その日、特別な用事があったわけじゃない。
講義が終わって、サークルの予定もなくて、部屋に戻るには少し早い時間だった。
だから、なんとなく共同リビングの方へ向かった。
考えて決めたというより、身体が先に動いた感じに近い。
ドアを開けると、すでに人の気配があった。
誰かが先にいて、話が始まっているときの、あの少しだけ温度のある空気だった。
テーブルの向こうに、初瀬先輩と下田先輩がいた。
二人は柊先輩と同級生で、寮ではいつも同じ距離感で過ごしている。
騒いでいるわけでも、黙り込んでいるわけでもない。
ただ、そこにいるだけで場が落ち着く組み合わせだ。
「お、井ノ原」
下田先輩がこちらを見る。
「おつかれさまです」
軽く頭を下げて、冷蔵庫から飲み物を取る。
リビングの端に腰を下ろすと、自然と会話が耳に入ってきた。
「今年、どうする?」
下田先輩が言った。
「どうするって?」
初瀬先輩がスマホから目を上げる。
「旅行。泊まりでどっか行かね?」
旅行、という言葉が出た瞬間、話の輪郭がはっきりした。新学期の慌ただしさが一段落して、次の予定を考え始める頃。唐突ではないし、重くもない。
「まだ決めてないけどさ」
下田先輩はそう言って、スマホをテーブルに置いた。
地図アプリに、いくつか候補地が保存されている。
「井ノ原は?」
初瀬先輩が、こちらを見る。
すぐに答えられず、缶を一口飲んだ。
よさこいの練習、バレーの予定。頭の中で、いくつかの日付が重なる。
「日程次第ですね」
「まあ、そうだよな」
下田先輩はそれ以上踏み込まなかった。
キッチンの方で水の音がして、そちらを見る。
柊先輩がカップに水を注いでいた。いつからいたのか分からない。
気配が静かで、ふとした瞬間に視界に入る。
「柊はどう?」
下田先輩が、当たり前みたいに聞いた。
「時期による。」
柊先輩は短く答えた。
「バイト?」
「うん。長くは空けられない」
それで十分だった。
参加しないとも、行くとも言っていない。ただ条件を置いただけだ。
「短めでもいいだろ。一泊とか」
下田先輩と初瀬先輩が続ける。
柊先輩は少し考えてから、
「日程見てから決める」とだけ言った。
拒否の感じはなかった。
話の中心に入らないまま、完全にも外れない。
その立ち位置が、柊先輩らしく見えた。
その夜の話は、そこで終わった。
何も決まらないまま、それでも「なかったこと」にはならずに。
翌日、学食で昼を食べながら、スマートフォンを開く。
下田先輩から、グループにメッセージが入っていた。
《日程候補出しといた。無理なら×でいい》
短い文面だった。
催促でも、決断を迫るものでもない。
ただ、話が続いているという合図。
画面に並んだ日付を一つずつ見ていく。
完全に空いている日は少ない。けれど、どうにか調整できそうな日が二つだけあった。
迷ってから、丸をつける。
行ける、とは書かない。行けなくはない、くらいの感覚で。
夕方、寮に戻ると、共同リビングの前で初瀬先輩とすれ違った。
「井ノ原、日程ありがとう」
「いえ」
「助かる」
それだけで会話は終わった。
何かを決めた感じはしない。ただ、話が前に進んでいる。
夜、シャワーを浴びてから飲み物を取りに行くと、リビングのソファに柊先輩がいた。スマートフォンを片手に、画面を眺めている。
声をかける理由を探す前に、言葉が出た。
「……日程、出しました?」
「出した。行けそうなの、少しだけ」
「...そうなんですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
冷蔵庫から飲み物を取り、リビングを出る。
背中に視線を感じた気がして、一瞬だけ足を止める。
振り返るほどの理由はない。
部屋に戻り、机にスマートフォンを置く。
グループの画面を開くと、柊先輩の名前の横に、小さな丸がついていた。その丸は、自分が選んだ日付と重なっている。
数日後、共同リビングのテーブルに、印刷した紙が置かれていた。宿の名前と、日付。下に小さく、キャンセル期限が書いてある。
「とりあえず、ここで押さえた」
下田先輩が言う。誰も驚かなかった。
早いとも、強引だとも思わなかった。ただ、そういう流れだと理解した。
初瀬先輩が紙を指で押さえ、ざっと目を通す。
「問題なさそうだな」
そのまま、紙はテーブルの中央に戻された。
決を取るようなことはしない。反対意見も出ない。
ただ立ったまま、その紙を見ていた。
もう行けない理由を探す余裕はなかった。
柊先輩が遅れて入ってくる。
紙を見るなり、状況を察したように足を止めた。
「決まった?」
「ほぼ」
短いやりとりだった。
柊先輩は紙に一度だけ視線を落としてから、頷いた。
「なら、大丈夫」
それ以上は何も言わない。
条件も、補足もなかった。
その瞬間、話は終わった。
旅行は「検討中」ではなくなった。
解散したあと、部屋に戻る。
机の上に置いた手帳を開き、予定の空いているページをめくる。
ペンを取るまでに、迷いはなかった。
日付を書き込んで、手帳を閉じた。
旅行は、これから考えるものではなく、すでに組み込まれたものになった。
日常は何も変わらない。
講義があって、サークルがあって、寮に戻る。
ただ、その流れの先に、少しだけ、違う重さの時間が置かれただけだった。
