもりだった。
次の瞬間、喉が焼けた。

「っ……!」

思わず咳き込む。

「ほらな」

低い声で笑われる。

「無理すんな、まだ早い」

目尻が熱い。情けない。

「……何がうまいんですか」

むせながら言うと、
柊先輩は少しだけ口角を上げた。

「分かんなくていい」

タバコを取り上げ、そのまま自分の口に運ぶ。

「分かる必要もない。お前にはまだ、早かったみたいだな」

少し、ばかにするみたいな調子。

「……子ども扱いしないでください」

むくれると、柊先輩は小さく笑った。
そのまま、空を見上げる。
雲がなくて、星がやけに多い。

「田舎って」
「星、きれいですね」

そう言って、柊先輩の方を見る。

顔を向けた瞬間、
視界が一気に埋まった。

近い。
近すぎて、焦点が合わない。

鼻先が触れそうで、
息が混ざる距離。

どちらかが少し動けば、
そのまま口が重なる――
そんな位置に、柊先輩の顔があった。

驚いて、息を吸う。
その拍子に、唇がわずかに震える。

逃げる余地はない。
視線も、距離も。

柊先輩は、逃げない。
ただ、確かめるみたいに見ている。
そのまま、
ゆっくりと手が伸びてきて――
頭に、そっと触れられる。

押さえつけるでもなく、
()でるでもなく、
ただ、そこに置くだけの手。

その顔は、さっきまでとは違っていた。
驚くほど柔らかい。

「……お前みたいなやつ......好きだ」

続きはなかった。
それでも、その一言が、
すぐには消えなかった。

おれは、何も言えないまま、その場に立ち尽くす。

頭に残った感触が、
まだそこにあるみたいで、
手を伸ばせば、もう一度触れてしまいそうだった。

心臓の音が、やけに近い。

柊先輩は、もうタバコを消していた。
さっきまでの空気を引きずらない動きだった。

「……冷えるな」

それだけ言って、上着の(えり)を直す。
一歩、距離が戻る。

「じゃあ、部屋、戻るか」

拍子抜けするほど、いつもの調子だった。
さっきの近さが、なかったことみたいに扱われる。

「……はい」

返事をするのが、少し遅れた。

部屋に戻ると、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。布団に横になっても、すぐには眠れない。

目を閉じると、さっきの声や間が、遅れて浮かんでくる。胸の奥が、落ち着かないまま、少しだけ熱を持っていた。

翌朝、荷物をまとめて外に出ると、空気はもう昨日とは違っていた。眠気は残っているのに、頭は妙に()えている。

車に乗り込むと、自然と昨日と同じ席になった。
隣に座る柊先輩の距離は変わらない。
でも、その距離を、前みたいに「遠い」とは感じなかった。

走り出した車の中で、誰かが土産の話をする。
柊先輩は相変わらず窓の外を見ている。
けれど、ふとした拍子に視線が合って、すぐに逸らされた。

それだけのことなのに、胸が軽く跳ねた。

寮の前に車を止め、荷物を下ろす。
旅行は、確かに終わった。

「おつかれ」

柊先輩が、短く言う。

「おつかれさまでした」

それだけのやりとり。

部屋に戻り、荷物を置く。
ベッドに腰を下ろして、ようやく息をついた。

柊先輩との距離は、数値で言えば何も変わっていない。
隣に座る距離も、言葉の量も。

それでも、もう以前みたいに、
「分からない人」「遠い先輩」としては、見られなくなっていた。

あの夜を通って、
柊先輩は、おれの中で
ちゃんと触れられる位置に移った。