柊の花に触れずに、恋をした。

そんなありきたりな一日を終えて、その日、寮に戻ったのは、夜もだいぶ深くなってからだった。

よさこいの練習終わりに、先輩に誘われて小さな飲み会に顔を出した。
断るタイミングを逃したまま、笑って、相槌を打って、紙コップの中身をちびちび減らして。寮に帰ってようやく、帰り道の寒さを思い出した。

寮の廊下は薄暗い。
非常灯の緑が壁に淡く滲んで(にじんで)いて、自分の足音がやけに響いた。
酔っているわけではないのに、頭の奥が少しだけ熱い。
外の乾いた空気を吸ってきたはずなのに、身体の内側はまだ、さっきまでいた飲み会の湿った空気を引きずっていた。

廊下の角を曲がったところで、夜の空気に、少し苦い匂いが混じった。
灰皿の置かれた小さなスペースに、人影がある。
壁にもたれて、片手で煙を吐いている。

柊先輩だ。

スーツではなく、白いシャツの上に薄手の上着を羽織っただけの、カジュアルな格好。
それでも、立ち姿が崩れていないせいか、だらしなく見えない。
暗い廊下の中で、顔の白さが少しだけ浮いて見えた。

正直、柊先輩がタバコを吸っているのは意外だ。
その時は、柊先輩と、その匂いがうまく結びつかなかった。

一瞬、歩幅を迷った。
通り過ぎればいい。挨拶だけして、部屋に戻ればいい。
そう分かっているのに、足が一拍遅れる。

「……こんばんは」

自分の声が、思ったより大きく響いた。

「こんばんは」

いつも通りの短い返事。
煙が、ゆっくり天井へ上がっていく。

「飲んでた?」
「はい。サークルの飲み帰りです。最近、飲み会ばっかりで」

それだけのやりとりだった。
柊先輩は小さく頷いて(うなずいて)、それ以上は何も聞かない。

ポケットの中で鍵を握った。
冷たい感触が指先に残る。自分の部屋はすぐそこなのに、距離がうまく掴めない。

柊先輩は、一度だけ視線を外した。タバコを持った手が止まる。
ほんの短い間だったが、何かを切り分けるような沈黙が落ちた。
その沈黙に、先輩は静かに口を開いた。

ーー「お前みたいな奴、好きじゃない」

その声には、拒むための強さも、突き放すための(とげ)もなかった。
なのに、言葉だけが先に落ちてきて、胸の奥で止まる。
うまく息が吸えないまま、先輩の次の言葉を待ってしまう。
身体のどこにも、受け止める場所はないのに。

柊先輩はそれ以上何も言わず、タバコを灰皿に落として、三〇三号室の方へ歩いていった。
扉が閉まる音は短く、乾いていて、それでいて、廊下に残った静けさだけをはっきりと際立たせた。

しばらくその場に立ったまま、廊下の奥を呆然(ぼうぜん)と眺める。
視線の先には何もないはずなのに、そこに何かが置き去りにされたような気がして、足を動かすきっかけを失っていた。

ようやく部屋に戻り、ドアを閉める。
その瞬間、さっきまで同じ場所に立っていたはずなのに、先輩との距離だけが急に遠くなった気がした。

ベッドの端に腰を下ろすと、身体の重さが遅れて伝わってくる。
視線は自然と床に落ちたまま上がらず、部屋の静けさが、音としてではなく、密度としてまとわりついてきた。

柊先輩は、いつも一定の距離を保っている人だった。
近いはずなのに、遠い。その距離に名前ををつける勇気はなかった。

けれど今、その距離は、ただ形を失ったまま宙に浮いている。

ベッドの(ふち)に置いた自分の手を見つめた。さっきまで当たり前だったはずの距離が、もう同じ形では戻らない気がした。
手はそこにあるのに、触れられるものが何もなかった。

部屋の中は、相変わらず静かだった。
光も、音も、配置も、何一つ変わっていない。
それでも、さっきまで当たり前のように感じていたこの部屋の空気が、どこか他人行儀なものに変わってしまったように思える。

その違和感を追い払うことも、言葉にすることもできないまま、しばらくそこに留まっていた。