講義が終わって、サークルの予定もなくて、部屋に戻るには少し早い時間だった。
だから、なんとなく共同リビングの方へ向かった。
考えて決めたというより、身体が先に動いた感じに近い。
ドアを開けると、すでに人の気配があった。
誰かが先にいて、話が始まっているときの、あの少しだけ温度のある空気だった。
テーブルの向こうに、初瀬先輩と下田先輩がいた。
二人は柊先輩と同級生で、寮ではいつも同じ距離感で過ごしている。
騒いでいるわけでも、黙り込んでいるわけでもない。
ただ、そこにいるだけで場が落ち着く組み合わせだ。
「お、井ノ原」
下田先輩がこちらを見る。
「おつかれさまです」
軽く頭を下げて、冷蔵庫から飲み物を取る。
リビングの端に腰を下ろすと、自然と会話が耳に入ってきた。
「今年、どうする?」
下田先輩が言った。
「どうするって?」
初瀬先輩がスマホから目を上げる。
「旅行。泊まりでどっか行かね?」
旅行、という言葉が出た瞬間、話の輪郭がはっきりした。新学期の慌ただしさが一段落して、次の予定を考え始める頃。唐突ではないし、重くもない。
「まだ決めてないけどさ」
下田先輩はそう言って、スマホをテーブルに置いた。
地図アプリに、いくつか候補地が保存されている。
「井ノ原は?」
初瀬先輩が、こちらを見る。
すぐに答えられず、缶を一口飲んだ。
よさこいの練習、バレーの予定。頭の中で、いくつかの日付が重なる。
「日程次第ですね」
「まあ、そうだよな」
下田先輩はそれ以上踏み込まなかった。
キッチンの方で水の音がして、そちらを見る。
柊先輩がカップに水を注いでいた。いつからいたのか分からない。
気配が静かで、ふとした瞬間に視界に入る。
「柊はどう?」
下田先輩が、当たり前みたいに聞いた。
「時期による。」
柊先輩は短く答えた。
「バイト?」
「うん。長くは空けられない」
それで十分だった。
参加しないとも、行くとも言っていない。ただ条件を置いただけだ。
「短めでもいいだろ。一泊とか」
下田先輩と初瀬先輩が続ける。
柊先輩は少し考えてから、
「日程見てから決める」とだけ言った。
拒否の感じはなかった。
話の中心に入らないまま、完全にも外れない。
その立ち位置が、柊先輩らしく見えた。
その夜の話は、そこで終わった。
何も決まらないまま、それでも「なかったこと」にはならずに。
翌日、学食で昼を食べながら、スマートフォンを開く。
下田先輩から、グループにメッセージが入っていた。
《日程候補出しといた。無理なら×でいい》
短い文面だった。
催促でも、決断を迫るものでもない。
ただ、話が続いているという合図。
画面に並んだ日付を一つずつ見ていく。
完全に空いている日は少ない。けれど、どうにか調整できそうな日が二つだけあった。
迷ってから、丸をつける。
行ける、とは書かない。行けなくはない、くらいの感覚で。
夕方、寮に戻ると、共同リビングの前で初瀬先輩とすれ違った。
「井ノ原、日程ありがとう」
「いえ」
「助かる」
それだけで会話は終わった。
何かを決めた感じはしない。ただ、話が前に進んでいる。
夜、シャワーを浴びてから飲み物を取りに行くと、リビングのソファに柊先輩がいた。スマートフォンを片手に、画面を眺めている。
声をかける理由を探す前に、言葉が出た。
「……日程、出しました?」
「出した。行けそうなの、少しだけ」
「...そうなんですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
冷蔵庫から飲み物を取り、リビングを出る。
背中に視線を感じた気がして、一瞬だけ足を止める。
振り返るほどの理由はない。
部屋に戻り、机にスマートフォンを置く。
グループの画面を開くと、柊先輩の名前の横に、小さな丸がついていた。その丸は、自分が選んだ日付と重なっている。
数日後、共同リビングのテーブルに、印刷した紙が置かれていた。宿の名前と、日付。下に小さく、キャンセル期限が書いてある。
「とりあえず、ここで押さえた」
下田先輩が言う。誰も驚かなかった。
早いとも、強引だとも思わなかった。ただ、そういう流れだと理解した。
初瀬先輩が紙を指で押さえ、ざっと目を通す。
「問題なさそうだな」
そのまま、紙はテーブルの中央に戻された。
決を取るようなことはしない。反対意見も出ない。
ただ立ったまま、その紙を見ていた。
もう行けない理由を探す余裕はなかった。
柊先輩が遅れて入ってくる。
紙を見るなり、状況を察したように足を止めた。
「決まった?」
「ほぼ」
短いやりとりだった。
柊先輩は紙に一度だけ視線を落としてから、頷いた。
「なら、大丈夫」
それ以上は何も言わない。
条件も、補足もなかった。
その瞬間、話は終わった。
旅行は「検討中」ではなくなった。
解散したあと、部屋に戻る。
机の上に置いた手帳を開き、予定の空いているページをめくる。
ペンを取るまでに、迷いはなかった。
日付を書き込んで、手帳を閉じた。
旅行は、これから考えるものではなく、すでに組み込まれたものになった。
日常は何も変わらない。
講義があって、サークルがあって、寮に戻る。
ただ、その流れの先に、少しだけ、違う重さの時間が置かれただけだった。
