柊の花に触れずに、恋をした。

春は、また音から始まった。
台車が床を擦る音、段ボールがぶつかる鈍い響き、廊下の奥で弾む(はずむ)笑い声。
去年と同じはずなのに、それを「新しいもの」として受け取らなくなっている自分がいる。

おれは二年生になっていた。
履修登録の画面を眺めながら、去年より少しだけ現実的な時間割を組む。
講義の場所も、課題の重さも、身体が先に思い出す。
慣れた、というより、覚えてしまったという感覚に近い。

寮の掲示板には、新しい紙が貼られていた。
「新入生入寮オリエンテーション 担当者」。

同じフロアの先輩が、新しく入ってくる一年生に生活の説明をする。
ゴミ出し、洗濯機や乾燥機の使用方法、共同リビングの使い方。
去年、自分が受け取ったものを、今度は渡す側になる。

紙の下の方に視線を移した。

新入生案内担当者
三〇四号室 井ノ原
三〇三号室 秋庭

名前を見た瞬間、思考が一瞬遅れた。
同じフロアなのだから不自然ではない。それでも、紙の上で並んだ部屋番号が、妙に現実味を帯びて見えた。
柊先輩と、きちんと顔を合わせなくなってから一年が経っている。
すれ違うことはあっても、会話はない。
三〇三号室のドアは変わらず閉まっていて、廊下に残る気配だけが、ときどき遠くから触れてくる。

案内当日。
共同リビングには、新しい段ボールを足元に置いた一年生たちが集まっていた。
緊張した視線、落ち着かない手元。去年のおれと同じ顔が、いくつもある。

「えっと……まず、ゴミ出しなんですけど」

資料を見ながら説明を始めた。
声が少し硬い。ちゃんと伝えなきゃ、と思うほど、言葉が慎重になる。

そのとき、ドアが開いた。
外の風が入り込み、紙の匂いが揺れる。

柊先輩だった。シンプルな服装なのに、立ち姿だけで場の空気が整う。

「遅れた」

短い一言。
一年生たちの視線がそちらへ向き、おれも反射的に顔を上げた。

柊先輩は軽く会釈をして、壁際に立った。
それだけで、止まりかけていた空気が、また前に進み出す。

説明が一通り終わった頃、椅子が床を擦る音がした。
視線の端で、ひとりの一年生が立ち上がった。
次の瞬間、身体がふらりと揺れる。

「すみません……ちょっと、気分が……」

言い終わる前に、ふらついて壁に手をつく。
一瞬、リビングがざわついた。

「……座れる?」

声を低くして、そう聞いた。
一年生が小さく頷く。

「じゃあ、ここ。ゆっくり」

柊先輩がすでにソファを指し示し、背中を支えている。
動きに無駄がない。

その間に、ペットボトルの水を持ってきた。

「少しずつでいい。無理しなくていいから」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに気づく。
手は少し震えていたが、動作は止まらなかった。

「呼吸、浅くなってる?」

柊先輩が短く確認する。

「たぶん……軽い貧血だと思います」

そう答えながら、顔色と呼吸を観察した。
失神(しっしん)痙攣(けいれん)はない。意識もはっきりしている。

「横になれるなら、少し体を預けて」

柊先輩の判断は早かった。
ソファに寝かせ、クッションを当てる。
膝をつき、視線の高さを合わせた。

「気分悪くなったら、すぐ言って。今は、深く呼吸しよう」

柊先輩の言葉に、一年生は小さく頷き、言われた通り息を整え始めた。
しばらくすると、顔色が少しずつ戻ってきた。

「……大丈夫、です」
「よかった」

ようやく肩の力が抜ける。

他の新入生たちが帰り、リビングには静けさが戻った。
柊先輩はテーブルの上を片付けながら、おれの方を見た。

「判断、早かったな」
「……一応、保健学科なんで」

そう答えると、柊先輩は一度だけ頷いた。

「助かった」

それだけだった。
余計な言葉はなく、評価とも感謝とも言い切れない短い一言。
なのに、その声は、思っていたより深く胸に残った。

去年のあの夜に向けられた言葉と、同じ人の声だとは思えなかった。
拒まれた記憶が、すぐに消えるわけではない。
それでも、今の一言は、切り捨てるためのものではなかった。

役に立った。
そう言われたわけでもないのに、身体の奥で、そんな感覚だけが先に立ち上がる。

片付けを終え、共同リビングを出る。
廊下に出た途端、さっきまで張っていた緊張が、少し遅れてほどけた。

三〇三号室のドアが見える。
閉まっている。それは、これまでと何も変わらないはずの光景だった。

それでも、足を止めずにいられた。
視線を逸らさず、そのまま通り過ぎることができた。

近づいたとも、戻ったとも言えない。
ただ、あの夜から固定されていた距離が、ほんのわずかに動いた気がした。

何かが始まったわけではない。
関係に名前がついたわけでもない。
それでも、止まったままだと思っていた時間が、同じ場所で、同じ速度で、もう一度流れはじめている。

そのことだけが、静かに、確かに分かっていた。