柊の花に触れずに、恋をした。

新入生の出入りが落ち着き、寮のフロアから段ボールの姿が消えると、生活はすぐに元の速度を取り戻した。
自分にとっては、その速度がもう「普通」になっていること自体が、少し不思議だった。

二年生になった実感は、特別な出来事ではなく、細かな判断の積み重ねとして現れた。
講義の取り方、サークルの参加頻度、寮に戻る時間。
どれも一年前より無理が少ない。
選んでいるつもりはないのに、気づけばそうなっている。

その流れの中に、柊先輩の姿もあった。

頻繁に話すわけではない。
以前のように意識して避けているわけでもない。
ただ、同じフロアで暮らす一人として、自然に視界に入る。
それが、以前ほど気にならなくなっていることに、ある日ふと気づいた。

気にしないようにしているわけではない。
気にしていた理由が、いつの間にか薄れている。

春学期が本格的に始まると、生活の中に細かな用事が増えた。
掲示物の更新、清掃当番、ゴミ出しの確認。
誰かがやらなければならないことを、自分がやる側に回っている。

ある夕方、ゴミ袋を手に階段を下りると、同じように袋を持った柊先輩が前にいた。
距離は二、三段分。追い抜くほどでも、声をかけるほどでもない。
そのまま並ぶ形になったのは、偶然だった。
ゴミ置き場に袋を置き、戻る途中で、柊先輩が短く口を開いた。

「この前の一年生、問題なく馴染めてるみたいだ」

報告とも独り言ともつかない言い方だった。
それでも、すぐに内容を理解した。

「よかったです」

それ以上、言葉は続かなかった。
沈黙が不自然にならない距離を、二人とも知っているようだった。

部屋の前に戻ると、三〇三号室と三〇四号室が並んでいる。
隣同士という事実が、以前ほど意識に引っかからない。

柊先輩は鍵を取り出し、ドアを開けかけてから、ほんの一瞬だけ手を止めた。

「……この前は、助かった」

振り返らないままの声だった。
言葉を探していると、柊先輩が一歩、こちらに近づいた。

背中に、壁の感触が来る。
押されたわけじゃない。ただ、そこに立たれていただけだ。
逃げ道が消えたことに、遅れて気づく。

「……必死だっただけです」

そう言った声が、自分でも少し遠くに聞こえた。

「それでも」

一拍(いっぱく)
距離を詰めたまま、低く続く。

「お前がいてよかった」

触れられてはいない。
なのに、息の通り道が狭くなった気がして、呼吸の仕方を考え直す。

柊先輩は、それ以上何も言わず、身体を引いた。
何事もなかったみたいに鍵を回し、三〇三号室の扉が閉まる。

残された距離だけが、現実に戻る。

自分の鍵を見つめたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥に残っているのは、嬉しさでも高揚でもない。
ただ、あの一瞬、主導権が完全に向こうにあったという感覚。
それが、不思議と嫌ではなかった。

鍵を回し、自分の部屋に入る。
壁一枚向こうの気配を、さっきより近くに感じる。
何かが始まったわけではない。
けれど、止まっていた時間は、確かに動いた。

しかも――同じ場所で、同じ距離のまま。