柊の花に触れずに、恋をした。

それからしばらく、柊先輩と顔を合わせることはほとんどなかった。

同じフロアに住んでいるのだから、すれ違わなかったわけではない。
ただ、時間帯が噛み合わない。朝は先に出ているらしく、夜は遅くに帰ってくる。
廊下に気配は残っているのに、姿を見ることはほとんどなかった。

その事実を、特別なものとして扱わないようにしていた。
考えなければ、日常は普通に回る。

講義は続き、サークルの予定も変わらない。
バレーの練習で汗を流し、よさこいでは振り付けを覚える。
身体を動かしている間は、頭の中が静かだった。

「最近、忙しそうだね」

そう言われることが増えたが、自覚はなかった。
ただ、予定が自然と意味もなく詰まっていくだけだ。
寮に戻る時間も、少しずつ遅くなった。

共同リビングの前を通っても立ち止まらず、そのまま自分の部屋へ向かう。
中から聞こえる声に耳を澄ませることもなく。
部屋に入ると、照明を()ける前の薄暗さが一瞬だけ残る。
窓の外の街灯の光が、カーテン越しに床へ反射していた。

春が過ぎ、夏が来る。
キャンパスの木々は濃い緑に変わり、日差しが強くなる。
空気が重く、歩くだけで肌に汗が浮くようになった。
講義の合間に冷たい飲み物を買い、ベンチに腰を下ろして過ごす時間も増えた。

夏が来ても柊先輩の名前を、口にすることはない。
思い出そうとしなければ、思い出さずにいられる。
その程度には、時間が経っていた。

夜遅く、廊下の向こうで鍵の音がすることがある。
金属が触れ合う短い音と、続くドアの気配。
それだけで、誰が帰ってきたのか分かってしまう。
それでも天井を見たまま、特別な反応をすることなく、目を閉じる。

春が過ぎ、夏が過ぎて、秋になった。

履修登録を組み直し、時間割が変わる。
新しい教室、新しい顔ぶれ。二年生になる準備が、静かに進んでいた。

ある日の夕方、寮の掲示板に貼られた紙が目に留まる。

「来年度入寮者募集」の文字

自分がここに来て、まだ一年も経っていない。
それでも、時間は次へ進もうとしている。

紙から目を離し、階段を上った。
廊下の窓から差し込む夕焼けの中で、三〇三号室のドアが、少しだけ色を変えて見えた。

何も起きなかった時間。
名前をつけるほどの出来事もなく、ただ日々が積み重なった。

それでも、その時間を空白だったと言い切ることはできない。
何かを得たわけでも、何かを失ったわけでもない。
ただ、触れずに置いてきたものが、確かにそこに残っている。

足を止めず、自分の部屋へ戻った。
背中に残る夕焼けの気配が、ゆっくりと薄れていく。
その静けさの中で、時間だけが、次の形を待っているようだった。